佐々木 亨・淑子

50歳から人生をはじめる方法

目次
はじめに
第1章 時代は、ライフデザイン
  ひょっとすると人生100年
  時代は変わる、夫婦も進化する
  人生、至るところ青山あり
第2章  会社を、使いこなせ
  安保闘争、そして入社
  仕事は自分で創るもの
  会社勤めの醍醐味:社外の人脈づくり
第3章 会社に長居して、失うもの
  生活者優先って、ほんと?
  4時には帰宅の毎日だった
  ドーハの悲劇:早期引退のすすめ
第4章  老後、いかに生きるべきか
  知的独立宣言:模倣は自殺      
  定年後の時間は、会社時間より多い
  コマギレ時間は、神様の贈り物
第5章  読書模様、心模様
  世界は複雑:速読、精読、乱読のすすめ
  書庫をもつより行きつけの本屋をもとう
  ライフワークは「初心を忘れず」から 
第6章 執筆で広がる豊かな老後
  本を書いてみよう
  入力革命:パソコンとスキャナーは、新婚夫婦
  インターネットと翻訳ソフトでハンティング
第7章 亭主を操縦せよ
  美人薄命?
  家庭円満のコツ:愛犬チロと子供たち
  男の自立ー何でもやったろうといわせる方法
第8章  夫婦共通の趣味とスポーツをもとう
  自転車で散歩にでもいこうか
  妻の趣味は陶器鑑賞とパンフラワーづくり
 「夫婦の旅」の思い出を大切に
第9章  週末田舎暮らし
  どこに住むか、それが問題だ       
  八ケ岳南麓に、山小屋をつくる
  畑仕事とガーデニング 
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以下の章は、順次掲載していきます。

第10章 海外交友術
  私の講演体験記   
  ぺらぺら英会話術のすすめ
  2000年の聖年をNYで迎える
あとがき
参考文献解題:
  50歳から人生をはじめるひとへの50冊


はじめに

この本を50歳を迎える自由な魂をもったひとたちに捧げる。  日本は、長い高度成長時代後、73年の石油危機、85年のプラザ合意を へて、バブル経済に突入した。 それまで企業とあなたは、ハネムーンの状態だった。 あなたは、「いい子、 いい学校、いい会社、いい地位」を順調にたどっ  てきた。 「楽な商売ができる。ようけ儲かりまっせ」 あなたがたの世代は人数が多く、企業を喜ばせた。あなたは、賢く、セン  スのよい消費者だった。企業とのハネムーンは永遠に続くかと思われた。 バブル崩壊後、企業の態度は一変した。 逆風のなか、あなたは、馬車馬のように働いてきた。  気がついたら、あなたは、もう50歳。両親も,老いた。 子供は盛大にあなたのスネをかじっている。 同期生には、すっかり老けこんだひとも増えた。 高齢化の進行で、2025年には、介護を必要とする老人が約520万人 になるといわれる。 86歳の父親が寝たきり。  しびんとおチンチンを離れないように縛ってみたが、布団はぐしょぐしょ  で、悪臭が室内にたちこめている。  困り果てた76歳の母親が、ひとり暮らしをしている55歳の娘を呼び寄 せる。まもなく、その娘は、介護疲れで、鉄道に飛び込み自殺をする。 こんな話ばっかり。 「いま、この心にひろがる空白感は何なのだろう。 ひょっとすると、自分は報われない生き方をしてきたのではないか」 同世代の成功者であるビートたけし、井上陽水、矢沢永吉、村上春樹、糸 井重里、沢木耕太郎らの活躍が気になる。 「道をまちがえたかなあ。サラリーマンにならなければ、よかった」 あなたの心のうちから発するかすかな声は、次のようなものである。 「自分のためにも、家族のためにも、不幸な老後は送りたくない.」 この本は、人生最大の岐路に立たされたあなたのために書かれた。 「やせ蛙、負けるな一茶、ここにあり」 わたしは、あなたより10歳上の元サラリーマンにすぎす、まして、あな たは、断じてやせ蛙などではない。 しかし、この句のやさしさはどうだ。 人情、紙のごとく薄い時代だからこそ、お互い助け合おうよ。 森とか、ファミレスとか、どこか静かな場所でこの本を読んでほしい。 そして、もし、涙がこぼれたり、笑ったりしたら、その感情がさめぬ間に 奥さんにも読んでもらってほしい。   すると、あーら不思議、あなたがた夫婦の頭から 「3Cから3Vへ」  という合言葉が、なぜか、離れなくなる。  カー、クーラー、カラーTVの3Cは、お分かりだろう。 3Vは、ヴィラ、ヴィザ、ヴィジットである。  別荘、海外旅行、交際である。 H.D.ソローは、名作「森の生活」のなかでこう書いている。 「ひとりの健康な人間が、ほんのかすかではあっても、ぜひ異議を唱える べきと感じるなら、それはやがて 人類の論理と習慣にうち勝つことにな るであろう」 そうなのである。 「1億総老人ごっこ」なんてやめよう! ご存じのように、アメリカ経済は、いま、絶好調である。 そして老人天国といわれるフロリダは、今日も快晴である。 今朝もバラードさん(59歳)は、妻のナンシーさんと一緒にゴルフに出 かける。  バラードさんのベストスコアは98、奥さんは100。 毎回2人か4人で組んで、毎週3回から4回ゴルフをやる。 奥さんはまた、夫とは別に、友達とテニスやお茶を楽しんでいる。 夫のほうは、親友と海辺へ寝そべりにいく。  2人は、退職後、ヨーロッパに旅をした。カリフォルニアにもいった、 お孫さんに会いに、アリゾナにもいった。末娘の結婚式へも行った。  いまの生活、フロリダでの別荘暮らしが、一番気に入っている。 なぜ、アメリカ人には許されているのに、あなたには、こうした3Vの生  活が許されないのか。 あなたは、スシ詰め教室で「人間は平等だ」と教わってきた。 日本は、不況の真っ只中とはいえ、世界第2位の経済大国である。 それなのに、ああ、それなのに、 あなたには、幸福を追求する権利がないなんて。 娘さんなら、「信じられなーい」と叫ぶだろう。 「経済大国から生活大国へ」 その転換を行えるのは、あなたしかいない。 政府も企業もやってくれそうもない以上、あなた以外の誰がやる。 全共闘世代よ、勇気を出そう。 そうすれば、君のひとみは10000ボルト。 いざ、幸福駅へ。  「出発ーっ 、進行ーぅ!」


第1章 時代は、ライフデザイン

 ひょっとすると人生100年 あまり人に話したことはないが、3歳の時に父を亡くした。 死因は腹膜炎、38歳の短い人生だった。 父がその同人だった歌誌が、追悼のために特集を組んだ。 若い妻と幼子2人、おびただしい本とその追悼特集。 それが、父が、この世に残したすべてだった。 そんな私的な事情がから、私は「人生50年」という言葉を聞くと、自分  は、もう50歳を超えたくせに、まだ違和感をおぼえる。  「50歳まで生きる? 人生、そううまくいくものか」 病気、地震、火事、そして交通事故、テロなどで、ひとは死ぬ。  昔にくらべると、死者の不気味な姿は隠されるようになった。  その代わりというか、高齢化と病気の話題で世間はもちきりである。  「死ぬぞ、もうすぐ死ぬぞ、ほらもう弱ってきている」と囁やきあってい  るようなものである。 戦時中、私は7歳だった。 祖母に連れられ、北陸の田舎に疎開した。祖母の実家が、お寺だった。 毎日のように葬式が営まれていた。 当時は土葬だった。野辺の送りである。行列が、静かに田圃を横切って、  森へと歩んでいく。  親族の鳴咽以外には、物音がしない。 壮健な男たちが、土が掘り、死体が穴に埋められる。 祖母は、毎晩寝るときに、「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。今日も無事に  寝られて幸せ」と繰り返した。 子供心に、その繰り返しは、異様だった。 もしかすると、祖母は明日は、この世にいなくなるのではないか。  そうしたら、ボクたちはどうなるんだろう。病弱で、お金もなくて。 祖母は、50歳を過ぎて小学校の教師をやめて、農婦になった。 祖母にとって、肥え桶をかついで山道を上り、荒れた畑を開墾するのは、  さぞ、つらかったのだろう。 夫を失い、誇り高い職業も失って、知らない土地で、大地を耕す。  そうした心境、そして浄土真宗が盛んな土地柄。 それが、祖母に「今日も無事寝られて幸せ」と言わしめたのだろう。 祖母は、叱るときは「閻魔大王が出るよ」といった。 悪いことをした奴  を、死後で徹底的にこらしめるらしい。  恐ろしかった。虚空に閻魔大王の叫びが木霊した。私は、すぐ閻魔大王に  つかまりそうだった。 ある朝のことである。 太陽光線が、部屋の白壁に反射して、眩しかった。  私は、隣に寝ていた5歳の弟の声で目覚めたのである。  それは低い声で、日常会話のようなトーンだった。 「おばあちゃんが、ゆうべ、川で流されたんだってさ」 その瞬間、私はめまいがした。大地の底がぬけた。 祖母は、もういない。 私を、深く思ってくれた祖母は、もういない。  死だ。死は、すぐそこまで来ていたのだ。 幸い、祖母は助かっていた。 前の晩に寄り合いがあった。雨が激しくなった。  祖母は孫が気になって、早めに辞去した。  傘を差し、提灯をもって暗い夜道を帰ることにした。  風で提灯の火が消えた。  勿論、田舎だから街灯などというものはない。いつも歩いている道だから  と、そのまま歩き続けた。 そして、あっと気付くと祖母は濁流のなかにいた。 道端の小川が増水していたのである。  立とうとしても、もがいても、どうしようもない。  水流が強くて息もできない。走馬灯のように全人生がよぎった。  幼子たちの将来は、どうなるのだろうか。 しかし、幸いにも、祖母は九死に一生を得た。 「もう少し流されたら、さださんは死んでたな」と村人がいう。 底無しの死の淵が、間近に迫っていたらしい。その一歩手前で、祖母は岩  に当たり、岸のほうへ投げ出された。  必死に葦にしがみつき、身体を起こし、濁流から逃れた。叫び声をあげ、  ずぶ濡れの姿で、村人に発見されたのである。 この思い出は、強烈に、幼心に刻まれた。 私は、死は、いつ人間を襲うかも知れない、閻魔大王には、猶予も、嘆願  も、釈明も、聞き入れてもらえない。 世の人のいう「人生50年」は、ウソだ。 そして、歳月が流れた。 祖母は、晩年、白内症で失明した。這いずりながらも、驚異的な生命力を 発揮して、82歳まで生きた。 その後、私は企業戦士になった。  勤め先は、自動車産業で、高度成長のさなかだった。 それは、死とは最も遠 い世界だった。 唯一、死を身近に感じたのは、可愛がっていた部下が亡くなったときだっ た。まだ30歳代で、腎臓病だった。  お葬式は、彼の故郷の寺で営まれた。 秋だった。すすきの穂がゆれ、赤とんぼの舞う野辺の送りだった。  そして土葬だった。若い未亡人と幼い子供たちが残された。、  その光景は、私に幼時の記憶を喚起させた。  ほら、また、閻魔大王が現れた。  日頃、冷静沈着な上司も号泣された。人間味のある上司だった。  まだ、会社に生身の人間が生きている時代だった。 いま、私は58歳である。 父より20年も長生きしている... 仏壇にある父の写真をみて、いつの 間にか「若い人だなあ」と思うよう  な年齢になった。 子供の学校の先生や町でみかける警察官を「若いな。大丈夫かなあ。こん  な大事な仕事を任せて」と思うようにもなった。  年をとった証拠だそうである。 そう 私はすでに「人生50年」を超えている。 そうなのだ。 60歳の大台も間近。なのに、なぜか、元気ハツラツなのである。 毎日が充実している。これまでの人生で味わったことのない最高の幸せを  感じている。 「こんなに幸せでいいのかなあ? ひょっとすると、ユーフォリア(多幸症  euphoria)になったか、もうボケがはじまったか。  ロウソクが燃え尽きる前に、炎が大きくなるが、それかも知れないなあ」 しかし、私はいつのまにか、「人生80年」を、信じこんでいる! その証拠に、年金が低金利で目減りすることや医療費負担の増大に目くじ  らを立てている。  けしからん、政府は一体何を考えているのか。  100歳人がアメリカでは、21世紀の前半に100万人も出現するとい  う事実を知ると、なにやら不遜なたくらみが、胸中うごめく。  「おれも、もしかして、100歳人?」 その秘訣を、むさぼるように読む。 クヨクヨしないこと。ふむふむ。 生活に満足している。そうそう。 いい食生活をし、運動を続ける。その通り。 いい友人をもつ。大丈夫、あいつらがいる。 変化に対して前向きである。まさに、おれのことだ! 一方で、閻魔大王が、耳元で、囁く。 お前は、目が悪い。(極度の近乱視のため、階段で転落死か) 片耳は聞こえない。(気づかず、事故に巻きこまれるおそれあり) お腹も弱い。中性脂肪も多い。(脳出血や心臓病の誘因) しょっちゅう物忘れする。(ボケの前兆) 脇見運転もする。(交通事故死) これだけあって、長生きなんてするはずはない! しょげる... ところが、宇野千代さんの本「私 何だか死なないような気がするんです  よ」を読むと、とたんに元気になる。 宇野さんは、125歳前に死ぬのは、事故死だ、という。 がん、心臓病、脳血管障害といった日本人の3大死亡原因は、「生活慣習  病」だそうである。  いい生活習慣をもてば、125歳も夢ではない。 いまもTVでは、105歳を超えたキンさん、ギンさんが、一日消防署長  を元気に勤めているシーンが写っている。 そして、私ときたら、まあ、何ということをはじめているのか。 三神美和さんの「93歳 今日を愉しんで生きる」のなかに、身体によい  朝食を発見する。  すると、いつの間にか、わが朝食のメニューには、リンゴ2切れとハチミ  ツ大さじ1杯がそっと加えられている。 ああ。これがこうほざいていた、あの男と同じ男なのか。  「50歳まで生きる? 人生、そううまくいくものか」  時代は変わる、夫婦も進化する  明治生まれの祖母は、子沢山だった。男が5人、女が2人。うち一人は幼  いときに亡くなった。  子沢山は、当時としては普通だった。長男が大学生になったとき、末っ子  は、まだ小学生だった。 わんぱく小僧どもの面倒をみるのは大変だったらしい。かれらをつかまえ  物差しでぶっ叩いた。  祖母が懐かしそうに採りだしてみせてくれた物差しは、表面の塗りが剥げ  ていた。 明治生まれのひとは、気骨があった。「富国強兵、殖産興業」の新興国家  の勢いか、祖母もその典型的なひとりであった。  「千万人といえども我行かん」とよく口ずさんでいた。  戦後、わが家族は、母と再会し、東京に戻った。母は、仕事が忙しかった  ので、母親役は相変わらず、祖母だった。 あるときのことである。 私は、悪ガキにいじめられて家に逃げ帰った。祖母に事情を訴えた。 祖母は、憤然として「男なら戦え」といって私を追い出した。 私は、こわごわと家を出た。悪ガキが目の前にいた。 死に物狂いで闘った。なぜか足蹴りがきまって、初勝利を収めた。 祖母の教育は、苛烈そのものであった。 それに比べれば、私の教え子に対する態度などは、温風機のようなもので  ある。 手元に加藤寛さんが監修された「ライフデザイン白書1996ー97」が  ある。 そこには大正(9年)と平成(3年)のライフサイクルを比較した表が載  っている。 今と昔を、試みに数字を使って比較してみよう。 昔は、男女とも平均寿命が61歳だったのに対して、今は男が77歳、女  が83歳となっている。 男でも16歳、女は22歳も、寿命が延びている。 そして大きく違うのは、結婚、出産、死亡といった人生の中身である。 祖母は、21歳で4歳年上の夫と結婚し、長男を23歳で出産、末っ子を  36歳で出産、末っ子の大学卒業が51歳だった。 初孫も(つまり私のことだが)51歳で生まれている。 しかし、祖母の後半生は、標準コースから大きくカーブする。 祖母は夫の55歳退職後、水いらずの生活をエンジョイするはずだった。 あまり死んだ夫のことはいわなかったが、あるときボソッといった。 「律義なひとだったねえ、50歳で逝ったよ」 閻魔大王の活躍で、祖母は「第2の人生」を失った。 しかし、閻魔大王は、なぜか、祖母の長寿を、見逃してくれた。 私たち孫の発育を楽しみにして、祖母は82歳まで生きのびたのである。 もし、平均寿命の61歳で終わったならば、祖母は「自分のための時間」  を持てず、私の大学合格の知らせを聞いて小躍りした陽春を迎えることも  なく、一生を終えるところだった。 一方、私たちの世代はどうだろうか。 平成3年現在の平均寿命は、前にのべたように、男が77歳、女が83歳  にのびている。 女性については、結婚、子育て、仕事、夫の死といった人生も、大きく異  なっている。 まず、結婚が21歳から26歳へと5年ほど遅れた。その分、独身時代を  謳歌し、キャリアを積むことができるようになった。 花の独身貴族である。 長男は27歳で出産する。子育てを早く終えようと子供は2人。30歳で  出産完了。 出産期間は、「昔15年、今4年」10年も少ない。 そして、末子が大学を卒業するとき、母親は、50歳。数少ない子供と長  い付き合いをすることになる。 「教育ママ」は、子供の大学の卒業式にも出席する。 娘と結婚するまでの長い期間、一緒にショッピングしたり、コンサートに  出かけたり、海外旅行にも行く。 50歳でも、昔の母親よりはずっと若々しくみえる。流行のファッション  を着こなし、芸能界の話題にも詳しい。 しかし、そこには、父親の姿はない。 企業戦士である私のほうはといえば、まったく昔と変わらない。  家庭にいない。子供との共通の行動も話題もない。 さて、標準コースの後半生に目を転じてみよう。 夫は60歳で定年。そのとき妻は57歳。 夫には、77歳で死ぬまでの17年間の黄昏の人生が待っている。 57歳の妻は、平均寿命の83歳まで、あと4半世紀、夫よりも10年近  くも長い26年が待っている。 おまけに、夫が亡くなったあとの8年間の「自分自身の時間」が待ってい  る。 仕事人間だった夫のほうは、後半生の設計ができていないので、再就職先  を探し、天下りする。 65歳か70歳まで働こうとする。したがって、夫婦だけの老後の時間は  12年から7年間に減る。 妻は老後の26年間を考え、夫のほうは、7年間しか考えない。 これが、とても大きな時間差であることはお分かりだろう。 さて、70歳の夫が、家庭に戻ってくる日がくる。 「さあ、妻と二人っきりの生活をエンジョイしよう」 とはいえ、歓迎されるのは、せいぜい3ケ月。 それまで、共通の行動や話題もない夫は、「濡れ落葉」である。 妻のほうは、趣味の友人や地域社会のなかに根を張っているので、 夫に一日中、家の中でゴロゴロされると、うっとうしい。 そこへ、秘書に言いつけるようにメシの催促をし、「メシがマズイ」など  と、業務改善命令を出すと、頭に血がのぼる。 なによ、何様と思っているの? そこで、定年離婚とあいなる。 佐橋慶女さん編の「あなたは老後どこで暮らしますか」は、209人のひ  のエッセイをまとめたものだが、  そのなかには、匿名で、そうした夫への絶縁状も記録されている。 「夫と一緒の老後は、もうケッコウ」 「一人になりたい。干渉されたり、気を使ったりは、もうたくさん」 「性と愛を閉じ込められた日々は、もういや」 「夫の老親の介護に耐えられない」など。 妻の願いは夫が死んだあと、8年間もある「自分だけの人生」をいかに美  しく楽しく生きるか、どう準備するかに向かっている。  そこでは、夫やその親族、夫の属する社会、楽しかるべき夫婦生活を打ち  砕かれた思い出に関わるすべてが忌まわしい。 ある上司が、私にこう述懐したことがある。 「老後のことなど考えたくない。会社で戦死するほうがいいな」 私は唖然とした。 仕事に真剣に取り組んだ彼が、人生には真剣に取り組んでいない....。 引退された先輩たちに老後生活について伺うと、仲むつまじき夫婦もおら  れたが、全員そうというわけでもなさそうである。  驚くべきことに、会社であれほど有能で先見性もあった男たちのうち少な  からざる人たちが、人生の持ち時間の劇的な変化について無知だった。  身近な妻の気持ちを思いやることができず、威張り散らし、性生活からも  遠ざかって、まともな老後の夫婦生活の設計ももっていない。 そうした彼らのそばには、決まって、すさんだ顔の奥さんたちがいた。  彼の栄光の陰で、人生を台無しにされた女たちが潜んでいたのである。  ある意味では、かれらもまた、時代の犠牲者である。  しかし、もはや、こんなことが永遠に続いてはならない。  時代の変化に対応して、新しい夫婦のかたちが、痛切に求められている。 家族の機能を見直すことが必要である。 「家族って何だろう」 あらためて、そう考えざるをえない。 性的機能、生殖・扶養機能、経済的機能といったものに替わって、  教育的機能や文化的機能を重視すべき時にきているのではないか。  セックスや子供の養育やお金を稼ぐといったことも大事だが、それだけが  夫婦ではあまりにも味気ない。  ともに教養を高め、友人を通じて社会と積極的にかかわっていこうではな  いか。  たまには旅行でもして、国際社会とも草の根の交流をしようではないか。 ところが、いま、なぜ? 愛しあい、子も儲け、この先すこししか生きられないかも知れないのに、  閻魔大王の前で、なぜ、おたがい背を向けあって寝るのか。 夫婦関係も、「進化」させてもよいのではないか。 二人してできること、もっと、考えませんか。 人生、至るところ青山あり 老後の夢がありますか。 こう聞かれると、「ええまあ」とお茶を濁す人が多い。 大きな夢をもっているひとほど、隠したがる。 この国では、人と違うことをすると、必ずといっていいほどやっかみが起  きる。気配りと気兼ねの境界が曖昧である。 会社で、老後の設計図でも話そうものなら、「仕事をさぼって、老後の準  備などしやがって」と陰口をきかれかねない。 いま、この国は、問題だらけである。 勤め先が倒産し、職場で干され、ローンの返済に困った中高年の自殺者数  は、交通事故の死者数を上回る。過去最高だという。 そうした状況だけに、堂々と老後の設計を宣言するひとは、すくない。 そこで、誰も老後の設計など持っていないのではないかと思いたがる。 仏の政治家トクビルは、「自助論」のなかで、こういっている。  「人生には足を止めて休んでいる時間はありません。  他人からの援助と自らのいっそうの精進は共に欠かせないものです。  目的地に近づけば近づくほど、旅人は足を早めなければなりません」 いまあなたが50歳としても、人生の残り時間は30年。 そのうち元気なのは、あと何年だろう。 そう考えれば、人生をやり直すにしても、これまでやりたくてできなかっ  たことをやるにしても、また、何か新しいことをはじめるにしても、一刻  の猶予もないはずである。 苦しんでいる人を見殺しにせよ、と物騒なことをいっているのではない。 50歳にもなって、自分が心から望むことまで、気兼ねから押しつぶすの  は、ほんとうに正しい生き方なのかと問うているだけである。 何のかんのいったって「人生、お一人様、一回限り」である。  この地上に、ヒトとして生命を授かったことさえ奇跡である。  だから、どんな境遇に置かれていようが、ひたむきに生きている人には拍  手をし、その生き方に学ぼうではないか。  私は「人生 至るところ青山あり」という諺が好きである。 「東京がダメなら、大阪があるさ」なら、若いひとにもわかるだろうか。 しかし、この諺は、若いひと向けに書かれたのではない。 むしろ、人生の転機を迎えた老人のためのメッセージなのである。 世界はいつも変化している。悪いことが起こる一方では、良くなっている  こともある。 年をとると、気弱になりがちだが、変化のうちで良くなっているほうに着  目すべきなのだ。 前述の佐橋さんの本のなかには、進化した老後の様々なかたちが掲載され  ている。すこし、拾ってみよう。 「月に一度は、フルムーン旅行」 いいな。 「グループで好きな詩を書き、助け合い」 いいなあ。 「親しい米人夫妻とフロリダで暮らす」 うらやましい、でも... 「アルプスの麓の山荘で、自給自足」ほう。 「学び直しも楽し、50代の大学院生」 えらいなあ。 「キャンピングカーで全国行脚」へえっ。 夢も希望もある「進化」した夫婦のかたちである。 さて、この「キャンピングカーで全国行脚」は、  木下恵美子さん(44歳主婦)の老後の夢である。 こうしたかたちの老後の夢は、祖母の時代には、ありえなかった。 自動車が珍しかったし、運転できるひとは限られていた。 運転をするひとは、「車夫馬丁」といわれて社会的評価が低かった。 ところが、どうだろう。  いまでは、だれもが自動車をもち、運転ができる。 嫁入り道具が運転免許の時代である。 高速道路で日本全国どこでもいける。経済繁栄の賜物である。 奥さんがたも、ほんの少し頑張って、免許を取ったらよい。 夫婦とも運転がうまくなって、ドライブの途中で交替すれば、どこにでも  荷物を沢山積んで、そう疲れずに行ける。 木下恵美子さんは、こう書いている。 「.夫と私の2人だけの生活が始まった時には、横須賀の家を売却して、 その資金で、中古のキャンピングカーを1台購入し、全国行脚の旅に出た  い。旅の先々で、その日のための生活資金を稼ぐのである。 そのためには、どんな土地でも、通用して生活できるような、資格をもち  たい。調理師の免許取得も良いし、ホテルのベッドメーキングの仕事も魅  力がある.」 広い日本を、夫と2人でキャンピングカーで、のんびり。いいなあ。 そう思えるひとは幸せである。 私は、自動車メーカーでそういう関係の仕事をしていたので、その関係で  アドバイスさせていただくと、キャンピングカーも安くなって木下恵美子  さんのように家を売らないと手に入らぬ価格ではなくなった。 アメリカでは、引退後にキャンピングカーで暮らしている夫婦も多い。 多くのキャンピングカーが集まったシルバー・コミュニティまである。  早く日本もそうしたいと努力してきた甲斐があって、オートキャンプやR  Vのブームが起きた。 おかげで300万円もだせば、ミニバンを改造して、ベッド、トイレ、キ  ッチン・ユニットを取りつければキャンピングカーの新車となる。 先日、私が乗り合わせた初老のタクシーの運転手さんは、ミニバンをキャ  ンピングカー代わりに使っておられた。 「いやあ、いいもんですよ。旅館に泊まらないから、お金もかからない。 村起こしで、全国どこでも公営温泉ができているから、500円も出せば  温泉に入れる。たまに贅沢な食事をしようと思えば、ホテルで朝食をとれ  ばいい。夕食は高いからね」  そうなのである。お金ではない、頭の使いようなのである。 木下恵美子さんのもうひとつすごいところは、資格に着目しているところ  である。 彼女が属する団塊の世代は、戦争の反動で人口過多の世代である。 人数が多いから巨大消費市場としてずうっと注目されてきた。 ベビー・ブーマーとして、キッズ市場、教育市場、ブライダル市場を創造  してきた。   その後は、ニュー・ファミリーやスニーカー・ミドルとして、企業から  ちやほやされてきた。 ところが、バブルがはじけると一転して、その人数の多さが裏目に出た。  リストラの対象になる。給料は伸び悩むし、退職金や年金もきちんと出る  か分からない、勿論、昇進もままならない。 いつも上司に仕えてきた。転職しようとしても35歳以上は相手にしても  らえない。 親は老いて、何かと気がかりなことが多い。子供のほうは、相変わらずス  ネをかじり続けている。 八方ふさがりである。  前途を悲観して自殺する人、心労のあまり顔色のすぐれない人が多い。  「いい子、いい学校、いい会社、いい地位」  それをめざすのも悪くはないが、社会風潮にとらわれて、果たして命まで  落とすほどのものか。 時代は大きく変わっている。 企業は、もはや団塊の世代をちやほやしてくれない。 そこで、自分たちの手でネットワーキングをつくり、老後の人生将来設計  について情報交換をするひとが最近とみに増えている。 そのなかで木下恵美子さんは、資格に着目された。 それも、誰もが考えるような税理士や社会保険労務士といったものでない  のがすごい。  資格は方便である。だから、資格に見栄をはる必要がない。 同じことは、職業についてもいえる。脱プライド、これである。 これからは、いい会社、いい地位にしがみつく時代ではない。 木下恵美子さんには、時代の先が見えている。広い日本を心ゆくまで楽し  みたい。それが人生、結構じゃあないの。 「夫婦でキャンピングカーで全国行脚」が、生きがいであり、希望であり  大いなる夢である。 全国津々浦々を行脚し、旅先で人情に触れて、「日本もなかなか捨てたも  のではない」と感じる。 様々な体験を積むなかで、学校や会社や家庭生活では得られなかった「知  恵」を身につけることができる。 どこかで、同じ趣味をもつ仲間との出会いもはじまるだろう。  やがて、それを他の人に教える機会も生まれてくる。 もしかすると、「キャンピングカー・ライフ・コンサルタント」という資  格や職業を獲得することができるかもしれない。 そうなれば、木下さん夫妻は、物真似でない人生を切り拓くことができる。 私が私淑する日本オートキャンプ協会の岡本昌光さんは、まさにそうした  分野のパイオニアである。 オートキャンプ好きが昂じて、仲間づくりをし、やがてそれは運輸省の支  援する協会になった。 岡本さんはその専務理事として活躍されて、今日のオートキャンプ・ブー  ムをつくりだされた。 現在は退職されているが、つい最近「オカモト・オートキャンプ研究所」  を設立された。生涯をその普及に捧げる覚悟とおっしゃる。 現在65歳でおられるが、いつまでもお若い秘密は、世の中の有為転変や  他人の視線に左右されぬ自分をもっておられるからである。  ご夫婦仲も円満。 人生、至るところ青山あり。 どこにいようと、自分さえ、もっていれば大丈夫。 まして、同行二人、傍らに夫が、妻が、いれば鬼に金棒ではないか。


第2章 会社を、使いこなせ

安保闘争、そして入社 私が、会社に入ったのは、高度成長期だった。 60年安保闘争が終結したときだったので、面接試験で支持政党を聞かれ  て、社会党と答えた。 後日、人事部のひとに聞くと、民社党が多く、次が社会党だったらしい。 自民党と答えたひとは少なかった。そう答えたひとは落とされた。 そういう時代だったのである。 私は、ほんとうに社会党のフアンだった。 後に社会党委員長になった成田知巳さんが、わが戸山高校の先輩だったか  らという単純な理由からである。 成田さんは、三井化学の文書課長になり、戦後はじめての衆議院選挙で当  選して、政治の世界に入られた。 風采はパッとしなかったが、温厚な人柄や朴訥な話しかたが好ましかった。 安保闘争では、社会党は全学連と並んで主役を演じていた。  演壇で暴徒に刺殺された浅沼稲次郎さんが委員長だった。 白髪でルックスもよく恰幅もいい江田三郎書記長のアジ演説が、これまた  すばらしかった。 後年、新幹線で、偶然、隣に乗り合わせた息子の江田五月さんに初対面な  のにもかかわらず、 「あの頃のお父さんは、かっこうよかったですよ」 と話かけてしまった  ほどである。 「人民の中へ、造反有理という時代の雰囲気」など、2時間近くも話しこ  んでしまった。さぞかし、ご迷惑だったことだろう。 ところが、全学連のデモ隊が国会に突入し、安保粉砕の一歩手前にまで行  った矢先、社会党は、マスコミと歩調をあわせて、議会制民主主義の擁護  を名目に、全学連非難の声明を出したのである。 私は活動家でもなく、デモに参加しただけの学生であったが、この一事で  権力が、いかにご都合主義かを知ってしまった。 この裏切りは歴史に書きとめておこうと決意した。  孤立した全学連は一層過激な戦いにのめりこんでいった。 マスコミや社会党の裏切りが、1960年6月15日の樺美智子さんの死  を招いた一因ではないと誰がいいきれるだろうか。 勿論、ちがう見方もあったろう。 樺さんは当時20歳、さほど親しくはなかったが、何といっても私の同期  生だった。 そして、6月18日の夜12時、安保条約は自然成立した。 国会正門前で徹夜した私たちは、権力が設定した時間の前に負けたのであ  る。 私は、彼女と失われた青春を追悼して「ブリュメール1960」という小  説を同人誌に書いた。 主人公は、樺美智子さんの恋人という設定である。 物語は、羽田闘争で逮捕された学友のシーンからはじまり、結びは亡くな  った樺さんのことも忘れて笑いあう教授たちの宴席シーンで終わる。 安保闘争は「アメリカ憎し」よりも、原水爆反対運動という色彩が強かっ  た。 おなじ人間同士がどうして争わなければならないのか、戦争で寿命を縮め  ねばならぬのか、 戦争準備のための条約をなぜ結ぶのか。青年期特有の正義感をぶつけた作  品だった。 この作品については、まだ思い出がある。 独文学者で文学研究会の顧問教官をされていた山下肇教授が、 「もし君が銀杏並木賞に応募していたら選考委員として推薦しただろう。 大江健三郎君の後、久々に最優秀作品が誕生した」と誉めてくださったの  である。 「君も、福田くんのように、作家になるんだろう」 この一言が、その後の人生を決定づけたのである。 いま、先生となって学生と接するようになって、自戒しているのは、自分  の何気ないひとことの重さである。 福田くんは、在学中に中央公論新人賞をとり、その後、三島由紀夫に認め  られて、芥川賞をとって花々しく文壇にデビューした。 文学研究会のメンバーの多くは大学に残ったり、公務員やマスコミ関係に  就職した。 創作活動を続けるために役場に勤めた友人もいた。午後4時には家に帰れ  るらしい。 なかには安保などすっかり忘れて、大企業に勤めるものもいた。 私の場合は、われわれが敗れた相手(資本主義?)の正体を見極めるには  懐に飛びこむしかないと思っていた。 社会党委員長になられた成田知巳さんのように課長ぐらいまで会社勤めを  して、それから作家として独立しようという強い思いがあった。 成田さんは、弁護士志望の土井たか子さん(現社民党委員長)をくどいて  社会党に入れた功労者である。 その後、社会党は低迷する一方である。 わたしは、野球でいえば、阪神フアンの心境だった。  見放してしまえば、楽になるのに、なぜかそうできない。 今年こそ、来年こそ、そして「いつかは」というようになると、もう抜け  られない。 もし、成田さんから電話があれば、おれが入党して立て直してやるのにと  つまらぬことを思ったこともある。 10年後に、三宅坂の本部を訪ねたが、部屋の乱雑さ、職員の荒廃ぶりに  落胆した。 同じような落胆は、後に、モスクワでも感じた。  私は、親友の笹原君と一緒に三菱商事を受け、内定をもらった。 しかし、フランス語要員で、しかもフランス本国ではなく、フランスの植  民地のアフリカ諸国が勤務地になると聞いて、さすがに尻ごみした。  祖母の死に目にあえなくなる。 そして、これから伸びそうな会社ということで、名古屋のトヨタ自動車販  売を選んだ。 当時は、トヨタも中小企業だった。そこが気にいった。大企業に勤めては  仲間を裏切ることになる。 その販売会社である自販の社屋は、オンボロビルだった。 名古屋は、わが国3番目の都市ときいたが、女子社員は美人揃いだったも  のの、なまりがきつかった。 「標準語をしゃべれる相手が、いねゃあつーのは、さびしいでかんわ」 おまけに所在地名は、泥江町だった。  祖母に手紙の発信元を書くときは、何かしら恥ずかしかった。 目の不自由なため乱雑な字で、私の健康を気づかってくれる返事を読んで  不覚にも、枕をぬらしたこともある。 名古屋なんてこなければよかった。 寮は、6畳1間に2人収容で、田圃の真ん中だった。 夜遅く帰ってくると門灯の電球が一部消えていて、「ヨタ自動車販売」と  読めた。ひでえ会社に入ってしまった。 ボロ会社に入ってやったという感覚なので、われわれは、職場では意気軒  昂だった。 半年もしないうちに、36年入社組36人が連名で、会社組織の改革案を  出して「販売の神様」神谷正太郎社長と談判した。 今から考えると、よく神谷さんもつきあってくれたものだ。 よく遊んだ。  私は当時流行していたボーリングをはじめていたが、ゲーム費用を安くす  るには、法人会員がよいと知ってボーリング部を結成した。  600名も集まった。 クラウンの姉妹車であるトヨペット・マスターを、同期4人でお金を出し  あって先輩から買った。値切って1万6000円にした。 よく運転の稽古をした。  観音ドアで、3ドア、シースルーフロア、4気筒2気筒の可変エンジンだ  った。 若いひとにそういうと、目を丸くして 「へえ、そんなクルマがあったん  ですか」という。 「なあに、4ドアだったが、ドアの1つが開かなかったので、3ドアとい  うわけさ。 床が錆びていて地面がみえたからシースルーフロア。  時々、ディストリビュータが外れて4気筒が、2気筒になったんだ」 と得意になって解説する。 おまけに腕木式の方向指示器が故障していた。  これはパトカーにつきまとわれて絶体絶命の時に、なぜか1回だけ働いて  くれた。 クルマも幼稚で、システムなんて言葉もない、ひとが主人公のいい時代だ  った。 ある冬の早朝、スケート場で滑ってから、仲間と出社しようとした。 突然ブレーキが壊れて、名古屋駅前の交差点の赤信号に突っ込んだ。 幸い、事故にならずにすんだのは、当時まだクルマの数が少なかったから  である。 極めつきは、断崖のそばで、横転事故を起こしたときである。 運転者が未熟でスピードをだしていて、砂利路で急ブレーキをかけたため  である。 ゆっくりと世界が回った。  ああ、こんなものか、走馬灯のように人生がみえるというのはと思った。 結局、全員無事。フロントガラス全損、私のメガネのガラス破損だけ。 23歳で、あやうく閻魔大王の腕に抱かれるところだった。 ダンスも盛んにやった。 冬はスキーだった。近くは伊吹山、遠くは飛騨高山あたりまでいった。 雪のしんしんと降る旅篭で、みなで、こたつに足を突っ込んで寝た。 ヒマな夜には、机に向かって小説を書き、出版のあてもないまま著作集の  構成を考えたりしていた。 こう書いていて恥ずかしくなるくらい学生気分が抜けなかったのである。 しかし、それは当然のことながら、長くは続かなかった。  仕事は自分で創るもの 入社して、最初に配属されたのは、車両第一部だった。 全国のトヨタ販売店についてのクルマの販売計画、価格や販売奨励金の決  定をする重要な部署だった。 最初に、課長から 「前月末在庫台数+今月配車台数ー今月販売台数=今  月末在庫台数」という方程式を教わった。 まあ、仕事は単純だった。 残業してデーラーのお偉方がくるというので、バーに行って接待し、帰って  きてからまた残業した。 あまりばかばかしいので、会議中に居眠りをして課長に怒られたりした。 販売予測も、グラフに販売台数を点で記し、下敷きをあてて点をつなぎ、  傾向線を引き、それで予測するという幼稚なものだった。 やがて、若い経済学部出身者たちの競争がはじまって、最小二乗法、相関  係数 センサス局法と、数年のうちに最新の手法になっていった。 昔ながらの販売のやりかたは、もう、時代遅れ。 やがて車両本部内に車両業務部というスタッフ部署が誕生して、私はそこ  に配属された。 長期計画、販売店の適正規模、中古車対策、商品企画など、新しい提案を  する事務局になった。販売店経営の分厚いマニュアルも作った。 販売店の経営をみる担当員を、地域別から各車両部別に再編成する案も、  あまり気乗りしなかったが、つくった。  メーカーが、TQC(品質管理賞)を受けるというので、ついては自販も  協力せよという指令がきたこともある。  TQCの頭文字をとって「トテモ クルシクテ コマル」と揶揄した。 私にも、作文のお鉢が回ってきた。 理想的な販売管理をしているようにみせかけるために、毎月「反省」をし  ていることにした。 指導教授もさじを投げたのか、作文を見破れなかったのか、何もいわれな  かった。 一番、困ったのは、ある日上司や先輩が会議で出払っているときに専務が  やってきた時だった。 「おお、誰もいないのか。あ、君か。じゃ、こういう比率で出資してもらっ  て、レンタカーの会社を作ってくれ」 指示は、それだけである。 すべての前提条件を自分の頭でひねり出さねばならない。  損益計算書も貸借対照表も、作成せねばならない。 そんな面倒なものは、みるのもイヤなほうで、作成などとんでもない。 部長は、血のしょんべんが出るまで考えぬけとアドバイスしてくれ、メシ  をおごってくれる。 しかし、それだけで、具体的な指示などない。 同期の友人に教えてもらって、ようやく数ケ月後に計画書を提出したが、  その後、どうなったのか、まったく音沙汰がない。 やがて、経理部にいた同期2人が、東京で作る実験店に出向になったとボ  ヤクのを聞いた。 会社を設立したものの客は来ない、儲からないで、苦労しているらしい。 気の毒なことをした。  しかし、こちらは命じられたことを精一杯やっただけである。 会社の仕事は、こんな風にして進むのか、たまらんなあと思った。  名古屋勤務もあきた。  ゴルフ、マージャン、社内の付き合いだけでは、私の知的好奇心は満たさ  れなかった。 転機になったのは、66年、東京の宣伝部への勤務命令である。 引っ張ってくれた上司は、車両部時代の上司で、仕事に厳しい反面、気配  りのすばらしい方で、神谷社長をはじめ社内の受けもよかったので、のび  のびと仕事ができた。 会社は、社運をかけた新車カローラの発売準備中であった。 宣伝部というと赤シャツで腕まくりをした宣伝マンが机の上に足をのせ、  タバコをくゆらせ、名人気取りでコピーを書く、そんな雰囲気がイメージ  される。それを何とか変えたい、 「日本一の広告づくりをしたい」  上司は熱っぽくわれわれ若手に語った。 いまでもよく覚えているが、九段にあった会社の地下の喫茶店である。 よし、このひとのために全力で働こうと私は思った。 私は、たまたま電通の社内資料でキャンペーン方式について書かれた論文  を目にしたので、それを上申した。 広告キャンペーンというのは、近代的な組織のもとで広告主、広告代理店  の専門家たちが連携プレーをして、単発でなく 継続的に大規模な宣伝を  実行する方式である。アメリカでは常識だったらしい。 カローラが幸先のよいスタートを切ったうえに、この方式が、部内だけで  なく社内で認められ、社外でも知られるようになったので、上司の信頼も  かちえた。 私は、その頃、広告効果の測定という仕事も担当していた。 会社としては、年々増加する広告費に頭を悩ませていて、どれだけ効果が  あるのか教えろという声が高まっていた。 それが分かればノーベル賞ものという世界だったらしいが、 私は電通のマーケティング局の全面的な支援を受けて、その開発に精を出  した。 梅田八主守さんはじめ、そうそうたるメンバーがあつまった。 「注目、興味、欲求、記憶、購買」という商品の購買行動のプロセスにそ  って、それぞれの数値の変化が毎月分かるようにした。 数量モデルをつくり、いくらつぎ込めば、広告の認知率がいくらになると  いう予測が、商品毎に、できるようになった。  この頃になると、「資本主義をつぶさに見てやろう、それはどのようなメ  カニズムで人民を裏切ることになるのか」という当初の生硬な問題意識は  いつの間にか消えていった。  会社の仕事が面白くなってきたのである。 「日本人のために、日本人の手で、日本車を」という創業の理念が、会社  のなかにみなぎっていた。  神谷正太郎社長の唱える「1にユーザー、2にデーラー、3にメーカー」  というスローガンも、気にいった。  クルマを売ること、その仕組みを作っていくことに喜びや充実感を味わう  ようになっていった。  最新のマーケティング理論を勉強するにつれて、使命感までも抱くように  なってきたのである。 時代は、まさに高度成長期である。 毎年のように販売の新記録が出て、紅白のまんじゅうが 社員に配られた。 成果は、まんじゅうの数で、お腹の具合でわかった。 「販売のトヨタ、技術の日産」と当時はいわれていた。  「工場には機械を、販売には人を」とハッパがかかった。 われわれは、お客様のため、生活者のためにやれることなら何でもやろう  という雰囲気が、社内に満ちていた。  上司や同僚、そして部下にも恵まれた。   「仕事は自分で創るもの」 そういう気風があった。 「他人の立場に立って物事を考えよ」 というのが、神谷社長の口癖であった。 みなが、その精神を体していたのである。 私の上司は、「神谷さんのためなら、死んでもよい」とまでいった。 言葉だけ聞いたら、まるで封建時代の武士のようである。 そんな同志的結合が生み出す高揚した雰囲気が、私を仕事に没頭させた。  まあ、人使いのうまいひとが多かったのだろう。 それにくらべて、近頃の経営者は??? そういったら、身も蓋もないか。  会社勤めの醍醐味:社外の人脈づくり 会社生活で、何が一番楽しかった? いろいろな答えが予想される。 大きな仕事をやってのけたこと、上司・同僚・部下に恵まれたこと、課長  に昇進したこと、海外旅行をさせてもらたことなど。 私なら、社外のひとびととの交流が面白かったと即座に答える。  1868年は、私の社外人脈づくりがはじまった記念すべき年である。  その頃、私の仕事は順調だったが、不満もあった。  日本一になるには、広告がコンスタントに当たる体制をつくり出さねばな  らない。 「よし、一流の情報、一流の人材を、周囲に集めよう」  それが、遅れている広告業界を近代化することにもなる。 私は、生活情報研究所の設立を企画した。結局、広告情報システムという  名称で発足し、予算もたくさんいただいた。  私は、当時30歳の平社員だった。  以後10年間、転部の話も断って、制約なしにお金をふんだんに使い、時  代の空気を一杯に吸いながら、好きなテーマについて勉強し、 並べると  半年毎に1メートルの厚さにもなるレポートを作りつづけた。  背景には、情報化時代はじまるという追い風があったし、会社はカローラ  で一発当てて、上り調子のベンチャー企業だった。 まず、この分野の第一人者、早稲田大学の小林太三郎教授にお願いして、  米国の最新広告事情や理論の研究を行った。当時ご一緒した大学院生は、  いまや学界をリードする権威になられた。早稲田大学の亀井昭宏教授、青  山学院大学の仁科貞文教授、小林保彦教授である。  こうしてお名前をあげているだけでも、うれしくなってくる。  後に、東大新聞研究所教授として、わが国の世論調査の第一人者になられ  た飽戸弘埼玉大学助教授との出会いもこの頃である。先生は、お会いして  みると、難解な多変量解析を駆使されているのに、案に相違して、軽妙洒  脱な方であった。電通の鎌倉の寮に泊りこんで勉強そっちのけで、だじゃ  れを連発したり、裏手の山に登って由比が浜を展望したりもした。 この研究の成果は絶大で、カローラには新聞やラジオ、雑誌広告ではなく  TVスポットが効果的であるという事実が判明したのである。  私は、予算担当でもあった10年間、この理論を守って、カローラに重点  的に予算配分をし、それもTVスポットに集中した。セールスマンもいか  ない田舎にまで、セールスマンが眠っている時でも、カローラのCMは、  家庭のブラウン管を通じて、顧客を開拓し続けた。 おかげでカローラは、ライバル日産のサニーを抜きベストセラーになり、  いまでも、わが国史上最大のロングセラーをつづけている。まだ、これを  抜く商品はあらわれていない。 セールスマン重視の営業部や「製品開発が命」の技術者はとかく宣伝広告  を軽視する。しかし、カローラがブランドを確立したのは、まさにこの時  期である。 豊富な宣伝量、親しみやすい広告作品の連携プレイによって、ひとびとの  心の中に、誰にも奪えぬ大きな共感や信用を築いたからである。 よく退職者がつぶやくように、私も時々つぶやく。 会社は、これで、私の生涯賃金を上回る利益を稼いだのではなかろうか。  会社を儲けさせてやった。 本当のことをいえば、私は、仕事に恵まれたことに感謝すべきなのであ  る。 「会社に使われるのではなく、会社を使いこなした」 自分では、そう思っていたが、やはり違う。 仕事は自分で創り出すものという社風が、私に夢のような時間を過ごさ  せてくれたのである。 会社は、カローラで経営基盤を強め、それに力をえて、70年代に入って  製品の多様化に踏みきった。例えば、マーク2とチェーサーとクレスタの  3車種は姉妹車である。 同じようなクルマを取り扱う店を変えてたくさん売ろうというのが会社の  ねらいだが、お客様にしてみれば 「どう違うのかはっきりさせろ、気分  が悪い」ということになる。 この難問に社外のお知恵を借りようということになって、以前参加したア  メリカのマーケティング視察団の団長であった慶応義塾大学の村田昭治教  授に相談した。先生は快諾されて、仲間を総動員されて、この方面の文献  を調べ、有益な提案をたくさん出してくださった。 こんなことで広告だけでなく、マーケティングの分野まで間口が広がって  いったが、若さというのは恐ろしい。  商品開発も、新規事業開発も、さらには、政府の全国総合国土開発の支援  も、この際やってしまえということになった。  紙幅の関係で、全員のお名前をあげられないのが、残念だが、天野祐吉  (広告評論家)、泉真也(花博プロデューサー)、浜野安弘(都市開発プ  ロデューサー)、下河辺淳(元国土庁次官)さんとは、これがご縁でおつ  きあいさせていただいた。 また、当時流行だしたサラリーマンの勉強会にも積極的に参加した。 自ら手がけて勉強会もつくった。異業種交流のはしりである。 流通懇談会(幹事:森口以佐夫)、コミュニケーション懇談会(代表:柳  治郎)、IIFC(コーディネーター:浜野安弘)、中部戦略研究会(代  表:小野憲)などである。 この他、会社在籍中には、個性豊かな方々から多くのことを学んだ。 成田豊(電通会長)、氏家斎一郎(日本テレビ放送網会長)、大川功(C  SK会長・故人)、宮内義彦(オリックス会長)、安部和寿(元近畿日本  ツーリスト社長)、橋本保雄(元ホテルオークラ副社長)の各氏である。 学界は、近藤次郎(日本学術会議会長)、稲葉三千夫(元東京大学教授)  山口昌男(文化人類学)、野田一夫(元多摩大学学長)、安部北夫  (元東京外語大学教授)、田村正紀(神戸大学教授・日本商業学会会長)  土屋守章(元東京大学教授)、嶋口充輝(慶応義塾大学教授)、下川浩一  (法政大学教授)の各氏である。   今をときめく評論家の竹村健一、堺屋太一、田原総一郎の各氏との懇談  も、スリリングな経験だった。 作家では堀田善衛、小中陽太郎、阿川弘之の各氏が印象に残っている。 残念ながら物故されたが、 佐橋滋(通産次官)、三木武夫(首相)、高  丘季昭(西友会長)、越後正一(伊藤忠会長)、桜田武(日清紡社長)の  各氏との出会いも忘れられない。 タレントでは、亡くなった坂本九さんやヒデとロザンナのヒデさん、そし  てジェリー藤尾さん、デビューの頃の石川さゆりさん。 どうやってそういう著名人と仲よくなれるのかと若い人に聞かれる。  私は「情報童貞を捨てろ」というケッタイなアドバイスをする。  本当にお近づきになりたかったら、興味を持って調べておくこと、そのう  えで、童貞のようにもじもじせずに話しかけるのがコツである。 「一期一会」。相手の胸を借りるつもりで、懐に飛び込むしかない。 しかし、私の場合も、すべてうまく行ったわけではない。むしろ、失敗ば  かりだった。痛い目にあってコツを覚えたのである。 こんな出来事もあった。 「神谷社長がお呼びです」と秘書から電話である。 何事かと思っておそるおそる社長室にいくと、見慣れぬひとがいる。  事情をきくと、剥げ頭の好々爺は、神谷さんの行きつけの天ぷら屋のおや  じだそうである。何でも、私が外食産業についてのレポートを依頼した教  授から調査依頼を受けたのが、かれの息子で、教授から代金をなかなか支  払ってもらえないので困った。ついては、直接担当者にあって、事情を話  し、善処してもらおうというわけである。 幸いその件は、神谷さんのお叱りもなく、無事に片づいた。 この一件で、「誰も知らないはず」といい気になって外で発展していても  見るひとは、ちゃんと見ているという単純なことがわかった。   「神様(神谷さん)が、いつも見ていると思って行動せよ」 天ぷら屋のおやじさんには、ほんとうにいい勉強をさせてもらった。 「天知る、地知る、人知る」なんて誰が考えついたのだろう。 まして、同行二人、傍らに夫が、妻が、いれば鬼に金棒ではないか。


第3章 会社に長居して、失うもの

生活者優先って、ほんと? 東大総長をつとめられた大河内一男先生は、かつて卒業式で、学生たちに 次のような花むけの言葉をおくられた。 「太ったブタになるより、やせたソクラテスになれ」 マスコミが、いっせいにこの言葉に飛びついた。 当時の私は、なんで、こんなに大騒ぎするんだと思った。 この言葉の意味が分かったのは、50歳になってからである。 先生は、サラリーマンとは「自分自身の企画と責任において仕事を処理す る人間ではなく、その補助者」であると著書に書かれた。 入社して、仕事を一人前にこなせるまでは、誰もそんな風に自分のことを 考えたことなどないにちがいない。 やがて自分の企画が通らなくなったり、上司と折り合いが悪くなったりす ると、誰でも多かれ少なかれ、サラリーマンの悲哀を感じはじめる。 そして、やる気をなくしたひとは「休まず、遅れず、働かず」の境地にな る。 短歌でいえば、 「単純に グラフの線に評価され いつの日によりか 何かを喪えり」 川柳でいえば、 「踏み台と踏み絵で築く課長職」の世界の住人である。 そして、わたしも、大分遅くなったが、他のひとと同じように、次第に 実社会を知るようになったのである。 最近、たまたま三省堂のある国語辞典の広告をみていたら「実社会」の 定義を、他の辞書と比較している。 一般的な解釈 :実際の社会。現実に経験する世の中。 新明解国語辞典:実際の社会。美化・様式化されたものとは違って複雑で 虚偽と欺瞞とが充満し、毎日が試練の連続であると言え る、きびしい社会を指す。 会社に入る前に、あるいは入社後まもなく、この辞書を見ていたならば、 私の心構えもまた変わっていたかも知れない。 1982年、トヨタ自動車工業と自販が合併した。 外部からみれば、終戦後の混乱で分かれたのが、元のさやに納まるだけの  ことである。 「子会社だから合併じゃない。吸収だ」という自工の役員もいて、自販出  身者は怒りに燃えた。 頭にきて退職する者も出た。 「あいつらの顔は、見るのもイヤだ」というわけである。 販売店のオーナーも同じだった。酒の席だったが、英二さんには、販売  のひとたちの気持ちがまるで分かっていないと漏らされた。 そういう雰囲気のなかで、なぜか自販出身では私だけが総合企画室主査と  なった。 初対面の挨拶に豊田英二会長の部屋に連れていかれたとき、私の最初の言  葉は「会長、評判悪いですよ」だった。 「怒られてもいいや、辞めてやる」という気分である。 どういう表情をされたかは忘れたが、英二会長はそうした若いもんの挑発  には乗られなかった。   「統制と自由放任の兼ねあいは、難しいんだよなあ」 と、自分に言い聞かせるように、つぶやかれた。 その言葉で、私は、あるいは自分が真実の半分、鏡の半面しかみてこなか  ったのかもと思った。 よし、もう少し居てやろう、見てやろう。 私は、合併を成功させるべく、新社長の豊田章一郎さんの下で頑張った。 会社方針をつくったり、役員の交流を図る仕事をした。 新任務では、いつも旧自工の役員たちと一緒だった。それをうらやましが るひともいて、私は裏切り者になったような気がした。何も分かっちゃい ない。元の上司と酒でも飲んだら涙を流しそうだった。 新職場では、お客様第一が常識ではないことを知って、驚いた。 会議でも、「販売のトヨタ」なんておこがましい。いいものを安く作りさ えすれば、クルマはひとりでに売れるという発言が出る。 「カタログなんていらないんではないの」と真面目にいうのである。 社風の違いといってしまえば、それまでだが、私は憤慨した。 会社は、生活者のために存在する。 利益やモノづくりに焦点をあてているようでは、長い目でみて、生活者に 喜ばれるような商品づくりはできない。 しかし、自工では、会社が利益をあげなくては、研究開発もできない、従 ってよい製品もできない。給料も払えない。だから、まず会社を儲けさせ なれば、「そうだろう、君」という一般教養(強要?)がまかり通ってい  た。 外部からみれば、どうでもよい議論に聞こえるかも知れないが、私は会社  優先か、生活者優先かは、大きな違いであると信じている。 口先だけでなく、生活者優先を心から信じていれば、情報の取りかたも、  感度も、仕事の質も、飛躍的にあがる。 それがヒット商品につながる。   よい商品ができれば、生活者が応援して、またよい商品ができる。 社員が、ヒラメのように上を向いているのでなく、生活者や社会のほうを 向いているから、オープンな社風になる。それが生活者に伝われば、 巨 額の値引きや宣伝を投入して、世間のひんしゅくを買わなくてもすむ。 しかし、合併後の会社は、巨大化し、何万人もの見ず知らずの、気の合わ ぬひとびとが「他人の設備を使って、他人のために、他人の命じるままに 行動する」組織へと変貌していった。 人間味や勤勉が、保身や策謀に、以心伝心が、手ぬき情報ネットワークに 置き変わりつつあった。 売上や利益の数字が、社員共通の尺度になってきた。 巨大な金儲けマシンが目の前で、成長はじめていた。 私が若いときの願い「資本主義の実態をみてやろう」は、実現した。 何といったって、目の前に巨大な氷山が姿を現しているのである。 創業者の豊田佐吉や豊田喜一郎や神谷正太郎の熱いマグマが氷に隠されて いった。 その氷山は、たとえようもなく高くそびえ、精巧で美しく、ひとを寄せつ けない厳しさをもっていた。 まさに、数字や技術や権威に憧れたひとたちが、精魂込めてつくりあげた 芸術品である。 それにくらべると、私の願っていた「生活者優先」の会社なんてものは、 さぞ、手づくりのケーキのお城のように他愛なく見えるのだろう。 「世界で生き延びていくには、そうするしかないんだろうなあ。 でも、平凡な人間って、等身大が好きなんだよなあ.....。 クルマっていう商品は、等身大を愛するひとたちの最後の砦なのになあ」 私は、自販で時流と仕事と人間関係に恵まれたために、組織の変化には 最後まで、気づかなかったのである。 もっと正確にいえば、変化を認めたがらなかったのである。 しかし、まあいい会社だった。感謝すべきだろう。 何といっても毎月サラリーを払ってくれて、おかげで郊外に1軒家を建  て、子供3人を育てあげることができたのだから。 また、いつの間にか大会社になって、その社員としてのプライドやその  裏にある代償も、存分に味あわせてくれたではないか。 いまとなると、世間では一流企業といわれているが、もっと、お粗末な  会社がごろごろしていることも分かってきた。 会社生活の最後には、社史の編集や執筆も任せていただいて、資本主義  の深化の過程をつぶさに観察できた。しかも、みなが、必死で頑張って  くれたので、日本経営史研究所の「優秀社史特別賞」までいただいた。 5年の奮闘で社史が完成すると、私には巨大な氷山を溶かする気力は残  っていなかった。 「そろそろ潮時か。これ以上長居すると、失うもののほうが多くなるな  あ」そんなことを思っていた。 しかし、退職後の収入のあてはまったくなかった...  4時には帰宅の毎日だった さて、私は50歳を越えた。 そろそろ転職か独立かを考えはじめた矢先に、私は2度目の新規事業開発 を仰せつかった。 自販時代に、これからは自動車産業も成熟化するので、企業が成長し続け るためには、新規事業に着手せねばならないと主張した。 同期の仲間と活発に研究会をやっていると、いつの間にかトップが覗きに きて「プロジェクト70」という役員からなる委員会が発足した。 住宅、情報通信、レンタカー、レジャー、ファミリーレストラン、モータ ーボート、オートキャンプ場などが候補にあがった。 そのうちいくつかは実ったが、大部分は、石油危機で消えてしまった。 あんなに積極的だった役員たちが、もう知らぬ顔で責任追及に乗り出す。 安保闘争のときと同じように、権力者たちのご都合主義に出会った。 そんな背景でのニ度目の御用!である。 会社は、私に航空機事業の立ち上げを期待しているようであった。 冗談じゃない。 おれは、新規事業なんてまっぴらだ。  しかも、戦争反対のおれが、何で航空機をやらなくてはならないのか。  世界の自動車会社も航空機産業に出て、みな大火傷していている。両者は  まったく似て非なる事業なのだ。 最初は、まったくやる気はなかった。 豊田章一郎社長にも「トヨタの新規事業なんてうまくいくはずがないです  よ」と申し上げた。 ヒーロー気分でないと、新規事業ってうまくいかないんですよ。 でも、ウチでは、異端者になってしまう。 しかし、社長の新規事業にかける情熱は本物だった。 大工の息子からスタートして自動織機を発明した祖父・豊田佐吉、おなじ  くゼロからスタートして自動車産業に乗り出した父君・喜一郎の血統であ  る。 そうした社長のために、微力ながら頑張ってみようと、思い直した。 サラリーマン人生が長くなると、直属の上司などの顔色が気にかかる。 会社生活をともにする同志だから仲よくやりたいのは人情でもある。 社員は、みな、根っからのカーガイである。 自動車とともに生きてきた。 事業は、空前絶後といわれるくらい成功を収めた。 人生、自動車とともに終わって何ら悔いはないというひとばかりである。 勢い、新規事業には関心がない。邪魔はしないが、応援もしない。 なぜか、とうの昔に出世をあきらめたひとばかり新規事業に配属する。 せっかく本人をその気にさせても、新規事業の会社に出向となると、社宅  では奥さんが泣き喚くという事態になる。 人事部も、その辺の事情はよく分かっているので、片道切符にはしない。 そこで何が起きるかというと、早く戻りたいので本社のほうばかり見る。 新規事業は、赤ん坊のようなものである。  それを、数字だけみる管理部署は、この赤ん坊は、いつ役にたつのかと毎  日聞きにくるのである。 さらに意気粗相するのは、新規事業というのは自社にとってだけで、他社  がすでにやっていることに後から手を出すという形になることである。 そうでないと、損益予想のもとになる前例のデータが得られない。 大企業が中小企業の分野に、金と人にモノを言わせて進出し、成果を横取  りする形になる。 ばかばかしい、やってられないと思いながら、それでも、6年あまり奮  闘した。 バブルがはじけると、一緒にやってきた企業も冷たくなった。 こちらを引き止めている間に、あちらが仲間から消えていくという具合  である。 一流企業のエリートたちの多くは、君子だった。つまり、君子  豹変するのである。目当てはコネであって、事業そのものへの情熱ではな  い。 いつの間にか、身体も精神もボロボロになっていた。 夜中に、うなされる。 おまけに人事部は人の気も知らないで、第二の職場を打診してくる。 私は大勢の社員のうちのひとりで、規定にしたがって打診しただけだそ  うだ。 社長に直訴してやろうと思ったが、やめる。かれらにも妻子がある。 もういい。もう宮仕えはいい。 最後まで支えてくれた仲間には、ほんとうに心苦しいが、私には、私の  人生があってもよいはずである。 気がついたら、55歳を過ぎていた。 今からでも遅くはない。 私は、わたしの人生を再開しなくてはならない。  そうしないと、念願の本も書けないまま墓場に行ってしまう。 幸い会社がフレックスタイムを採用したので、朝は7時には出社し、その  代わり4時に退社することにする。 そしてスイミングクラブで、1Kmを25分くらいかけて泳ぐ。 妻と買物をして喫茶店で一休みしてから夕食をとる。 その後、11時まで、辞書と首っ引きでパソコンに向かう。 振り返ってみて、当時の私の心境は、鈴木健二さんの「男50代自分自身  を生きるヒント」と江波戸哲夫「辞めてよかった」の間を、ゆれ動いてい  たようだ。 鈴木さんは1929年生まれ、江波戸さんは1946年生まれ。 私は1938年生まれなので、ほぼ、お二方の中間の世代になる。 鈴木さんはこう書いておられる。 「私は勤め先の都合で、定年を超法規で2年延長せざるを得なかったが、 私はこの二年を、私のような才能のない人間を定年まで養い続けて下さっ  た組織へのお礼奉公と考えた」 他方、鈴木さんよりも2世代若い江波戸さんは36歳で、2度目の辞表を 書かれた。 「だから私は「辞める前に辞めていた」、つまり辞表を正式に会社に出す 前に、辞めるという決心は私の中で揺るぎないものになっていたのだ」 片や定年延長後の退職、片や若くして2度目の退職。片や2年間のお礼奉  公、片や半年間の会社離れの予行演習。 私の場合は、定年3年前の退職で、会社離れの予行演習は、3年間。 鈴木さんほど熱烈な組織への忠誠心はない。また、江波戸さんほど退職  後に自信がもてない世代である。それが、こういう半端な形になった。 私は辞めようと思い出してから、ぼつぼつ職探しをはじめた。 首都圏で、どこかいい大学がないか。 ちょうど仲のよい友人たちが大学新設の準備委員になっていた。 私は名乗りをあげた。しかし、なかなか話は進まなかった。後で聞くと、  どうも私に近い先生と仲の悪い先生が、実力者だったらしい。 もう一つはやはり研究会で仲のよかった方で、会社を辞めて英国に留学し  博士になられた。帰国後、大学教授になっておられた。彼の線も、結局、  だめだった。まだ教員採用を左右する地位についておられなかった。 ある実力教授とゴルフをしてとり入ったらどうかともいわれた。 関連会社への就職の話もあったが、これもお断りした。 お申し出のお気持ちはほんとうに有り難かった。やっていく自信もなくは  なかったが、もう会社勤めはいいという気持ちが揺らぐことはなかった。 こうして再就職先が遅々として進まぬので、その間に私は、退職後にも  役立つことを何かやっておかなくてはと思った。 ともかく、学者としての実績づくりをやろう。 最近「偏差値50で教授になる方法」などという本も出ているが、よほど  特殊技能がないとムリである。 オリンピックで入賞したとか、落語家として名をなしたとか、ごく最近で  は東京大学教授に建築家の安藤忠雄さんや評論家の立花隆さんが就任され  ているが、お二方とも超有名人である。 私は、とにかく自著を持とうと思った。 共著は「新規事業はこうすれば成功する」など数冊あり、雑誌発表論文も  英文も含めていくつかある。 しかし、その程度では大学教授として求められる実績にはならない。 やはり名著とまではいかなくまでも、自著がほしい。   その点、私は幸運に恵まれたといってよい。  先の「新規事業」がよく売れたこともあって、私の希望を編集者が一度  聞いてやろうということになったのである。 私は、これまで書き溜めてきた論文などを押し入れの隅から探し出してき  て、おそるおそる結果を待った。 胸が躍るニュースが届いた。 出版OK! そして1991年に、私の最初の単行本「至福の経営」が東洋経済新報社  という一流どころから出版された。 編集者の大貫英範さんには「謝々!」である。 ドーハの悲劇:早期引退のすすめ 1993年10月28日、オフト監督率いる日本のサッカーチームは、W 杯出場をかけてカタールのドーハでイラクと戦っていた。 前半5分に最初の得点を三浦知良が稼ぎ出した。後半54分、ようやく、  イラクが得点したが、70分に中山が得点し、2対1とリードした。 誰もが、日本の勝利を疑わなかった。悲願のW杯出場は目前であった。 しかし、ロスタイムに入って、何とイラクがヘッドで合せてゴールが決ま  り、2対2の引き分け。得失点差で韓国に負け、3位となった。 こうして、94年W杯米国大会出場の夢は、あえなく消えた。 その4年後、97年9月28日、日本は韓国を東京国立競技場に迎えた。 Jリーグで鍛えた力を発揮して、宿敵韓国に勝ちW杯出場を決めるのだ。 W杯は、98年に、フランスで開催される。 後半22分、山口のシュートで1点を先制した。勝ちは目前。それを意識  してか防戦一方になり、38分、42分に2点を失ない、勝利を逃した。 10月4日にはカザフスタンにもロスタイムで1点とられ、引き分け。 加茂監督更迭、代わって岡田コーチが監督昇格して指揮をとる。 韓国とカザフスタンに快勝、土壇場でチームは元気回復。 11月16日、マレーシアのジョホールバルで強敵イランを迎えた。 中山のゴールで39分に先制したものの、後半58分には逆転された。 またもやドーハの悲劇再来か。 しかし、三浦和良と交替した城が、76分ヘッドで貴重な同点。ジョー! 延長戦に入って出番をもらった岡野が、後半13分、劇的なVゴールを決  める。Vゴーーール。オカノー、やったー。3 対 2! 日本、勝ったア。 44年目! 10度目の挑戦。日本、W杯出場。初出場でーす。 ようやく胸を張って、日韓共催の2002年W杯を迎えることができる。 私も息をのんでこの経緯を見守ってきたひとりである。 学生の頃、サッカー部に一時所属し、日本サッカー協会の会長になられた  若き岡野俊一郎さんの指導を受けたことがある。宣伝部時代には、運よく  トヨタ・カップのスポンサーにもなれた。それだけに一喜一憂のあとの今  回の勝利は感激ひとしおであった。  しかし、ビジネスの世界では、まだドーハの悲劇を思わせるような出来事  が立て続けに起こっている。 ご存じの総会屋事件である。 まず、総会屋の小池隆一代表が逮捕された。容疑は、野村証券から株主総  会での質疑に手心を加えた謝礼に巨額の利益供与を受けたというのもので  ある。 ついで、野村証券の総務部部長が逮捕された。  大量の押収された資料や同社役員の供述から、社長、会長が取り調べを受  けた。国会での参考人質疑を無事切り抜けたものの、安堵する間もなく、  警察に逮捕された。 次に、小池代表が証券会社の株を買う資金6億円を94年10月に無担保  融資していたという容疑で、第一勧銀に捜査が入り、トップの取り調べと  いう事態になった。 そして、衝撃的なニュースが報じられた。 連日取り調べを受けていた宮崎邦次前相談役(67歳)が、6月29日、  自殺したのである。 一流大学卒がひしめく銀行では、地方大学出身者には出世の道が閉ざされ  ている。そのなかでコツコツと努力する姿が、井上薫頭取の目にとまって  秘書役に抜擢。誠心誠意お仕える姿が認められて、要職でテストされる。  それも持ち前の頑張りと気配りでクリアーする。88年には本人も予想だ  にしなかった頭取、そして92年には会長になられた。 合併後の難しい事態を収拾し、業績も向上させ、息のあった後継者も得て  日経連副会長、全国銀行協会会長も務めるなど賞賛と名誉に包まれて、9  6年には相談役に退かれた。 有終の美を飾ったはずの人生であった。 それが、まさにロスタイムになって暗転したのである。 それも、こともあろうに「自殺」とは。 遺書には身をもって責任を全うするとあった。 マスコミはしばらくは、このニュースで持ちきりだった。  真相を究明し、本人しか知らない事実を世間に公表し、再発防止の手を打  つべきである、自殺はわが国の恥ずべき伝統であるといった批判も出た。 しかし、死者に鞭を打つことへの遠慮もあって、報道は沈静化し、また、  相次ぐ不祥事の拡大のなかで、この事件の意味は忘れ去られてしまった。 私は、それが、悲しかった。 氏は、若い頃映画監督になるのが夢だった。在職中も映画鑑賞が趣味だっ  たそうである。  生きていてほしかった。映画三昧の老後を送ってほしかった。 ところが、氏は、「人生は生きるに値するか」という最大の問題について  考えることを怠った。そのつけが最後に一挙に吹き出したのである。 かれが特別なのではない。 私も含めて、大勢の哀れな日本人の一人が、かれなのである。 だれも、真剣にどう死ぬかを考えていない。  かつてバブルの絶頂期に、私は「至福の経営」という本を書いて、ささや  かな忠告をした。バブルのさなかに繰り広げられたお金をめぐる様々な要  職者たちの人間模様に懸念を覚えたからである。 金融業界、建設業界などさまざまな業界で不祥事が起きていた。  誰かがうまい土地転がしの話をすると、全員が聞き耳を立て、善悪の判断  もなく飛びついていった。大事なお金を扱って、もっとも慎重であるべき  ひとたちが、率先した。 ところが、倫理や使命感を説く書物の内容に対して、世間の反応は鈍かっ  た。「理想主義だね」「ロマンティストだね」などである。 かれらは、ひたすら現実的であること、現実のなかでひたすら努力するこ  とに価値を置き、それ以外は、眼中になかったのである。 しかし、私はそれでも、セネカの「幸福な人生について」の一節が、脳裏  から離れなかった。 それは次のようなものであった。 「それゆえ何よりも大切なことは、羊の群のように先を行く群のあとに付  いて行くような真似はしないことである。そんなことでは、進むべき道を  歩んで行くことにはならず、単に誰もが進んでいく道を歩むに過ぎない。  ところで我々を害悪に巻き込むことの最も甚だしいのは、多数者の賛成に  よって承認されたことを最善と考えて世論に同調することであり、また、  たくさんのことをわれわれの先例として、道理に従って生きるのではなく  模倣に従って生きることである。その結果、人々の倒れた上にまた他の人  々が群れて、これらの者たちの重なった大きな山ができるのである。....  そのため人から人へと伝えられる誤りがわれわれを弄んで、遂にはわれわ  れを転落の淵に投じるのである」 何という透徹した人間観察力、そして今日の事態の予言だろう。 ここでセネカ(BC5ーAD65)について少し紹介させていただくと、  彼はローマの政治家でストア主義(克己精神)の哲学者であった。 昔、学校で習った暴君ネロの家庭教師だったひとである。 スペインのコルドバに生まれ、若い時は病弱でうつ病にもかかった。30  歳にしてローマの財務官として元老院入りし、その弁舌は注目を浴びた。 しかし、陰謀に巻きこまれて無実の罪でコルシカ島に追放される。 ここで哲学に目覚めた。 流刑8年、彼は皇后アグリッピナに呼びもどされて、当時12歳だったネ  ロの家庭教師になった。アグリッピナはクラウディウス帝を毒殺し、ネロ  を皇帝にすえる。セネカはネロの関心を芸術に向けさせ、その即位後は、  後見人として善政を敷いた。 しかし、ネロはやがて自尊心に目覚め、犯罪的な言動がはじまる。 母と弟を殺害するなど残虐さをむき出しにするのをみて、危険を察知して  セネカはいちはやく引退する。しかし、反逆の陰謀に荷担したと疑われて  ネロの命令で妻と一緒に自殺させられるのである。 その最後は壮絶である。 小刀で血管を切るが死に切れず、毒ニンジンを飲むが、失血のために効か  ず、とうとう熱湯を振りかけさせてようやく絶命した。 こうした背景を知って、彼の「幸福な人生について」を読むと、波乱万丈  の生涯のなかで、彼が追求してきた公的人生の熾烈な真実が痛いほど浮か  びあがってくる。 ローマ時代、要職にあるものは、毒殺にそなえていつも懐に解毒剤を用意  していたという。  波乱の時代の要職者には、セネカのような運命は避け難いものである。  もはや要職につくひとは、セネカのように壮絶な死を覚悟しなければなら  ない。不祥事のなかで倒れていった数々の要職者たちの何人にその覚悟が  あっただろうか。 そして、幸い逮捕をまぬがれている人々はどうだろうか。 ここで、「ローマ時代?2000年も前の話か」と一蹴するひとに贈りた  いのは、「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という諺である。 金儲けがうまいだけ、運に恵まれただけ、誠実なだけ、業務に精通してい  るだけ、あるいは海外にいただけのひとが要職につく時代は終わった。 これからはグローバル・スタンダードの時代だというのならば、それは、  ROE経営とか技術標準だけを指しているのではなく、世界に通用する普  遍的な愛や道徳律や使命感をもったひとの起用が望まれる。 そうした人たちと早く交替しないと、日本は世界の笑い者になる。  ドーハの悲劇を繰り返さぬためにも、胸に手を当ててみて、自らそうした  資質のないひとは、危険な地位や権力にしがみつくべきではない。 早期に引退をすれば、金だけが人生ではないことが分かろうし、ロスタイ  ムに失点するのを免がれることも可能である。 そして、次は最も重要なメッセージである。 90%の要職者でない人たち、企業から早く引退しよう。 人生、やり直そうよ。いまからでも遅くはない。 でも、多くの人は迷うにちがいない。 引退後どうやって食べていくのか、再就職は可能か、老後の貯えとしてお  金はいくら用意したらよいかなど。 答えは明快である。 「お金のことは、ひとまず忘れよ。 考えているだけで、お金が入ってきますか」 それでもまだ、早期引退を迷っている人に、もう一度問いたい。 1回しかない人生、お金と時間とどっちが大事ですか。


第4章 老後、いかに生きるべきか

知的独立宣言:模倣は自殺 退職したあと、97年の夏、私は妻とフィラデルフィアを訪れた。 目的は、美術館めぐりである。 この地には、アメリカ屈指のフィラデルフィア美術館がある。 その広い前階段は、あの映画「ロッキー」で、ロッキーが再チャレンジを 決心して、一気に駆け上ったところである。 わたしも、息を整えたあと、自由の鐘を見にいった。 アメリカは、1776年に英国から独立したが、それを記念した自由の鐘 が、この地にあるので、見学に行ったのである。 鐘は、思ったより小さかった。収められている建物も世界一の大国のもの  にしては、簡素なものだった。 妻は、そばの庭園のほうが気にいったようだった。 しかし、この場所でジェファーソンの筆によって世界を変える思想が高ら  かに宣言されたのである。 久しぶりに学校で習ったが、すっかり忘れていた独立宣言の文章にも出会  った。 「........すべての人は平等に創られ、造物主によって一定の奪いがたい  諸権利を付与され、そのなかには、生命、自治、自由、および幸福の追求  が含まれている」 そうだ、近代社会では、ひとは、誰に気兼ねすることなく、幸福を追求し  ていいんだ。 そこで、この宣言と並んで有名な宣言を、不意に思い出した。 尊敬する恩師、島田謹二先生訳の「アメリカ文学史」文庫クセジュの一節  には、それが掲載されている。 すこし、横道にそれるかもしれないが、島田先生は強烈な個性をもった学  者で、専攻は比較文学だった。  わたしは、あまりまじめな生徒ではなかったのだろう。教えていただいた  ことのうち、あらかたを忘れてしまった。 でも、何かの折りに先生が講義された、ロサンゼルスでは「うどんのよう  な雨が降る」という表現だけは、なぜか強烈に頭に残った。  長いこと外国に行けず、私は、一度はうどんのような雨をみたいと憧れて  いたものである。 後年、現地にいって雨に降られて、私は大よろこびをした。ようやく外国  の雨に会えたのである。 しかし、その雨は先生のいうように「うどん」のようではなかった。 「権威者のいうことでも頭から信じちゃいかんな。 この目でたしかめるまでは」と私は思った。 1837年、アメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマソンが、マサチュー  セッツ州ケンブリッジの大学において、ある講演を行った。 「アメリカの学者」と題したこの講演は、その後のアメリカ人の精神のあ  りかたに深い影響を及ぼした。 アメリカ魂をつくったといってもよい。 なぜか日本では、これまでその重要性が認識されることがなかった。 その一節を抜き書きする。 「私の為すべきことは、私にかかわることである。世間の人の考えること  ではない」 「模倣は自殺である」 「世界は新しい....過去を信じてはならぬ。今日のこの世界はまだ処女で  ある」 「各世代は、次の世代のために独自の書物を書かねばならぬ」 「すべてを思い切ってやるのは、あなたの仕事だ」 現在、わが国は、アメリカのように元気ではない。 国土も狭いからフロンティアなど、どこにもないように思われる。 民主主義も形だけ取り入れただけで、総会屋の損失補填事件などを引き合  いに出すまでもなく、荒んだ企業社会からも、自由にはなれない。 民主主義の底は浅い。 とことん幸福を追求する力も弱い。 首相も繰り返し述べているように、日本は高齢化社会に向かって活力を失  うといわれる。 65歳以上が2020年には、人口の4分の1を占めるという。 そうするとわが国は活力を失う。 なぜか、皆がそう思いこまされて、意気そそうしている。 まるで、「一億総老人ごっこ」である。 馬鹿な話だ。 むかしの65歳といまの65歳とはちがう。いまの老人は、ずっと元気で  ある。もっと知的である。いまの65歳は、昔の50歳にあたる。 そう考えて、計算しなおせば、高齢化でも何でもない。  1997年と同じ比率に収まる。数字のマジックに引っかかっただけのこ  とである。 なぜ、指導者は、国民を励まさないのか。 自分だって、外国にとんぼ帰りするほど元気ではないか。 指導者に恵まれない時代だからこそ、あのエマソンの言葉が再び輝きを増  し、1本のダイナマイトのような起爆力をもつのである。 「私の為すべきことは、私にかかわることである。世間の人の考えること  ではない」 みなが、高齢化社会といっているからといって、自分まで気弱になる必要  はない、とエマソンも励ましてくれるではないか。 そして、現に、あなたは元気ではないか! 一歩譲って、日本が超高齢化社会に向かっているとしよう。 ということは、人類史上未到の長寿社会という新たなフロンティアが、日  本人の目の前に開けているということでもある。 千載一遇の大儲けのチャンスではないか。世界中のひとが不老長寿の秘訣  を聞きにくるのだから。 「世界は新しい.....過去を信じてはならぬ。今日のこの世界はまだ処女  である」 日本人のまえに、前例はない。 お得意のモノマネはできない。 「模倣は自殺である」(エマソン) いくら私が祖母を尊敬していたとしても、その世代の価値観を模倣するこ  とは、もはや無意味である。 50歳で教師から農婦に転じた祖母は、彼女なりに新しい歴史を創った。 そんな祖母だから、私にも、模倣は望まないだろう。 「各世代は、次の世代のために独自の書物を書かねばならぬ」 新しい歴史を、われわれすべてが、白紙の上に、書いていけるのである。 書くのが、われわれの世代の使命なのだ。 死んだり、ぼやいたり、ぼやほやするヒマなどない! 手のひらを太陽にかざせば、真っ赤な血が流れているのだ。 「すべてを思い切ってやるのは、あなたの仕事だ」(エマソン) 人類初の長寿化社会を、それぞれのひとが、自分をモデルにして、デザイ  ンする。 何と、わくわくすることではないか。 何とも、期待が大きすぎて、照れくさいほどである? とにかく、すばらしいチャンスが、われわれの前途に待っているようなの  である。  定年後の時間は、会社時間より多い 私の知人のひとりに木原武一さんがいる。  最近「聖書の暗号」という本がベストセラーになったので、その翻訳者と  してご記憶の方もあるかも知れない。 本業は評論家で、「哲学からのメッセージ」「大人のための偉人伝」「天  才の勉強術」などの著書がある。 彼とは学生時代に同人誌「駒場文学」の仲間だった。 大江健三郎さん(ノーベル賞作家)についで同期の庄司薫くん(芥川賞作  家)が世に出たので、次は後輩の彼なのかなあと期待したこともある。 当時、彼はアメリカの作家でノーベル賞も受賞したフォークナー(189  7ー1962)に傾倒し、人間の心理を深くえぐった作品を書いていた。 フォークナーは、「サンクチュアリ」などで知られる作家で、アメリカの  深南部のスワンプ(巨大な湿地帯)の腐臭が骨の髄まで染み込んで狂った  ひとたちを描いていた。 彼とは、一度会いたいなあと気にかけながら、卒業以来会っていない。 先頃、久しぶりに書店で、その著書をみた。「人生最後の時間」とある。  そのシアリアスな題名が気になって買い求めた。 奥さんを亡くしたらしい。「大変なことだな」と思った。若くして妻を亡  くしたひとの悲哀を身近に見てきたので、心中を察してあまりあった。 奥さんの看病が大変だったことが読みとれる。 50歳を過ぎて人生の最後の時間を意識しはじめたとある。 そうか、かれも、もう50過ぎか。 あとは、文章に引き込まれて一気に読んだ。 そのなかで一番心に残ったのは、西行法師の出家の理由についてである。 西行が出家したのは、20代はじめだった。 今日でいえば、将来を嘱望されていたのに、入社早々に大蔵省を退社した  ようなものである。 すでに結婚していて、幼い娘もいたが、袖にしがみつく娘を縁側から蹴落  としてまで煩悩の絆を断ち切ったという。 出家の理由について木原武一さんは、親友の急死説や失恋説を退けて、次  の一句を示し、解説する。 「 身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ。 出家する人は自分の人生を捨ててしまうのではない。  むしろ出家しないで、いつまでも気のすすまないまま宮仕えを続けている  人こそ、自分の人生を無駄にしているのである。私が身を捨てようとする  のは、自分を生かしたいためである」 宮仕えをしていたら、歴史的な歌人・西行法師は生まれなかっただろう。 そう思うと、この時の西行の娘や家族、職場の上司や同僚に対する非情さ  もうなずける。  しかし、すでに私も、そして、おそらく大部分の読者も20代はとうの昔  に過ぎている。  「光陰矢の如し 学成り難し」 「後悔 先に立たず」 人生行路について「下手な選択をしてしまった」  「一生を棒に振ってしまった」という後悔に身をよじっている人もおられ  るだろう。 あるいは、そういう想いに身を委ねそうになると、「ケセラセラ なるよ  うになる」と鼻歌を歌って、当座仕事に戻ってしまう人もいるかもしれな  い。  しかし、大多数のひとは。「西行のような歴史的人物にはなれなかったけ  れども、それなりにいい人生だった。もっと運がよかったら、もっと多く  のことを、もっとうまくやれただろうな」というひとだろう。 鈴木啓三さんの「定年からの生きがい革命」は、そうした大多数のサラリ  ーマンを励ますために書かれた本である。 鈴木さんは、東邦生命を定年退職されて、この本を書かれた。  在職中にライフプランナーになり、フィナンシャル・プランナーなどの資  格もとられた。 在職中からはじめたので、コンサルティング暦も長い。  多くのサラリーマンの相談に乗ってこられた。その豊富な体験がこの本に  は盛りこまれている。 内容は、本をお買い求めになって読まれることをおすすめするが、私が最  も興味を抱いたのは「人生時間の比較表」である。 鈴木さんは、こういわれる。  「この表から次のことが読みとれます。まず、定年後の自由時間は現役時  代の労働時間とほぼ同じであるということです」  「信じられなあい」と、私は表を、再三、チェックしてみた。 労働時間  10時間(日)*250日(年)*40年=10 万時間 定年後自由時間 14時間 *365日 *20年=10.2万時間 これまで20歳から60歳まで勤めてきた40年の年月と比べると、定年  後、80歳までは20年と半分しかない。 しかし、「365日 毎日が日曜日」だから、睡眠・食事など生活に必要  である10時間を確保しても、毎日14時間は残る。 通勤時間もいらない。仕事上のイヤなおつきあいの時間もいらない。 そうなのである。 イヤになるほど潤沢な時間があるのである。 この時間を「ケセラセラ」とか「人生は一場の夢、酔生夢死で過ごそう」  といった人生50年時代の感覚で過ごそうとしても、退屈でとても神経が  もたない。 「見渡せば、周囲はみな元サラリーマン」といった社会がやってくる。 新しい器には新しい酒を盛るの覚悟がいる。そのスタート地点が、人生の  残り時間の確認である。 確認事項;「老後には、労働時間と同じ自由時間がある。定年後の時間は  会社時間よりも長い」 とはいえ、20歳から60歳までの労働時間のような密度は期待できない  のではないか。老後は病気がちになったり、体力・気力・能力が衰えたり  する。妻や子供、親しい友人を亡くして落ち込んだりもする。 寝たきり老人になってみっともない姿をさらすかもしれない。 そんな時に、次の短歌と出会った。 鶴見俊輔さんの「老いの生きかた」に収録されていたのである。 「 わが色欲 いまだ微かに残るころ 渋谷の駅にさしかかりけり」 歌人・斎藤茂吉の晩年の名句である。 渋谷、この街の名は、私にとって特別な響きを持っている。 わが家族は、小学生4年生の頃、渋谷に引っ越した。  渋谷では、中学、高校、大学と青春時代を過ごしたのである。 大学が休講になると決まって渋谷の街に繰り出した。 当時、丹羽文雄さんの小説で恋文横丁が有名になった。その行きつけの店  でラーメンをすすり、名曲喫茶「らんぶる」などをはしごした。 今でも覚えているのは、道元坂のあの猥雑な界隈である。  名もない喫茶店に入って、庄司薫くんと同人誌編集の打ち合わせをしたこ  ともある。 ダミヤのシャンソンの絶唱「ルナ ロッサ(赤い月)」を聴いた。 オー、ルーナロッサ、ル ソワール デ テ  ( 赤い月よ、夏の宵.....私は) ダミヤは、その数年前に来日して、黒い衣装で憂愁を漂わせていた。 イヴ・モンタンの「枯れ葉」、一時かれの恋人だったエデイット・ピアフ  の「愛の讃歌」も流れていたようだ。シャンソンの定番である。 私は、サッカー部を脱落し、庄司くんに刺激されてダンス部に入っていた 実践や青短の女子大生たちを相手にダンス講習会をする。 「魅惑のワルツ」などに酔った彼女らを、そのまま円山のホテルに連れ込  む猛者もいた。私は、おくてだったから、そこまではとてもできなかった  が、飢えるオオカミの気分は分かった。 中国の諺でいえば、青春、朱夏、白秋、玄冬の4つの季節のうち、青春や  朱夏の季節を渋谷で送ったのである。 就職すると、名古屋勤務で、渋谷からは遠のいた。 それでも母が相変わらず渋谷に住んでいた関係で、駅前の西村でフルーツ  を買うために、時折り、渋谷に行く。 渋谷は、次第に、女子高生の街になっていった。 見渡せば、ガキばかり。  振りむいても、ルーズソックスのガキ、ばっかり。 360度ガキだらけの街になろうとも、異邦人になろうとも、私は渋谷の  街に愛着がある。 ここはオレの街なんだ。すこしばかり、おめえらに貸してやってんだ。 50歳を越え、茂吉の歌が少し分かるようになった。 「おお、若きオオカミくん、頑張れよなあ」っていう気分である。 白秋の季節を味わえるようになったのである。 次は、玄冬である。 70歳を越えて渋谷に行ったら、どんな気分になるだろうか。 玄冬の季節になると、私の目に渋谷はどう写るだろうか。 甘酸っぱい青春の思い出に酔いながら、おぼつかない足つきで、街をとめ  どもなく彷徨するだろうか。茂吉の歌を口づさみながら。 いま歩いている女子高生が親になって、その娘たちが、同じように群れて  笑い転げているだろうか。 ひょっとすると巣鴨のとげぬき地蔵のように、歩いているのは、昔の女子  校生ばかりという街になっているかも知れない。 衰えた視力に、モネの絵のように、街は、煙ってみえるだろうか。 とにかく、青春、朱夏、白秋、玄冬の4つの季節の渋谷を味わってみたい  という気分がある。 それを味合うのを避けて、突然死がよい、直角死がよいとかいうひとは、  結局、「もののあはれ」を解しないひとではないだろうか。 草木にたとえれば、茎が伸び、花を咲かせ、実がなり、そして枯れる、そ  の自然の営みのうちの、花や実の時期しか、めでないようなものである。 季節ならば、春と夏しか好きでない。 一日でいえば、昼と夜しか認めない。 秋の十和田湖の紅葉も、冬の富士の冠雪も認めない、昇る朝日にも、沈む  夕日にも無縁なひとである。 現代日本は、エコノミック・アニマルの全盛期に覚えた、夜昼なしに電灯  をつけて働き、昼にしか価値を認めない狭量が、まだ幅を利かせている。 ひと握りの老人が、大勢の老人たちを片っ端から職場から蹴り出す。 それに影響されてか、多くの老人自身が自信喪失している。 若者も、老人をみて、平気でいう。 「あんな姿にまでなって生きていたくないわ」 グサッ、とくる。 冗談じゃあない。 若い時代は、みな利己的で、思いやりや判断力に欠けている。 振り返ってみて、自分が、そうだった。 そんな一時の戯れ言をまともに受け取る必要はないのである。 「おい、おめえらには分かるめえ。白秋、玄冬、いい季節だぜ」 これからは、胸を張って、そう言おうではないか。 「生きぬく」ことが、どんなに尊いことか、老醜をさらしてでも、教えて  やろうではないか。  コマギレ時間は神様の贈り物  さて、そう意気込んでみても、年をとると、どうも若い時のように徹夜し  て馬車馬のように働くということができない。 根気も続かない。物忘れがひどくなる。 髪は白く、目はかすむ、よくみると肌はしわだらけ。 カレンダーの日めくりが飛ぶようにめくっていく。刻々と残り時間が減っ  ていく、砂時計の砂がさらさら落下していく。 こんなにも時間がいとおしく思えるなんて、若い頃にはなかったことであ  る。 子供の頃には、「はやく大人になりたい」と思っていた。 受験勉強の頃は、「こんなこと、いい加減にしてほしい」という気分だっ  た。 そして会社に入ると、「早く偉くなって楽したい(?)」と思っていた。 ところが、いまや様変わりである。 「早くお迎えがきたらよい」などとは決して思わない。人生の美酒の残り  の一滴まで舌なめずりして味わいたい気分である。 そして、ああ、皮肉なことに、その気分すら、そう長くは続かない。 つまり.....、老後の時間は、コマギレ時間が支配的になる。 時間活用について、いくつかの本に目を通してみた。 例えば、効率的に時間を使えとか、スケジュールを立てよとか、時間泥棒  とは付き合うななどである。 なかには、斎藤茂太さんの「時間の使い方のうまい人・へたな人」のよう  に、車、飛行機、新幹線のなかでも仕事をする。そのために、いつもメモ  用紙、筆記具、ハサミ、葉書、切手、手帳を持ち歩くとある。 すごい心懸けである。 しかし、わが内なる声が、いま知りたいのは、そうしたことではないと囁  く。 そうしたことは会社時代にとっくにマスターした。仕事をテキパキ処理す  るのは時間に追われているサラリーマンにとっては、組織人としての最低  限の礼儀である。第二の天性にもなっている。 いま問題なのは、1回しかない人生の時間を効率的にだけではなく、いか  に効果的に過ごすかである。 時間の量よりも質が問題である。 いま必要なのは、「座して死を待つか」、あるいは、 「死中に活路を開くか」の一大決心の時間である。 生涯の目的、「お墓に刻む文字」を発見・追求する覚醒の時間である。 老人にとって、ちょうど雲がさーっと晴れるように訪れてくる覚醒の時間  は貴重である。しかし、それは長続きしないコマギレ時間である。 例えば、そんな覚醒の時間に、にわかに思い立って、最近流行の陶芸など  をはじめるとしようか。 それなりの満足は得られるだろう。ただ、それだけのことである。 そんなコマギレ時間をいくら重ねても、私の場合には深い満足感を得られ  そうもない。土台、才能がない。 趣味やスポーツの世界ではなく、ボランティア活動でもよい。 その気になって、週に何回か困っている人を救いに出かける。 やっていることは、どんなに些細なことであろうと、それはすばらしいこ  とである。しかし、マザー・テレサのような満足感にはとうてい手が届か  ないだろう。 私にあった何か、いわばライフワークが欠けている。 それは何なんだ。 何なんだ。どうしたら、いいんだ...。 そうした折りに、古本屋でヒルティの「幸福論」に出会った。 かれは、理想的ともいえる夫婦生活を送った哲学者である。 かれは、まず、幸福の追求は万人の願いであると述べる。 そのあとで、財産、名声、仕事と活動、力や健康、個人的権力、高貴な生  まれ、愛情をあげ、それらは価値の低い幸福であるという。 何故ならば、それらは不安定なうえに、少数の限られた人だけにしか与え  られないからである。 高次の幸福は、神のそばにあることにある。 神という言葉が気にいらないならば、 「偉大にして真実な思想に生きる」と言い換えてもよいという。 何かが、ここにはある。 50年をかけて 自分が無意識に求めてきたものは、何なのか。 それを、ヒルティの力を借りて整理してみよう。 財産;これはあまり重視しなかった。 名声:憧れたが、手に入らなかった。 仕事と活動:長い間、夢中になって追い求めたが、空しさに気付いた。 力や健康:若い頃から追い求めてきた。これからも追求するつもり。 個人的権力:あまりそういう志向はない。        ひけらかす人に会うと、吐き気をもよおす。        権力なんて、所詮、突っかえ棒のようなものだ。 高貴な生まれ:全く無縁である。 愛情:無意識にずっと追い求めてきたような気がする。  こうやって現在高を記入していくと、力や健康、そして愛情が、私の場合  には、今後の人生でも、引き続き追求したいもののようである。 しかも、それはヒルティのいうように不安定である。  力はなくなる一方だし、健康だって危ない。  愛情だって...はかないものである。 また、仮に、私がしばらくの間、そうしたもの恵まれたとしても、周りの  ひとが老境に入って怒りっぽくなり、ひがみっぽくなったりしていると、  それに巻き込まれて, 自分の幸福を素直に味わえないような気がする。 そういう人たちを軽蔑したり、無視して自分だけの幸福を追求していくほ  ど、神経がずぶとくない。 もとよりキリスト教徒ではないから、ヒルティのいうように、神にお仕え  する勇気もない。 では、「偉大にして真実な思想に生きる」のはどうか。 ちょっと重たい。とても重たい。 現在高を勘定すれば、「思想」いう高級なものは身についていない。 確かに「愛の哲学」という題の本を書いたが、正直のところ受け売りが多  く、ほとんどで身についていない。 若い時考えたように「真実」や「偉大さ」には、そう簡単に到達できるも  のでもないことも分かっている。 とはいえ、一切を断念するのは、勿体ないような気もする。 力と健康と愛情しか興味がないとなると、それだけでは、残された人生の  間がもたない。 それならば「思想」という処女地に向かって歩いていくのも、ひとつの選  択かも知れない。 その「思想」というのは、まだ、よく分からない。 戦前の学生が、デカルトやカントやショーペンハウエルといった難解な哲  学者の本を勉強して、わからなくなって「デカンショ、デカンショで半年  暮らす」と自嘲した愚は、いまさら繰り返したくない。 そうではなく、それは「自分のために何か気にかかることを、一所懸命に  考えること」としておいていいのではないか、 気軽にはじめたものであっても、例えば、この本のように「老後の人生の  ありかた」についてそれなりにまじめに考えた結果は、もしかすると、同  じような悩みをもっている人には共感を呼ぶことがあるかも知れない。 こんな他人からみれば無意味なモノローグを繰り返しているうちに、もう  眠くなってきた。 年である。もうこれ以上、考えが進まない。 神様の贈り物である今夜のコマギレ時間の炎は、もう燃え尽きている。 さて.....、翌朝になる。 充分に睡眠をとったので、元気回復。 勇気凛々である。 神様の贈り物のコマギレ時間が戻ってきた。 昨夜の分を読み返す。我ながらいいところまでいったような気がしないで  もない。 「思想」という言葉を「知的活動」と置き換えてみたらどうだろう。 それは、人間を人間らしくさせるもの、年をとっても肉体のように衰えな  いもの、ヒトをしてサルから進化させたものである。 とはいえ、まだ、しっくりこない。 振り出しに戻って、「幸福論」をまた手にとって頁をめくる。  すると、「人生は補強工事を必要とする」という文章に出会った。 そうだ、私ひとりの才覚で「思想」へと一直線に進もうなどという不遜な  考えが、土台、間違っているのである。 先達の思想をまず謙虚に学ぶこと、その手助けをいただきながら、はじめ  ればよいのだ。 小学生にもどった気分で。 そして、肝心なことは、至福のコマギレ時間が訪れるのを漫然と待ってい  るのでなく、もう少し多く、もう少し長く訪れるように工夫することだ。 コマギレ時間を大事にすることだ。 そのなかで「知的活動」が、そのテーマ領域が、朝の薄明のなかから太陽  のようにクッキリと現れてくる瞬間が現れてくるだろう。 それを、待とう。 その至福のコマギレ時間が訪れるのを....。


第5章 読書模様、心模様

世界は複雑:速読、精読、雑学のすすめ 私の場合、幼くして父を亡くし、身体もひ弱だったために、本と親しむの が、小さい頃から自然な習慣になっていた。 祖母も教師だったから、奨励する。  たまに「本ばかり読んでいないで、外で運動しなさい」というくらいであ  る。 小学校に入ってからは、読書びたりの毎日だった。 当時、何を読んだかすっかり忘れてしまっていたが、渡部昇一さんの「知  的生活の方法」を読むと、宮本武蔵の少年講談本が出てきて懐かしかた。 そういえば、荒木又右衛門や真田雪村の伝記を片っ端から読んでいた。 父の国学院大学時代の書物は古文ばかりで、さすがに手が出なかった。 こうした日々のおかげで、私は自然に速読術を覚えていった。 とはいえ、乱読は意識したが、速読を意識したことはなかった。 他人より本を読むのが早いのを意識したのは、ある出来事がきっかけであ  る。 小学2年生の時である。  先生がある日教科書の1節を示して、「みなさん、この節をできるだけ早  く読み終えなさい。読み終えたひとは手をあげて」 30秒もしないうちに、私は読み終えていた。念のために先生が聞きそう  な事項も記憶しておいた。 手を挙げる。次の手があがったのは3分後である。当然、先生は半信半疑  である。 他の生徒も、まるで信じない。 「 本当かい。君、それじゃ、この点はどうだ」 思った通りの個所を質問される。私は自信をもって答えた。 コツは小さいうちに子供に大量の本を読ませることである。 わが娘たちも、1週間に10冊くらい図書館から借りてきて読ませるのを  1年間続けたところ、てきめんに成績が上がってきた。この方法は親御さ  んたちに自信をもっておすすめしたい。 中学生になると、夏目漱石、森鴎外などの日本文学全集、そしてシェーク  スピア全集を読破した。坪内逍遥の訳は難解だったが、面白いもので、ロ  ミオやジュリエットの運命に手に汗をにぎった快感が忘れられないと、  「マクベス」も「リア王」も「真夏の夢」も読みたくなる。 知らないうちに速読の習慣が身についた。 今でも200頁位の本ならば、30分もあれば読み終える。 高校時代は、2年生まで勉強せずに、世界文学全集に没頭した。 書棚に大切にとってある本の古びた背表紙をみると、トルストイ、ロマン  ロラン、ゲーテ、バルザック、ヘッセ、カロッサの名前が並んでいる。 現実の世界は、あちこちで戦争が起きてており、醜悪だったが、読書中に  は、すべてを忘れることができた。 典型的な現実逃避症状である。視力もどんどん落ちる。 ある日、父母会から母が帰ってきた。異様なほど、しょんぼりしている。 話を聞くと、私の成績は学年400人中200番以下だった。小学校、中  学校と私の成績はトップクラスだったので、子供の成績に命をかけていた  母は、落胆したのである。これでは、ろくな大学に入れない。 そしてある生徒の話をしてくれた。 住田笛雄くんである。かれは生徒会長で、ラクビー部の主将だったが、何  と成績も学年で一番、しかも、家に帰ると源氏物語の研究をしているとい  う。 ガーン。そして自分に対する怒りが走った。俺は何をやっているのだ。  母をこんなに落胆させて。  子供の成績だけが生きがいの未亡人の期待を裏切って。 それからは文学全集を読むのはやめて、受験勉強に専念した。 学校から帰ると、小1時間休んで、それから夕食後机に向かってそれまで  サボっていた教科の復習をする。25分勉強し、5分間腕立て伏せを繰り  返す。12時前には就床し、8時間睡眠は確保する。寝る前の15分だけ  読書を許可する。 学校の3年生の授業は、10分間の休憩時間中にすべて習ったことを覚え  てしまう。3時間目の休みには早飯を食い、昼休みはのんびりする。 最初の2、3日は、このリズムを守れなかったら、どうせろくな人間にな  れないのだから、自殺しようと若い心に誓った。 この学習法は、奇跡的な効果をあげた。学業成績はみるみる向上し、秋に  は、60番へと急上昇した。その勢いで東大合格も果たした。報告にいっ  たときに担任の先生からは「まぐれ当たり」といわれた。 なお、住田くんは、なぜか一橋大学を受験し、1番で合格したと聞いた。 大学入学後も、この方法を続けたので、2年を終了したとき、私の成績は  学年400人中、40番台だった。 ところが、また私は第2の住田くんに出会ってしまったのである。 文学研究会の部室でキャップ役をしていた福田章二くんに出会った。この  頃は私が会計担当で、2人3脚で運営していたので、よく顔をあわせた。 かれは日比谷で一浪、私は戸山で現役という関係だった。 「おい、佐々木くん、どうだった」 例の学年の成績の順番であることは、いわなくても通じる。  私は得意になって答えた。 「40番台だった」 「ところで、君は?」 「ああ、1番だった」 ガーン。そのうえ彼は色白の美男子で女性にもてた。  文研が同人誌発行の資金稼ぎにダンス・パーティをやったことがある。 すると、福田さんはいますか、といって次々と若い女性がくる。  いずれも息を呑むような美人である。そして、彼のダンスのうまいこと。 今から考えてみると、私がダンス研究会に入ったのは、この時のショック  を癒すためだったかも知れない。ほぼ2年間、私は下北沢の教習所に通い  つめた。 生来、運動神経に恵まれていないから、上達も遅い。  世田谷区の競技会でタンゴを踊って3等になり、Yシャツをもらった程度  である。 しかし、私はこの経験を生かして「青春時代」を書いた。  ジャンとポールの2人の青年が美しいジャンヌをめぐって争うという設定  である。ポールのモデルは福田くんで、ジャンは私で風采があがらない。  ダンスシーンの描写は、何度も書き直した。 福田くんが誉めにきてくれたので、スーッとした。 こんな他愛ない話をするのは、それまでは小説を、ただ読者の立場で読む  だけだったのが、以後書き手の立場になって読むクセがついたのである。 複眼の視点というか、ある作品で描写が冴えている個所に当たると、思わ  ず、わが青春の屈辱をバネにした執筆のさいの奮闘を思いだすのである。 「ロミオとジュリエット」に興味をもつのでなく、作家シェークスピアの  舞台裏での奮闘ぶりに興味を持つようなものである。 話は少しもどるが、私が文研に入ったころ、その主流派はドストエフスキ  ー研究会を結成していた。文献研究といってよい。集まって、リーダーが  文章を読みあげ、一語づつコメントしていくのである。  時々、われわれ若いものの意見が求められる。まず、ほめてくれない。  読みが浅いといわれる。 先輩たちに「細部に神は宿る」の精神で指導されたのである。  「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフ青年が金貸しのお婆さんを殺した  動機について書いた。不条理の殺人である。今はやりの理由なき殺人の  先駆的になるモデルである。世界はわれわれが思っているよりも、ずっと  複雑であると、私は書いた。 反響は全くなかった。 「世界は単純だ」のほうが世間受けするのである。 しかし、この時の訓練のおかげで本を乱読するだけでなく、精読する喜び  も覚えた。 最近買った立花隆さんの「ぼくはこんな本を読んできた」をめくっている  と、かれも学生時代にドス研にいたとある。  アレ?と思った。全く記憶がない。彼が詩を書いていたのは覚えているが  ドス研でも一緒だったとは。 かれは、当時、詩人としては芽がでなかった。 というのは、天沢退二郎さんや渡辺武信くんのような現代を代表する詩人  が、すでに文研で活躍していたからである。 詩人はひとつひとつの言葉を吟味する。 それに比べると、散文家は書きなぐる。 ところが、散文家であるはずの立花隆さんはインタビューのなかで、次の  ように答えている。 「これはと思う表現を思いつくまでが大変なんですよ。原稿書きのエネル  ギーの三分の一は、ああいううまい表現を見つけるために費やしています  ね。たった一、二行のために数時間を費やしています」 われわれは、田中角栄研究などでかれの膨大な資料を駆使しての執拗なま  での実証主義のほうへ目が向きがちであるが、絶頂期の首相を牢獄に追い  つめた原動力は、おそらく詩人としての言葉の訓練の賜物なのである。  ひとつの言葉にも世界を破壊する力がある。 たとえ、数百万語を費やしても、何も生みださない書物もある。 情報化時代だけに、このことは若い人にぜひ覚えてほしいことのひとつで  ある。  私は、最近、学生たちに次のような物騒な発言をしている。 「いつまでも、ビニ本と暴露本と業界本を読むな。一度読んでみるのはい  いが、そればかり読んでいると、人生台無しにするぞ」 この警告はむしろ中年のビジネスマンに向けたほうがよいかも知れない。 50歳を過ぎたら、経済・経営本や業界本はやめて、魂を磨くような読書  をしてほしいものである。読書で得るのは知識だけと思っているひとは、  不幸なひとである。読書は感性を高め、心模様を織る。 もし読書はいまひとつという人がいたら、それは幸せなひとである。肉体  が衰えても、独りになってもできる極上の趣味を残しておいたのだから。 読書は、世界を広げ、時間旅行をさせてくれ、いくつもの人生を味あわせ  てくれる。そして何よりも、世界が複雑であることを教えてくれる。 名著「知的生活の方法」のなかで、渡部昇一さんも、次のように書いて  おられるではないか。 「 私は(中略)時間も空腹も忘れることのできる歓びの源泉を発見した  のである。いっさいの義務から解放された状態で、次から次へと新刊を取  り寄せて朝から読んでいられる停年後の人生が、いまでは待ち遠しいよう  な気がするのだ」  書庫をもつより行きつけの本屋をもとう 確か高校時代の朝礼のときだったと思うが、校長先生がこう言われた。 「学校時代には本をよく読んでいても、世の中に出ると読まなくなるひと が多い。しかし、君たちにはそういう大人になってほしくない。外出する  ときは、必ず本を携えるように」 私は権威が大きらいだから、当時、権威のひとつと思っていた校長の挨拶 も「名門府立4中を誇示しているなあ」と聞き流していたが、この言葉だ  けは、なぜか心に残った。 今風にいえば、どこかのカード会社のコマーシャルではないが、「出かけ るときは忘れずに」である。 だから、3年になって受験勉強に精を出して好きな本を読めなくなると、 無性に教科書や参考書以外の本が恋しくなる。  そこで、通学の電車のなかで読むことにした。小田急の代々木八幡から新  宿に出て、山手線で高田馬場まで2駅である。正味30分もない。 満員電車のなかで、何を読もうかと考えて、文庫本「伊勢物語」にした。 毎朝、各段を読み進めていくのである。暗記こそしなかったが、なぜか心 にしみる読書体験だった。同じようにして芭蕉の「奥の細道」や「万葉秀  歌」なども読んだ。志賀直哉の「暗夜行路」なども好きな本であった。 老後に読み返したら、青春時代が戻ってくるだろうと、今から楽しみにし ている。 大学では、ドス妍のおかげで、ドストエフスキー全集を読破した。日記ま で探して読んだ。米山正夫さんの訳がほとんどで、原卓也さんの訳は新鮮  だった。ロシア物に凝って、トルストイ、ショーロホフ、ツルゲーネフな  どを片っ端から読んだ。 大学後期はフランス語科へ進んだ。よく文学部の仏文科と間違われるが、 フランスの文化と社会について学ぶ。フランス人教師はフランス語で授業  をする。ドゴールの第五共和国憲法なども原文で読む。そうかと思うと、  大家の前田陽一先生の授業では、全員、鏡をもってこさせられて、RとL  のような微妙な発音のときは、口のなかで舌がどういう位置にあるのかを  確認させられる。 直らない生徒には、先生の指が容赦なく口のなかに入ってくる。 それでも、仏文学の尻尾は抜けきれない。 当時、流行していた実存主義作家を読みふけった。サルトル、ボーボワー ル、カミュなどである。その他、ラディゲ、コクトー、モーパッサン、フ  ローベル、マルロー、ロブグリエなども読んだ。 殊に、サルトルは「嘔吐」をはじめ「自由への道」までよく読んだ。 卒論は、何とフランス語で書くことになっている。 その頃は、創作と安保闘争で卒論にまじめにつきあう気分ではなかったの で、どうしたら省エネになるか真剣に考えた。 そこで評論書とその翻訳書の双方が出ていた「サルトルの劇作」という本 に目をつけた。普通、卒論はテーマが先で、参考文献が後である。それを  逆にした。翻訳しやすい参考文献が先で、テーマは後である。 まず、翻訳書の引用だらけの日本語論文を書く。問題の翻訳はといえば、 原書があるから、引用した個所を写せば、終わりである。 単位がとれないのではないかと心配していたが、幸い、寛大な平井啓之教  授は、優、良、可、不可のうちの可をくださった。 いま立場が変わって卒論を審査する身分になったが、私がもし平井先生の 立場だったらどうしただろうかと、いつも考えるのである。 卒業して会社に入って仕事に慣れると、困ったことが起きた。 勤務地の名古屋は、当時、文化不毛の地で、本を読もうにもロクな本屋が ないのである。 それまでは、渋谷の盛文堂で間に合わなければ、渋谷から都電に乗って神 保町の三省堂に行けば済んだ。いちいち東京まで買い出しにいくわけにも  いかない。 新聞の書評欄も情報が少ない。選者が勝手に数冊選んでいるだけだから、 私の趣味に合う本など滅多にお目にかからない。 そこで読書新聞と週間読書人を購読することにした。目にとまった本を、 出張の折りに買い求めるようにしたが、やがて年末に出る「今年の収穫」  という各分野の優れた本のリストに着目した。 「そうだ、これを買えばいいんだ。買う手間が、一度ですむ」 年末年始に帰京したときに、大盛堂で大量に買い、クルマに積んで帰る。 宝物を眺めながら、1年かけてすこしずつ取り出して読んでいく。 2年目になると、味をしめ、給料も増えたので、全ジャンルになった。 文学、ノンフィクション、哲学、思想などの人文科学、社会学、心理学、 経済学、経営学などの社会科学、物理、数学、工学などの物理科学。そし  て、建築、工芸、美術、デザインなど。 いわば雑学の最たるものだが、面白いことに、どの分野でも同じような考 えかたの変化が起きていることを発見した。 例えば、機械は物理科学の分野であり、機能主義は建築やデザインの分野  で、別の分野だが、その底に流れるものは同じであることを発見した。 後に「機械の終わり」というデザインに関する論文を書いたときに、この 時の視点が生きた。 専門家に出会っても、あまり臆せずに話せるようになったのは、この訓練 のおかげである。また、専門バカにもならずに済んだ。 さて、タバコも酒もマージャンもゴルフもやらずに、手当たり次第に給料 やボーナスを本代に注ぎこむのは、まあ自業自得だが、困ったのは本の置  場である。 独身時代は、書棚が2本しかない。机の上、枕元やベッドの回りに溢れ出 す。結婚しても2DKの社宅は、たかが知れている。引越しで重たいのは  本箱である。よほど気に入った本以外は処分することにした。 ゴミ、そして古本屋である。後者は、免許証をみせろとか、これは傷がつ いているので高く取れませんというイヤ味が伴うが、我慢する。 先に紹介した「サラリーマンの勉強」では、私のことが次のように書かれ  ている。 「星野さんが、書斎派だとすれば、佐々木亨さん(トヨタ自動車販売販売  拡張部企画管理課長 )はアンチ書斎派、あるいは組織情報活用派といえ よう」とあって私の言葉が載っている。 「書斎なんか欲しいと思っても今のところ持てませんよ。2DKの社宅住 まいですからね。私は、意識的に自宅にはなるべく本を置かないようにし  ています。あるのは自分の発想や思考の核になる本だけです。50冊くら  いかな。あとの本はさっと読んですぐ処分します。私は本を読むのは早い  んですよ。普通の本なら、2、3時間で読み終えます。 個人の小さな書斎で孤立してたらダメですよ。せっかく大きな組織に属し ているのだから、そのダイナミックなアンテナをフル活用すべきです」 もう一度読みたいと思ったとき、本が手元にないのは不便きわまりない。  そんな本の数は限られているが、本の題名や著者名を忘れると、図書館 でも探しようがない。 そこで1977年からは、手帳に読書という頁をつくり、読んだ本の名前 を記入するようにした。仕事上の本は除く。 ちなみに、20年分の手帳を繰ってみると、毎年100冊、これまでに2 000冊読んだことになる。 販売拡張部でマス媒体を担当した頃には、広告出稿をした新聞(朝・毎・ 読・日経・産経だけではなく、地方紙も)、ほとんどの月刊誌、週刊誌に  目を通すのが仕事だったので、目が疲れて、流石に読む本の数は減った。 1977年に企画調査部に異動すると、今度は経済、経営、金融、エネル ギー問題など仕事関係の本を大量に読まなければならない。 一橋大学で自動車産業論を講義することになったために、集中的にその 方面の専門書を読んだときも、お留守になる。  そんなことで、模範生にはなれなかったが、高校の校長先生がご存命でお られたら、可くらいはつけてくれるのではなかろうか。 そして最近、私は退職金を使ってようやく山小屋に書庫を作った。 最初は書庫のスペースにくらべてあまりにも本が少ないので、これまで読 んできた本を、貯め込んでおけばよかったと後悔したものだが、すぐにそ  う思わなくなった。1年も経たないうちに、本棚が一杯になって本の重さ  で、棚が壊れたからである。 最近は、都会では文化行政、田舎では村起こしという名目で、立派な図書 館がつくられるようになった。そこへ手帳に書いておいた本を探しにいく  と大体は間にあう。 どうしてもないときには、日本最大蔵書400万冊の国会図書館にいく。 400万冊というのは全部読むのに1万年はかかるという巨大さである。 赤い絨毯の荘厳な雰囲気の中でカードボックスを探すのもオツである。 借りた本をもって喫茶室に行く。お腹が空くと安い食堂がある。 ヒマだと、地下の理髪室に出かける。これも安い。タイムスリップして、 昭和初期の文化人になったような気がしないでもない。 探しものも、お金があるときは、やはり神田にいく。三省堂、東京堂など をはしごする。会社が九段、水道橋と近かったので、どこ本屋のどの棚に  どんな本があるかが、目をつぶっていても分かるほどである。 ただ、三省堂で近頃不愉快なのは、若い店員の態度である。 気を取り直して、本を抱え、富山房の地下の喫茶室へいく。 ここのコーヒーは酸味のあるほうが好きである。食事は、三省堂の裏手の 「皇帝」にいく。広くて空いていて安くて、何よりも静かである。 たまに気が向くと岩波書店に寄り、その裏手にあるタイ・レストランにで かける。ここでは、なぜか外人連れのOLたちに出会える。 しかし、ニューヨークにある世界最大の書店バーンズ&ノーブルのような 本屋がわが国にないのが、残念である。ここの応接セットにゆったり腰を 降ろして誰にも咎められずに豪華本をみるひとときは、至福である。  最近、ちょっとよい本屋をみつけた。ヴィレッジ・ヴァンガード、知る 人ぞ知る「菊池君の本屋」である。なぜか名古屋にある。 ロフト形式で、天井が高く、アメリカの本屋のように梯子がかけてある。 クルマ、コミック、アウトドア、ジャズといったジャンルの本3割とグッ ズ7割という感じで並んでいる。若い2人が手を握って本や写真集を前に  してデートしている。 街の本屋はすたれる一方、郊外書店はでかいだけでレンタルビデオ屋かと 思う始末、キオスクやコンビニの本ときたら国辱ものという文化状況の下  で菊池さんは、全国展開して200店までもっていくと張り切っている。 こうした本屋さんの出現は、本好き人間には大変ありがたい。 ライフワークは「初心を忘れず」から ひとが、ライフワークというものを意識するのは、何歳頃だろうか。 私の場合は、就職し、結婚し、仕事にも慣れててきた頃、そう、年齢でい えば、35歳頃だったと記憶している。 つまり、人生に何かエキサイティングなものが欲しくなったのである。 このままいくと平凡なサラリーマンで終わってしまうという焦りである。 何事かひとに誇れるものを持ちたい。 森鴎外は、軍医として最高の地位に登りつめただけではなく、文豪として 後世に名を残した。 近くは日本航空に勤めていながら直木賞作家になられた深田祐介さん、第 一勧業銀行の支店長までやって「シクラメンの花」で知れる作曲家の小椋 佳さんがおられる。 私には、残念ながら、そうした先人に匹敵すべき何物もない。 学生時代に手を染めていた小説に活路を求めるしかないが、いまからでは 庄司薫くんのように芥川賞がとれるはずもない。  それに、実社会の風に当たったためか、小説が絵空事のように感じられ、 芥川賞作品をみても、何の感動もない。 そんなわけで、小説をわがライフワークの候補から除く。 すると、情けないことに、何も残っていのである。 趣味は?と聞かれると、その時々の気分で、読書、水泳、ドライブ、旅行  などと答えるが、いずれも、どこをどうするとライフワークになるのか、  皆目、見当がつかない。  ゴルフもあまりやらない。テニスも少々。お世辞にもうまいといえない。  カラオケも音痴だから好きではない。 会社では、「趣味は」と聞かれて、「無趣味なもので」といえば済む。 周囲も似たり寄ったりである。 もし、俳句をひねっているとか、油絵を描いているとか、ハーレー・ダビ  ットソンで走り回っているとでも言おうものなら、「あいつ、ほんとうに  仕事やっているのか」といわれかねない。 ゴルフ、酒、マージャン、野球観戦はOK、山登り、釣り、テニスくらい  まではセーフという世界である。 こういう世界に安住してしまうと、無趣味、無芸が何と、奥床しいといわ  れる倒錯した仕事人間ができあがる。 「倒錯した」とまで、私がいうのは、世界的にみて日本人はこのままでは  通用しないからである。 その辺のところを、世界の事情に通じておられる木村尚三郎さんは、  「ご隠居のすすめ」のなかで、次のように言っておられる。 「いままでわれわれは、一つの仕事にひたすら取りついて働いて、最後は  結局、お百姓と同じように、必ずいい取り入れがあるという思いで生きて  きた。不況のあとは必ず好景気があると思い込んできた。しかし、好景気  は一向にこない。ずっとひたすら働いて、最後は会社がつぶれてしまうか  も知れない、年金もなくなるかも知れないという、抜い去れない不安の中  に生きている」 「最近、料亭は不景気で困っている。官官接待とか料亭政治はいけないと され、民間も不況であまりお金を出せないので非常に苦しくなっている。 そこのおかみが、冬の福島へ旅に出た。雪で真っ白に覆われて何もない 世界を見て元気が出たという。その話を聞いて、「それはお遍路さんと同 じだ。あなたは一旦死んだんだ」と言ったところ、おかみは涙を流した。 ほんとうにそういう実感があったのだろう。 一旦死んでまったく別の世界のなかに自分の身を置くと、そこから、また  新しい生き方が見えてくる」 とにかく、惰性でこれまでのやり方を続けでおれなくなった。 数年前に中国文学者の方から、すごいお話を伺ったことがある。 4文字熟語で「狡兎三窟」というのを知っている人は、手を挙げて下さ いと彼がいう。誰も手をあげなかった。 私も初耳だった。「賢いウサギは、日頃から隠れる穴をいつも3つは用 意しておく」という意味だそうである。 中国4000年のうち、3000年は戦乱、凶作、疫病、悪政、失政が 続く世の中であった。バブル後の日本のような悪い時代が長く続いたので ある。 その苦い経験から、中国の民衆は何事も頼りにならない。頼れるのは、自  分だけ、生き残ろうという強い意志だけだと分かった。 もし、生き方のうちのひとつがダメになったら、自分も家族もおしまいと  いうのでは、せつない。二つでも心配だ。せめて賢いウサギのように、 いつでも逃げ込める穴を、3つは用意しておきたい。 そう子供にも孫にも言い伝える。 わが国は、これまで幸いに経済が成長し、平和が続いたので、備えなし  でも何とかやっていけたが、これからはいかない。 したがって、リスクを分散することが個人にも必要になる。都市銀行や大 手証券会社までつぶれ、政府機関だってリストラの対象になる時代だから 貯金を分散するだけではなく、収入源やライフワークだって、常に予備を 用意しておく必要がある。 料亭のおかみのように、本業がお先真っ暗になったので、白紙にもどって 出直すというのでは、少し心許ない。  これまでライフワークという言葉は、仕事が安泰で、エネルギーを持て余  すので、もう一つ欲を出す。あるいは、画家のように仕事が好きでそれ一  筋で人生を送るといった場合に用いられてきた。 しかし、今後は、そうした恵まれたものとして、ライフワークを考えてば かりはいられない。 もっと切迫したライフラインとして、生き残りを賭けたものとして、周到 に若いうちから用意すべきものになっているのはなかろうか。 そうなると、加藤由基雄さんが、「ライフワークの見つけ方」で、巧みに  図示されていることが参考になる。 その道に入って50時間を費やした程度では初心者、500時間でライフ ワークになりはじめ、5000時間でノンプロ級、10000時間でプロ  級だそうである。 会社の年間労働時間が2000時間というのを物差しで計算すると、ライ フワークといえるプロ級になるには、趣味に全力投球をしても5年間かか  る。 加藤さんは、もし本気で、ライフワークを持とうと決心したら、論理的帰 結として会社でもやらなくては追いつかないとまで言っておられる。 会社で全力投球後、帰宅して机に向かう、あるいは休日をあてるというや  りかただと、ライフワークを育てるのに、とても5年では足りない。 20年とすれば、50歳のひとならば、30歳からはじめねばならない。 仕事のかたわらじっくりやろうとすると、40年かかる。10歳からは じめないとモノにならない。 加藤秀俊さんは「暮らしの思想」という本に、次のように書く。  「しかし、イギリス人にとって「趣味」は決して気まぐれなのではない。  はじめは気まぐれかもしれないが、いったんそれにとりつかれると、それ  は、一生にわたって持続する性質をもっている。小学校の2年生からはじ  めた切手あつめは、しばしば、死ぬまでつづくのである。もちろん、はた  らき盛りの30代、40代には、すこし「趣味」がおろそかになることも  あろう。だが、一生にわたって、いちども中断しないのである」 やはり、10歳からはじめねばならない。 しかし、不幸なことにわが国には、これまでそういう社会的風土がなかっ た。もう手遅れだ、と皆が思い込む。 大部分の50歳を迎えてひとたちにとってライフワークは無縁なもの、  「夢のまた夢」となっているのには、こうした背景がある。 せいぜい、定年後、小唄や俳句、書画をたしなむ程度か、カルチャーセン ターに入って、お稽古ごとをやってみようという程度でお茶をにごす。 それが悪いということはない。無趣味よりはずっとよい。 しかし、それでは一生を支えるもの、イザというときに「芸は身を助く」  といった安全保障になりえぬことは、明らかである。 しかし、いまからでも遅くない、幸い老後には会社時間よりも多い自由時 間がある。 何か見つけたいというひとには、小さい時から手掛けてきたことや、やり たかったことの棚卸をおすすめしたい。  再開してみると、思いもかけず上達が早い。心のなかで、長年、暖め続け  てきたせいだろう。 その点、夏村波夫さんの「ライフワークで知的時間と遊ぶ本」にある30 0もの候補リストは面白い。 たとえば、そのなかに「全国の大樹をウオッチングして歩く」というのが ある。 そんなのが、なぜライフワークになるのか。 先にご紹介した宇野千代さんは、その点でいい参考になる。 評論家の小林秀雄さんから岐阜県の山奥にある薄墨桜の話を耳にして、宇 野さんは見に行かれる。あまりの衰弱ぶりに、すっかり取り憑かれて、樹 齢1200年の老樹を救う運動をはじめる。ボランティアである。 やがて老樹は生命力を取り戻して毎年、華やかな花を咲かせる。あまりの 嬉しさに、宇野さんは、薄墨桜の咲き誇る景色を小物や衣装に仕立てる。 はじめは仲のいい友人に譲っていたのが、評判になって、やがていい商売 になっていく。 現に宇野さんの本の表紙はすべて桜の花びらが散らしてある。 そのうえ、老樹の1200年の力をもらって、宇野さんは100歳近くま で長生したのである。木が私に生きる力を与えてくれたといわれる。 たかが桜、されど桜。 趣味といえども馬鹿にしてはいけない。それは発展してライフワークにな る無限の可能性を秘めていると思いたい。 私の場合でいえば、紀行文を書く、世界の美術館めぐり、ぶな林をたづね 歩くなどが候補である。 将来、そのうちいずれかが、わが心の琴線に触れ、わが人生を支えてく  れるかと思うと楽しみである。


第6章 執筆で広がる豊かな老後

本を書いてみよう 文豪ゲーテは、83歳で世を去った。 その1年前に、60年もかけて書き続けていた大作「ファウスト」を完成  したと伝えられる。 作家の野上弥生子さんは、51歳の時に「迷路」を書きはじめて、71歳  の時に書き終えたそうである。20年もかけて1冊の本を書いている。 そんな偉人たちのマネはできないけれども、この際、わが半生くらいは、  まとめておきたい。 幸い、時間はたっぷりある。何か書き残しておきたい。 でも、卒業以来、まとまった物など書いたことがない。 書いてみたい! そういう場合、どうすればよいか。 この本の場合を例にとって、実況中継をしてみよう。 まず、誰でも同じだろうが、資料集めである。 私の場合も、本集めからスタートする。最初の一冊が大事である。 なじみの大型書店に出かける。書棚にある数冊を手にとり、よさそうな本 を1冊だけ買う。 帰宅して、この時だけは、まじめに読む。斜め読み、拾い読みはしない。 そして「読書メモ」をとる活動がはじまる。 この「読書と読書メモ」の2つは、夫婦みたいな関係である。仲よくしな いと、あとあと子供ができない。 メモといっても、一字一句ノートに記入の必要はない。 文章の大事なところにカラーの水性ペンで線を引いたり、端を折ったり、 ポストイットを付けたり、長文はコピーする。 コピー機が自宅にあると何かと便利である。私は2台もっている。 図書館にも行く。百科事典、新聞縮刷版、人名録のほか、日経のCDーR OMなども利用する。 毎朝、新聞を読んで、切り抜ぬいて、手元の緑色のセロケースにいれる。 携帯できるので、時々見たりする。 こうして、本屋めぐりなどしているうちに、次第に構想が固まってくる。 ある朝、軽快な気分のときに「仮目次」をパソコンに入力する。 この章節の構成に、パソコンソフトのアイディア・プロセッサーを使えと いうひとがいる。 私もやってみたが、思いつきが、図形で展開し、それがすぐ目次になるだ けで、「霊感」という感じではなかった。 巻末の参考文献紹介を書く。入力のおけいこである。 さあ、これからが、本番。 外山磁比古さんが「思考の整理学」で述べておられるように、ただ、読ん  だ本の内容を転記するのでは、価値がない。自伝にしても、ただ思い出す  まま書いていくのでは、いまひとつ面白くない。 ここでは、「思考とアイデアィア・メモ」が夫婦関係になる。 今度の夫婦関係は、さっきの「読書と読書メモ」よりも、難しい。 子供を産むだけならどの夫婦でもできるが、協力していい子に育てるのは 難しいのと同じである。 外山さんは「無我夢中、散歩中、入浴中」の三中の間にアイディアがひら めくといわれるが、私の場合は、起床時など枕元で寝そべっているときが  多いので、必ずメモと筆記用具を枕元に置くようにしている。 メモは、名刺サイズの倍の大きさが、具合がいい。1冊100円くらいで  文房具屋で売っている。 メモは、Yシャツのポケットにも入れ、毎朝1枚補充する。 雑談中、喫茶店、運転中など、とにかく外出先で何かひらめいたら、単語 だけをメモする。TV番組でも何でもヒントがあったらメモする。 「アイディア・メモ」に記載した事項は、まるで買い物をいそいそと冷蔵 庫に収まうように、帰宅すると、着替えも後回しにして、パソコンに収納  する。放っておくと、お肉なんか腐るでしょ。それと同じ。 アイディア・メモを、1行づつ確認しながら消していく。 収納が終わったら、用済みのメモは気持ち良くゴミ箱に捨てにいく。この 時の快感といったらない。 入力は毎日の食事、捨てるのは排便の感じである。 以上が、「読書と読書メモ」と「思考とアイディア・メモ」の二組の夫婦 のご紹介である。 この他、欲をいえば........という仕事がある。 調味料、味つけである。 気が向くと、取材旅行に出る。ここでデジタル・カメラが活躍する。 ニューヨークのセントラルパークやソーホーの街角で、老人たちのライフ スタイルを撮影する。本屋では、本の題名や出版社も接写する。 帰国後にパソコンに入力し、写真は消す。 写真といえども、あくまでも「メモ感覚」を忘れない。 インターネットでは、朝日新聞、NYタイムズ、CNNをみる。 最近は、参考文献の欄とならんで、参考サイトなんて書いている本もみか ける。かっこいいもんである。 さて、いよいよ、原稿執筆である。 「随分待ちましたよ。すぐ書きはじめるのかと思った」 そういう人はうらやましい。私のように浅学非才のひとは、準備体操をし ないと、途中で息切れするのである。 迷わず書きはじめる。いつも不思議に思うのだが、なぜか書いているうち に次第に考えが整理されていく。 コツは何もない。気力、体力、知力の集中以外の何物でもない。 運を天に任せるのである。私の場合は、朝型なので、5時に起きる。 それを習慣にすると、毎朝、朝日が射しこみ、天が微笑んでくれる。 ひとまず書きあげると、心のなかで祝杯をあげる。 そして、しばらく原稿から離れる。 発酵させるのである。 絶えず、ワクワクしながら、書き上げた原稿のことを考えて過ごす。 そのうち外山滋比古さんのいわれる「思考の純化」、野口悠紀雄さんが いわれるところの「結晶過程」がはじまる。 脳中の原稿のうえを、繰り返し走査線が走って、やがて美しい川の流れ になり、混沌から秩序が浮かびあがってくる。  そこで、すこし手を入れて、原稿が完成する。 ところが、実は、これで終わりではない。 いつも、最初は、うまく書けたと思うものである。  ところが、後で読み返すと、まずいところだらけの自己嫌悪。  そういう時は、思いきって出来の悪い部分の原稿を捨てる。  「大移動」をすることも何回かある。これもパソコンでは簡単である。 前後左右、分量が多かろうが少なかろうが、切り取り、貼り付けで、大 移動が簡単にできる。 やったことのある人はお分かりだろうが、これが何ともいえない快感な のである。パソコン以前は、大変だった長文の引越しが、あっと言う間  に終わる。目次の順番や見出しまで変わる。 この本もそうだった。 こうして、あとは安らぎの作業時間が訪れる。 音読や事実確認である。 「はい、そこは、佐々木クン、ちょっとくどいよ。そこは、ひと呼吸お いて! ところで、データを確かめたかい?」 ここまでくれは、もはや知力、体力、気力がいらないので、ヒマな時に 気軽に手をつける。 チェックの際の合言葉は、最小限でも「セワカケロ」。 正確、分かりやすい、簡潔、欠礼しない、ロスがないの5点である。 そして、半年後、本はようやく出版される。 この後の時間は、矢のごとく流れる。 資料集め、読書と読書メモ、思考とアイディアメモ、執筆と推敲といっ た手間のかかる苦しい時間とは全く異質の時間である。 本は、店頭に並ぶ。平積みされたり、棚に置かれたり、誰にも分からな い場所に隠されたりと、波乱万丈である。書評が出ることもある。  出ないこともある。そのほうが多いか.... ほんとうに、本を書くというのは大変な作業なのである。 「でも、先生なら印税がたくさん入ってくるからいいね」だって? 「ご冗談を!」 印税が、たくさん入るようになるまでには、どれだけ頑張らねばならな いことか。ほとんど持ち出しなんですよ。 人生80年、あるいは100年、遺伝子工学が発達すると125年。 まあ、気長にやりましょう。 何ったって、物書きにかぎらず、若い時の夢に挑戦するのは悪くないも のです。  入力革命:パソコンとスキャナーは、新婚夫婦 最近は パソコンやインターネットという言葉が連日のようにマスコミに 登場する。 誰でも「ウインドウズ95」を知っている。 ウインドウズ95が発売されたときの秋葉原は、すさまじかった。  深夜の発売を待ちかねて、大勢のひとが行列して買い求めた。 2年後、パソコンブームは急速に冷め、家庭需要が伸びない。 その理由は、私も1992年に出した「至福の経営」で警告したが、誰も が思っていることを業界が、無視し続けたからである。 「しかし、そのまえに国際的にもスターであるこの業界は、生活者の立場 に立って基本的なことを、ひとつひとつ、詰めていってほしいのである。 つぎつぎと新機種を出していくのにはすごみすら覚えるが、一方で誰も喜  ばない、儲からない製品をつくってどうするのか他人事ながら気になる。 筆者の場合、購入したばかりの数十万円もする386のCPUを装備した 最新型のパソコン本体は、あと半年もすれば旧式になり、486でないと  ダメという。現に百科事典などのソフトを利用しようとすると、CD−R  OMを搭載した機種に買い替えるか、周辺装置を追加購入しなければなら  ない。 マニュアルを丁寧につくる、機能を複雑にばかりしないで誤操作のないよ うに単純化する、既存機能やソフトとの連続性を保つ、異なるメーカー間  のソフトの互換性を高めるなど、業界には、やりのこしの仕事が沢山残っ  ている」 私は、その後386のデスクトップ型パソコンを弟の息子に譲って、秋葉  原のパソコン・ショップを探し回り、ノート・パソコンを購入した。 夏のボーナスで買ったが、もう冬のボーナス時には、ウィンドウズ95が この486の機種では動かないことが判明した。 まだ使いこんでもいないその機種を息子に譲り、新たな機種を模索しはじ めた。30万円もした機種の値段は、半年後に半値以下になっていた。そ  れが業界常識だという。 95年の年末、ウインドウズ95のブームに湧く秋葉原で、私は、17イ ンチ・ディスプレーのデスクトップ型パソコンを買った。 おまけのソフトも沢山ついていたが、さんざん試した後、ついに私は自分 が体験したもろもろの感情に気づいた。 それらは、カキクケコであった。 悲しさ、恐怖、苦痛、嫌悪感、困惑である。 また、「サイシハトウ;妻子は問う」であった。 つまり、寂しさ、苛々、悄然、恥、当惑、鬱をみて、「どうしたの、何か あったの?」と妻が聞くのである。 ワードという日本語ワープロソフトだけ使いこむことにしたが、やがて私 は、またも、真理に目覚めた。 おれは、キーパンチャーになるためにパソコンを買ったのではない。 入力など、やりたくない! そこで、思い切って、スキャナーを購入した。コピー機のようなものであ  って、1頁分の文章があっと言う間にパソコンに取り込める。 いわば、パソコンという独身男性に、若いブロンド美人のスキャナーさん が嫁にきたようなものである。 ただし、お嫁さんの家事能力はいま一つで、とんでもない読み違いをする ことも多々ある。正解率7割といったところである。 「神」は「ネ 申」になる。神をもおそれぬエラーぶりである。 最初は、一字一字訂正していたが、ある時、憤然としてつぶやいた。 冗談じゃない、実家の仕込み不足を、なぜ俺がカバーしてやらねばならな いんだ。 そこで逆発想でいくことにした。スキャナーさんをこき使うのである。 間違った文字などは直さない。一種のアイディア・プロセッサーとして使 って、どんどん入れた原稿を消していく。 1頁分の他人の文章を入力し、残すのは、たった1行。 いわば、嫁さんのアラ探しはせずに、ほんのちょっぴりでも、よいところ に目を向けるようなものである。 そんなに入力したらハードディスクがパンクするのではないか。そんな心 配は無用である。画像追求で大容量化し、1Gは普通だから、新書ならば 何と4000冊分も入る。 「キー入力から、スキャナー入力、大量消去」への発想の転換である。 モットーは「入るを図って、消すを惜しまず」である。 その後の知的生産性の向上には、目をみはるものがあった。 ある大学の謹厳実直な先生にお話したら、「君、それは、盗用だよ」とい われた。 しかし、その先生のご本だってすべてが独創的な文章ではない。背景や経 緯やデータなどは、周知の事実だから、基本的には、鉛筆で書こうが、万 年筆で書こうが、引用であり、転記である。同じことをパソコンでやると 急に盗用になるというのはおかしい。 先生の持っている文献の数は限られている。しょっちゅう図書館通いをし て、他からみれば不能率だが、本人は幸わせな人生を送っておられる。 一方、こちらは蔵書4000冊もの図書館を、机の上のパソコンに持って いるようなものだから、画面に呼び出して貼りつければ、もう文章は完成 である。 そんな説得も効を奏してか、わが大学の同僚にもスキャナーさんのフアン が増えた。数年前とはちがって価格も下がり、誰でも手が届く。 学生にもフアンが増えた。レポート作成時のお得意の「文献丸写し」が スキャナーさんによってスピードアップするのだから、こたえられない。 私はゼミで試みに「スキャナー丸写し術」を黙認する代わりに、浮いた時 間と労力を独創的な意見を付加する方向へ向けよ、独創性によってレポー トを評価すると宣言してみた。 学生は、仲間と手分けしてデータベースをつくる。FDだって新書4冊分 の情報が入るから、それを交換しあうことで、あっという間に分厚い論文 をつくってしまう。空いた時間を、いい参考文献を探したり、仲間と議論 して論点をつめたり、文章を推敲したりするようになった。 この方法は、この道の達人、野口悠紀雄さんの「{超}整理法」にも書か れていないようである。 「パソコンをどう使うか」の諏訪邦夫さんらが少し手がけている程度であ るが、誰でも、スキャナーさんを家に迎えれば、数百頁の本を数ケ月で書 き、電子出版できる時代がきた。老後には、大量の本が書ける。 家内安全、商売繁盛である。 昔は、体力のある者だけが東海道を徒歩で数ケ月もかかって都へ行けたの が、いまは、新幹線のおかげで病人でも数時間でいけるようになった、そ うした交通革命に匹敵する革命が、入力革命で起きる。 いわばパソコンとスキャナーは、仲のいい新婚夫婦なのである。  21世紀には、パソコンなどのデジタル情報が主流になるというのに、ま  だ、世間には「情報入手は書物から」と決め込んでいるひとが多い。 「60の手習い」と及び腰で取り組むのは止めよう。 若いもんに馬鹿にされるだけである。 それより、パソコンに、美人スキャナーさんを添いとげさせてやってほし い。 何たって「入力革命」の時代なのである。 大量の情報が世のなかにあるのに、そのわずかなものだけに接して、この 世を去るのは、お互い、残念ではないか。 若いひとはお金もないうえに、テキスト(文字情報)には興味がない。 画像、動画、通信、音楽、音声入力などのほうに興味をもっている。 幸い、われわれ老人は、小金持ちで時間持ちであるうえに、長い人生経験 があるから、好奇心さえあれば、パソコンにスキャナーさんを嫁入りさせ るだけで、文字情報の分野で、時代のトップランナーになれる。 なかには、その前にまずパソコンに慣れるには、どうしたらよいかという 方も、おられるかも知れない。 そういう方には、まずは「パソコン日記」を書きはじめることをおすすめ する。 万年筆で書いた日記は、汚れたり燃えたり、保存に困るが、パソコン日記 ならば、電脳空間に永久に残る。 字の大きさを目に優しい程度まで拡大できるのもありがたい。 毎日、パソコンに向かうと古女房のようになってくる。 これを「機械との共生」Techno Synbiosisというそうである。 女房子供に相手にされなくても、何とも思わない心境になる。 おれは忙 しいんだ、邪魔するな。 テレビをみていると古女房に馬鹿にされるが、パソコンをやっていると単 なるヒマつぶしとみなされない可能性がある。 あるいは、尊敬されるかも知れない。 そうなれば、励みになって、上達疑いなしである。 それに何より安上がりで、ボケ予防のよい頭の体操になるではないか。 インターネットと翻訳ソフトでハンティング スキャナーさんに大活躍してもらって、何千冊もの本をパソコンにいれる と私がいうと、次のような質問が返ってくる。 「でも、本代が大変でしょう。何千冊もの本を買うのは」 「いやあ、ほとんどタダですよ」 「え?」 「秘密はインターネットですよ」 「ほう?」 そんな会話のあと、私はスキャナーさんとの新婚生活もいいけれども、 インターネットでの情報ハンティングは、もっとスリリングだという。 かつて電通にお願いして、所蔵図書のなかから3年分、360冊の広告・ マーケテイング関係の専門誌をお借りして、大学の助手4人にお願いし、 手分けして読んでもらったことがある。 重要と思われる数行の文章にアンダーラインを引いてもらう。 それをアルバイトのひとたちに頼んで、梅棹忠夫さん発明の京大型カード に著者、出典、内容などを転記してもらう。 カード枚数は、1200枚になった。 それからが、私たちの出番である。川喜田二郎氏直伝のKJ法でカードを あちこち並べ変え、順番を考える。そして重ねたカードを手に、テープに 吹き込む。テープおこしをしてもらって、上ってきた文章に手をいれると 簡単に「新しい広告」という本ができた。 広告・マーケティング界で起こっていることの全体像が分かった。 梅棹、川喜田の両先生がご覧になったら、さぞ喜ばれたであろうやりかた もトライできた。さらに著者毎に3年間の優れた発言件数の推移も分かっ たので、以後、仕事の依頼をするときの参考にした。 いまの私には、そうした大がかりなプロジェクト・ワークはできない。 人手も、お金も、かかるからである。 しかし、インターネットのおかげで、私はひとりでお金もかけずに、そう したプロジェクト・ワークに匹敵するような情報収集や分類作業をやれる ようになっている。それもごく最近、95年頃からである。 立花隆さんは、近年、東京大学先端科学技術センター客員教授になられた が、それがきっかけになって、それまで「玉石混交」と馬鹿にしていた インターネットの世界の素晴らしさに目覚めて「インターネット探検」を 書かれた。 著書に「宇宙からの帰還」があり、宇宙飛行士にもインタビューしている くらいだから、この分野の専門家でもある。 その彼が、NASAのホームページたるや、その情報量は世界一ではない かと興奮しておられる。 収められている情報は、12カテゴリー、152項目あるが、そのひとつ ひとつがNASAならではの膨大なオリジナル情報である。 スペースシャトルのフライトがあると、刻一刻その情報が映像つきで送ら れてくる。木星に向かった衛星ガリレオが捉えた彗星衝突の瞬間の映像も みることができる。日本人宇宙飛行士の宇宙遊泳だって見られる。 しかも、いろいろなページにはリンクが張ってある。外国の宇宙開発関連 機関に飛ぶことができる。 人類のもっている宇宙開発の広がりと奥行きのすべてが、インターネット をクリックするだけで、居ながらにして、誰でも入手できるのである。 しかも、それは、CNNなどのニュースで伝えられる情報よりも、はるか に詳しい情報である。その気になれば、誰でも専門家になれる。 私もインターネットを体験して、立花さんと同じ感動を覚えると同時に、  これは新たな狩猟時代のはじまりではないかという感想を持った。 機械文明の発達で若いうちから何でも手軽に与えられたために、多くのひ とたちは、受動的になっている。TVのスイッチを押せば、簡単に番組が  みられる。 自動車に乗れば、簡単に遠方に行ける。学校では先生が手とり足とり教え てくれる。男女交際だろうが、夫婦の関係だろうが、老後の過ごし方だっ  て、みんな教えてくれる。 「簡単、便利、かっこいい」の世界ができ上った。 その反面、肉体的・精神的な半病人が大勢生まれてきた。  無気力、無感動、目標喪失である。 そうしたひとにとって巷に溢れる解説書がいうように、インターネットは  決して優しくない。 サルでもできるという類の入門書にしたがって、インターネットと簡単に つき合おうとすれば、それは可能である。 しかし、得るところが少ないのも、厳然たる事実である。 狩猟時代に大きな獲物は簡単に捕獲できただろうか。 そんなことは決してなかった。 1969年に、私は「マーケティング“狩猟時代”がくる」という論文を 書き、そのなかで「6つの行動原理」を提示した。 その予言が、情報化時代が進展し、インターネットが発達するにつれて、 現実味を帯びてきたのである。 それは以下の6項目である。 1 内なる目標を重視せよ 2 なわ張りに目印を 3 獲物は生けどりに 4 放浪こそわが師 5 チャンスを逃すな 6 ただ現在あるのみ 最初の項目について簡単に触れると、採取=工業化時代には、採取した顧 客数、あるいは売上高、利潤、シェア、成長率などで成果がはかれた。 それに対して、狩猟=情報化時代では、1日中駆けずりまわっても、1頭 も仕留められることもある。顕在的な目標は無効になる。よき狩猟者は、  ひたすら自己の信念の命ずるままに技量をみがき、価値を高めることに努  めるしかない。 インターネットでは、行動原理が変わる。 WWW(World Wide Web;世界中の情報のクモの巣)を駆けづり回り、 (サーフィンという)、希望通りに、獲物(貴重な情報)をどっさり集める ことができる幸運な時もある。 膨大な電脳空間を駆けづり回って、空振りに終わる不運な時もある。 その徒労感で挫折しないのは、6つの行動原理であり、私たちは、もう狩 猟=情報化時代に突入してしまっているという認識である。 どうあがいても過去の「採取=工業化社会」には、逆もどりできないので ある。 そう思っているが、初心者には、あくまでも私はやさしく語りかける。 「本を書く材料を集めるのは、いまや、とても簡単ですよ」 「でも、どうやって探すのですか」 「Yahoo ! です」 「ヤッホー?」 「ヤフー。イェイフーとも発音します。検索エンジンですよ」 「エンジン?」 百科辞典で知りたいことを調べるとき、どうしますかと伺う。 例えば、シェークスピアを調べるときは、その単語を探す。  インターネットでも同じである。目次の役割を果たすのを、検索エンジン と呼び、その代表例が、Yahoo! である。 そして、目指す言葉に行き当たったら、リンクを探す。 リンクというのは、関連書物に当たる。 それが、インターネットでは、次々とリンクしているので、いくらでも情 報が集まってくる。 実は、この本のはしがきで使わせていただいた、フロリダでゴルフ三味の 老夫婦の話も、ネットサーフィンしているときに、たまたま発見したもの である。 日本の悲惨な痴呆老人を抱えた家庭の話も、インターネットでいくら探し ても目的の情報がないので、仕方なく「高齢化Gerontology」をキーワード にして検索エンジンで探しているうち、偶然みつけたものである。 鹿を追っているのに、兎に出くわしたようなものである。 それでも、食うに困っていればありがたい。原稿の材料集めに駆けづり回  っている時には、よもやの情報でもありがたい。 ところで、最近は、本を探すのにも、インターネットが圧倒的に威力を発 揮するようになった。 先にご紹介したバーンズ&ノーブルも、そのライバルで「世界一の書店」 を謳いながら店舗をもたないアマゾン・コムでも、日本では紀伊国屋など も、書籍のインターネット注文サービスに力を入れている。 アマゾンは250万冊、後発の紀伊国屋でも、和書130万点、洋書19 0万点はある。大きな本屋で10万点、国会図書館でも400万点くらい  だから、そのすごさが分かろうというものである。 作者名、題名を、キーワードや分野別に検索していくと、私の専門とする る自動車関係の本だけでも、よくもまあこれだけ知らない本があったのか  と恥じいる。英書を注文すると、すぐ入手できた。夢のようである。 それにしても、膨大な情報から、なぜキーワードで簡単に検索ができるの かと不思議に思っていたら、何ということはない。英語は、単語と単語の  間が必ず離れているからだそうである。へえ。 “ I love you” と「私はあなたを愛しています」を比べてほしい。 前者は、3つの単語が見事に離れている。後者は、字がべた打ちである。 愚かなコンピュータくんは、「私、はあ、鉈を あー、いじって います」 なんて若いもんの悪癖を、察知してしまうのである。 いまやインターネットのおかげで、われわれ素人でも、お金の工面さえ つけば、膨大な書物をいつでも読めるという可能性が出てきた。 インターネット上で、タダで引き出せる情報は、37億ページを超えた。 日本発も増えてきたが、大部分はアメリカ発の情報である。  「でも、英語でしょう」 「英語なんて簡単ですよ」 「そりゃ、先生みたいな特別の人だけでしょ」 「会話はダメでも、ある程度は、読めるでしょう」 「ええ、まあ」 「なら、英語を日本語に翻訳すればいいんです」 「先生、それが簡単に出来れば、苦労しませんよ」 「コリャ英和って知ってますか」 「こりゃあ、ええわ?」 「翻訳ソフトです」 つまり、インターネットで次々とホームページをサーフィンしていくと、 いくらでも入手したい情報が入ってくる。面白いものを片っぱしから自動 翻訳ソフトを使って、日本語にすればよいのである。 コーヒーを一口飲んでいる間、ワイワイガヤガヤやっている間に立派な訳 文がでてくるはずである。 もし、興味をもたれたら、古瀬幸広さんたちの「インターネットが変える 社会」を読むことをおすすめする。 この本は、いい本である。 インターネットは、実は、生涯学習のために作られた、とある。 世界のひとと通じ合うには、英語でなくてよい。漢字をあまり使わない、 短文にする、論旨明快の3原則を守った日本語で発信せよという助言もあ る。大いに感心し、この本にも、3原則を採用することにした。 おかげで全文書き直し、お目々ショボショボ状態である。 ホームページくらい数時間でつくれるから、世界に発信せよとある。 実は、私も、学生に手伝ってもらったのがあるが、出来栄えがあまりにも 幼稚なので、数人にしか、その存在を教えていない。 最近、ニューヨークにいる娘と電子メールでやりとりするようになった。 これは、いたって簡単である。FAXと変わらない。 時には、娘の顔をみたいと痛切に思うこともある。 この本には、将来インターネット電話が普及すると、国際電話料金が劇的 に安くなり、TV電話もできるようになる、とある。 私は、つくづく思った。 この世は、いろいろイヤなことだらけだが、生きのびると、結構いいこと も、「ありそうだなあ」 「あー、理想、 だなあ」


第7章 亭主を操縦せよ

美人薄命?(略) 家庭円満のコツ:愛犬チロと子供たち(略) 男の自立ー何でもやったろうといわせる方法(略)


第8章 夫婦共通の趣味とスポーツをもとう

自転車で散歩にでもいこうか 趣味をもっているひとは、みな、好いひとである。 どんな趣味でもよい。 何かの拍子に、話題が趣味に及ぼうものなら、別人格があらわれる。 顔に赤味がさし、目が輝き、身振り手ぶりが激しくなる。 難しい仕事の話のあとなど、あまりの変わりように、驚くこともある。 日本経済新聞のようなお固い新聞に、時々エライひとが、私の趣味など  と題して登場する。まるでひとが変わったような話しぶりである。 そこまでは、いいのである。 許せる。 しかし、得意になって「いい趣味でしょ」なんて、自慢されると、 どうかなと思う。 「比するが鼻」 社長、失礼。パソコンの転換ミスです.....。 「秘するが花」だった。 そんなわけで、趣味なんてものは、人前でひけらかしたり、披露するもの ではない。「男は黙って.....」の世界にとどめておくべきなのである。 それが、何かの拍子でポロッと漏れる。 ふむ、と思って覗き込む。 すると、そのひとの全生涯をかけた曼荼羅があらわれる。 趣味ってものは、そうでなくてはならない。 「しかし、あなた、そう綿密になられても.......」 「そうですね」 「いいじゃないですか。昨日はじめたばかりでも、趣味は趣味」 「なるほど」 「趣味に、貴賤の区別なし」 「今日は、やけに冴えてますなあ」 「いやあ、この週末は...(秘)...をやりにいくものですから」 趣味の話題は、趣味そのものよりも、それにまつわる人格の変化のほうに  焦点を当てたほうが面白い。これが私の持論。 さて、原稿書きに飽きたから、自転車で散歩にでも行こうか。   「何? 自転車に乗る? ゴルフもやらずに? 天地天命に誓って、それがおまえの趣味なのか。許せぬ!」 まあ、まあ、そう興奮しないでほしい。 かの有名な明治時代の文豪・夏目漱石は、かつて英国はロンドンに留学し た。 そこで、当時英国の上流階級に流行していた自転車にはじめて乗った。 「乗った」というと、誤解されるおそれがある。 「落ちた」のである。 要するに、かれは自転車を練習したが、乗れなかった。 生涯、乗れなかった。文豪だったが、自転車には乗れなかった。 「綿密・意地・自暴自棄」の明治の気分が、あの傑作「わが輩は 猫である」を書かせたといわれる。 ほんと? ほんとうの話です。 そして時代を隔てて、わたしは、ある雑誌に「わが輩は自転車乗り」 と題するエッセイを書いた。 ほんと? ほんとうの話です。さっきのは怪しいけれど、今度は本人が いうのだから間違いない。 その書き出しだけでも、披露させてください。 「世の中には、お金をたくさん持っている人と持っていない人がいる。 泳ぐのがうまい人もいれば、下手なひともいる。 そして、自転車に乗れる人と乗れない人がいる。(中略) 私は、運動が苦手で、逆立ちも、鉄棒の蹴り上がりも、跳び箱の5段飛   びもできなかったが、中学時代には自転車に乗れるようになっていた。 私の妻は、ずっとおくてで、24歳で結婚したが、35歳になるまで 自転車には乗れなかった。 はしかは子どものうちにかかっていたほうがいいといわれるが、自転車 乗りになるのも早いほうがいいようである。 妻は、ひざやひじをすりむき、さらに肩にまで打撲傷を負って一人前の 自転車乗りになった」 どうです? 実は、この文章は、妻には見せていない。自行車好というペンネームで   書いた。 妻にはすべてに頭が上らない。子ども4人の上3人が男という家庭に育   った女は、おそるべき強敵である。 何しろ、男のなかで揉まれているから、男のやることは大体できる。 例えば、妻とマージャンをやる。負ける。 例えば、妻と囲碁をやる。まるで勝負にならない。 例えば、妻とテニスをはじめる。相手はすぐうまくなる。 そういう境地に追い込まれた男は、どうやってプライドを守るのか。   読者よ、上記の文章をそうした背景を知ったうえで再読されよ。 さて、私は、両手を放しても自転車に乗れる。 そのわずかな時間が、至福のひとときである。 私は、文豪に思いをいたし、かれは自転車に乗れなかったなあと、あ   われむ。 妻を思い出し、まだ手放しでは自転車に乗れないなあ、とあわれむ。 風は、いよいよさわやか、鼻歌は、ますます盛んの境地を味わう。 まれに、自動車が飛び出してきて転倒しかけることもあるが...... もうすこし、引用させていただきたい。 「40歳になってコレステロールが多いと診断されて、私はにわかに 水泳とジョギングをはじめ、やがてトライアスロンの存在も知った。 ハワイ島のコナではじまったこの地上で最も過酷なレースは、水泳が3. 5キロ、自転車180キロ、そしてマラソン42.195キロで勝敗が争   われる。 私は、水泳が1キロ、ジョギングが10キロしかできないのにアイアンマ ンたらんと志し、あとは自転車だけと思い立ったのである。 しかし、ホノルルの公園でジョギングをしたら、女性にぬかれ、暑さにや られて一日寝こんでしまった。 ハワイ島のコナにもいったが、地平線まで続く溶岩台地に切られたコンク リート道路の熱気に、クルマから降り立っただけで走るのをやめた。 もともと幼時から病弱だった人間が、アイアンマンになれるはずはない のである。 こうして野望は消えたが、いつかはあのトライアスリートたちが乗ってい るロードレーサーに、という夢は残った。 そして50歳になって、わたしはドロップ・ハンドルのスポーツ車を買っ た。 妻には、いい年をして、と冷やかされた。 しかし、50歳の人間が、いい汗をかき、シャワーを浴び、ビールをおい しく飲んで、どこが悪い」 58歳になって、この文章を読むと、われながら若い。 青春してるなあ、まだ妻に反抗しているなあ、という感じである。 読者諸兄よ、若いときにしかでにないことがある。スポーツ系の趣味は、 ほとんどそうである。 やれるうちに、やって、沢山の思い出を溜めこんでおこう。 ただ、忘れてならないのは、50代の自転車は、スポーツ、つまり筋力 運動やスピード競技であってはならないということである。 もう少し、引用させていただく。 「 自転車乗りになって気づいたのは、自動車では入れなかったところへ入 れること、駐車できなかったところへ駐輪できることである。 人ごみがいい。焼き鳥のにおい、八百屋の叫ぶ声、乳母車の母子の会話 が近しいものになった。 また、春先など、そよ風をほおに感じながら、日だまりの森の小道を走る のは最高である。 息子と多摩川のサイクリングコースを並んで走るのもいい感じである。 自転車を発明したドイツのドライス男爵は、営林署長で、下り坂の多い 地域を見回って歩いたらしいが、技術革新が進み、新素材で車体が軽量 化されたといっても、自転車には下り坂がふさわしい。 ことにきつい長い上り坂を登り終えた後の、下り坂を本当に味わえるの は、50歳の特権である」 ところが、60歳に近づくと、自転車をこぐよりも、散歩のほうに重点が 移ってきた。 あるところまでは自転車でいくが、それから散歩する時間のほうが長いの である。 肉体的な衰えもあるかもしれない..... ところで、「散歩」という言葉が発明されたのは、いつの時代から、ご存 じだろうか。 「平安時代? じゃ、江戸時代?」 勝海舟が幕末に来日した異人がぶらぶら目的もなく歩いているので、 「貴殿は、何をしていなさる」と聞いた。 「プロムナード。食後に効能あり」と答えたのがはじまりだそうである。 ほんと? ほんとうの話です。 そうなのである。自転車散歩というのは、夏目漱石と勝海舟の両偉人をし のぶ文明開花の旅ということになる。 これほど、高尚で知的なスポーツ系の趣味は、他にあるだろうか。 ゴルフ?、野球?、相撲? ノー! 残念なのは、自転車を買い物や通勤通学に使っているひとの多くが、夏目 漱石のことを知らないということである。 高貴な生まれであることの自覚がないから、駅前に放置したりする。 それが、自転車の地位向上のさまたげになっている。 近年、地球温暖化を考え、クルマをやめて自転車にしよう!なんていう風 潮がでてきたことは、自転車にとっては歓迎すべき事態である。 しかし、それも、私にいわせれば、邪道である。 いかに正義に叶おうとも、邪心があっては、趣味とはいえない。 趣味は、何物も求めない無償の行為である。 老後まで結果を考えてはいけない。 さて自転車で散歩にでもいくか。 心のおもむくままに........ 幼いときに戻って...... 風に乗って..... サイクリング、サイクリング、ヤホー、ヤホー 妻の趣味は陶器鑑賞とパンフラワー(略) 「夫婦の旅」の思い出を大切に(略)


第9章 週末田舎暮らし

どこに住むか、それが問題だ 「孟母、三遷の教え」という言葉をご存じだろう。 これは、中国の有名な哲学者、孟子の母が孟子の将来を考えて家を3回 も転居したことをいう。 わが家は、この言葉を地でいったケースである。 疎開先からの移転先は、渋谷。駒場の東大のそばだった。 中学は松涛中である。松涛といえば田園調布と並ぶ高級住宅地である。 現代の孟母が、息子を東大に入れるため、ここを選んだ。 後にそんなことをいうひとも出てきたが、とんでもない。 選んだのは、同居していた独身の叔父で、職場の近くで家賃か安いとい う、どこでもある理由だった。 私は、そのボロ家がイヤでイヤでたまらなかった。 しかし、「地の利」というものは否定できない。 私たち兄弟の少年時代の遊び場は、東大の構内だった。 桜並木に取り巻かれた運動場、テニスコートは、守衛さんの目を盗んで  ずいぶん使わせてもらった。 実験用の蛙の養殖池があって、何回か征伐にでかけた。 おいおい、「やせ蛙、負けるな一茶、ここにあり」だって? スミマセン、ゴメンナサイ。イクラデモ アヤマリマス。 そんなわけで、駒場は子供の遊び場だったが、ほんとに住んでてよかっ たと思ったのは、東大を受験したときである。 私は、試験官のいる部屋で答案を前に「緊張しまくら千代子状態」の 受験生たちの中にいた。 緊張するなといっても無理である。あの長い勉強の成果が問われる。 親の期待を一身に背負っての挑戦である。 合格すれば、故郷の村をあげての提灯行列が繰り広げられる! (本当の話です。そんな地域もあった) そんななかで、私は隣の学生をみた。長野県から上京してきたという彼 は、顔が蒼白である。みると、机の下では、ひざが震えている。 おれは、しあわせだなあと、そのとき不意に思った。 どうせ受かるハズはないし、ここはおれの遊び場だ。 そんなわけで気楽に試験を受けられた。 試験終了後、新宿のミラノ座に、話題のミュージカル「オクラホマ」を  みにいった。 終わった、終わった。みんな終った。おれは自由だ。 "♪Oh what a beautiful morning おお、何という美しい朝 Oh what a beautiful day   何という美しい日 I got a beautiful feeling わたしは、いい気分 Everything going my way 今日は、すべてがうまく行きそう  この歌が唇をついて出るときは、上機嫌な証拠。 さて、就職して名古屋に住んだ。 ここで私は、「そうきゃあも」ショックを受けたが、新婚の妻のほうは、 もっとひどい。 何しろ、東京の山の手、下北沢の都会暮らししか知らない。誰もいない 田圃のなかの一軒屋で、さびしくて泣き暮らす毎日だった。 ここは、いかん。いまでいえば、成田離婚状態になりかねない。 私の「どこに住むか、それが問題だ」意識は、急速に高まった。 幸い、転勤で、わが新婚夫婦は、神奈川県の生田にある社宅暮らしをし た。郊外住宅地で緑も多い。坂の上なのでちょっと買い物が大変。 九段の会社までクルマで1時間かかるが、サラリーマンの通勤時間とし ては、平均的なほうだろう。 ここに10年あまり、住んだ。 子供は2人までと決めていたが、案に相違して2人目が双子になった。 もともと小柄な妻のお腹は、ふくらんで、遂には過酷な練習で使いこま  れたラクビーボールの皮のように表皮が剥げ、ピカピカの筋肉が露呈して  きた。 子供が育ってくると、いかにも2DKの社宅は手狭である。 妻にせっつかれて、家探しがはじまる。 「東急田園都市の庭つき一戸建ての住宅がいいわねえ」 そんなときに、私はガンの疑いがあると宣告されたのである。 また、閻魔大王が出てきた。 手術を待つ15日間、死が目の前にある日々、私は、見舞いにきた妻を追 い返したりした。夏の暑い日、彼女の若々しい肌は汗をかいていて、黄色  いスーツがまぶしかった。生命感に溢れていた。 早くこの死人から遠ざかりなさい。 ひそかに遺書がわりに息子に残す童話を書いた。 おれが家族に残せるのは、こんなわずかなものしかないのか。 死んだら、妻と幼子はどこに住むのか。社宅からは追い出される。 家くらいつくっておけばよかったなあ。 幸い、閻魔大王が見逃してくれた。 手術室の眩しい照明の光のもとで、医師のメスが首を切開し、そしてひと つの言葉が、私を生命へと呼び戻したのである。 「こりゃあ、結核だ」 平凡な会社生活が戻ってきた。 たった3ケ月で、ヒトはこうも変わるのか?  私は、本気で土地探しをはじめたのである。 「無い袖は振れない」 そのとき、私の貯金は50万円しかなかった。 さすがに近くの東急田園都市の土地は高くて手が届かない。 母は、渋谷から離れて、ここに移ってもよい。家を買い、一諸に住もう と言ってくれたが、母の退職金をそんな風に使うのはイヤだった。 そこで、同じ東急不動産が千葉県の柏市に開発中の大規模宅地を買うこと にした。不足資金は、みな会社から借りる。62坪で500万円である。 その後、貯蓄に励んで、88年には、ようやく家も建った。 家が広くてみんな大喜こび。自分の部屋をもっている。 買い物も便利で、近くにスーパー。柏の駅前にはデパートもある。 学校も近い。緑も多く、カブト虫がとれる林もある。 テニスクラブに加入する。妻は毎日コートで練習、週末になると、私も試 合に加わる。夏にはクラブのプールで水浴び、そしてみなでビール。 まあ、妻と子供たちにとっては、幸せそのものの生活である。 私は、どうかというと、片道1時間半の通勤が待っていた。 新興住宅地が沿線に延びると、満員電車がさらに超満員電車になる。 本を読むこともできない。毎朝、肋骨が折れるかと思う。 まだ、若かったのだろう。 私は、満員電車をテーマに俳句を1000句をつくることにした。 「やはらかに 柳あおめる 朝電車」 「あらとふと 青葉まぶしき 朝電車」 「今日もまた かくてありけむ 朝電車」 諸兄は、この3つの句の共通点、そこに流れる叙情にお気付きになられた であろうか。 「否、おまえの句は季語もなく、みな「朝電車」ではないか」  その通り。満員電車のなかで完全な俳句など作っておれるか。 この通勤地獄から、いったいいつになったら脱出できるのだろうか。 200句ぐらいできたとき、転勤になった。 またもや、「そうきゃあも」の土地である。 おまけに受験期を迎えた息子とも、離ればなれになる。中学高校一貫の 全寮制の学校に預けたからである。やせた背中がかわいそうだった。 「家を建てるとすぐ転勤になる」というジンクスがあるが、わが家の場 合も、たった4年住んだけである。 その後、上司にお願いし、名古屋から強引に東京に戻ってきたときも、 柏の自宅には戻らなかった。 柏には予備校もなく、受験期の子供たちには気の毒だった。それ以上に、 私の体力が弱っていて、通勤は無理だった。 そこで、東京は久が原で、社宅暮らしをはじめたのである。 狭いお茶の間で、「名古屋は、よかったねえ」と娘たちはいう。  「そうきゃあもさえ我慢すれば、空気はきれいだし」  妻も、テニス友達が出来たから、名古屋暮らしを懐かしがったりする。 そうか、娘たちからみれば、名古屋は第2の故郷か。   「住めば都」とは、よく言ったものである。 八ケ岳南麓に山小屋をつくる 「夏休み、どこへいく?」 「今年のゴールデンウイークは、休みが長いわねえ」 おそらく日本中の家庭で、毎年繰り返されている会話であろう。 わが家の場合は、休みは蓼科の会社の保養所でと決まっていた。 「毎年行ってた蓼科はよかったねえ」と子供たちがいう。 工販合併で、蓼科の保養所は、人数増で予約がとりにくくなり、見知  らぬひとばかりで居心地が悪くなった。 会社頼みの余暇生活が、危機に直面したのである。 そんなとき、清水建設の荒木さんに誘われて、蓼科に近い小淵沢にある 泉郷でおこなわれた研究会に参加した。 通産省指定第1号リゾート・オフィスというだけあって、1戸建て、部 屋も広いし、オフィス機器もいたれり尽くせり。 「これなら役員クラスの接待にも使えるなあ」 そこで、夏休みに家族5人で体験宿泊をした。 泉郷にお願いして、家族の目でみるとどうかのチェックをするという  ことで、半額にしてもらった。それても4泊で20万円。 「うわーっ、暖炉もある」と息子。 「この台所、使いやすいわねえ」と妻。 豪華なソファに座って甲子園の高校野球をみたりして、夢のような4日 間を過ごした。 「こんな別荘があれば、いいわねえ」と妻。 「パパ、うちも別荘つくろうよ」と、いとも簡単にいう娘たち。 家族の関心は、リゾートオフィスの改善案どころか、わが家の余暇生活 の改善案のほうへ剛速球で向かってくる。相手チームは結束している。 さて、93年5月1日。 「小淵沢別荘地へ。南アみえ、清澄なカンジ。皆気にいる。数ケ所、候 補地選定」 わが手帳にはそう記入してある。 5月2日。 「再度、蓼科の保養所から小淵沢別荘地へ。1番安い候補地が目の前で  予約されてしまう。  NO.139に決定、400坪と夢のような広さ。1500万円もする。 甲府のファミレスで別荘ライフにつき語りあう」 運命とは、かくもあっけないものである。 長い間「高根の花」で庶民には無縁と思っていた別荘地を買う話が決ま ってしまった。 その後は......「光陰、矢の如し。金、なり難し」である。 住宅金融公庫の田園住宅融資の手続きに駆けずり回りながら、八ケ岳の 山麓に居を構えた荒川じんぺいさんの「僕は森へ家出します」や 田淵義雄さんの「森からの手紙」をむさぼるように読んだ。 お二方とも、東京暮らしで酸欠状態になって、思い切って森へ脱出され たのである。 そして1年後、ようやく山荘が完成し、新生活がスタートした。 ある雑誌に寄稿した一文が残っている。 「八ケ岳山麓に山荘をつくった。 南アルプスを正面に静かなカラマツ林がひろがっている。敷地400坪。 東京からクルマで2時間と近い。借金を重ねて、ようやく山荘が建ち、 週末を過ごすようになった。 春は、うぐいすやかっこうの鳴き声を聞く。 夏は、涼しいベランダでのにぎやかなパーティ。 秋は、紅葉やきのこ狩り。八ケ岳登山や白駒池めぐりの季節。 冬は、白雪を冠った富士山や北岳が神々しい季節。 窓先に野鳥が舞い、鹿の群れやりすが目の前を横切る。 林から採ってきた薪をくべると、触媒コンバーター付きハイテク・スト ーブの炎が燃え上がる。 かつて縄文人がみつめていたのと同じ炎と暖かさ。 美酒を飲み、陶然とする。 仕事の合間にニューヨーク在住の娘と通信などしていると、都会と田舎 だけではなく、自然と情報の隔たりも忘れる。 欧米では当たり前なのに、わが国では夢の生活。 それが、実は、国有林の分譲別荘地「ふれあいの郷」では、もう実現し ている。 経済大国から生活大国へ。豊かな自然と厚い人情を大切に。 ひろがる国有林はいまや世界に誇る生活舞台になろうとしている」 この一文への反響は、硬軟とりまぜて以下のようなものであった。 「ふーん、安保反対っていっていたひとがねえ」 「もしかして、あんた林野庁にコネがあるの?」 「1500万円いうて、土地代やろ。400坪で1500万、ほんまか いな。建物代は、いくらかかりなはった」 「別荘って、結局行くのは最初の数年だけで、あとは行くたびに窓を開 けて掃除してまわったり、そんなことで次第に足が遠のくのではないん ですか」 まあまあ、いいじゃないですか。 根掘り葉ほり聴いたって、別荘を買わないひとは買わないし、買うひ とは買うし。行けるひとは行くし、行けないひとは行かないし。 わが家族の場合は、たまたま運命の赤い糸で別荘と結びついていたの である。 手帳に戻ろう。購入を決めた数日前に戻る。 4月30日 「ウッドペッカーへ。淑子、綾子、クルマから降りぬ。結花、テント ト設営を手伝う。夜間冷えて、淑子と結花、同じ寝袋へ」 蓼科の保養所の予約がとりにくくなったので、私はオートキャンプに 目を向けた。 テントを買い、寝袋を買い、キッチン用品を整え、要するに道具マニ アである。自由ケ丘のLLビーン、神田のヴィクトリア、ミナミ、 小川スポーツなど、ほとんどの店に通った。その間ずっと幸福だった。 社宅の庭で練習をする。テントを張ったり、小型バーナーでお湯を沸か してコーヒーを飲んだり。 多摩川の河原で朝食をつくり、川の流れに悠久の大自然を想った。 妻は、そうした私を冷ややかに見ていた。 社宅の奥様がたも、しっかり観察され、コメントされる。 「お宅の旦那さん、まだまだ、お元気ですねえ」 そんなわけで、せっかく寝袋を4人分も揃えたのに、家族はオート キャンプに行こうとしないのである。 「投資がムダになるじゃないか」 「勝手に買ったんでしょ。返してらっしゃい!」 そこで、私は、われらが選良、国会議員の手法を採用することにした。 「強行突破」である。 蓼科にいく途中、ウッドペッカーというオートキャンプ場に寄ったとき   家族は誰も、私のよこしまな企みには気づかなかった。 「へえ、オートキャンプ場って、こんな風になっているの」 「いいだろう、今夜はここで寝よう」 「........?......#$%&......uso!」 かくして、妻と娘たちは、クルマから降りようともせず、気まずい時間   が、からまつ林のなかで静かに流れていった。 「からまつの林を過ぎて、からまつの林に入りぬ からまつは さびしかりけり.......わが妻は...... きびしかりけり 」 とはいえ、他に寝るところなどない。日も暮れてくる。 ようやく長女の結花がテント張りを手伝ってくれた。 一旦体験すれば、オートキャンプもいいもんだとわかる、シメシメ。 わがソフトハウス(テント)は、最初のゲストを迎えられる。 しかし、天は、そんな私に味方しなかった。 あろうことか、その夜に限って、山の中の気温はぐんぐん力強く下が   っていった。何と零下になったのである。寒いなんてものではない。 そして、ああ何たることか、私の買った寝袋はみな夏用だった。 母の子宮から出た娘は、母の寝袋に戻った。2枚重ねて2人で抱き合 って寝た。もうひとりの娘は、ぴったりと父と身体を寄せて寝た。   いいもんだなあと思ったのは、私だけのようである。 翌朝は、明るい陽差し。誰でも上機嫌になる春の香ばしい朝。 起きてきた妻の私への挨拶は.... 「難民キャンプは、もうイヤよ」 思うに、別荘の資金に予想外の妻のヘソクリが出てきたのは、昨夜の ような悲惨な事態から、断固、家族を守ろうというという彼女の健気な 決心からであったにちがいない。   「強き者よ、汝の名は女なり」 微力な諸兄よ、世の中は、いつもこうやって変わっていくのです。 畑仕事とガーデニング(略)


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