1 80歳の心象風景
若いころ、正直いって、定年を迎えた老後のことなど、 あまり先のことなど、考えたくないという気持ちだった。 自分の寝たきり老人の姿なんか、考えても面白くもなんとも ないと思っていた。 その私が、もう60歳、早いものである。 そんな時、ある短歌と出会った。 「 わが色欲 いまだ微かに残るころ 渋谷の駅にさしかかりけり」 歌人・斎藤茂吉の晩年の名句である。 渋谷、この街の名は、私にとって特別な響きを持っていた。 わが家族は、小学生4年生の頃、渋谷に引っ越した。 渋谷では、上原小学校、松涛中学、戸山高校、東京大学(駒場)と 青春時代を過ごした。 大学時代、休講になると、決まって渋谷の街に繰り出した。 当時、丹羽文雄さんの小説で恋文横丁が有名になった。 そのなかに行きつけの店「王民々」があって、ラーメンをすすった。 いまや、100円ショップのビルができるなど、様変わり。 名曲喫茶が流行っていて、「らんぶる」にもよく行ったっけ。 道元坂界隈も、思い出が深い。 中学のとき、授業でぞろぞろと群れをなして、ここの映画館にいった。 名画「雨に唄えば」をみた。 いまでもこの映画が好きである。 DVDが流行リ出したとき、真っ先に、この映画のソフトを買った。 名もない喫茶店に入って、庄司薫くん(芥川賞作家)と同人誌 「駒場文学」編集の打ち合わせをしたりもした。 そのとき、ダミヤのシャンソンの絶唱「ルナ ロッサ(赤い月)」 をはじめて聴いた。 オー、ルーナロッサ、ル ソワール デ テ ( 赤い月よ、夏の宵.....私は) ダミヤは、その数年前に来日して、黒い衣装で憂愁を漂わせていた。 イヴ・モンタンの「枯れ葉」 一時、かれの恋人だったエデイット・ピアフの「愛の讃歌」も 流れていたようだ。 シャンソンの名曲である。 その喫茶店も、もはや、なかった。 近くに、シアトルが本拠地の外資系のカフェができていた。 私は、サッカー部を脱落して、庄司くんに刺激されて ダンス部に入っていた。 実践や青短の女子大生たちを相手にダンス講習会をする。 「魅惑のワルツ」などに酔った彼女らを そのまま円山のホテルに連れ込む猛者もいた。 私は、オクテだったから、そこまではとてもできなかったが 飢える若きオオカミの気分は分かった。 いわば、青春、朱夏、白秋、玄冬の4つの季節のうちで 青春や朱夏のふたつの季節を渋谷で送ったのである。 渋谷は、次第に、女子高生の街になっていった。 見渡せば、ガキばかり。 振りむいても、ルーズソックスのガキ、ばっかり。 360度ガキだらけの街になってしまった。 しかし、ガキだらけになろうとも 私は、渋谷の街に愛着がある。 ここはオレの街なんだ。 すこーしばかり、おめえらに貸してやってんだという気分である。 年をとって、はじめて、茂吉の歌が少し分かるようになった。 「わが色欲 いまだ微かに残るころ 渋谷の駅にさしかかりけり」 茂吉も、「おお、若きオオカミくん、頑張れよなあ」っていう気分 だったのだろう。 私もようやく、晩年の茂吉がさしかかった白秋の季節を 味わえるようになったのである。 次は、玄冬である。 80歳を越えて渋谷に行ったら、どんな気分になるだろうか。 甘酸っぱい青春の思い出に酔いながら、おぼつかない足つきで 街をとめどもなく彷徨するだろうか。 茂吉の歌を口づさみながら。 いま歩いている女子高生が親になって その娘たちが同じように群れて笑い転げているだろうか。 ひょっとすると巣鴨のとげぬき地蔵のように 歩いているのは、昔の女子校生ばかりという街になっている かも知れない。 衰えた視力に、モネの絵のように、街は煙ってみえるだろうか。 とにかく、青春、朱夏、白秋、玄冬の4つの季節の渋谷を 味わってみたいという気分がある。 それを味わうのを避けて、突然死がよい、直角死がよいとか いうひとは、結局、「もののあはれ」を解しないひとでは なかろうか。 若いもんは、老人をみて、平気でいう。 「あんな姿にまでなって生きていたくないわ」 グサッ、とくる。 冗談じゃあない。 若い時代は、みな利己的で、思いやりや判断力に欠けている。 振り返ってみて、自分がそうだった。 そんな一時の戯れ言をまともに受け取る必要はないのである。 「おい、おめえらには分かるめえ。白秋、玄冬、いい季節だぜ」 これからは、胸を張って、そう言おうではないか。 「生きぬく」ことが、どんなに尊いことか、老醜をさらしてでも 教えてやろうではないか。