連理の木
ずっと前からこんな機会を待っていたわ。 星々や微風、それに夜の蛾たち。 この暗い夜を彩っているものたちに解されたくないの。 あたしが、今晩、恋人を迎え入れたって。 数々のにせの結婚が行われているこの夜に あたしたちの夜の結婚を祝いましょうよ... さあ... アンフィトリオン88目次
第1章 エミ 1 思い出の屋敷 2 少女との時間 3 ヒロイン 4 マスカットの歌 5 黒猫の死 6 少女の反乱 7 続き部屋
第2章 悠紀 1 連理の木 2 父のアドバイス 3 家庭教師、エリカ 4 連理の木の下で 5 ばあやの心づくし 6 青い封筒 7 ヴェネチアン・ブラインド 8 愛人 9 明るい闇の中へ
第3章 幽鬼の館 1 宇宙塵 2 記憶の河 3 マグノリア 4 衣ずれの音 5 ブレスレット 6 ためらい 7 キリストの絵 8 美の饗宴 9 クレオパトラ 10 響き 11 白いシーツ 12 狂態 13 花の匂い 14 涙の泉
第4章 夜の結婚 1 月影の散歩道 2 真実の愛 3 月桂冠 4 二人だけの結婚式 5 フランス人形 6 宝石箱 7 花影のひと 8 腹ちがいの妹 9 ばあやの告発 10 葬送行進曲
第5章 マンハッタンの月 1 アポロ 2 夫人の告白 3 亜津子物語 4 湖上の月 5 亜津子の受難 6 自分の希望 7 変らぬ愛 8 月よりの使者 9 贋作 10 種子の拡散
第6章 表舞台と舞台裏 1 待ち構えるひと 2 煌煌たるライト 3 理解と誤解 4 再会 5 色々な真相 6 ノーリターン 7 クレオパトラ 8 ブルータス 9 ヴィヴィアン・リー
第7章 コート・ダジュール 1 アヴィニョンの橋の上 2 カタコトの日本語 3 ノー・バディ・ノウズ 4 グラン・カジノ 5 怖るべき子供たち 6 ル・メリディアン 7 バイロン 8 プロムナード・デ・ザングレ 9 イエスタデイ 10 太陽の散歩道
第8章 宝石箱の秘密 1 存在しないホテル 2 クリスティーズ 3 刃と傷 4 耐えがたき長い夜 5 落下 6 千両役者 7 遅いディナー 8 氷の微笑 9 からくり 10 遺書 11 贋作者 12 殺人者 13 メトロポリタン美術館 14 馬車
第1章 エミ
「静かに、母は眠っておりますの」 白いやわらかな衣装は、暗い廊下をこともなげに歩いていったのだが、 私は闇の中を遠い記憶に踏み入るような覚束なさを感じた。 「4年前ですの。悠紀さんという方から私どもがこの屋敷を買い取りま したのは。そう、あなたには思い出の屋敷なのですね。恋をなさって」 あからさまに言われて、私はこの突然の訪問の意味がかなりロマンテ ィックなものであることに、今更ながら驚くのだった。悠紀、今も匂う 重たい花の香りに満ちたこの洋館で、私たちが過ごした青春の据傲の時、 そんなはかない時が蘇らせようというような考えが、何故起こってきた のだろうか。不連続な時間、非日常的な時間を過ごしたいという気持が 嵩じてのことなのか、あるいは、汽車の旅がゆくりなくも過去へと時間 を運び去ってしまったためなのか。要するに現在の自分から逃げ出した かったためなのだろうか。 「どうか、ごゆっくりなさって。今夜は、お泊まりになられたら」 「しかし」 「いいんですの。寂しいし。それに、先刻」 と少女は声をひそめ、重々しい調子になって 「伯父が来たのかと思って秘密をもらしてしまいましたし」 玄関に入りざま、立て続けに、拒絶の低い押し殺した叫びを浴びせら れて、私は呆気に取られて、白い少女像を眺めていたのだが、どうやら そのことを言っているらしいと思っていると、 「母は伯父が好きですの。父の喪もあけないというのに。目が不自由で すから,,,,ひと一倍、寂しい気持ちは分かりますわ。でも..ほんとうに 伯父とそっくりの声をしてらっしゃるのね。間違えるのも無理ないわ。 母も間違えるかも知れないわ、ほんとに」 何が饒舌にさせるのか、少女は客間の扉を開けながらも喋りつづけて 「調度品など、ほとんど変っていないと思いますわ。母と私の二人暮ら しでは、贅沢もできませんし。伯父は週末に1度ほど来ますけれど、そ の日のほかは、灯もつけないことになっていますし。月明かりだけで、 充分ですもの」
この古びた洋館の内奥では、黴が壁紙を腐食していくように、まだ、 ドラマが進行していたのだった。私は、すでに少女の物語る不倫中の母 にひそかな興味を抱きはじめていた。それ以上に月光に照射された重厚 な居間の光景が、悠紀と過ごした時間を思い出させ、その中に私を閉じ 込めてしまった。 ひそかな予感がしてきた。ほんの少し立ち寄るだけのはずだったが、 私は今夜この古風で典雅な屋敷に泊まってしまうだろう。そうした予感 に異物を飲み込んだような気持ちになりながら、私はゆっくりと居間を 見まわした。月の光は、おぼろな翳りをひとつひとつの家具に与え、黒 光りする飾り棚は昔と同じようにゆったりとくつろいでいた。 少女はなぜか口をつぐむと、窓辺に近寄った。灯りをつけていないの で、月光の帯に入った少女は、青白く輝き、微妙な翳りを宿し、美しさ が一層匂い立つようだった。重くけだるい気詰まりを感じながら、私は 青白い妖精の姿を目に含んでいた。月の光のなかを3つ4つの埃が舞っ ていたが、急にそれらは速度を増して、カーテンの房が浮き出ている重 い闇に呑まれていった。永遠に吸い込まれるようだった。私は、もはや、 この世界に呑みこまれて、後戻りできなくなっていた。夜行列車のまば ゆい灯りに身を委ね、ネオンの街に向って走り去る、そうしたきまり事 ばかりの世界に戻ることは、もはや、夢のように思えてきたのである。 居間の正面にある暖炉に花やかな火が起きて、私は少女にうながされ るままに、ゆったりとした2人掛けのソファに腰を下ろした。飾り棚に ある長首の青磁花瓶、昇竜の彫物、フランス人形、そしてタピストリー などが、暖炉の火の気まぐれな照明に照らされて、いっせいに身震いし はじめたようだった。私は、気詰まりを隠すために、それらの品々の熱 心な鑑賞者を装った。飾り棚の品物は入れ替わっていた。誰の趣味なの か、財力と魅力が入り混じり、その不調和さに違和感を覚えた。 しかし、居間全体は、昔のままで、渋い色調の家具は、清澄さや純一さ で古風な美を保っていた。その光沢、つや、翳り、みなおなじみのもの だった。 「変っていませんね」 「囚われているようですの。暖炉のブロックの秩序の中に。足音も立て てはだめ、咳もしてはだめ、笑い声ひとつない生活ですもの。それは、 華やかな黒光りした落ち着きはありますわ。平和も。でも、1年後も、 1年前と、全然、変らないなんて」 一瞬、燃え上がった炎をただならぬ光に強く照らし出された少女の顔は しかし、平静そのものだった。私は、怒りを容易に押し殺せる仮面の持 ち主に、はじめて警戒感を抱いた。 「悠紀さんという方、本当に愛してらしたの」 私は、背筋が凍りついた。少女は真相を知っているのだろうか。 しかし、少女の話しはちがう方向にそれた。 「私って、もう愛なんて信じられなくなっているの。母と伯父の愛なん て、まるで情欲で結ばれているようですの。母は寂しさを紛らすため、 伯父のほうは、借金で首が回らないらしくって、母の財産が目当てらし いし」 「悪く解釈しすぎですよ」 「恋愛なんて、相手は誰でもいいのよ。母なんて、伯父みたいなタイプ の男なら誰でもいいらしいの。いつもの冷静な判断力がどこかへ消えて しまうみたい」 「何事でも、夢中になれるって、すばらしいことですよ 「そんなに憧れていらっしゃるの」 「夢中になれれば、恋でも美でも思想でも信仰でも、そしてお金や地位 でも、何かに対して夢中になれれば、単純で強靭な生きかたができるで しょう。いわば、永遠に限りなく接近できるような」 「男のひとって、そういう風にお考えになって、何かに苦しそうにすが りつくのね。伯父もそうよ。母との情事は、お金になるとか、でも悪い ことかも知れないなんて、毎夜うなされるのは、そのせいに決まってい るわ」 伯父の話しになると、少女の口調は、激しい憎悪の強音を響かせたり、 ある時は、はじらいの軽やかな響きを帯びたりするのだった。私は、少 女と母は、伯父をめぐって火花を散らしているような印象を持った。
「あ、母ですわ」 廊下の突き当たりに灯りがともって、光の輪舞の中に、寛衣を着たヴィ ーナスのように美しい像がくっきりと浮かび上がっていた。鮮やかな陰 影を帯びた白は、雪花石膏の純潔さを帯びていたので、私は思わず息が つまった。夫人は、煌々たるスポットライトを浴びて舞台の正面に歩み 出る古代劇のヒロインのようだった。輝かしく堂々としていて、一部の 隙もなく、完璧だった。 それは、少女から聞かされた「盲人」「不倫」といった形容詞が指示す る陰鬱さや邪悪さとはまったく程遠いものだった。音もなく近づくにつ れて、その穏やかな優雅な容姿が明らかになってきた。、 「ね、お願い。私の言うとおりにして」 少女が耳元で囁いた。ひそやかな熱っぽい息を感じながら、私は目も心 も歩み寄る古代劇のヒロインの放つ美貌に奪われていた。 寝覚めの夢見るような頬の薔薇色、白く透き通った膚色、額から鼻筋 にかけての流麗きわまりない線、ふくよかな顎の形、後ろに束ねられた あでやかで豊かな髪型、古代劇の女優に見られる格調高さがそこにはあ った。現代に貴婦人というものが存在するとすれば、夫人は、その典型 だった。それにもまして、内面の清楚な秩序がおのずから外面に輝き出 る挙措の優美さは、見事というほかなかった。 「ねえ、伯父のまねして」 ゆっくりと歩むにつれて、白い寛衣は目のさめるような美しい体の線を やわらかに顕わしてきた。夫人の緑色がかった目は、静かに澄んでいて ほのかな暖かい翳りさえ射して、私の方に向ってきていた。その目は、 果たして目の不自由なヒロインの眼球に精巧に嵌められた義眼とは到底 思えなかった。思わず目を伏せたほどだった。 「ね、お願い」 と少女は繰りかえした。 私はその哀願を聞き流しながら、こんなに完璧な美人の前では、少女も 私の悠紀も、いささか生硬さや俗悪さを帯びてしまうなとぼんやり考え ていた。 少女はまだ、あるときは有無をいわさぬ口調で、あるときは甘えた口調 で「お願い」を繰り返していたが、その時、私はようやくその意味に気 づいた。目の不自由な母をからかって、私をにわか仕立ての伯父にしよ うとする少女の悪ふざけだったのだ。 「伯父さまは、随分待たれたわ。今夜は突然にやってこられたものだ から。お母さまの寝ているのを起こすまいって。だから、私も、早く、 お食事にして頂きたいわ」 「伯父さま」 少女の発する、この世のものとは思えぬ涼やかな声には、親しさや優し さとは裏腹の鋭い皮肉があるように感じられた。私は、この時、悪戯が 単なる悪戯に終わらない予感を抱いた。 「今夜は、ばあやもいないから、3人で水入らずというわけね」 いともあどけない微笑を浮かべながら、少女はその母に向って甘えた声 で承認を求め、それに対して、夫人はやはり優雅に微笑みを返した。夫 人の笑顔は、恋する人を前にしたあの輝かしい喜悦に満ちていた。 「ああ。ドラマがはじまってしまった」私は、引き返す時機を誤まった 登山隊の一員になったような気がした。でも、あとほんの少しだけ冒険 を続けてみよう。
鳩時計が静かに九つを打ったとき、演技の食事はようやく終わりに近 づいていた。単調な短い会話、少女の意味あり気な言の葉の数々... 少女は双子の姉妹の話をして、両親さえ見分けがつかない、勿論、その 恋人も見分けがつかない、そこでもし結婚でもしようものなら..と口を つぐみ、しばらくしてから、ひとりで笑い声を立てた。 「エミったら」夫人は軽く制止し、私は、はじめて少女の名前を知った。 エミなのか恵美なのか、絵美なのか、分からなかったが、私の表情をみ て少女は、人差し指で空中にカタカナのエミと書いた。 私はエミに促されて、食事中に二言三言、短い会話を夫人と交わした。 「何かございましたの。今夜はあまりお話にならないようですわね」と いう問いかけに対して「うん」とか、「お仕事順調ですの」という愛情 ある呼びかけに対して「まあまあ」とか。 夫人が私を別人であることに気付かないので、私は空恐ろしささえ感 じはじめていた。もし、こんなことが起こりうるなら、それこそ少女の いうように、ベッドでも双子の姉妹は見分けがつかないかもしれない。 安心感から、あやうく口数が増えかける私をエミは、唇にチャックをす る仕草でさえぎって、悪戯っぽく微笑んだりするので、私は終いには、 夫人を欺くという邪気のないゲームに楽しみさえ見出しはじめていたの だった。 しかし、大部分の時間は、気づまりな話題のない沈黙の中に過ぎてい った。規則正しいフォークと皿の触れ合う硬い音、暖炉の薪のはぜる音、 これら静寂を強めるかすかな音に混じって、咀嚼の音さえ、法外な響き を立てるかのようだった。 デザートには、庭園のぶどう棚で採れたというエミの得意げな解説付 きの見事なマスカットが、きらきら光るガラス器に盛られて供されたが、 その見事に熟した大粒ではちきれそうな実を口に含み、実を出すという 連続した短調でもどかしい食べ方は、あたかも、そのひとつひとつか、 微かな接吻の音であるかのようだった。それぞれの音の主の感情を露に した合唱のようだった。夫人のそれは、恋人を前にしているという幸福 な安らぎに侵ったやわらかな肉感的なキス。少女エミのそれは不規則で 乱暴なキス。3つ4つ立て続けに口にいれて吸ったあとは、長い沈黙に 沈むといった具合。私のそれは音を立てぬようにと神経をはりつめなが らのもの。 マスカットの歌で、ゆくりなくも、私は悠紀との思い出に浸った。 あの日、私たちは、いただきもののマスカットを味わっていた。チュ ッというやさしい音を立ててマスカットに熱中する悠紀を、私はまぶし いものを見るように見つめた。その視線に気付いて、悠紀は、チュッチ ュッチュ、チュチュチュチュチュと音を出して「何の曲か分かる」と問 いかけてきたのだった。分かるはずもなく、戸惑っている私に、悠紀は 極上のえくぼをみせて、「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とい ったのだった。しばらくの間、私たちは曲の頭当てクイズに熱中した。 仕上げは、悠紀の自家製ワインだった。つまり、悠紀にキスをして、そ の口の中のワイン、ぶどうのジュースを味わうのだ。他愛ない恋人たち の戯れだった。そんな時間もあったのだ。 時折、夫人は親しさのあふれる微笑を送ってきた。それは、あまりに 愛情に満ちていて、娘を気遣ってひそかにという気配もなく、明らさま なものだったので、受ける方が戸惑うほどだった。 デザートの後は、ワインだった。銘柄は、マドンナのアウスレーゼ。 澄んだ液体の向こうに、グラスを優雅に持った夫人の白い手が透けて見 え、私は思わず、その美しさに呆けた。そんな私をエミは精密に計測し ていたのか、美しい曲線を描いたやや薄めの唇を軽くゆがませ、無意識 に痙攣させた。それを見て、はじめて、私はエミが私の夫人への憧れに 似た感情に嫉妬しているのに気付いた。 にもかかわらず、エミが私を夫人に近づけようと必死の努力をしてい ることは明らかだった。演出者としてのエミは、あるドラマを懸命に演 出し、私にも何らかの役を割り当てているのは、確実だった。相変わら ず、私に伯父のように振舞うことを強いる眼差しや仕草を続けるエミを 横目でみながら、私は、いつでも月夜の訪問者に立ち戻れるのだから、 この親子との間では、結局、何事も起こるまいと強く思った。 恐らく、この屋敷に泊まることにはなるだろうが、それを望んでやっ てきたことだし。結局、私は、エミの指図通りに動くことにした。夫人 の示している親愛の情は、愛に飢えていた私にとっては、ひさかたぶり のものであったし、満足すべきもののように思えたので...
食事を終えて、私は椅子から立ちあがって窓に近づいた。自慢の葡萄 棚をみようとしたのである。夫人が、すっとついてきて、私の傍に立ち きゃしゃな手で器用にフランス窓を開け放った。申し合わせたように、 少女が暖炉の火を落としに私たちからはなれていった。 私は、窓の外の光景に目を放った。それは月の光に研ぎすまされたよ うな異様に美しい夜だった。霧も地表を這うように出ていて、不透明の 白い海原のようだった。まるで、あの日の再現のように只ならぬ輝きを 帯びて光っていた。夜気は冷たい水分を重く含んでいた。月の光は、何 事も見逃すまいと、葡萄棚を透過して、幾筋ものサーチライトとなって 部屋の床を照らし出した。薄いカーテンに光の文様が浮き出て、私は、 ぞっとした。まるで、悠紀という字を拡大して映写しているようだった のである。 風が、かすかに渡ってきた。すると、悠紀の字はこなごなに砕け落ち、 さざめく波紋が、かつ消え、かつ浮かんだ。私は顔をそむけた。 そうやって私と夫人は、寄り添って、窓の外の月光を見ていた。端か ら見れば、幸福な静けさに酔った恋人たちに見えたかもしれない。夜の 闇の地表から、瘴気のように虫の声が響きあがってきて、それは私の心 を切り刻んだ。 「今夜は、何か心配事がおありになるようね」 私は、すぐ傍に夫人の燃える頬を見いだした。風がエミが開けた暖炉に 吹きこみ、炎が一瞬大きく燃えさかって、夫人を照らしたのだった。 麻薬にかけられた人のように、夫人は苦痛に満ちた欲望をたたえ、夜を 眺めていた顔をまっすぐに私の方に向けて、凝視するようだったが、そ の義眼は、私を通り越して月光に照らされた葡萄棚をみていた。 「楽しい時代でしたわ。目が見えている頃は。でも、不思議ね、最近、 また、物がよく見えてきたような気がするの」 その何気ない述懐に、私は、再び、戦慄を覚えた。夫人は果たして真相 を知っているのだろうか。 エミが暖炉から戻ってきて、私の手をとって、暖炉のほうに導いた。 立ち止まると、正面には、3つの小さな額縁があった。光線の加減で、 写真は、つややかに光っていて、最初のうちは、それが何の写真か良く わからなかった。 エミが額縁を差し出して、言った。 「毛のふさふさした黒猫を抱いているでしょう」 なるほど、黒いペルシャ猫だった。抱いているのは、エミだった。10 歳くらいか、 「死んだのよ。呆気なく」 私は、思わず声をひそめて訊いていた。 「どうして?」 エミはそんな私に何の疑念も抱かなかった様子で、答えた。 「この屋敷にお引越しをした直後だったわ。連理の木の下で。 お父さまが、まだ、お元気でいらした頃だったわ」 近づいてきた夫人が、軽く眉をひそめた。月のように細い眉だった。 「あの頃はよかったわ」 エミは重ねて言った。その物言いには、明かに棘があった。夫人は、娘 を叱責の目つきでにらんだ。エミは蒼白な顔をして、夫人をにらみかえ し、そして、エミの瞳には、私の唖然とした顔が細密画のように写って いたのである。
鳩時計が半刻をしらせるポッという鋭い声を立てたとき、それが就寝 前の習慣なのだろうか、夫人は少女を抱擁しに行った。すると、エミは 母親の手を振り払うようにして、私の方に近づき、抱擁を求めた。私は 立ちすくんでいただけだった。 「伯父さまのベッド用意するわ」 私は夫人の表情に深い驚きのようなこわばりと羽ばたきのような痙攣を 認めた。 「いいわ、エミ。私がやるから」 夫人は、我にかえると、有無を言わさほどぬ強さで、娘をさえぎって、 「おやすみなさい」と私にほのめきたつ匂いの体を近づけてきた。思わ ず、私が身を引くと、うつむいて悲しみをこらえるようにして、急ぎ足 で部屋を横切り、暗い廊下の闇に突き進んでいった。 少女は、そうした母親を見送ったままの目つきで、私を見据えた。 白眼がわずかに大きく、私を恐怖させる厳しい厳しい決意に満ち、争闘 の開始を宣言していた。このとき、はじめて私は、エミが企てていた劇 が何であるのかを察したのだった。閉じ込められた、会話のない家庭で 起こりがちな少女の反乱。美しい蝶を手のひらで握りつぶすような残酷 さ。私という身代わりの前で、存分に母親を傷つけ、傷つき狼狽する姿 を伯父にさらして、伯父の母親への気持ちを突き崩そうという企みだっ たのだ。そして、現実の伯父は不在だったから、伯父に対しては、自分 は、無傷のまま。 私が、何かいおうとすると、エミは一転して軽やかな笑顔をみせて、 こともなげに言ったのだ。 「伯父さまの部屋は、母の部屋の隣りですわ。私、寝つきのよいほうな の。どんな騒ぎがあっても、夜中に眼を覚ましたりしない性質なの。じ ゃ、伯父さま、おやすみなさい」 なぜ私が、夜中に騒ぎを起こすと知っているのか、私は最初ギクッと したが、それは私の杞憂であって、少女の皮肉は、伯父と盲目の母との 房事の騒ぎのことを指しているのだと了解して、一安心した。 しかし、私は伯父ではない。とすると... すぐに、私はエミの皮肉な口調の意味に気付いた。不意打ちをくらって いた。見事な火事に喝采して見物に加わった男が、それが自宅だと気付 いたようなもので、私はしばらくの間、声も出なかった。
私は、エミの瞳をみつめた。その瞳は、憎悪を秘めていたが、すぐに 狡猾さに変わり、そしてはじける笑いに変わった。 「ご存知でしょ。続き部屋があることは。伯父さまとお母さまは、いつ も続き部屋で休まれるの。伯父さまはいつもの通りにされればいいのよ」 私は、不倫の劇を見る。巧みな演出者だった。こんなにあどけない顔を しているくせに、少女は自分なりに恐ろしい劇の舞台を整えたのだ。 「内側の扉には、掛け金が下してあるわ。相手がいやになって、夫婦 の一方が、掛け金を下してしまうなんて随分ひどいけれど。そう、掛け 金は、あなたの部屋のほうにだけついているのよ。開ける、開けないは あなたの自由意思に任かされているわけね」 「伯父さん役は廃業するよ。お母さまに正直にいえばすむことだから」 「そうね、でも今頃は、母は、もう寝室で待っているわ。私、鍵もっ ているの」とエミは、ポケットから金色の古風な鍵をみせた。 「伯父様がもしかしたらくるかも知れないから、私、鍵をかけて寝る わ。間違いが起きないように」 「僕は、しかし」 「伯父さまはともかく、あなたのことは疑っていないわ。先程のお母 さまに対する態度を誤解しないで。私なりに、お母さまのこと、大好 きよ。でも、そのことと、このこととは関係ないでしょ。あなたは、 遠来のお客様として宛てがわれたお部屋でお休みになればいいの」と 微笑んでみせた。 そして、私の物言いたげな表情を封印するように、「お休みなさい」 と言って、衣装のすそをひらめかせて、すばやく立ち去っていった。 続き部屋と反対方向の闇の中から、ドアを閉める音、続いて鍵をかけ る音が響いてきた。 カチッ。その音は、ある種の決定的な瞬間が終わってしまった合図 のようなものだった。それまでいつでも脱出できると思っていた門に閂 がかけられてしまったような状況。確かに、まだ、私はこのまま客間の ソファで一夜を明かすこともできただろうし、あるいは夜逃げのように 手紙でも残して、この屋敷から立ち去ることもできただろう。しかし、 カチッという音の記憶は、悠紀との事件の記憶を想起させ、かつてと同 じように戻れない、もうルビコン河を渡ってしまったのだ、あとは戦地 へ赴くしかないのだという運命へのあきらめに似た感覚で、私を金縛り にした。 そうだ、私は、少女のいうように、自由意思で続き部屋の掛け金を落 として客人として、一晩過ごせばよいのだ。伯父の泊まる部屋など他に ある。悠紀との思い出のいっぱいつまった屋敷にかつての恋人として滞 在すればいいだけなのだ。伯父がくるかもしれないならば、掛け金を外 して、夜中に伯父と信じこんでいる目の不自由なヒロインの来訪を静か に待つといった不貞な妄想は絶ちきるべきなのだ。あくまでも、当初の 目的を実行することを最優先課題にすべきなのだ。 それにしても、思いもかけない少女の企みに遭遇して、私は苦笑した。 エミの鮮やかな、自然すぎるほどのドラマの演出は見事なものだなあ。 舞台だけは設定しておいて、そのあと何が起きようと、当人には責任が ない。それは「未必の故意」すれすれの、しかし、犯人にとっては、全 くの完全犯罪ではないのか。 「続き部屋のドアを開ける、開けないは、あなたの自由意思よ」か。一 見、投げやりなその口調の裏には、どう転んでも損はないというしたた かな小悪魔の計算があるのだ。おれにも、あの頃、エミほどの才覚があ ったならなあ、と私は、再び苦笑した。
第2章 悠紀
広やかな寝室は、豪奢な闇のなかに澱んだ空気が漂っていた。細長い 格子窓の色硝子からくる緋色を帯びた弱い光線が、わずかに曖昧な黒ず んだ寝台の輪郭をみせていた。 私は、あの廊下の重たい花の匂いを再び嗅いだ。悠紀の好きだった百合 の花の匂いだった。一瞬強く匂ったが、鼻孔になれてからも嗅ぎわけら れたところからすると、それは、部屋の空気にしみこんでいるように思 えた。うらさびた情事の数々の名残の香り。 私は忍びやかに内側の扉に近づくと、掛け金を静かに落とした。監視 されているような静寂は、このひそかな金属の音さえ只ならぬ響きに拡 大してしまう。さあ、これで後慮の憂いなく私は、15年ぶりに、この 屋敷にやってきた目的を実行できるのだ。ばあやからの手紙に書いてあ った財宝を手に入れることができるのだ。しかし、深夜、物音を立てず に、その作業を行うのは、きわめて困難なように思えてた。 息苦しさから免れるために、私は窓を開けた。見なれた風景のはずだ ったが、15年の歳月は、庭木の形を大きく変えてしまっていた。悠紀 と永遠の愛を誓った連理の木は、ブナの大木に育っていて、暗闇にひそ む狂暴な獣のように枝葉を月光に向って突き出していた。 「あの木、連理の木というのですって、お父様から教わったわ。ほら、 二股に分かれたのが、途中でまたくっついているでしょ。私たち、たと え、別々になったとしても、将来、また、あの連理の木のように、必ず 一緒になりましょうね」 悠紀は、わずかに私を見上げて、少し汗ばんだ手をぎゅっと握って、そ う囁いた。 「馬鹿なこというなよ。僕らが、別れ別れになるはずなんかないだろ」 「でも、もしもよ。もしそうなっても、あなたはきっと戻ってくださっ てね。あの連理の木のように」 おの時、20歳の私、人生の何たるかも知らぬ若者は、そのあまりにも 甘美な言葉を前にして、ただ照れてしまって、物もいわずに悠紀の何故 かいつも懐かしい感じのするしなやかな体を抱きしめたのだった。 悠紀とは、幼なじみだった。室生家と夏野家は、いずれも湖水地方の 名家だった。室生家は、祖父の時代に殖産興業の時代を背景に紡績業に 進出し、成功を収めて、銀行経営にも乗り出していた。私の父、悠一郎 は、利益を確実に蓄積し、慎重な経営に撤してきたが、銀行大合同の時 代に入るや、6行大合同を成し遂げた。そのときのパートナーが、夏野 紀一郎であった。そんな関係で、父は、夏野氏が亡くなったあとも、そ の恩義を忘れずに、夏野家の面倒をよくみた。その頃には、新聞経営に も手を染め、多忙を極めていたが、夏野家の3回忌、7回忌といった法 事だけではなく、こまめに手土産をもち、あるいは、私を伴って夏野家 に顔を出し、未亡人の夕貴夫人への挨拶を欠かさなかった。毎夏には、 数日、別荘に滞在するのが常だった。 そうしたなかで、私と悠紀とは、兄と妹のように、つきあってきた。 そんな私たちを、夏野未亡人も、父も、うれしそうに眼を細めて見守っ ているのが、感じられた。お彼岸過ぎの暖かい日射しのようだったのだ。 したがって、ふたりが、年をとるにつれて、お互いの感情が恋に変って きて、あるとき、連理の木の下で、ひそかにふたりっきりでエンゲージ リンクを交し合ったのも、当然の成り行きだった。 そして、「結婚したい」と切り出したときに、私は、父が、一瞬青ざめ、 猛反対するとは、まったく予想だにしなかったのである。
翌晩、私は、父と夏野家の別荘の居間で出会った。父は、Yシャツの 胸をはだけて、めずらしくくつろいだ様子をしていたが、働きづめから くる疲労の色は、さすがに隠せなかった。 「久しぶりに二人だけだな。ちょっと話そうか」 その声は、低く柔らかだった。私は、下手に出た父を眺めた。彼は、私 の返事も聞かずに、先に立ってベランダから夜の庭に下りていった。私 は、結局、ついていくことにした。 満月が別荘のシルエットと落葉松林を青白く照らしていた。父の影が 地面に落ち、そのわきにすこし小ぶりな私の影があった。二つの影は、 沈黙からぬけでることなく、落葉松林の小径を左右に移動し、起伏の定 かでない下生えの間を上下した。捻じ曲がった赤松の根が複雑に小径を ふさいでいるので、時折、私たちの肩が触れあった。 私は、父が何をどうやって切り出すかを想像していた。「君らは、確 かに似合いのカップルだ。しかし、悠紀はまだ16歳だ。結婚にはまだ 早い年齢だ。もう少し世間をみたほうがいい」 突然、林が切れて、私たちは、湖畔に立っていた。そこは、午前中、 私がまめをつくりながら陽気にボートを漕いだ場所とは大きく隔たって いて、ボートハウスも桟橋も見えず、人気もなく静かだった。砂浜が、 弧を描いて私たちの前に広がっていた。水際の白樺の若木が湖面に頭を 垂れて波にゆられ、波紋がそこから広がっていた。深い森に隠されて、 月光に浸った砂浜、それは絶好の告白に適した場所だった。私は、父が 何を言いだすか、期待にいっぱいになって、待った。 「何か話したいことでもないか」 父が向き直って、いつもの調子で聞いてきた。この問いは、全く予想と ちがっていたので、私はうろたえて、入江から湖面に続く水面に生じて いる波頭を眺めた。 「まあいい、お前は幸福で恵まれているからな。勉強もできるし、いい 友人もいる。夏野さんとも近づきになった。誰でも、これでいいと満足 はしないものだ。だが、若いうちは、とかく、あれもこれもと欲張りす ぎるものだ。恋人もほしい。一日中遊び暮らしたい。だが、それは希薄 な人生だ。まずは、そうした誘惑に眼をつぶって、自分のキャリアを築 くことに専念することだ。自分の生涯の仕事をみつけるのだ、そして、 それに打ちこむのだ。それがおまえの人生を幸せで実り豊かなものにす る。幸い、おまえには、私という先達がいる、これ以上、恵まれた環境 はないだろう」 父は、よく躾られた息子を相手に、月と星を仰ぎながら、とうとうと 話し続けた。入社式や役員会で多数の聴衆を相手にしたときのように、 熱弁を振るった。数多い例証、比喩、逆説、三段論法、外国語、有名な 諺の引用、情と理論の積み重ね。それらの装飾を取り去ると、父の会社 が売っている商品同様の浅薄な大量生産品でしかなかった。「悪いよう にはじない、だから買え」が「だから言うとおりにしろ」に変わってい るだけだった。要するに、女にうつつをぬかすな、きちんとしたキャリ アを積め、そのために海外留学させてやるといっているのだった。 「さあ、もういいだろう。疲れた。寝ようや」 私は賛嘆の念を抱いて、父の頑丈な体と信念を眺めやった。父の成功の 秘密は、緻密な計画だった。そのなかには、息子の私の人生設計すら、 含まれていたのだった。私は、一言もしゃべらす、先に立って別荘に戻 っていく彼に従った。
その後の3ケ月は、奔流のようなあわただしさで時が過ぎていった。 夏野家を訪問して、悠紀に合うひまもないほどの忙しさだったのだ。 父の秘書の重原が、私の留学手続きを進め、留学先のボストンのビジネ ス・スクール出身者を紹介してくれた。父の経営する新聞社の敏腕記者 だった。彼の体験談は、私の留学へのためらいに踏ん切りをつけてくれ た。 私は、彼が語るフロンティア精神にあふれる彼の地のひとびとに感銘 を受けた。その頃の若人の例にもれず、アメリカニズムは、鼻についた が、「世界を救え!」という大きな志と実行力は、私の大学仲間にはな いものだった。秘書の重原は、大学退学の手続きも進め、さらに彼の地 のよい大学に入るには、TOEFLで600点以上は必要ということで 私の語学力を短期間で飛躍的に向上させるためには、ネイティブの家庭 教師が必要と判断して、30前後の米国人女性・エリカを紹介してきた。 私は、一目みて、すっかり彼女の知的な風貌が気に入ってしまった。 悠紀にはない大人の女性としての落ち着きや自信が感じられた、青い瞳、 ブロンドの短い髪、大きな胸。メガネをかけているのが唯一欠点だった が、時々、会話の合間に外すことがあった。そんなとき、どきっとする ほど、彼女は美しかった。 そんなわけで、英会話のレッスンは、私にとって一日のうちで、最も 楽しい時間になった。母が、時々、お茶と和菓子をもって勉強部屋に入 ってくるのが、わずらわしいいほどだった。 母は、幼い頃から短歌と書を習っていて、何人かの弟子もとっていた。 エリカは、大の日本フアンで、母の流麗な筆のさばきを賛嘆し、書かれ た文字の意味を聞きたがった。 例えば、母がうぐいす色の短冊にさらさらと書いた山上億良の短歌、 「白金も黄金も玉も何せむに、まされる宝、子にしかめやも」をみせる と、その意味を知りたがった。私がつたない英語で、プラチナや宝石よ りも、わが子のほうがより大切であると、翻訳すると「オー、母性愛を 歌ったものねえ、分かるわあ、同感だわ」と賞賛した。 私が、詩人は、男なのだといっても信用しなかった。そんなことで、エ リカは、母が気に入り、母もエリカが好きになって、外国人で年上でな かったら、お前のお嫁さんにちょうどいいのにねえと言い出す始末だっ た。肝心の英会話のレッスンよりも、母との会話のほうが長引くことも あった。 数週間すると、私はすっかり彼女と親しくなって、姉と弟のように感 じてきて、身の上話しを聞く羽目になった。要するに、彼女は、カリフ ォルニアで生まれて育った「跳んでる女」だった。女性の自立を主張し 結婚制度を否定し、自由恋愛の信奉者だった、 レッスンのなかで、彼女は、発音練習のために、私の唇の中に指を入れ て舌の位置を確認させたりした。そんなことがきっかけとなって、フレ ンチ・キスをはじめとするキスの種類を教えてくれたりもした。さらに は、胸をはだけて豊かな乳房に触らせてもくれた。しかし、恋人のよう な気持ちになりかけた私に対して、エイカは、それ以上のことは、決し て許してくれなかった。理由を聞くと、「ユア フアーザー」と答えた。 契約で、それ以上のことはしてはならないということになっている。こ のアルバイトは、高給なので、自分としては、失いたくないのだという のだった。 またしても、父だった。私は、父というお釈迦様の手のひらの上で踊 るくるみ割人形のようなものだった。父に寄生するサナダムシだった。
TOEFLのテストを受けた後、結果はまだ分からなかったが、私は、 開放感から、久しぶりに夏野家の別荘を訪問した。裕紀は、思いなしか 元気がなかったが、私をみると、気をとり直してか、自分につけられた 家庭教師の話をはじめた。名門大学の学生で、演劇青年だった。その家 庭教師に連れられて、文学座の「桜の園」をはじめて観て、杉村春子の 名演技に感動したらしく、将来は演出家になりたいと言い出した。彼女 の将来の進路は、会うたびに変わるので、私はあまり信用しなかった。 ヘレン・ケラーの映画を見に行ったあとは、看護婦になりたがったし、 「風とともに去りぬ」の大作をみたあとでは、ヴィヴィアン・リーのよ うな女優になりたがった。 裕紀に聞かれて私は、海外留学のために、現在英語を猛勉強中である こと、家庭教師のエリカが母と意気投合したことも話した。裕紀は、途 中で遮り、「さあ、散歩にいきましょう」と誘った。 ゴールデン・ウィークの後で、梅雨にはまだ間があったが、その日は、 真夏のような暑さだった。日差しが強く、新緑が目に鮮やかだった。裕 紀は、麦藁帽子をかぶって、森の小径を先に立ってずんずん歩いていっ た。連理の木のところで立ち止まると、裕紀は、私に提案した。 「ねえ、10歩くらい下がってくれない」 私は、いわれる通りにした。すると、裕紀は、両手を差し出して 「ねえ、そこから走ってきて私を抱いて」と命じた。 ”やれやれ、桜の園の名場面をやらされるのか” 私は、ぼやいて、 でも、まんざら悪くもない配役だなと思い直して、走りかけた。 「だめ。あなたも両手を差し出すのよ」 裕紀は、なぜか涙声になっていた。これだから年頃の女の子は扱いにく いんだ。それでも私は、頭の中に名場面を思い描いて、両手を差し出し 掌を上に向けて、指を少し曲げて水をためるような形にした。そして、 クラーク・ゲーブルのような低音の芝居がかった声で、「裕紀、愛して るよ」と叫びながら、裕紀のところへ駆け寄った。 私がぶつかった拍子にあっけなく、麦藁帽子が飛び、裕紀は草地に倒 れた。私は、裕紀のしなやかな少女の体型を残した体を抱き起こそうと した。しかし、裕紀は、強い力で私を引き寄せて、頭を私の胸に埋めで 動こうとはしなかった。 しばらくして、妙にしゃがれた声で、言った。 「私たち、たとえ、別々になったとしても、将来、また、あの連理の木 のように、必ず一緒になりましょうね」 かってとまったく同じせりふだった。 あの時、私はすぐに「 馬鹿なこ というなよ。僕らが、別れ別れになるはずなんかないだろ」と答えたが 今は、そう答えるのをためらわせる何かが、私のなかにあった。 私は、返事をする代わりに、裕紀の唇を自分の唇でふさいだ。裕紀は、 激しく吸ってきた。私は、不意の激情にとらわれて、激しいキスを返し た。そして、いつしかエリカに教わったばかりのフレンチ・キスを試し ていた。裕紀は、私の下で体をゆすって、あえいだ。 激情が去って、二人で草地に並んで横たわった。見上げると、濃密な 枝葉が天蓋のように私たちを覆っていた。連理の木は、大空に向けて、 奇怪な腕を伸ばしていた。厚く茂った葉に遮られて、太陽は、まったく みえなかった。 それは、あたかも、不吉な日蝕のようだった。”許婚だからいいじゃな いか、誰でもやっていることだから”と私は自分を慰めた。しかし、取 り返しのつかない一歩を踏み出したような重苦しい予感が私を身震いさ せた。それは、底冷えのする大地の重たさのせいだけではなかった。
それから2ケ月が経った。TOEFLのスコアも500点を超えたの で、エリカは、あとは現地に行って、プレセッショナル・コースで英語 に磨きをかければ、何とか希望の大学に入学できるだろうといってくれ た。父も、そのニュースを聞いて喜んでくれた。 「若いうちに、武者修業するのは、いいことだ。まあ、せいぜい元気に 頑張ってこい」 一方、母は、さすがにさびしそうだった。 エリカの家庭教師の仕事も終わって、私とエリカと二人ともいなくなっ てしまうのだから。 「もう、おまえには逢えないかもしれないのね。向こうは危ないそうだ るから、充分気をつけてね。危ない場所には近づかないでね。それから、 手紙を出すから。きちんと返事くださいね」 母は、永遠の別れを惜しむように、嘆き悲しんだ。 私は、父にも勧められて、出発直前に夏野家を訪問した。夫人が優雅 な微笑を浮かべて、にやかに応対してくれた。 「お帰り」 その一言で、私は、自宅に帰ってきたような気分になった。 「いよいよ海外留学ですって。素敵ね。しっかり勉強してくださいね。 お父様も、いい後継ぎができそうだと喜んでいらしたわ」 夫人は、若い頃、故・夏野紀一郎氏が、大手商社の駐在員だったころに、 ドイツのデュッセルドルフに数年暮らしていたこともあるので、私の海 外留学については、母ほど大事とは考えていなかった。 私が、目で裕紀を探す気配を察して、夫人はこういった。 「あの娘、朝から頭痛がするって、まだ寝室で寝ているわ。もうしば らくしたら起きるでしょうから、泳ぎでも楽しんでいらっしゃい」 私は、小学生の高学年の頃から、毎年の夏には、湖で泳いでいた。最 初は怖かったが、遠泳で湖を横断してからは、泳ぐのが大きな楽しみに なった。アメリカに行ってしまうと、当分、あの静かな湖面に浮かんで 大空にぽっかり浮かぶ雲を眺めることもできなくなると思うと、無性に 泳ぎたくなった。裕紀とふたりでじゃれあったり、ビーチに並んで寝そ べったりしたかったが、肝心の裕紀が頭痛では仕方がない。 泳ぎから戻っても、裕紀は、顔をみせなかった。私は夫人と2人、ば あやがいつになくこまめに世話をしてくれるのに感激しながら、昼食を とった。 「お坊ちゃんは、これからいやになるほど洋食をお上がりになるでしょ うから、和食にしましたよ」 ばあやは、馬刺し、鯉のあらい、山菜、そばを用意していた。和食とい うよりも、ばあやの郷土料理だった。 「お赤飯も炊きましたけど、今晩、お帰りになるそうなので、お握りに しました。汽車の中で、お食べください。それから、これも」 差し出した風呂敷を開けると、野沢菜のおやきが7つも入っていた。 とまどっている私に向って、夫人が笑って、口添えした。 「ばあやったら、”奥様、今日ばかりは、私のいう通りにさせてくださ い”といって聞かないのよ。根負けしたわ。あなたのお口には合わない かもしれないけれど、持っていってあげてね」 私は、有難く受取った。もう何年になるだろう。ばあやとは、小学生 の頃からのつきあいだった。身よりもなく、夏野家に住み込みの女中と して働きはじめ、はじめは夏野夫人がずいぶんこぼしたものだった。私 に、お手玉やおはじき、そして綾とりを教えているのをみて、ばあやを 叱ったこともある。 「男の子に、女の子の遊びを教えたりして」 しかし、夏野紀一郎氏の死後は、年とともに、ばあやの存在感が増し てきた。いまでは、夫人も、ばあやが小学校しか出ていず、ろくに字も 書けないとこぼすこともなくなっていた。やや腰が曲がってはきたもの の、髪を後ろにきつく束ね、いつもの絣の着物姿で甲斐甲斐しく働く姿 は、昔とまったく変らなかった。 「私は、もう年ですから。いつお迎えがくるかもしれません。坊ちゃ まとも、これが、お別れです」 ばあやの涙をみて、私も涙ぐみかけた。夫人が「ばあやったら」と制し た。
昼食後、さすがに日頃溜まっていた疲れが出たのか、ばあやに勧めら れて、お腹いっぱい食べたこともあってか、私は無性に眠くなってきた。 いつもの部屋で、30分ほど仮眠するつもりで、ベッドに横たわった。 目覚めると、もう4時だった。2時間以上も寝てしまったのだ。水泳 の疲れが、心地よい睡眠に拍車をかけたようだった。5時には汽車に乗 らねばならない。明日は、アメリカへ出発だ。その前に、何としても、 悠紀に会って、別れの挨拶をしなければならない。 私は、いそぎ足で、居間に行った。ばあやしかいなかったが、悠紀の 居場所を尋ねると、「さあ、どこでしょう。いましがた起きてこられて 散歩に行かれたところですよ」 叩き起こしてもいいのに、悠紀がなぜ私に逢いにこなかったのか、不思 議に思った。夏野夫人は、まだ、お昼寝の時間とのことだった。 背の高いドアのある玄関を出た。外は、すでに昼時の花やかな光を失 って、心なしか夕暮れの樹木の影が建物を覆いはじめていた。つたをま とった壁、幾つかのドイツ風の優雅な形をした窓、傾斜のきつい屋根な ど。2階建ての夏野家の別荘は、美しい蜃気楼のようにもろく、明暗の 対比が鮮やかだった。 、別荘の裏手の林に回ってみた。前方に視線を投げかけたとき、私は、 急に去年の夏、悠紀と一緒に植えた白樺の苗木がどうなっているか、気 になってきた。林の中で、日光がなかなかとどかないためか、まだ高さ は、1mにもたらず、若い枝葉が左右に伸びてはいたものの、幹の色は まだ白くなっていなかった。 このとき、悠紀の姿に気付いた。悠紀は門のほうにいたのだった。麦 藁帽子をかぶり、長い髪を無造作に背にたらす、いつもの姿だった。し かし、挙動不審だった。しきりにあたりを見まわし、人気のないのを確 かめてから、赤い郵便受けに近づいていっているのである。 それは、父がアメリカに出張した時に買い求めて夏野夫人にプレゼン トしたもので、長さ40cmほどのかまぼこ型をしていた。小さな腕木 が側面についていて、郵便配達夫は、郵便物を届けると、それを持ち上 げていくのである。 「あちらは、住宅の平均坪数が700坪もあるからね、家と郵便受けが 離れているから、こういう工夫がされているのだ。この別荘なら、家と 郵便受けが離れているから、具合がいいと思ってね」 ところが、日本では、肝心の郵便配達夫がそうした事情をしらないので、 いつも腕木は寝たままで、父の思惑を裏切って、便利なポストとはなら なかったのである。 林の影になって、悠紀には、私の姿はみえないようだった。私も気に なって、あたりを見まわした。すると、2階のベランダの手すりにもた れている夏野夫人の姿がみえた。あたかも窺っている私の影絵のように 夫人も、悠紀の行動をみていたのだ。 悠紀は、赤いポストのふたを開けると、青い封筒を取り出した。それ は。見覚えのある青さだった。ティファニー・ブルー。NYの五番街にあ る有名宝飾店特有の青い色。父は、上得意だけが入室を許される中2階 の部屋でいつも母に宝石を買ってくるのだった。そして、ついでに、ス テーショナリー類も買い整えたが、その際、店からプレゼントされるの が、その青い封筒だった。父は、ごく親しい友人に手紙を書くときだけ にそれを使った。青い封筒となると、父から夫人への手紙としか考えら れなかった。 一体、父は、何を夫人に書き送ってきたのだろう。ちらっと眼の隅に 動きがあって、夫人がベランダの手すりから身を乗り出して、手を伸ば しているのがみえた。 「それ、私宛てのものよ」とでもいうように。 次の瞬間、私は信じられない光景を眼にしていた。悠紀は、青い封筒 の中身もみずに、それを真っ二つに引き裂くと、地面に落として、踏み にじった。そして、かぶっていた麦藁帽子をぬぐと、それも地面に叩き つけて、青い封筒と一緒に、踏みにじっていた。
私が入っていっても、悠紀は寝室の奥に立ったままだった。唇をすぼ め、私を無視していた。私は、そんな不機嫌な時の悠紀には慣れていた ので、豪奢な花模様のベッド・カバーの上に腰をかけて、薔薇の蕾のよ うな小さな唇からどんな言葉が紡ぎだされるかをじっと待った。そうし た私を悠紀は、体をゆさぶりながら、じっと腕組みをしたまま見下ろし ていた。 悠紀は、つっと近寄ってくると、私のそばに腰を下ろし、その柔らか な肩を私の胸にあづけてきた。気がつくと、私たちは頬と頬を合わせて いた。 悠紀の頬は、ほてっていて、内側では溶鉱炉の火が燃えているようだっ た。しかし、先ほど郵便受けのところでみせたあの苛立ちの影はなかっ た。私は、安堵して、その渦巻き流れる髪を愛撫しながら、「愛してい るよ」と囁いた。そして、静かに悠紀の腰を引き寄せた。 「鎧戸を閉めなくては」 荒い息づかいになって、悠紀は囁いた。体に回した手はそのままにして 私は、伸び上がって、片手で鎧戸を閉めた。 その時だった。悠紀が陽気な声で聞いてきた。 「鎧戸って、フランス語で何といったっけ」 「Persienne」 私は1年前を思い出した。私たちはよくこういう他愛ないやりかたで、 単語を覚えようとしていたのだ。 「英語では?」 「ほら、カメラのシャッター」 「おあいにくさま」 笑いながら悠紀は、体をくねらせた。そういう悠紀が無性にいとおしく なって、私は悠紀のしなやかな体の上に覆いかぶさろうとした。 悠紀は、私を突きのけた。態度が急変していた。 「Venetian Blindよ」 「ブラインドよ」 悠紀は、眼を光らせていた。声もなく、その瞳に涙がきらっと光って流 れ落ちた。私は、その意味に気付いた。悠紀は、私がブランド(盲目) だと訴えているのだった。「しかし、何について?」 「私って、ほんとにいやな子ね。気まぐれで、お転婆で。いつになっ ても、あなたにふさわしい人になれなくて....私たち、一体、いつ結婚 できるのかしらね」 ふたりだけの結婚の約束をして、その甘く華やかなイメージに頼りす ぎて、複雑な説明を要しそうな問題をみな先送りしてきた。一時の肉の 交わりに任せてきた傾向が確かにあった。とくに海外留学が決まってか ら、3ケ月も悠紀をほったらかしにしてきたのはまずかった。いくら恨 まれても仕方がない。考えてみれば、悠紀が怒るのも当然だった。 悠紀は、寝台から立ちあがると、天井を仰いで、しばらく眼をつぶっ ていた。何事か、決定的なことを言おうとしているようだった。私は、 悠紀の伸びきった首の線を美しいと思った。 その時、ドアがノックされた。ばあやの声がした。「お坊ちゃま、ク ルマがきましたよ」
運転手にしばらく待ってもらうように頼んでから、私は部屋に戻って、 裕紀と向き合った。裕紀は、今度はうつむいていた。これ以上小さくな れないほどかがんで、両手で頭をかかえていた。そんな裕紀を私は後ろ から丸ごと抱きかかえてから、あごを両手でもって、顔を上げさせ、私 の方に振り向かせた。そこには、固く眼をつぶって青ざめた顔があった。 私は、見てはならないものをみてしまっていた。 しかし、それに続くシーンは、悪魔が演出しているかのようだった。 突然、裕紀は唇をゆがめたかと思うと、大声でわめいた。屋敷中に響き 渡るような声だった。 「知ってる? ママが、愛人、だった、って」 私は、仰天した。裕紀にとって、この場合、ママといえば、夏野夫人の ことでしかありえない。 「で、その相手は?」そう問い返そうとして、私は、やめた。相手は、 父にきまっていた。 私は、能面の無表情をもって裕紀を眺めた。デジャビュ(既視感)に 捉えられていた。 青い封筒を踏みにじったのを見たとき、私には、それが意味するすべて が見通せた。どういう経緯で悠紀が、その事実を知ったのか、それは問 題ではなかった、悠紀は、とにかく知ってしまったのだ。しかし、私は その光景を頭の中から消去したのだった。見なかったことにしよう、存 在しなかったことにしよう。パンドラの箱は開けないようにしよう。 「どうしたの。笑わないの。ママは、あなたのお父さまの妾なのよ。 黙ってるのね、私は、妾の子だから、あなたの軽蔑にすら価いしないと いうわけ?」 虚ろに開かれた瞳孔、ひくつく鼻腔、私はその表情を、ただ可愛い、美 しいと思った。 私には、夏野夫人が、妾だろうと、愛人だろうと、浮気相手だろうと、 そんなことは一向に構わなかった。父が母を裏切ったことは、許せなか ったが、それは世間の多くの甲斐性のある男たちの現実でもあった。問 題の核心は別のところにあった。16歳の多感な裕紀がどう受け止める かにあったのである。 私は、父のいう通り、恵まれた環境にあった。しかし、それは父の重 圧を絶えず意識し、人生のすべてが父の手で設計され、私には囚人の自 由しかないということでもあった。近づいてきた友人は、私の出自を知 ると、嫉妬から離れていった。誰も、私に心を許そうとはしなかった。 その独房で唯一許されていた玩具が、いわば裕紀だったのだ。いま、そ れも取りあげられようとしていた。 冷静に考えてみれば、私と悠紀の愛は、砂上の楼閣のようなものだっ た。それは、父と夏野夫人の親しい関係という緑豊かな大地の上に築か れていたのだが、いまや、その大地は不毛の砂漠となり、裂け目からは 地獄がみえてきたのだった。 私は、かつて影を悪魔に売り渡した男の物語を読んだことがある。父 の影である私が、父から離れる日を夢みたこともある。たとえ、悪魔に 売り渡されようとも、その日は祝祭の輝かしい日になるだろう。ところ が、いま、私の目の前にいるのは、父の影である私のそのまた影である 裕紀という名の傷ついた少女だった。私には、その治療法が分からなか った。私の受けた実務的な教育は、その治療法については、一切、何も 教えてはくれなかったのだ。 寝室のドアが再びノックされて、ばあやの声がした。 「お坊ちゃま、汽車に乗り遅れますよ」 お坊ちゃまか、ほんとにクソお坊ちゃまが、この俺なんだ。
時計をみた。駅までは車で20分だった。ばあやが心配するように、 あと10分ほどしかないのに、まだ、荷支度もしていなかった。次の列 車は、30分後だったが、鈍行だった。急行は、2時間後になる。 私は、裕紀に、口づけして、戻ってくるから待っていてと言って、い そいで部屋に戻って、ばあやが見守る中で、鞄に荷物を放りこんだ。あ せっていて、みっともないほど、手が小刻みに震えた。秒針の音が刺す ように聞こえるのだった。 裕紀の部屋に戻ると、裕紀は、何と全裸になっていた。ベッドの上に 横たわり、枕の上に乗った頭を組んで両手で支え、天井を眺めていた。 それは、ゴヤの「裸のマヤ」そっくりだった。私を認めて、顔を向けた が、その顔は、涙でびしょびしょだった。裕紀は、両手を差し出し、私 を招いた。アルバ公爵夫人というよりも、幼い娼婦のようだった。おそ らく、裕紀は、目撃してしまった夏野夫人の姿を再現してみせているつ もりなのだろう。夫人は、いつもそのようにして父を迎え入れているの だろうか。 「馬鹿な真似をするな」 私は、突然の激しい怒りに駆られて、ベッドの裕紀に近づいて、体をゆ さぶり、寝具をその上にかけた、裕紀の表情に悦びが、愛せられている ことの悦びが輝き、私たちはみつめあった。 しかし、裕紀は寝具をはねのけると、また、全裸になった。黒い茂み が反抗する小動物のようだった。裕紀の手は、一旦恥ずかしげに、その 小動物を覆うかにみえたが、腹部に移動し、白いふくよかな丘を撫で回 した。私は、それを夏野夫人が父を誘惑するポーズと受け取り、再び、 寝具をかけ直そうとしたが、裕紀の手がその動きをさえぎった。 その時だった。 「私、妊娠したの」 昼の蛾が鎧戸にとまって、死んだように静かにしているのが眼に入っ た。裕紀の眼がきらりと光って、私の表情の変化を精密機械のように測 定しているのが感じられた。私は、そっと裕紀の手を離した。 真夏のような暑さの日の連理の木の下での出来事がよみがえってきた。 駆け寄った私、はね飛んだ麦藁帽子、草地にどうっと倒れこんだ二人、 茂った葉に遮られみえなかった太陽、そして底冷えのする大地の重たさ。 私は、すぐに喜びの表情を浮かべるべきだったのだ。しかし、実際に は、正反対の感情が渦巻いていた。海外留学直前になって、こともあろ うに、妊娠の知らせとは。 私は、息詰まる裕紀の沈黙の凝視に耐えられず、あたかも私が一方的 に犯罪を犯したかのように、目を逸らし、崩れ落ちるように寝台に腰を 下ろした。こんな大事なときに、男らしく振舞えないとは。私は自嘲し た。 裕紀があえぐように言った。 「あなたの子なのよ。藤村のでも、お父さまの子でもないのよ」 藤村は、あの家庭教師の演劇青年のことだった。裕紀は、まさか、絶望 のあまり、誰かれの見境なく、体を売り渡しているのではあるまいな。 私は、忌まわしい連想を振りきるように、体をかがめ、裕紀の腹部に顔 を埋めた。あの時の大地のように冷え冷えとしていた。裕紀は、私の頭 を腹部に押さえつけて、歌った。 「こんにちわ、赤ちゃん」 次第に、腹部は暖かくなってきて、私は、地中のマグマが湧きあがっ てくるのを感じた。こうやって、あっけなく子供はうまれてくるのだ。 そして、ひとはみな、生命を謳歌する間もなく、傷つき、悩み苦しみな がら、死んでいくのだ。永遠の不条理の連鎖。 ビー、ビー、ビーッ。慌しいクラクションの音がした。もう間に合わ なくなるという運転手の警告だった。その音に驚いてか、鎧戸にとまっ ていた蛾がまっしぐらに私の方に飛んできて、胸に当って、床に落ちた。 あっけない死だった。 「もう、行かなくっちゃ。Au Revoir」 私は、裕紀にそっと口づけすると、別れの言葉を告げた。自分の声とは 思われなかった。行かなくっちゃ、行かなくっちゃ。私は、ドアをはね 開け廊下を駆けぬけた。背後で、裕紀が絶叫した。 「行かないで!」 列車は、轟音をあげて闇の中を疾走していた。耳の中で、裕紀の「行 かないで」という叫びがこだましていた。ばあやが走り去るクルマにむ かって、何度も何度も頭を下げていた光景が浮かんでは消え、浮かんで は消えた。 やがて、都会がちかづいてきた。そこには、まばゆいほどの明るい闇が あった。しかし、その明るさが、私をどこへ導いていくのか、20歳の 私には、皆目、見当もつかなかった。
第3章 幽鬼の館
「もう15年もたったのか」 私は、窓から身体を乗り出すようにして、狂暴な獣のように枝葉を月光 に突き出している連理の大木を眺めながら、あらためて思った。 15年の歳月は、あっという間にすぎた。 ボストンでの最初の半年は、最悪だった。流暢に英語を喋れないために、 人に会うのが苦痛になった。毎日、部屋に引きこもったまま悶々として いた。裕紀からは、何の便りもなく、私も意地を張って、便りがあるま で返事を出すまいと誓った。やがて、現地に慣れてきて、ようやく自分 を取りもどしはじめたと思ったら、今度は、日本の大学生活では考えら れないような猛勉強が待っていた。 なかでも、リブリー教授の授業は恐怖の連続だった。指名され、嵐の ような質問責めにあい、答えが充分でないと満座のなかで、ユーモアた っぷりに嘲笑された。メートル読みといって、毎晩、1メートルもの厚 さになる本を読みこなして、翌日の授業に備えねばならなかった。毎日、 午前2時まで勉強できたのは、若さのゆえだっただろう。 やがて、学習サークルに入って、授業に備えて教え合うようになって からは、心を開ける友人もでき、リブリー教授の授業で恥をかくことも なくなった。 Jun、Gooood question などと、ほめてもらえるようにもなった。 そんなとき、夏野夫人から国際電話があった。声が裕紀に似ていたの で、なつかしくなって気安い口調で応対しているうちに、泣き崩れてい る声は、やや丸みを帯びているので、夫人だと気付いた。 訃報だった。 「浩之さん、お父様が亡くなられたわ。お母様も後を追って亡くなられ たわ」 晴天の霹靂とは、このことだった。受話器をもったまま、私は、寮の廊 下に崩れ落ちて、手をついた。初秋の冷たさが伝わってきた。 結局、私は、葬儀のために日本には帰らなかった。ちょうど期末試験 ということもあったが、まだ父に対するこだわりがあった。また、母の 骸なんかみたくないという思いもあった。母は、いつもきちんとしてい て、目が輝いていなければならなかった。 秘書の重原や親戚の叔父からの電話もあったようだが、私は一切の連絡 を絶った。自分では、修行僧になったような気持だった。 そんな時、学習サークルで知り合ったフランス人女子学生JANNE が、教室に入っていくと待ちかねた様子で、タイム誌を差し出した。 「日本人実業家が自殺した記事が載っているわ、読んだ?」 日本では、おりからの金融恐慌で、湖水地方きっての名門実業家・室生 悠一朗がハラキリ自殺をし、その夫人が、日本間のかもいに美しい帯を 使って首吊り自殺をした。純白の足袋を掃き、こはぜをきちんととめて いたのが印象的だった。夫が死ぬと、妻も後を追う。日本人は、まだ、 封建時代の遺風を保ち続けているようだと結んであった。 何と、両親の死亡記事だった。なつかしい顔写真もあった、 「父は、破産したのか」私は、留学資金がどうなるのかの方が気になる 自分を恥じた。しかし、ある種の開放感を味わったのも事実だった。ひ とつの時代が呆気なく終わりを告げたのだ。それも劇的な結末で。 HIRO,same name. Your father? No! Same name, but not my father そう反射的に答えてから、私は、自分が両親とおなじように、この宇宙 に浮遊するひとつの塵となる運命にあると思った。何をしようと、何者 になろうと、誰も止めることができない自由な存在になったと感じた。 それは、ひとつの啓示のようだった。
15年。短いようで、長い時間。宇宙創世以来の気の遠くなる時間と 比べれば、瞬きのような一瞬。そして、驚くべきことに、瞬きの中の、 そのまた瞬きのような瞬間が、いま、この屋敷の闇の中から記憶の河の 洪水のように押し寄せてくるのだった。 「よし」と私はひとりごちた。 今夜はこの屋敷にせっかく滞在するのだから、一仕事に取りかかるのは 皆が寝しずまってからにして、いましばらくは、裕紀との思い出に純白 の時間を捧げることにしょう。 思い返せば、駆け抜けてきたこの15年だった。その間には、事業や 私個人への数々の毀誉褒貶、権力争い、駆け引きや心理戦、事業運営や 投資の決断、そして資金繰りや節税対策などの神経を逆撫でするような ことがらが後から後から襲いかかっってきた。私は、ある時は、決然と 問題にチャレンジし、ある時は、迷い苦しみながら、それらの諸課題を 先送りしてきた。表面では、社員や取引先の手前、強気を装ってきたが 正直なところ、もはや、問題は私の手に余っていた。 「もういい」 今夜だけは、そうした懸案事項から用心深く身を遠ざけて、過去という いわば決着のついた静穏な時間に侵ろうではないか。 私は、灯りをともす。薄絹のシェードで覆われたスタンドの周囲に、 ほのかなオレンジの光の露がこぼれる。あのティファニーがデザインし たアール・デコ調の名品。父が夏野夫人に得意そうに贈った品物。 「人生は短く、芸術は長し」若い頃は、単なる気のきいた諺だと思って いたが、父の事業も、肉体も滅び、残るのは、こんなスタンドとあとは 例の品物くらいになってしまったのだ。 清潔な純白のシーツ。ゆったりとした純白の枕が、輝きわたり、寝台 の背の見事な獅子の透かし彫りが黒光し、ゆっくりと襞の多い喪裾のよ うな黒い帳が浮かび上がってくる。そして翳の深い半影のなかに、繊細 な花模様のペルシャ絨毯が重い闇の中に横たわっていた。高い天井の四 隅には唐草模様の壁紙が剥げ落ち、蜘蛛の巣が張っていた。 照らし出された寝室は、洗練された典雅な趣味、重々しい豪華さ、渋 くくすんだ穏やかさなどに支配されていたが、時を経たために陰鬱で不 調和な部分が頭をもたげていた。それらは、せっかく平静になりかけて いた私の精神に息苦しいせわしないもの、指先をこすりあわせ、唇を引 き締めないではいられないような泡立つものを次第に育みはじめる。 私は、注意深く寝室を見回し、緋色の光線の投げる荒涼たる効果や、 重たい花の匂いがことさらに際立たせている記憶の河に入り込んだ。 そして、壁の空漠としたひろがりが、記憶の領域に強く働きかけてきた。 「そうだ、あの絵がない」 金色の額縁。凄惨な燐光を放っているような1枚の絵。ルオーのキリ スト受難の絵。それを入手するのも、今夜の訪問の目的のひとつだった のだが、その美しい高価な絵が然るべきところに掛かっていないのだ。 記憶の河を溯るうちに、私は、生々しい思い出、裕紀と過ごした時間に 飛び込んでいった。連理の木の下での交わりのあと、私と裕紀は、続き 部屋のうち、キリストの絵の掛かっている寝室に忍び込んで、ぴったり 合せたお互いの唇に熱い息を吹き込んだ。裕紀と私は大きく見開いた瞳 に、キリストを映しながら、背徳と悪徳の快感にふけったのだった。父 と夏野夫人のようにして。 しかし、私たちは、ギリシャ神話になるダフニスとクロエの牧歌的な 恋に臆面もなく自らの恋を擬していた。青春の傲慢さに酔いしれながら 緋色の呪縛に満ちた光線の下で、重たい花の匂いをかぎながら、やけつ くような愛撫にあえぎながらも、交わりをつづけたのだった。あられも なく開かれた裕紀の体、醜く開けられた口、狂気じみた拍子で震わされ た腰。これらにおののく官能の喜びを見出し、また頬をすりあわせ、動 悸のおさまらぬ胸を合せながら、秘儀に移っていったのだった。 あの妖しい光彩を放つ時間の最後にも裕紀の言葉は繰り返された。 「私たち、たとえ、別々になったとしても、将来、また、あの連理の木 のように、必ず一緒になりましょうね」
ああ、またしても連理の木だった。記憶の河の河口にはいつも連理の 木があった。私は、黴くさい澱んだ空気にいたたまれず、ふたたび月の 光に招きよせられるように、部屋のもうひとつの窓のほうに歩み寄って 窓を開け放った。間近に、空を覆うほどの黒い樹木の影があって、無数 のろうそくが灯っていた。濃密な花の匂いが吹きこんできた。ただれた ような甘い香り。白木蓮だった。 「マグノリア!」 これと全く同じ光景が私の前にひろがっていた。あの時、私は、ニュー オリンズのソニア・ホテルにいた。中庭に面する窓を開け放つと、マグ ノリアの大木が間近かにあって、白い花が咲き乱れていたのだった。世 界中から観光客が集まって、仮面舞踏に加わるマルディ・グラの大騒ぎ を、ぜひ一度見たいというJANNEのたっての希望で、わたしたちは ボストンから飛行機を乗り継いでやってきたのだった。 そばには、その頃は、学友から恋人に昇格していたJANNEがいた。 突然、彼女は、私の後ろに忍び寄って、両手で私の目を隠し、耳もとに 口を寄せて、こう囁いたのだった。 「HIRO、YUKIは、アマンか」 JANNEは、フランス人の通例で、Hが発音できず、私の名前の浩之 を、いろゆきと発音するのだった。 「浩之は、アマン(愛人)か」 最初、私は、JANNEの言葉をそう受け取った。愛しているのではな く、単に性衝動のはけ口としてしか扱っていないのかという問いかけと 受取ったのだった。つきあいが深くなるにつれて、私はこの問題に、い つか答えを出さねばならないと思いながら、一日伸ばしに伸ばしてきた のだった。 こうして、祭りを見終わって、JAZ発祥の場所といわれるプリザベ ーションホールでの演奏も、超満員だったが、無事、聞き終えてホテル に戻ると、あとは、ほかにやることはなかった。JANNEが落ち着く わというフランス語の飛びかう、このアメリカの中の異国の地での滞在 の終わりには、JANNEとの仲について何らかの答えを出さねばなら なかった。そして、その時がやってきたのだ。 「Janne,Je t'aime」 愛してるよと無難に答えようとして、振り向くと、般若の面が笑いか けていた。口は耳まで裂けていた。マルデイ・グラの祭りのなかで、日 本人団体客と出会ったとき、JANNEが私を放り出して、小太りの酒 に酔った中年男と長いこと話しこんだあと、自分の被っていたドラキュ ラの面と交換したものだった。 「HIRO。YUKI NATUNOは、あなたのアマンか」 JANNEは、もう一度、文節を区切って質問してきた。私は、仰天し た。なぜ、JANNEが裕紀の姓まで知っているのか。 私の驚きを確認すると、JYANNEは、畳みかけるように言い放った。 「HIRO、あなたは、私にウソをついた。あなたの父親は、この前、 タイムに載っていたYUICHIRO MUROOではないのか」 サファリ・ルックで上から下まで白で統一したJANNEの白い顔に 赤みが射した。怒っているのかと思うと、JANNEは、ずれかけた般 若の面をむしりとって、抱きついてきた。 「ねえ、夏野裕紀に逢わせて、取材させて」 事の意外な展開に戸惑っている私に、JANNEは事情を説明してく れた。まったく知らなかったが、裕紀はいつの間にか、売りだし中の舞 台女優になっていたのだった。彼女が主演する「欲望という名の電車」 という舞台は、日本はもとよりフランスでも大評判になっていた。日仏 友好記念でパリで行われた舞台は、観客が総立ちになって、拍手が鳴り やまなかったという。フィガロ紙などは、蝶々夫人の再来とまで褒めた たえたという。 ようやくJANNEが裕紀のことを知っているのは了解できたたが、 なぜ、裕紀を私と関連づけたのか、そうした私の問にJANNEは、あ っけらかんと種明かしをしてくれた。さきほどバーボン・ストリィート のレストランで話しこんでいた日本人との会話がその答えだった。 男は、JANNEに「ところで、あなたの連れは、何という名前か」 と聞いたそうである。 JANNEは、「HIROYUKI MUROOだが、何故、そんなこ とを聞くのか」と問い返した。 すると、彼は、「やっぱりそうか」といって、実は、昔、自分は、彼の 父親の経営する新聞社で働いていた。同僚のひとりが、彼に留学の手ほ どきをしたという自慢話を聞いたことがある。自分は、彼の父親に、に らまれて左遷され、結局退職する羽目になったが、その男は、出世して いまは役員になっていると口惜しそうに説明したという。 そして、声をひそめて、日本でいま売れっ子になっている新人女優・」 夏野裕紀を知っているかと聞いてきた。 JANNEが、「知っている。フランスでも評判になっているから」 というと、にやりと笑って「どうして夏野裕紀が主演に抜擢されたか、 知っているか」と聞いた。JANNEにとっては、話題が、ミーハー的 な方向に外れていったので、不満だったが、男がいかにも話したそうに しているので、うなづいた、 すると、男は「FRENCH CONNECTION」と、妙な駄洒れを言ったあと、 「実は、夏野裕紀の母親は、マスコミの雄・室生祐一郎の愛人だった。 それで娘のことを無理やり頼みこんだのだ。まあ、本人の才能もあった のだろうが。世の中、みんなコネばかり。いやな世の中になったものだ。 ところで、あなたが、将来、マスコミで活躍したいのだったら、まず手 始めに、夏野裕紀の独占インタビューをするといい。彼女のインタビュ ー嫌いは徹底しているからな。連れの男は、室生悠一郎の一人息子で、 昔、裕紀といい仲だったようだから、まず、間違いなく紹介してくれる さ」 「裕紀に紹介しないと、私、たたるよ」 JANNEは、そういって、また般若の面を被った。古典的で、エキゾ チックな面は、いまや怒ったときの能面のような裕紀の顔に変わってい き、さらにいまにも幽鬼が遅いかかってくるかにみえた。 私は、悲鳴をあげた。そんな私をJANNEは、天蓋つきのベッドに 押し倒して、嵐のような接吻を浴びせかけてきた。 「IRO, Je t'aime! 」 私たちは、マグノリアのただれるような官能的な匂いのなかで、全身汗 まみれになりながら、荒々しいスポーツ・セックスに溺れていった。 私は、なぜか次第に、裕紀と交わっているような奇妙な錯覚に陥ってい くのを押さえることができなかった。 「裕紀、すっかりご無沙汰してしまって、ごめん。意地を張っている うちに、両親の突然の死もあって、いつの間にか、逆に、おまえから、 すっかり見放されたと思うようになっていたんだ。ごめんな」 私は、1千キロ彼方にある幻の裕紀を強く抱きしめた。JANNEは、 それを、私の彼女への愛情の深さと受けとったのか、また激しいキスを 浴びせかけてきた。
開け放った窓から蛾が舞いこんできた。オレンジ色の灯りの周囲を狂 ったように飛びまわり、ランプ・シェードにぶつかって、床に落ちた。 それにタイミングを合わせたかのように、隣室で物音がした。 おびただしい記憶の河を遡っていた私は、夢想からさめて、隣室の壁 に掛かっている絵のことを思い出した。夜の重い闇に投じられた緋色の 光線だけが、その絵を照らし出すのだった。実際、その絵は、明るい場 所で鑑賞するには、あまりにも、陰鬱であった。しかし、逆に、暗い場 所で鑑賞すると、キリストの悲しげではあるが、強いまなざしが、ゆっ くりと輝きはじめるのだった。あたかも画家が、再生の眼差しの一瞬を 捕らえて、見るもののために解き放つかのように。 私は、その再生の眼差しをみたいと思った。そうすれば、奇跡が起こ り、私の財政的ピンチも、裕紀との失われた時間も、何もかもが元に戻 るのではないか。少なくとも、再生への一歩を踏み出せるのではないだ ろうか。 しかし、キリストの絵は、自からが掛け金を下ろして封印してしまっ た隣室にあった。掛け金を再び外さない限り、絵は見られない。しかも 盲目の夫人が休んでいる部屋に、夜間、忍びこむのは、非常識きわまり ないことになる。 「どうしても、もう一度、あの絵が見たい」 禁じられた遊びのもつ魅惑を前に、私は、欲望と抑制、衝動と怯えの間 をいきつ戻りつして、やがてその間にはさまれて身動きもできなくなっ ている自分を見い出した。喉が締めつけられるようだった。 再び、物者がした。私は耳を澄ます。窓際の方だろうか、柔らかい衣 ずれの音が、今度は、私の好奇心と想像力の火をかきたてた。美しい盲 目の夫人は、どのようにして就寝の支度を整えるのであろうか。寝巻き に着替えるとき、夫人の豊かな両の乳房を絹がすべり落ちる音が聞こえ るかのようだった。 もし、私が伯父になりすませて、隣室に忍びこんだらどうなるだろう か。伯父は、かつて父が夏野夫人にしたように、乱暴に着衣をはぎとり 狂ったように冷たい腹部にキスの嵐をあびせかけるのだろうか。獣のよ うな動きとうめき声のあと、おそらくシーツは、濃密な愛液の名残りに 彩られるのだろうか。 少女のくぐもったような小さな笑いが聞こえくるようだった。 「あなたも、伯父様さまと同じことをなさるのね」 空耳だろうが、闇の中で、それは、般若の面の高笑いに変った。 「おまえも、同じ穴のムジナか」 私は、にわかに正気にもどっていた。 エミがほのめかしたような夫人への不埒な行為を、この私が犯すわけは ない。私は、この屋敷に純粋に財政問題解決のためにやってきた。そし て、たまたま屋敷に立ちこめる甘美な匂いに追い立てられて、裕紀との 失われた時間も取り戻そうとしている。それ以外のことは、シナリオに はない。私は、微笑した。それは、さすがに世事の疲れを宿してはいる だろうが、健康な若者の影のない微笑のはずだった。 私は、両腕を思いっきり伸ばして、深呼吸をした。 邪悪な想念を招き入れる夜の蛾がやってこないように灯りを消し、しば らくは風を入れ続けるために窓を開け放っった。白木蓮の香りが流れこ んでくるなか、清潔な白いシーツの上にのびのびと寝ころがった。 JANNEとの別れのシーンが蘇ってきそうになって、毛布に顔を埋め た。フラッシュ・バックのように、JANNEの笑顔、泣き崩れる顔が 交互に浮かんだ。 幸い、それがすぐ終わったので、毛布から顔をあげると、満月の澄み きった光りが、白木蓮の葉の間から部屋の中の白いシーツを照らしてい た。そして、風にそよぐ葉が月光をさえぎって、リズミカルな波紋をつ くり出していた。それは、あたかも、母の穏やかな愛撫のようだった。 私は、静かに目を閉じた。
やがて疲れが私を快い眠りに誘っていき、深い眠りの前の万華鏡の色 紙を思わす断片的な夢が現れてきた。 最初は、エリカに託して裕紀に贈った黄金のブレスレットだった。ア ダムとイブが楽園でりんごの木の下で抱擁しているという絵柄で、ティ ファニーに特注したものだった。裕紀の次の公演で演じる役が「クレオ パトラ」だと聞いて、イブの顔は、裕紀そっくりに作ってもらった。 しかし、夢の中では、りんごの木は、連理の木に変わっていて、毒蛇 がどこからともなく現れて、太い幹をするするとよじのぼったかと思う と、裕紀をめがけて襲いかかり、首にまきついたのだった。夢の中では アダムになっていた私は、異変に気付いて駆けより、毒蛇を引き離そう としたものの、らんらんとした目でにらまれて、すくみあがっていた。 毒蛇は、裕紀の首筋にまきつき、血を吸い続けるのだった。私は、毒蛇 が裕紀の首の骨をばりばりと噛み砕く音を聞いていた。 もう一つの夢は、いかなる半睡のメカニズムを経てか分からなかった が、記憶の河をはるかに遡って、私は幼年時代にいた。平凡な誰にでも あるような記憶の中の光景だった。 それはうだるような熱さの真夏の真昼だった。麦藁帽子を被り、手に 虫かごをもった私は、平坦なアスファルト道路を歩いていた。むっとす る熱気に包まれて、道は果てしなく、地平線まで一直線に伸びていた。 電線の影がくっきりと、道路に写って、規則正しい間隔をおいて、電柱 がたるんだ電線をもとの位置に引き上げ、新たなサインカーブを作り出 していた。最初は、ほんの戯れから、私はそのカーブを忠実にたどって 歩いてみた。いつでも、この任意の歩行をやめることができたし、現実 の私は、いつもはすぐその遊びをとりやめるのだが、夢の中の私は、な ぜか電線のつくるカーブから離れられなくなっていた。それは永遠に続 くように思われ、カーブから離れることは、神の恩寵から見放されるこ とを意味するように思われた。激しい疲れと不安と期待のなかで、幼い 生命は、その存在を永遠の高みにまで引き上げようと格闘していた。 やがて、私の足が硬直して、これ以上は一歩も先に踏み出せなくなっ た途端、電線の影がつくるサインカーブは、軽やかに踊りだし、なにや ら見なれた文字に変形していった。YUKI NATUNOと読めた。 それは、舞台写真の裏に書いてある裕紀のサインだった。裕紀は、クレ オパトラに扮していて、アントニウスに扮した美青年に寄りかかって、 高台に設営された天幕の中からナイルの三角州を眺めていた。あかあか と照らされた無数のたいまつの火をうけて、クレオパトラの腕には、私 の贈ったブレスレットが金色に輝いていた。アントニウスがクレオパト ラのほうに頭をかしげて接吻の動作に入ろうとしていた。それに応えて クレオパトラは、月を仰ぐような姿勢で接吻を受け入れようとしていた。 私は、電柱の影から、叫んでいた。裕紀、そんなことをしてはいけない。 だめだ、だめだ。 そのとき、私は、夢から覚めた。私は、いつまでも電線の影から離れ られない意地っぱりの少年でも、また、アントニウスとクレオパトラの 接吻を妨害する少年でもなかった。32歳の、財政的に追い詰められて はいるものの、健康な青年であった、私は、そのことを祝福しながら、 枕もとのスタンドの灯りをつけ、腕時計をみた。まだ、1時間も眠って はいなかった。 それにしても、どうしてあのブレスレットのことが、気になるのだろ う。そうだ、ティファニーに特注したもので、あまりに高価だったから かも知れない。あれがあれば、財政的ピンチ解消の一助になると思った からだろうか。電線は何を意味するのだろうか。毎月、借金の返済に追 われているのが、あのサインカーブの連続になったのだろうか。 そして、裕紀は、なぜあんな舞台写真を送ってきたのだろうか。YU KIのサインのあとには、WITH LOVEとあったが、それ以外に は、何の文字も書かれていなかった。腕輪をはめているところを見ると エリカが裕紀に会ったことは間違いない、しかし、エリカからも何の音 沙汰もなかった。取材に成功したのか、パリに帰ってからどうしている のか。記憶の河のほうは、氾濫するほど、年々色彩豊かになっていくと いうのに、現実の私の人生のほうは、彩りも消え、ますますモノトーン になっていくのだった。ワークホリックの人生。
また、隣室で物音がした。私は、反射的に耳を澄ませた。寝具のすれ る軽やなか音、ペルシャ絨毯を敷いた床の上でスリッパがひっきりなし に立てる音、私のいる部屋のほうに近づいてくる音。そして静けさ。し ばらくすると、それが、また繰り返されるのだった。これらの忍びやか な音には、紛れもなく赤裸々な苛立ちが聞きとれたので、盲目の夫人が 寝つかれずに、部屋の中を歩き回っていて、時折、内側の扉に耳をつけ て伯父の様子を窺っているのではないかと思えた。最初、私はその想像 を打ち消した。いいかげんにしろよ、架空の小説の一場面を創作するの は。しかし、カチッという鍵の音がした。何度も、何度も。 あの扉はこちらからしか開かないのだったな、開けるものか。発作的 な自尊心に駆られて、私は子供っぽく灯りを消し、音が聞こえないよう に毛布を被った。しかし、乱れたあえぎにも似た異様な音はなかなか止 まないので、時間は、あたかも夫人のことを思うためのTVの特別枠の ようになってしまうのだった。 えい、構うものか。私は、寝台に横たわったまま、毛布をはねあげ、 熱くほてった枕の位置をずらせ、目は閉じて、夫人が演奏する様々な協 奏曲に耳を傾けることにした。音は色彩を喚起するやいなや。大学時代 に心理学の授業で聞いた理論が蘇ってきた。美しい丸みを帯びた皮膚、 美しい白い陰影のあるくびれをもった足首、欲望に耐えかねて、顔をの けぞらせて、闇をみつめる様子、やわらかなカーブを描き震える乳房、 もだえのあまり天空まで狂い立つ黒い豊かな髪。私はイメージが孵化し 放埓なまでに暴走していくのを抑えることが出来なかった。 私は、体を起こして、現実の闇と向き合った。月光が私のイメージを 冷却してくれた。私は、ごく平凡な躾のいい若者なのだ。夫人は、薬を 呑もうとして起き出したのだが、目が不自由なので、なかなか日頃常用 している睡眠薬がみつからっずに、いらいらして歩きまわっているのか も知れないと再解釈をした。しかし、冷静に考えてみれば、それ自体、 不躾な想像だった。
また、隣室で物音がした。私は、反射的に耳を澄ませた。寝具のすれ る軽やなか音、ペルシャ絨毯を敷いた床の上でスリッパがひっきりなし に立てる音、私のいる部屋のほうに近づいてくる足音。そして静けさ。 しばらくすると、一連の動作が繰り返されるのだった。これらの忍びや かな音には、紛れもなく赤裸々な苛立ちが聞きとれたので、盲目の夫人 が寝つかれずに、部屋の中を歩き回っていて、時折、内側の扉に耳をつ けて伯父の様子を窺っているように思えてならなかった。最初、私は、 その想像を打ち消した。いい加減にしろよ、架空の小説の一場面を創作 するのか。しかし、カチッいうノブを探る音がした。何度も。 あの扉はこちらからしか開かないのだったな、開けるものか。発作的 な自尊心に駆られて、私は子供っぽく灯りを消し、音が聞こえないよう に毛布を被った。しかし、乱れたあえぎにも似た異様な物音は、なかな か止まないので、時間は、あたかも夫人の動きを追跡するラジオの特別 番組のようになってしまう。 えい、構うものか。私は、寝台に横たわったまま、毛布をはねあげ、 熱くほてった枕の位置をずらし、目は閉じて、夫人が演奏する様々な協 奏曲に耳を傾けることにした。 音は、はたして、色彩を喚起することができるか、それは、大学時代 心理学の教授が提起した問題であったが、その理論を確かめる機会が訪 れようとしていた。 答えは、明らかにイエスだった。なだらかな丸みを帯びた皮膚、白い 陰影のあるくびれをもった足首、欲望に耐えかねて、顔をのけぞらせて 闇をみつめる様子、やわらかなカーブを描き震える乳房、もだえのあま り、天井にまで狂い立つ黒い豊かな髪。私はイメージが孵化し、放埓な までに暴走していくのを抑えることが出来なかった。 体を起こして、私は、現実の闇と向き合った。月光が私のイメージを 冷却してくれた。私は、ごく平凡な躾のいい若者なのだ。夫人は、薬を 飲もうとして起き出したのだが、盲目のこととて、なかなか日頃常用し ている睡眠薬がみつからない。そこで、いらいらして歩きまわっている のだという解釈をしてみた。しかし、冷静に考えてみれば、そんな想像 自体が、不躾なことだった。 この時、私はあざやかなしるしを聞いたのだった。廊下に面した扉が 開く重々しいきしみ、廊下を遠ざかっていく明瞭な足音。足音の最後の かすかな気配が消えた。私は、夫人が部屋から出ていった明らかな確証 を得て、はじめて、先刻から並々ならぬ集中力で、夫人の発する物音に 聞きいっていたことに気付いた。代わって訪れた気の遠くなるような静 寂の時間を、寝台に腰をかけて足をぶらぶらさせながら過ごした。 私は、非常なジレンマに陥っていた。私が描いた自画像の健康な若者 は、とっくのとうに寝台に潜り込んで、寝息を立てているべきなのに、 現実の私は、夫人の動静に強い関心をもち、寝台に起き上がって、あろ うことか、顔をこわばらせていた。愚かで低劣な若者、それが私だった。 しかし、次の瞬間、私は驚嘆すべき結論に飛びついていたのだ。 健康で躾のいい若者なんてありえない。そんなありえないイメージに捕 われて、ためらったりするのは、まやかしだ。少女もすすめていたこと だし、自然な心の動きに身を委ねるべきではないのか。 この放埓な論理基盤の上に、もうひとつの論理が加わった。あの部屋 にある類い希れなジョルジュ・ルオーのキリストの絵を見たいという願 いを実現する絶好の機会が、いまや、訪れている。夫人の居ない間に、 絵をみてしまおう。 この考えは、一見すると、害のない色彩を帯びていたので、私の長い 間のためらいを無力化するほど、魅惑的だった。両手をせわしくすりあ わせ、足をぶらつかせながら、私は、すばやく、このプランを確認した。 夫人に気付かれないならば、絵をみることも、場合によっては、壁から 外して頂戴してしまうことも、実現不可能ではない。 しかし、いつ夫人は戻ってくるかもしれなかった。切迫した時間が、 私から常識的な判断力を奪いはじめていた。断りなしに女性の寝室に忍 びこんだりして、いいのか、おまえ。
私は、寝台から飛び降りた。ドスン。しまった。私の心臓も飛び跳ね た。用心が肝心。私は、黒豹のように足音を忍ばせて、素足に冷え切っ た絨毯の感触を確かめながら、夫人の部屋に続く扉に近づいて、掛け金 を外した。カチッ。心臓がどきどきした。ドアのほうは、幸いにもきし むこともなく開いた。わずかな隙間から、中を覗きこんだ。 寝台の灯りがともっていたので、部屋の中が見渡せた。夫人はやはり いなかった。夫人の出ていった廊下に通じるドアはやはり開いたままに なっていた。ドアの隙間からすばやく身体を滑り込ませた。黒豹のすば しこさだな。夫人が戻ってきても、察知してすぐ逃げ帰ることが出来る ように、ドアは開けたままにしておくことにした。 一旦、夫人の部屋に立つと、私は、落ち着きを取り戻した。かつて、 裕紀と過ごしたなじみの部屋だった。何もかもが当時と一緒だった。 夫人の寝具や見の回り品は見当たらなかったが、夫人の香水の残り香が 鼻孔を刺激した。甘いライラックの香りだった。黒豹の嗅覚だな。 2つの部屋は、全く同じ造作となっており、薄絹のオレンジ色のラン プシェード、緋色の光線、ダブルベッド、繊細な花模様のペルシャ絨毯 など、すべてが、色も形も古びた加減も同じだった。それは、愛し合っ ていたであろう父と夏野夫人の愛の営みの遺跡だった。 私は、おびただしい思い出を引きずって、記憶の河を遡っていた。ス タンドの光がとどかないなかば陰になっているキリストの絵の額縁がみ えた。黒ずんだ金色だった。それを目にすると、裕紀と過ごしたあの背 徳の時間もまた金色にさびついていたことを思いだすのだった。 私は、寝台に近づいた。さすがにシーツは、乱れていた。女性の部屋 に無断で侵入してしまったのだというやましさが一瞬頭をよぎったが、 もはや、私は部屋の主になっていた。その証拠に、私はキリストの絵を 照らすスイッチ・ボックスの場所にすぐ気付いたし、迷うこともなく、 お目当てのスイッチを見分けることができた。灯りがついた。明るくな った部屋は、炎につつまれたように思えた。まだ、黒豹のおびえが残っ ていたか。 私は、夫人が目が不自由なので、照明は無関係であることを再確認し て、胸をなでおろした。すると、妙な違和感が襲ってきた、肘掛椅子の 場所がいつもと違うのだった、寝台のそばに置かれていた。おそらく、 叔父が夫人と夜伽話をするために、寝台のそばに移したのだろうが、そ れでは、肝心の絵がみえづらいので、私は、大胆不敵にも、肘掛椅子を 絵がみやすい元の場所に運んでいって、腰を下ろした。椅子の座り心地 は、相変わらず満点で、私は思わず、安堵の吐息をもらした。くつろい でいる黒豹のイメージ。 夏野夫人の知人の学芸員が太鼓判を押しただけあって、キリストの絵 も、その照明の具合もやはり最高だった。私の視線は、ほぼ画面中央に 描かれたキリストの顔に吸引されていった。荒々しい色彩の格闘。テー マ・カラーともいうべき黒を引きたてる黄橙色は強烈で、鼻筋や唇は、 狂暴といっていいほどの荒いタッチで描かれていた。キリストを取り囲 んだ群衆は、恐らく最初は、敬虔な表情を装っていたのであろうが、や がて薄っすらと不信感からくる冷笑を浮かべはじめ、今では憎悪に燃え て、今にも疲れきったキリストに殴りかからんばかりだった。そうした 危機的な瞬間、キリストは、はたして群衆を信奉させる奇跡を行えるか こうした発火点間際の緊迫感が、背後の広場の雷鳴がとどろく岩石の険 しい風景、歪曲して腐肉の塊から出来ているかのような病的なタッチの 木の枝の存在によって、一層、強められていた。 私は、絵の主題よりも、無力さを訴えているようなキリストのえぐれ た眼窩をことさら強調する画家の突き放したような冷酷な心情に一撃を 受けた。キリストを題材にすることで、もっと卑俗に表現するならば、 キリストをダシにして、この画家は、自己の超越性を主張し、聖者の行 列に加わろうとしているのではないか。図太いやつだな。 おかしいなあ。昔はもっと素直に感動していたのに。裕紀とふたりで 肩を並べて見入り、声もなく感動していたあの日々は、一体、どこに消 えてしまったのだろう。美術鑑賞の態度変化は、どこからきているだろ うか? 海外暮らしが長引いて、いろいろな美術館を見て回ったために 目が肥えてきたためなのか、あるいは、ビジネスの世界の駆け引きに明 け暮れたために感覚が麻痺してしまったためなのか、それとも、心の片 隅で、この絵は、一体いくらで売れるだろうかと値踏みをしているため なのか。どうやって運び出そうかと考えているためなのか。 気がつくと、いつの間にか、足を組み、膝の上に肘をのせて、掌で顎 を支えていた。この俺は、まるで、ロダンの考える人だな。いつ何時、 夫人が戻ってくるかも知れない。どうしようか、考えてばかりいては、 だめだ。まずは、行動だ。
それでも、キリストの絵に魅入られていた私は、ドアが後ろ手に静か に閉められて、ドアを背にして夫人が静かに立っているのに、しばらく の間、まったく気付かなかった。気付いた時の私の背筋も凍る驚きは、 斧の一撃をくらったようなものだった。夫人は目が不自由なのだ。そう 気付いて安堵したものの、身体は金縛りにあったようだった。 夫人は、古代の礼服と見まごうばかりの光沢あざやかな絹の寝衣に柔 らかな身体を包み、右手に聖火のトーチを持って立ちつくしていた。あ たかも、罪を犯してしまった私を裁く厳粛な裁判が、これから開始され る合図のようだった。夫人の均整のとれた身体は、儀式のはじまりの際 の緊張感にあふれていた。それでも、夫人は、女神のように平静そのも のの微笑を浮かべ、まっすぐに私のほうに歩み出していた。 トーチから噴き出す炎は、夫人の白い寝衣の襞を黄金色に染めあげ、 闇に沈んでいた一方の壁にくっきりと夫人の影を映していた。見事に梳 きあげられて、背に流れ落ちた長い髪は、聖火のすすをあげてゆらぐ光 に照らされていた。あるときは、それは、燃え上がる無数の糸に分解さ れ、ある時は、溶解して金属の流れになった。炎に近い夫人の顔は、微 かな赤みをとどめるふくよかな頬、花咲く唇、そして澄みきった何物を も映さぬ瞳、そのいずれをとっても美の極致だったが、なぜか、それぞ れが顔から切り離され、炎のゆらめきに合わせて、奇妙な舞踏をはじめ ていた。 恐怖が生み出すこうした奇怪なイメージにさらされながら、私は夫人 の次の動作を凝視していた。夫人は、私の2米ほど手前で、歩みをとめ ると、トーチを両手で持ち直し、頭上に振りかぶった。燃え盛る炎の中 で、夫人の瞳が、私を凝視した。 あのトーチで殺される。それは、儀式のはじまりの、あの永遠とも思 われる瞬間だった。私を殺すささやかな儀式。夫人は、身につきまとう 虫を払いのけるように、あのトーチを小さく振り、それは、罪の意識の みじんもない重量のせいで、私の頭蓋に静かに沈みこむだろう。 この瞬間を私は、以前、経験ずみのような静けさで迎えていた。なぜ か平静な気分だった。30年あまりの短い人生ではあったが、いま、不 意にその最後の審判がやってきたのだ。辞世の句の一つもひねらなくて はなあ。私は、目を閉じた。 大時計の鐘が鳴りはじめた。1つ、2つ、3つ、結局それは11時を 告げて、鳴り止んだ。何事も起きなかった。目を開けると、夫人が、重 みに耐えかねてか、トーチを傾かせていた。煤が舞いあがり、炎は灼熱 の舞いを終えて、黄金の一滴に凝縮され、そして闇の中に消えていった。 夫人はトーチをベッドの脇の黒褐色のマホガニーに小卓にいとも軽や かに置くと、俯いた姿勢のまま、胸にそっと手をあてた。祈りのポーズ だった。私は、危機があっけなく去ったのを知ったが、それもまた当然 の成りゆきのように思えた。悪戯をとがめられた子供の邪気のない目で 私は、部屋をぐるっと見まわした。トーチの炎が消えたあとも、先刻、 私がつけた絵を照らす照明がぼんやりと部屋を照らしていた。部屋の様 子は、すべて昔のままだったが、裕紀も、夏野夫人も、そして勿論、父 もいなかった。私は、いま、夫人と私だけが、この部屋にいるという事 実を再確認した。 私は、あらためて夫人の類い希れな美しさに打たれた。夫人は、まさ に、美の饗宴といってよかった。たとえば、唇ひとつをとっても、ほん の僅かの光線に対する位置の加減、些細な感情の変化に感応して、その 形、色、陰影が変っていた。それは尽きることない泉の噴き出し口のよ うに、次々と新たな相貌をみせるのだった。ふっくらと突き出した下唇 の丸み、引き締まった口元、微妙なルージュのぼかし具合、呼吸するた びに、あるいは、感情に思い惑い乱れるたびに生じる微かな震え、時々 ちらっと見える白い形のよい歯並び。あらゆる種類の線と線がそこでは 静止し、交錯し、ゆれ動いていた。 私は、そして気づいた。夫人の美がたとえ、類をみないものであった としても、美そのものが、神の思し召しによってか、無尽蔵という性質 を与えられているものであるならば、それは、すべてのひとに大なり小 なり、分かち与えられているのではなかろうか。そして、無尽蔵の数分 の一も、また無尽蔵であるという数式の結論が正しいものであるならば 老若男女を問わず、ひとは汲めども尽きぬ美を内包しているのだ。私の 日頃の雑駁な観察眼が及びのつかない深みと奥行きを、美は持っている のだ。多くのひとたちは、私同様、恐らく自らの美的資源の無尽蔵さに 気づいていないにちがいない。世の中の美醜をめぐる果てしない神学問 答はすべてこの認識の欠如からきているのではなかろうか。ひとは、み な、いとおしく美しい生き物なのだ。
ふと祈りの姿勢を解くと、夫人は激しく首を振った。長い髪が夫人の 回りを舞った。物思いげに、夫人は、寝衣の襟のレースに指先を触れ、 長い間、それを愛撫しつづけていた。私は、夫人が伯父の来訪の遅さに 苛立ちながら、彼の到着の瞬間を心待ちにしているのではないかと想像 した。 どのくらいの時が経過したのだろうか。やがて夫人は、愛撫の仕草を 止めると、つっとベッドのそばの小卓に近づいた。指先で引き出しを探 っていたが、やがて引出しが手前にスライドしてきた。そこから夫人が 取り出したのは、何と貴婦人を思わせる仮面だった。それを顔につける と、夫人は、舞台の中央に歩み出るかのように、私のほうに歩み出た。 仮面の貴婦人の視線は、私をじっとみつめている。 次の瞬間、私はこの世のものとも思われぬ光景を目撃していた。夫人 の指先が、思いもよらぬ敏捷さで寝衣の紐に触れたかと思うと、寝衣は 床に滑り落ちていった。それは重苦しく沈み込んだ部屋に光のさんざめ きが通りすぎていったかのようだった。私には、寝衣が夫人のふくよか な胸の高みを過ぎていく微かな音すら聞こえるような気がした。 いま、私は、はじめて開花した純白の花のような裸身と対峙していた。 首筋から肩のひそかな窪みをへて、胸へと流れていく秘めやかな白い色 調。それが、かもし出す陰影は、多量の水と漆黒の微妙な結婚が、束の 間、つくり出す幻想の世界だった。軽やかに持ち上げられた丸みを帯び た腕と双つの乳房のおりなす曲線は、いかに複雑な計算をしても得られ ぬ、ほとんど崇高といってよい角度を保っていた。腰に引っかかった柔 らかな寝衣に半ば隠れて、恥ずかしげにしている太腿から垂直に下降し たあたりに存在する剥き出しの踵は、光に満ちた裸身の重みをしっかり と支えていた。 開かれた裸身の美のもつすさまじいばかりの圧力に耐えられなくなっ て、私は、思わず視線をそらした。しかし、寝台の上にも、夫人の裸身 が浮かんでいた。月光が、夫人の裸身を横ざまに白いシーツの上に投影 していたのだった。その色彩を失った影絵ですら、充分に美しかった。 私の審美眼は、既に、それ以上の美の享受を拒否していた。かつて、美 学専攻の友人と議論していたときに、どういう成り行きでかもう思い出 せないたが、たまたま、私がこの世の最大の不幸は、美の絶対量が不足 していることだといったのに対して、友人は、それを一笑にふした。 「美は、過剰なほど、存在するさ。今に、お前にも、そのことが分かる よ」 歳月を経て、いま、私は、友人の歌うような節回しの言葉が正しかった ことを知ったのだった。 夫人の影は、右手を背に回すと、豊かな髪を押さえ、左手は一瞬のた めらいのあと、乳房にあてがっていた。すらりとした伸びやかな裸身に あふれる欲望に突き動かされてか、のけぞり顎を引いたポーズのまま、 わずかに開いた唇は、せわしなげに息を吸っていた。丸い腕から乳房、 腹部のくびれをへて太腿、足、そして踵に流れる線は、硬直し、小刻み に震えていた。夫人の胸は、信じられないほどの速さで波打っていた。 夫人は、両手を私のほうに差し伸べた。あたかも抱いてほしいと懇願 するかのように。白い喉がひくつき、嗚咽が漏れた。仮面の眼から、涙 がこぼれ落ちたのか、喉から胸へしずくが流れ落ちた。私は、ほとんど 嫉妬を通り越して、かくも夫人に愛されている伯父を羨んだ。ひとは、 かくも深く愛されることができるのだろうか。 女性の部屋に夜中に侵入して、その一糸まとわぬ裸体をみつめている。 そう思うと、私の心臓は破裂寸前だった。一方、凝視しつづける眼は、 そのまま美の化石になったかのように動かなかった。しかし、次の瞬間 私の鼓膜に、魂の底から絞り出したような震える高音が響いてきたのだ った。 あたしは、至福を得たの。 これほどの栄誉、これほどの愛情を手に入れるなんて 信じられないわ。 もはや、あなたへの愛情を隠すことなど、到底、できない。 あたしは、自分が何者か、あなたが何者であるかを知っている。 あなたは、あたしを少女の頃からずうっと愛してくれたわ。 あたしの王冠は、あなたの贈ってくださったもの。 いま、告白しましょう。 あの時から、あたしは、あなたを愛してしまったの。 永遠の愛、あたしは、それを誓います。 私は、やがて、それが伯父を恋慕する言葉ではなく、どうやらお芝居 のせりふ、それも、裕紀が演じたこともある、あのクレオパトラのせり ふであることに気付いた。すると、あの仮面は、クレオパトラのものか 道理で鼻が高いと思ったよ。しかし、一体この屋敷では、何が起きてい るのか。
せっかく来てみれば、裕紀はいないし、この屋敷は売却されていて、 エミという少女と目の不自由な夫人が2人で寂しく暮らしている。そし て、エミはといえば、母には愛人がいるとほのめかし、母親のほうはと いえば、真夜中に仮面を被り、全裸になって、クレオパトラを演じてい る。 一体、裕紀のはがきは、どうなっているのだ。ひょっとすると、連理の 木の下に埋めたという母の形見の宝石箱も、でっちあげでしかないので はないのだろうか。満月の夜、連理の梢が示す場所に埋めたなんて、最 初からどうも変だと思ったよ。財政難でさえなければ、無視した葉書だ った。夜の間に満月は移動するから、梢の影の位置だって移動する。や はり、この全体が、裕紀の好きな冗談話しなのかも知れない。 その時、私は、小さな響きを立ててしまった。組み替えた足が外れて、 踵を床に打ちつけてしまったのだ。ペルシャ絨毯でなかったら、音はも っと硬い大きな響きとなっただろう。 月あかりのなかで、仮面を外し、長い髪をもてあそんでいた夫人が、 手をぴたりとを止めて首を傾げ、物音に耳をすませた。視線は、上目が ちに、私の座っているあたりをこえ、窓のほうに向っていき、そこで固 定した。 私は、息をひそめ、椅子に身じろぎもせず、座り続けた。椅子の座面の 硬さと緊張からくる無理な姿勢が続いたおかげで、筋肉はこわばり、だ るくなり、ついには痛みさえ覚えていたのだ。先刻から、夫人が全裸に なり、狂態を演じている間、私は、まったく動けなかったのだ。動くと 部屋にいるのが分かってしまう、その恐れが、私を椅子に縛り付けてい たのである。その恐怖を忘れかけていたいま、再び、夫人に気付かれて は大変なことになるという恐怖感が、私を強く苛んだ。 目の不自由な人の聴覚をはじめとする感覚の鋭敏さは、どの程度のも のか分からなかたったが、先程までは、夫人は自分のことで精いっぱい だっただろうから、感覚もおそらく鈍くなっていたのだろう。しかし、 今度は必ずや、元の鋭敏さをとりもどしているに違いない。私は、微動 だにできなかった。こらえた痛みは、さらに耐えがたいものになってい くので、私は、強く下唇を噛んだ。しかし、それではほとんど効き目が ないので、今度は、舌を強く噛んだ。乾いた口腔は、唾液の分泌を求め ていたが、喉を鳴らすわけにはいかなかった。そんなことをすれば、完 全に私の存在が知られてしまう。 私の立てた物音を、幸いかなぶんでも硝子窓にあたったものと思った のか、夫人は、両手を私のほうに差し出し、再び、メゾ・ソプラノの高 音を出した。先ほどよりは、早口だった。どうやら、クレオパトラのせ りふのその部分がうまく発声できないのかも知れない。 あたしは、自分が何者か、あなたが何者であるかを知っている。 あなたは、あたしを少女の頃からずうっと愛してくれたわ。 あたしのブレスレットは、あなたの贈ってくださったもの。 いま、告白しましょう。 確か、さっきは「王冠」と言っていたのに、今度は「ブレスレット」 か。言い間違えたのかな。その時、遠方で微かな響きがした。夏の夕立 を告げ遠雷のようにも思えた。しかし、その響きは、夜の静けさを時折 破るからまつ林を吹きぬける風の音のようにも聞こえた。夫人が耳を澄 ませて、窓際に歩み寄った。私のすぐそばにまで近づいてきた。そんな 非常事態だというのに、私はといえば、ちょうど唾液を呑みこむところ だった。私は、あわてて、掌で口をふさいだ。 やがて、響きの正体がはっきりしてきた。低い地響きは、規則正しい 機械音だった。チェーンソーよりも低音で力強かった。エンジン音だっ た。屋敷の長いアプローチの砂利がきしむ音がした。軽快な大馬力エン ジンの音がしたかと思うと、クラクションが短い間隔を置いて、二度、 小さく鳴らされた。伯父がやってきたのだ。
夫人が小走りに廊下に去っていった後、私は、急いで夫人の部屋から 自分の部屋に戻ろうとした。そうだ、椅子を元の位置に戻さなくては。 少し物音がしたものの、無事に戻し終えて、部屋に飛びこんだ。その瞬 間、絵画の照明を消し忘れたことに気付いて、夫人の部屋に舞い戻った。 月光が私の行動を逐一監視しているように冴えた光線を部屋に投げかけ ていた。 、 うまくいけば、自分のものになったかも知れない、財政難打開の一助 になったかもしれないキリストの絵のジョルジュ・ルオーのサインを灯 りを消す前に、未練がましく見ていると、廊下でエミの声がした。 「伯父さま、お帰りなさい」 返事は、聞こえなかったが、夫人の部屋にいるところをみられたら大変 なことになる。私は、それこそ超特急で灯りを消し、部屋に舞い戻った。 ベッドに戻り、白いシーツの上に仰向けに寝転んだ。心臓の鼓動が聞 こえた。しかし、もう大丈夫。健康躾のいい若者がまた誕生したのだ。 それから、また重大なミスに気づいた。掛け金をおろし忘れていたのだ。 寝台から下りるとき、またドスンという物音を立ててしまい、背筋が凍 りかけたが、自分に宛てがわれた部屋であることを思い出して安堵した。 掛け金をおろしに行って、戻ろうとして、そのままの立ち止まってし まった。聞き耳を立てた。夫人にあれほど愛されている伯父なる人物は 何歳くらいで、どんな背格好や顔つきをしているのだろうか、髪の毛は 白髪なのか、それとも黒髪なのか、額まで禿げ上がっているのだろうか。 いつまで経っても、伯父なるひとの声は聞こえなかった。夫人の声も しなかった。私が、続き部屋のひとつを占領してしまったので、別の部 屋にエミが案内したのかも知れない。 その時、また夫人の声が聞こえた。私は、その声のなかに男の声が混じ るのを期待して聞き耳を立てた。 あたしは、至福を得たの。 これほどの栄誉、これほどの愛情を手に入れるなんて 信じられないわ。 もはや、あなたへの愛情を隠すことなど、到底、できない。 あたしは、自分が何者か、あなたが何者であるかを知っている。 あなたは、あたしを少女の頃からずうっと愛してくれたわ。 あたしのこのブレスレットは、あなたの贈ってくださったもの。 いま、告白しましょう。 あの時から、あたしは、あなたを愛してしまったの。 永遠の愛、あたしは、それを誓います。 声は、メゾ・ソプラノではなく、完全なソプラノだった。せりふ回し も、別人かと思うほど巧みだった。クレオパトラが現前してきたかのよ うだった。 「永遠の愛、あたしは、それを誓います」というせりふの後は、嗚咽の 声がした。それは、あまりにも長く続いているので、私は心配になった。 やがて、嗚咽は、あえぎ声に変った。伯父は、やはり、いたのだ。到着 したかと思うと、すぐ情事がはじまったのだ。 覗き見は悪いことだとは分かっていたが、私はもはや自分をコントロ ールできなかった。震える指先で、しかし自分では、しっかりとしてい るつもりになって、静かに掛け金を外した。わずかなドアの隙間から、 夫人と伯父のいる部屋を覗きこんだ。 伯父なる人物は、影も形もなかった。クレオパトラの仮面を被ったま ま、夫人が白いシーツの上に倒れこんでおり、激しい嗚咽とともに、身 体中を痙攣させていた。長い髪が白いシーツの上に乱れ、その一部は、 獅子の透かし彫りの寝台の背にも散っていた。
私は、部屋の中に静かに踏み込んだ。夫人の狂態に触発されて、もっ と間近で状況を観察しようという狂暴な気分になっていた。どうせ、夫 人は目が不自由なのだ。物音さえ立てなければ大丈夫だ。伯父は、恐ら く疲れ切っていて、別の部屋ですぐ寝てしまったのだろう。夫人は、欲 求不満が昂じて、狂態に身を任せてしまったのではなかろうか。われな がら身勝手な解釈だった。 夫人の胸元の白い透き通るような肌の上には、情欲を示す赤い斑点が 散り、愛撫を求めてくねる指先は、あたかも5匹の毒蛇のようだった。 やがて、指先は、どうやら毛布に覆われた腹部の繁みに分け入り、リズ ミカルな蠕動をみせていた。足の指先がひくつき、次の瞬間、激しい痙 攣のあと、こわばりが全身を支配した。その繰り返しが、足首からはじ まって、すらっとした脚、太股、腹部、豊かな乳房、首筋、そして、仮 面をかぶったままの頭部へと波及していった。 月光に照射された裸体の陰影のめまぐるしい移ろい、白色と赤色との 争い、隠微な部分と清純な部分との信じられないほどの鮮やかなコント ラスト。私は、それらの豪華絢爛たる美の上映を目のあたりにして、息 もつまる思いだった。 夫人は、頭をのけぞらせ、足先で毛布を蹴った。それは、最後のあが きともいうべき、形容を絶する狂態だった。月光の中で、肉体は波打っ ていた。夫人は、あえぎ、心臓発作でも起こしたかのように、せわしな い息をしていた。シーツに顔を埋め、頭を激しくふりながら、切れ切れ の言葉を吐いた。何を言っているのか、意味は聞き取れなかった。それ は、伯父の冷たい仕打ちをうらみ、道ならぬ恋の正しさを訴え、中年へ の入り口に立って精神の一途な情熱の時期が過ぎていくことを呪ってで もいるのだろうか。 夫人の白い全身が、いまや赤く染まっていた。腹部のあたりから、香 料のまじった情欲の匂いが立ち昇ってきた。かび臭い匂い、重たく甘い 木蓮の匂い、それらと渾然一体となった形容しがたい匂いが部屋を満た した。 目撃したシーンのすさまじさに驚愕して、私は、しのびやかに部屋を 立ち去る機会を失っていた。あの居間においてあれほど優雅で完璧とも いえるほど物静かだった女神が、いまは情欲に駆られて妖婦に一変して いる。不連続な断面。こんなことがあってよいのだろうか。美には、2 面性があって、そのコインの表側は天使の美と裏側は悪魔の美となって いるのだろうか。 月にむら雲がかかったのか、部屋は薄暗くなった。夫人の白砂糖のよ うに純白な腕が、象牙色に変った。それに呼応するかのように、あえぎ はおさまり、夫人は、枕に顔を埋めようと、うつぶせのまま仮面をはぎ とった。その腕に、きらりと鈍い黄金色の輝きがした。何かが、私の記 憶の貯蔵庫を通過したが、その時の私は、また雲が切れて、今度は、蛍 光の白さに輝いた夫人の二の腕の美しさにみとれていたのだった。 寝息が聞こえてきた。あえぎも、痙攣も、まるでなかったようだった。 コインの表側。天使の美が戻ってきた。このときも、私には立ち去る機 会があった。しかし、私は立去るどころか、寝台に近づいていった。夫 人は、うつ伏せになって寝ていた。臀部は双峰をなし、なだらかな曲線 を描いていた。 私は、枕元に近づき、美を極め尽くそうという狂暴なまでの決意に駆 られてスタンドの灯りをつけ、それを両手でもって、その双峰に近づけ た。光線は、柔らかい毛をまとった膚に反射して、私の目を痛めた。恥 ずかしげに花開いた足裏、よく手入れされた爪、伸びやかな脚の筋肉、 陰影のひときわ濃い膝裏の窪み、なだらかにどこまでも続く平原のよう な背中、おだやかな肩の丸み、ほつれ毛が散るうなじ、乱れ髪が覆う頭 部。そして、寝台から床に向って投げ出された二の腕。私は、仔細に、 それらを点検していき、夫人のしなやかな指先には、赤いマニュキアが 施され、爪に小さな三日月が刻印されているのも見届けた。
こうして私は、夫人の狂態に情欲をそそられ、その裸体をつぶさに観 察し、美の探求と自分を偽って、肉体の秘部すらのぞき見ていたのだが その行為を続けるにつれて、どのような解毒作用が働いたのか、身体中 からエロティックな毒素が消えていった。観察は、いまや、単なる惰性 になっていた。代って、私の心をとらえたのは、人間の業とでもいうべ きものだった。 この夫人と名づけられた生き物は、伯父というオスを熱愛している。 そのことによって、かつてない愛の高みに引き上げられると同時に、い ま悲しみのどん底にも突き落とされている。愛という美名よりも、種族 存続のために、生き物すべてが運命づけられている業の力によって、私 たちは、感情を思いのままに左右されている。喜びも、怒りも、悲しみ も、そのすべてを。 冷静な観察者と装っているこの私自身も、裕紀との愛の幻影に吸い寄 せらて、この屋敷にきている、それまで感じたことのない言い知れぬ深 い悲しみに浸されながら、私はスタンドを小卓に静かに戻し、ライトを 消した。月あかりに照らされた夫人の裸体を、私は、ぼんやりと見下し ていた。あえぎも、痙攣もおさまって、赤子のようにすやすやと寝息を 立てている、おだやかな血の色を秘めた背中からは、心を癒す温かみが 立ち上ってくるようだった。 私は、ちょっとためらい、そして、花の匂いに引き寄せられる蜜蜂の ように、抗い難い力に引き寄せられて、夫人の背中に頬を近づけた。蜜 蜂のように、蜜まで吸う気はなかった。ただ、花の馥郁たる香りを嗅ぎ たかっただけだった。すぐにでも、この場から立ち去るつもりだった。 かつて裕紀に求めて得られなかった成熟の匂い。ふたりが、もう少し 大人で、筆不精でなかったらば、味わえたかもしれない成熟の匂い。本 当は、抱擁し、愛撫し、恍惚を与えるべき存在であったのに、なぜか、 それを回避してきた。そうした諸々のことへの代償を、この見も知らぬ 他人の膚のぬくもりに求めているなんて。 何ってことだ。時は過ぎ行き、失われた時は、もう戻らない。急速に、 視界がぼやけてきた。私は、不覚にも涙ぐんでいたのだ。 多分、私は頬を近づけすぎたらしい。あるいは、涙のしずくが、夫人 のうなじに落下してしまったのか。まどろんでいた夫人が、寝返りをし ながら、物憂げにつぶやいた。 「あなたなの?」 この愛撫のような言葉ほど、強い力をもって、私を誘った言葉はなか った。私は、弾かれたように、夫人の身体の上に、身を投げかけて、背 中からその白い裸身を丸ごと抱きしめた。柔らかな身体は、しっとりと 私に吸着し。両腕が、即座に、私の首を抱きしめた。快感が急激に高ま った。私は、その弾力ある膚を味わいつくすために、目を固く閉じ、物 もいわず、夫人の頬に頬をすりよせた。鼻梁にキスし、そしてふくらみ のある唇を探り当てて、一度ならず、キスを浴びせかけた。夫人も、狂 ったように応じ、お互いの開かれた唇の間に舌をすべり込ませた。むせ かえるような熱い息とともに、私の口腔は、夫人の唾液で潤った。夫人 の身体に私の体のすべての重みをかけ、深い吸いこまれるような感覚に 酔った。 いくら何でも、こんなことがあってよいものだろうか。いうまでもな く、私は夫人の愛人ではなかった。ただ、事の成り行きで、夫人の寝室 に忍びこみ、満月の妖しい光に誘われて、たまたま狂態を目撃し、そし て頬を撫でる南風を求めて頬を近づけすぎただけなのだった。しかし、 この歓迎ぶりは、まるで、長い間、私の行為を予期しているかのようだ った。勘違いしているとはとても思えなかった。 私の上着を脱がせようと、夫人の手がせわしなくさまよっていた。自 分で上着を脱ごうとして、私は目を開けた。間近に顔があった。月光が その顔を鮮やかに照射した。美しい卵形の貌だった。しかし、その目鼻 立ちの意味するものを知覚した瞬間、驚愕のあまり、私の心臓は凍りつ いた。
裕紀だった。その貌は、まぎれもなく私の記憶している若い頃のあの 裕紀の痕跡を宿していた。しかし、それは私の思い描いていた裕紀では なかった。げっそりとやつれていた。横向きになったために、髪が片方 の目を覆い隠していた。残った片目だけが、大きく見開かれて、私をみ つめていた。まぎれもなく、裕紀のあの鳶色の瞳孔だった。しかし、裕 紀の顔色は、どうだろう。青白い月光に照らされているせいもあろうが これほど、苦しそうにあえいでいる青ざめた裕紀の顔色をみたことは、 これまで一度もなかった。 「あたし、病気なの」 裕紀はそういいながら、胸のあたりを押えて、少し咳こんだ。片方の目 から大粒の涙が次から次へと溢れ出ていた。化粧が剥げ落ちたせいか、 黒ずんだ素顔は、裕紀が舞台女優で、長年の間、どうらん焼けしてきた ことを勘案しても、まるで死の床についている老婆のようだった。明ら かに、病気は重そうだった。裕紀は、私の驚愕と恐怖の表情をみとめた のか、すばやく、私の剥き出しの胸に顔を埋めた。 私は一瞬、幽鬼に抱きつかれたかのような恐怖に襲われた。裕紀は、 嗚咽を漏らし続けていた。涙が私の胸板を濡らした。あたかも、涙の泉 のように滴り落ちて止まなかった。しっかりと裕紀を抱擁しながら、私 は天を仰いだ。 いつ夫人は、裕紀と入れ替ってしまったのだろうか、それは、あのク ラクションが鳴って、伯父が到着し、夫人が、いそいそと小走りに廊下 に走り出ていった後だろうか。すると、あの時に入ってきたのは夫人で はなく、裕紀だったことになる。しかし、何故、入れ替わる必要がある のか。 疑問が、後から後から夏の入道雲のように湧き上がってきた。何故、 裕紀は、私と知ったうえで、あろうことか私の前で全裸になり、しかも 狂態をさらけ出したのだろうか。なぜ、仮面を外さなかったのだろうか。 疑問の種は尽きることがなかった。しかし、裕紀の奇矯な行動を問う前 に、私は、何と馬鹿なことをしてしまったのだろうか。夫人の部屋に忍 び込み、夫人を抱いてしまった。それは、裕紀に対する明らかな裏切り 行為だった。しかも、裕紀は、夫人になりすませて、逐一私の愚かな行 為を見て、感じていたのだ。私は、耳元まで赤くなった。激しい羞恥心 のあまり、このまま外に飛び出して、永遠に裕紀の前から姿を消してし まいたかった。 やがて、裕紀の身体の燃えるような熱さが、私の身体を温めてくるに つれて、私は、こんな謎解きにうつつをぬかしている場合ではない。今 は、裕紀と再会したうえに、同じ寝台に並んで横たわっているという思 いもよらない僥倖を祝うべきだと思い直した。それにしても、裕紀、俺 は、なんて、長い間、おまえを放ったらかしにしてしまったんだ。お前 が、こんな状態になるまで。 ふと、雨月物語の一節が浮かんだ。戦乱の絶えぬ時期に、京都に仕事 に出かけようとする勝四郎に妻が泣きながら頼む。「朝に夕べにわすれ 給わで、速く帰り給え」 しかし、勝四郎の帰郷は遅れに遅れて、ようやく数年後に帰りつく。幸 い、家屋も焼き払われることなく、彼の声を聞き、戸口の隙間から妻が 顔を出す。 「いと黒く垢づきて、眼は落ち入りたるように、結びたる髪も背にかか りて、もとの人とも思われす、夫を見て物もいわずにさめざめと泣く」 翌朝、勝四郎は、妻が亡霊であったことを、残された一句によって、知 る。 「さりともと 思う心に はかられて 世にも今日まで 生ける命か」 私は、さらに強く裕紀を抱きしめた。言葉は不要だった。ともかくも 私たちは、再び、生きてめぐり合えたのだ。憐憫と、そして、何故か、 不意に身体を貫いてくる情欲に駆られて、私は、裕紀の顔を掌で支え、 唇を強く吸った。片手で乳房を、片手で下腹部を、乱暴にまさぐった。 裕紀がうめいた。 「ああ、浩之。逢いたかった。こんなことになる前に」 裕紀は、私の頭を確かめるように、何度も撫でた。次に両手で抱えて から、私の眼底まで探るように見詰めながら、低いしわがれ声で囁いた。 「ねえ、覚えてる。私たち、たとえ、別々になったとしても、将来、ま た、あの連理の木のように、必ず一緒になりましょうね、って誓ったこ とを」 それに続く、裕紀の涙の多さは、あたかも、身体中に溜まった怨念があ ふれ出してきたかのようだった。 私には、分かっていた。いずれ将来、裕紀から、この言葉を聞く時が 訪れるであろうことを。何度も、何度も、それこそ数えきれないくらい、 私は、この言葉を反芻してきた。ビジネスの勝利の瞬間に、高層ビルの 執務室から下界を見下ろしながら。また、夜の夢の中で。ある時は、月 光に照らされた連理の木の下にふたりで並んで横たわって。あるときは 月光に照らされた草原を手をつないで歩きながら。いずれのシーンでも ふたりは、若く、はつらつとしていて、笑いさんざめいていたのだ。 この言葉は、そういうシーンで溌せられるのがふさわしいはずだった。 まさか、裕紀の涙の泉とともに、この言葉が語られるなどとは。そして 私はといえば、大金持ちとなって、凱旋将軍さながら、裕紀と出会うは ずだったのに、一文なしの恥じ知らず男となり果てていた。惨めだった。 こんな状況で、裕紀と顔を合わすなんて。こんなことは、夢想だにしな かったのだ。
第4章 夜の結婚
私は、絶望に駆られて、裕紀をさらに強く抱きしめた。それこそ、裕 紀の身体の骨が砕け散るくらいに。裕紀は、せわしなげにあえぎながら 私の首に腕を巻きつけてきた。。私は、窒息しそうになった。それでも 構わない。こういう人生の終わり方があってもいいのではないか。事業 に失敗し、高層ビルの執務室の窓ガラスを突き破り、空中に舞って、地 上に叩きつけられる死の迎え方よりは、すっといいのではないか。 裕紀にとっても、病魔におかされて、病室でたくさんの治療装置に拘束 され、死を迎えるよりは、ずっといいのではないか。 それにしても、希望はどこへ行ってしまったのだろう。人生の若木に とって、あれほど、心をうきうきさせた明るい太陽の光、恵みの雨は、 一体、どこに消えてしまったのだろう。私たちには、朽ちかけた老木の ように、月光と涙の雨しか、行く手に残されていないのだろうか。 「ねえ、最後のお願い」 裕紀が、耳元でささやいた。私は、絶望感からか一層激しさを増した情 欲にかられて、裕紀の身体に押し入ろうとしていた。その儀式を終えな いと、すべての決着がつかないような気分になっていた。 「ねえ。この続きは、連理の木の下でしましょう」 再会してから短い時間の間に、またしても、裕紀の口からは、連理の 木の名前が出たのだった。裕紀は、これほど連理の木にこだわっていた のか。私は、しぶしぶ裕紀の熱い身体から身を離して、下腹部のいきり 立っている道化師を眺めた。それは、月光のなかで、急に、元気をなく していった。 寝台から降り立った裕紀は、私の手をしっかり握って、窓際に導いて いった。 「抱き上げて」 私は、命令通りにした。 「そうじゃなくて」 裕紀は、身振りで肩車を指示した。 「窓から外に出ましょう」 裕紀の身体は、昔と同じ重さだった。この点では、何も変わっていない。 昔と同じだった。私は、裕紀を肩にのせたまま、窓枠をまたいだ。力を 出して慎重に動いたつもりだったが、裕紀の体がぐらついて倒れそうに なった。そんな私に容赦せず、裕紀は私の目に両手をあてた。 私は抗議した。「見えないじゃないか」実際、まったく何も見えなかっ た。 「前へ」「横へ一歩」「止まって」「足元に気をつけて」 犬でもあるまいし。そうつぶやいたあと、私は、記憶の河の源流を遡 って、幼い頃、裕紀を肩車して、森の中の散歩道を歩いたことがあった ことを思い出した。明らかに退行現象だった。現在、未来、過去、病魔 によって現在も、未来もない裕紀にとって、未来の先には、輝かしい過 去しかないのだろう。そうだ、私たち、ふたりは、過去に向かって前進 あるのみなのだ。 「見て」 裕紀が、私の顔から手を放した。目の前に、連理の木が月光に照らされ て、威嚇するかのように屹立していた。その横の地面の上に、私の上に 裕紀が乗った影が落ちていた。微小な生き物、それが私たちだった。は かない命、それが私たちだった。この連理の巨木から見下ろせば、幹に 止まった夏ゼミのようにジンジン鳴いて、7日の短い一生を終えるもの それが私たちだった。 「降ろして」 ようやく裕紀の重みから解放された。叢で鳴く虫の音がひときわ高くな った。風は、そよともしなかった。木の葉は静まりかえっていた。不気 味な死の沈黙が林の中に満ち満ちていた。月光に照らされた白い裕紀の ガウン姿は、まるで、女神のように美しかった。裕紀が舞台で演じたク レオパトラが、最後を迎え、死の神パルカに呼びかける時の姿にそっく りだった。 「私の魂を運び去るのは、カエサルではない、死の神パルカだ」確か、 TVの舞台中継で裕紀はそう叫んでいた。 「抱いて」 私は、裕紀のいいなりだなあと思いながら従った。裕紀は、連理の木の 幹に、ぜいぜいいいながら寄りかかっていた。手をいっぱい、私のほう に差し伸べていた。その病を直すこともできない無力な私に向かって、 裕紀は、両手を差しのべ、いまにも地面に倒れかかりそうだった。
私は、駆け寄って、崩れ落ちかける裕紀の身体を受け止めた。その全 重量が私の腕にかかってきた。私は、力を入れ直し、支えようと姿勢を 直した。そんな私に向かって、裕紀があえぎながら、きれぎれに、か細 い声で聞いてきた。 「ねえ、あなたが、愛していたのは、私だけだった。ほんとうに?」 不意に、こんな質問をされて、即座に「そうだよ」と答えられる若い 男が、この地上にいるだろうか。若い頃は、誰でも愛の狩人になる。数 々の愛の形を経験するなかから、真実の愛を見出すのだ。 私は、家庭教師だったエリカを思い浮かべた。彼女は、ディープ・キ スを教えてくれた。あれは、愛だったのだろうか。そしてJANNE。 学生時代の友達で、一緒にニュー・オリンズまで旅行した女性。映画プ ロデューサーになりたいとベッドで熱っぽく話していた女。彼女に、一 時期、愛情を抱いたことは、間違いない。しかし、それは、裕紀に抱い た愛情とは、どこかちがっていた。 答えをためらっている私の心を見透かしたように、裕紀は聞いてきた。 「JANNEと、私と、どっちが、好き?」 JANNEは、裕紀に逢いに行ったとき、どこまでしゃべってしまった のだろうか。フランス人らしく、あけすけに夜の営みのことまで、初対 面の裕紀に打ち明けてしまったのだろうか。 「JANNEは、浩之は、あなたに あげると いってくれたわ」 何だ。私の行動のすべては、裕紀に知られていたのだ。そして、先程の 目の不自由な夫人への不埒な行為も、知られていたのだ。私のわずかな 数の、それなりに汚れにまみれた愛欲遍歴は、裕紀のCTスキャンによ ってすべて撮影され、診断が下されていたのである。 「ほかに、私の知らないひとは、いない?」 私は、母親に悪戯の現場をみつかってしまった小学生のような気分にな って、激しく首を振った。そして、裕紀を抱きしめた。抱きしめる以外 の表現手段を持ち合わせていないのが、我ながら、恥ずかしかった。 「そう」 裕紀は、短く言った。安堵したようでもあり、疑っているようでもある 口調だった。 「お仕事ばかりしてこられたのね」 情けないけれども、そうだった。要するに、私の人生は、仕事にかまけ てばかりいて、愛情生活なんていうものは、とんとご無沙汰たったのだ。 もし、それが可能ならば、いま、裕紀との間で、はじまろうとしている のだ。 「そう よかったわ」 裕紀は、心底、安堵したようにつぶやいて、少し咳こんだ。 「あなたに恋して、ひとりぽっちでエミを産んだあと、放たらかしにさ れて、真実、あなたを憎んだわ。ずうっと憎んでいた。16歳で出産で は、世間体も悪いからといって、エミはあなたのお父様が、さっきの人 との間にできた子供だとして届け出て、あの人がずうと育ててくれたの」 私は、頑丈な樫の木の懇望で頭を殴られたような気分だった。すると 連理の木の下で一回だけ交わっただけなのに、妊娠してしまったのか。 「私、妊娠したの」と裕紀がいったとき、私は狼狽した。ウソかと思っ た。しかし、あれは本当だったのだ。仮に、妊娠したとしても、堕して しまったものと無責任にも思い込んでいたのだ。 「お父様は、産むのに、猛反対だったわ。顔面蒼白。でも、私は あな たの子供が、どうしても、欲しかった。堕すなんていや、そんなことを するくらいなら、死んでやる、といったの」 知らなかった。まったく、これっぽっちも知らなかった。すると、こ の裕紀は、あの連理の木の下での1回限りの交わりをすべての出発点と して、いわば、中世の吟遊詩人が歌う「真実の愛」にまで昇華させてし まったのだろうか。 「荒れた時もあったわ。お芝居の相手役だとか、プロデューサーとか 誰彼の区別なく寝た時期もあった。でも、JANNEが来て、ヒロをく れと談判されたとき、はじめて、気付いたの。わたしには、浩之しかな い、わたしと浩之は、まるで兄妹のように、生まれたときから、一緒に なる運命にあったと気付いたの」 私は、天空を仰いだ。満月が煌々と天に向かって枝葉を伸ばしている 連理の木の姿を照らし出していた。その太い幹は、ねじ曲がり、複雑怪 奇な形をして身もだえしていた。まるで、天に向かって何事かを訴えて いるかのようだった。
どの位の時間がたったのだろうか、沈黙の時間が流れた。私たちは、 連理の木の幹に寄りかかったまま、何もいわず、ただ抱き合っていた。 「ねえ。結婚式をあげない?」 私は、なぜ、もっと早く結婚しようと言い出さなかったか、悔やんだ。 猛烈に反対した父は、もういないのだ。15年もの歳月が流れて、私た ちの結婚が早過ぎるなんているひとは、もういないのだ。むしろ、遅す ぎるくらいの年令になっていた。私は34歳、裕紀は31歳。 「どこか海外の離島で、ふたりっきりの結婚式をあげようか」 私は、思いつきを口にしてみた。そんな記事をどこかの女性週刊誌でみ かけたのだった。 「そんなのいや。ねえ、ここであげましょう。この連理の木の下で」 またしても、連理の木の下だった。どうして、裕紀は、そんなに、こ の連理の木の下にこだわるのだろう。15年前にはじめて交わったこの 場所は、確かに二人にとって、聖なる場所であるにはちがいない。しか し、なぜ。 「ねえ。月桂冠をつくってくれない。あの時のように」 裕紀は急に16歳の少女のような甘えた口調に戻っていた。 「3回ぐるっと回しただけでいいわ」 あの頃、私たちは、クリスマス・リースづくりに熱中していた。それは 子供たちに割り当てられた仕事のひとつだった。夏の間に林に入ってい って、白樺の木などにからみついた蔦を採取する。充分に日陰干しをし ておいて、クリスマスが近づくと、それを丸める。この作業は、力がい るので、私が分担する。蔦は、強い弾力でそり返り、輪の形にしようと する私の努力を無効にするのだった。赤いリボンやギザギザの柊の葉を つけて完成させるのは、裕紀の仕事だった。大小様々なリースが出来上 がると、ふたりで協力して、居間や玄関の、その頃の二人にとっては、 手を伸ばさないと届かないような高い場所に飾るのだった。父と夏野夫 人がそんな私たちの様子を目を細めて見守っていた。 「あそこの蔦がいいわ」 連理の木の幹が二股に分かれて、再び交わるあたりをみると、蔦の先端 が枝葉から外れて1メートルほど天空に飛び出していた。月光に舞う大 きな蛇のようだった。 「あれは、無理だよ。高すぎる」 「もう一度、肩車してくれない」 私の肩の上に乗った裕紀は、肩車の姿勢から、思いっきり手を伸ばした が、蔦は、まだ30センチ以上も先にあった。 「何か棒のようなものない。巻きつけてみるわ」 幸い、すぐそばの地面に適当な大きさの枯枝があったので、私は裕紀を 肩車したままの姿勢で、かがんで取った。裕紀は、伸び上がって、枯枝 に蔦を巻き取ろうとした。数回トライすると、ようやく蔦は枯れ枝に巻 きついた。裕紀は、力任せに引っ張ったが、蔦は、容易には連理の木の 枝から剥がれ落ちてはこなかった。裕紀の息がひときわ荒くなった。 「代わろう」 私は、裕紀から受け取った枯枝の端を掴んで、力いっぱい引っ張った。 裕紀も枯枝の別の場所を掴んで、引っ張った。バサっと蔦が剥がれ落ち てきた。 「は、は、は」 肩車から降りて、獲物を手にして、裕紀が笑った。途中から、笑い声が 途切れた。老婆のように腰を折って、ぜいぜい息を吸った。喉がひくつ いていた。しかし、裕紀はなかなか笑うのを止めようとはしなかった。 笑いながら、咳き込みながら、大地に崩れ落ち、肩で息をしていた。 私は、裕紀のそんな様子を気にしながら、蔦を編んで、月桂冠をつく った。ヒイラギも赤いリボンもなかったが、青々としている蔦の葉が立 派な代用品になった。できあがると、すぐに裕紀の頭にかぶせてやった。 「ありがとう、お兄ちゃん」 裕紀は、荒い息をはずませ、胸のあたりを押さえながら、咳こんだ。ま たもや、退行現象だった。私のことを兄ちゃんと呼ぶなんて。裕紀は、 すっかり、子供の頃に戻っているのだ。ふたりが、お兄ちゃんと妹だっ た、あの頃に。 数分後、裕紀の容態が急変した。咳が一層せわしなくなり、首を振り 手は私の手を求めて宙をさまよった。私は、手を握ったが、その力はす さまじく、まるで、冥界に引きづりこもうとする悪魔から私の手だけが 彼女を現世に引き戻す力をもっているかのようだった。 事態は、私の想像を超えていた。裕紀の手を力いっぱい握りながら、裕 紀の上にかがみこんだ私は、目前に狂人のように歪む顔と空気を求めて 盛んに開閉している唇を目撃していた。 呼吸の邪魔をしないように、私は、裕紀の額にそっと唇を当てた。そ れは、溶鉱炉の火のように熱かった。 「裕紀、大丈夫か。裕紀、しっかりしろ。医者を呼んでこようか」 大地の冷さが、裕紀の身体に悪いのに気付いた私は、その身体を抱き起 こそうと、背中に腕をさしいれた。 「いいの、そのままにして」 息遣いが急に不規則になった。裕紀は、きれぎれに息を吐きながら、 言葉を絞り出した。 「先にいくわ。ごめんね。お兄ちゃん」 息が止まった。顔からは、見る見るうちに赤味が消えていった。青白い 月光が、その穏やかになった顔を照らしていた。呆気ない死だった。
「裕紀、起きろ、起きろ」 私は、ぐったりとした裕紀の両肩を掴んで、身体を揺さぶった。当然の ことながら、起きる気配はなかった。幼い頃の裕紀は、喘息気味で、具 合が悪い時には、強情になって、私の呼びかけを無視するのだった。乱 暴に起こそうとし ても、知らぬ顔をして寝たふりを続けていた。 「優しくしてね、お兄ちゃん」 空耳だろうか、裕紀の声が聞こえた。 私は、まだ温もりの残る裕紀の耳たぶに口を寄せて、優しく囁いた。 「裕紀、起きてくれ。頼むから、起きてくれよ」 そうすると、裕紀は、フランス人形が目をパッチリ開けるように、その 鳶色の目を開けて、両手を伸ばして、私の首に巻きつけ、可愛い口を開 けて、欠伸をしながら言うのだった。 「ああ、よく寝た。お兄ちゃん、いま何時?」 しかし、当然のことながら、裕紀は起きなかった。その鳶色の瞳は、 光を失っていて、何ものも映そうとはしなかった。私は急に脱力感に襲 われた。これから、私はどうしたらよいのだろう。裕紀のいない人生、 索漠たる人生。 「ねえ。結婚式をあげない?」 先刻の裕紀の言葉が蘇ってきた。そうだ、結婚式を上げなくては、まだ その途中だった。裕紀が寝ている間に準備をしっかり整えなくては。 私は、あたりを見まわした。林の向こうに月光に照らされた草原が見 えた。 「裕紀、待ってろよ。花を摘んでくるから」 私には、確かに、裕紀がかすかに頷いたように思えた。 「じっとしてろよ」 草原は、広大で、少しの風もなかった。あたり一面に白い野菊が咲き 誇っていた。花々は、あたかも、きらびやかなイルミネーションに照ら された壮麗な宮殿内の舞踏会場に群らがる貴婦人たちのようだった。私 は、そっと野菊に近づいて、花の香りをかいだ。そして、祈るような気 持ちで、花びらのひと塊を摘んだ。それだけでは、月桂冠の飾りとして は、寂しいと思い直して、数本を摘むことにした。 そのうち、裕紀の身体全体をこれらの花々で埋めつくそうと思いついて 根元のほうから、野菊を手折りはじめた。花は、持ちきれないほどの分 量になった。 引き返した。裕紀の頭から月桂冠を脱がせて、野菊の花飾りを作って それを再び裕紀の頭にかぶせた。可憐な花嫁に見えた。 「ありがとう、お兄ちゃん」 私に微笑みかけてくるようだった。 私は、裕紀の力のない手をとって、左の薬指を探した。エンゲージ・リ ングを嵌めてやらねばならなかった。野菊の花の小さい輪で代用するこ とにした。嵌めてあげると、裕紀は、再び微笑んだ。 「ありがとう、これで思い残すことはないわ、お兄ちゃん」 あとは、結婚式のセレモニーを実行する必要があった。どっちにせよ オーデイオ装置はなかったが、結婚行進曲はこの場にはふさわしくない ような気がした。 「いい曲ねえ、それ何っていう曲?」と裕紀がいったシャンソンの名曲 「赤い月」を口づさんだ。 「夏の宵、月に照らされ、ふたりの影がもつれあう...」 裕紀を抱え上げ、祝福の拍手をする悪友どもに向かって、「幸せになる ぞ、裕紀を幸わせにするぞ」と叫んで、手を振った。 しかし、裕紀は、悪友どもに目をやることもせず、手もふらなかった。 それどころか、身じろぎもしなかった。死。厳然たる事実としての死。 今度は、裕紀の葬式をしなければならなかった。私は傍らにひざまづ いて、野菊の花を1本1本数えながら、裕紀の身体に置いていった。ひ とつ、ふたつ.. ..にじゅう、にじゅういち...さんじゅう、さんじゅう いち。 それは、裕紀の年齢だった。花は、まだたくさん余っていた。その時 はじめて、私の身体を激情が貫いた。 「裕紀、何故、おれを置いて先に逝ってしまったんだ。この若さで。ふ たりで、これから人生をはじめようという時に」 涙が、次から次へと溢れてきた。 「馬鹿、馬鹿、馬鹿」 私は、号泣しながら、力いっぱい、目の前にある連珠の木の幹を叩いた。 幹は、ふてぶてしい悪魔のように、そうした私をあざ笑っているようだ った。 やがて、ひとしきり泣き喚くと、怒りは次第に収まっていった。振り 仰ぐと、連理の木が、こうつぶやいているようだった。 「泣け、泣け、泣き喚け、泣き叫べ。そんなことで気がすむならば。泣 き叫けべ。ひとは死ぬ。おれは、数百年も生き延びてきたおかげで、何 十、何百、何千、何万ものひとの死を目撃してきた。恋人の死、家族の 死、親友の死、みんな例外なく泣き喚いた。おまえも、そのうちの一人 だ。泣き喚け」
見下ろすと、裕紀は、たくさんの花に覆われて横たわっていた。私は 裕紀の身体をいずれ埋葬しなければならないという事実を受け入れるこ とができなかった。子供の頃からずうっと愛してきた裕紀。たとえ一緒 にいないときでも、心のなかに重たく存在していた裕紀。死んでしまっ たいま、取り返しがつかなくなった今になって、激しく愛していること に気付いた裕紀。私が生き続ける限り永遠に愛し続けるであろう裕紀。 そんな裕紀を埋葬するなんて。土葬すれば、蛆が湧き、朽ち果てていく だろう。あるいは、火葬。火あぶりの刑に処すなんて、そんなことがで きるはずはない。 裕紀のこの美しい姿をそのまま永遠に残すことができたら、どんなに かよいだろう。そうだ、ミイラという手がある。おそらく同じ思いで、 古代エジプト人たちも愛するひとをミイラにしたのだろう。おそらく、 クレオパトラもミイラになって、棺におさめられ、愛人だったシーザー や7ントニウスが冥界に訪ねてくる日を心待ちしているにちがいない。 クレオパトラが当り役だった裕紀も、一度は、そんなことを思ったかも 知れない。しかし、それは単なる未練からくる夢想だった。どうやって 私の手で、裕紀をミイラにできるのか。大体、そんなことが許されるは ずもない。 私は、裕紀の隣に並んで横たわっていた。ミイラになるまでの時間、 ずうっと、このままで過ごしていたかった。満月がすこし赤みを帯びて 見えた。月も、私の悲しみを共有してくれているのだろうか。満天の星 が目に痛かった。裕紀は、灰になって、やがて何万光年のあと、あの星 屑のひとつになるのだ。私は、裕紀とともに、刻々と過ぎていく時間を 感じながら、夏の夜の森の匂い、夏虫のうるさいほどの交響曲、それら もろもろの生きとし生けるものの舞台である大地の確かさを感じていた。 こうして、このまま二人で天国に手に手をとって行けたら、どんなに いいだろう。この時、いっそのこと、ここで裕紀の後を追って死んでし まおうという考えが浮かんだ。しかし、どうやったら死ねるだろうか。 舌を噛みきるか、連理の木にぶら下がるか。 マスコミは書き立てるだろうなあ。有名舞台女優と挫折した起業家の 死。でも、心中の一方が挫折した起業家では話しにもならない。さぞか し、マスコミの好餌になるだろう。その挙句、裕紀の名声にも傷がつく。 この場で、後を追うのは、賢明でないかも知れない。 そんな他愛のない考えにふけっているうちに、私は、不意に裕紀のく れた葉書の文面を思い出した。そうだ、裕紀は、私の事業がピンチに陥 っていることを、どこからか伝え聞いて、資金の一助にと、この連理の 木の下に、宝石箱を埋めたから取りにいらっしゃいと書いて寄越したの だった。私のこの屋敷への訪問は、そのためだった。宝石のひとつやふ たつで、私の事業が再建されるとは到底思えなかったが、「溺れるもの は藁をも掴む」の心境で、私はニューヨークからやってきたのだった。 もしかすると、飛行機代にもならないかもしれない。 連理の木のどこに宝石箱はあるのだろう。この大きな幹回りが7メー トルもありそうな木の周辺となると、相当、広い範囲になる。目印もな いのに、どこをどう掘ればいいのだ。長い間、裕紀と並んで、星座をみ あげながら、自殺したら、裕紀と一緒にどの星座になろうかなどと考え たあげくに、そうだ、いましばらくは生き延びよう。まずは、裕紀の遺 言となった宝石箱のありかを探ることだと思い直した。その思いつきは 私に一定の力を与えてくれた。はじかれたように、私は立ちあがった。 長い間、冷え冷えとした大地に横たわっていたためか、悪寒がした。 「裕紀、寒くないか」 私は、裕紀を連理の木の幹にもたせかけることにした。裕紀の身体は、 生きている時よりも、ずっと重たくなったようだった。それでも、何と か幹まで抱いていった。裕紀は、寝台を背にしてちょうど起き上がった フランス人形になった。月桂冠をかぶった卵形の頭部、白い寝衣をまと った優雅な胴体。すらりと伸びた足。しかし、剥き出しの素足が寒そう だった。私は、白い野菊の花を毛布に見立てて、それを覆った。 「ありがとう、お兄ちゃん。だいぶ暖かくなったわ。でも、お尻が冷た い」 裕紀がそうつぶやいたみたいだった。何か適当なものはないかと、宝石 箱の場所探しをかねて、連理の木の幹回りを歩いた。裕紀のいる場所と ちょうど反対側に平たい白い岩があった。もしかすると、宝石箱の場所 を示す目印かもしれないと思ったが、とりあえず、その一抱えもある岩 を持ち上げることにした。ずしんと背髄にまで響く重たさだった。それ でも、裕紀を何とか座らせてやろうという意思が勝って、私はその岩を 転がしながら、裕紀のいる場所まで移動させた。 「すこし座りにくいわ、お兄ちゃん」 裕紀がおずおずといって、くたっと前方に倒れかかった。幹に近すぎて 前のめりになったのだ。私は大急ぎで、岩の位置をずらせて、裕紀の位 置を調整した。 「ありがとう、お兄ちゃん。すっかりいい気持ちよ」 完璧だった。裕紀は、完全にフランス人形になった。大きな素敵なフラ ンス人形に変身した。私は、人形のまぶたを閉じ、温かみを求めて唇に そっと口づけした。しかし、それは既に、夜の大地のように冷え冷えと していた。
私は、呆然として立ち尽くしていた。裕紀は死んだのだ。もう再び帰 ってはこない。ここにとどまって呆然としていても仕方がないことだ。 やはり、ニューヨークへ戻ろうか。そうだ、ビジネスの戦場にもどるの だ。裕紀の贈ってくれた宝石を換金して、それを元手に裕紀の弔い合戦 をやるのだ。 「さようなら、裕紀」 私は、もう二度と未練がましく裕紀の身体を見ないことにして、連理 の幹の裏側に回った。先程どけた平たい白い岩の跡に向かった。草が倒 れて、私が岩を転がした跡がくっきりついていた。 「そうだ、道具がいる」 私は、旅行鞄の中にアウトドア用品のL.L.ビーンの通信販売で買い 求めた携帯用のスコップが忍ばせてあるのを思い出した。それは、柄が 折り曲がって半分位の大きさになる優れものだった。裕紀の葉書を読ん で、宝石箱を掘り起こすために、わざわざ用意してきたものだった。と ころが、夫人の部屋に忍びこみ、裕紀に出合い、そのまま裕紀を肩車し て、連理の木のところまで直行してしまったので、スコップを持ち出す どころではなかったのだ。 屋敷に引き返すのは、はばかられた。誰かを起こしてしまうかも知れ ない。もしスコップを持っているところをみつかったら、弁解に窮する だろう。それに、裕紀の死体がある。警察に通報でもされたら、悪くす ると殺人犯にもされかねない。とにかく急ぐことだ。宝石箱を発見し、 宝石をもって、さっさと、この屋敷から逃げ出すことだ。そうだ、それ しかない。 私は、先程、裕紀と一緒に蔦を取った頑丈な枯れ枝があることを思い 出した。そうだ、あれならば、スコップの代用になりそうだ。引き返し た。フランス人形が相変わらず幹にもたれていた。裕紀の身体のどこか に触れたかった。しかし、後ろ髪をひかれながらも、私は、再び、宝石 箱を埋めてある場所に戻った。 、 このときはじめて、私は転がしていった岩の方向と反対側の草も倒れ ているのに気付いた。草は、まだ青く元気だった。ごく最近、誰かが石 を動かしたのだろうか。それは裕紀の仕業とは思えなかった。裕紀の手 紙をもらってから今日まで1ケ月は経過している。草が青いはずはない。 「まあ、いい。仕事を進めよう」 岩の重みで、地面の土の表面は固かったが、枯れ枝の先で突くと、急に 柔らくなった。腐葉土特有の柔らかさだった。土を撥ね上げるようにし て、どかしていくと、5センチほどの長さの棒切れみたいなものが、た くさん出土してきた。そのうちの長目のものをひとつ取って、草で泥を おとすと、丸みを帯びた骨であることが分かった。意外にも、軽かった。 おそらく、何かの動物の骨だろう。あるいは、少女エミが数年前に死ん だので埋めたと話していた黒猫の骨かも知れない。ひょつとすると、人 骨の一部かも知れない。そう思うと、悪寒がよみがえってきた。こんな ことはもうやめよう。すぐやめて、ニューヨークに帰ろう。戦利品は、 あの部屋に飾ってあったルオーの絵でもいいではないか。クリスティー ズあたりで、競売にかければ、1億円くらいにはなるだろう。 しかし、せっかく裕紀が贈ってくれるという宝石を受取るのを、ここ まで掘ってやめるのは、どう考えても中途半端だった。おまえ、どうか しているぞ。骨が出てきたくらいで縮みあがるなんて。裕紀だって、じ き、この黒猫の骨のようになるのだ。いや、お前だって遅かれ早かれ、 こういう形、この軽さになるのだ。 勇気をふるいおこして、なおも掘り進めると、枯れ枝の先が何か固い ものに当った。また石か。枯れ枝でどけていても作業がなかなか捗らな いので、私はとうとう素手で大きな石の周りの土を掻き出した。長さが 30センチ、幅が20センチほどの四角い石のようだった。あるいは、 箱かもしれない。掘り出すと、高さが25センチほどの箱だった。表面 の泥を急いで手で払いのけ、思い直して丁寧に草でふき取ると、それは やはり宝石箱だった。 見覚えのある模様が上部に彫ってあった。母が大事にしていた宝石箱 父がティファニーに特注したと威張っていたアダムとイブの楽園をイメ ージした絵柄だった。10歳のとき、一度だけ持たせてもらったことが ある。その時、箱は、ずっしりと重かった。よろけたので、母に身体を 支えられたことがある。そうだ、思い出した。あの時、母は若く、戦利 品を獲得した女王のように、目をきらきらさせていたっけ。箱のなかに いっぱい入っていた宝石の重さなのか、それとも、箱自体の重量なのか 分からなかったが、とにかくそれは重かった。いま、20年ぶりに箱を 持つと、宝石箱は、意外に軽かった。子供の頃と、大人になってからで は、重さの感じがちがうのかも知れない、 私は、思いきって、宝石箱の蓋を開けた。中には何もなかった。ルビ ーの赤も、サファイアの青も、エメラルドの緑も、瑪瑙の黄も、真珠の ネックレスの白も、そして、ダイヤモンドのきらめきもなかった。
宝石箱の内側には、赤いビロードが貼られており、泥で汚れていた。 私は、泥を爪の先でそっと取り除いた。そんなことをしても、宝石が出 てくるはずもなかったが、何かをしないではいられなかった。 今度の旅行のすべては、壮大な無だった。せっかくニューヨークから なけなしの金をはたいて、やってきたのに、収穫はゼロだった。おまけ に、裕紀が呆気なく死んでしまった。そのうえ、裕紀の葉書に書いてあ った宝石は、ひとつもなかった。ひょっとすると、裕紀は宝石がないの を承知の上で、ただ私に逢いたいがために、宝石の存在を匂わせただけ なのかもしれない。経済的に困窮しているから、お金の話を持ち出せば かならず飛びついてくると思ったのかもしれない。そうだとすると、私 は、見事に裕紀の悪戯に引っかかったことになる。 しかし、人生の最後に臨んで、ひとはそんな悪戯をするものだろうか。 そう思った後で、私は考えなおした。そうか、裕紀なら、やりかねない ぞ。昔から悪ふざけが、大好きだった。林の中に落とし穴を掘って、知 らん顔をして、私をそこに案内して、私が片足をとられて、見事に引っ くり返ると、手を打って喜んだ。 「危ないじゃないか」私が怒ると、さすがに悪いことをしたと思ってか ”お兄ちゃん、ごめんなさい”と素直に謝るのだった。そうなると、す ぐ、私は軟化してしまう。すると、裕紀はとびついてきて、私の頬にキ スをするのだった。 「おい、裕紀、宝石なんか、なかったぞ」 私は、連理の木の幹を回って、裕紀に抗議に行こうと思った。しかし、 すぐに、それが全くのムダであることに気付いた。悪戯をする裕紀も、 謝る裕紀も、もう、この地上にいないのだ。あそこにいるのは、裕紀の 抜け殻だけだ。 私は、空っぽの宝石箱を抱いて立ち尽くし、涙を流した。すべてが空 しかった。生まれて、愛して、愛する人とのこんなに辛い別れを経験す るくらいならば、愛さなければよかった。いっそのこと生まれてこなけ れば、もっとよかったのだ。涙の一滴が宝石箱に落ちた。 不意に、一陣の風が立って、連理の木の葉を鳴らした。あたかも、こ う告げているようだった。 「涙よ、滴り落ちよ。涙で宝石箱を満たせ。その量の多寡によって、お まえの悲しみの深さが分かるだろう。涙の池に変わる日まで、お前は、 泣きつづけるのだ」 私は、涙でかすんだ目で連理の木の梢を仰いだ。天空の真上にあった 月は、時の経過とともに東に移動していた。月のありかを目で追ってい くと、先刻、野菊を摘んだ草原の上にあった。雲ひとつなく、月光の澄 みきった光が草原を照らしていた。 彼方に、ちらっと小さな灯りがみえた。それは、左右に小刻みにゆれ 動いていた。どうやら涙で曇った目の錯覚ではなさそうだった。用心の ために、懐中電灯をもったひとの姿のようだった。背筋が凍った。死体 を発見される。警官かも知れない。すると、誰かが通報したのだ。連理 の木の幹を叩いて号泣し続けた私の声に気味悪がって、誰かがきっと、 警察に連絡したのにちがいない。 イヤな連想が次々に湧き出してきた。 「お前が殺したんだろう。正直に吐け」 「ちがいます。このひとは、心臓の発作で、突然死んだのです」 「ウソいえ、夜の夜中に女が裸足でいるはずがない。誘拐して、騒がれ たので、殺したにちがいない」 しかし、月あかりに花影のように浮かび上がってきたのは、たおやか なシルエットだった。夫人かも知れない。あるいは、エミかも。おそら くそうだろう。遅くまで音楽でも聴いていて、不審な物音を聞きつけて 外に出てきたのだろう。 しかし、近づくにつれて、その花影のシルエットは、裕紀とそっくり になっていった。弾けるような走り方、手の振りあげ方、まぎれもなく 16歳の時の裕紀にそっくりだった。 「そうだ。裕紀が、蘇ってきたのだ」 私の心は、高鳴った。神様が奇跡を起こし賜うたのだ。裕紀は、冥界か ら解放されて、地上にふたたび戻ってきたのだ。
裕紀は、空を舞うように草原を駆けぬけてくると、私の手前、ちょう ど10メートルくらいのところで立ち止まった。懐中電灯を拳銃のよう に構えて、私に光を浴びせた。強い光で、一瞬、目がくらんだ。 「何してるのよ。おじさん。チロのお墓を荒らしたりして」 その声は、エミだった。白いシャツに、ジーンズを着ていた。この年頃 の娘たちの間で流行しているのだろうか、だぶだぶの男物の白いシャツ を着て、そのすそをラフに前で結んでいたので、おへそが丸見えだった。 はしたない。裕紀ならば、こんな格好はしないにちがいない。 「チロのお墓?」 私は、裕紀でなかったので落胆し、また発掘現場をみられてしまった恥 ずかしさから、小さい声で問いなおした。 「そうよ、チロ。黒いペルシャ猫。昨晩、写真おみせしたでしょ。この お屋敷に引っ越した途端、すぐ死んだっていったでしょ」 「死んだ?」 「そうよ、食事をあげたあと、急に苦しみ出して、部屋中のた打ち回っ て、たべたものを戻して、血を吐いて死んだわ」 「血を吐いて?」 「そう。死んだ後で、お医者さんに診せようといったら、ばあやは賛成 してくれたけど、ママが反対したの。世間体が悪いって。パパに相談し てからにしましょうって」 「パパ?」 、このとき、猛烈な疑念が湧きあがってきた。この若い頃の裕紀そっく りの少女は、一体、何者なのだ。ひょっとすると、裕紀が漏らしたよう に、私との間にできた子供ではあるまいか。そうだとすると、その子は もう16歳になる。この目の前にいる少女は、ちょうどその私の娘の年 頃にあたる。 自分の娘に初対面!ほんとうだろうか、そんなことがありうるだろう か。とろろで、エミは、その事実を知っているのか。私の疑念を吹き払 うように、エミは、あっさりと、次の言葉を口にした。 「そう、パパよ。パパも死んでしまったようだけど」 「死んだ?」 すると、私は父親ではない。しかし、そうなると、この娘は、一体何者 なのだ。次々と疑念が湧きあがってきた。疑念だらけ。 「ママは、パパのことをあまり話したがらないの。でも、ばあやに聞く と、室生悠一郎っていう偉いひとだといってたわ。ママは、そのひとの 秘書だったんてすって」 またしても、亡霊のように父が現れた。父は、目の不自由な夫人と関係 して、エミを産ませていたのか。しかし... そうなると、エミは、私の 腹ちがいの妹になる。 「何、驚いているのよ」 「いや」 私は、結論を出すのを先送りすることにして、釈明をはじめた。裕紀か ら葉書をもらったこと、そこには連理の木の下に宝石が埋めてあるから 取りにいらっしゃいと書いてあった。しかし、考えてみれば、その話し は、丸ごと、荒唐無稽の作り話のようだった。 「聞いていたわ。裕紀おばさんから」 「えっ、何を?」 「あなたが、室生浩之だってこと。私のお兄ちゃんだってこと。音信不 通だけれど、ニューヨークで活躍しているらしいって。でも、JANN Eの話だと、最近、事業がうまくいっていないそうだから、何とか助け てあげたいって」 エミは、すこしずつ私のそばに近づいてきた。 「あーあ、チロの骨が散らかっている。チロちゃん、ごめんね。せっか く静かに眠っていたのにねえ」 骨をひとつひとつ丁寧に埋め直してから、ふと箱を抱きかかえている 私のほうをみた。 「その箱なあに? 中に宝石でも入っているの。みせて」 返事も待たずに、エミは、宝石箱を私の手から引ったくって、中を覗い た。 「何もないじゃないの」 「そうなんだ。一生懸命掘って見つけ出したのに、中には何も入ってな かった」 「ふーん。あらっ、チロのお墓の上に乗っていた岩がなくなってるわ」 「それは、あっちに運んだ」 「あっち?」 「ちょっと待って」と私が制止する間もなく、エミは私に宝石箱を返す と、私が指差してしまった方向に走っていった。そこには裕紀の遺体が あるというのに。
「ママ、何してるの? 裕紀おばさまを突き倒したりして」 「何いってるのよ、触ったら、勝手に倒れこんだのよ」 私は、宝石箱を持ったままエミを追いかけようかどうか迷ったが、結局 持ったまま、連理の木の向こう側に走った。その途中で、エミと夫人の 争うような甲高い声を聞いたのだった。 月あかりの下、連理の木の大きな黒い影の下に、夫人とエミがいた。 エミは裕紀の倒れた身体を抱き起こそうとして、しゃがんでいた。 「裕紀おばさま、どうしたの?」 手首をとって脈を調べた。 「死んでる!」 悲鳴をあげて、エミが私に抱きついてきた。 私は、その様子を少し離れたところで、みた。目をそらすと、その叢 に隠れる黒い影がみえた。狸か狐か、何かの獣かも知れない。私は、勇 気を振い起こして、それに近づいていった。何と、ばあやだった。昔か ら小柄だったが、いまや一回りも縮んで、まるで小人のようだった。ば あやは、震えながら、しゃがれた声で、呪文のような言葉を繰り返して いた。 「何っちゅうこった。何っちゅうこった。このお家は呪われている。ご 当主様がお亡くなりになられたかと思うと、奥様があとを追い、そして 今度は、お御嬢までが、お亡くなりになる」 助け起こすと、ばあやは幽霊にでも出会ったかのように、のけぞった。 そして、私の顔を確認すると、両手を合わせて、拝んだ。 「まあ、お坊ちゃま、立派になられて。ありがたや、ありがたや、死ぬ 前に一度お坊ちゃまにお会いしたいと思っていました」 私のシャツを掴んで、放そうともしなかった。 「あなたたち、一体、裕紀さんに、何をしたの? まさが、殺したの ではないでしょうね」 夫人が、エミを詰問した。 「ママこそ、何をしていたの?」 「私は、あなたがそっと外に出ていくので、おかしいと思って着替えて から、話し声のする方に来たの。そうしたら、裕紀さんが幹にもたれて 死んでいて」 夫人は、そこで、言葉を切った。息が止まったかのようだった。視線が ばあやの姿をとらえたのだ。 「あら、ばあや、帰ってきていたの?」 エミが、夫人の手を振り払って叫んだ。 「変なこといわないでよ、ママ。あたしは、いまはじめて、裕紀おばさ んが死んでいるのを知ったのよ。そうよね、お兄ちゃん」 三人の視線が私に注がれた。私は、まるで遺骨の入った箱をもってい るように、宝石箱を胸に抱いていた。ばあやが囁いた。 「お坊ちゃま、それ、亡くなった奥様の宝石箱ではありませんか。もし かして、それ、空っぽじゃありませんか」 「そうなんだ」 エミが、駆けよってきた。 「そうなのよ、ばあや。あたしも驚いたわ。お兄ちゃんが、裕紀おばさ んの葉書に書いてあった通りに掘り起こしたら、何も入ってなかったの」 ばあやが立ちあがって、夫人に向かって一歩進み出た。 「奥様、ばあやは、今日限りおいとまをさせていただきます。長い間、 お世話になりました。最後にひとつだけ、お願いがあります。あの宝石 は、お坊ちゃまに返してあげてください。奥様が遺言でお坊ちゃんにあ げるようにと、裕紀さまに託されたものなんですから」 「ばあや、そのお話しは後にしましょう。仏様の前で、お金の話なん て、はしたないわよ」 「それなら、奥様、仏様の前で申し上げたいことがあります。この秘密 は、ばあやひとりの胸に収めたまま、お墓にまで持っていくつもりでし たけれど...」 「何なのよ、ばあや」 「申しわけありまぜんが、先程、奥様が裕紀さまを突き飛ばすのを見て しまいました。それで、はじめて、奥様が恐ろしいことをお考えになっ ていらっしゃことが分かったんです」 穏やかな夫人が、急に気の狂ったひとのようになって、ばあやにつか みかかっていった。ふたりは、もつれあって、地面にどうっと倒れこん た。エミが、また、私に抱きついて、囁いた。ぶるぶる震えていた。 「あのひと、ほんとうは、目がみえるのよ」
「頼むから、喧嘩は止めて!」 エミが叫び、私とエミは、もみあっている二人に駆けよって、引き離そ うとした。しかし、夫人は、馬乗りになって引っ張っているばあやの髪 の毛から手を放そうとせず、ばあやのほうも、締めている夫人の首から 手を放そうとしなかった。本気で夫人を殺そうとしているかのようだっ た。しかし、もう年をとっているので、力も入っていず、一方、夫人の ほうは、ピンピンしていた。 私は、夫人とばあやの醜い争いを仲裁するのを止めた。いずれ、決着 がつくだろう。二人は、内に蓄積してきた不信感からくる怒りをいま爆 発させているのだ。日本という狭い村社会、そして孤立した屋敷内での 閉鎖的な人間関係。それらが、裕紀の死を引き金にして、爆発したのだ。 二人には、おそらく何の罪もない。罪があるとすれば、私の父、室生悠 一郎なのだ。父が、家事手伝いとしてばあやを雇い、ビジネスの秘書と して夫人を雇った。すべては、そこに起因しているのだ。 「ふたりとも、やめなさい。悠一郎が天国で悲しんでいるよ」 私は、悲しみをこめて静かに呼びかけた。二人への呼びかけというより も、自分への呼びかけだった。父に反抗して、裕紀に子供を生ませて、 こうして無残な結果を招きよせた自分、ビジネスの世界で父を超えてや ろうという野望をもったものの、見事に挫折した自分への呼びかけだっ た。 しかし、この一言は、予想以上の好結果を招いた。夫人もばあやも、 同時に力を抜いた。ばあやなどは、はじかれたように夫人の首から手を 放したし、夫人も、ばあやの身体から離れた。 「ふーん、悠一郎って言葉、すごい効き目があるのね」 エミがつぶやいた。 「エミ、悠一郎なんて呼び捨てにしてはいけません」 夫人が起き上がってきて、エミをたしなめた。 ばあやも、頷いた。 「エミさん、ご当主様は、偉い人なんですよ」 そんなばあやを夫人が見て、一瞬、優しい目つきになった。ふたりは、 エミのことになると、連合軍を結成するようだった。 エミが、肩をすぼめた。 「二人とも、あたしをいじめるときだけは、仲よくなるんだから。いや んなっちゃう」 「このままでは何だから、裕紀を部屋に運ぼう」 私の提案に3人が頷いた。裕紀は、相変わらず、連理の木の幹にもたれ て、顔色も変えずに、じっと、こんな私たちをみていた。 私が裕紀を抱いて肩車にしようとすると、エミがいった。 「みんなで運びましょう」 そこで、私が身体の一番重い部分である頭を持ち、エミが足を持ち、ば あやと夫人が両腕を持つことにした。 「何か獲物をぶらさげてるみたいね」とエミがポツンといった。 「エミ、何ってことをいうの」と夫人、 「それじゃあ、裕紀お嬢様が可哀想ですよ」とばあや。 結局、エミと私の二人で運ぶことにした。エミが足をもって先に立ち、 私が後ろになって裕紀の頭をもって、両脇に夫人とばあやが付き添う形 になった。葬列は、月光を浴びて林の中を屋敷の方にゆっくりと進んで いった。 「そう、裕紀おばさんは、最後に、浩之さんに肩車してもらっらのね」 遺体が重くなってきたのか、エミが荒い息を吐き出しながら言った。 ばあやが言った。 「裕紀お嬢さんもさぞかし満足だったでしょう。奥様も代役から主役に なることができて、さぞ満足でしょうねえ」 「ばあや、何ってことをいうの」 「奥様は、裕紀お穣様の死ぬのを今か今かと待ってらしたのではないの ですか」 「ばあや、やめなさい」 「はい、お坊ちゃま、でも、ばあやは、裕紀お嬢様が奥様に殺されたと 思っていますよ」 「どうして?」 「お薬ですよ、喘息の」 「何をしたというの、私が」 また、夫人がばあやにつかみかかろうとしたが、間にある裕紀の遺体が 邪魔になってか、喧嘩は不成立となった。 「ばあや、やめましょう。お医者様に診せれば分かることでしょ。ママ チロの時には反対したけれど、今度は賛成してね」 「エミ!」 私は、次第に重たくなってくる裕紀の遺体を持ちながら、その瞳が私 をみつめているのを感じていた。 裕紀が、夫人に殺されようが、そうでなかろうが、そんなことは、もう どうでもいいのよ。私のために少し静かにしていてくれない。そう言っ ているように思えた。 「そうだ、裕紀は死んだのだ。もう二度と戻ってこないのだ」 再び、言い知れぬ悲しみが、身体中に湧き上ってきた。それにしては、 林の中の虫の音も、葬送行進曲にしては、騒々し過ぎた。 「うるさい、みんな、静かにしろ」 私は、叫んだ。それは、私自身でも驚くほどの大声だった。林の中のす べての生きとし生けるものに届くような大声だった。そして、信じられ ないことに、それは、父が怒った時に出したものとまったく同じ声だっ た。
第5章 マンハッタンの月
日曜日。こちらでは安息日である。私は、ブルーミングデールで買っ たお気に入りの白いガウンを着て、ソファに座って、ニューヨーク・タ イムズを読んでいた。エミが欠伸をしながら起きてきて、「ああ、疲れ たわ」といいながら、分厚い新聞の束のひとつを取った。 私たちは、マンハッタンのソーホーにあるオフィスを改造したアパー トで暮らしていた。裕紀の葬儀から、もう3年も経っていた。私は、裕 紀の弔い合戦だと固く心に決めて、新しいビジネスをはじめていた。出 版業だった。経費をできるだけ切りつめるために、学生を雇った。固定 読者もできて、ようやく経営は上昇機運に転じてきた。そんな私のアパ ートにエミが突然転がり込んできてから、もう6ケ月になる。高校時代 の仲間たちと「ダンシング・アウェイ」というバンドを結成して、日本 でも少し売れかけたが、それで終わってもつまらないので、本場にきて ヴォーカルだけではなく、ダンスにも磨きをかけたいということだった。 アパートは、6階だというのに、階段もなく、テーブルもソファも、 拾ってきたものだった。しかし、このアパートがいいのは、何といって も家賃が安いことだった。それに、だだっっ広い。私の雇っている学生 たちやエミの友人がたまに寝泊まりしても、十分な余裕があった。窓か らは、高層ビルに切り取られた空間があって、月が見えることもある。 ビジネスで苦境に立つと、私はいつも、裕紀を思い出した。彼女は、か ぐや姫になって、あの月に帰っていったのだ。竹取物語の一節を思い出 して、少し元気になるのだった。 エミが、組んでいた足をほどいて、私に話しかけてきた。 「ねえ、お兄ちゃん、アポロの記事読んだ。すごいわね」 「みんな、大騒ぎだよ。おかげで、NASAの予算が増えるだろう」 NASAの有人宇宙船がついに月に着陸したのだ。人類がはじめて地球 以外の星にたどりついたのだ。月は、竹取物語のような夢想の世界では なく、現実に探査する場になったのだ。私の発行している科学雑誌も、 このおかげで、売りきれ状態だった。 「ちがうってば、アポロ劇場の記事のことよ」 「アポロ劇場?」 エミは、記事のタイトルを読んだ。 「遅咲きの名花、花開く。ATSUKO ASANO。ママが出ている わ」 「どれどれ」 私は、その記事を受け取って、目を通した。夫人がニューヨ−クに来て いることは耳にしていたが、忙しくて連絡をとるところではなかったの だ。エミは、家を飛び出してきたから、夫人に逢いたがらなかった。 シアター欄に、短いコラムがあって、そこにブロードウエイの新作批 評が出ていた。 「YUKI NATUNOの当り役、クレオパトラが、いよいよマンハ ッタンのアポロ劇場で、上演された。今回、クレオパトラを演じるのは ATUKO ASANO。長らく、YUKIの代役だったが、今回、主 役に抜擢された。全体に演技も歌もいいが、なかでも、アントニウスの 死を悼む場面は、心を打つ。ATUKOキャリアは異色で、悲劇的な死 で知られる実業家、室生悠一郎の秘書だった。なお、3年前に心臓発作 で亡くなったYUKIは、室生悠一郎の娘だというのも、奇妙な因縁を 感じさせる」 「おいおい、JANNEの署名がある」 「JANNEって誰?」 「ほら、裕紀の葬儀のときに外人がひとりいただろ。大声で、泣いてい た」 「ああ、あのひと。変なひとよ、時々、私たちのバンドの練習をみにく るの」 「それにしても、ママは、よかったじゃないか」 「そうね、ママは、やっぱりこの道が向いているのよ。母親は失格だけ ど」 「しかし、ニューヨーク・タイムズでも間違うことがあるんだな」 私は、記事の結びの文章の誤りに気付いていった。しかし、エミは別の 受け取り方をしたようだった。 「ふーん、でも、ニューヨーク・タイムズの劇評をするなんて、影響力 のあるひとなんでしょ、今度、JANNEと一度話してみようかな。あ たしたちのバンドを取り上げてくれって」 エミが、私の言っている意味を取り違えたので、私は、内心ほっとし ていた。このJANNEの記事は本当だろうか。学生時代から、JAN NEは、参考文献を突き合わせて、事実調べを徹底するので有名だった。 何度もレポートを手伝わされて、辟易したことがある。もしかすると、 この文章は正しいのかも知れない。 「なお、3年前に心臓発作で亡くなったYUKIは、室生悠一郎の娘だ というのも、奇妙な因縁を感じさせる」 「裕紀が、父の娘? 私の妹? すると、生まれた子供は?」、 私は、目の前にいるエミをみつめた。ちょうど私の娘の年頃になってい る。確か、19歳た。
「ありがとう。素敵なバラを贈っていただいて」 麻野亜津子の声が、電話口ではずんでいた。あの裕紀の別荘でみせたし とやかさとも、ばあやとのつかみあいの大喧嘩とも違った口調だった。 このひとは、天性の女優だ、相手によって、シチュエーションによって いろいろな口調や仕草を使い分けられるのだろう。 「いや、公演、ご成功、おめでとう!」 「JANNEが、ニューヨークタイムスに好意的に書いてくれてから、 お客様の入りがいいのよ」 「それはよかった。その記事のことで、一度お会いしたいのだけども」 「私のほうも、浩之さんには、ぜひ、お目にかかりたいの。エミがそち らにお世話になっているそうだし。あの娘、家を飛び出していってから 何もいってこないけれど...元気かしら?」 「いま、ダンス・スクールに通っている。忙しそうにしているよ」 「そう、それならいいけど。才能がないのに、この世界に入ることほど 惨めなことはないって、忠告したのだけれど、どうも、それがよくなか ったようなの」 ちょうど、ビジネスの緊急連絡の電話が入ったので、私は日時と場所 だけを指定して電話を切った。ビジネス以外の用事で、女性と会うのは 久しぶりだったので、胸がときめいた。裕紀には申し訳ないことだが。 公演が終わった翌日の夜、私は麻野亜津子とハドソン河沿いの日本料 理屋で食事ををした。ここからは、対岸のマンハッタンの高層ビル群が よく見渡せる。ビジネスののっぴきならない用事で、少し遅れて到着し た私は、最初のうちは、地味な黒いスーツ姿の女性が夫人であるとが分 からずに、別の座敷へ行きかけたくらいだった。 「浩之さん、ここよ」 その声で、気付いてよく見ると、確かに麻野亜津子だった。思ったより も老けていた。もう、40歳に手が届いているかもしれない。私より、 確か、4つ年上だったか。夫人はそうした私のとまどいを感じとってか 言った。 「すっかり、おばあちゃんになったので、驚いていらっしゃるでしょう」 「おいしいわ。久しぶりにおいしいお刺身を頂いたわ」 「ニューヨークは、海も近いし、グルメの多いから、いい食材が手に入 るのですよ」 「浩之さんは、すっかりニューヨーク子になったのねえ」 「仕事に追われて、遅れてすみませんでした。ところで、今晩お呼びた てしたのは、他ならぬニューヨークタイムズの記事のことなんですが」 私が、いい終わらぬ間に、夫人もうなずいた。 「私もびっくりしたわ。あの記事の最後」 私は、ニューヨーク・タイムスの切り抜きを取り出した。 「それなら、話しが早い。短刀直入にお伺いしますが、この部分は本当 ですか」 夫人は、頭を傾げて記事を覗きこんだ。化粧の匂いがした。3年前の匂 いと同じだった。あの古い屋敷の続き部屋で、私は、全裸になった夫人 の裸身を間近に見て、そして、重苦しい花の匂いもかいだのだった。裕 紀が到着せずに、あのまま事態が進行していたら、おそらく私はこの目 の前にいる女性を抱いていただろう。 夫人も私のそんな気配を感じてか、急に寡黙になった。 気づまりな沈黙から逃れるために、障子窓の外に目をやると、対岸の高 層ビル群の真上に三日月が見えた。澄んできれいな形をしていた。 夫人も、同じ方向に目をやってつぶやいた。 「お月様って魔物ね、人の気持ちを狂わせるわ」 「それは、クレオパトラのせりふですか?」 「いいえ、私のほんとの気持ち。あの夜も三日月が出ていたわ。ちょう ど、20年前の今月今夜だった」 「金色夜叉みたいだね」 「浩之さん、まじめに聞いて頂戴」 「すまん、すまん」 それから、麻野亜津子が話しはじめた内容は、衝撃的なものだった。 彼女が話し終えた時、私は、思わず、彼女を抱きしめた。 「そうか、そんなことがあったのか」 ちょうどハドソン河に花火が、威勢良く上がりはじめた。そういえば、 今日は7月4日。独立記念日だった。
その日から、私たちは毎晩のように出会った。場所はファースト・フ ードの店、次はファミリーレストラン、そして世界各国のダイナーとい った順に店のグレードが昇格していった。麻野亜津子にせっかく人種の るつといわれるニューヨークに来たのだから、そこで暮らしていろいろ いろな人を見たいと言われたからでもある。 逢うたびに、私は亜津子の身の上話しを聞き、それに魅了さていった。 彼女は、定時制高校しか出ていなかった。父親が物心のつく前に早死し たので、工場勤務をする母親の手ひとつで育てられた。母子家庭のさび しさをいやというほど味わったのである。教科書を買うお金すら事欠い た。お昼ご飯もぬいて、学校の屋上で景色を眺めていた。友人には、ダ イエットしていると説明した。 卒業すると、母親の友人の紹介で、室生悠一郎の子会社の一つに入社 できた。それだけでも夢のようで、母親は「友達って大事ねえ」と繰り 返した。工場では、経理係だった。地味な仕事で、先輩たちも、一生う だつが上がらないような生彩を欠いた様子をしていて、口に出すことは といえば、上司の悪口と芸能界の話題だけだった。亜津子は、母親の髪 の白髪をぬいてやりながら、自分もいずれはこうなる運命にあるのだと 思った。 転機が訪れたのは、7月4日だった。忘れもしない梅雨明けの夏日だ った。工場は、室生悠一郎の視察があるというので、工場長以下、朝か ら緊張づくめだった。悠一郎にお茶を出す係も決められた。選ばれたの は、工場一の美人事務員で、勿論、亜津子ではなかった。亜津子がいい つかったのは、説明員席にお茶を出す役目だった。美人の事務員には、 悠一郎の好みに関する事細かい注意が、工場長から直々になされた。た またま、そばにいあわせたので、亜津子は、それを聞いていた。 室生悠一郎は、工場視察を終えて、汗を上等の絹のハンカチでふきな がら、業務説明を受ける会議室にやってきた。その後に一団の役員が続 いた。工場長が、かしこまって、悠一郎を指定された席に案内しようと した。すると、悠一郎は「いや、この席でいい」といって、工場側の説 明員の末席に座ってしまった。工場長は青くなった。その席でお茶を出 すのは、定時制高校卒の田舎娘、亜津子の役目で、しかも、お茶は玉露 ではなく、ただの煎茶だった。 工場長以下が固唾を飲んで見守るなか、亜津子は温めのお茶を出した。 悠一郎は、余程、暑かったのか、お代りを所望した。亜津子は、今度は、 少し熱めのお茶を量を減らして出した。それも悠一郎がお代りしたので、 熱いお茶をほんの少しいれて出した。悠一郎は、満足そうにうなずいて、 「君の名前は?」と聞いた。 一週間後、亜津子は、工場長から呼び出された。 「出すぎたマネをするな」と怒られるのを覚悟で、奈津子は、はじめて 踏み入れる工場長室に恐る恐る入っていった。 「でかした」 ところが、驚いたことに、工場長はそう言ったのである。満面の笑みを 浮かべていて、握手までしてくれた。そばには、見なれぬ洗練された身 なりの若い男がいた。あとで分かったが、会長秘書の重原だった。 「少し質問していいですか」といって」重原は、別室で亜津子の身の上 話しをにこにこしながら聞いてくれた。 夏休み明けに、亜津子は、また工場長室に呼び出された。 工場長が辞令を読みあげた。 「麻野亜津子、本社経理部勤務を命ず」 そして、赤ら顔の剥げ上った額の汗を手でぬぐいながら、ポツンといっ た。 「麻野君、君がうらやましいよ、俺も早く本社に帰りたいなあ」 亜津子は、いった。 「この話しなかったことに出来ませんか」 「何?」 工場長は仰天して、問い返した。 「母を置き去りにできませんから」 「何だ、そんなことだったのか。会長はそんなことは先刻お見通しだよ。 お母さんのご了解はいただいている」 亜津子は、本社の経理部にたった4ケ月いただけで、秘書室勤務にな った。会長付きの秘書になるまでには、1年かかったが、その間、厳し いことで有名な監査役に仕え、秘書の重原からは、英会話学校に通うよ うにといわれた。 私は、イタリアン・レストランのテーブル越しに、亜津子の手をとっ て、聞いた。 「ふーん、まるでシンデレラ物語みたいだ。ところで、ひとつ質問し ていいいかい? 父は、最初から君を見初めていたのか? 工場で出合 ったときから」 ゛ それに対する亜津子の返事は、私を仰天させた。 「あなたのお父様は、私をあなたのお嫁さんにするつもりだったのよ」
私たちは、頻繁に出遭うようになった。 出かける支度をしていると、エミが、後ろから近づいてきて、目隠しを して言った。 「お兄ちゃん、このところ毎晩帰ってくるのが遅いね。誰か、いいひと でもできたの? まあ、誰でもいいけどさ。いつまでも、裕紀おばさん に義理立てしなくてもいいんじゃない。ごめん、いい過ぎたかな」 その夜は、リンカーンセンターで「カルメン」を見た。終わってから 近くの中華料理屋で遅い夕食を取った。中華なのに、内装が洋風で、値 段が安いのが評判を呼んでか、満席だった。隣は、学生の8人組だった。 亜津子は、オペラに感動して、顔を紅潮させていた。 「私もカルメンみたいに、自由奔放に生きたかったわ」 私は、二度目だったので、あまり感動しなかったが、隣の学生たちが時 折りあげる弾けるような笑いがうらやましかった。 「同感だな。僕も、連中みたいに若かったらなあ」 亜津子が、宙で箸を止めて、悪戯っ子のように目を耀かせて言った。 「ねえ。若い頃にもどりましょうよ。手はじめに、あなたの大学に連れ て行ってくれない?」 週末、私たちは、ペン・ステーションでボストン行きの列車に乗り込 んだ。家族連れが多く、デッキのところで、見送る人たちとの別れの光 景がみられた。亜津子は、面白がって、そんな光景を写真に撮っていた。 すると、目の前のタラップで、兄と思われる子供が、妹らしい子供に、 別れのキスをはじめた。大人の真似だろうが、可愛い仕草だった。亜津 子のカメラをもった手がだらりと下がった。それまでの若やいだ表情が 突然、固くなった。 「あなたも、裕紀さんとあんなふうだったのね」 ゆったりしたシートに腰掛けてボストンまで4時間。普段なら、大いに 会話がはずむところだが、そんなつまづきもあって、亜津子は、物思い 気に車窓を流れる景色をみつめていた。私は、溜まっている書類に目を 通すことにした。 久しぶりのボストン、そして大学のキャンパスの風景は、懐かしかっ た。林間に開かれた緑の芝生のあちこちで、キャンパス・ツアーが行な われていた。かつての私のように、期待に胸をはずませた新入生たちが キョロキョロあたりを見まわしながら歩いていた。 亜津子は、私の手をぎゅっと握っていた。まるで、そうでもしないと、 私が彼女から逃げて、過去のほうに消えていってしまうのを恐れている かのようだった。 宿泊先は、ボストン郊外のコンコードのホテルに決めていた。学生時 代に何度も食事をして、一度泊まりたいと思っていた小さな瀟洒なホテ ルだった。ボストン観光で、時間があっという間に過ぎてしまったので あたりは、もう暗くなりかけていた。 フロントの顔なじみの老婦人が、笑顔で迎えてくれた。 「WELCOME、MR&MRS MUROO」 夕食の時間を尋ねてきた。夕食は、後にしてもらうことにして、荷物も 部屋に運ばずに、すぐウォールデン湖に向かった。 道路の右手、前方の林間に、水面の鈍い輝きがみえた。 「あれが、ウォ−ルデン湖だよ。ソローが二年ほど、ここで暮したんだ」 「そう、あれがあなたの大好きな湖なの」 「ほら、ソローがつくった小屋がみえる」 「ずいぶん、小さな小屋ねえ」 駐車場にくるまを置いて、もう人気のなくなった湖畔に続く林の中の道 を歩いた。突然、林が切れて、目の前に、ひろびろとした水面が広がっ ていた。砂浜にはボートが置いてあった。砂浜が、弧を描いて私たちの 前に広がっていた。水際の白樺の若木が湖面に頭を垂れて波にゆられ、 波紋がそこから広がっていた。 何もかも同じだった。父が私にアドバイズをしてくれた日本の湖畔の 風景と。満月がこうこうと湖を照らしていた。亜津子は私にぴったりと 寄り添って、肩をあづけてきた。 「覚えてる? 最初に出遭った時のこと」 「3年前のこと?」 重たい花の匂いがよみがえってきた。月光に照らされた夫人の白い裸身。 「いいえ、そうじゃないの」 亜津子が、まるで私の心の動きを読んだかのように、身をよじって言っ た。 「あなたの海外留学の件で、重原さんがお屋敷にきたでしょ。あの時、 私も同行させられたの」 「すると、重原のそばにいた目立たない感じの娘さんが、君だったの か?」 「私も知らなかったけど、お父様は、お見合いのつもりだったのよ」
私は、亜津子の服装をみた。かつての白いブラウスに黒いスカートの 小娘の影は跡かたもなく、いま目の前にいるのは、グレイのツーピース に黒いカーデガンを羽織り、首に赤いパンダナを巻き、耳に金のピアス をしている成熟した女だった。 みつめる私をまぶしそうにみて、亜津子は、私の手をとると、歩き出 しながら、言った。 「どう、今日のお見合いの相手は、気にいっていただけた?」 いつか適当な時期をみて、言い出そうと思っていた私は、不意にその時 が訪れてきたので、狼狽した。亜津子に、まだ、いくつか確かめておか ねばならないことが残っていた。 ためらう私をみて、亜津子がいった。 「こんなおばあちゃんじゃ、いや?」 私は、亜津子を引き寄せて、頬にキスし、そして押し殺したような声で いった。 「馬鹿いうな。少し、歩こう」 ソローの小屋跡は湖の対岸にあった。半周するには、20分くらいか かった。私は亜津子の手をとって、湖畔の小径を歩いた。あたかも、月 光に照らされたヴァージン・ロードを歩むような気持ちだった。 「ここだよ、お目あての場所は」 ソローは、小屋を湖を臨む小高い場所に作った。小屋の近くに、自給自 足できるように、小さな畑をつくったが、それは荒れ果てて、みる影も なかった。 亜津子が、ソローの紹介をしている案内板を読み終わったあと、そばに あるうず高く積みあがった小石をみて聞いてきた。 「これ、なあに?」 私は、石のひとつを拾って、そこに書かれた文字を読んだ。 「フリードリッヒ。フロム・ジャーマニー。こうして世界中からソロー のフアンがやってきて、記念に石を置いていくのさ」 「お父様の葬儀の時もすごかったわ。青山斎場だったけれど、長い行列 が続いて、交通混雑で大変だったわ」 「僕は、行かなかった。行けなかった」 「そう、お母様は、とても残念がっていたわ。私も、今度こそ会えると 信じていた」 「あの頃は、反抗期だったんだ」 「私、毎年、お墓まいりをしてるのよ」 私は、実の子供でありながら、父のお墓まいりすらしていなかったのを 恥じた。 亜津子は、私と対決でもするような姿勢をとった。 「ちょうど、こんな満月の夜だったわ。あのお屋敷で、お父様に、麻野 くん、ちょっと一緒に散歩に行こうか、と誘われたの。そばにいた重原 さんのほうを向いたら、お父様は、プライベートなことだから、重原君 は外してくれないかっていわれたの」 亜津子は、くるっと1回転した。お芝居でいえば、場面が変るという 演出だろう。 「砂浜に向かったの。途中、私、ドキドキしていたわ。毎日、秘書とし てお仕えしているうちに、なんて素敵な人と思うようになっていたし。 年は離れていたけれども、言い寄ってくる若い男たちよりも、ずっと素 敵な男性と意識するようになっていた。父が早く亡くなったから、父親 が生きていたら、こんな感じかしらと思うこともあったわ。将来、こん なタイプのひとと結婚できたらいいなあと思うこともあった。だから、 当の本人から言い寄られそうになったので、どうしよう、どうしようと 思って、心臓がドキドキして、歩くのも辛かった。いまでも、お芝居の 初日に緊張することがあるけれど、あの時のことを思えば、あがるなん てことはないわ」 私は、急に蘇ってきた父と、またもや、対決を迫られた。 「かれは、人生は自分の思いのままになると信じていた男だった。僕も 砂浜に呼び出されて説教されたことがあるよ」 「そうなの、同じ被害者っていうわけね」 「それで?」 「お父様は、まずこういわれたわ。麻野くん、どうだね。仕事には満足 してるかね。辛いことはないかね。わたしが、会長さん、とんでもない いろいろご配慮いただいて、ほんとうに感謝申し上げていますといった の。そうしたら、満足そうにうなづかれて、そうか、それはよかった。 それから、ひとしきり演説をされたわ」 「彼は、普通の口調で話すことの下手なひとだった。熱が入ってくると すぐに演説口調になってしまう」 「会社でも、ほら会長の演説がはじまったって有名だったわ」 「演説が終わって、それから?」 「お父様は、空を仰いで演説されて、それから急に下を向いて、”亜津 子くん、実は、折りいって頼みがあるのだが”といわれた。私のほうは そらきたって思った。もう心の用意ができていたから、比較的冷静だっ た」 亜津子は、笑った。 「私って、馬鹿よね、その時、断れなかったの」 私は、話しが突然飛躍したが、黙っていた。おそらく、そのシーンは、 亜津子が、これまでの生涯で何度も反芻してきたものにちがいない。 「赤ん坊をひとり預かってくれないか。籍のことも、乳母のことも、養 育費のことも心配しないでいい。すべて重原に手配させたから」 「まるで、仕事をいいつけるみたいじゃないか」 「そうなの。おれの目の黒いうちは、君を悪い目には合わさない。頼む。 君は、大船に乗った気になっていいっていわれた。そのうえ、お父様は 滅多にひとに頭をさげたことがないのに、私に向かって、深々と頭を下 げられたわ」 「その時、事情を聞かったの?」 亜津子は、私の手をぎゅっと掴んでいった。 「その赤ん坊が、あたなたの子だって、誰が想像できる?」
私は、再び、蒼ざめた。このひとは、何の罪もないのに、私と裕紀の 子供を長い間育てさせられたのだ。いわば受難者なのだ。 「知らなかった。ごめん、ほんとうに知らなかったんだ。この前、君か ら聞かされるまで。この前の花火の夜まで」 亜津子は、手を私の頬にもっていき、優しく撫でた。 「まったく、あなたって、お坊ちゃんなんだから。世の中には、知らな いですまされないことってあるのよ。でも、もういいの。許してあげる」 私は、亜津子の手をとって、そっと口づけしてから、声をひそめて聞 いた。 「ところで、エミは知っているのか」 「分からない。私は、お父様から、あなたとエミには言うなと固く口止 めされていたし....もし、分かるとすれば、裕紀からだけど、裕紀も、 自分からはとても直接言えないって、話していたわ。お父様が亡くなら れた後、二人で話し合ったのだけど、将来、折りをみて、浩之さんに話 してもらいましょうということになったわ」 「そうか」 しばらく私たちは、お互いの眼をみていた。 「いまはダメよ。あの娘、せっかく音楽の道で自信を持ちはじめたとこ ろだから。あの娘、一時期、すごく荒れてたのよ。ペルシャ猫を殺した のも、そんな時期だった」 「えっ、君が殺したって、ばあやがいってた」 「あなたって、私が殺したって、ほんとにそう思っていたの?」 「だって..」 「ばあやは、あの娘に、ころっと騙されたの」 「えっ?」 「ばあやは、あの娘の言うことなら何でも信じるのよ」 「どうして?」 「そんなことまで説明しなければならないの?」 亜津子は、涙を流した。その涙は、大粒で、放っておけば、涙の谷にな っただろう。 私は、亜津子を抱いて、心の底から詫びた。 「ごめん、君を辛い目に合わせてしまって。でも、どうしても、昔起き たことは、この際、みんな知っておきたいのだ。君をまるごと愛するた めには、これは必要な作業なんだ」 「そうね」 私は、ハンカチを出して、亜津子に渡した。亜津子は、少しためらって から、それを受取って、目を拭いた。その目は赤子のようにきれいだっ た。 「ばあやは、格式高い夏野家そのものなのよ。ばあやの眼から見ると、 秘書なんか、ただの使用人なのね。それに定時制高校しかでていない女 を、なんで奥様なんていわなければならないのかって、ずっうと思って いたみたい」 「父に頼めばよかったのに。他のひとに代えてくれって」 「ああ、いやんなっちゃう。あなたって、ほんとに何も知らないのね。 ばあやが来たのは、お父様が亡くなられてからなの。重原さんが、夏野 夫人に頼まれたの。夏野夫人は、お父様の死にショックを受けて、お父 様に関するすべてが忌まわしくなって、別荘もばあやも、みんな放り出 したのよ」 私は、半狂乱になった夏野夫人の姿を想像しようとした。しかし、ど うしてもその姿を思い浮かべることができなかった。夫人は恋人と一緒 にいる時の娘のように、いつもうきうきしていた。花咲く娘という風情 だった。しかし、夫人だって、裕紀の妊娠がわかった時は、おそらく、 半狂乱になったにちがいない。花は嵐に遭うこともあるのだ。 「留学していたとき、一度だけ、夏野夫人から国際電話をもらったこと がある。父が死んだ、母も死んだと知らせてくれて、あとは泣き崩れて いた」 亜津子は、私の手にハンカチを強く押しつけた。 「あなたも、辛い思いをなさったのね」 「いや、あの頃は、何とも感じなかった。言わしてもらえば、エリート の若者特有の鈍感さのせいだった。ただ、最近になって、時々、母の夢 をみることがある」 「お綺麗な方だったんですってね。お会いしたかったけど、どうしても お父様が許してくださらなかった」 「ああ、いつもきちんとした服装をしていた。話し方もきちんとしてい た。書道と和歌が得意だった。さらさらっと和紙に”白金も黄金も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも”なんて、書いていたっけ」 「女子大も出られて、教養があったのね、私とちがって」 私は、亜津子を抱いていった。 「馬鹿いうんじゃない。亜津子。人間の価値は学歴なんかじゃ決まらな いんだ。その人間が、どれだけ自分の希望に忠実かで、決まるんだ」
ホテルに戻ると、部屋に荷物を運ぶのを後回しにして、亜津子が怪訝 な顔をするのを知りながら、直接ダイニング・ルームに行った。亜津子 は、服装を気にしていたが、周囲が意外にカジュアルなので、安心した ようだった。珍しそうに食堂を見まわして、私のほうに身をかがめて、 囁いた。 「軽井沢のMホテルに似ていない?」 「そう、このホテルは由緒があるから、Mホテルが真似したのかもしれ ない」 食事は、流石にボストンの近くに有数の漁場があるだけあって、魚介 類のメニューが充実していた。 「まず、クラムチャウダー、それからロブスターにするか」 「私も、クラムチャウダー、でも、舌平目のムニエルがいいわ」 カリフォルニアの白ワインを頼んで、乾杯した。 「亜津子の希望に乾杯!」 「浩之さんの希望に乾杯!」 空腹だった上に、食事がすこぶるおいしかったので、私たちはすっか り満ち足りた気分になって、部屋に入った。 亜津子が叫んだ。 「まあ、お屋敷の部屋そっくり。ルオーのキリストの絵が飾ってある」 「うん、ルオーの絵は、ホテルに頼んで掛けさせたのさ。複製だけど」 「あらっ、バスローブも、私の大好きな絹だわ」 「うん、同じものをブルーミングデールに注文したんだ」 亜津子は、私に近寄ってきて、身体を預けた。 「ありがとう、私のために、こんなにまで気を遣っていただいて」 「僕たちの希望のために、あの夜からやり直そうと思ってね」 亜津子が、バスルームに消えた後、私は、ゆったりしたサイズのダブ ルベッドに横たわって、天井をみていた。そこには窓から射しこむ月光 がゆらめいていた。あの月夜の出来事が脳裏に影絵のように蘇ってきた。 突然、ドアを背にして立っていた夫人、ふりかざした聖火のトーチの火 のきらめき、絹の寝衣をはらりと落としたあとに現れた白い見事な裸身 そして、私の鼓膜に響いてきた魂の底から絞り出したような震える高音。 あたしは、至福を得たの。 これほどの栄誉、これほどの愛情を手に入れるなんて 信じられないわ。 もはや、あなたへの愛情を隠すことなど、到底、できない。 あたしは、自分が何者か、あなたが何者であるかを知っている。 あなたは、あたしを少女の頃からずうっと愛してくれたわ。 あたしの王冠は、あなたの贈ってくださったもの。 いま、告白しましょう。 あの時から、あたしは、あなたを愛してしまったの。 永遠の愛、あたしは、それを誓います。 亜津子が、白い寝衣をまとって、ベッドにすべりこんできた。すぐに ベッドサイドの灯りを消した。 「どうして、灯りを消すの?」 「だって、もうおばあちゃんだから。恥ずかしい」 「亜津子、あの時、君は女神みたいだった」 「あの時のあなたは、ゼウスみたいにさかりがついていたわ」 私は、まるで20代の若者に戻ったかのように、亜津子に襲いかかっ て、侵衣を脱がせた。亜津子も、おなじように狂暴に振舞った。しかし 若い時ほど持続力がないのか、30分ほど後には、ふたりとも息をはず ませながら、並んで天井をみていた。 亜津子が耳元で囁いた。 「よかったわ。私は、この夜をずっと待っていたの?」 私は、亜津子の持ち重りのする乳房を撫でながら、おどけるような口調 で、囁いた。 「いつから?」 亜津子の返事は、またまた、私を驚かせた。それがクレオパトラの口調 だったせいではなく、その内容のせいだった。 「あたしは、あなたを少女の頃から愛していたわ」
亜津子は、起きあがって私の目を覗きこむようにして話しはじめた。 「わたしがちょうど10歳のときだった。その頃、学校で「竹取物語」 を読んでいたところだった。浩之さんは、勿論、物語の筋は知っている でしょう?」 「昔、読んだことがあるけれど、もう忘れてしまった」 「そう。ある日、お爺さんが、たけのこを取りにいくと、竹林のなかに 何やら光る竹が一本あって、それを切ると、中に、それはそれは小さな 子供がいたの。お爺さんは、お婆さんと一緒に、その子を大切に育てま した。成長するにつれて、その子は光り輝くように美しくなったので、 かぐや姫と名づけました。近隣だけでなく、国中に評判が広がって、大 勢の若者が求婚しにやってきました。かぐや姫は、なかなか応じようと しないで、若者たちに、難しい条件を出すの。銀の花が咲いた金の木を もってきてとか、竜の首についている5色の玉をもってきてなんていっ たのよ。若者たちは、そんなことは無理だとあきらめて退散してしまっ た。でも、噂を聞きつけて、帝が求婚してきたの。かぐや姫は、私は、 月の国のひとだから、帝とは結婚できません。この満月の夜に、私を迎 えに、月よりの使者がやってまいります。どうぞお許しくださいませ。 でも、帝はそんなことは許さんというの。大勢の兵士を動員して、月よ りの使者を迎え討とうと、待ち構えたのよ。でも、突然、あたりがまぶ しくなって、目を開けていられなくなった」 「そうそう、思い出した。最後は、空からはしごが降りてきて、かぐ や姫はそこを上って月に行ってしまうんだろう」 「車が迎えにきたのよ」 「それで?」 「浩之さん、子供のころ、お父様に連れられて、よく工場や研究所の開 所式にいったことがあるでしょう?」 「ああ。思い出すのも、苦痛だなあ。父は、僕に事業を継がそうと思っ て、学校を休ませても、自分の会社の行事に僕を連れていった。大きな 殺風景な建物や機械。”お坊ちゃま、可愛いですね。お幾つになられま したか?”とすりよってくる大人たち。父は、ご機嫌で、”これが、私 の跡とり息子だ”と紹介して悦に灰っていた。”どうだ浩之、実社会は 面白いだろう” ふん、面白くも何ともなかった」 「親の心、子知らずね」 「僕の場合、完全に逆効果だった。友達から引き離され、特別扱いされ るのが、たまらなくいやだった」 「それでね。ある日、わたし、母が買ったばかりのテレビをみていたの。 田舎だから、NHKとあと民放が2つくらいしか写らなかった。ローカ ルニュースで、偶然、あなたをみたのよ。製紙工場の開所式だった。カ メラがテープカットをするお父様や役員たちを映して、そしてクローズ アップして、水兵服を着ている子供を映したの。その子の瞳まで映し出 したわ。カメラマンもテープカットなんて面白い絵にならないから、た またまテープカットに加わっている子供がいたので、近寄ったのね」 「つまらなそうな目をしていただろ?」 亜津子は、私の瞳をじっと覗きこんだ。 「いまは、いい瞳をしてらっしゃるわ。でも、その時のあなたの瞳は、 あらぬかたを眺めていたわ。まるで、月から使者でもやってきて、早い ところ、ここから僕を連れってくれといわんばかりだった」 「そうなんだ。早く、こんな馬鹿騒ぎから逃げ出したいとばかり思って いた」 「私は、その子の瞳をみて、ここに私の同類がいると思ったの。そして 何故か、その子に恋してしまったの。それが私の初恋」 亜津子は、私の手を胸にあてがって、話し続けた。 「そんな風に思ったのは、母ひとり子ひとりの貧しい家庭から逃げだし て、かぐや姫のように別世界にいってしまいたかったからだと思うわ」 「でも、長いこと逃げ出せなかった」 「そう、だから私は夢見る少女になることにしたの」 「僕もそうだった。父に別れを告げる夢、父の工場が爆発する夢、あげ くのはてに、父を殺す夢までみた」 亜津子は、私の頬を両手ではさんだ。 「可哀想な浩之。でも、あなたのお父様は亡くなられたわ。工場は爆発 しなかったけれど、会社は破産したわ。お父様の野望のすべては、白紙 に戻った。ゼロ。でも、世の中って、不思議ね。もし、そんなことが起 きなければ、わたしの初恋も成就しなかったし..。いま、こうして一緒 にいることなんてありえなかった。そう思うと、ほんとうに不思議。お 月様に感謝しなくては」 私は、亜津子の裸身を抱きしめて、囁いた。 「亜津子、お月様に誓おう、僕らの愛は永遠に変らないと。結婚しよう」 それに対する亜津子の返事も、またまた、私を驚かせた。 「うれしいわ。浩之さん。でも、だめ」 「どうして?」 「月は形を変えるわ。新月、三日月、満月。月に誓ってはだめ」 「それじゃあ、神様に誓おう。結婚式をあげよう」 「だめなのよ、浩之さん」 「なぜ?」 「浩之さんと結婚したいと、ずっと思っていたわ。少女時代は、夢の中 で、何度も結婚式をあげたし、エミを引き受けさせられた時も、これで 浩之さんとは、いわば夫婦同然と思って、また結婚式の夢をみたわ。結 婚式の夢は、ディテールまで思い出せる。でも、3年前、あなたが突然 帰国することが分かって狂喜乱舞する裕紀を見たとき、これで、結婚の 夢は消えたと気付いたの。でも、裕紀は死んでしまった。私の夢をさえ ぎるものは何もなくなったの」 「それなのに何故? もしかしたら、あの屋敷にしょっちゅう訪れてく るとエミが言っていた叔父が原因か?」 「もともと、叔父なんていないわ。あれはエミの創作よ。重原さんが、 打ち合わせにくるのを、邪推しただけよ。重原さんとは、何もなかった わ。あの人、自分でホモだといってらした」 私は、仰天した。あの重原が? 「重原さんは、もう子供をつくる時代じゃないっていってたわ。こんな に人口が増えてはダメだ。その証拠に、変なことばかり起きるじゃない かって」 「それは、重原さんのポリシーだから、僕らには関係ないだろう」 「そうじゃないの。浩之さん」 「どうして?」 「結婚すると、愛は消えるからよ」 「亜津子、それは反対だろう。自分たちだけではなく世間も祝ってくれ る。国家まで認めてくれる」 「結婚という制度は、永遠の愛を保証するものではないのよ。子供を産 み、育てるための安全保障なのよ。その安全が、愛にとっては危険なの よ」 「結婚して、ふたりの子供を創ろうと思わないの?」 亜津子は、私の上に覆いかぶさって、泣き崩れた。 「浩之。あなたって残酷ね。私は、もうおばあちゃんなの。あなたの子 供はもう産めない体なのよ」
翌朝は、すっかり寝坊してしまった。朝起きたときに、傍らに暖かい 生き物がいるということが、どんなに幸せなことかを久しぶりに思い出 した。亜津子の寝顔を見ながら、裕紀とは一度もそんな機会をもてなか ったことを悔やんだ。 「いやあね、浩之さん、ジロジロ、寝顔をみてるなんて」 亜津子が、目を開けるやいなや、そういってシーツで顔を隠した。 「綺麗だよ、亜津子」 私は、シーツを剥ぎとって亜津子の裸身を眺めた。さすがに加齢による 膚のつやのおとろえは隠せなかったが、胸の張りもあり、腹部のくびれ も美しく引き締まっていた。やはり、女優だけあって、人一倍、身体の 手入れをしているにちがいない。 亜津子は、恥ずかしそうに身をよじったが、私の視線を拒まずに、受け 入れた。それは、ふたりが何でも隠し事をしない仲になったという宣言 だった。 「お腹が空いた。さあ、食堂に行こう」 食堂では、フロントにいた老婦人が、コーヒーを入れにきて、ウィンク した。 「Good Morning You look so happy」 「Thank you for your cooperation」 老婦人が去ったあと、亜津子が聞いた。 「何の話し?」 「いや、昨夜、部屋にルオーの絵があっただろう。彼女が手配してくれ たのさ」 亜津子は、トーチド・エッグを器用に割りながら、私の方にかがんだ。 「あのルオーの絵だけれど。お屋敷にあったあの絵、実は贋作だったの」 「えっ、それは本当か?」 「そうなの。重原さんが、銀座のN画廊に見てもらったら、贋作だった んですって」 私は、その絵が、まさか贋作とはつゆ知らず、黙って屋敷から持ち去ろ うとしていたのだった。幸い、裕紀の死という事件のせいで、警察がや ってきて、死因調べをしたりして、その機会もなくなってしまったが、 思えば資金繰りに困っていたとはいえ、馬鹿なことをしようとしていた ものだ。 「誰が描いたの?」 「私も、そう思ったわ。重原さんに聞いたわ。彼、気まずそうにうつむ いて答えてはくれなかったわ」 「まさか、重原さんが描いたってことは?」 「重原さん?」 亜津子は、弾けるように笑った。まわりの客が一斉にこちらをみた。亜 津子は、笑いをこらえながら言った。 「重原さん、彼、字も下手なのよ。お父様がいつもいってらしたわ。重 原君は、これで、字さえうまく書ければ秘書としてパーフクトなのにな あ」 「すると、誰かなあ」 「分からない。裕紀のはずもないし、エミやばあやってことはありえな いし、夏野夫人に一度伺ったけれど、あたしが?ってご自分の鼻を指し て大笑いされたわ」 疑問を残したまま、私たちは、ソローのおみやげを買ってからコンコ ルドを引き上げることにした。ウォールデン湖は、晴れあがった空の青 を映して、ひときわ美しかった。昨夜とは打って変って賑やかで、水泳 場になっているのか、湖の沖にはブイが並んでいた。浜辺には、原色の 水着姿で日光浴をしている老婦人たちやその孫と思われる子供たちが、 水をかけあったりしてはしゃぎ回っていた。 私たちは、ソローの小屋のそばにあると聞いてきたスーブニール・シ ョップを探した。亜津子も、子供のようにはしゃいで、私の腕をとって 土産物屋に急いだ。 「どこにあるのかしらね。せっかく遠くまで来たのだから、何か買わな くっちゃ」 駐車場のほうから、黒いTシャツを着て、頭が剥げ上った大男が歩い てきた。 「あの人に訊こうか」 早速、声をかけると、彼は、思ったよりも若い男だった。40歳くらい か。亜津子を眩しそうに観て、私に聞いた。 「Girl friend or your daugter?」 横にいた亜津子の顔が、ぱっと赤くなった。 彼は、親切に、先に立って、土産物屋まで案内してくれた。私たちの 歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。その広い背中の幅いっぱいに 黒字に黄色い文字が踊っていた。亜津子が声をあげて、読んだ。女優の 口調になっていた。さっきのお世辞のお返しのつもりなのだろう。 ”Feed them Throw trush, you destroy deer life dont’you?” 〈餌をやる、ゴミを捨てる あなたは、鹿を殺そうとしているのです)
大男は、破顔大笑した。そして、柔和な目付きで、尋ねてきた。 「Where are you from?」 (どこから来たの?) 「Me,from Manhattann and she from Japan」 (私は、ニューヨークから、このひとは、日本から) 私が、そう答えると、彼は、目を細めた。 「Honeymooner?」 (ハネムーン中か?) 「Something like that」 (まあ、そんなところだ) 亜津子の方をみながら、私がそう答えると、彼は、大きく頷いて、最近 はそういうひとが多いんだよと言った。 「And you、Where are you from?」 (あなたは、どこから?) 「From LasVegas、 Nevada」 (ネバダ州のラスヴェガスからやってきた) 職業は何かと聞くと、彼は一瞬ためらったあと、奇妙な答えをした。 「種子の拡散の手伝いをやっている」 「農場経営か?」 「いやぁ、牧師だ」 ジョークに聞こえたが、本当だった。ネバダ州では、駆落ちした二人が 簡単に結婚式をあげることができる。アメリカでは、地方自治が徹底し ているので、州によって、法律が違うのである。 思わず、私が亜津子と顔を見合わせていると、彼は、付け加えた。 「Do you love Henry Thoreau?」 (君たちは、ソローを愛しているか?) 私が、そうだ、かれの著作はみんな読んだというと、彼は、そうか、日 本人にもソロー・フアンがいるのかとしきりに頷いた。 「The Dispersion of Seedsは、読んだか?」 私はそんな本の名前は聞いたことがなかってので、正直にそういうと、 彼はニヤっと笑った。 「ソローの最後の論文なんだ、44歳で亡くなった。残念なことをした。 もし、この本が出版されていたら、この国のエコロジー運動はもっと広 まっただろうになあ」 アメリカでの環境保護運動の歴史は長い。レイチェル・カーソンの「沈 黙の春」が日本で翻訳されて、評判を呼んでいたところだった。 私の職業意識が急に目覚めた。私の出版社でも、ソローの「森の生活」 の新訳を出したところ、予想外に売行きがよかったからである。「種子 の拡散」もヒットするかも知れない。 「あなたは牧師なのに、なぜ、ソローについて、そんなに詳しいのか?」 「フリーセックス、離婚ブーム、シリーズ結婚、この国は乱れている。 牧師になってみたけれど、これ以上、精子の拡散に付き合うのはイヤに なった。ちょうど40歳になったところなので、人生をやり直そうと思 っている。今年の秋から、大学に戻って環境倫理を学ぶつもりだ」 私は、自分の名刺を出し、ソローの論文をぜひ出版したいので、どこ に連絡すればよいのかと聞いた、彼は、ソロー学会というのがある、い ま、アドレスはわからないが、調べておくから連絡してくれと言った。 彼が名刺をもっていなかったので、私は、手帳に彼のアドレスを書いて もらった。 別れ際に、彼は、亜津子のほうをみて言った。 「あなたは、チャーミングだ。もしかして、女優ではないか」 「Yes」 私が、得意になって、亜津子の代わりに答えると、彼は、にやっと笑っ て、亜津子に向かって言った。 「もし、この人と結婚式を挙げることになったら、ぜひ、私に連絡して くれ」 亜津子が、頬を染めたのをみて、屈みこんで、彼女と握手をし、ついで 私と握手しながら、耳元に囁いてきた。 「Good luck、Mr. Playboy」 私も、負けずに、言い返した。 「Life begins at forties、good luck you too」 彼の大きな身体が視界から消えると、亜津子が言った。 「アメリカには、変った牧師さんがいるのね、でも、40歳から人生を やり直そうなんて、すごいわことね。ところで、人生は40歳からはじ まるって、あれ、私へのメッセージでもあるの?」 「そうだよ、亜津子。僕たちもやり直そうよ、もっとも、人生は40歳 からというのは、欧米では有名な諺なんだ。40歳までは、親や世間が 敷いたレールを走ってきてもいいいけれど、40歳になったら、自分の 人生を歩めという意味らしい」 「そうよね、私も、これから、おばあちゃんなんていうのは、よすわ」 私は、亜津子を抱き寄せて言った。 「今日からふたりで、人生再スタートだ。いいね」 亜津子が私の背中に手を回してきた。 しかし、亜津子にそう言ってはみたものの、行く手に何が待ち構えて いるかは、この時の、私たちには分かるはずもなかった。林の向こうに 見えるウォールデン湖の湖面は、静まり返っていたが、いつ何時、さざ なみや荒波が立つかは、知るよしもなかったのである。
第6章 表舞台と舞台裏
ボストンからニューヨークへの帰路、私たちは、隣り合って手を握り ながら座っていた。亜津子がポツンと言った。 「エミには、話さなくてはね」 人生を再スタートするにしても、過去は清算しておかねばならない。 その一つが、エミに、私がエミの父親であるということを打ちあけるこ とだった。 「僕から言おうか、それとも君のほうから」 「誤解を招かないように、一緒の時にしましょうよ」 「そうだね。いつにする」 「この前、言ったでしょ、もう少し待ってって。あの娘が、音楽の道で メドがつくまでって。それに...」 「どう言おうかな。今日から僕が新しいパパになった。実は、古いパパ でもあるのだけれども」 「面白い言い回しね。でも、あの娘、ナィーブだから、きちんと事情を 話したうえで、実の父親だと打ちあけたほうがいいんじゃない」 「そうか。それから、君を愛するようになったと打ちあけるか。これは もう止められないのだって」 「いやねえ。ひとがみてるわ」 いつの間にか、私の手は、亜津子の膝を撫でていた。 「それに...」 亜津子が、膝の上の私の手を握り締めて、ためらっていた。 「誰か、僕に話さなければならない仲のひとがいるのか?」 「馬鹿ねえ。あなた以外に、こんなおばあちゃんに、言い寄るひとなん かいないわよ。あらっ、また、おばあちゃんっていってしまったわ」 「亜津子、君は綺麗だ。頼むから、そのおばあちゃんっていうのは止め てくれ。僕もおじいちゃんといわなきゃならなくなる」 「それもいいわね。いずれ、ふたりとも竹取物語のお爺さんとお婆さん のようになるのだから」 「そうすると、エミは、かぐや姫ということになる。若者が大勢結婚を 申し込む。エミも、もう19歳か。すると、いい相手が出来でも、おか しくない年頃だ」 「あの娘は、おくてみたいよ」 「いずれ、花嫁の父として、結婚式で挨拶しなければならないわけか」 「気の早いこと。親馬鹿ね。そういえば...」 「何だい、さっきからためらってばかりいるけれど」 「実は、あなたのお父様のことよ。いつ打ちあけようかと思っていたの だけれど」 私は、亜津子の頬を両手ではさんで、囁いた。 「お互い、隠し事はしないって約束しただろう。話してくれよ」 「お父様が自殺された理由、知ってる?」 「破産だろ」 「それもあるわ。でも、本当は...」 「じれったいなあ。話してくれよ」 「お母様のことが原因なの。重原さんの話だと、倒産した翌日、お母様 が、血相を変えて、会社にいらしたの。債権を取り立てようと、待ち構 えている人たちが、廊下に溢れていた。お母様は、執務室に入るや否や 「あなた、よくも、裏切ったわね」そう叫んで、お父様に飛びかかって いったの。包丁をもっていわわ。幸い、重原さんが、近くにいたので、 取り押さえて、お父様は、無事だった。その後、お母様は、何もなかっ たような顔して、債権者に丁寧にお詫びをして帰っていかれたそうよ」 私は、蒼ざめた。父が破産して、自殺し、母が後追い自殺した。雑誌 にそう書いてあった。いままで、そう信じ切っていた。またもや、違う 過去が見えてきた。 「あのおとなしい母が? それ、ほんとうか?」 「重原さんも、そうおっしゃってらしたわ」 「それで、原因は?」 「それが、よく分からないの。それで、いままで浩之さんにお話するの を、ためらって いたの」 「だって、父から信頼されていれば、重原さんは、後で聞かされたはず なのに」 「それが、お父様が、いわれたらしいわ。重原君、すまんが、この件に ついては、いまは、君にも話せない。すべて片付いたら話すから、しば らく待っていてくれ」 しかし、父は何も話さずに死んでいってしまったのだ。 その後、ふたりとも黙って車窓を流れる景色をみていた。田園地帯を 走っていた列車は、いまは工場地帯を走っていた。工場の裏手には、赤 錆びたトレーラや機械が数多く転がっていた。現代文明を代表する都市 ニューヨークが近づいてきたのだ。
イエローキャブの中で、亜津子がポツンと言った。もう亜津子たち劇 団関係者が定宿にしているブロードウエイのホテルが近づいていた。 「どうしようかしら」 「何が?」 「一度あなたの部屋も覗いてみたいし、でも、二人のことをエミに会っ たらどう説明するか、まだ決めていないし」 「そりゃあ、うれしいなあ。一度寄ってよ、むさくるしいところだけれ ど。ちょうどいい、今夜はエミはいないよ」 「どうして?」 「ボイス・トレーニングに行く日なんだ」 「そう」 運転手に引き返すように命じて、前方を眺めた。もうラッシュアワー だった。賑やかなネオンと高層ビルの谷間を急ぎ足で歩くひとたちがい た。ビルの谷間に月がうっすらと見えた。私は、また仕事に戻るのかと 考えて、少し憂鬱になった。でも、いましばらくは、亜津子との二人の 時間を持てるのだ。 「そこで止めてください」 ブロードウエィと比べると、このあたりは人気もなく、比較的低層の煉 瓦のビルが並んでいた。犯罪も多い。ナイフや拳銃を突きつけられて、 現金をとられるケースが日常茶飯事だった。私は、もう習慣になってい るが、素早くあたりを窺った。街路樹を街灯が照らしているだけで、不 審な人物はいない。 ビルの入り口に近づくと、急に、小さな影が前に立ちふさがった。私 は、亜津子を背において、向き合った。 「エミさんの関係者ですか」 聞こえきたのは、日本語だった。小男で、冴えない背広を着ている。私 は一安心した。次に、別の警戒感が湧いてきた。エミに何かあったのだ ろうか。 「いや、何があったの?。私は、出版社を経営していて、商用で、ここ のオフィスを訪ねてきたところだが」 私は、一応、用心して、名前はいわず、相手の出方を探った。 彼は、名刺を出した。これは日本人のクセである。みるとA新聞のNY 支局員だった。 「へえ、大新聞の記者さんが、こんなところに、なぜ?」 「実は、私、ピンチヒッターなのですよ。テレビAの記者が夏期休暇中 で、みな出払っているんですよ。国際電話で、エミさんの居場所を至急 突きとめてくれないかと頼まれたのですよ。あとで、ひとを出すから。 何のことかさっぱりわからないけれど」 「そりゃあ、ご苦労さん」 私は、亜津子を促して、ビルに入っていった。もし、芸能関係のレポー ターだとすると、亜津子は窮地に陥るところだった。幸い、亜津子の服 装は、地味だった。グレイのツーピースに黒いハイヒール。白いレース のカーディガンを羽織っただけだった。ハンドバッグがひとつだけ。荷 物は。みんな鞄ごと、私の大きなトランクに入れてあった。それで、秘 書に見えたのだろう、助かった。 毎度のことだが、6階まで息を切らして階段を上がり、オフィスに顔 をだすと、スタッフが3人とも残業していた。 「ご苦労さん、このひとは、エミのお母さんだ」 後ろにいた亜津子が、前に進み出て挨拶した。 「室井さんがいつもお世話になっています」 名前は名乗らなかった。一番、若いスタッフが頓狂な声をあげた。 「あっ、麻野亜津子さんじゃないですか?あのアポロ劇場で、評判のク レオパトラを演じている」 どうするのかなと思って亜津子をみると、亜津子がかすかに頷いた。 「そうですか、やはり。エミのお母さんなんですか。ちっとも知らなか った。切符取るのに3時間も並んだんですよ。もし知っていたらなあ」 私は、サインをもらっているスタッフを置いて、自室に入った。エミ から留守電でも入っていないかと思ったのだった。案の定、エミからの メッセージが入っていた。 「お兄ちゃん、ちょっとやばいことになったから、しばらく消えるよ。 ああ、それから、あの宝石箱、使っていないようだから、化粧品入れに 借りていく。バーイ」 オフィスに戻ると、スタッフがみな窓のそばにいた。 「何だ、何かあったか」 「室井さん、大変です。大勢のひとが集まっています。TVカメラも来 ています」 用心深く、カーテンの陰から見下ろすと、煌煌たるライトがいくつも、 建物の周囲を照らしていた。月の光がかすんでしまうほどだった。窓に 近づいてくる亜津子を制して、私は、亜津子とサインをもらったスタッ フを等分にみて、言った。 「もしかして、事件に巻き込まれてはいけないから、帰ったほうがいい。 君,頼むから、裏の階段から、気付かれないように注意して、この人を ホテルまで送っていってくれないか。それから、エミのこと、何か分か ったら連絡する、あっ、それから君の荷物は、後でホテルに届けるから いまは身軽なほうがいい」
亜津子を送ってきたスタッフが戻ってきた。息をはずませていた。 「ご苦労さん、遅くなったので、心配したよ」 「社長、あちらも大変でした。カメラマンが大勢待ち構えていて」 彼の話によると、ホテルの前は、大勢のリポーターやカメラマンでごっ たかえしていたらしい。幸い亜津子をみつけた劇団関係者とホテルの従 業員の機転で駐車場から調理場を抜けて、裏階段から無事部屋にたどり ついたらしい。 「シーザーやアントニウスにも会えました。ほら、サインももらって きました」 みると、滝沢明と小山内恭介のサインがあった。 「あっ、そうだ。亜津子さんから預かってきました」 スタッフが取り出したのをみると、指輪だった。ウォールデン湖の土産 物屋でエミにと思って買ったものだった。小さいので亜津子がハンドバ ックに仕舞ったのだろう。Tシャツのほうは、預かっている旅行鞄のな かに入れてあった。 「そうだ、鞄を届けなくては。もう1回行ってくれないか。ああ、その 前に電話してみよう」 電話を入れたが、亜津子は、話し中だった。 「しょうがない、悪いけれど、この鞄、ホテルに届けてくれるかな」 スタッフがためらっているので、流石に、私も思いとどまった。 「まあ、こんな時だから、明日にするか」 「社長、そのほうがいいですよ。それより、下に集まっている報道陣を 何とかしなければ」 結局、その夜はごった返す報道陣を相手に即席の記者会見を開き、 「エミの居場所は全く知らぬ存ぜぬ」で押し通したが、悪戦苦闘とは、 まさにこのことだった。エミがどうなっているのか,記者に聞いたが、 誰か有名人とエミとの間で何かがあったらしいが、それ以上は彼らも何 も知らなかった。事情を知りたくて、亜津子に電話したが、連絡がとれ なかった。 「ご苦労さん、もう寝よう、君たちもここに泊まっていけよ」 非常用に用意したL.L.ビーンの夏用の薄いシュラフを出して、ソファ や絨毯の上でスタッフ3人が寝ることになった。 「懐かしいなあ。昔は、よく八ケ岳に登ったものですよ。そうだ、社長。 今度、雑誌でL.L.ビーンの特集やりませんか。その歴史、顧客重視の 経営方針、勿論、すぐれものを愛用している有名人を紹介して」 「こんな時に、企画を思いつくなんて、キミもえらいねえ」 「社長、じゃあ給料あげてください」 「それとこれとは話が別だ」 「そういう話になると、途端にしぶくなるんだから。ほらあの満月みた いに満額解答してくださいよ」 「月は、三日月のときも新月のときもあるよ。働きに甥ジ手、毎月の月 給を変動させたいくらいだ」 亜津子にいわれたせりふが自然に口をついて出た。 「社長ったら、いつもこうなんだから」 寝る前に、私は、亜津子にもう一度電話を入れたが、不在だった。 翌朝は早起きして、窓の外をみた。人影はなかった。TVニューズを みたが、昨日の事件は、どの曲も取り上げていなかった。 スタッフが起きてきた。 「ああ、よく寝た。シュラフって、案外、寝やすいものですね」 彼は、外に行って、ニューヨーク・タイムズやUSAトゥディを買って きてくれたが、エミの記事はどこにも出ていなかった。すると、昨夜の 大騒ぎは一体何なのか? 騒ぎは、はたして存在したのだろうか。私も スタッフも、狐につままれたような気分だった。 「変ですねえ。もっとも、報道陣は、日本人だけのようだったから、こ ちらのニュースには、出ないのかもしれませんねえ」 私は、亜津子を起こしては気の毒だと思っていたが、やはり連絡は早 いほうがいいと思って、ホテルに電話した。すぐ亜津子が出た。 「あ、浩之さん、大変! エミが」 何故か、電話が途中でプツンと切れた。掛け直したが、話し中だった。 スタッフが、別の電話で、知り合いの芸能関係の編集者に事情を聞い たらしく、興奮した面持ちで、私に駆けよってきた。 「社長、マイケル・ダグラスって、ご存知ですか」 「ああ、有名な劇作家だよ。ロシア系のユダヤ人で、ハーバード大学の 在学中に世に出て、第二次世界大戦を題材に「理解と誤解」や「星条旗 よ永遠なれ」を書いてベストセラー作家になった。その後、ハリウッド の有名女優と恋に落ちて、「女神たちの入り江」を書いた。たしか、今 年で50歳くらいだと思う」 「へえ、社長は、何でそう詳しいのですか?」 「学生時代に大学で一度だけ講演を聞いた。その後、数人でマイケル・ ダグラスを囲んで雑談することができたので、よく覚えている」 「そうですか。実は、そのひととエミさんが婚約したらしいんです。そ して」 そこまで、話を聞いたとき、電話が鳴った。亜津子からだった。 「さっきは、ごめんなさい。エミがマイケル・ダグラスとかいうひとと 結婚するって聞いたけど、本当? 何でも、フリー・セックスの信奉者 で、女たらしで有名なひとらしいけど。エミ大丈夫かしら。あの娘、一 体、どうなっているの?」
エミを女たらしの魔手から救い出さねば、そう思うものの、どうした らいいか分からなかった、肝心のエミは行方不明で、連絡もないし、相 手のマイケル・ダグラスの行方も分からなかった。自宅の電話番号を探 して電話してみたが、不在だった。出版社にも問い合わせたが、一般の 方にはお教しえできませんとケンもほろろだった。しょうがないので、 出かけていって、編集者に会い、日本での出版のおいしい話をちらつか せて、聞き出そうとしたが、かれは頑として教えてくれなかった。 「マイケルから、当分、誰にも絶対言うなといわれているのでねえ」 私は途方に暮れた。父親として、エミには何もしてやれなかった。育 ててやることも、一緒に遊んでやることもなかった。そして、父親であ るということすら、告げていない。最低の父親だった。「親はなくとも 子は育つ」ではないが、このままでは、エミとはただの知り合いで終わ ってしまう。これからは過去の償いのためにも、エミのために父親とし て何かをしてやらねばと強く思った。とはいえ、エミを女たらしの魔手 から救い出す妙案は浮かんでこなかった。 思いあまって亜津子に電話した。事情を話すと、こう言った。 「ひょっとすると、エミの行方はJANNEが知っているかも知れない。 だって、あの娘、私の記事をみて、JANNEに会ってみたいって言っ てきたので、電話番号を教えてやったのよ」 「そうか、その手があったか。じゃあ,早速連絡してみよう。電話番号 を教えてくれ。結果がわかったら、すぐ連絡する」 私は、エミとの会話をなぜ早く思い出さなかったのかを悔やんだ。あの 時は、JANNEが裕紀は私の妹とほのめかした記事のほうに気を取ら れていたのだった。そういえば、エミがつぶやいていたっけ。 「ニューヨーク・タイムズの劇評をするなんて、影響力のあるひとなん でしょ、今度、JANNEと一度話してみようかな。あたしたちのバン ドを取り上げてくれって」 幸いJANNEの秘書は友好的で、すぐに本人と連絡がとれた。 「ハーイ、浩之、元気?」 まるで、昨日会ったばかりのような元気な声が聞えてきた。フランス人 なのに、すっかり、ニューヨークっ子の早口で陽気な口調になっている。 事情を話して、口ごもりながら会ってほしいというと、JANNEは、 あっさりと言った。 「いそがしいけど、浩之のためなら、1時間だけ空けるわ。じゃあ、今 夜、7時にフォーシーズンズのラウンジで会いましょう」 フォーシーズンズ・ホテルは、マンハッタンに、二つあって、JAN NEが指定したのが、どちらのほうか迷ったが、約束の5分前に行くと JANNEが前もっていっておいたのだろう、係りの女性が私をめざと くみつけて、「室生様、お待ちしていました。お連れ様も、もうすぐお 見えになります」と笑顔でいって、窓際の眺めのいい席に案内してくれ た。JANNEがこのホテルに余程顔がきくのか、それにしても高級ホ テルらしい洗練されたサービスぶりだった。 「ハーイ、イロ」 後ろから声をかけられた。JANNEだった。以前より、少し太って、 髪を短くしている。黒いロング・イヴニング・ドレスを着て,白いショ ールを肩にかけていて、目じりに皺がよっていたが、表情はにこやかで 成功者の漂わせる威厳が感じられた。目を丸くして、みつめる私に、J ANNEが言った。 「浩之、変らないね。昔のまま。この後、パーティに行くので、こんな 格好してるの」 「JANNE、Mrs or Miss?」 と私が聞くと、 「イロ、あなたを忘れられなくて、まだ結婚していないわ」 JANNEは、どきっとするようなせりふを吐いて、笑った。 「冗談よ、でも楽しかったね。ふたりで、ニューオリンズに遊びに行っ たとき」 ラウンジが次第に混んできた。BGMはタンゴに切り替わった。最初 は、私の好きなタンゴの名曲、「エル・チョクロ」だった。哀切なメロ ディ。アルフレッド・ハウゼ楽団の演奏は、いつ聞いても軽快で切れ味 がよかった。ふたりでしばらく演奏に耳を傾けた。ウエイターが注文を とりにきた。ニュー・オリンズで食べたケイジアン料理をと思ったが、 勿論、メニュ−には見当らなかった。 曲が変わった。小さな滝から飛沫が落下するような出だし。 「ジェラシーね」とJANNEが、曲名をあてた。 私は、不意にふたりの間に、昔のゆるやかな時間が流れはじめるのを感 じた。 「そうぞう、あの時、君は、急に後ろから両手で目隠しをしてきて、変 なことを聞いたね」 「やっぱり、そう思った? HIRO、YUKIはAMANTかって、 聞いたのよね。あれって、なぜだか、知ってた?」 「ジェラシー?」 「Non、It”a research」 「リサーチ? 調査?」 「そうよ、あなたの父親に依頼されたのよ」
またじても、父だった。それにしても、何を調査しようとしていたの か。私が顔色を変えたのをみて、JANNEが慌てていった。 「浩之、あなたに近づいたのは、調査目的よ。秘書の重原さんを通じて あなたの大学生活についでの調査依頼があったの。簡単な仕事だったし その頃は金欠でピーピーいっていたので、渡りに船だった。最初は、面 白半分であなたに近づいて、学友になったわ。得意科目や不得意科目は 何か、夜遅くまで勉強しているとか、そんな類のことを書き送ったわ。 でも、先方は、そんなことには関心がなかったみたい。交友関係に重点 を置いて調査してくれって言ってきた。最後に、女性との交友関係につ いて調べよということになったの。私は、それが目的なら早くいえばい いのに、日本人らしいわと思ったわ。でも、あなたは生真面目で、浮い た噂ひとつなかった。それじゃあ、報告することないじゃない。いいバ イトがなくなってしまう。困ったわ。そこで、一歩踏みこんで、あなた の恋人になることにしたの。別の人と仲良くしていることにして、その 一部始終を書き送ったわ。でも、浩之、そのうち、私のほうが本気にな ってきた。ニュー・オリンズに行った頃には、あなたを愛していた。で も、あなたは、私と愛しあっているときでも、時々寂しそうに空を眺め ていた。その視線の先には、いつも月があった。だから、あなたは、余 程、裕紀さんという人のことを忘れられないのだと感じたわ。あの「Y UKIはAMANTか」という質問は、半分は調査、半分は嫉妬からだ ったの」 私は、ため息をついて、JANNEから目をそらせて言った。 「そうだったのか。裕紀は死んだよ」 JANNEはみつめ返してきた。真剣な眼差しだった。 「そうね。重原さんが電話してきて、交通費は負担するから来てくれと いうので、ニューヨークから日本まで飛んでいったわ。葬式に駆けつけ て、わあわあ泣いたわ、でも,本当のことをいうと、悲しくて泣いたの ではなくて、嬉し泣きだった。これでHIROは完全に私のものになっ たと思ったの。でも、すぐに勘違いに気付いた。あなたは、泣いている 私の肩を抱くこともせず、葬式の間中、麻野亜津子のほうばかり見てい た。あの目つきったらなかった」 私はテーブルの上で、小さく手を振った。ワイングラスに当りそうに なった。 「それは誤解だよ、JANNE。ばあやが裕紀を殺したのは亜津子だと いうので、もしそうなら、葬式の間中、犯人はどう振舞うか、関心があ ったんだ」 「あの人がYUKIを殺した?」 「裕紀は小さい時から喘息気味だった。症状がひどくなると、亜津子が 時々看病した。その時を利用して、薬の量を増やしたり、違う薬を処方 していると、ばあやは疑っていたんだ。最後は、心臓発作だった。ばあ やの話しを漏れ聞いて、警察が動いて遺体解剖までやった。しかし、医 者は、何ら昨為を認めないと診断した。亜津子には罪はなかった。ばあ やの妄想だった」 「そうだったの。あの時、あなたとじっくり話し会うべきだった。私は あの時、きっぱり、あなたのことをあきらめようと思ったのよ。取り返 しがつかない誤解だったのね。でも、いいわ。いまは、好きなひとがい るから。これからその人のパーティに行くのよ」 「そうか、それはよかった。おめでとう。それで、どんな人?」 JANNEは、それに答えずに、身を乗り出して、小声で言った。 「ニューヨーク・タイムズに書いた記事、読んでくれた?」 「ああ、読んだとも。亜津子のことを褒めちぎっていた。亜津子は喜ん でいたよ。客の入りが格段に違ってきたって。僕からも礼をいうよ。あ りがとう」 「では、逆効果だったのね。ヒロインに祭り上げれば、あなたの手の届 かないところに完全に行ってしまうと思ったのに」 「そうなったかも知れない。僕のほうは、ずっと高根の花と思っていた から。でも、彼女は裕紀が現れる前から、ずっと僕と結婚するつもりで いたといってくれた」 「そうなの。お父様の陰謀ね、やはり。調査を指示されているうちに、 お父様は何としても、あなたと裕紀を結婚させてはならないと決心して いるように感じたことがあったわ。そのために、麻野亜津子を用意して おいたのね」 私は、ふたたび青ざめた。父にとっては、亜津子は、裕紀の代用品だ ったのだ。気を取り直して、JYNNEの青い瞳をみつめて聞いた。曲 は「黒い瞳」に変わっていた。 「もうすっかり空で覚えてしまった。君のあの記事の最後だ。”なお、 3年前に心臓発作で亡くなったYUKIは、室生悠一郎の娘だというの も、奇妙な因縁を感じさせる” あれは、一体どういう意味で書いたん だ? もし、裕紀が父の娘なら、僕の妹になってしまうじゃないか。そ んな馬鹿な」 「あれは、ケアレス・ミスよ。私は、室生悠一郎の愛人の娘と書いたの よ。愛人のところをしゃれた表現で、LOVERと書かずに、フランス 語でAMANTと書いたの。そうしたら、フランス語が分からない新入 りの校正者が勝手に削除したみたい。あとで抗議したのよ」 「そうか。ニューヨーク・タイムズでも間違うことがあるんだ」 「でも、あの記事が出てしまったあと、重原さんから電話があったわ。 どういう意味かって。うろたえているようにも感じたわ。でも、事情を 話すと、了解したといって、電話を切ったわ。でも、もしかして、あの 間違った記事が本当とすると...」 「おいおい、冗談はよしてくれよ」 「でも、そうすると、すべて辻褄が合うことになるわよ。あなたの父親 の行動が」 タンゴの曲が変わった。「ラ・クンパルシータ」だった。後ろから運 命が追いかけてくるような焦燥感に満ちた名曲。私は、目を耀かせて、 身を乗り出してくるJANNEをさえぎった。 調査本能が目覚めると、いつもJANNEは止まらなくなるのだ。面会 時間の残りが、もうすくなくなっていた。 「JANNE、君が優秀なリサーチャーだということは、学生時代から 分かっているよ。ところで、今日、君に会いにきたのは、その能力に期 待してなんだ。急ぎの用件なんだ」
JANNEが笑った。 「エミのゆくへでしょう」 「そうなんだ、あちこち探したけれど、分からなくて、困っているんだ。 なんでも、相手は、稀代の女たらしっていうじゃないか」 「女たらしというのは、当らないと思うけれど、マリリンと別れた後で 結婚と離婚を繰り返しているのは事実よ」 「何だね、そのマリリンっていうのは?」 JANNEのフォークをもつ手が宙で止まった。 「マリリンを知らないの?」 「マリリンで思い浮かぶのは、マリリン・モンローしかいないけれど。 まさか」 「そうよ、だって、あなた、ハーバードでマイケル・ダグラスに会った っていってたでしょう。彼が、マリリンと一時同棲していたのは有名な 話よ」 「マイケル・ダグラスについては、大抵のことは知っているつもりたっ たけれど、それは知らなかった。それで、彼は、いま、どこにいるのだ」 「知らないわ。でも、彼と親しいひとに今夜のパーティで会うから聞い ておいてあげる。でも、何でエミのことをそう心配するの。自分の娘じ ゃあるまいし。あっそうか、麻野亜津子に頼まれたのね」 私は、フォークをテーブルに置いた。曲は、スクリーン・ミュージッ クに変わっていた。 「ハイ・ヌーン」だった。歯切れのよい声は、たしかフランキー・レイ ンだった。「OK牧場の決闘」をみた後、すっかり、その魅力に取りつ かれて、彼の歌ばかり聴いていた。決闘を前に、砂漠の空高く輝く青白 い月。私は、あらたまった口調で告げた。声が震えていた。 「JANNE、実は、エミは、裕紀と僕の間に生まれた娘なんだ。心配 で心配でしょうがないんだ」 JANNEの反応は、私の想像を超えたものだった。彼女はもってい たフォークを皿の上に落とした。カチャンという鋭い音がした。ウエイ ターが飛んできて、フォークを変える必要がないのを確認して、引き下 がっていった。 「まあ、私、大変なことをしてしまったわ」 「何を、一体、何を?」 「知らなかった。ちっとも知らなかった。私は、憎い麻野亜津子の娘だ とばかり思っていたの。だから、彼女の紹介でエミが会いにきて、図々 しくプロデューサーに紹介しろと言ってきたとき、断ろうかと思ったけ れど、ちょっとした悪戯を思いついたの。マイクは、ロリコンだから、 この娘を紹介したら、面白がると思ったの」 「何、そのロリコンっていうのは?」 「ロリータって知っているでしょう。少女を偏愛する中年男の物語」 「読んだことはないけれど、話に聞いたことはある。でも、エミはもう 19歳で、少女じゃないぜ」 「でも、こちらの人の目からすれば、12歳の少女に見えるわ。それで エミのバンド、何っていう名前か忘れたけれど、練習しているスタジオ にプロデューサーということで、マイクを連れていったのよ」 「ダンシング・アウェイ」 「そう、ちっともダンスはうまくないけれど、マイクは一目ぼれしたわ。 そして、エミの自作の愛の歌を聞いて、愛の歌をまるで追悼歌みたいに 歌うところは、マリリンそっくりだって。心のなかに鋭い剃刀を抱いて いるって」 JANNEは、私から目をそらせて、時計をみた。 「あっ、もう時間だわ。じゃ、またね」 「おいおい、それはないだろ。エミがどこに行っているか、すこしでも 手がかりを知りたいんだ」 「さっき、知らないっていったでしょう。今夜のパ―ティで聞いておく って」 「しかし,,,,」 JANNEは、もう立ち上がっていた。まだ、料理が半分以上残ってい るというのに。 「じゃあ、また」 あわただしくJAANNEが去っていた後、ウエイターが様子を見に やってきた。男女の痴話喧嘩には鳴れているのだろう。彼は、ちらっと 私のほうをみて、JANNEの皿を片付けていいかと聞いてきた。なか には、相手の食べ残した皿など見たくない男もいるだろうし、腹いせに 相手の分まで食べてしまう男もいるだろう。私は、誤解されるのがいや で、ウエイターに弁解した。 「1時間という面会時間が過ぎたんだ。僕は、少し残って、食べてから 帰るよ」 初老のウエイターは赤ら顔で目くばせして言った。 「JANNEさんは、いつもそうなんですよ。売れっ子だからね」 曲が変わった。偶然だろうか、皮肉なことに、マリリン・モンローの 歌が流れてきた。 「THE RIVER OF NO RETURN」だった。 マリリンは、ささやくような低い声で歌っていた。河は、時に静かに、 時に荒々しく流れる。河は告げでいる。ノーリターン、ノーリターン。 私は、マリリンが川辺でギターを弾いているシーンを思い浮かべなが ら、ウエイターを呼んで、質問した。 「この曲は、誰のリクエストなの?」 「JANNE様のリクエストです」 私は青ざめた。ノーリターン、ノーリターン。 JANNEは、エミはもう帰ってこないといおうとしているのだろうか。 居たたまれなくなって、食べ残したまま立ちあがると、ウエイターは、 私をいたわるようにみてから、皿を片付けはじめた。
JANNEからは、その後、何の連絡もなかった。自分を捨てた男の 娘の捜索なんかに付き合う必要などないということだろうか。亜津子は 芝居でいそがしく、私の仕事も本の出版を控えていそがしいときだった ので、亜津子とは電話で話すことしかできなかった。 「エミ、一体どこに行ってしまったのかしらね。連絡ぐらい寄越せばい いのに」 「そうだよなあ。JANNEからも何の便りもないし..」 ふたりで、ぼやきあったものの、そんなことで、事態は一向に好転する はずもなかった。 そんなある日の夕方、スタッフが思いつめたような様子で執務室に入 ってきた。 「社長、お願いがあるのですが」 「まさか、辞めるんじゃないんだろうな」 「とんでもない。引きとめるために、月給をあげてくれますか?」 「ははは」 「相変わらず、渋いですね。実は、彼女に振られました」 「キミにも,彼女がいたのか」 「社長、怒りますよ」 「ごめん、ごめん」 「それで、彼女と一緒にクレオパトラをもう一度見に行こうと思ってチ ケットを取ったのですが、振られて1枚余ってしまったのです。それで 社長はまだ見ておられないようだからどうかと思って」 「それは、ご親切に。亜津子からは、恥ずかしいから、観に来ないでと 言われているんだ」 「社長、それ、おのろけですか」 「いつの切符かね?」 「実は、今晩なんです。白状してしまいますが、いろいろな友人に声を かけたのですが、みんなに都合が悪いっていわれて。勿体ないものです から」 「まあ、残り物に福があるというから、男ふたりで観にいくか」 「社長、観劇して感激したら、月給あげてください」 「ははは」 「また、笑って誤魔化すんだから。彼女に振られたのも、月給が安すぎ るからですよ。少しは、責任を感じてくださいよ」 「責任は、毎日感じているよ。もうしばらくの辛抱だ」 夜のブロードウェイは、相変わらず賑やかだった。派手なイルミネー ションが競いあい、人々が、劇場の入り口に開幕を待って、長蛇の行列 をつくっていた。 「社長、ほら、あのリムジン、一度乗ってみたいですね」 みると、白いリムジンから、日本人が数人降り立って、アポロ劇場に消 えていった。そのうちの一人の老人の顔に見覚えがあるような気がした。 もしかしたら、重原かも。しかし、今頃、どうして、この劇場へ。おそ らく別人だろう。闇の中では、日本人はみな同じにみえる、よく似てい るひとに違いない。 座席は、天井桟敷だった。スタッフの安月給ではここしか買えないの かと思って、気の毒な気がした。いつものことながら、照明が消えて、 オーケストラ・ボックスの指揮者にスポットライトが当てられ、一礼し て、軽快な音楽が流れ出すと、これからはじまるドラマに観客の期待が 高まる。舞台正面の天井からシルクのスクリーンがおりてきた。その背 後に、クレオパトラのシルエットが浮かび上った。観客は、このシルエ ットをみただけで興奮して、大きな拍手を送り、あちこちで口笛が吹き 鳴らされた。 隣に座ったスタッフが囁いた。 「亜津子さん、きれいな身体をしていますね」 私は、このときはじめて亜津子が「恥ずかしいから観に来ないで」とい った意味がわかった。 クレオパトラは、胸当てと腰布をつけた以外はほぼ全裸だった。その姿 は、あの裕紀の屋敷で覗きみた夫人の全裸のポーズそのものだった。私 の心の奥底に収まっておいた秘密が大衆の視線にさらけだされていた。 身内に舞台女優をもつということは、こういうことなのだと私は思った。 出来ることなら、芝居なんかどうなろうと構わないから、亜津子をこの まま舞台から拉致したいところだ。 やがて亜津子の姿が消えると、スクリーンには、ドラマの背景説明が 写った。 「紀元前48年、ローマは世界の半分を征服していた。ローマの将軍、 シーザーは、エジプトを征服すべく旅立った。一方、エジプトでは、プ トレマイオスとその姉のクレオパトラが王座をめぐって争っていた」 スクリーンが消えると、突然、明るくなった舞台に、2頭立て馬車が 踊り出てきた。兵士がクレオパトラを横抱きにしている。弟の兵士が、 クレオパトラを誘拐したのだ。彼女は兵士の腕から逃れようと、もがい ていた。私は、思わず、目をつぶった。亜津子が痛めつけられている。 冗談じゃない。いくら芝居といっても、やり過ぎだ。 スタッフが、私の肘をついて言った。 「社長、あの馬、本物なんですね」 「うるさい。静かにしてろ」 私は、自分でもおかしいくらい腹が立っていた。憤然として、席を立っ て、劇場を後にしたいほどだったが、それはいくら何でも失礼というの ものだろう。クレオパトラがこれでもかこれでもかと痛目つけられるシ ーンの間、私は、舞台から目をそむけて、前方の貴賓席のほうを眼で追 っていた。 「社長、誰か、知り合いのひとでも来ているんですか?」 スタッフが聞いてきた。 「うるさい」 私は、鋭くさえぎった。もしかしたら、重原が来ているかも知れない。 彼はどこに座っているのだろうか? 一体、ニューヨークへ、何をしに 来たのだろうか。
紀元前46年、シーザーはローマに帰国する。ガリア、エジプト、ポ ントス、アフリカにおける4つの勝利を祝う凱旋式が行われることにな った。シーザーは栄光の絶頂にあり、彼が望めば、元老院はローマを共 和制から王制に変えることに賛成しただろう。そうなれば、シーザーは ローマの王に、シーザーが妻にすべくテベレ河の別荘で待機しているク レオパトラは女王になる。しかし、この事態を看過できない共和主義者 の数人は、謀議をして、懐に匕首を忍ばせ待ちうけた。シーザーは、大 群衆の歓呼に応えながら、元老院の広壮な建物に続く長い階段を登って いった。3月15日。その途中、柱の陰に潜んでいた暴漢たちが遅いか かり、シーザーは、ポンペイウスの像の前で暗殺された。暴漢の中には シーザーが日頃可愛がっているブルータスもいた。有名な「ブルータス お前もか」というせりふは、この時に発せられた。 幕間になって、ロビーの売店に並んでいるとき、スタッフが深刻な顔 をしていった。 「社長、ブルータス、お前もかっていうせりふ、何度聞いても、背筋が ぞっとしますね」 「そうだな、信頼していたひとから裏切られるのは、辛いものだ」 「それ、あてつけですか」 「どうして?」 「僕、彼女から裏切られたばっかりなんですよ」 「そうだったな、これは失礼した」 「社長も、裏切られたことはないですか?」 「君も、将来、自分でビジネスをやるのなら、それを覚悟しておいたほ うがいいよ。特に、銀行家には用心したほうがいい。揉み手をして近づ いてくるくせに、イザという時になると、決まって裏切るんだ。彼らに は、胸の痛みなんかないだ。でも、幸い個人的には、そういう経験は、 ないなあ」 裏切られるよりも、もっと悲しいことがある。それは愛するものとの 死による別離だと彼に言いたかった。しかし、やめた。裕紀とのことは 3年前に始めたこの事業のスタッフには、話していない。話したくもな いし、話すべきでもないだろう。 「そうですか。社長も、僕みたいに苦労しなくては。あはは、冗談, 冗談。ところで、調べたのですが、あの暗殺に加わったブルータスは、 、実は、シーザーの私生児だったという説があるんですって。そうなると 実の子供に裏切られたことになりますよね。シーザーは、どんな気持ち だったんですかね」 「そりゃあ、とても言葉ではいい表せないだろうさ」 劇が再開された。シーザーの死後、ローマでは、アントニウスとオク タヴィアヌスの勢力争いがはじまる。紀元前41年、アントニウスは、 東方を平定した勢いを駈って、エジプトに乗り込み、最後通告を突きつ けるべく、クレオパトラアを広場に呼び出す。しかし、いくら待っても クレオパトラは現れなかった。しびれをきらしたアントニウスは、ナイ ル河に浮かぶクレオパトラの船を訪ねる。へさきを天に向けた豪華な船 の優雅なシルエット。何よりもアントニウスを驚かせたのは、あかあか と燃える無数のたいまつだった。それが、寝台に横たわっている薄物の 純白の衣装をまとったクレオパトラの姿態を否応もなく魅惑的にしてい た。あふれるほどの豪華な食事とめずらしい酒、セクシュアルな踊り。 歌姫が夜空の三日月と星々を仰いで、歌う。 「このような摩訶不思議な夜には 私は愛する人のことを想うの。 私の心は激しく求める 必死の祈りを聞き届けてほしい。 夜の偉大な女王、愛の女王、 この祈りを聞き届けておくれ どうか聞き届けておくれ」 あかかかと燃えるたいまつのゆらめきに照らされ、幾重ものネックレ スをつけた亜津子が、アントニオをみつめて、囁いていた。 「星にささげる歌よ。私達を見ていると滑稽でしょうね。相手をどうや ってやっつけるかを、いつも考えてばかりいる」 亜津子は、頬杖をついた。手首に嵌めた宝石を散りばめた腕輪がキラリ と光った。 「星はこういうかも知れないわ。エジプトとローマは、略奪ではなく、 友好関係を結ぶべきだと」 亜津子は、アンオニウスの掌を撫でた。ぞくっとするほど、魅惑的だっ た。 「不思議ね...」 アントニウスが、囁いた。 「シーザーに悪いことをした。エジプトの女王は心も身体も美しい。彼 が恋しいか?」 亜津子は、アントニウスの眼をじっとみつめて、首を振った。 「いいえ、彼は私を愛していなかったわ」 スタッフが、私の耳に口を寄せてきて、感に耐えたような声で、囁いた。 「社長、女は魔物ですねえ」
亜津子にクレオヲパトラを観に行ったことを電話しようかと迷ってい ると、私の心を読んだかのように、亜津子から電話があった。 「昨夜のことだけれど」 「すまん、君に断らずに観にいってしまった。君にサインをねだった彼 が、彼女に振られて、切符が1枚余ってしまったというので」 「あらっ、あなたも来ていたの?」 「えっ、他に誰が?」 「それがねぇ、誰だと思う?」 「重原だろう」 亜津子が驚きの声を出した。 「よく分かったわね。会ったの?」 「いや、リムジンで乗りつけた連中の中にみかけたような気がしたんだ」 「そうなの。ヒヒ爺と一緒だったわ。重原さん、再就職して、高宅産業 とかいう会社の総務部に勤めているみたいなの。その会長のお供をして お芝居を観たあと、楽屋に押しかけてきたの。その会長っていうひと、 着替えをしているのも構わず入ってきて、好色な眼でジロジロみるのよ。 いやらしいったら、ありゃしない。いやあ、ヴィヴィアン・リーよりも 色っぽくてよかった。はまり役ですなあ。えへへ。今度、一緒に食事で もしましょうやなんていって、握手を強要して、風とともに去っていっ たわ」 私は、舞台女優を女芸者くらにしか思っていない経営者が多いという 現実を思い知らされたが、黙っているしかなかった。風とともに去って いったとは笑わせる。クラーク・ゲーブルならば、まだしも、ヒヒ爺で は、しゃれにもならない。しかし、ヴィヴィアン・リーがクレオパトラ を演じていたとは知らなかった。ヴィヴィアン・リーといえば、何とい っても「風とともに去りぬ」だ。 亜津子が気を取りなおしたような口調で言った。 「あとで、重原が謝ってきたわ。さっきはすまなかった。室井会長なら あんなことはしなかっただろうに。最近は経営者の質が落ちてきたって。 あたし、あんなヒヒ爺が会長をしている会社なんか辞めてしまいなさい よと言ったら、電話口でしばらく黙っていたわ。それから、ポツリとつ ぶやいたの。あの宝石箱だけでももらっておけばよかったって。それっ きりで、電話が切れたわ。でも、重原さん、一回り小さくなったようで 可哀想」 「宝石箱って、母の? あの掘り出した奴か?」 「そうじゃない、それしか考えられないわね。宝石が入っていないので がっかりしたけれど、もしかして、あの箱自体が高価なものじゃないの かしら」 「そうかなあ。外見は、宝石を散りばめているわけでもないし、地味な 葡萄の模様があるだけだろう。あれ、化粧入れにちょうどいいって言っ て、エミが持っていってしまったよ」 「あら、そうなの。あの子、ちゃっかりしてるわね。ところで、エミの ゆくえ,分かった? 手がかりはない?」 「そうなんだ。バンドの仲間を探して聞いてみたが、それこそ風のよう に消えてしまったので、困っていると言っていた」 その時、誰かが執務室のドアをノックした。 「社長、電話です」 あのスタッフだった。 「昨夜はありがとう。あとで電話をかけ直すと言ってくれないか」 「麻野さんの電話なら、お借りしていいですか」 「ああ。じゃあ、オフィスのほうに切り替えてくれ」 スタッフは、早口で喋べり出した。 「麻野さん、また観にいってしまいました。よかったですよ、すばらし かった。特に、最後に、毒蛇に胸を噛ませて、死んでいくシーン、泣け ました。ローマの軍隊が押し寄せてくる寸前でしたよね。終わった後の 大歓声のすさまじさ、舞台でも聞こえたでしょう? カーテンコールで 麻野さんが出てくる毎に、社長と一緒に、”ブラボー”って、何度も、 大声で叫んでしまいましたよ」 「おい、余計なこというなよ」 「麻野さん、リズがクレオパトラの撮影に入っているのを知っています か?ハネムーン中のバートンと組んで。何でも難航しているそうですね。 また、リズのわがままが出て」 スタッフのおしゃべりが止まりそうもないので、私はさえぎった。 「ところで、電話、だれからだ」 「あ、すいません。国際電話だそうです」 「おいおい、それならそうと、早くいえよ、先方に失礼じゃないか」 「何か、いそぎの電話らしい。すぐ折り返し電話するから、そのまま待 っていてくれないか」 私は、亜津子にそう告げて、オフィスから大急ぎで、執務室に戻って、 電話を取った。商談の電話にちがいない。 「はい、室生です」 「ハーイ、イロ。元気?」 JANNEだった。ひときわ明るい声だった。
第7章 コート・ダジュール
久しぶりに聞くJANNEの若やいだ声だった。学生時代の声だった。 私は、すっかり昔のことを思い出した。音沙汰がなかったので、私は、 すこし、うらめしい気分にもなっていた。そこで、学生時代の友達に対 するように、遠慮なく、ぼやいた。 「元気じゃないよ。声を聞けばわかるだろう。君がマリリン・モンロー の”ノー・リターン”なんかリクエストするから、エミがもう帰ってこ ないような気になって、心配してたんだ。その後、君からは、まったく 連絡がなかったし、エミのゆくへは相変わらず分からないままだし..」 JANNEは、語気鋭く反論してきた。 「昔からそうだけど、イロったら、全く、女心がわからないんだから。 この前、久しぶりにイロに会って昔話をしていたら、イロが、ニュー・ オリンズで、後ろから私が目隠ししたのまで覚えていたじゃない。あれ って、すっかり私は忘れていたのよ。それで、もう1度、イロとやり直 せるかなあという気になりかかったの。でも、イロにはもう亜津子がい る。あの曲は、そんな自分の気持ちを絶ち切るためにリクエストしたの」 「だって、これから彼氏に会いに行くっていってたじゃないか」 「あれは、うそ。そんないい人なんか、硬派の演劇評論家にいるわけな いじゃないの。みんな私を尊敬してはくれても、愛情の対象とはみてく れなかった。あの時は、誰もいなかったわ」 「じゃ、いまはいるってわけか」 JANNEの声は、悲しげなトーンに変わった。 「ね、茶化さないで聞いて。イロと別れた後、急にすべてが物悲しくな って、私の人生って、一体、何だったのかって思った。 外国で暮らして、恋人に裏切られて..愛なき人生。無性に、フランスが 恋しくなった。ホームシックにかかったのね。エール・フランスでパリ に飛んだ。機内で音楽を聞いていたら、素敵な歌が流れてきた。 Comme la vie est lente et comme l'esperance est violente (人生はなんて緩やかで、絶望って、なんて激しいものか) ”LE PONT MIRABEAUだった。イヴェット・ジローが 歌っていた。それを聞いていたら、涙が止まらなくなった」 JANNEは、そこで、小さくハミングした。 Passent les jours (日々は過ぎ去り)、 Et passent les semaines (週は過ぎ去る) Ni temps passe (過ぎた時も、) Ni les amours reviennent (恋も戻ってこない) Sous le pont Mirabeau coule la Seine (ミラボー橋の下、セーヌは流 れる) Vienne la nuit sonne l'heure(夜よ、来たれ、時鐘よ、鳴り響け) Les jours s'en vont je demeure(日々は去り、私は取り残される) 私は,野暮なことだが、国際電話代が気になった。 「ねえ、話しの途中だけれど、長引くようなら、こちらから掛け直そう か」 「いいの、いまの彼、お金持ちだから。それでね、パリのセーヌ川にか かっているミラボー橋に行って、橋の上から身を投げようと思ったの。 鬱状態だったのね。でも、ミラボー橋は、アポリネールの詞のようでは なくなっていて、高層ビルだらけ。まるでニューヨークだった」 「へえ、一度、学生時代に行ったけれど、その時は、まだ街外れで、 風情があったけれどなあ」 「イロったら、茶々入れないで。もう一度、茶々を入れたら、エミの居 場所、教えてあげないから」 私は、JANNEが酔払っているのではないかと思った。昔から、酔 うと悪戯電話をするクセがある。しかし、エミのゆくえが分かるかもし れない。ここは辛抱だ。 「わかった。続けてくれ」 「ミラボー橋では死に切れなくて、私の故郷の橋を一度観てから死んで やろうと思ったの。ローヌ川にサン・ベネゼ橋がかかっているのよ、有 名な「アヴィニオンの橋の上で」で歌われる橋よ。 JANNEは、また歌い出した。 Sous le pont Avignon アヴィニョンの橋の下で この出だしのワン・フレーズだけで、歌は、終わった。しかし、JA NNEは、電話口で泣き出して、しばらく嗚咽が止まなかった。 私は、「戯れに恋はすまじ」というミュッセの本の題名を思い出してい た。JANNEとの恋は、軽い気持ちからだった。当時は、外国人と火 遊びするのが、楽しかった。国境を超えた恋。何だか自分だけ特別なひ とになったような気がした。錯覚だった。森鴎外の「舞姫」のように、 横浜までドイツ娘が追いかけてくる、そんな事態すら期待していたのだ。 そうなると、父が真青になって駆け付けてきて、JANNEに莫大な手 切れ金を渡す。いい気味だ。....当時は、なんて甘ったらしい馬鹿気た ことを考えていたのだろう。 「イロ、アヴィニョンに行ったことある?」 「いや、まだだ」 「いいところよ。旧市街を城壁が取り囲んでいるの。その城壁の外に、 ローヌ川の豊かな流れがあって、城壁は途中で崩れているけれど、橋の 上に出られるのよ」 「ふーん、そうなのか」 「足もとが悪いので、私、バランスを崩して、倒れそうになったの。そ の時、ひとりの男のひとが、さっと腕を支えてくれたのよ。メルシーっ て言って、顔をみたら、びっくり。相手も、びっくり。高校時代の同級 生だったのよ」 「そりゃ、奇遇だね」 「それが、いま付き合っているひとなの、とても優しいのよ。美術に目 がなくて」 「何をしている人?」 「農業共同組合の理事よ。貴族の伯母さんの遺産を受け継いだので、お 金持ちなの」 「そりゃあ、うらやましいなあ。僕の父親もお金持ちだったけれど、破 産したから一文ももらっていない」 「あなたは、父親の期待を裏切ってばかりいたから、当然よ。もらえる 権利なんかないわ」 「そうだね、その通りだ。貰らおうなんて、これっぽっちも考えたこと はない」 「破産しても、別の名義にしておけば、財産は残せるはずよ。それでね 彼ったら、気が早い人で、逢った翌日には、両親に私を引きあわせるの よ。彼の両親がまた彼に輪をかけて気が早い人たちで、子供は何人つく りたいかなんて私に聞くのよ、結婚の話もしないうちによ」 「そりゃまた気が早いね」 「そうなの。で、いま二組一緒に、新婚旅行中なの」 「えっ? JANNE、いま、何って言った?」
JANNEの返事は、囁きに変わった。 「ねえ、イロ。あなたって、本当にエミの父親なの? この前打ち明け てくれた話は、本当なの?」 私は、当惑した。かつて裕紀と交わったことは事実だ。裕紀が涙ながら に「あたし、妊娠したの。あなたの子なのよ」といったのも事実だ。し かし、裕紀はあっけなく死んでしまった。万が一、裕紀が嘘をついてい たとしたら、どうだろう。事実は、もはや確かめようがない。うかつだ が、帰国したときに役所に行って、戸籍を調べておけばよかった。面倒 で行かなかった。戸籍なんていうものは、届け出制だから、その気にな ればどんな操作でもできると思っていたのだ。もし、この質問が詮索好 きのJANNEのものでなければ、私は、胸を張って、「そうだよ、僕 がエミの父親だよ」と答えるのだが...。 私の沈黙を待って、JANNEは言った。 「裕紀の葬儀で日本に行った時、私、重原さんに頼んで、あなたの戸籍 を調べてもらった。どうなっていたと思う」 「僕の父親は、室生悠一郎。母は、室生文子。そうだろう」 「勿論、そうよ。問題は、あなたの子供についての記述よ。エミの名前 は、戸籍には載っていなかったわ。その代わり、室生悠一郎の養女の名 前が載っていたわ」 「養女?」 「血はつながっていないけれど、養子にしたのよ。そのひとには、親の 財産をもらう権利はあるわ」 「父は破産したから、その人の目的が財産目当てだとしたら、もはや、 意味がないわけだけれどね」 「誰だったと思う」 その時、私の頭に浮かんだのは、亜津子だった。亜津子から聞かされた 父の行動から判断する限り、該当するのは亜津子しかいなかった。 JANNEは言った。 「そう、亜津子さんよ。私のライバル。私、日本の法律に詳しくないか ら、あなたと亜津子さんが結婚できるのか、重原さんに聞いたわ。そう したら、差し支えないということだった。それも、あなたをあきらめた 理由のひとつよ」 「そんなことがあったのか。知らなかった」 「そう、あなたはお坊ちゃんで、世の中のことを知らな過ぎるのよ。忠 告しようと思ったけれど、やめた。あなたに振られたら困るもの、それ に、当時は、社交的であることをみんなが評価する風潮があったじゃな い。お世辞や綺麗事だけをいうように教えられていたし。それで言わな かったの。今は、堂々といえるわ。あなたは、何も知らずに、のほほん と生きてきたのよ。もっとも、それがあなたの取り柄だけれど」 私は青ざめた。ひとは本心を隠して、ひとと付き合っている。本心を 吐露しても、信じてもらえないこともある。真実を知らないことも、真 実を知らされないこともある。一体、何を信じればよいのか。私の立っ ている足元が崩れるような気がした。 「で、亜津子は、そのことを知っているのか?」 「養女のこと? さあ、ご自分で聞いてみたら。あなたの愛人でしょ。ま さか、お父様の愛人っていうことはないと思うけれど」i 「まさか」 私は、絶句した。 JANNEは、勝ち誇ったように笑った。 「イロ、苦しむといいわ。愛する人に裏切られて、橋の上から身を投げ たくなった女の心境を少しでもいいから、味わって頂戴」 また、ミラボー橋のハミングが聞えてきた。 Sous le pont Mirabeau coule la Seine (ミラボー橋の下をセーヌが流 れる) Et nos amours (ふたりの恋もまた) Faut-il qu'il m'en souvienne (思い出さなくてはならないのか) La joie venait toujours apres la peine (喜びはいつも苦しみの後に やってくることを) 私は、受話器を床に叩きつけたくなった。しかし、まだエミのゆくえ を聞いていない。 「JANNE、止めてくれ。気が狂いそうだ」 JANNEは,歌を中断したが、私の抗議に構わずに、話しつづけた。 「アポリネールって、素敵ね。すばらしい詩を書いて。苦しみぬいた後 に、幸せは訪れる。苦しみぬいた後だからこそ、幸せは倍になる。彼も 人一倍、苦しんだのでしょうね。こんなすばらしい詩が書けるというの は。マイクだってそうよ。彼の「理解と誤解」を読んで、そう思ったわ。 世間は、女たらしなんていっているけれど、実際は違う。彼は純粋な人 よ、誰よりも苦しんでいる人よ。世間の常識と闘っている人なの」 私は内心つぶやいた。 「おいおい、今度は、マイケル・ダグラスの作品批評や人物批評か。い い加減にしてくれ。JANNEに言われなくても、そんなことは、知っ ている。JANNEだって、私がその位のことは知っていることを知っ ているはずだ。それなのに、一体、何のために、高い国際電話代を払っ て、こんな他愛ないお喋りを際限なく続けるのだ?」 話し声が途絶えた。私は、一瞬、電話が一方的に切られたのかと思っ た。 「じゃ、電話を代わるわ」 電話口からは、JANNEが誰かに「It's true」といっている囁きが 漏れてきた。 しばらく電話の声が途絶えた。カチャッという音がして、低いしやがれ 声が聞えてきた。クラーク・ゲーブルのような声の響きだった。しかし 耳を澄ますと、それは、カタコトの日本語だった。 「オトウサン、ハジメマシテ、ワタクシワ マイケル・ダグラス ト モウシマス」
電話の向こうで、JANNEの囁きが聞えた。 「He can speak English」 マイケル・ダグラスの声がたどたどしい日本語から流暢な英語に切り変 わった。明かに早口のブルックリン訛りだった。そういえば、彼の父親 は、第一次大戦後、ニューヨークに移住してきたロシア系ユダヤ人の会 計士だった。母親は、確かホテル業者の娘だった。4歳のときから、か れは、ブルックリンで育ったのだ。 「オトウサン、エミは、ダイヤモンドの原石だ。可愛くて、ミステリア スで、それに彼女の母親の血を引いているのか、天才的なギャンブラー でもある」 マイケル・ダグラスは、ここで、くぐっもった笑いを漏らした。 「明日、マントンで結婚式を挙げる。こちらは、二人だけの結婚式にな る。本当は、私の友人達も大勢呼びたいし、あなたと麻野亜津子も招待 したいところだが... その後、記者会見をする。いずれにせよ、大騒ぎ になるので、あしからず、ご了解願いたい」 まるで、私の父親のような物言いだった。すべては、予かじめ考えぬ かれ、決められているのだ。あとは、周到な物言いで、相手を納得させ るだけだった。しかし、亜津子をエミの母親と誤解しているのは、ご愛 嬌だった。しかも、亜津子が何でギャンブラーなんだ? 彼の本の題名 である「理解と誤解」どころか「誤解と誤解」だ。しかし、そんなこと で、彼と口論する場合ではなかった。 「エミは、私のただ一人の娘だ。今まで何もしてやれなかった。大事に してやってほしい。君たちの結婚式に出られないのは、本当に残念だ」 エミをさらっていった女たらしに、こんな月並みな言葉しか投げつけら れないのが、残念だった。人間には、格というものがある。格上の人間 には、誰しも抗しがたいのだ。マイケル・ダグラスは、すでに歴史に残 ることが約束されている非凡な人物だった。ところが、私はといえば、 無名のビジネスマンでしかなく、そのまま一生を終えるであろう平凡な 人物に過ぎなかった。 そんな私の胸の空洞の中にエミの声が飛びこんできた。 「お兄ちゃん、あら、間違った。パパ、ごめんね。何もしてあげられな いまま、マイクのところに行ってしまって。でも、あたし、いま、すっ ごく幸せ。マイクって、いい人よ。いい年しているくせに、赤ん坊みた いなの。喜怒哀楽をストレートに表現するのよ。昨日も、モナコのカジ ノで大損こいて、頭をかかえているの。ああ、エミと結婚式をあげる金 がなくなってしまったなんてね。あたしが、印税が沢山あるでしょうっ ていうと、みんな使ってしまった。ああ、どうしたらいいのだと言って 今度は泣き出すの。でも、あたし、モナコのカジノがはじまって以来と いうくらい馬鹿当りしたから、いまは、お金持ちだけど」 エミの話しの内容は、深刻なものだった。やはり、マイケル・ダグラス は、太く短くの破滅型の人生を演じていた。エミも同じタイプだった。 しかし、エミの声が地中海の海と空のように底抜けに明るいのが、せめ てもの救いだった。 私は、心の中に溜まっているものをすべて搾り出すような声で言った。 「エミ、許してくれ。いままで、父親と言わなかったことを。もう少し 立派になってから、パパだといいたかった。もう分かってしまったから 何だけど、今度一度ゆっくり事情を話させてくれ。ところで、そのこと を誰に聞いた?」 「お兄ちゃんは、立派になんかならなくて、いいよ。そのままのほうが 素敵だよ。みんながマイクのようだったら、世の中、お終いよ。それで ね、今だから話せるけれど、誰もあたしにパパの名前を教えてくれなか ったから、荒れた時期もあったの。父なし子だと思ってひねくれてばっ かりいた。でも、知らないパパって、一体、どんな人かなあって、毎日 想像していた。室生悠一郎かなあって思ったこともあった。おかげで、 若いひとよりも年寄りが好きなタイプになってしまった。だから、いま マイクのような理想のタイプに出遭えたのよ。その点、お兄ちゃんに感 謝しなくては。人生、終わりよければ、すべてよしって言うじゃない」 エミのほうが、私より大人だった。こまっしゃくれているが、言ってい ることは当っていた。 「エミ、もう一度、聞くが、僕がエミの父親という話しを誰に聞いた ?」 リサ、代わってという声がして、JANNEが電話口に出てきた。 「私よ、悪かったかしら。でも、イロ、あなたがグズだから、危なっか しくて見ていられなかったのよ。でも、思い切ってリサに言ってしまっ て、よかったわ。リサは、すっきりしたって言ってたわ。ねぇ、リサ、 そうでしょ」 私は、何でエミがリサなのか、さっぱり分からなかった。エミが代わ って電話に出た。、 「そうよ、あたし、その点、JANNEに感謝しているわ。マイケルを プロデュサーって紹介して騙されたときは、頭にきたけれど。お詫びに といって、二人が、私をイースト・ビレッジのマイクのなじみのバーに 連れてってくれたの。そこで、彼が「モナ・リザ」を歌った。彼って、 普段はダミ声だけど、歌うと、ビング・クロスビーみたいな甘い声を出 すのよ。「モナ・リザ」が愛の歌だと知ってはいたけれど、その時は、 むくれていたので、彼の気持ちなんか、さっぱり伝わってこなかった。 でも、彼が「私は ノー・ワン・ノウズ」なんて、替え歌を歌うから、 「あらっ、彼は、私のこと、からかっているのかしら」って一瞬、気づ いたのよ。それで、JANNEに「彼、日本語達者なの?、いま、私は ノー・ワン・ノウズって、唄っていたわ。ひどいわね」って言ったの。 JANNEは、お酒ばかり飲んでいて、ろくにマイクの歌なんか聞いて いなかったようだから、怪訝な顔をした。歌い終わって戻ってきたマイ クにJANNEが話しかけていた。どんな歌詞なのって?しばらくする と、二人であたしの方をみて、腹をかかえて笑うのよ。「私は no one knows」って、繰り返して言って。JANNEなんて、涙を流して笑っ ているの。あたし、腹が煮えくり返ったわ。お詫びにといって連れてき て、また人を馬鹿にするなんて。あんたたちは、有名かも知れないけど どうせ、あたしは無名よ、誰も知らない歌手よ。何がノー・ワン・ノウ ズよ、ひとを馬鹿にして。あんなに腹が立ったことはないわ」 一瞬、間を置いてエミは言った。 「それで、あたし、思いっきりマイクのボディにパンチを食らわしたの」
エミが愉快そうに笑った。 「彼、不意打ちをくらって、びっくりしていたわ。エビのように腰を折 って、床に崩れかけたの。周囲のひともびっくりして、ほら、マイクの フアンも多いじゃない。あたしを取り巻いた。襲いかかろうとするひと もいたわ。あたし、日本語で怒鳴ったの。 ”あんた、あたしのこと馬鹿にしないで。ちゃんと謝らないと、もう1 発殴るわよ” 日本語でも、あたしが本気で怒っているのは、マイクにも通じたみた い。大きな目を見開いて呆然としていたわ。あたし、半身に構えて、右 腕は胸の近くで握って、左腕は前に突き出す姿勢を取った。周囲の人、 最初は、小娘だと思って馬鹿にしていたけれど、あたしのその構えをみ て、ぎょっとしていたわ。一斉に後すざりした。”空手だ”という声が した。へえ、アメリカにも分かってる人もいるんだって思ったわ」 「へえ、エミはいつ空手を覚えたんだ」 「中学時代からだから、長いのよ。ニューヨークでも、時々道場に行っ ていた。お兄ちゃんには、ボイス・トレーニングに行くっていってたけ ど、ボイズ・トレーニングは毎日じゃなかったのよ。空いた日は、空手 の練習に行っていた」 「ちっとも、知らなかった。護身用に覚えたのか」 「そうじゃないの、喧嘩に勝つためよ。ほら、高校時代はグレていたっ ていたでしょ。こんなに小さな身体でも、女番長を張ってたのよ」 「エミが、そんな不良だとは知らなかった。ところで、電話、いい加減 に切らないと、電話代が大変な額になるよ。大丈夫なのかい?」 エミが、けたたましい笑い声を立てた。私の知っているエミが、まる で別人になったような気がした。私は、エミのことなど、何も知らなか ったのだ。 「お兄ちゃん、相変わらず小心者だねえ。電話代なんか心配しなくてい いのよ、あたし、コート・ダジュールでは、いつでも稼げるんだから。 あたし、パチプロなんだから」 「パチプロ?」 私は、コート・ダジュールとパチプロという取り合わせに、意表をつか れた。 「そうなの、それこそ、物心がついた頃から、ママとマチンコ屋に入り びたっていたわ。ママが背中にあたしをおぶって。子供が来るのは、珍 しいから、常連のおじさんたちに可愛がってもらって、煙草とか酒とか 色々な大人の遊びを教えてもらった。やばいこといっちゃったかな。マ マに叱られそう」 初耳だった。まさか、あの気品あるクレオパトラを演じる亜津子がパ チンコに狂っていたとは。しかも、子連れで。本当だろうか。エミがよ くいう冗談のひとつではないのか。 「ママって、亜津子さんのことか?」 「バレたついでに言っちゃうと、ママもパチプロよ。だって、あんな山 の中、図書館も映画館もないのよ、隣りの町までいかなければ。近所に あるのは、パチンコ屋くらいなものよ.室生悠一郎が死んで、一時、財 政的にピンチになったときなんかは、パチンコの稼ぎで暮らしていたほ どよ。ママ、お兄ちゃんに言わなかった? もっとも、いうはずないよ ね。恋する女としては、そりゃあ、言いにくいよね」 「エミ」 「はいはい、パパ、もう止めます。下らない話しは。でも、パチプロ修 行のおかけで、グラン・カジノでは、大儲けできた。芸は身を助くよ。 一芸に秀でるって、大事なことね。」 亜津子がパチプロ? 私は、亜津子の素顔を垣間見て動揺してしまっ たので、これ以上、エミの自慢話しにつき合う気分になれなかった。し かし、モナコへは一回行ったことがあるので、懐かしかった。団体旅行 で、カメラをぶら下げて、ビーチを行進したので、半裸の女性たちの顰 蹙を買ったっけ。 「グラン・カジノって、あのモナコのか。宮殿みたいなやつ」 「お兄ちゃん、行ったことあるの?」 「ああ、外から見ただけだ。大きなやしの木があって、凝った噴水があ る宮殿みたいな建物だろう。その向こうに青い地中海がみえた。あまり 青い色がきれいなので、感激した。だけど、確か、あそこは20才未満 は、入場お断りじゃなかったかな」 しばらく、沈黙があって、エミの声色が変わった。 「お兄ちゃん、あたしの誕生日も知らないの? もう20歳よ、立派な 成人。いつまでも子供扱いしないで。その日がちょうど20歳の誕生日 だったの。それで、マイクが記念にグラン・カジノに行こう、手ほどき をしてやるからって言ったのよ。行ったら、ガードマンがやっぱり子供 と間違えて、通せんぼするから、免許証をみせてやったの。何度も、免 許証の誕生日とあたしの顔を見比べているので、マイクが業を煮やして いい加減にしろといってくれたので、ようやく入れたの1...。 服装もきちんとしていなくてはいけないって、マイクがいうので、前の 日にお店で買っておいてよかったわ。あたしたち、夜、行ったんだけど 次々とリムジンが到着して、着飾ったカップルが降りてくるのよ。男は タキシード、女は、ファッション・モデルみたいに着飾っているの。た め息が出ような素敵な衣装の人ともいれば、どうかと思うような奇抜な 衣装の人もいた。有名なひとも来たわ。ねえ、JANNE,あれ誰だっ け。ああ、何とかいう舌を噛みそうな名前の映画女優よ。モナコの王妃 も、たまには来るんですって... 中に入ったら、まあ豪華絢爛、シャンデリアがいくつもぶら下がって いるし、赤い絨毯といったら、毛足が深くって捻挫しぞうなくくらいだ った。みんな、腕を組んで、お澄ましして歩くのよ。まあ、社交の場ね。 でも、やっていることは、ルーレットとかトランプ遊びで、大仕掛けな だけで、ただの賭け事なの。しばらく、マイクに連れられて、見て回っ ているうちに、コツが分かったきた。何だあ、パチンコと同じじゃんっ て。で、あたしが本気になって賭け出したら、マイクのほうが損して、 あたしが儲けちゃったの。そのうち、お兄ちゃんにも、カジノ必勝法を 教えてあげる」 エミの含み笑いが遠のいた。 「じゃ、JANNEがさっきから話したがっているから、代わるわ」
JANNEがいそいでいるときの、せきこむような口調で話しはじめ た。 「わたし、4時にエステの予約してしまったので、時間がないの。手短 かに話すわ。イロは、リサもマイクもジャン・コクトーではないけれど ”Les enfants terribles” だということを理解しなければならないわ。 マイクは、16歳でハーバード大学に入り、24歳で「理解と誤解」で 世界的な有名作家になったのよ。リサも学歴こそないけれど、私の見る ところ、空手とパチンコの天才で、いずれ、歌のほうでも世に出るわ。 二人に共通するのは、一切の権力を認めないところなの。マイクの言葉 を借りれば、”大人にならないで、いつまでも子供の頃の初心を忘れず 挑戦の小さなトランペットを吹き鳴らし続ける”ということなのよ」 「ところで、イロ。私達のように、一度、ゆっくり、コート・ダジュ ールの美術館を見て回ると、いい勉強になるわ。ここは、怖るべき子供 たちの共和国よ。明るい地中海の海と気候に育くまれた沢山の”Les enfants Terribles” に会えるわ。セザンヌ、ゴッホ、ピカソ、マチス シャガール、フェルナン・レジェ... あの世界に何点しかないフラゴナ ールの絵にも会えるわ。ここには数え切れないほどの美術館があるの。 イロ、7日間通用するカルテ・ミュゼ・コート・ダジュールというパス を買うといいわ。すごく安いの。それでもって、ほとんどの美術館や博 物館に入場できるのよ」 「あたしたち、どこで、マイクとリサに出遭ったと思う。 ニースのマチス美術館でぱったり出遭ったの。中庭にいたのよ。オリー ブの木が生えていて、居心地がいいところなの。一口に、オリーブの木 といっても色々な種類があることをジャンから説明してもらっていたら 同じようなことをしている人達がいるの。”あれっ、エミじゃない。あ れっ、JANNEじゃないの。あら、マイクもいる! 何で、ここにい るの?”っていうわけ。”随分、探したけれど、ゆくえがわからなくて あきらめかけていたのよ”って、リサにいったわ」 コート・ダジュールは、南フランスの海岸地方の一般名称で、真珠の 首飾りのように点在する多くの美しい小都市がある。西から東に、順番 に主な都市をあげていけば、カンヌ、ヴァロア、アンチーブ、ビオ、ニ −ス、エズ、モナコ、マントンとなる。それぞれに、小さな美術館があ る。その先は、太陽の国、イタリアである。 私は、素朴な疑問を呈した。 「何で、ニースでエミに出遭えたのだ?」 「わたしもそう思ったの。全くの偶然というしかないわ。わたしたちは アビニョンからエクサン・プロバンスのジャンの出た大学を見てから、 マルセーユに出て、あとコート・ダジュールの美術館めぐりをして、ニ ースまでたどりついたところだったの。途中で、シトロエンがパンクし たりして、それは、大変だったのよ、一方、マイクたちは、ニースにず っと滞在していたようよ」 「だから、何でニースなんだ?」 「あのね、わたし、忙しいのよ。その説明は、マイクかリサに聞いて。 じゃあ、イロ、私の役目も成功裏に終わったから、いつかどこかで奢っ てね、バーイ。元気でね、亜津子さんにも、よろしく。公演、頑張って ねって伝えて」 時計をみると、ちょうど4時5分前だった。几帳面なところは、まさに JANNEだった。ところが、次に誰が受話器を受取るのかがなかなか 決まらないらしく、電話口での押し問答が聞えた。あとのひとたちは、 時間を気にしないひとばかりらしい。 なつかしいフランス語が流れ出た。 「Bonjurs Monsheur Hiroyuki Muroo,Je m'appele Jean dubois」 JANNEの彼氏だった。イヴ・モンタンのようにいい声だった。私は 彼が黒いとっくりのセーターを着て、抜けるように白い顔をしている人 物のような気がした。いつも、C'est si bonというのが、口クセの陽気 な男。しかし、会話の内容は、まるで第一印象とは違っていた。 「正直に話すが、お前には電話したくなかった。JANNEにも、あん な男に電話してやるなと言ってきた。JANNEから、お前について、 すべて詳しく話しを聞いた....。お前は、ひどい男だ。JANNEを、 自殺寸前まで追いこんで。お前も、Les enfants terriblesのひとりだ よ。しかも、OOOOなどするとは」 かつてJANNEから仕込まれて、私はフランス語の日常会話くらい はできるようになったが、彼のいうOOOOというのは、何のことか、 さっぱり分からなかった。 「Pouvez-vous parler plus lentement?」 もっとゆっくり話してくれまぜんか、と私は言った。 「0000」 かれが、ゆっくり話した。しかし、それでも何の言葉かわからなかった。 かれは、私が白ばっくれていると思ったらしい。 「お前は否定するかも知れないが、お前とユキ ナツノは、兄妹の関係 だ。それなのに、深い関係になって、子供まで生まれた。それが、エミ だろう。罪深いことだと思わないか。お前は、Enfant terrible ではな いと主張するのか」 OOOOは、どうやら近親相姦という言葉のようだった。 次に、聞えてきたのは、深いため息だった。 「俺も、実をいうと、お前のことは非難できない。14歳のときだった。 JANNEに出遭って、夢中になった。”ロリータ”のハンバード教授 が14歳のアナベルに一目ぼれをして、愛し合ったのと同じだ。アナベ ルは、腸チフスで死んでしまったが、私のJANNEも、留学のために アメリカに渡ってしまって、手の届かぬひとになってしまった。ハンバ ード教授が、歳をとっても、アナベルを忘れられなかったように、俺も JANNEのことをどうしても忘れられなかった。大人を相手に恋をす ることなどできなかった。少女にしか興味がもてなくなっていたのだ。 もし、あの橋の上で、JANNEに再会できなかったら、俺も、今頃は 刑務所に入っていたかも知れない。あの日も、実は、少女の獲物を探し ていたのだ。聞けば、あんたのYUKIは、死んでしまったそうだな。 お前の気持ちは、よく分かるよ。お前は、一生、YUKIの幻影という 重荷を背負って過ごす運命にあるんだ。まともな恋愛なんて出来ない男 になってしまったのだ」 衝撃で、周りが白くなってしまった私の耳に、甘い歌声が流れ込んで きた。 In a villa in a little old italian town Lives a girl whose beauty shames the rose Many yearn to have her but their hopes all tumble down what does she want no one knows
あたしが呪われた子供だって?それが、一体、どうしたっていうのよ。 あんたたちが悪いのよ。兄妹同士なのに、勝手に子供をつくって。私の 頭の中で、エミが絶叫している声が聞えていた。ああ、なんていうこと をJANNEは、ジャンに吹きこんでしまったのだ。ただの推測でしか ないはずなのに。 「ねえ。パパ、分かるでしょ。ビング・クロスビーのモナリザよ。あ たしが間違えたわけ、分かるでしょ」 エミの明るい声だった。怒鳴っているエミの声は私の頭を一瞬かすめた 妄想だった。すると、幸い、エミは、まだ何も事情を知らされていない のだ。ジャンがフランス語で話していたせいで、聞き取れなかったのか それとも、レコードをセットするのに、気をとられて、聞いていなかっ たのか。 「ねえ、パパ、聞いてる?分かる?」 「すまん、考え事をしていた。もう一度、かけてくれないか」 In a villa in a little old italian town Lives a girl whose beauty shames the rose Many yearn to have her but their hopes all tumble down What does she want no one knows イタリアの小さな町のとあるヴィラに ひとりの少女がいた。バラの花も羞じるほど美しかった。 沢山の若者たちが彼女に求愛したが、皆、その望みを断たれた。 彼女が何を望んでいるのか、それは誰にも分からなかった。 エミの楽しげな声がした。 「ねえ、”私は”って聞えるでしょ。」 「そうだね、”what does she want”ってところかい?」 「そう。分かった? お兄ちゃん、結構、耳がいいじゃん」 「誰だって、そういわれれば、分かるよ」 「それでね、あたしが頭に来て、マイケルを殴ったっていう話しは覚え ているでしょう。彼、あとで仲直りしてからいうのよ。可愛いのよ、言 うことが。殴られたのは、生涯で、これがはじめてだって。あたしなん か、数え切れないほど、殴られたっていうのに」 「数え切れないほど?誰に?」 「いろんな人によ。警官、喧嘩相手、そうママにも」 「亜津子さんにも?」 「あのひと、すごいのよ。殴り出したら止まらないの」 「本当か?」 私は、あの優雅な、ほとんど内気といってもいい亜津子が、取り乱し て、子供を殴り続けるシーンを思い浮かべようとしたが、出来なかった。 「一度、お兄ちゃんも、ママに殴られてみるといいよ、その時のあたし の気持ちが分かるから。でも、そんなイヤな話し、いくらしていてもき りがないから、違う話しをしましょうよ」 私は、エミにいわれるまま、気を取り直して、気がかりなことを聞い た。 「それで、いま、どこにいるの?」 「いま? いまは、ニース」 「それは分かっている。どこにいるの? エミにボストンでおみやげを 買ってきた。送ろうかと思ってさ。指輪なんだ、安物だけど」 「ふーん、間に合わないわね、結婚式には。でも、送って。いま、いる のは、メリディアン」 「分かった。メリディアンに送ればいいんだね」 沈黙があった。 「お兄ちゃんたら、いつもそそっかしいんだから」 「どうして? 確か、メリディアンって言っただろ。あそこは高級ホテ ル・チェーンじゃなかったか? 何日泊まっているか知らないけれど、費用が大変だろうが」 「そう、メリデイアンは、すごい豪華で、高そうよ。部屋の窓が大きく て、海がみえるのよ。屋上にはプールもあるし、カジノのもあるの。で も、ご心配なく。ここは。JANNEたちがハネムーンで泊まっている ホテルなの。ばったり逢った後で、誘われて、遊びにきただけよ。あた したちが、ずっと住んでいるのは。安宿。カテリーナっていう名前なの。 通りに面していて、結構クルマの音がうるさいのよ。ここと比べると、 雲泥の差。部屋も狭くて、古臭くって、息がつまりそう」 私は、マイケルがエミを大事に思っていない証拠をみつけて、憤慨し た。娘と安宿にしけこむような奴に娘をやるわけにはいかない。借金し たって、男なら、ハネムーンは豪華にすべきだろう。それとも、欧米人 であるマイケルは価値観がちがうのだろうか。 「何だって、そんなところに。可哀想に。マイケル・ダグラスは、一体 何を考えているんだ」 「パパ、怒らないで、事情はマイクに聞いて。じゃ、代わるわ」 エミが、私が聞いたこともない優しい声で、マイケルに囁いているの が聞えた。 「マイク、パパがあたしに指輪を送ってくれるんですって。パパに明日 から泊まるホテルの名前と住所を教えてあげて」
「Ambassadeurs、3 Rue Partourneaux 04-93-28-75-75」 見事なフランス語だった。しかも、クラーク・ゲーブルがフランス語を しやべっているようだった。ホテルの名前と電話番号はすぐメモできた が、住所が聞き取れなかった。 「すみません、もう一度、住所を教えてください」 「3 Rue Partourneaux」 「すみません、スペルを」 「PAR TOUR NEAUX」 「一語ずつ」 「P A R T O U R N E A U X」 「復唱します。Tros Rue Partourneauxでよいの ですね」 「そうだ」 マイケル・ダグラスの声に苛立ちを感じた。私の方も、苛立っていた。 結婚式にも呼んでもらえず、せめて指輪でも送ってやろうと思って住所 を聞いている親の気持がわからないのか、しかも、大事な娘と安宿を泊 まり歩くとは。 「マイケル、そのアンバサダーも安宿なのか?」 一瞬、沈黙があった。 「ひとがどんな宿に泊まろうと、自由だ。君は、そんなに父親の振りを したいのか?」 強烈な逆襲だった。 ここで、娘の結婚相手に喧嘩してはいけない。私は冷静になろうと努 力したが、出来なかった。 「父親ならば、誰だって心配する。そんな簡単なひとの心がわからない のか」 「ひとの心? 簡単にいうな。おれは、ひとの心が分からなくて、苦し んでいるんだ。よくも、この俺に、そんなことが言えるな」 「なに、三文文士のクセに何をぬかす」 「じゃ、お前は、何なのだ。”No One Knows”だ」 電話の向こうで、エミの叫びが聞えた。 「マイケルやめて、パパと喧嘩するの。二人ともあたしを愛しているな ら、頭を冷やしてよ。お願いだから」 マイケル・ダグラスが先に折れてきた。 「Sorry、dad」 「いや、かっとなって、大変失礼なことをしました」 「リサが聞いているけれど、正直なことを話しましょう。たしかに、カ テリーナは安宿かも知れないけれども、私にとっては、思い出の宿なん だ。除隊して、「理解と誤解」を書き上げて,出版社に売りこんだ。そ れこそ”No One Knows”で、相手にしてもらえなかった。それでも、よ うやく一つの出版社の編集者が面白いといって受取ってくれた。作家と して生計を立てるなんて思っていなかったから、何とかしようと思って パリのソルボンヌ大学に留学した。それで、少しはフランス語もしゃべ れるようになった。JANNEに言わせると、Dadと同程度だそうだ が。ハハハ....。折角、フランスに来たのだから、あちこち見てやろう と思って、ニースに行った。カテリーナに泊まって、ある朝、次の宿泊 先を相談するために、旅行社に行った。その先は知っているだろう。有 名な話しだから」 私とマイケルの間を共通の過去の思い出が暖めはじめていた。 「マイケル、あなたは覚えていないかも知れないけれど、実はハーバー ドであなたの講演を聞いたことがある。しかも、そのあと、数人であな たを囲んで、いろいろなエピソードを聞いた。バイロンだろ」 「そうか,Dadは、大学の後輩だったのか。それで、JANNEと知 り合ったのか。そうか。それで、バイロンの話しを知っているのか」 「あなたは、その旅行者の係りの女性が、パスポートの写真と名前を何 度も見るので、不審に思った。もしかして、期限切れになっているかと 心配になった」 「Dad,よく覚えてくれているね。相手は、私の目をじっとみつめて もしかして、マイケル・ダグラスさんですかって聞くんだ。パスポート の名前を見ているはずなのに、変だなと思った。あのマイケル・ダグラ スさんですか」 「きゃあ」 「そうだ。そのあと、娘は、きゃあと叫んだ。テレビのニュースでお顔 を拝見しました。ニューヨーク・タイムズのベストセラー第1位を続け る25歳の若者、マイケル・ダグラス。若き天才の出現と出ていました」 「あなたは、その時はじめて、フランス娘にキスされたんだ」 マイケル・ダグラスの口調がはじめて親しみをみせた。 「Dad、マイクって呼んでくれ。私がエミをリサと呼ぶように」 「OK。マイク。リサは、モナリザの歌から来てきるのかい」 「Yes、Dad。いまじゃ信じてもらえないだろうが、当時の私は、 おくてだった。キスもしたことがなかった」 「そのくだりをきいて、われわれ後輩は大いに発奮したものですよ、マ イク。バイロンの言葉のように、あなたは、ある朝、目が覚めたら有名 になっていた。それを聞いて、みんなマイケル・ダグラスのようになり たいと思った。あなたは、太陽のように眩しい存在だった」 マイクがしゃがれ声でつぶやいた。 「Dad、バイロンの言葉、今にして思うと、あれは、実は、悪魔の囁 きだったんだ」
マイクが聞いてきた。 「Dad,ジェット・セッターって知っているかい?」 「いや」 「ジェット機に乗って世界中の貴族や大金持ちのパーティに顔を出す種 族のことなんだ。私は若い世界的なベストセラー作家だったから、誰も が呼びたがった。今、思うと、珍しい動く玩具だったのだ。しかし、こ ちらも若かったし、何でも経験してやろうと思っていたから、あちこち に顔を出した。色々なVIPにも会ったよ。その後、ハリウッドの女優 に誘われて、乱ちきパーティにも出た。恐るおそるだったな。しかし、 退屈なパーティよりも、面白いことに気付いた。セックス、マリファナ 賭博。そこで、それを題材に”天使たちの入江”を書いた。ホモ、レズ 色情狂、そういったひとたちの群像を通してアメリカの堕落をとことん 突きつめて描こうとしたのだ。この作品は、一部の批評家には高く評価 されたが、一般にはスキャンダラスに受け止められた。おかげで、すっ かり、女たらしというイメージが定着してしまった」 「マイク、私も読んだが、あなたが色気ちがいなんて思わなかった」 「そうだろう。同じ頃、マリリンも読んで、同じような感想を持ったら しい。後で聞くと、感激して、ここには、あたしとそっくりのひとがい る、彼は、あたしと精神的な双子だ。そう思ってくれたらしい」 「それで、マリリンと仲良くなったのか」 「いや、こちらは、彼女を単なるピンナップ・ガールあがりのセックス ・シンボルとしてしか見ていなかった。軽蔑しきっていた。しかし、評 判になった映画”帰らざる河”を見て、これはちがうと思った。そこで ひとを介して,会いたいといってやった。しかし、なしのつぶてだった。 野球選手のジョー・ディマジオと離婚したばかりで、恋愛や結婚には、 こりごりしていたのだ。そこで、あの”私自身のための広告”をもじっ て”君自身のための広告”を一晩で書きあげて彼女に送った。 私の出版者としての血が騒いだ。 「マイク、”私自身のための広告”は読んだが、その”君自身のための 広告”は読んだことがない。どこで出版されたのか。もしかして、未発 表原稿ではないのか、ぜひ、私に出版させてほしい」 「Dad,残念ながら、答えはノーだ。彼女に送って、それが効を奏し て、仲良くなった。6ケ月間、夢のような甘い生活を送った。彼女は、 献身的だった。気軽に皿洗いもしてくれた。しかし、彼女は、超売れっ 子になった。”バス・ストップ”、”7年目の浮気”そして”お熱いの がお好き”の撮影と出演交渉が目白押しだった。あっという間に、彼女 のほうが、私よりも有名になっていた。色々あって、結局、別れようと いうことになった。そこで、原稿は、焼き捨ててしまったんだ」 「何っていうことを。マイク、あなたはそれでも作家か。作家にとっ て作品は命の次に大事なものではないのか。もし、残っていれば、高い 値がついただろうに」 「クリスティ−ズなどで競売にかければ...一声、百万ドル,か。マリリ ンは、死んでから、関連グッズの値が天文学的に値上がりしたからな。 しかし、当時の私にとっては、そんなものはどうでもよかった。また、 いつでも書けると思っていた。ところが、マリリンと別れて、乱ちきパ ーティに舞い戻っているうちに、いつの間にか、麻薬中毒になっていた。 気がつくと、私は、もう書けなくなっていた。あの若き天才、マイケル ・ダグラスではなくなって、ただの麻薬患者になっていた。ぼろぼろの 肉体を持てあましていた。ズタ袋のようなものだ。そこで、ある日、こ の世からおさらばしようという気になった。睡眠薬を飲み、マリリンの 写真と”君自身のための広告”に火をつけた」 私は、慄然とした。めまいがした。この男は、性格破綻者だ。こんな 奴に娘をやるわけにはいかない。”お前なんかクソ食らえ”といって、 受話器を叩きつけようかと思ったが、好奇心のほうが勝って、平凡な質 問をしていた。 「それで、どうやって、助かったの?」 「たまたま、掃除人が忘れ物をした。取りに戻って、火事に気付いた。 Dad、臨死体験の話しを聞いたことがあるだろう? 後ですこし研究 したが、その時、みんなが同じような幻像を見るんだ。暗いトンネルに 突入していく。暗い、冷たい、痛い。ところが、先のほうにトンネルの 出口が見える。最初は、小さく見えるのだが、どんどん大きくなって、 最後は、光の洪水の仲にいるんだ。喜びが湧きあがって、過去の出来事 のすべてが照射されて、明るい太陽に祝福された未来がくっきりみえる のだ。まさに、ハレルーヤだ」 エミの声がした。 「そうなのよ、パパ。死ぬときは、みんな幸せになれるのよ。サイコー なのよ。だから、生きている間に、うじうじと死ぬことを怖れたりする ことなんかないのよ。それでね、あたしが、マイクに会ったのは、火傷 が治って、ようやく人前に出られるようになった時だったのね。 ”私は、No one knows”といわれて、マイクを殴ったあと、冷静になっ て話し合ったら、私のことを笑ったのではなくて、マイクが自分自身の ことを笑ったのが判ったの。彼は、過去の人になっていて、もう誰も彼 を知らなかった」 マイクが代わった。 「それで、リサと仲直りしたというわけだ。私の身の上話を聞いて、リ サがいうんだ。わかった。じゃ、あたしにまかせなさい。あなたを立ち 直らせてあげる。あたし、不良を随分立ち直らせたことがあるんだから 信じて。まず、過去の名声を忘れることね。最初から出直すのよ。いー い。そうね、どこから、やり直そうかしら。ニースで、ある朝、目を覚 ますところからはじめましょう、ねえ、いいアイディアだと思わない」 エミの楽しそうな声がした。 「それで、マイクの人生をニースの安宿に、プレイ・バックすることに したのよ。もっとも、お金もなかったからだけど」 マイクの楽しそうな声がした。 「そうなんだ。毎朝、朝日が上る頃、リサがモナリザを目覚まし代わり にかける。夜型の生活が長かったから、最初の日は、眠くて起きられな かった」 「そうそう。怒鳴ったの、起きなさいって」 「薄目をあけて、りサを見ると、奇妙は目つきで見下ろしていた。起き あがった途端、平手打ちをくらった」 「マイク、あれで、あなた、完全に目が覚めたのよね」 「うん、あの時のせりふがよかった。毎朝、きちんと目を覚まさないと 有名にはなれないわよ。バイロンのせりふをもじっていた」 「ふーん、そんなこと言ったかしら。でも、あの頃、あたしも必死だっ た。あなたを叩き起こして、食事させて、それから、散歩に行った。海 をみながら、プロムナード・デザングレを散歩した」 「散歩までは楽だった。そのうち、ジョギングをしようと言い出した」 「そうよ、あの散歩道、片道が3.5 キロあるのね、最初は、あなた、 走ったあと、ぜいぜい言っていた」 「いやあ、辛かった。心臓が破裂しそうだった」、 「そこを乗りきれば、体力のほうは、何とかなるからって励ましたのよ」 「岬の先まで走っていって、帰りも走って帰りましょうっていうから、 イヤだといったら、急に足蹴りを食らった」 「ねえ、パパ。毎朝、岬の先で、彼がハアハア言っている間に、あたし は空手の練習をしていたのよ。こういうものは、毎日やらないと、技の キレが鈍るからね。イヤだなんていうから、頭に来て、そのまま、飛び 蹴りを食らわせのよ。ごめんね、マイク、痛かったでしょう」 私のことを放り出して、受話器のとりっこを楽しんでいる二人が、急 に頼もしく、愛らしくなってきた。この分なら、二人のことは、心配し ないでよさそうだ。それにしても、エミはたいしたものだ。裕紀の血を 受け継いだのだろうか。そう思うと、不覚にも涙が溢れてきた。 そのとき、後ろからスタッフの声がした。 「社長、もう1時間も電話してますよ。大丈夫ですか。亜津子さんから 何遍も、まだ終わらないのかって電話が入っていますよ。急用だといっ ていらっしゃいます」 涙を流しているのを悟られないように、私はわざと、ぶっきら棒に、言 った。 「構わん、大事な用件で話し中だ。後にしてくれと言ってくれ」
エミが楽しそうに報告を続けた。 「あたしたち、お昼になると、マルシェが開くから、そこで買い物をし たり、花市を見て回ったりするの。お昼ごはんは、ホテルに戻って簡単 なものを作ったり、外で食べたり、いろいろね。とにかく、こちらでは 日本とちがって、ゆっくり時間をかけて食事するの。後は、シエスタ。 こちらの習慣みたい。暑いから、優雅に、お昼寝っていうわけ。それか ら、マイクは、執筆に取りかかるの。夕食後も書いているわ。あたしが いると、気が散るから、部屋を出てってくれっていうの」 私の心配性がまたまたぶり返した。作家と一緒に暮らすと、こういう 問題があるのだ。一緒にいる時間は家にいるだけに、勤め人よりも長い が、その間、相手にしてもらえないので、却ってストレスが増す。出版 社をやっていると、作家の奥方からそういう苦情をいやというほど聞か される。 「エミ、マイクは、お前を外に放っぽり出すのか? それは聞きずてな らんな」 「パパ、心配しないで。その間、エミはちゃんとやることがあるから」 「お稽古事でもやっているのか? それとも、語学学校にでも通ってい るのか」 「そんなんじゃないの。バイトしてるの」 「バイト、まさかウエイトレスなんかじゃないだろうな」 「当り」 「おいおい、何が何でも、コート・ダジュールまできて、ウエイトレス はないだろう」 「パパ、職業に貴賎はないのよ。でも、安心して。最初はレストランだ ったんだけど、その後、ライブハウスに変わったの」 私は、腹立たしくなってきた。 「マイクはそれについて、何と言っているんだ」 「彼? 全然。好きなようにしたらって」 「そりゃないだろう。嫁さんになる大事なひとを働かせておいて」 「でもね、パパ。ライブハウスで、ウエイトレスしながら、あたし、客 層の研究していたの。どんな曲や歌い方が、リゾート地のここでは受け のるか。そのうち、歌わせてもらえるチャンスがあるだろうって。意外 にも、勤め出して1週間もしないうちに、ヴォーカルの一人が急病にな って、代役探しで、みんなアタフタしているの」 エミが、笑った。 「”あたしが代わりに歌ってあげようか”っていったら、みんなが気狂 い女が現れたというな目付きをしたのよ。一応、ニースでは名前の通っ たライブハウスだから、当然だよね。たまには、ビートルスなんかもく るのよ。それで、あたし、一発、かましてやったの。”あんたたち、あ たいを知らないのかい? 日本じゃ、これでも名の通った歌手なんだよ。 大勢のフアンだっているんだよ。困っているなら、素直に、あたいに任 せてみたらどうなの。あんたたち、男だろ。それでも、金玉を2つもっ てるのかい。ひとつ足りないんじゃないのかい”って」 私は、エミにすごまれている男どもを想像して、笑い出した。 「びっくりしただろうなあ。おとなしくて、いつもニコニコしているだ けの可愛い子ちゃんと思っていたら、突然、豹変して」 「そう、目を白黒させていたわ。そのうち、リーダー格のひとが、まあ やらせてみようや。なあ、みんな、どうだ。1回くらいならいいだろ。 代役もいないことだし、ステージに穴をあけるよりはましだろうし」 「ふーん、それで、どうだった」 「大成功!その晩は最高に盛りあがった」 「へえ、そりゃ見たかったなあ」 「パパ、いい話しがあるの。歌いはじめてから、ちょうど一週間後、リ ンゴスターがふらりと遊びにきたの。連れと一緒にライブを聞きにきた のね、あたしのステージが盛り上がったので、彼、舞台に飛び乗ってき て、一緒に”イエスタディ”を歌ったわ。まあ、大変、盛りあがったの なんの。最後になったら、みんなが肩を組み合って、一緒に歌ったのよ。 涙を流しているひともいたわ。やっぱり、リンゴスターは、スターだわ。 すごかった」 「そりゃ、すごい。聞きたかったなあ」 「テープがあるのよ。誰かが気を利かしてとっさに採ってくれたのね。 それを持ってるわ。最近は、モナリザの代わりに目覚ましにしてるの」 「マイクは何といっている?」 「お前には敵わんってこぼしているわ。でも、最近、ようやく本格的に 書きはじめたみたい。目つきがちがってきたもん」 また、私の出版者としての血が騒ぎ出した。 「マイケル・ダグラス、待望の復帰第一作、アメリカの再生。筆者入魂 の書き下ろし。早くも、ニューヨーク・タイムス、ベストセラー・リス トで、ナンバー・ワン」 売りだしのコピーまで浮かんだ。これで、経営が軌道に乗ること間違い なしだ。 「エミ、マイクに代わってくれないか、どんな作品なのか聞きたいから」 「Dad、まだ半分も行っていないんだ」 「題名くらいは、決めたでしょう」 「アメリカン・ドリーム、あるいは、リ・インカーネーション・オブ・ アメリカ。ある大学教授の自己解体と再生の物語なんだ。どっちがいい か迷っている。Dadなら、どちらがいい?」 「そういわれても困るな。アメリカン・ドリームのほうが、読者層は、 広がるだろうな。でも、もうすこし内容を教えてくれないと、何ともい えない」 「結びは、もう頭の中にあるんだ。主人公は、妻を殺し、キャバレー歌 手、チェリーを愛しはじめる。その黒人の恋人と喧嘩して、彼女の愛を 獲得する。ところが、その後、チェリーは人違いであっけなく殺されて しまう。傷心の主人公は、放浪の旅に出る。西部の砂漠の真中にきて、 ふと電話ボックスをみかける。それで、中に入って、チェリーを呼ぶ。 すると、死んだチェリーの可愛い声がする。長電話になるんだが、その せりふの最後は、こうなんだ。”さようなら、あなた。... 月が出てい るわ。月があたしのお母さんね”」 「面白そうだね」 「終わりがいいだろう。自分では気に入っているんだ。リサは、もうひ とつパンチに切れがないっていうんだが」 また、後ろから、スタッフの声がした。 「社長、亜津子さんがかんかんに怒っていますよ。僕の伝えかたが悪い のじゃないのなんて、いわれてしまいました。折角、亜津子さんとの間 に築いた信頼関係を壊さないでくださいよ」 私は、指を1本出して唇にあて、スタッフの耳元に口を近づけ、小さ な声で命令した。 「大事な商談中なんだから、本当に後にしてくれないか」
私は、決心した。 「マイク、その本、気にいった。私の会社で出版させてくれないか?」 マイクは、しばらく黙っていて、返事をしなかった。私には、彼が渋る 理由が痛いほど分かっていた。もし、この話しをニューヨークの一流出 版社が聞きつけたら、膨大な金額を提示するだろう。私なんか太刀打ち できるはずはない。私が有利だとすれば、一番乗りということと、エミ の父親ということだけだ。何といっても、エミがマイクを立ち直らせて 書かせたのは大きい。 マイクがいつまでも黙っているので、私は苛立った。交渉事は、条件 を小出しにするのが普通だが、ここは最初から、できうる限り、最大の 条件を出して、誠意をみせよう。 「マイク、勿論、払うものは払う。契約書に、支払い不履行の場合の ペナルティ条項を盛りこもう。何なら、前払いにも応じよう」 ようやく、マイクの声がした。 「Dad,そんな心配はしないでいいよ。今度の本の出版は、どっちみ ち、あなたにお願いしようと思っていた。ただ、ひとつだけ条件がある」 よくある手だ。その気にさせておいて、実は一番、難しい条件を最後 に出すという手だ。やはり、マイケル・ダグラス級になると、一筋縄で はいかない、手ごわい相手だ。 エミの声がした。 「マイク、パパに意地悪しないで、早く条件をいいな。パパを困らせる なら、後でお仕置きするからね」 私は、また、涙が出そうになった。やはり、持つべきものは、娘だ。こ れまで、何もしてやれなかったのに、こまやかに気を遣ってくれる。 「Dad。頼みがあるんだ。でも、リサがいると、言いにくいな」 「エミ、すまんが、男同士の話し合いをしたいそうだ。しばらく、席を 外してくれないか?」 「何よ、変なこと言って。でも、まあいいわ。ほかでもないパパの頼み なら」 マイクがしゃがれ声をひそめて言った。 「実は、条件というのは、毎朝、目覚まし代わりに、イエスタディをか けるのをやめてほしいんだ。何とかならないか。うまくリサを説得して くれないか。穏便に頼む」 私は、笑い出した。笑いが止まらなかった。マイクは、エミがそんなに 恐いのか。 「いいとも、あ安い御用だ。しかし、結婚する前から女房の尻に敷かれ ているとは、マイク、君も気の毒な男だな」 「いやあ、まいっているんだ」 エミの声がした。すぐ戻ってきたのだ。 「マイク、あたしの悪口を言っていなかった?」 「いや、エミのおかげで、また長編小説が書けるようになった。心から 感謝している。エミは、すばらしいグル(導師)だ」 「ウソばっかり。顔に書いてあるわ。パパ、マイク、パパに何を頼んだ の?」 私は、エミには正直に言うことにした。 「いや、たいしたことじゃない。マイクは、イエスタデイをモナリザに 戻してほしいんだそうだ」 「なあんだ、そんなこと。馬鹿ねえ、マイクったら。直接、あたしに言 えばいいのに」 「エミ、いくら自分が正しくても、旦那さんに限らず、ひとをぎりぎり まで追い詰めてはいけないぞ、ロクなことにならない」 「ふーん、パパもたまにはいいこというね。喧嘩の仕方、知ってるじゃ ん。マイク、いいよ。明日からモナリザに戻そうね」 その後、エミは沈黙した。何やら、不気味な感じがした。マイクも、 私も、何も言えなかった。 再び、エミの声がした。何か企らんでいる時の甘ったるい声だった。 「ねえ、マイク、マントンで結婚式を挙げたあと、太陽の散歩道をジョ ギングしましょうね。あそこは、プロムナード・デ・ザングレよりも、 距離が短いそうだから、いいでしょ?」 マイクの声が急に明るくなった。電話口から笑みがこぼれてくるようだ った。 「いいとも、お安い御用だ。しかし...変だな」 「分かっちゃったか。その代わり、マイク、毎日、きちんと書くのよ。 あたしがいない間、さぼったり、書いているふりをしていてはダメよ」 「Dad,リサったら、いつもこうなんですよ。まるで、高いところか ら46時中、監視されているみたいだ。私の立場を察してください。い や、リサ、君は、ほんとうに、いいグルだ」 「マイク、グルというよりも、、日本には、もっと適切な言葉がある」 「Dad、何っていうんだ?」 「God of Mountain(山の神)」 「へえ、ゼウスみたいなものか。全能の神の」 「日本は山の多い国なんだ。山の神は高いところから、いつも、すべて を見ている。それに、山の天気が変わりやすいように、山の神も、ころ ころと価値判断の基準を変える」 「は、は、は。あたっている」 私は、出版契約成立で、うきうきした基分になっていたので、冗談を 重ねた。 「What she want no one resist」 「は、は、は、は、は」 マイクの笑い声が湧きあがった後、ピシャという音がして、笑い声が止 んだ。 「マイク、パパとふたりで、あたしのことを馬鹿にしたね。その罰で、 マントンからイタリア国境まで走りなさい」 「ひやあ」 「せいぜい2キロよ」 二人のやりとりを聞いているうちに、私は、久しぶりに、心から愉快に なっていた。 スタッフの甲高い声がした。 「社長。笑ってる場合じゃないでしょ。亜津子さんが、ヒステリックに 叫んでいますよ、あんた、首筋をつかんで、浩之さんを電話口まで引き ずってらっしゃい」 スタッフの声が聞こえてしまったらしく、マイクの愉快そうな声がした。 「Dad,そっちにも、山の神がいるようだね」 亜津子が長い間、待っているのは分かっていた。しかし、私はしばらく 動かなかった。動けなかったのだ。 脳裏には、ひとつの映像が浮かんでいた。エミとマイクが、コート・ ダジュールの明るい陽光の中を海辺の散歩道を連れだって、ジョギング している光景である。イタリアへ、太陽の国へ。イタリア民謡「オー・ ソーレ・ミオ」の力強い歌声が響いてきた。私の太陽であり、希望の星 でもあるエミ。マイクと一緒に、眩しいほどの幸わせに向かって、走り 続けておくれ。
第8章 宝石箱の秘密
怖れていた通り、亜津子は、カンカンになっていた。電話口から、湯 気が漏れてきそうだった。 「電話が終わったのに、何故,すぐ出ないのよ、あたしが何度も呼んで いるのに」 のっけから、強い口調だった。太陽の散歩道をエミとマイケルが走って いる。そんな夢をみていたなんて、とても言えるような雰囲気ではなか った。 「予想以上に、電話が長引いた。JANNEにつかまってた」 「あなた、私が何度も緊急の用件だっていったのに、聞えなかったの。 そんなにJANNEと話すのが楽しいの? 盛んに笑い声をあげていた そうじゃないの」 スタッフが亜津子に叱られて、電話の実況中継をしていたらしい。私 は、舌打ちして、内心つぶやいた。あの馬鹿が。余計なことをしゃべり やがって。それに、笑ったのはエミやマイク相手で、JANNEとでは ない。JANNEの話しは、私のおかげで、自殺未遂に追いこまれたと いう深刻なもので、勿論、亜津子にそのまま話せるような内容ではなか った。 私が返事ができなかったのを、亜津子は認めたと思ったらしく、冷え 冷えするような声になっていた。 「やっぱり、JANNEとの間は、続いていたのね」 「ちがう、亜津子。話しがややこしくなるから、後でゆっくり話し合お う。ところで、君のほうの緊急の用件というのは、何だい」 「重原さんからの電話なの」 「重原? なあんだ。そんなもの、放っておけよ」 「あなた、あれだけ世話になって、よくも、そんなに冷たいことがいえ るわね....。あなたって、うわべは優しそうなのに、一皮むくと、冷た いのね」 「おい、おい、いくら何でも、そんな言い方をするなよ。重原は、父の 手先だから、昔から大嫌いなんだ。それに、この前、君のクレオパトラ の楽屋にヒヒ爺を連れてきたと聞いてから、一層、嫌いになった。それ で、急ぎの用件というのは何だい?」 「重原さんは、わたしの上司だったのよ、わたしの恩人なのよ。随分、 助けてもらった。だから、困っているのを助けないっていうことはない でしょ」 「そりゃ、君の立場としては、そうかも知れないが...」 「重原さんが困っているということは、私が困っているということなの。 だから、あなたも、そのことを分かってくれなくては」 亜津子の用件というのは、何でも重原のお供しているヒヒ爺の会長が、 せっかくニューヨークに来たからには、一度、クリスティーズのオーク ションというものを覗いてみたい。いい絵があったら、買ってもいい。 そういいだしたので、駐在員と下見に行った。そうしたら、何と、あの 宝石箱が目録に載っていた。どういう経緯で、流出したのか知りたい。 室生文子の大事な形見だ。もし、盗品と証明できれば、クリスティーズ は、目録から外すといっている。そうでないと、明日、オークションに かけるらしい。重原が、今、ここで売ってくれというと、係員が重原の 身なりをみて、薄ら笑いを浮かべて、いくらくらいの品物と思いますか と聞いたそうだ。宝石の入っていないただの箱だから、せいぜい、10 00ドルくらいかというと、とんでもない、最低80万ドルはしますよ。 何しろ、ティファニーが作った宝石箱は、この世の中に、ひとつしかな いのですから。重原が青くなっていると、駐在員が助け船を出した。会 長に泣きついたらどうですか。”掘りだし物だ”と吹聴すれば、会長な ら飛びつきますよ。早速、戻って、会長に報告すると、”宝石箱か”と 興味を示した。どうせ、銀座の彼女にプレゼントするに決まっている。 それでも、海外に流出するよりは、まだいい。滞在は、明日までなので 今夜中に盗品なのか、あるいは、浩之くんが売りに出したのかをはっき りさせたい。 亜津子は、一気に事情を話すと、少し落ち着いてきて、いつもの口調 に戻った。 「それで、浩之さん、お願いがあるの。あれ、確か、エミが化粧箱にい いって持っていってしまったと言ってらしたわよね。スタッフのひとが エミの行く先が分かったらしいって言ってたから、そのホテルの場所、 名前、そして電話番号を教えて頂戴。重原が直接電話するって言ってい るから」 「ああ、ようやくエミの居場所がわかったよ、これで、この前、君と一 緒にコンコードで買った指輪が送れる。送り先の住所や電話番号は聞い たよ。えーと」 私は、執務室にメモを取りに行って、いそいで引き返した。途中で、そ の宛先には、今はまだ宿泊していないことを思い出した。 「あのね、亜津子」 「いいから、早く言って。早く」 仕方がないので、マイクに教わったホテルの住所と電話番号を教えて、 それは明日からの宿泊先だといいかけたところで、電話が切れてしまっ た。すぐ、折り返し電話をしたが、話し中だった。 しばらくして、亜津子から電話があった。今度は、電話口から湯気で はなく、熱湯が吹きこぼれそうだった。 「あなた、ウソ言ってるわ。何故なの? そんなに重原さんが憎いの? 重原さんがかけたら、そんなひとはいませんと言われたって。一体、ど ういうことなのよ」 「さっき、君に明日からとまる宿だって言いかけたら、電話が切れた。 すぐ、電話したけれど、話し中だった」 「どうして、そんな肝心なことを先に言わないのよ。ビジネスの基本で しょうに」 「すまん、すまん」 「謝まってばかりいないで、すぐに今、宿泊しているホテルを教えてよ」 「すまん、名前は聞いたけど、電話番号は聞かなかった」 「何やってるのよ、1時間も電話しているのに、肝心なことひとつ聞け ないで。じゃ、名前だけでいいわ。こちらで調べるから、確かニースだ ったわね」 「うん、ニースだ。間違いない。名前は、何っていってたかなあ。えー と、エカテリーナ、いや、カリーナだったっけ、とにかく、エミは、マ イケル・ダグラスと安宿に泊まっていた」 私は、彼女を安心させようと、実態を報告したつもりが、逆効果にな った。 「何ですって?あの女たらしと?」 「彼は、女たらしじゃないよ」 「馬鹿ねえ、あなたは人がいいから、もう丸めこまれたのでしょう。あ ああ、エミも心配だし、宝石箱は、売れてしまいそうだし..あなたって いうひとは...」 電話がガチャンと大きな音で切れた。亜津子が、受話器を叩きつけたら しい。
私は、スタッフを呼んだ。彼は、私の顔付きをみて、ぎょっとしてい た。顔面蒼白だったのだろう。 「キミ、すまんが、ニースのホテルの電話番号を調べてくれないか。ホ テルの名前は、カリーナ、それから、エカテリーナだ」 「社長、どうやって調べたらいいのですか。ニースなんか行ったことも ないし...」 「指示待ち族め」 私は、怒鳴りつけようかと思ったが、感情を押さえて、助言した。興奮 すると、ロクなことにならない。 「そうだな、いつも使っている旅行会社にでも聞いてみたら」 「あっ、そうですね。カテリーナですね」 この馬鹿もん、2つ名前を言ったはずだ。ちゃんと聞いていないのか と怒鳴りつけようとして、気付いた。 「そうだ、カテリーナだ」 「えっ、社長、僕、聞き違えましたか?」 「いや、いいんだ。ありがとう」 執務室に戻った。これで、亜津子との仲もお終いかもしれない。しか し、亜津子の怒るのをみたのは、これがはじめてだった。エミが、ママ は殴り出したら止まらないのよといったときは、冗談かと思って、本気 にしなかったが、あれは本当だった。山の神が起こす雷鳴のような苛烈 さだった。それにしても、女の気持は、天気のようによく変わる。とく に、亜津子は、魔物だ。父無し子、平凡な工場の事務員、大企業の会長 秘書、エミの母親、パチンコおばさん、クレオパトラを演じる名女優、 そじて、私の恋人。 「そのどれが、本当の亜津子なのだろう?」 電話が鳴った。亜津子だ。間違ったホテル名を教えてしまっている。 受話器に触ったら、今度は、感電しそうだった。 私は、しばらく、間をおいてから、受話器をそっと取って、消え入るよ うな声で言った。 「はい、浩之です」 「Dad,どうしたんだい。元気がないようだが。さては、さっきの山 の神に叱られたのか?」 マイクだった。クラーク・ゲーブルの声だった。私は、いっぺんに元気 になった。 「ああ。天、われを見捨てず。いま、どこにいる?」 「ノーコメント。....実は、ホテルの外からかけているんだ。あの後で、 カテリーナに戻って書きはじめたんだが、いいラスト・シーンを思いつ いたので、電話したくなった」 「ははーん、マイク。また、サボっているな。エミに言いつけるぞ。と ころで、エミは、今、どこにいるのかなあ?」 「例のライブイハスウだ」 「やっぱり、鬼のいぬ間の洗濯か。エミに至急連絡を取りたいが、その ライブハスの電話番号を教えてくれいないか?」 「いま、手元に手帳を持っていないから、分からない」 「マイク、頼むから、すぐホテルに戻って、調べてくれないか。あっ、 その前にカテリーナの電話番号は分からないか?」 「カテリーナか、こっちのほうは、簡単だ。覚えている。でもなあ、リ サには、職場に電話するなといわれている」 「電話は、こちらからするから、心配しないでいい」 「Dad,頼むよ、私から聞いたといわないでくれ。冗談、冗談、でも Dad、あなたが気に入ったよ、結婚式には間に合わないだろうが、こ っちに来ないかい?」 「行きたいのはヤマヤマだが、仕事が手放せない。あなたとエミと、J ANNEとその連れ合いも誘って、5人で、イタリアまで足を伸ばした いなあ」 「Dad、恐ろしいことを思い出させるなよ。イタリアまで走っていく なんて、想像しただけで身震いする。今から憂鬱なんだ」 「クルマで行けば、いいじゃないか。文明の利器がある」 「そう願いたいところだ。エミがウンと言ってくれればなあ」 その時、スタッフが飛んできた。 「亜津子さんからです」 私は、マイクにまた山の神からだといって、電話を切った。スタッフが 手渡してくれた受話器は、生暖かかった。しかし、亜津子の声は、冷え 冷えとしていて、受話器がすぐにも凍りつきそうだった。 「あなた、ホテルの名前、また間違っていたわ。カリーナも、エカテリ ーナも存在しなかったわ」 「ごめん、動揺していたので、言い間違えた。亜津子、本当に、ごめん」 亜津子は、いつもの声に戻って、つぶやいた。疲れ果てた様子だった。 「本当は、カテリーナでしょう。重原さんが、気をきかして、似たよう な名前のホテルも調べてくれたので、分かったの。でも、”お客様は、 おふたりとも外出中です”っていわれたそうよ。重原さん、がっくりし ていたわ。”もういい、もう間に合わない。残念だが、宝石箱はあきら めよう。それにしても、浩之くんは、せっかく母親の残してくれた遺品 をどうして大事にしないのかなあ。そうか....浩之くんは、父親だけで はなく、母親も嫌いだったのか。そういえば、文子さんのお葬式にも来 なかったなあ。文子も、可哀想な奴だ....”わたしが、”どうして、そ んなに宝石箱にこだわるの? お金が欲しいの?”って聞くと、”いや なに、いまに、お前にも分かるよ”と言って、慌てて電話を切るのよ。 変よ、私のこと、重原さん、一度も”お前”なんて呼んだことなかった のに。あなた、何か、思い当ることない?もし、知っていたら、今度こ そ、はぐらかさないで、教えて」 私は、思いつくこともないので、黙っていた。 「あなたって、冷たいひとなのね。....さよなら、私がとっても好きだ ったひと」 電話が静かに切れた。耳を済ませたが、それっきり何の音もしなかった。 受話器から、血が流れ出しでくるような気がして、私は、しばらく受話 器をみつめていた。
私は、執務室に戻っても、受話器をぼんやり眺めていた。亜津子の「 さよなら」が、フランス語でいう”AU REVOIR”なのか、それ とも”ADIEU”なのかを思いめぐらしていた。前者は、”また、お 会いしましょう”だが、後者は、”永遠にお別れしましょう”という意 味になる。そうだったら、大変なことだ。しかし、どう楽観的に考えて ても、亜津子の声のトーンからすると、後者だった。すると、私は、亜 津子にふられたことになる。大変だ。本当に、大変なことになってしま った。 私の心の奥深いところで出血がはじまっていた。裕紀が死んでしまっ た。もう二度と会えない。父も母も死んだ。そして、いま、亜津子も、 いなくなろうとしている。それにしても、亜津子の態度は何だ。なぜ、 もう少し電話を待ってはくれなかったのか。私が重原を嫌いだと知って いるのに、何故、その話題を何度もわざわざ持ち出すのだろう? しかし、冷静に考えてみれば、亜津子のせいではない。すべては私の せいだった。スタッフが、何度も、長電話の最中に、亜津子さんから電 話ですと言ってきた。それを無視した私が悪かったのだ。いくらエミや マイクとの話が面白かったにせよ、一旦切って、亜津子の用件を聞いて から、かけ直せばよかったのだ。そうすれば、エミに直接宝石箱のこと も聞けたはずだ。 そして、亜津子の怒りに火に油をそそいだのが、私の重原への態度だ った。確かに、重原には世話になった。留学も、葬式も、みな重原が手 配してくれた。今にして思えば、JANNEに会えたのも、重原のおか げだった。父の指図だったにせよ、いそがしい父に代わって、人選をし たのは、おそらく重原だったのだろう。 そうだ、亜津子が、怒るのも不思議はない。亜津子を下請工場の事務 員から大会社の会長秘書に拾いあげたのは、父だったかも知れないが、 立派な秘書に仕立てあげたのは、上司の重原だった。そうでなければ、 周囲の羨望やいやがらせの中で、亜津子に秘書など勤まるはずはない。 そして、亜津子とエミの生活を支えたのも重原だろう。そういえば、生 活資金はどこから出ていたのだろう。父が破産して、亜津子も会社をや めて、エミの養育に専念していれば、収入なんかゼロのはずだ。退職金 だって、勤務年数も少ない女性となれば、すすめの涙だから、1年もも たないだろう。パチンコの稼ぎで、すべてまかなっていたはずはない。 亜津子の言っていた「重原さんが困っているということは、私が困っ ているということなの。だから、あなたも、そのことを分かってくれな くては」という言葉を軽視しすぎた。亜津子を愛するということは、亜 津子が世話になったひとを受け入れるということでもあるのだ。亜津子 の喜びだけを盗むのではなく、亜津子の心配事をともに引き受けるとい うことなのだ。しかし、私は、亜津子が「変よ、私のこと、重原さん、 一度も”お前”なんて呼んだことなかったのに。何か、思い当ることな い?もし、知っていたら、今度こそ、はぐらかさないで、教えて」と、 必死にすがりついてきたのに、拒否した。黙っていた。ひとこと”いま 急にいわれても思い当らないけれども、そういえば、変だな”と答えて おけばよかったのだ。ああ、何って俺は馬鹿な奴だ。 「我は、刃にして傷なり」 不意に浮かんだボードレールの詩の一節だった。そうだ、私は被害者だ ったかもしれないが、加害者でもあったのだ。亜津子は私を傷つけたが 私も亜津子を傷つけたのだ。ふたりとも、傷ついたのだ。 部屋は、しーんと静まりかえっていた。スタッフは恐れをなしたのか 近づいてこなかった。来れば、怒鳴り散らされると思っているのかも知 れない。怒りのやり場がどこにも見当らなかった。電話が目についた。 それにしても、この電話にも責任がある。電話が悪いのだ。この電話さ えなければ、こんなことにはならなかった。電話のおかげで、誤解が拡 大して、亜津子が去っていってしまったのだ。直接話しあっていれば、 見つめ合い、あるいは手をぎゅっと握ることで、すぐに誤解が解けたは ずなのに。 電話が悪い。便利な道具だが、クルマが”走る凶器”なら、このおと なしそうな顔をしている電話は、”話す凶器”だ。 「この馬鹿もん」 私は、受話器を執務机から持ちあげ、床に叩きつけようとした。持ちあ げた時、電話が悲鳴をあげたような気がした。呼び出し音だった。今後 は、こんな奴とは、一切、付き合わないぞと思った決心が、早くも崩れ て、反射的に受話器に耳を当てていた。亜津子だ、「さっきは、ごめん ね、浩之さん」 「パパ? マイクから電話があったわ。”職場に電話しちゃダメって 言ってあるじゃないの”って言ったら、パパが電話しろって言ってるか らだ。何だか、とても急ぎの用事らしい。それで電話したの、急ぎの用 件でなあに?」 もう、急ぎの用件などなかった。 「エミ、亜津子さんに振られてしまった。どうしたらいい?」 「パパ..あきれたひとね。あたしがラスト・ステージの出番を前に緊張 しまくっている時に、ママに振られたどうしよう。それって、いい大人 のすること? 切るわよ」 その時、急に思い出した。もともと宝石箱のことでマイクに電話を頼 んだのだった。 「そりゃ、そうだな。すまん、すまん。エミ、切らないで、よく聞いて くれ。お前がもっていったあの宝石箱が原因なんだ。オークションに出 るらしい。あれ、どうした? 誰かにやってしまったか?」 「宝石箱? ああ、あの化粧箱ね。もっと使いやすいのをマジソン街で みつけたから、いまは使っていないの、多分、ニューヨークのスタジオ に置いてあると思う。もしかしたら、茶髪のあいつが持ってったのかも 知れない。欲しそうな顔をしてたから」 「その”茶髪のあいつ”に、至急、連絡したいのだ」 「茶髪のあいつねえ。今、どこにいるかしら。東京に帰っているかも知 れない、そうだ、あたしがいなくなれば、ゴーイング・アウェイも自然 消滅だから、腹イセに質屋にでもっていったのかもしれない。あいつな ら、やりかねない。暴走族あがりだから」 「連絡先はわからないか?」 「電話番号は、覚えてないけれど、東京のプロダクションに聞いたら、 ナベプロ。有名だよ」 「ありがとう、忙しいときに。エミのステージの成功、そして明日のい い結婚式を祈るよ。行けなくて、とても残念だけれど」 「ありがとう、パパ。....あのね、ママは、お腹が減っていると猛烈に 不機嫌になるひとなのよ。お腹いっぱい食べると、反省するひとなの。 長年のつきあいで、分かってるの。どうっていうことはないよ。心配し ないでいいよ。じゃあね、バーイ」 私は、受話器をいとおしそうに眺めてから、そっと元の位置に戻した。 電電公社の総裁が見ていたら、さぞかし喜んだことだろう。
私は時計をみた。夕食時までは間があった。亜津子は、まだ食事をと っていないだろうから、お詫びの電話をかけるのは、時期尚早かも知れ ない。 私は、ドアを開けてスタッフを呼んだ。ドアがキュッとしなった。こ のドアも、そのうち、もう少しいい材料に代えなければならない。電話 での話し声がみな筒抜けになってしまう。 「キミ、ご苦労さん。今日は長い一日だった。もう帰っていいとみんな に言ってくれ」 スタッフが、私の顔色をじっと見ていた。エミの電話のおかげで、青 ざめた顔にやや赤みが差しているはずだった。ところが、彼は、私の顔 色にろうそくの最後の輝きを認めたのか、執務室の中をぐるっと見回し ていた。物騒なものが置かれていないのを確認すると、安堵の溜息をも らした。私が傷心のあまり自殺でもすると思ったのだろうか。それにし ても、これから自殺しようとする人間が、拳銃、睡眠薬や首吊り用のロ ープなどの道具を見やすいところに置いておくわけがない。私は笑いな がら言った。 「心配しないでいい。亜津子の電話は、こたえたけれどな。長電話のお かげで、キミにも、すまんことをした」 スタッフたちが去ると、部屋には私ひとりになった。 しばらくたってから、クラクションの音がした。あるいは亜津子か仲直 りにでもやってきたのかと思って、立ちあがって窓から見下ろしたが、 迎えにきた男に会釈して赤いクルマに乗りこんだのは、このビルに勤め る女性だった。 「これから長い夜を、ひとりで過ごすのか、たまらんなあ」 私は、そうつぶやいて、”さて、これからどうしようか”と考えた。亜 津子と毎晩デートするようになるまでは、夜の時間をもて余すなどとい うことはなかったのだ。 しばらく我慢してから、亜津子に電話した。 「外出中です」と若い女性の声がした。 座るのにもあきたので、執務室をゆっくり亜津子の歳の数だけ周回した。 そして受話器を取って、ダイヤルを大急ぎで回した。やはり、和解は、 早いほうがいい。 「麻野亜津子さんをお願いします」 「麻野さんですか。しばらくお待ちください」 先程とはちがう若い女性の声だった。しばらくして、同じ声がした。 「麻野さんは、誰からって聞いておられます」 「室生です」 長い間、誰も出てこなかった。私は、受話器を耳にぎゆっと押しあてて、 すべての物音を聞きとろうとしたが、無駄だった。 ようやく電話に先ほどの若い女性の声がした。 「麻野さんは、室生様の電話はこれからも一切取りつがないようにと申 しております」 麻野さんは食事を終えているかと聞き返そうと思っている間に、電話は がちゃんと切れてしまった。 私は、じっと執務室の椅子に座りつづけた。その間、あたりが薄暗く なり、暗くなり、そして夜がやってきた。窓辺に立つと、赤い月がみえ た。 「この長い夜を、お月様と一緒か、まいったなあ」 何もかもがイヤになってきた。この狭い汚い執務室、私のちっぽけなビ ジネス、しがない中年男の人生。マイケル・ダグラスも、睡眠薬を飲ん で、放火したときは、こんな心境だったのだろうか。マッチもライター も手元にあったが、睡眠薬はなかった。そんなものを飲まないでも寝つ けるほうだった。ベッドに入れば、バタンキューのほうだ。まあ、これ まで、あまり苦労しないで済んできたせいだろう。 私は、ライターを手にとり、カチッと鳴らした。ついた炎をじっと眺 めた。炎は、私の揺れる心を代弁しているかのようだった。いっそ、こ のビルの屋上から身を投げてやろうか、それとも、事業を投げ出して、 ここを引き払って、ひとり放浪の旅に出ようか。どこがいいかなあ。エ ミとマイクのいるコ−ト・ダジュールがいいが、ハネムーンの邪魔にな るだけだ。さしあたりは遠慮したほうがよさそうだ。アラスカもいいか も知れない。荒涼としていて、今の心境に合うだろう。それより、マイ クの新作の最後に出てくる西部の砂漠のほうがいいかも知れない。ラス ベガスで有り金を全部使いはたしてから、交通事故で死ぬという手もあ る。うん、それが一番よさそうだ。 私は、財布を取り出して中身をみた。100ドル紙幣が1枚と200 ドル紙幣が5枚あるだけだった。もちろん、カードがあるから、不自由 はしない。しかし、ラスベガスで有り金を全てはたくというほど、残高 はない。せいぜい、数千ドルどまりだろう。豪遊というからには、10 0万ドルはほしいところだ。そんなカネがあるはずはない、こんな貧乏 人に。 「100万ドル」 どこかで聞き覚えのある言葉だった。そうだ、たしか、マイクが言って いた。マリリン宛てのラブレター代わりに書いた”君自身のための広告” の原稿について話していだ時の言葉だ。 「クリスティ−ズなどで競売にかければ...一声、百万ドルか」 そうだ、マイクの原稿のほうは燃えてしまったが、私には宝石箱がある。 たいして欲しいとも思わないできったが、こういう場合、100万ドル となれば、話しは別だ。 「彼に電話してみよう」 すっかり忘れていたが、1年ほど前に、クリスティーズの特集記事を書 いたことがある。その時、知りあった若い鑑定士がいた。彼と一緒に、 クリステイーズで、これまでに扱った日本画家を落札金額順にランキン グを作成した。1位、藤田嗣治、2位 横山大観、3位 杉山寧。 それ以下の画家の名前は忘れてしまったが、記事は好評で、クリスティ ーズでは、日本人客が増えたと喜んでくれた。あの鑑定士の名前は、何 といっていたっけ。名刺がそこらに残っているだろう。幸い、そういう 経緯で、彼には、貸しがある。 早速、電話した。お目当ての彼がすぐ出てきた。 「あっ、室生社長、ちょうどよかった。いま、お電話しようと思ってい たところでした、宝石箱のことで。さきほど,怒って帰っていった老人 が、社長のお名前を出して、盗品だとまくし立てていましたが、やはり 社長がよくご存知の方ですか?」 その老人というのは、どうやら重原らしい。 「そうだ、重原というひとではないか?それにしても、偶然だね。あの 赤い宝石箱のことで、僕のほうもちょうど電話しようと思っていたとこ ろだった。あれは、確かに、僕の持ち物だ。母の遺品だ。少し調べたの だが、持ち出して、売り払った奴は、どうも娘の友達のようなんだ。ナ ベプロに所属じていて、ゴーング・アウェイというバンドのメンバーで 茶髪のやつらしい」 「そうですか。実は、私どもが入手先に聞いてみたら、背の低い小肥り の若い日本人で、髪の毛は茶色だったといっていました。どうも同じ人 物のようですね。名前は偽名で、連絡先の電話番号もいいかげんなもの でした。店主は、おかしいとは思ったようですが、100ドルならいい と気軽に買い受けたそうです。ところが、私が100万ドル以上はする と言ったので、真っ青になっていました。警察には、ご内聞にと頼まれ ました。 「アンチーク・ショップには、盗品がしょっちゅう持ちこまれているよ うだね」 「それはそうと、お電話したのは、その宝石箱についてですが....電話 じゃ、話しにくいなあ」 「さっきから、宝石箱の話しばかりしてきたじゃないか」 しばらく、沈黙があった。私に電話で打ちあけようかどうか迷ってい る様子だった。 「室生社長、お忙しいところ、まことに恐縮ですが、私どものところに いますぐ、ご足労願えませんか。こみいった話なので」
クリスティーズは、パンナムビルの25階にあった。このビルは、パ ン・アメリカン航空所有のビルで、パークアベニューをさえぎって建て られている。パンナムが経営不振なので、近く売却されるという噂もあ るが、何しろ場所が分かりやすい。私の事務所からもそう遠くはない。 夜のラッシュ時が終わったせいか、タクシーで10分足らずで着いた。 私は、このビルから飛び降りたら、さぞかし交通渋滞がひどくなるだろ うと思った。 ブロンド美人が会議室に案内してくれた。ほかのフロアは、オフィス 然としているのに、さすがクリステx−ズが借りているフロアは、内装 が違っていた。かつて、裕紀と過ごした屋敷のような感じがしないでも ない。ヴィクトリアン・スタイルというのだろうか。調度品も選り抜か れた趣味のよいものが置かれている。会議室は、目をみはるほど豪華で 中央にマホガニーか何かの高価な材質で出来たオーヴァルの大きなテー ブルがあって、そのまわりには10人ほどのひとが座って、私を待って いた。 私は、中央の席に案内してくれた鑑定士に囁いた。 「こりゃあ、おおごとになっているね」 彼は、この会社ではヒラ社員なのか、うなずくだけで、返事をしなかっ た。たしかに、お偉方が大勢いるような雰囲気だった。中央の席に座っ て、みなを見渡すと、私は、大企業の会長になったような気分を味わっ た。父も、自分の会社で、こんな感じに座っていたのだろうか。 、彼の上司と思われる剥げ頭の剃刀のように鋭い目つきをした男が、み なを紹介した。いろいろな部門の長だった。仕入れ、鑑定、修復、保管 販売、海外部門、広報、そして弁護士もいた。日本人と思われる女性ス タッフもいた。亜津子を若くしたような観じの女性だったので、会議中 難しい話になると、私の視線は、どうしても彼女のほうに向かってしま うのだった。亜津子とどうやって和解したらいいのだろうか。電話がダ メとなると、手紙かファックスか、それとも間に誰か立てるか。 宝石箱の一件は、クリスティーズの内部では、どうやら大問題になっ ているようだった。すでに、カタログには載せてしまっている。盗品と 判明して、当日になって取り下げるのは、避けたい。一番望ましいのは 正当な持ち主である私が、オークションへの出品を承認してくれること である。問題は、私が母の遺品を手放すかどうかにある。経済的に困っ ているとか、よほどの事情でない限り、通常、ひとは遺品を手放さない。 ここは、初対面のマネージャーよりも、私と面識のある彼のほうがい いと判断したらしく、マネージャーは、概略説明を終えると、彼、名前 はボブ・アンダーセンだった、に代わった。 「室生社長、無理なお願いということは重々承知しておりますが、何と か私どものオークションに出品していただけませんか」 正直な気持をいうと、手放すのが惜しくなっていた。もともと、掘り 出した時は汚れていたので、ただの宝石箱と思っていた。男の私には、 宝石箱などは無用の長物だった。だから、エミが化粧箱代わりにもって いっても、気にもとめなかったのだ。しかし、盗まれたとなると、取り 戻したくなるのは、人情である。100万ドルはすると聞くと、さらに 将来さらに値が上がるのではないかと思う。ほかのオークション会社で せりにかければ、もっと高い値で売れるかもしれない。 私は、全員が固唾をのんで、私の答えに注目しているのを感じた。そ の時、ちらっとあの亜津子に似た若い女性が、金のネックレスをしてい るのが、目に入った。そうだ、お詫びの印に亜津子にネックレスを買っ てやろう、前にバラの花束を送って、大変喜ばれた。そうだ、赤い宝石 箱を売れば、大金が手に入る。そうすれば、ティファニーの中2階にあ るという、VIP用の部屋に入れる。そして、ふたりで、ネックレスを ゆっくりと選ぼう。 「ねえ、浩之さん、これ似合う? どう? ても、こちらもいいし。ど うしようかしら」 「いいじゃないか、両方、買ってやるよ」 「うれしい、浩之さん、大好き!」 我ながら、ばかばかしいと笑ったのを承認と受け取ったのか、マネージ ャーが、言った。 「諸君、よかった、よかった。夜分遅く、お集まりいただいて済まなか ったが、これで一件落着。ご苦労さま。では、これにて会議は終了」 私は、さえぎった。 「ちょっと、待ってください。私は、Yesと言っていませんよ」 マネージャーが、凄い目つきでボブをにらんだ。何だ、お前、話しがつ いていたのではないのか? だから、俺が会議を召集したのだ。それを 今頃になって何ていうことだ。俺の顔をつぶしやがって、お前、何やっ てんだ、という顔つきだった。ボブはすくみあがっていた。気の毒に、 こんないやな上司をもって。 私は、もう少し、この嫌なマネージャーをいじめてやろうと思った。 亜津子に似た若い女性と会った途端に別れるのも、心残りだった。どう せ、家に帰れば、ひとりぽっち。ヒマを持て余しているのだから、会議 を続けさせてやろう。 「一度、宝石箱をみてから、考えたい」 「そりゃ、室生社長のいわれる通りだ、ボブ、すぐお持ちしろ」 変わり身の早い男だった。こういう社内遊泳術に長けた奴が、どういう わけか、決まって早く出世するのだ。 私の前にボブが宝石箱をもってきた。ところが、緊張しているせいか 隣に座って、椅子を斜めに引いて、私に話しかけた上司の椅子の足につ まずいて、彼は、ものの見事に転倒してしまった。投げ出された宝石箱 の蓋が弾けとんだ。壊れたのだ。 「馬鹿、何をやってるんだ」 マネージャーは、蓋がはじけとんだ宝石箱の本体を拾った。私は、蓋の ほうを拾った。ボブは真っ青になって、立ちすくんでいた。 マネージャーが起きあがって、ひとりを呼んだ。 「キミ、ちょっときてくれ。これ、直せるか? すぐに直せるか?」 背も顔もひょろ長い中年のくたびれた感じの男が、ゆっくりと近づいて きた。亜津子に似た若い女性も近づいてきた。いい香水の匂いがした。
間近でみると、彼女は、もっと亜津子に似ていた。妹かも知れない。 私は、立ちあがって、宝石箱の修理を指示されたひょろ長い男に、席を 譲って、宝石箱の蓋を手渡した。マネージャーは、席に座ったまま、横 柄に宝石箱の本体を男に手渡した。男は、軽くうなずいて、修理に取り 掛かった。みな、私よりも宝石箱に関心があるようだった。 私は、宝石箱よりも彼女に関心があったので、彼女のほうに向き直っ た。 「失礼ですが、お名前は?」 「は? あ、矢沢菜穂子と申します」 彼女は、下を向いた。その角度だと、もっと亜津子に似ていた。 「室生社長、このひとですか?」 彼女は、辞書のような小型で分厚い本を開いていた。その赤く塗られた 綺麗な爪先が、小さな写真を指さしていた。その指の美しさにみとれて いた私は、質問の意味が分からなかった。 「えっ?」 「宝石箱をマジソン街のアンティーク・ショップに持ちこんだ青年です」 何で、彼女がそんなことまで知っているのかと思って、ボブを見ると、 頷いた。さっきの電話の話しがもう彼女に伝わっているのだった。本の 活字は小さいので、覗きこむ姿勢になった。彼女の横顔が間近に迫り、 柔らかい髪の毛が、はらりと私の頬に触れた。 私は、彼女から本を受取って、目をこらして免許証写真風のさえない 顔を見つめた。 「そうだ、この青年だ。一度、娘と一緒に練習しているのを見たことが ある、それにしても、よく分かったね」 私は、本の奥付けを改めた。1966年版 タレント年鑑 発行 芸能 ニュース社。 「へえ、こんなものがあるの?」 「そうですよ、オークションでは、最近、若い日本のミュージシャンた ちのグッズもよく出品されるようになりましたから」 私は、索引を探した。人名、グループ名、そしてプロダクション名で分 類されている。よく整備された索引があるということは、芸能ニュース 社がいい仕事をしているということだ。 「あっ、エミが出ている」 ダンシング・アウエイというグループ名で探すと、いくつかのページが 出ており、そのひとつのページをめくると、エミの顔写真があった。卵 形の顔で、唇をちょっと突き出して、こちらをにらんでいる。 矢沢菜穂子が覗きこんできた。また、長い髪の毛が私の頬に触れた。 「あら、夏目エミ、ご存知ですか?」 「ご存知も、ご存知ないもないよ。娘だもの。こんな芸名がついている とは知らなかったが」 彼女の髪の毛が、私の頬に触れたままになった。私は、年甲斐もなく、 ドギマギした。 「父、室生浩之、出版社経営。母、麻野亜津子、女優。えっ? 社長、 麻野さんの旦那様でいらっしゃるのですか? ほんとう?」 彼女のあげた黄色い声で、みなが宝石箱から私たちに視線を移した。 マネージャーが歩みよってきて、本を彼女から取り上げ、目を通した。 日本語なので興味を失ったらしく、彼女に事情を聞いた。彼女は、麻野 亜津子の夫が私という事実をいま発見したところだと説明した。 「Atsuko Asano? Oh! Cleopatra?」 彼の表情が俄かに崩れた。ほとんど好色といっていいほど、目を細めた。 笑うと、火一倍高い鼻の先が震えた。明らかにユダヤ系の鼻だった。 彼は、アポロ劇場で上演されている「クレオパトラ」を見た。あの絶世 の美女がミスター、ムロオのワイフだとは全く知らなかった。この女優 の夫は、世界一幸福な男だとうらやましく思ったものだ。まさか、ここ で、ご当人にお目にかかれるとは思わなかった。彼は、大袈裟に、私の 手を握りしめ、肩を叩いた。 「ミスター、ムロオ。どうですか、決心がつきましたか? 宝石箱は、 まもなく直ると思うから、安心してください。精一杯、高く売ります。 あなたのワイフも満足されるように、努力します。このラッキー・ボー イめ!」 彼は、拍手し、全員の賛同を強制した。 私は、タレント年鑑の記述が間違っている、エミの母親は裕紀だし、亜 津子には絶交されたばかりだ言おうとしたが、もう、そんな雰囲気では なかった。エライひとたちが、私のほうをみて、ニコニコさせられてい た。マネージャーは、上機嫌で、鼻を天井に向けて大笑いしていた。 私は、日本語で、菜穂子に囁いた。 「キミの鼻の高さはちょうどいいが、彼の鼻がもう少し高かったら、天 井にぶつかるだろう」 菜穂子がクスッと笑った。 直ちに、高級レザーの表紙にはさまれた契約書が、私の前に置かれ、 私はあっという間にサインをさせられていた。サインし終わると、にわ かに空腹を覚えた。 「ああ、腹へった」 マネージャーがキッとなって、菜穂子に、いま彼は何を言ったのか、契 約に不満なのか?と質した。 「室生社長は、契約にサインしたら、満足したあまり、急に高級レスト ランに行きたくなったと言っておられます」 上機嫌に戻ったマネージャーは、また、天井に向かって大笑した。 「お安い御用だ。私は、これから先約があるが..、どうしようか。そう だ、ボブ、ミスター・ムロオをどこか高級なレストランに、ご案内しろ そうだ、NAOKO、キミもご一緒しろ」 彼は、千両役者のように、手を振ると、みなを残して部屋を出ていった。 途端に、残された全員が、冷ややかな目で、その後姿を見送っているの が印象的だった。
レストランに向かうタクシーの中で、ボブが言った。 「室生社長、申し訳ないのですが、私,会社に戻ります。明日のオーク ションの準備で、やることが山のようにあるし。実は、夕食もすませた し...」 「そりゃあ、残念だね。じゃ、無事、宝石箱が売れたら食事でもしよう。 ところで、キミのほうは、いいんだろう」 矢沢菜穂子が慌てていった。 「じゃ、私もこれで失礼します」 「矢沢さん、頼む、社長の相手をしてくれよ。ディーターに油を絞られ るから。じゃ、社長、また今度。運転手さん、そこで止めて、交差点を 渡ったところで」 ボブは、街の喧騒のなかに、風のように消えてしまった。 私は、拍子抜けした。ボブがおごってくれないとなると、高級レスト ランに乗りこむ元気がなくなっていた。 「じゃ、僕らもこの辺で降りようよ」 降りたところは、五番街の55丁目だった。6番街のほうに抜ければ、 いくつかの日本料理屋がある。 「すしでも食べよう、それなら、いいだろう」 しょげていた矢沢菜穂子も、寿司と聞いてうなずいた。 鬼が島は、満員だった。何人か外で待っている客もいた。なじみの女 将に談判して、入口近くのカウンターに席をとることができた。矢沢菜 穂子は、この店がはじめてだったらしく、店内をしきりに見渡していた。 「鬼が島って、めずらしいな名前ですね」 「一遍で覚えるだろう」 矢沢菜穂子が日本酒がいいというので、彼女の希望を聞いて秋田錦にし た。彼女は、酒豪だった。頬が赤く染まって、会社とは違って、和風の 色気がある。秋田美人かも知れない。やはり、日本人女性はしっとりと しているほうがいい。酒や料理の注文を受ける若い女性従業員は、みな 和服を着ていたが、東南アジアの出身なのか、アクセントだけでなく、 動作もどこか洗練さを欠いていた。 すしをつまみながら、矢沢菜穂子の身の上話しを聞いた。彼女は、 秋田から東京に出て、同級生と恋に落ち、同棲し、別れた後に、NYに やってきて、何とか、いまの職にありついたらしい。 「でも、いまの会社,辞めようかと思っているのです」 「どうして? いい会社じゃないか」 「ディーターのせいです。あの人が来てから、みんなやる気をなくして いるのです」 「だって、たかがマネ−ジャーだろう。社長に言って辞めさせてしまえ ばいいだろうに」 「あの人、社長がスカウトしてきたのです、社長の甥で、いずれ社長に なるのです」 「そうか、キミもいろいろ苦労しているんだなあ」 だいぶ打ち解けてきた時、矢沢菜穂子が、杯をあげた。 「桃太郎さんに、乾杯」 「何で、私が桃太郎さんなんだ?」 「だって、金銀財宝ザックザクでしょ」 「よせやい、貧乏会社の社長を相手に」 「あの宝石箱が売れれば、億万長者。いいなあ。それだけあれば、世界 中どこへでも行ける。クイーン・エリザベス号に乗って世界一周もでき るし、南の島で一生のんびり暮らすこともできる... 宝石だって、好き なひとにたくさん買ってあげられるし...」 矢沢菜穂子は、私の肩に頭を乗せて、ささやくように歌った。 「でも、やっと分かった。人生に勝ち負けなんてないの。もうどうなっ てもいい、愛さえ、あれば...」 私は、どきっとした。最近の若い女性は積極的だときいていたが、知り あって1時間も経たないうちに、愛の告白とは。 「桃太郎さんに、乾杯!」 矢沢菜穂子は、また、さっきの歌をハミングしだした。隣に座っていた 若い女性客が、彼女に話しかけた。食事中に歌う無作法へのクレームか と思って、私は、聞き耳を立てた。 「それって、夏目エミの曲じゃない?」 「そうよ」 「あたし、最近、そのレコード買った。あの子、すてきね」 「何だって?」 私は、矢沢菜穂子の腕を軽く人差し指で突いた。触ってしまってから、 気づいたが、剥き出しの二の腕は弾力的で、すごくセクシーだった。し かし、彼女は、私のほうを振り向かずに、言い放った。 「桃太郎さんには、関係ないの。だって、もう、いいひとがいるんだか ら」 そして、となりの女性との話しに専念している。 「ねえ、夏目エミの新曲は、絶対ヒットするって思わない?」 「そうよ、いまはヒット・チャートで25位だけど、絶対、ベストテン 入りすると思うわ」 「ミリオンセラー間違いなし」 「そうよ、そうよ。乾杯!」 矢沢菜穂子がトイレに立った後、私は若い女性に、夏目エミについて 取材した。最初は、へそ出しルックで踊ったりして、変な子と思ったが そのうち、性格がサッパリして、曲もビートがきいていて、詞の内容も 同感できるので、好きになったということだった。 「いまでは、夏目エミに、はまってます」 ”はまってます”という表現にも、どきりとしたが、最近の娘たちにと っては、どうっていうこともない言葉なのだろう。私は、もうオジサン で、とても彼女たちの話しにはついていけなかった。若い若いと思って いたが、彼女たち若い世代からみれば、私なんて化石みたいなものだっ た。化石ならば、人畜無害。こちらは触られると、どきどきするが、相 手のほうは、触ろうと何しようと、何とも思っていないのだ。何しろ、 こちらは化石人間なのだから。 矢沢菜穂子が席に戻ってきて,立ったまま、私の肩を揺さぶった。 「桃太郎さん、大変、大変」
私は、一瞬、悪い知らせかと思って、ぎょっとした。今日は、長い一 日だった。平穏に終わってほしかった。幸い、矢沢菜穂子の声の調子か らすると、悪い知らせではなさそうだった。 「一体、何だっていうんだ。やぶから棒に」 「桃太郎さんのよく知っているひとがいますよ」 誰だろうか? まさか先程まで商談していたディーター・シュトラーゼ ではあるまい。彼ならば、矢沢菜穂子は、いやな顔をするだろうから。 それ以外のひととなると、仕事関係で、いろいろな著名人に会っている から、誰だか特定できない。矢沢菜穂子も、私も、ともに知っている著 名人となると、皆目、見当がつかなかった。 「その方、2階の奥のテーブルにおられます」 私は、椅子の背にかけておいた背広を羽織って、彼女の後について、急 な階段を上っていった。見上げると、ミニ・スカートをはいた彼女の形 のよいお尻と長い足が、露わにみえた。 矢沢菜穂子が言った。 「そんなにジロジロ見上げていると、奥様に言いつけますよ、桃太郎さ ん」 私は、足を踏みはずして階段から転げおちそうになった。 たしかに、亜津子だった。窓際の席に、私のほうに背を向けて男性と 話し合っていた。よくみると、相手はシーザー役の俳優だった。名前は とっさのことで思いだせなかったが、芸能新聞などでは、亜津子と恋仲 と書かれたこともあった。ガサネタよ、と亜津子が言ったのを聞いたこ とがある。 しかし、ここで亜津子に出会うのは、奇遇だ。 ”今後一切電話を取りつがないで”といわれたばかりだった。どうやっ て連絡しようか、思いあぐねていたところだから、こんなに好都合なこ とはない。ニューヨークには、日本料理店は、そう数多くないから、鬼 が島で会うのも、そう不思議ではないのかも知れないが..。 しかし、こんな遅くにディナーとは、気の毒なことだ。やはり亜津子も 何かと忙しかったのかも知れない。それとも、私との一件もあって、食 欲が起きなかったのかも知れない。 、 さて、どうやって、切り出したものかと躊躇していると、矢沢菜穂子 は、私を階段近くに置き去りにして、つかつかと亜津子の座っている席 に歩み寄って行った。バッグから手帳とボールペンを出して、サインを ねだっている。亜津子は、矢沢菜穂子の手帳にサインをした。 終わったところで、矢沢菜穂子が、何か言った。それに対して、亜津 子は、相手役の俳優と顔を見合わせて、微笑んだようだった。矢沢菜穂 子が、また何か言った。亜津子が、振り向いた。大輪のひまわりのよう な華やかな微笑が、私を認めると、たちまち氷の微笑に変わった。 引き返すわけにも行かず、私は、亜津子たちのテーブルに近づいてい った。 「今晩は。亜津子がいつもお世話になっています」 私は、亜津子のほうを見すに、俳優と目を合わせてから頭を下げた。 「いやいや、こちらこそ。ごめんなさい。秋の公演のことで、困ったこ とになったので,,,亜津子さんをお借りしています」 「いや、偶然ですね、ここでお会いするなんて。クリスティ−ズと商談 の打ち合わせをしてきたところなのです。このひとは、日本人顧客の担 当なのです」 私は、矢沢菜穂子を、いそいで紹介した。亜津子と喧嘩した後、早速、 別の女性とデートしていると勘ぐられても困る。 矢澤菜穂子は、読心術の天才らしい。私と亜津子の気まずい関係を読 みとって、すぐ助け船を出してくれた。ハンドバックから、先程のタレ ント年鑑を出して、夏目エミの写真を亜津子たちにみせた。 「ほう、夏目エミさんって、あなたのお嬢さんだったのですか?」 俳優が、目を丸くして、大きな地声で言った。 隣のテーブルにいたカップルの若い日本人女性が、その声で振り向いて 亜津子のほうをみた。 「あらっ」 連れに何事かをささやいた。立ちあがって、サインをねだりにきた。 「あたし、夏目エミさんのフアンなのです。お母様ですって? ほんと うは、すっごく、エミさんのサインが欲しいのですけれど..」 俳優が、笑ってたしなめた。 「そういう言い方は失礼だろう、麻野亜津子さんに向かって」 麻野亜津子という言葉を聞いて、今度は、連れの男の方が反応した。 「麻野亜津子さんですか? うわぁー、ラッキー。僕、クレオパトラを 3回も見ました。ああいう人となら結婚してもいいと、マジで思いまし たよー」 連れの女性が、”馬鹿”といって、彼をぶった。 その時、店の従業員が階段を上ってきて、叫んだ。 「矢澤菜穂子さん、いらっしゃいませんか? 会社からお電話です。 デイーターさんからです」 私は、何で、居所がわかるのかと一瞬、思った。思い当った。先程トイ レに行ったときに、矢沢菜穂子は律儀に会社に電話をしたのだ。 しかし、ディーターは、よくひとを働かせる男だ。それにしても、今頃 緊急の電話とは、一体何事だろう?
矢沢菜穂子が、電話から戻ってきた。私を亜津子たちのテーブルから 少し離れたところに呼んで、小声で告げた。 「室生社長、ディーターから、会社に戻ってきてくれといわれました」 「それは、ご苦労さん」 「それで...室生さんも、引っ張ってこいと言われました」 「そりゃ,乱暴な話しだな。何か、あったのか?」 「何も話してくれないのです。企業機密を電話で話せるか、そんなこと もキミは分からないのかって、叱られました」 「でも、お客様に、すこしは事情をお話しなければ..来ていただけない のではないですかと言ったら、しぶしぶ、実は、手紙が出てきた、それ だけ言えば、あいつは来るだろう。ごめんなさい。ありのままにお話し てしまって」 「いいんだ、いいんだ、心配するなって。行くから。ディーターにとっ て、他人は、みな”あいつ”扱いなんだろうさ」 矢沢菜穂子は、私の冗談に笑わなかったが、ほっとした表情をみせた。 私は、亜津子のところに報告に行った。 「あの宝石箱から手紙が出てきたそうだ」 「誰の? 誰宛ての?」 亜津子が喧嘩以来はじめて口をきいてくれたのは、救いだったが、また してもまともな答えが出来なかった。 「よかったら、キミも一緒にきてくれないか?」 「だめよ。いま、大事な打ち合わせ中だから。何かあったら電話して。 重原さんに連絡しなければならないから」 私の顔に喜びの表情を認めたのだろう。何しろ、電話を解禁にしてくれ たのだから、喜ぶのは当然だ。亜津子が付け加えた。 「そうね、間に入って振りまわされるのは、こりごりだから、何か問題 があっら、直接、重原さんに連絡してくれない?」 私は、がっかりした。ぬか喜びだった。あっという間の国境封鎖だった。 「でも、あなた、重原さんは、もう日本に帰る飛行機の中よ。ちょっと 待ってね、新しい勤務先の電話教えるから」 パンナムビルに向かう短い移動の間、私は亜津子との短い会話を反芻 していた。亜津子は、口をきいてくれた。あとひと押しだ。矢沢菜穂子 が何かしゃべったようだったが、聞いていなかった。 「いま何っていった? ごめん、考えごとをしていたので、聞きもらし た、すまん」 「室生さんて、奥様に頭があがらないみたいね。いつも奥様を困らせる ようなことをしていらっしゃるのではないですか?... さっき話しかけ たのは、ここに近く移転するみたいよ、って言ったの。でも、企業秘密 を漏らすなって叱られそうだから、やめておくわ」 「そう意地悪しないで、どこだったか、言ってくれよ」 「もういいの、通りすぎたから」 私は、あるいは、ロックフェラービルかなと思った。スケート場があっ て、毎年、シーズンになると、巨大なクリスマス・ツリーが飾られる。 エンパイア・ステートビルとならんで、ニューヨークっ子に愛されてい る建物である。 「ロックフェラービルだろう。ディーターが社長になったら、人心一新 で、移転しようというのだろう」 矢沢菜穂子は、うなずいたようにみえたが、こう言った。 「ノーコメント」 クリスティーズの入り口には、ブロンド美人はいず、デイーターが、 ひとり、いらいらしながら、私たちを待っていた。彼は物もいわずに、 執務室に私を連行した。部屋には、ボブとあのひょろ長い修理係がいた。 宝石箱がディーターの高価なデスクの中央に鎮座していた。 「からくりを見せてやってくれ」 おいおい、契約書にサインすると、もうお客様ではないのか? そうイ ヤ味を言おうと思ったが、からくりへの興味が優先した。 修理係の男は、蓋を外した。 「あれっ、まだ修理していなかったのか?」 私は、ボブに言った。ボブは、首を振った。首が転げ落ちなかったとこ ろを見ると、あの失態でも、首はつながっていたらしい。むしろ、いま のボブは得意そうな目つきだった。 修理係は、蓋の留め金部分を回した。すると、留め金がせり出してく るではないか。ネジになっているのだと私は思った。3センチくらい出 てくると、途端に蓋がぱっくり二つに割れた。私は、モーゼが紅海が真 っぷたつに割れたときに似た感動を味わった。二重底というのがあるが、 この場合は、ニ重蓋になっていたのだった。 「おお」 私は、賛嘆した。すると、そこから青いティファニーの封筒が現れた。 「おお」 父が現れた。父が現れたようなものだった。何しろ、父の愛用していた ティファニー・ブルーの封筒なのだから。私は、一瞬、あの夏の日に戻 っていた。脳裏に浮かんだのは、赤い郵便受けのそばに立っていた裕紀 だった。悠紀は、青い封筒の中身もみずに、真っ二つに引き裂いて、地 面に落として、踏みにじり、かぶっていた麦藁帽子をぬいで、地面に叩 きつけ、それも青い封筒と一緒に踏みにじっていた。 私は、封筒を開いて、そのなかにある便箋を開いた。そこには、ただ、 浩之へという言葉と、なつかしい母の筆跡で、次の和歌が書いてあるだ けだった。 「白金も 黄金も玉も 何せむに まされる宝、子にしかめやも」 ディーターが、それこそ、鼻高々で言った。 「ミスター、室生、喜んでくれ、からくりのおかげで、これは高く売 れるぜ。何しろ、ファベルジェがロマノフ王朝のために作った秘宝のよ うなものだからな。これまで考えてきた値段の10倍にはなる。あんた も、バッチリ儲けられる。こっちも、あんたのおこぼれにあづかれる」 彼は、宝石箱のほうを、あごでしゃくってみせた。 私は、宝石箱を取り上げ、胸にしっかりと抱くと、ディター・シュト ラーゼに向かって、ゆっくりと言った。 「気が変わった。これは、大事な私の過去だ。私の子供のようなものだ。 子供を他人に売り渡すことはできない。契約は破棄する。いいだろう?」 ディーターが顔面蒼白になった。次に、真っ赤になって、私の胸倉に つかみかかった。私は、冷ややかに彼をみて、諭すように言った。 「あなたにとっても、からくりの存在が判明したことで、まったく状況 が変わったのではないのか? もし、あなたが契約を盾にとって、オー クションを強行するなら、クリスティーズは、ロクに商品を調べもしな いで、オークションをやっているとマスコミに告発するよ。あなたは、 社内では、実力者であるかも知れないけれど、お客からみれば、そんな ことは関係ない。ひとたび、信用を失えば、あなたの帝国なんてあっと いう間に崩壊するが、それでもいいのか?」
その夜は、興奮していたせいか、なかなか寝つけなかった。浅い眠り が続いて、何度か夢をみた。夢というのは、いいもので、私は亜津子に 花束を贈り、電話をし、デートの約束を取りつけ、売れた赤い宝石箱の 大金を手にして、ティファニーの中2階に行っていた。壁一面にはめこ まれた無数の引き出しを覗きこんで、亜津子が、目を輝やかせながら、 たくさんの宝石を選んでいた。私は、それをすべて使い、クレオパトラ がしているような、幾重にも巻いた首飾りを特注していた。 次の夢では、私はディーターと取っ組みあいの喧嘩をしていて、床に 転がっている宝石箱を取ろうと、互いに手を伸ばしていた。私は、ディ ーターをノックアウトした。エミが拍手してくれた。私は、宝石箱を拾 いあげた。箱は、なぜか箱根のおみやげ屋でよく売っているからくり細 工になっていた。木片を動かしているうちに、中から引出しが現れた。 その私の器用な手つきを、矢沢菜穂子とその姉である亜津子、その父親 である重原が3人仲よく頭をよせあってみつめていた。 そこで目が覚めた。われながら、都合のいい奇妙な夢だった。しかし 現実は厳しい。亜津子とは絶交状態だし、オークションをキャンセルし た後、矢沢菜穂子とは一言も口をきかずに別れたのだった。 喉が乾いていた。私は、起きて、キッチンに行って、冷蔵庫からオレ ンジジュースのパックを出し、そのまま、ごくごく飲んだ。外は明るか った。時計をみると、もう朝の8時だった。5時間ほど寝たことになる。 スタッフが早出しているかもしれない。寝室で着替えて、執務室に入っ た。自宅とオフィスが遠い通勤難のひとには、こういうと、恨まれるか もしれないが、私のように、あまり近すぎるのも、問題である。公私の 切り替えに頭がついていかないのだ。 私は、執務室の机の中央に置いてある赤い宝石箱を眺めた。昨夜、こ れは、ディーターの執務室の机の上にあったのだ。それを取り返したの だった。いい気持である。また、時計をみた。8時10分、起きてから まだ10分しかたっていない。今頃、エミはどうしているだろう。とこ ろで、いま、フランスは何時だろう。昼の午後2時くらいか、いや、夏 時間だから、午後3時過ぎだ。結婚式も無事終わったかなあ、まだ、記 者会見が続いているかもしれない、あるいは、終わったあと、マイクが 親しい記者に囲まれて、ホテルのロビーあたりで雑談しているかも知れ ない。電話をかけるにはまだ早い。行きたかったなあ。エミやマイクと 一緒に、イタリア国境までジョギングをしたかったなあ。 時計をみた。8時20分だった。スタッフは、まだ出社してこない。 私は、執務室の机に足をのせたまま、夢想を続けることにした。目の前 に宝石箱があった。こいつを取り戻してしまったから、大金をもって、 ラスヴェガスのホテルに泊まり、カジノで豪遊することもなくなってし まった。砂漠で交通事故死することもなくなった。まあ、生き延びたわ けだ。よかったといえば、よかった。しかし、いつものように、平凡な 忙しい一日がはじまる。昨日は、いろいろあったから、その分、やり残 した仕事が多い。私は、未決の書類が山積みになっている決済箱を眺め た。 父の室生悠一郎も、赤い宝石箱と決済箱を交互に眺めたりしたことが あったのだろうか? 書類の山を眺めて、ため息をつき、ふと、宝石箱 に目をやり、しばらく、その箱に採用したからくりのことを考え、にん まりとしたこともあったのだろうか? ティファニーに平凡なからくり を頼むのも、もうひとつ面白くないな。箱根の寄せ木細工のようにつく らせてみたらどうだろう。そんなことを考えたりした時もあったのかも 知れない。 私は、足をひっこめ、手を伸ばして、赤い宝石箱を手にした。すると あのひょろ長い顔の男が浮かんだ。彼がやってみせたように、蓋を外し て、留め金部分を回してみた。3センチくらい出てくると、やはり蓋が ぱっくり二つに割れた。ニ重蓋である。よく出来ているなあ、私は、あ らためて感心した。母の手紙が入っている青い封筒を手にとって眺めた。 父がこのからくりを披露したとき、母は何といっただろう。きっと、大 喜びしただろう。 そのとき、”あなた、私をよくも裏切ったわね”という光景が頭に浮 かんだ。あれは、誰に聞いた話だっけ。そうだ、亜津子だ。重原からの また聞きだった。もしかすると、母は、父に「あなた、ひとりで悦にい ってらっしゃるけれど、つまらないからくりねえ。世界のティファニー ならば、もっといいからくりを考えついてもいいのじゃない?」なんて 言っていたかも知れない。 「社長、お早ようございます」 例のスタッフの明るい声がした。宝石箱はしまって、仕事に戻らなけれ ばならない。しかし、スタッフは、めざとく宝石箱をみつけた。 「あれっ、ここに、あるじゃないですか。戻ってきたのですか? 同じ 奴ですか。あれっ、壊れている」 「馬鹿いえ、蓋を外すと、二重蓋が現れる仕掛けになっているんだ」 「へえ、面白いですね」 彼は、二重蓋を手にとって、あちこちいじり回しはじめた。 私は、彼がこの宝石箱の値段を知らないのを思い出した。100万ド ル、いやいや、からくりがあるから、その10倍の1000万ドルはす るとディーターが言っていた。円に換算すると、いま、1ドルは360 円だから、えーと、3億6千万円、いや36億円になる。 「おい、おい。高価なものだから、大事に扱ってくれ、そんなに乱暴に 引っ張ったりしないで...」 「社長、大丈夫ですよ、ぼく、これでも中学時代、図画工作が得意科目 だったんですから」 「だめ、だめ、もうそれ以上いじらないで、こっちに寄越すのだ」 そう言いかけて、私は息を呑んだ。スタッフは、2重蓋の中から小箱を 引き出しかけていたのだった。 しかし、もっと私を驚かせたのは、そこに髪の毛と折りたたんだ紙切 れが入っていたことだった。そして、紙切れだけは、何とかスタッフの 手から取り戻して、開いてみた。私が黙って読んで、読み終わっても、 そのまま何も言わないので、スタッフは不審に思ったらしい。 「何ですか、それ? 社長!」 私は、答えなかった。答えるべき筋合いのものではなかった。それは、 母の遺書だった。
「浩之、これは3回目に書き直しをした遺書です。書き直す毎に、あ なたに残す品物が減っていきました。いまは、もう、この赤い宝石箱く らいしか手元に残っていません。男のあなたにあげても、しょうがない ので、考え直して、あなたが愛しているただひとりのひと、そう夏野裕 紀さんに差しあげることにしました。でも、裕紀さんはいいいました。 「とても、いただけません。高い喘息のお薬をいただいているだけでも ありがたいと思っているのに、宝石箱なんて..お気持だけ、いただいて おきます。これは、やはり浩之さんのもの。浩之さんにあげてください」 私は、強引にお願いしました。 「あなたにあげる。でも、あなたに、もしものことがあったら、浩之に あげて頂戴」 「そうね、おば様。お預りするだけなら、いいわ」 私は、ほっとして、念を押しました。 「そうね、万一の時には、お願いよ」 最初の遺書を書いた頃、この宝石箱は、お父様におねだりした宝石で あふれていました。あなたの10歳の頃よ。覚えているかしら? あな たに一度、持たせてあげた時のこと? あなたは、宝石箱が重たくて、 よろよろしてたわ。 私と夏野夕貴さんとは、高校時代の同級生でした。室生悠一郎、夏野 紀一郎、原田綾子、そして私の4人は、なぜか、気が合う仲間でした。 4人でよく一緒に遊びにいきましたが、私と夏野紀一郎、原田夕貴と室 生悠一郎がカップルでした。私は、小さい頃から他人がもっているもの が欲しくなるクセがあったので、原田夕貴が恋している室生悠一郎のほ うがいいように思うようになりました。私は、経験豊富で、男の気持の 引きつけ方を知っていたので、室生悠一郎を手に入れるのは、簡単でし た。カップルは入れ替わって、私は、狙った通り、室生悠一郎と結婚し 室生文子になりました。その後、原田夕貴は、夏野紀一郎と結婚して、 夏野夕貴となりました」 私は、父と夏野未亡人の会話を思い出した。私たちがいると、丁寧な 言葉遣いになるが、いない時には、二人は、まるで学生同士のような気 のおけない会話をしていた。漏れ聞いて、不思議に思ったこともあった っけ。 「あなたも生まれ、室生悠一郎の事業も順調で、すべては夏の日のひ まわりのように輝いていました。お父様は、後継ぎができたといって、 あなたを人一倍可愛いがり、幼い頃から、工場や研究所の視察に連れて いきました。”忙しくて、君のお相手ができなくて、すまん”と言って、 洋行する毎に、ティファニーで宝石を買ってこられました。宝石がいっ ぱいになったので、入れる箱が欲しいというと、お父様は、”君は、金 食い虫だなあ、こんなことなら、君の誘惑に屈しないで、夕貴さんと結 婚すべきだった”なんて、軽口を叩いておられました。それでも、お父 様は、有り金をはたいて、この見事な宝石箱を贈ってくれました。 「いま、ふりかえると、あの頃が一番幸せな時期でした。宝石を真新 しい宝石箱に入れて、毎日、じっと見ていました。これは、悠一郎の愛 情だ。こんなに、たくさん愛情が溢れている。そう思いました。そのう ち、誰れ彼れの見境なく、私の幸せを見せびらかしたくなりました。あ なたにもみせたし、ライバルだった原田夕貴こと夏野未亡人にもみせま した。 「これ、私が死んだら、浩之に、みんなあげるつもりなの」 そのとき、原田夕貴は、こういいました。 「いいわね、文子。うらやましいわ。そんなにいっぱい宝石を悠一郎さ んからプレゼントされるなんて。やっぱり、私、パートナー選びを間違 えたわ。紀一郎さんは、死んでしまったし....でも、私には、裕紀がい るの。文子、女の子はいいわよ。おしゃれな格好をさせてあげることも できるし、それに、あの娘、とてもいい娘なの。家事も手伝ってくれる のよ。そして、歌を、詠みました。あなたもよく知っている歌よ。 「白金も黄金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」 私は、その時、夕貴のいうように、女の子がとてもほしくなりました。 そうだ、もう一人産めばいいんだわ。そう思いましたが、神様は、私に 子供をそれ以上、授けてはくれませんでした。悠一郎は、忙しすぎて、 ベッドでは、もはや、いい男性ではなくなっていました。色々な強壮剤 を試してみましたが、彼をその気にさせることは出来ませんでした。も はや、彼に期待してもムダだと分かりました。 「第二の遺書に書き直したのは、ひょんなことがきっかけでした。夏 野紀一郎と原田夕貴の忘れ形見だとばかり思いこんでいた裕紀が、実は、 悠一郎と夕貴との間に出来た子供だということを知ったのです。何と、 それを教えてくれたのは、裕紀でした。泣いていました。”おば様、あ たし、愛人の娘なのよ、信じられる?”悠一郎は、あろうことか、原田 夕貴との間に女の子をもうけていたのです。そういえば、気がつきませ んでしたが、”裕紀”なんて、”夕貴”と同じ発音の名前までつけてい ました。私は、夕貴との勝負に負けたのに気づかされました。悠一郎を 取られ、女の子ももっていませんでした。私は、愛情のない男を夫にし 男の子のあなたを産んでしまっていたのです。私の人生って、一体、何 なの? 死んでやろうと決心しました。宝石は、みんな、あなたにあげ るつもりでしたが、とんでもない、半分だけにしよう、あとは、源氏物 語絵巻で有名な徳川美術館が寄付を受けつけるようになったというので 寄付してしまおうと思いました」 「でも、浩之。その時、私が死ななかったのは、自分にも、もしかし たら、女の子がいるかも知れないと思ったからです。はじめて打ち明け ますが、私が産んだ子供は、あなたがはじめてではないのです。大学の 卒業寸前、私は、ダンス・パーテイで知り合ったハンサムな会社員と意 気投合して、そのままラブ・ホテルに直行しました。そじて、妊娠。卒 業記念に海外旅行に行くと両親に偽って産んだ女の子は、相手が処分し てくれました。それっきり忘れていましたが、もし、生きていたら、私 にも女の子がいることになる。夏野夕貴に仕返しできる。相手を呼び出 して聞きましたが、処分したの一点ばりでした。でも、もしや、生きて いるかも知れないと思って、探偵を雇って、ひそかに行方を探させまし た。でも、その時は、みつかりませんでした」 私は、悲鳴をあげた。 「母の子供が、この世の中に、もうひとりいる? まさか。俺に姉妹が いる? 本当かよ、マジかよ? 冗談は、やめてくれよ」 「浩之、私が子供を産んだその相手とは、あなたもよく知っている人 です。あなたのために、骨身惜しまず働いてくれている人。そう、秘書 の重原でした」 私は、アポロ座でみかけた萎びた背の低い老人を思い浮かべた。あの 老人と若い母が結ばれた? まさか....しかし、当時は、重原だって、 若くてハンサムだったのだろう。 「信じられないでしょう。あの人はホモといわれていたのですから。 室生悠一郎に忠実に仕えるので、あのふたりは、男同士だが、出来てい るなんて陰口を叩かれていました。重原は、室生悠一郎を尊敬していた し、そして私を愛していたから、本当によく悠一郎に仕えてくれました。 あんなに忠誠心の高い従業員は、もう、日本には生まれないだろうなん ていう人もいましたが、本当に、そうでした」 「裕紀が悠一郎の娘と知ってから、私は、こんな汚れた偽りの愛情の 徴である宝石なんか、みんな使いはたしてやろうと誓いました。身の回 りの物、旅行、そしてホストクラブ通いなど、有閑マダムがやっている 遊びにはみな手を染めました。ところが、心の渇望は消えるどころか、 ますます激しくなる一方なのに、面白いようにお金が消えていきました。 サラ金にも、追いかけられるようになりました。悠一郎の事業が、傾い てくると、膨らんだ借金で、どうにも首が回らなくなってきました。 「家に飾ってあったルオーの絵が高く売れそうなことに気付きました。 持ち出そうと考えましたが、すぐ気付かれそうなので、模写することを 思いつきました。思ったよりも、模写がよく出来たせいか、悠一郎も、 他の誰も、模写には気づきませんでした。私の切迫した気持が、キリス トの表情に乗り移ったのかもしれません。でも、毎日、贋作と顔を付き 合わせているうちに、キリストににらまれているようで、イヤになって きました。そこで、重原を呼んで、”処分して”と頼みました。悠一郎 には、”あなた、あの絵、いい加減にあきたわ。あなたも、そうじゃな い? セザンヌに代えましょうよ”といって了承を得ました」 私は、目を閉じた。裕紀の屋敷の続き部屋が浮かんだ。そこには、キ リストの受難を描いた1枚のルオーの絵がかけてあった。 「ああ、そうか、本物と思って、盗み出そうと思ったが、あれは母の模 写だったのだ。アメリカから帰ってきたあの夜、続き部屋に忍びこんで 目にしたときに、どうも昔ほど感動しない、何故かなあと思った。そう か、模写だったのか」
私は、3枚目の便箋を開いた。字が少しも乱れていないのが、いかに も母らしい。いつもきちんとした身なりをしていたひとだった。 「第3の遺書が、いま、あなたが見ているこの遺書です。書き直そう と思ったきっかけは、何といっても、悠一郎の事業が失敗したからです。 それこそ、債権者がいなごの大群のように現われました。どこかにきっ と財産を隠しているにちがいないといって、愛人が夏野未亡人というこ とまで探り出して、自宅だけでなく、別荘にまで目をつけて、めぼしい ものを探しはじめました。そうしたら、続き部屋に、ルオーの絵が飾っ てあるのまで、分かってしまいました。 「奥さん、あの絵も差出しなさいよ」 そこで、はじめて、重原に頼んで処分したはずの、あのルノーの絵が、 別荘の続き部屋にあるのを知りました。 「何ですって?」 それを聞いた時、血がのぼりました。悠一郎は、原田夕貴とふたりで、 私が描いたルオーの絵を馬鹿にしながら、不倫していたのだと思うと、 怒りがこみあげてみました。ふたりの会話も思い浮かびました。 「それにしても下手な絵だね、本物とはちがって」 「あのひと、書もやってらっしゃるようだけれど、あまり感心しないわ ね」 「まあ、下手の横好きって奴だ」 日夜、債権者が家に押しかけて、ドアを叩いたり、無言電話や脅迫電 話への応対で、心身ともに疲れ切っていたところでしたから、日頃、冷 静なほうの私も、もう許せないと思って、悠一郎の会社に乗り込んでい きました。悠一郎を殺して一緒に死んでやろうと思ったのです。執務室 で二人っきりになったとき、悠一郎は、「ああ、お前に刺されて死ぬの は、本望だ。さあ、この心臓のあたりを刺してくれ」といいました。シ ーザーがブルータスにいうようなせりふを吐くなと思いました。 でも、その時、ドアをノックして、女性が入ってきました。彼女は、包 丁をみて、たちすくみました。慌てて、彼女が出ていったかと思うと、 重原が飛びこんできました。 「文子、やめなさい」 そうしたら、悠一郎がいいました。 「重原くん、ご覧の通りだ。でも、君も満足だろう、君と文子の間こつ いては、僕が気づいていないと思うか? 子供だっている。君もうすう す気付いているだろう?」 私が、重原と顔を見合わせていると、悠一郎が、私に向かって静かに言 いました。 「文子、さっきの娘だよ」 「あの娘、あの立派な女性が、あの泣き叫んでいた赤ん坊?」 「浩之、悠一郎は、私たちが処分したはずの子供の面倒をしっかりと みていてくれたのでした。分かる? それを知ったときの、私の気持を。 その夜、悠一郎は、自殺しました。私は、号泣しました。ああ、何とい う仕打ちを、彼にしてしまったのだろう。悠一郎さんは、彼なりの流儀 で、 私を愛していたというのに」 「そして、燃やしてしまいましたが、お父様の遺書には、「文子、生 涯、わたしが愛し続けた女性は、あ前だけだった。下手な弁解はしたく ないが、聞いてくれ。原田夕貴との子供である裕紀は、たった一夜、中 秋の名月の夜の過ちがもたらしたおそましい結果だった。あまりの月の 美しさに血迷ったとしか考えられない。許してくれ。それから、あの、 お前が怒っていた続き部屋だが、一度しか使ったことがない、あとは、 封印した。ばあやに聞いてもらえば分かることだ。第一、全く使ってい ないから、カビ臭いだろう」 「浩之、お父様の後を追って、先に行きます。あなたは、もう乳離れ した立派な大人。先のことは、心配いらないでしょう。天国で待ってい ます。でも、こんな私の姿を知って、あなたは「地獄に失せろ」という かも知れません。それでも仕方がないと思っています。 裕紀は、いずれ心臓発作で死にます。犯人は、この私。だって、原田 夕貴と悠一郎との間に産まれた子供が、生きているなんて許せないもの。 浩之と結婚したい? 冗談じゃないわ。どうやったら、殺せるか、いろ いろと考え続けました。そして、JANNEに頼んで、裕紀の喘息によ く利く薬をもらうことにしました。でも、JANNEには、罪はありま せん。だって、外国の人は、体力があるから、多目に飲まないとお薬が 利きませんが、日本人が外国人と同じ分量を服用し続けると、良薬が、 毒薬に変わります。処方箋どおりに、全部を飲むと、強過ぎるのです。 問題は、量と服用期間なのです。ばあやにもいいつけてあります。”こ のお薬、外国で手に入れた貴重なものなのよ。でも、いくらよく利くお 薬でも、きちんと飲まないと、効目がないの。裕紀さんにもそう言って あるけれど、あなたもよく見ていてね” そう、念を押してあります。 だから、私が死んだあとも、ばあやは、いいつけを守るひとですから、 毒薬を裕紀に飲ませ続けるはずです。多分、このことは、お医者さんに も分からないでしょう。もちろん、警察にも。きっと完全犯罪になると 思います。 「さようなら、浩之。これは、あなたのためを思ってやったことでも あるのよ。もっと、いい人と結婚しなさい。あのびっくりして出ていっ た女性のようなひとなら、いいな。名前は、迷惑がかかると悪いから、 ここには書かないことにしますが、重原さんにお聞きすればすぐ分かる でしょうし... あなたが調べても、すぐ分かるでしょう。 今日は、中秋の名月。ほんとうなら、みんなでお団子を食べていたかも、 しれません。いま、お家の高窓から見えるお月様が、とってもきれいで す。泣きたいほど、きれいです」 読み終わって、私は窓の外をみた。昼間のこととて、もちろん、月は 見えなかった。見えるのは、月よりも、冷え冷えとした高層ビルの林立 する風景だった。母か、母が裕紀を殺したのか。
その日は、一日中、仕事が手につかなかった。誰にも会いたくなかっ た。しかし、何故か、人恋しくて、テレビをつけた。最近、ニューヨー クでも見られるようになったNHKの国際日本語放送だった。画面は、 日航機が、大島に墜落したことを報じていた。乗客は、全員絶望とあっ た。乗客の中には、私の好きな歌手の坂本九さんの名前もあった。 スタッフ全員がテレビを見に集まってきた。 「ああ、大企業のエライ人もたくさん亡くなっている」 「知っているひと、いないかな」 「大勢だから、とても、分からないよ、身内でなければ」 アナウンサーは、亡くなった乗客の名前を読み上げていた。それは、 えんえんと続いていた。スタッフは、一通り見ると、仕事に戻っていっ た。 午後になっても、アナウンサーは、繰り返し繰り返し、死亡した乗客 の名簿を読みあげていた。わたしのほうも、ぼんやりと、見つづけてい た。108人ではなく、216人、いや2160人が死んでいったよう な気がしてきた。連理の木を思い出した。そうだった、裕紀が死んだ時 だった。この木は、何千人、何万人ものひとの死を見続けてきたのだと 思ったことがあったっけ。 ひとは死ぬのだ。ひとは、事故によっても、病気によっても、あるい は老衰によって。いずれにせよ、死ぬのだ。そう思うと、少し、気持が 楽になった。しかし、九ちゃんが亡くなるなんて。惜しいことをした。 どういうわけか、いい奴ほど、先に死んで行くのだ。奥さんの柏木由紀 子さんも、大変だなあ、これから幼い子供を抱えて、どうなさるのだろ うか。でも、頑張って精一杯生きていってほしいなあ。死んだら、何に もならないのだから。 すこし、元気になってきて、思いついたのは、亜津子に母の遺書が、 宝石箱から出てきたこと、そこには驚くべき事実が書いてあったことを 伝えることだった。 電話をした。話し中だったが、何度もかけ続けて、ようやくつながった。 女性の声がした。 「室生様ですか? この前、申しあげた通り、麻野は、室生様のお電話 は、取り次がないようにと申しております」 あきらめて、電話を切った。 思いつくことがあって、また、電話した。 「室生様ですか? またですか? ですから、さきほど申しあげたよう に...」 「いや、ちがうんだ。弟から電話があったと伝えてくれ。それだけで、 いい。それならいいだろ?。頼むよ、大事なことなのだ」 「そうですか、それだけなら、一応、お伝えしますが...」 もう、これで亜津子に会うこともないだろう。それでも,一応、気が すんだ。さて、これからどうしよう。さすがに部屋にいるのには、飽き た。そうだ、ルオーの絵でも見に行こうか。時計をみると、午後4時だ った。まだ、メトロポリタン美術館は開いているだろう。 スタッフに外出すると言った。 「どこに行かれますか?」 どこに行く? 人間、生まれた時から、どこに行くかなんて、誰も、決 めていないのだ。破産した父のように、父の後を追った母のように、母 の手で毒殺された裕紀のように、誰だって、行き先なんかわからないの だ。それを聞いてどうする。 しかし、そんなことをスタッフに言っても、詮ないことだった。 「絵をみてくる」 メトロポリタン美術館は、広大なセントラルパークの一角にあって、 五番街に面している。周囲には、著名人の超高級レジデンスが並ぶ。い つ行っても、メトはすばらしい。絵の多いこと。日本の美術館は、たい したこともない絵を大事そうにイ飾るが、ここでは、無造作に名画が並 べられている。置ききれないという感じの展示である。 私は、ルオーの絵を探した。見当らないので、係員に聞いた。彼女は 初老に達していたが、微笑んで、わざわざ、絵の飾ってあるフロアまで 身振り手振りも大きく、陽気に案内してくれた。これも、日本では、ま ず考えられないことだった。 ルオーの絵は、あの絵とはすこし異っていたが、キリストの受難とい うテーマは変わらなかった。私は、この絵が母を狂わせたと思って、見 つつけた。こんなものを何日も、何週間も、模写し続けていたら、精神 に変調をきたすのは当然だ。閉鎖された受難の時間。被害妄想にもなる だろう。はりつけにされたキリストの手から血が流れ出していた。この 血を見続ければ、誰だって、傷つけた者に復讐してやりたくなるだろう。 本当に感受性の高いひとならば、あるいは、復讐心の後に悲しみの感情 を抱くようになるかも知れない。そして最後の最後に、すべてを神の名 において、許すという感情が湧いてくるかも知れないが...。 何時間、立ち尽くしていただろうか。後ろにひとの気配がした。もう 閉館の時間で、係員が注意しにきたのかも知れない。 振り向いた。 「あっ」
亜津子だった。初老の陽気な女性係員もいた。 「あつこ」 亜津子がうつむいて、気まずそうに微笑んでいた。 メトを出て、セントラルパーク沿いの街路樹の下を、プラザホテルの 方向に歩いた。そこまで行けば、地下鉄の乗り場もある。ブランドのお 店も、レストランも多い。途中ふたりとも、一言も口をきかなかった。 どうして、私の所在が分かったのだろう? そうだ、亜津子が電話をしてきたのだ。スタッフが社長は絵を見にいく といっていましたというので、メトと見当をつけたにちがいない。それ にしてもニューヨークの数ある美術館のなかで、よくメトと分かったも のだ。それに、広いメトのなかで、私の居場所がよく分かったものだ。 そうか、亜津子が、あの初老の女性係員に聞いたのだ。私の人相を言っ て。それで、親切に私のいるところまで、案内してくれたのだ。 「伝言は、伝わったかい?」 亜津子は、うなずいたが、口をきいてはくれなかった。先方にプラザ・ ホテルのある賑やかな広場が見えてきた。亜津子がウンといってくれれ ば、あのホテルの由緒あるバーで、ゆっくり話しができるのだが。 黙ったままで、広場に着いてしまった。広場には、観光客をあてにし て、馬車が何台も待機している。 「これから、どうする?」 亜津子は答えなかった。 「....」 われながら、平凡な質問をしてしまったものだ。これからどうする? そんなことを聞いても、もう、どうなるものでもない。 亜津子が、私のほうに振り向いた。ちらっと私の目をみた。久しぶりに 目を合わせたので、どぎまぎして、私のほうは、目をそらせてしまった。 「ねえ、馬車に乗らない?」 明るく弾んだ声だった。 御者は、客がついて、大喜びだった。馬に鞭をひとふり、勢いよく馬 車は五番街を走り出した。思ったよりも、車輪の音やひづめの音が、舗 装道路にこだましてうるさい。買い物にきた観光客が、みんな、私たち を珍しがってみている。 私は、亜津子に話しかけた。 「.....」 聞こえなかったらしい。亜津子が大声で、問い返してきた。 「えっ、今、何っていった?」 馬車は、五番街から今度はゆっくり、セントラルパークのほうに引き 返してきた。前方にある公園の黒々とした樹木群の上に、月が昇ってき た。 私も、大声をあげて、答えた。 「お姉ちゃんって、言ったんだ」 馬車が速度をあげ、亜津子の髪が後ろにふわっとふくらんで流れていっ た。 「知ってたわ」 「えっ?」 「だから....知ってたの」 「何を?」 亜津子に、声が届いていないようなので、私は、振動で亜津子のほうに 身体が倒れたふりをしながら、耳にそっと口をつけて聞いた。 亜津子が、私の頬をさっと撫でた。 「すべてを...重原さんから。あの落ちた飛行機に乗る前に」 前方の月が、真っ赤にみえた。血の色に染まっているようだった。 私は、亜津子の手をぎゅっと握りしめて、囁いた。 「お気の毒に。あの人は、いい人だった。君のお父さんには、ほんとう に長い間、いろいろなことで、お世話になった。いい人だった。信じら れないほどの善人だった。惜しいことをした。繰りかえすが、ほんとう に惜しいことをした」 亜津子が、私の手を握り返し、頭を、私の肩に預けてきた。 「浩之さん、その一言を聞きたかったの....。あのひとのためにも.... パパのためにも。そうよ、パパのためにも、私たち、幸せにならなくて は。でも......、もう二度と会えなくなるのかと思うと、寂しくって」 亜津子の肩が小刻みに震えていた。ここは、何か、言ってあげねばなら なかった。 「君のお父さんは、お月様になったんだ。毎晩、僕らに会いにきてくれ るさ」 亜津子がかすかにうなずいた。今度は、前方の月が微笑んでいるように 見えてきた。私は思った。不思議だな、ひとの心っていうものは、こう も、ころころ変わるものか。亜津子が言っていた通りだ。月は、姿を変 える。いずれは、月給も、変動制になって、スタッフが目を白黒させる ようになるだろう。私が、クスッと笑ったのが分かったのだろうか、亜 津子がたずねてきた。 「浩之さん、なあに?」 「いや、隣にいてこういうことをいうのも、何だが...,。君のことを考 えていたんだ」