なんと1日1日が羽ばたくように過ぎたことよ。 一刻が一刻を追いかけるようであった。 ゲーテ目次
第1章 ジャンとエレーヌ 1 ジャンの帰郷 2 エレーヌ 3 森の小径 4 父親と息子 5 牧師の配慮 6 二人の時間 7 音信不通 8 エレーヌの奇行 9 ジャンの苦悩 10 親友・ポール
第2章 舞踏会 1 サン・バレの春 2 パタージュ氏の企み 3 失意と希望 4 美しい朝 5 似合いのカップル 6 奇妙なカップル 7 舞踏教師 8 赤毛のマドレーヌ 9 ライムライト
第3章 恋人たち 1 美しい午後 2 ポールとエレ−ヌ 3 エレ−ヌとジャン 4 エレーヌとマドレーヌ 5 見知らぬ男 6 ジャン、マドレーヌ、そしてエレーヌ 7 ポールとマドレーヌ 8 恋の炎
第4章 ハッピー・エンド 1 結婚式 2 意外な発見 3 真相 4 告悔室での出来事 5 心理劇の火花
ジャン青年が海岸地方にある家に10年ぶりで帰ってきたのは、春の 日差しが海を明るく照らしはじめた頃であった。 彼は12の年にパリの伯母のところに預けられてから、丸10年という もの父親に会ったことがなかった。 父親のドモンジョ氏は脂肪ぶとりして、10年前にはやってたような 服にお腹を包みきれなくなっていた。 妻をなくして10年前に、1人息子をパリにやった時分には、傾きつつ ある伝統の穀物問屋を立て直すのに一生懸命であった。 しかし、最近商売の方はかなり持ち直してきたので、息子の成功、不成 功は、どうでもよくなった。彼は、息子をきのう一日不在であったかの ように扱った。 ジャンは帰ってくる時には、ポールという男と一緒だった。パリの酒 場でふとしたことで同郷人であることを知って以来、意気投合する仲と なったのである。ポールは、市長のアンドレ氏の息子で、美男子で、頭 もよかった。ただ、性格の点では、兵役時代の友人達から血も涙もない 男と評されていた。ジャンとは不思議に馬が合うというか、心を許す仲 になっていた。 帰国して数日のうちに、娘たちの間では一種の熱狂的な状態が生じた。 日が経つにつれ、その熱狂はこうじていく一方だった。その中心である ポールは、それを利用しないような男ではなかった。 「舞踏会へ女どもをひっかけに行こうじゃないか」と彼はジャンに言っ た。 そこで、彼らは早速馬車にのってサン・バレへ出かけていった。 舞踏会というのはサン・バレの大農場の所有者であるパタージュ氏が 初夏までの1ケ月間ほどブローニュの森にある自分の別荘を開放して、 近郷の若者たちのために開いたものだったのである。年をへるにつれて 有名になり、規模も大きくなって、今では、サン・バレの名物として、 「ザ・イベント」といわれるようになった。 ジャンとポールは連れだって別荘のまわりを歩いていた。若者達は群 れをなして、綺麗に手入れされた芝生の上を歩き回っていた。別荘の赤 屋根と晴れ渡った空、そして緑の木立とが美しい調和を示していた。 別荘の白い柵のところには、色とりどりの華やかな服装の娘たちがかた まって、陽気な笑いを爆発させていた。 ジャンはそうした光景に目を奪われて、しばらくぼんやりしていたが ふと傍らのポールがいないのに気づいた。 「あるいは、もう誰かつかまえたのかな。ポールの奴。どうも敵わない な。僕は踊りも下手だし、風采も上がらないからな。こりゃ、今日の勝 負は負けらしいな」 先刻までは確かにそこにいたのだが、とジャンは思った。「まったく、 すばやい奴だなあ。競争などしなければ、よかった」 彼はあちこちポールを探しまわった。 別荘の白い柵のところに近づいて行った時、彼はふと足をとめた。娘た ちに囲まれている少女の顔に見覚えがあるような気がしたのである。
少女は、華やかな服装の娘たちのなかでも際立って美しかった。17 歳か18歳か、そのくらいだろう。ほっそりした、しなやかな体つきを していたが、着ている純白のドレスのすそがふんわりと広がっていた。 時折そっと唇のあたりに持っていく白い手の動きが優美で、しかも敏捷 だった。やや暗色がったブロンドの髪が、肩に波打っていた。 ジャンは、しばらくの間、心を奪われてしまっていた。 だが突然、彼は恥ずかしさを覚え、落ち着かぬ足どりで少女から遠ざか った。胸の中に微笑が沸き起こり、その中心に白い少女の姿が映ってい た。 「エレーヌだ。パタージュさんのところの。小さい時、遊んだこともあ る」 ジャンの父親とパタージュさんの仲は、最近、悪化していた。舞踏会 に行くと告げた時、父親のドモンジョ氏は、うなずいたあと「パタージ ュのところの娘とは踊るな」と申し渡した。 しかし、ジャンが幼い頃には二人の間はきわめて親密であった。当時 一農園の主にしか過ぎなかったパタージュ氏は、ドモンジョ氏と提携し て、自分の地位を高めようと考えていたからである。 両家の間にも友好的な雰囲気が保たれていて、ジャンとエレーヌは、何 のこだわりもなく兄妹のようにしていたのである。 あるときなどは、白樺の生えた沼のほとりで、並んでささなみを眺め ていた時もあったのだ。白い花を摘んで輪をつくっているエレーヌを手 伝ったこともあったのだ。いばらの茂みのなかに入って出られなくなっ て、今にも泣き出しそうになったエレーヌを救い出したこともあった。 エレーヌには今のような品の良さ、近づき難さはなかったけれども、頼 りなげなまなざし、泣き出しそうになってゆがんだ小さい唇、しっかり と胸に抱えこんだ、つたで編んだ籠などがあったのである。 しかしその後、二人は何ということなく別れてしまった。そして10 年の歳月が流れ去ったのである。 ジャンはエレーヌの表情に昔の面影を見い出し、幼い胸をときめかせた こともあったのを思い出したけれども、エレーヌはジャンを覚えている ようには思われなかった。 ジャンがエレーヌをみつめていたとき、一瞬、彼女はちらっとジャン をみて、視線がとまったけれども、ふと別のほうに何気なくそれてしま ったのだから。また、ジャンを認めたとしても、この十年の間にパター ジュ氏は、恐らくドモンジョ氏を商売敵として敵視しはじめたに相違な いから、父親に影響されて、エレーヌも、恐らくドモンジョ家のものを 軽蔑しているにちがいない。そうでなくとも、少なくとも関心をもつま でには至らないだろう。ジャンのことも忘れてしまっているだろう。 たとえ、ジャンが、 「エレーヌ、昔のジャンだよ」 と言ったところで、不思議そうな目つきをして、とってつけたような微 笑を浮かべるのが関の山に違いない。 つまり、10年の歳月は、かつての幼い友情をその年輪の背後に隠して しまい、今となっては、二人は赤の他人、いやひょっとすると、敵同士 かも知れないのだ。 あるいは、青春時代の羞恥心が、彼女の心を捉えているかも知れない。 もし万が一、エレーヌがジャンを幼友達として、いまだに胸のなかに、 秘かにしまっておいたとしても、恥ずかしさのあまり知らぬ風を不本意 ながらでも装うかも知れない。
一度はエレーヌから遠ざかってみたものの、ジャンは、再び、別荘の 白い柵のところにとって返した。 そこには、エレーヌの姿は見られず、陽気に喋っていた娘達の姿も見受 けられなかった。 彼は、失望して気ぜわしげにあちこち歩きまわった。その足どりは、 ポールを追っているときの忌々しそうな不承不承のものではなく、獲物 をみつけた猟師が心はやって足早に歩き回るといったものになった。 別荘の扉を開けてみた。白いドレスの娘を見ると、何度も立ち止まっ て確かめてみた。しかし、エレーヌの姿は見えなかった。 「いないはずはないんだがな。何しろ、この別荘はエレーヌの別荘なの だから。別荘の中にいないとなると、外かも知れない。あるいは、すれ 違っても、気づかなかったのかも知れない」 彼は、別荘を離れて、緑の森のなかを歩きはじめた。空気は爽やかで 木蓮のつぼみの甘すっぱい匂いがした。昨日降った雨で濡れている赤膚 の木の根の間に、木の実のようなものが落ちていた。拾ってみる気にも なれなかったが、ニ度目にそこにきた時には、幸運の印のような気がし て拾ってポケットに入れた。 彼は、ほとんどあきらめかけていた。しかし、何か偶然を期待してい た。そのうち、偶然はあくまでも偶然であって、人間の希望とは必ずし も一致しないものだと思いはじめた。 「小径がニつあるな。どうしようかな。これをもう1回だけ試してみ よう」 ジャンは、木の実を足で蹴った。それは、右のほうの低い小経ののほう に転がっていった。 「何だ。低い方にか。まあ、いいや」 彼は、その細い小径をゆっくり進んでいった。エレーヌに遭うよりも、 そのすがすがしい小径の美しさに引かれていた。 その時、彼は息が詰まったような驚きに打たれた。 「エレーヌだ」 彼女は、木の葉に触れないように足早に歩いてきた。数秒が何分間にも 思えた。胸は締めつけられるようになり、早鐘のように鳴った。何気な くすれちがう瞬間、ジャンは思い切って頭をあげた。 そして、エレーヌをじっと見つめた。 「ああ、やっぱりエレーヌだ」 青い瞳がきらきら輝いて、幾分不審そうに彼をみつめていた。白い透 きとおるような頬にほんのりと紅がさしていた。口元には、愉しそうな 微笑が浮かんでいた。 「ああ」と彼はかすかに言った。 エレーヌは若い男の顔に物問いたげな表情を認めて立ち止まった。彼は 心の中が混乱してしまった。 どうしたものだろう。何か言ったほうがいいかな。 「いや、何でもありません」 ジャンは、息を押し出すようにしてやっと言った。 「あら」 エレーヌは、真っ白い歯をちらっと見せて笑った。そして敏捷にジャン の脇をすりぬけて行ってしまった。 「なんて優美なのだろう」 彼はエレーヌを見送りながら、つぶやいた。 後を追っていくのは気がひけたので、森の中ではなく、別荘のあたりで それとなくエレーヌをみたいと、彼は思った。 しかし、幾分、気をよくして探したにもかかわらず、エレーヌの姿は見 あたらなかった。
ジャンは、もう一度森の小径に入っていってみたけれども、偶然は、 微笑まず、森は静まりかえっていた。 白い柵のほうに取って返すと娘たちがいた。先刻、エレーヌを囲んで、 陽気にさえずっていた娘たちであった。 エレーヌの姿はみえなかった。娘たちは何が面白いのか、赤毛の娘の話 に笑いころげていた。 彼は、急に腹立だしくなってきた。 あの娘たちのばかげた爆笑、ただ喋りまくるといった様子、さもなけれ ば、単純なくせに何かしら内に秘めているような様子、他人に対する浅 はかな嫉妬や羨望。 「あの娘たちの愚かさはどうだ」 「なにぶつぶつ言っているんだ」 ポールがジャンの肩を叩いて、声をかけてきた。 「それはそうと、どうだった、今日の狩猟の成果は。おやおや、どうや ら獲物はなかったものと見えるな。これは、俺の勝ちだな」 「君はどうしていたんだ」 「素晴らしいのを三羽捕まえていたんだ。そのうち紹介してやるよ。ま あ、それは冗談ということにして、君のほうは本当にダメだったのか」 「いやいやどうして。とっても素晴らしいのを見つけたよ」 「見つけたか。捕まえたんではないんだな。それでどうした」 「しくじってしまった」 二人は声をあげて笑った。 馬車に乗って、肩を並べていろいろと冗談を飛ばしあった。 「馬鹿にうれしそうだな。獲物もないのに」 ポールはいった。 それに対して、ジャンは自信ありげな、何気ない微笑で応えた。 実際ジャンは、うきうきしていた。長い間、灰色のパリの街にくすぶ っていたのが、突然、南仏の太陽のふりそそぐ野原に出てきたような気 がしていた。 彼は限りなく幸福だった。自分の一生がこれから限りなく開けていくよ うな気がした。パリでは、第一級の学問を積んできたことだし。 「俺は大した男だな」と彼は思ってみたりした。 翌朝、ジャンは、父親に 「舞踏会に行ってくるよ」と何気なく告げた。 勿論、許されるものとばかり思い込んでいたのである。 すると、ドモンジョ氏は、反対した。 彼は、パタージュ氏の攻撃をはじめた。つまり、商売敵であるパター ジュ氏は、10年前には一介の農園の所有者に過ぎず、ドモンジョ氏に 頭をさげて穀物の販売を頼んで一息ついた。そのお礼もなかった。 たまたま舞踏会を思いついたおかげで、長女を偉い実業家の妻とするこ とができて、今日の大農場をもつようになった。しかし、昔の恩を忘れ て、穀物の販売にまで手を伸ばしはじめた。ドモンジョ氏にとっては、 許しがたい暴挙である。奴の金儲けのやり方は陰険きわまりない。誰か れの見境なく金を貸すが、返済の迫り方は血も涙もない。にもかかわら ず、奴は、結構、世間からよく思われている。それは、奴が、ご機嫌取 りをするからである。別荘の開放は、その一例である。もし、そんな男 の娘、恐らく性悪女にきまっているが、おまえがそんな女に引っかかっ て一生を棒に振るようなハメになっては、大変なことだ。 大体こういったことをドモンジョ氏は息子にまくし立てた。そして、 終わりにこう付け加えるのを忘れなかった。 「奴は何かたくらんでいる。それでなければ、いつまでも別荘の開放を 続けるはずはない。俺の息子なら、絶対に奴の舞踏会などに行ってはな らんぞ」
ジャンは、その日1日は舞踏会に出かけるのを我慢した。 翌日、「教会に行ってくる。久しぶりに牧師さんにお会いしてくる」 と父親に言って、うまいこと家を抜け出そうとした。 しかし、ドモンジョ氏も抜け目がなく、 「ノフラージュさんに渡してくれ」と手紙を息子に手渡した。 ジャンは、仕方なく教会に行って、牧師に手紙を差し出した。 牧師は手紙に目を通すと、ジャンにざっと次のようなことを語った。 ドモンジョ氏は、私にジャンを引き止めておけと書いてよこしたが、 私としては、かねてから、パタージュ氏との不和をなくしたいと思って いるので、ドモンジョ氏の意には反するけれども、ジャンの舞踏会行き を許すことにしよう。それが、何かの役に立つかも限らないから。 「舞踏会はもう今日で終わりだ。弱ったな。ジャン、オルガン弾けるか。 そうか。では、こうしよう。私が引き受けるから、教会に来てくれんか。 娘たちに人気の読書会もあるが、どうだ、出てくれるかね」 「そうか。じゃ、毎日助手として手伝ってくれ」 そして牧師は、眼鏡ごしにジャンを眺めて、愉快そうに笑った。 説教の時、ジャンは聖書を牧師に手渡したり、賛美歌をみなが起立し て歌うときにはオルガンを弾いたりした。 手が空くと、彼は聴講者の方に視線を投げた。 そのとき、彼は自分を静かに見守っているような視線を感じて、その方 に顔を向けてみた。 エレーヌが水色のドレスを着て、彼を見ていた。 視線が合うと、ジャンはエレーヌの屈託のない、この前の森での出合 いを気づかせている視線に、幾分、狼狽しながらも微笑で応えた。 次の日も二人は視線を合わせた。しかし、なぜか、エレーヌは目を伏せ てしまった。 三日目に視線が合ったとき、二人は慌てて目をそらした。お互いに自分 の感情を気づかれまいとして。しかし、次の瞬間には、どうしようもな い力に引きづられて、同時に見つめあった。 ジャンはバツの悪い思いをした。自分が単なる友情以上の感情をもっ ているのを知られたから。しかし、エレーヌも同じようだった。 で、二人はそれから長いこと見つめあっていた。見つめあっていれば、 天国にいるような気がした。説教の天国とは少々趣きを異にしていると などとは思わなかったのである。 牧師が、時々何気なく二人をみやっているのにも気づかなかった。また、 娘たちが、助手とエレーヌとの長いにらめっこに気づいて、説教どころ の騒ぎではない、と思っているのにも気がつかなかった。 つまり、すべてが眼に入らなかったのである。ただひとつの例外として お互いの眼は別として。 説教が終わるのを待ちかねるように、二人は近づきあった。 「エレーヌ、僕だよ。ジャンさ」 「ジャン!」 そして二人はしばらく黙っていた。娘たちはひそひそと囁きあって、 時々二人の方をみながら帰り支度をしていた。牧師は娘たちのところに 近づいていくと、戸口のほうまで押し出して言った。 「さあさあ、帰った、帰った。え、一体、何か心残りのことでもあるの かね。マドレーヌ」 ノフラージュ牧師は、赤毛のマドレーヌに、例のいたづらっぽい微笑を 浮かべてみせた。
初夏は、すでにすぐ手を伸ばせば届きそうなところにきていた。樹々 も葉が繁くなり、硬くなっていった。朝に夕に、静かに鳴り響く教会の 鐘もその音色を変えていった。山の斜面には、白い花に変わって、大き な橙色の花がつぼみをつけようとしていた。見渡す限りの風景は、深い 濃い緑と、強い光に照らされた土色と、せっせと畑で働く赤い着物の娘 たちと、それに点在する白い家の壁からできていた。教会の傍らの吊り 橋の下を流れるマルコ河も、水量が減って澄み切り、幾分、暖かくなっ たものの、手を入れるとひんやりとしていた。 別荘にはパタージュ氏が時々やってきては、舞踏会で荒れた芝生の手 入れをしたり、職人たちを指図して壊れた白い柵や大広間の照明器具な どを修理させた。青年たちはパタージュ氏を手伝ったりした。残ってい る青年たちは、みな上流階級の子弟であった。交わされる会話も上品に なっていた。そしてこの頃になると、あちこちに仲のよいカップルがみ られた。彼らは、なるべく人のいることこrから離れて、ブローニュの 森の静かなところへと出かけた。 読書会のあと、ジャンはエレーヌと落ち合って、並んで散歩をした。 初めて出会った森の小径へ出かけていった。ジャンは、木の実を蹴って 運を試したときのことを話した。森の空気は爽やかで、木蓮の花の甘酸 ぱい匂いの中を二人は黙って歩いていた。 またあるときは、幼い頃遊んだ白樺の生えている沼まで、森を抜けて 足を伸ばすこともあった。岩陰の小さなさすように冷たい泉の傍らで、 長いこと疲れをいやすこともあった。 いばらの茂みを指して、ジャンは昔のことを話した。 エレーヌは「よく覚えているわ」と答えた。 潅木の茂みを歩いている時、肩が触れ合って、はっと胸をとどろかせた こともあった。 二人が、初めて手をつないだのは、何処だったろうか。 小さな流れにかかった丸太を渡るときだったかも知れないし、当然、森 を抜けて、夕暮れのサン・バレを見渡したときかも知れない。とにかく 二人は子どものように気まずい恥ずかしさを覚えた。 二人は手をつないだまま、日暮れときの景色に眼をやっていた。太陽 が紫色にかすんだ山の端に隠れようとして、最後の光芒を放つとき、思 わずエレーヌはジャンに寄り添った。赤く染められた灰色の雲がちぎれ て浮かんでいた。じっとたたずんでいるうちに、空は一面に青みを帯び てきて、森の中は薄墨色の霧がかかったようになる。青い空気の振動に 包まれたサン・バレの町には、ひとつ、ふたつと灯りがともり始める。 エレーヌがふと手を固く握りしめる。そして、さも申し訳なさそうに つぶやく。 「もう」 ジャンはひそかに心配していた瞬間がとうとうやってきたのを悟る。 彼は、沈んだ横顔をうなずかせる。 エレーヌは、黙って立ち尽くしている。まるで最後の瞬間を味わってい るように、しばらくすると、二人とも歩き出す。その足並みは、次第に 不ぞろいになる。 パタージュ氏が怒るかも知れない。二人のことを気づくかも知れない。 心配が二人をとらえて、無言のうちに足が速くなる。しまいには駆ける ようにして暗い森の小径を歩く。 こうして1日は飛ぶようにして終わってしまうのだ。 そして、夜がくる。明日が限りなく待たれる。やはて待ちに待った朝に なる。昼までの何と長いことだろう。読書会、それがやっと終わる。 さあ、二人の時間だ。 だが、この時間は、何と早く過ぎ去ってしまうことだろう。 「一刻が一刻を追いたてるように」時は経っていってしまう。まるで、 影のようなひとときなのだ。 確かにさっきまでは、二人で並んで寄り添うようにして、樫の木の こずえを眺めていた。だが、あれは一体ほんとうにあったのだろうか。 二人が並んでいたのはうつつだったのか。ただ、夢のように思い込んで いただけではなかろうか。ただ、魂だけが寄り添って樫のこずえにまで 思いをはせたのに過ぎなかったのではなかろうか。 エレーヌが花を摘んだときの物腰、うっとりと夕日を眺めていたときの 目つき、やさしいジャンを意識した声、あるいは驚嘆の叫び、これらは 本当にさっきまであったことなのだろうか。 それらは夢よりもはかないように思える。一体、あんな些細なことに 叫び声を出せるものだろうか。悲しんだり、喜んだり、そして慌てたり 落ち着いていたり、そんな感情の起伏が一体いままでこの胸の中に生じ ていたのだろうか。 こうした夢のように楽しい日々は、もう読者の想像にゆだねよう。 誰だって、こうした日々の、「羽ばたくように過ぎた」思い出の数々を 胸の奥にしまっているのだから。水晶の箱をそっと金のカギで開けてみ れば充分なのだ。
読書会はまたたく間に過ぎて、夏がやってきた。ジャンはエレーヌと 一度教会のミサのとき、少し話をすることができたが、その時の話は、 きわめて漠然としていたけれども、将来の不安を物語っていた。甘美な 日々が荒々しい運命の手によって断ち切られてしまうといった不安だっ た。その不安は、やがて現実となって現れてきた。 まず、どういう理由かパタージュ氏は、一家を引き連れて、スイスの 姉娘のところに行ってしまった。そしてエレーヌからの音信は途絶えて しまった。さらに、ジャンは牧師からも悪い知らせを聞いた。牧師が内 々パタージュ氏との間に進めていたドモンジョ氏との和解は立ち消えに なったということだった。最初は、エレーヌとジャンの恋を知って激怒 したパタージュ氏やドモンジョ氏の憤激を和らげることに成功したので 両家のきずなを、再び、結びあわすことができるのではないかと牧師も ジャンも考えていた。 しかし、ドモンジョ氏のほうは不承不承、和解工作を受け入れようと していたにもかかわらず、パタージュ氏は言を左右にして承諾を与えな かった。しかも、いつまで経っても承諾の知らせはこなかった。 その理由、なぜパタージュ氏がせっかくの和解を受け入れないのか、は 分からなかった。 だが、パタージュ氏が、エレーヌの婿として、ドモンジョの息子よりも もっといい相手を物色しているらしい、相手は外国のさる貴族の令息だ とか、フランスのどこか有名な街の市長の一人息子だとかいった噂が流 れていた。 しかし、その挙げられた相手と称するひとたちは、あまり当てになら ないように思われた。恐らくサン・バレの人たちは、こう考えていたか らだろう。 つまり、パタージュ氏は何しろサン・バレの人たちのおかげで、素晴ら しい農園を持つことが出来たのだから、三人の娘のうちのひとりくらい は土地の若者と結婚させるべきだ、というのである。 上の二人はすでに外国人と結婚してしまっていたので、エレーヌの相 手は土地の若者にしたいというのは、かねがねパタージュ氏の言ってい るところでもあった。だから間違いあるまいと、ひとびとは言った。 ジャンにはどうしても分からないことがあった。それはエレーヌの気 持ちである。つい先だってまでは、あれほど愛しあっていたのであるか ら、どうして手紙の一つも寄越さないのだろう、ということである。 彼は、一つの解釈をしてみた。スイスではパタージュ氏がやかましく 監督をしているので、手紙一つ出せないのだろうという解釈である。 また、彼の自尊心にとっては到底耐えがたい考えだったが、エレーヌは ジャンが嫌いになって別の誰かを愛しはじめたのではないかという疑い も湧いてきた。もしかすると、最初から嫌いだったのかも知れない。 エレーヌはジャンを玩具にして恋愛ごっこを楽しんでいたのかも知れな い。だが、これはまず考えられないことだった。いくら彼がのぼせ上っ て恋の美酒に酔っていたところで、エレーヌの言葉づかいの調子や眼差 しの真剣さまで見誤るはずはないからである。 ジャンの耳にパタージュ氏の一家が、突然サン・バレに帰ってきたと いう噂が聞こえてきた。エレーヌの容態がおかしいということである。 それは、体の病気ではなく、何か心の悩みらしかった。時々奇矯な言動 をしたと伝えられた。 ジャンは、その後一週間ほどして、牧師から、久しぶりにエレーヌが 教会のミサに出ると聞いた。2ケ月ぶりの再会である。期待に胸をはず ませて、いつもより丁寧に身なりを整えた。ドモンジョ氏は、息子が長 い間、鏡に向かっているのを不思議に思った。 「とにかく行ってみよう。すべてはそれからだ」 ジャンは、不安と期待におののきながら、教会へと出かけて行った。
ミサがはじまる直前にエレーヌはやってきた。彼女は黒いドレスー ほとんど喪服といってもいくらいーに身を包んでいた。それは、非常に 清楚な感じをかもしだしていた。ミサに黒いドレスを着てくるのは、さ ほど不思議なことでもなかった。 ジャンの知る限りでは、エレーヌが黒いドレスを着てミサに加わったの は、これがはじめてだった。顔色はぬけるように白く、幾分やつれてい るように見受けられた。 ジャンは話しかけようと近づいていった。今となっては、周囲のひと が注視していようと、パタージュ氏が娘につきそっていかめしく構えて いようと問題ではなかった。何しろ、愛し合っていた二人が2ケ月もの 間、まったく離れ離れになっていたのだから。二人を離れ離れにさせた パタージュ氏の前で、二人の愛情の強さを見せてやりたいくらいだった。 ジャンは、はやる心を押さえながら、この再会の感激的な瞬間に向か って、ゆっくりと、しかも、自信ありげに近かづいていった。 エレーヌは、ジャンのほうに向き直った。明らかにジャンの近づいてく るのを、ゆっくりと一直線に歩いてくるのに気づいたようであった。 その時、彼女の瞳は狂おしいほどの喜びに燃え輝き、白い頬に紅がさ した。次の瞬間、彼女は顔を真っ青にすると、ジャンにくるりと背を向 け、数歩、よろめいた。そして、父親の呼びとめる声も聞かずに、黒い ドレスのすそをひるがえし、回廊を走り抜け、教会の扉に体当りして、 外に走り出ていった。一瞬の出来事だった。 パタージュ氏をはじめとして、傍らで見ている人たちは、この急激な まったく相反する感情の交錯をどうにも理解できなかった。はじめの眼 は、確かに2ケ月もの間もぎ離されていた恋人の狂喜を示していた。 しかし、次の瞬間のあの青ざめた表情は果たして何であろうか。それは 憎悪の感情に酷似していたけれども、憎悪ではないことははっきりと見 てとれた。何か厳粛なものが見受けられた。しかし...つまり何だか分か らなかったのである。 ジャンはただ、エレーヌが白い顔色をロウのように青く透きとおらせ 瞳を大きく見開き、遠くを眺めるような様子で、立ち去ろうとしている 自分から離れようとしている、ということだけを見て取った。 一瞬、心臓が凍りつくような恐怖を、かれは感じた。呆然としていた。 一体、何が起こったのだろう。何か、僕がへまをやらかしたのだろうか。 彼は立ち尽くしていた。周囲の人のざわめき、パタージュ氏のあわてた 様子、こうしたものにちょっと気をとられたが、すぐに自分の感情の渦 に飛びこんでいった。
教会の椅子に金縛りになっていたジャンは、最初、事態をよいほうに 解釈しようとした。 エレーヌは、強い愛情を抱いているがゆえに、再会の喜びのあまりに、 真っ青になったのではないかと考えたのである。 しかし、それならば、何故、逃げ出すような行動がとれるだろうか。 愛情の表現を何故、こんな形で表わさなければならないのか。 実際、そこには以前の彼が抱いていたような「エレーヌの優美さ」は失 なわれていた。罪人のようなぎこちなさ、黒いドレスのなかに青ざめた 表情があるばかりだった。 ジャンは、またこうも考えてみた。これは、いくらか落ち着いたとき に心に浮かんだのである。小説に出てくるような考えだった。 エレーヌは、僕を試してみたのではないか。僕がほんとうに愛している ならば、エレーヌの仕打ちに対して、一旦はしょげかえるだろう。だが、 すぐにエレーヌの後を追いかけていって、「一体、どこが気にくわない の、僕の」と聞く。すると、エレーヌは「あなたは私をほんとうには愛 していないんだわ」と冷たく言う。で、僕は弁解しようとする。「あな たの弁解なんて」といよいよ冷たい。僕は困りきって、幾分腹を立てて 言う。「君には僕がどんなに君を愛しているか分からないんだ」 この時、エレーヌは急にやさしくなる。「いいのよ。私もあなたを愛し ているのよ。ただ試しただけなのよ」 でも、これではあまりに月並みだ。エレーヌは、野心的な パタージ ュ氏に似て、空想的なところがある。ちょっとした愛の戯れとしてなら やりかねない。 しかし、今度の場合はちがう。2カ月もの別離の日々 があった。幾十人ものひとびとが見ている。しかも、恋の演技者はあん な厳しい目つき、人を恐れさすような眼はできるものではない。あれは たしかに、やむにやまれずした演技だった。しかも、その演技は、人に 押し付けられてできるものでもないし、恋の戯れでやったものではない。 それは、心の奥に、悲しみと自己抑制がひそんだ心のみがなしうるもの なのだ。 あるいは、エレーヌは憎悪からやったのかも知れない。しかし、憎悪 は、不通は相手を傷つけ、自分を安全にさせておくものなのだ。だが、 憎悪が深まった場合、自分をも傷つけるようになる。エレーヌの場合は もし憎悪からとするならば、この方にちがいない。だが何故、神聖なる べきミサのはじめに、わざわざ神の前で、己の運命を拒否するようなこ とをしたのだろう。 それにエレーヌの行動には、計画性があった。ジャンとバッタリ出会っ て、ふとそこから逃れる場合、あんなに前もって考えておいたように、 何処へいこうかと迷うこともなく、ミサから逃れていけるものではない。 何もかも分からなかった。ジャンはどう考えてよいか分からなかった。 自分の現在の立場、将来のこと、悲劇となって終わるであろう恋愛、こ れらがいっぺんに混乱した形で彼の心をとらえていた。何もかもが混乱 している、ということだけが分かった。 ミサの終わりを告げる鐘の音を、彼は何処か遠くで聞いたことがある ような気がした。いつもは平和で、牧歌的な町、サン・バレに鳴り響く 鐘の音は、今は彼の心のわずか一部分で低く鳴っているだけだった。 いつもは、心の中に敬虔な至福の瞬間を味わわせ、安らぎと信仰を取り 戻させるはずだったのに、いま鐘はヒムを歌っている。
しばらくして、ジャンはやっと我にかえった。人々はジャンを眺めな がら家路へと急いでいた。彼らには彼らの関心事があり、一人の青年の 失恋には、それほど構っておられなかった。なかには、ジャンのことを 嘲笑する人もまじっていた。話しのネタが出来たと喜ぶ人が大部分だっ たかも知れない。 いずれにせよ、ジャンは、ひとり取り残されていた。エレーヌによって つなぎとめられていた人々への情愛や自分への信頼感が、根こそぎ喪失 してしまっていた。 彼は、あたりをそっと見回した。少し離れたところにポールが立って ジャンを見守っていた。いつものように陽気な微笑を浮かべていたが、 幾らか真剣な表情をしていた。いまのジャンには、幾分かでも親身に自 分のことを気遣ってくれる人がいることは有り難かった。ひとりぽっち になってしまったと思っていたのに、まだひとり親友が残っていた。 いまの彼は、心を打ち明ける相手を欲していたのである。 「どうしたんだい。ふられたのか」 ポールの言葉には、いつもの皮肉な口調が戻ってきた。 それが、せっかく開こうとしていたジャンの心をピタッと閉ざしてしま った。で、彼は黙っていた。 「え、どうしたね。見事にふられたね」 ポールは歌うように言った。その陽気な節回しの陰には前よりもさらに 激しい皮肉がこめられていた。ジャンはポールに背を向けようとした。 「何だい。女一人にふられただけで、しょげかえるなんて。おまえら しくないぞ。エレーヌなんて大した女じゃない。ちょっとした財産つき の小娘さ。それにすこしばかり器量がいいだけじゃないか。フランスに は、あれよりももっとマシなのがいくらでもいる」 ポールは、強い口調で言った。それには先ほどの皮肉は消えて真剣味が あった。ジャンは後になって気づいたが、その口調にはポールが自分自 身に向かって言っているようなところがあった。そこには苦痛のような ものさえ感じられた。 ジャンは、振り返ってポールをじっと見つめた。混乱した心をいやす 何かが見つかったような気がふと萌したのである。解きがたかったいろ いろな出来事の解答が分かったような光明を感じたのである。 「人生は遊戯さ。勝負は大して問題じゃない」 ポールはさらに何かを言おうとした。しかし、ジャンの眼をみると、は っと眼をそらして、すばやく立ち去ってしまった。光明が少し大きくな ったようだったが、やがてジャンはそれを忘れてしまった。
第2章 舞踏会
1 サン・バレの春 再び、サン・バレに春がやってこようとしていた。弱い日差しが次第 に強くなり、斜めに長くうっすらと伸びていた木立の影は、濃く小さく なっていった。 サン・バレの町を囲んでいる遥かな山々の連なりは、青紫色に霞みはじ め、近郷の丘陵には緑が萌えたち、斜面いっぱいに、はやばやと小さな 白い釣鐘状の花が咲き乱れた。それを境にして、海岸地方から丘を越え 沼を渡って吹いてくる風も厳しさを失って、やわらかく暖かくなった。 広々として農地は、若緑にむせかえり、その背景として延びている森、 ブローニュの森は、ふっくらと装いを新たにし、そこからは小鳥の囀り が、すがすがしく聞こえてきた。 パタージュ氏の農園は、なかでも見事で、裸麦の畑が色づいて、土の色 が湿気をおびて黒々しているのと、きわめて対照的であった。それだけ に美しさも何ともいえないくらいだった。 点在する赤屋根に白壁の南仏特有の農家は、木立につつまれて、絵の ように静かな落ち着きを取り戻していた。土壌からは勢いよくかげろう が立ち上り、淡い煙のように流れて畑の中の白く乾いた一本道へと注ぎ 込む。すると、道行く人々の心は、一遍に浮き立ってしまう。子供たち は歓声を上げ、冬の間にうっせきしていた感情を吐き出してしまおうと する。春の嵐が土埃を巻き上げるときなどは、その叫び声は、いよいよ 甲高くなった。 白く乾いた道は、パタージュ氏の邸宅の脇をかすめてブローニュの森 へと続いている。森へ入る少し前に、マルコ河を渡る。その吊り橋は、 中世のもので、いかにも古めかしかった。この頃になると、若い娘たち が、小脇にかごを抱いて、ゆっくりと渡っていく。若者たちは、これを 見ると、春の訪れを身近に感じるのであった。 河畔のノフラージュ氏の教会にも、人の訪れが繁くなった。不信心な 若者も清冽な教会に入ると、厳粛ななかにも何か楽しさや幸福が満ちて いるような気がした。まして、若い娘たちが町のどこよりも多く見られ るということになると、朝夕のミサに参列しないわけにはいかなかった。 しかし、どういうわけか、ジャンの姿も、エレーヌの姿も、このミサ には見受けられなかった。勿論、パタージュ氏の姿も見られなかった。
夏の終わりのミサのちょっとした事件から、もはや半年以上の日々が 流れさっていた。その間に、あんなにも不可解であったパタージュ氏の 意図が明らかになっていた。またジャンがポールとの会話のさい、ふと 感じた光明の原因も分ってきた。それにドモンジョ氏の予言、「パター ジュの奴は何かを企らんでいる、そうなければ、いつまでも別荘の開放 を続けるわけはない」も的中した。つまりジャンとエレーヌの恋の結末 パタージュ氏の企み、別荘の開放、それにポールの言葉などの不可解さ を解明する鍵が見つかったのである。 町では、革新派と保守派の反目が表面化していた。革新派は、パター ジュ氏をはじめとしてポールの父親であり市長であるアンドレ氏、それ に多くの若者たちだった。保守派としては、ドモンジョ氏、それから、 パタージュ氏と農園の境界問題でもめている頑固者のレオナルド氏、そ れにノフラージュ牧師があげられる。 1年前には、相互に、冷たい反目があっただけで、まだ、町は平和で あった。だからこそ牧師とパタージュ氏とは割に仲がよかったし、和解 若い工作も成功しようとしていたのだった。 しかし、初夏になって行なわれる南仏食糧組合の委員長に、冬のはじ めにパタージュ氏が名乗りをあげ、続いてレオナルド氏が立候補するに 至って、俄然、対立が明るみになったのである。 南仏食糧組合というのは、本部がアビニョンにあって、南仏の食糧の 集積、保管、販売を一手に管理する組織であったが、長年、定まりきっ た仕事をやっていて、委員長のポストも、お飾りのようなものだった。 しかし、その肩書きを利用し、政府要人ともしばしば会談できた。それ によって、いくらかでも、懸案の農園の境界問題の解決を有利に運べる のではないか、といった点が前々からパタージュ氏の注目を引いていた のである。しかも、この選挙の準備としてパタージュ氏がいろいろな手 を打っていたことも明らかになった。 レオナルド氏は、パタージュ氏の策略を知ると、憤激のあまり、早速 自分も立候補してしまった。 「あの男の手にのるものか。境界争いは、もともとパタージュが引き起 こしたのだ。成り上がり者め。きっと、裁判では勝ってやるぞ」といき まいた。レオナルド氏だけが立候補したのでは、自分のほうが有利だと パタージュ氏は考えていた。彼は、あらかじめ有力な支援者をみつけて いた。それが、市長のアンドレ氏であった。もともと、この二人の仲は あまりよくなかったが、パタージュ氏は、この男の豪腕に頼るために、 考えをめぐらせた。 妙案が浮かんだ。それが、娘のエレーヌを、市長の息子ポールに嫁入 りさせるということだったのである。 スイスに滞在している間に、パタージュ氏はアンドレ氏とポールを極秘 に招待した。エレーヌには、旅行の途中に、市長が立ち寄ったのだと、 説明した。ポールには「娘はウブだから、少し強引でもいいんだよ」と 囁いた。選挙運動がはじまると、パタージュ氏は、公然とポールを自宅 に招きはじめた。 それを知ったノフラージュ牧師の怒りは非常なものであった。和解工 作の際のパタージュ氏の意味ありげな沈黙の理由が分ったからである。 「何という恥知らずなことをするのであろうか。パタージュ氏を信じ ていたのに。彼は、私の信頼を裏切っってしまった」 そして、牧師もドモンジョ氏と一緒になって、レオナルド氏の応援をは じめたのである。
ジャンにもようやく事情が飲み込めてきた。教会でのポールの、あの 皮肉な口調は、すべての事情を知ったうえでのことだったのだ。ポール はジャンを裏切って、エレーヌと交際していたのだ。 「血も涙もない男だから気をつけたほうがいい」という兵役時代のある 友人の忠告は、ウソではなかった。 親友の裏切りに出合って、ジャンは打ちのめされた。 そして、エレーヌ。あの態度は、教会のミサの時の彼女の態度は一体 何だったのだろうか。ポールの指示でジャンをふたりして、からかった のだろうか。しかし、たった数ケ月前に、あれほどジャンを愛していた エレーヌに、そんな冷酷非情な仕打ちができるものだろうか。 ジャンは、ポールからエレーヌを何とかして取り戻さねばならないと 考える時もあった。しかし、もはやジャンにはこれっぽっちの勝ち目も なかった。ポールは、美男子で、頭も切れ、それに財産持ちだった。誰 だってジャンとポールを比べたら、ポールを選ぶにちがいない。 それに事態は急ピッチで進んでいた。噂によると、ポールとエレーヌ の結婚式は、初夏、パタージュ氏が選挙に勝ったあと、華々しく、アヴ ィニョンの大聖堂で行なわれるとのことだった。初夏までは、既にあと 1ケ月を切っていた。パタージュ氏が、例年開いている舞踏会の期間だ けしか残されていなかった。 ジャンは、時間が徒らに過ぎ去っていくのを呆然と眺めていた。木の 実を蹴ったときの偶然を思い出すこともあった。しかし、もうあのよう な幸運は、二度と起こらないだろう。 「偶然はあくまでも偶然であって、人間の希望とは一致しないのだ」 いよいよ舞踏会が、明日に迫ってきた。1年前のあの弾むような時間 それは「羽ばたくように」消え失せてしまった。青春はほんの一瞬の間 とらえらえられるものに過ぎない。魂がふと寄り添うとき、その僅かな 瞬間にしか、存在しえないのだ。それは空気に触れると、すぐ錆びてし まうナトリウムのようなものだとジャンは考えた。 それでも、ジャンは心の片隅で、舞踏会で何かがが起きることを期待し ていた。夢のまた夢と知りつつも、偶然が微笑むことを期待していた。
ついに舞踏会の朝になった。よく晴れて、日差しがまぶしいほどの朝 だった。 サン・バレの若者たちはめいめいの恋人を連れて、得意げに顔を紅潮さ せて、ブローニュの森にあるパタージュ氏の別荘へと出かけていった。 恋人たちを中心にして、親たちや年少のものが付き添っていた。弟や妹 たちは、やがて自分が中心となって出かける日のことを想像して、胸を わくわくさせていた。老人たちも、若者たちのはしゃぎように、顔をし かめ、ぶつぶついいながらもついていった。遠方の海岸地方からきた若 者たちは、馬車に相乗りしていっせいに丘の中腹にある別荘へとかけつ けた。 舞踏会は、今年が最後になるかも知れないという確かな観測があった せいか、例年以上に多くのひとびとが押しかけてきた。パタージュ氏も 有終の美を飾ろうとしてか、別荘全部を開放し、ブローニュの森全体に 会場にするほど盛大にやろうと計画していた。数人の有名な舞踏教師も ウィーンから招待した。 パタージュ氏は上機嫌で、臨時雇いのボーイたちにあれこれ指図して みたり、舞踏教師たちの話相手をしたりした。 また、彼は別荘の美しい芝生のそこここにつくられた小さな売店を見 に行った。軽い食事や飲み物を出せば、儲かるのではないかとアンドレ 氏が提案して、結局、全部任せてしまったものだった。 値段が高いのに、よく繁盛しているので、少々忌々しいような気がした。 何故、自分の手でやらなかったのかと思ったのである。それでも、こん なに繁盛しているということは、つまり、舞踏会に大勢のひとが来てく れたことを示していると、思って満足した。 選挙では、ライバルのレオナルド氏が、最近、追い上げてきてはいるが この分なら安心だ。 彼は上機嫌なときによくするように、両手を後ろで組んで、ゆっくり と歩きまわった。葡萄棚の具合もいいようだった。特別に今日のために あつらえた藤椅子の座り心地もなかなかよかった。 ひとびとは、幾つかのグループに分かれていた。あるグループに顔を 出すと、かれらは「この分なら当選確実ですよ」といってくれた。また 別のグループに挨拶に行くと、色白の眼鏡をかけた男が、「今、あなた のこの庭園のご趣味はいいという話をしていたところですよ」と話しか けてきた。確か映画評論家だったと思うが、パタージュ氏は、どうして もその名前を思い出せなかったが、勢いよく握手した。 「牧師のノフラージュ氏の姿がここ2、3日見えないが、どうしたので すかね」 「さあ、牧師として選挙に肩入れするのはまずいと思ったのではないで すか。上のほうから呼び出しをくらったのかもしれませんな」とパター ジュ氏は笑いながら答えた。
この日の華というべき若者たちは、てんでに服装を競っていた。青年 たちは、ブラック・スーツに真っ白いカラーを立たせているのが大部分 だった。だれもが最上の服装をし、散髪にいき、長い間、鏡とにらめっ こをしたのは明らかだった。かれらはきちんとした身だしなみを維持し ようと、ゆっくりと歩き回ったり、あるいは、じっと幸福そうに1カ所 にたたずんでいた。そして、時々、他の男と自分を見比べて安心したり 引け目を感じたりしていた。 なかでも、ポールは、人目を引いていた。パリの一流のオートクチュ ールに作らせたという服を着ていて、そのため一層生来の美男子ぶりが 発揮されていた。 娘たちの服装は、軽快できらびやかだった。ピンクや黄色や水色、赤 や白、緑、紫などの色とりどりの花がいっぺんに咲きそろったかのよう であった。彼女たちは、男たち以上に自分の着ているものに気をとられ ていた。そして数人で集まっては、服装や髪型、装飾品についていろい ろな批評をしあっていた。そのいずれのグループでも、いまやポールの 服装が話題になっていた。 その時、ポールをみていた娘たちは、はっと息を呑んだ。 エレーヌが現れたのである。彼女とポールの間がどうなっているのかに 娘たちはひどく敏感になっていた。ポールがパタージュ氏の邸宅を訪問 しても、エレーヌが姿を現わさないという事実が、パタージュ家の小間 使いの口から漏れていたからである。 いまだに、エレーヌはジャンを愛しているのかどうか、あるいはやはり ポールを愛しはじめているかどうか、その真相がいま、すぐ間近で判明 しようとしているのだ。 エレーヌは、灰色のドレスを着ていた。そして、ほんの心持青ざめて いたが、ポールを見ると、微笑した。仕方のないような微笑にも思えた けれども、とにかく彼女はポールに対して微笑したのである。 娘たちばかりでなく、パタージュ氏もアンドレ氏と並んで二人を眺め やって、囁きあっていた。 「どうです。まるで似合いのカップルですな。すっかりうまくやってま すわ」
その時ようやく舞踏会開始の鐘が鳴らされた。若者たちはめいめいの 恋人のところに行くと、連れ立って別荘の大広間に入っていった。付き 添いの人々は取り残されて、芝生の上で休みながら、流れてくる音楽に 耳を傾けた。赤毛のマドレーヌを中心にして、黄色い声のマリア、太っ ちょのフランソワの三人組が、息せき切ってやってきて、マドレーヌを 置いて中に入っていった。マドレーヌは大広間の入口のところでじっと 待っていた。 芝生にいるひとびとは、赤毛の娘の待っている男は誰だろうと話し合 った。 「いつもに似合わず殊勝じゃないか」と口の悪い男が言った。 彼女は、はすっぱな娘と思われていた。裸足で街中を歩いたり、人ごみ で、突然、誰かれとなくキスしたりするという噂が流れていたし、それ を信じるひとも少なくなかったのである。 その時、口の悪い男があっと叫んだ。見ると、あのジャンがゆっくり とマドレーヌのほうに合図していた。それに対して、マドレーヌの方も いかにもうれしそうな様子でいそいそとジャンのほうに小走りに近寄っ て、二人は親しげな微笑を交わしたかと思うと、腕を組んで大広間へと 入っていったのである。 人々は、お互いの顔に驚きの表情を認めあった。こんなことがあって いいものだろうか。ジャンは、エレーヌに首ったけではなかったのか。 それに、あのマドレーヌの親しげな様子は、二人がいつの間にか恋人に なったことを示している。ところが、二人が恋仲なんていう話は聞いた こともない。それは予想を超えていた。どうみたって生真面目なジャン と、はすっぱなマドレーヌという組み合わせは奇妙だった。しかし現に ああして腕を組んだところをみると、左程おかしくもみえない。人々は 不思議に思って、ぞろぞろと大広間の中を覗けるところまで近寄って行 った。 大広間は、若い男女の群れで埋まっていた。パタージュ氏の大広間も 今日はさすがに狭くみえるほどだった。つやつや光る上等な桜の木で出 来た床には、数組のカップルが、模範舞踏をみせようと待機していた。 ウィーンからきた有名な舞踏教師とその相手のご婦人たちだった。
指揮者の合図で、演奏がはじまった。音の調べが大広間に溢れ、広が っていった。楽器の各パートが、いろいろな響きを伴って、次第次第に 高まっていく。舞踏教師たちは、しっかりとパートナーをホールドして 軽やかなステップを披露していた。広いなだらかなパートが演奏されて いるときには、ステップも大股で、風と戯れているように踊った。 しかし、休止符のところにさしかかると、ぴたっと静止し、大広間の なかには静かなしわぶきが聞こえるだけになった。やがて、アダージョ になって、緩やかな曲になると、舞踏教師の顔は石のようだが、相手の ご婦人の顔には酔ったような表情が浮かぶ。その優美なこと。踊り手の 体は、どこも表情を持ってくるのだった。腕の動作のひとつとっても、 何とよく感情を表現していることか。そして波のように、大広間をとこ ろせましと踊る様子には無理な動きがひとつもなかった。シャンデリア の光の波間でニ羽の蝶が戯れていると形容できるだろう。パタージュ氏 がウィーンから招いただけのことはあって、舞踏教師の踊りぶりは水際 だっていた。 若者とその恋人は肩を寄せ合ってその踊りにみとれ、羨望の眼差しを 長身で細身のハンサムな舞踏教師に投げていた。 「何てすばらしいのでしょう」と娘は連れの青年に話しかける。青年は うなずく。しかし、彼も目と心を奪われている。そして、あんなに上手 に踊れたらどんなに素晴らしいだろうとは思うものの、それは到底ステ ップも怪しい彼には望むべくもない。連れの娘が、あまりに魅了されて いるのを見ると、すこし腹立たしくなってくるのだった。 舞踏教師に巧みにリードされている深紅のドレスを着た婦人はくるっ と輪を描いて舞踏教師のまわりを回転した。そのたび毎に、衣装がふわ っとふくらんで、大きな深紅の薔薇が咲いたようになる。すると彼らは 一つの滑らかな曲線を描いて、大広間の端へと流れ去る。そこで、見物 人にぶつからないかな、と思うほどすれすれのところで、また輪を描く。 そして、再びせり出すように、顔をシャンデリアの方へと向けて中央に 戻っていく。婦人は舞踏教師にもたれかかったような姿勢のまま、唇を 僅かに開いて、まつげを伏せて、かすかに息をついた。 バイオリンの調べが、早い旋律を奏ではじめると、舞踏教師たちは、 まるで狂った蝶のように乱舞した。息つくひまもないほど回り、踊り、 飛び交った。それにやがてチェロのうなるような響きが加わるとスロー テンポのものういような踊りがはじまる。バイオリンはしばらく鳴りを ひそめていたが、急に高い音色を出して、チェロと手をつなぐようにし て別の変奏部を奏でた。 ジャンがマドレーヌの手を握って、大広間の隅に、群集の間に隠れる ようにして立っているのが認められた。ジャンは、ひそかに誰かを眼で 探しているようであった。彼は、時たま舞踏教師の方に目を向けたが、 ろくすっぽ見ていなかった。彼の視線は吸いつけられるように、大広間 の反対側にいる灰色の服を着たエレーヌに釘づけされていた。灰色は、 ごく明るいものだったので、かえってエレーヌの肌の白さを際立たせて いた。 マドレーヌは、ジャンの方に頬を寄せてささやいた。 「あの女のひと、知っているわよ、あの深紅のドレスを着た方の人よ」 ジャンが返事をしないので、彼女はジャンをみた。緊張した顔つきをし ていた。彼女は、ちょっとジャンの肘を突いた。 「ねえ、何見てるの」 そして、ジャンの視線をたどっていって彼女はエレーヌの姿を見出した ようだった。 模範舞踏は最後のところにさしかかっていた。舞踏教師はさっと足を 振り上げると、パートナーを持ち上げ、軽快に2回転してみせた。次に 機械のような正確なステップで、歩調をぴったり合わせて、大広間の端 から端まで移動した。その後、3度ばかり緩急の踊りが続き、音楽が盛 り上がりをみせた瞬間、さっと飛び交った。舞踏教師は、全身これバネ と思われるほどの弾みをつけてすっくと静止した。そして、パートナー の婦人と手をつないで、拍手する観衆にうやうやしく一礼した。四方に 向かって4度。その仕草に慣れているのか、優美さそのものだった。 人々は、しばらくの間黙っていた。唖然として魅了されていたのであ る。だが、ようやく感嘆のため息をつきながら、いまの踊りのすばらし さについて切れきれの言葉を交わした。 ついで、すこしずつ動きはじめた。静けさに代わって、陽気な声が次第 ににぎやかになっていった。 舞踏教師は、微笑を浮かべると、ゆっくりと戸口の方に向かい、迎え にきたパタージュ氏にいとも鮮やかに1歩足を後ろにずらし一礼した。 満面の笑みで賛辞を呈しながら、控えの間に案内するパタージュ氏と談 笑しながら、パートナーの婦人と連れ立って足早に大広間から退出して」 いった。
再び演奏がはじまった。「魅惑のワルツ」で、踊りやすい曲だった。 先に立って踊りはじめたのはポールで、エレーヌの手をとると、一礼し てから踊りはじめた。先ほどの舞踏教師たちにひけをとらぬ見事な踊り っぷりだった。青年たちは、ちょっと出鼻をくじかれた様子だったが、 それでも何組かが続いた。やがて大広間は、相手に踊りを申し込む青年 の声や壁の花にならぬよう相手を物色する青年たちのあわただしい動き で騒然としてきた。 マドレーヌは、ジャンの手を握って踊ろうと誘った。しかし、ジャン は、ポールとエレーヌの姿を探し求めて、しばらくは動こうとはしなか った。しかし、大広間が踊り手たちでいっぱいになって、ポールとエレ ーヌの姿もみえなくなると、ジャンは黙ってマドレーヌの手をとり、腰 に手をそえて踊りはじめた。気のないステップだったが、マドレーヌは 眼をつぶるようにして体を寄せてきた。 大広間はいまや踊り手たちでいっぱいだった。ジャンもマドレーヌも そんなに踊りは下手ではなかったが、人に押されて、マドレーヌの無骨 な体がジャンにぶつかることもあった。すぐそばのカップルを避けよう としてのことだったが、ジャンは、心のなかで舌打ちした。エレーヌと ならば、こんなことは起きないだろう、エレーヌは、もっとしなやかな 体つきをしている。 しかし、その不埒な考えをジャンはすぐ打ち消した。放心状態でマド レーヌの足を踏んでしまったこともあるが、こんなにまでジャンを慕っ ている女性をないがしろにする自分の気持ちが赦せなかったのである。 確かにマドレーヌは、ジャンにとって、エレーヌのような初恋の人で はなかった。恋人ともいえない。彼がエレーヌを失って悲嘆の淵に沈ん でいたときに赤毛のマドレーヌがやってきたのだった。彼女は、親身に なってジャンの荒んだ心を慰めてくれた。孤独の中では、気の置けない 話し相手ほど有難いものはない。父親のドモンジョ氏は、あれ以来選挙 にかまけて、息子には腫れ物に触るように接しているし、親友のポール にも裏切られたとなると、もはやジャンには、まともな話し相手はなか った。ジャンは、母親を失った少年時代と同様に、ひとりぽっちになっ てしまったのである。そんな時、マドレーヌは、その無骨な体つきには 似合わず、こまやかな心配りをしてくれて、救いになった。ジャンは、 あるいは、自分はマドレーヌを愛しているのかなと思ったこともある。 世間でいう愛情なんて、こんな程度のものかも知れない。ハハッ。 その時、人ごみの中で、ジャンとマドレーヌのカップルは、ポールと エレーヌのカップルとすれ違った。音楽は、スローバラード゛に変わって いて、物悲しい恋の旋律を奏でていた。エレーヌは、ジャンを他人をみ るような目つきでちらっと眺めた。ポールが得意気に目配せをしてきた。 ジャンには、なぜかその目配せが自分に向けられたものではなく、絵空 事のように思えた。 マドレーヌが、突然、少し離れようとしていた体をぴたっと寄せてき た。一瞬、赤毛がジャンのあごに触れた。赤毛の娘の精一杯したお化粧 の匂いがした。マドレーヌの切ない愛情を感じて、ジャンは赤毛の娘を しっかりと抱きしめた。 その後のふたりの踊りは、比較的スムースに運んだ。回転する時、マド レーヌの体は、ジャンの少しいらだちに似た力に軽々と持ち上げられて 重さがなくなったように回った。ステップもぴったり息が合った。 だが、しばらくすると、ジャンはそんな自分に愛想が尽きたようにな って、せっかく合ってきたステップをわざと狂わせたり、乱暴な回転を したりするのだった。マドレーヌは、必死になってそれについていった。 ジャンは、さらに意地悪くステップを踏んだりしたが、マドレーヌは青 ざめていたが、決して踊りをやめようとはしなかった。
照明が暗くなった。シャンデリアが消されて、ミラーボールだけにな った。曲も変った。ジャンは、しばらくして、その曲が大好きな映画、 「ライムライト」の主題曲であることに気付いた。チャップリンの最後 の映画。悲運のバレリーナが、自殺を図る。演じるのは、クレア・ブル −ム。その彼女をいたわる年老いたピアニストを喜劇役者、バスター・ キートンが演じていた。 ほの暗い明かりのなかで、エレーヌの顔が突然クローズアップされた。 エレーヌは顔をポールの右肩に寄せていたが、ジャンに気付くと、頬を ぴたっとポールに寄せた。白い頬を上気させ、目をつぶって、うっとり とした表情を見せた。夢の中でも、映画のシーンでもなかった。ジャン は、クレア・ブルームの顔が天井一面にひろがって、そして砕け散って いくような気がした。 エレーヌの動きに対して、ポールが応え、大胆にエレーヌの体を引き 寄せ、エレーヌの顔に唇をつけた。その時、マドレーヌが急に体をこわ ばらせた。見ると、ポールのほうをみて、苦しそうな顔をしていた。そ して、再び、ジャンのほうに強く身体を押しつけてきた。いままでにな い激しさだった。ジャンは、体をずらしてよけようとしたが、赤毛の娘 は、離れようとしなかった。 「なんてこった」 ジャンは、マドレーヌを放り出したくなった。いくら愛情表現といって も限度がある。こんな乱暴な愛情表現には耐えられない。ジャンの表情 が暗くなった。 その瞬間、斜めに指す光の渦の中で、エレーヌが眼をあげて、ジャン を真剣な眼差しでみつめた。マドレーヌの態度、そしてジャンの反応に 不審を覚えたようだった。その眼は、ジャンがマドレーヌを愛している のか、マドレーヌがジャンを愛しているかどうかを突きとめようとする 厳しい観察者の眼差しに変っていた。 ポールが、左の人差し指を上下させた。それが何の合図かわからなか ったが、ジャンはその氷のような眼差しに苛立ちを見とめた。マドレー ヌが、また、ジャンに体を預けてきた。ジャンにはマドレーヌが何かの 演技をしているように思われた。観客の目がいっせいに注がれている芝 居のクライマックスに立ち会っているような気がした。上手な役者は、 ここぞと名演技を披露する。下手な役者は懸命の演技を試みるが、観客 は遠慮なくブーイングを発する。こうした瞬間に当っているような気が した。 エレーヌは、立ち止まるようにして踊りつづけ、容赦のない眼差しを マドレーヌに注ぎ続けた。マドレーヌは、眼をふせ、かすかに震え、立 っているのさえやっという風情でジャンにすがりついた。 その時、ポールが強引なステップをして、ニ歩離れると、大きな回転を するかと思うと、エレーヌの視線を身体全体でさえぎるような位置へと 移動してしまった。ポールは、その一連の動作を非常な敏捷さでやって のけたのである。 ジャンは腹立たしくなった。エレーヌの気持ちを知りたいのに、マド レーヌが邪魔をしていると思えてきたのである。しばらくの間、踊り続 けたが、ポールが遠ざかっていくので、いやになってきた。ちらっと、 マドレーヌをみやると、精魂尽きはてた様子だった。 まだ、音楽は続いていたけれども、ジャンは思い切って言った。 「疲れたから休もう」 マドレーヌは、意外なほど素直に従った。ほっとした表情だった。悲し そうな表情と苦しげな眼差しが消えて、いつものマドレーヌに戻ってい った。でも、何事か思案しているように思えた。 静かな余韻を残して、ライムライトの演奏が終わった。照明が、また 明るくなって、踊り手たちは、大広間の隅に退いていった。 ジャンは、奥まったコーナーにポールとエレーヌが並んで立っているの を見出した。二人は、まだ、手を握りあったままだった。エレーヌは、 何かに気をとられている様子だったが、時たま微笑を漏らした。ジャン は、その微笑をポールが陽気に話しかけているためと受け取って、いた たまれないような焦燥感が背筋を通りぬけるのを感じた。 エレーヌがジャンとマドレーヌに気付いた。彼女ははじめて気づいた ようにポールの手を離した。そして、ジャンを澄んだ眼差しで見つめた。 ジャンの心臓の鼓動が、少し高まった。しかし、すでに日は高く昇り、 お昼の食事時になっていた。ポールもエレーヌも別荘の奥に消えてしま った。
第3章 恋人たち
美しい午後だった。日ざしは明るく澄み渡り、風はさわやかで、木々 の梢では小鳥たちがさえずっていた。パタージュ氏の手入れのいい庭園 の縁取りに植えられた春の花々が、いまや盛りと咲き誇っていた。小さ な花弁のひとつひとつが、精一杯太陽光線を浴びようと背を伸ばし、そ の花の蜜を狙って、ミツバチがぶんぶん飛び交っていた。その羽音が、 かえって美しい午後の静かさを演出していた。 ジャンは、大広間を出るやいなやサルトルに肩を叩かれた。マドレー ヌは、太っちょのフランソワたちに誘われて、これ幸いといった様子で 売店のほうに歩み去ってしまった。 マドレーヌには、ランチをたべながら、さきほど感じた疑問を質そう と思っていたジャンだったが、サルトルに「おい、一緒に飯食おうぜ」 といわれれば、断る理由もなかった。 サルトルというのは、学生時代のあだ名だった。実存主義の哲学者、 ジャン・ポール・サルトルに似て、斜視だったからである。当人はあだ 名とはまったく逆で、何事も深く考えることが苦手で、風船のように、 軽い男だったが、人なつっこさで、それをカバーしていた。 確か、大学を中退して、伯父の仕事の関係で、カナダのモントリオール に渡ったと聞いていた。 売店で買ったサンドウィッチを頬ばったところで、芝生に腰を下ろし ながら、「何でおまえがこんなところにいるんだ」 ふたりは、同時に 同じせりふを吐き合って、大笑いした。昔に戻ったような気がした。 何でも、サルトルは、フランスの小麦の買い付けにきたそうである。モ ントリオールはフランス語圏で、やはり年をとると、若い頃、食べた本 国の小麦の味が忘れられなくなるらしい。そんな関係でパタージュ氏に 接近しているとのことだった。 「おまえ、まだ結婚していないのか」 また、同じ質問を同時にしそうになって、ジャンは思いとどまった。お くてと思っていたが、サルトルの左の薬指には指輪があった。聞くとも なく聞くと、既に結婚していて、その相手は、何とレオナルド氏の遠縁 の娘らしい。 「世の中、狭いもんだなあ」ふたりは、頷きあった。 ランチを終えると、サルトルは、「パタージュさんに挨拶してきます」 と言って、そさくさとジャンに別れを告げた。学生時代の軽さはみじん もなくて、有能なビジネスマンになりきっていた。ジャンは、まだ結婚 もできず、仕事も決まっていない自分がひどく時代遅れで、世の中の動 きから取り残されていくような気がした。
午後の部のはじまりは、2時からだった。大広間は、青年たちの歩き 回る物音やそれぞれのパートナーに踊りを申し込む元気な、あるいは、 おずおずとした声が各所に起こっていた。パートナーが気にいらなかっ た青年は、別の相手を物色して回っていた。パートナーの青年が気にい らなかった娘たちは、自信ありげな様子で、壁にもたれかかっていた。 断られた娘は、固く唇を結んでいたし、遠ざけられた青年は運が悪かっ たのだと自分を納得させて、パートナーを放り出した青年と同じように せかせかと大広間を歩きまわっていた。 2時の鐘が鳴らされて、舞踏教師たちが姿を表した。 司会の男がマイクの前に進み出で、おどけた口調で切り出した。 「午前中は、模範舞踏をご披露いたしましたが、午後は、どなたでも踊 れるような簡単なステップをご披露いただくことにいたしましょう」 その声に応えて、舞踏教師たちは、テンポの聞き取りやすい曲を選び、 また、ステップのやさしい順にということで、ブルース、ルンバ、ワル ツ、タンゴの順に、それぞれ一曲ずつ、パートナーのご婦人と組んで踊 ってみせた。確かに、初心者でもすぐに踊れそうだった。 「では、どなたか、お一人、先生の相手をしていただきましょう」 司会者が言った。しかし、若い女性は、みな恥ずかしがって、名乗りで るものはいなかった。 「では、どなたか男性の方、絶世の美人と踊れるなんて、一生に一度 のチャンスですよ。いかがですか」 それでも、誰も名乗りでなかった。司会者は困って、傍らにいた自信 あり気な青年を指名した。 「どう、君」名指されたのは、ポールだった。かれは尻ごみするよう なタイプではなかったので、舞踏教師のパートナーの婦人に一礼して、 「よろしくお願いいたします。ポールと申します」と言った。 曲は、タンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」だった。勿論、ポールは、 巧みな踊りで、その曲を何なくこなしてみせた。テンポもきちんとつか んでいたし、リードも相手がよかったこともあるが、非の打ち所がなか った。 「ごめんなさい。ポール、どうか、これから、パートナーの方と存分 に踊ってください。では、これから午後の部をスタートいたしまーす」 司会者の勢いよい声で、午後の部がスタートした。シャンデリアの明か りが消されようとしていた。 ポールは、にこやかに笑って、エレーヌに何事か話しかけ、ゆっくり と一礼して、踊りを申し込んだ。それは、許婚に申し込む青年のように 落ち着いていて、断られることなどまったく予想もしないようだった。 事実、彼は手を差し出していた。 ジャンは、また自分が傍観者のように、事実そうだったが、事の成り 行きを、マドレーヌと並んで大広間の片隅から眺めていた。 しかし、次の瞬間、かれはびっくりして、目をみはった。エレーヌが、 優美にニ、三歩下がると、申し込みを断ってしまったのである。ポール は慌ててなすところもなく、いつもの彼らしくもなく立ちつくしていた。 エレーヌは、ジャンのいる方向に顔を向けた。ゆっくりとポールの脇を すりぬけて、歩き出した。 彼女は、ぼちぼち踊りはじめたひとびとの間を静かに通りぬけ、一直 線に大広間を横切りはじめ、もう中央に進み出ていた。ひとびとは呆気 にとられてしまった。舞踏会の最中に、大広間を突っ切る!こんな無作 法は、いままで決してなかった。ひとびとは、踊りの最中でも、突っ切 ることができるという単純な物理的な可能性をはじめて知ったのである。 でも、礼儀知らずの野蛮人、タヒチ島の土人ならともかく、パタージュ 氏の令嬢エレーヌともあろうものが、社交界の礼儀を知らないはずはな い。 あるひとたち、教会のミサでのエレーヌの奇妙な言動を目撃していた ひとたちは、エレーヌがまたまた何かをしでかそうとしているのを感じ とった。パタージュ家の事情に通じているひとたちは、昨年のスイス旅 行以来、エレーヌが奇矯な行動をすると聞いていたが、いまそれを目撃 しているのだと考えた。エレーヌが気がちがったという噂をいまこの眼 でしかと確かめられるのだ。 その間にも、エレーヌは顔色ひとつ変えず、落ち着きはらって歩いて いた。踊り手たちが前にふさがった場合には、立ちどまったまま静かに 前の空間をみつめ、誰もいないときには、ゆっくりと歩いていった。 音楽は、はたと中止された。いままで椿事に気付かなかったひとも、 一斉に大広間の中心に眼をこらした。踊っていた若者たちは足音を忍ば せて、大広間の隅へと退いていった。誰ひとり物音を立てようとするも のは、いなかった。
やがて誰の目にも、エレーヌがめざしているのはジャンのほうだとい うことが明かになってきた。 ジャンとエレーヌ。これだけで、何か事件が起こると予想するには十分 だった。 ポールからジャンのもとへ。 そのポールは、眼を異様に光らせてエレーヌの歩みをみていた。青ざめ ていた。だが、身動きせず、何のそぶりもしなかった。 肝心のジャンは、皆の視線が集まるなかで、ただぼんやりと突ったっ ていた。狂おしい喜びを体験したひとが、喜びを顔に表す前には、ただ 驚いたような表情をしていることがある。彼は、そうしたひとのように 彫像のように立っていた。 ミサの時のエレーヌの青ざめた表情、厳粛な雰囲気、駆け去るエレーヌ、 驚いた表情をして見送る会衆といったシーンが、ジャンの脳裏をかすめ た。 急に隣にいるマドレーヌのことが気になった。マドレーヌをどう紹介 したものだろう。ポールは、このことをどう感じているだろう、といっ た、この際、大して重要でない瑣末なさまざまな疑問が、心の中を駆け めぐった。だが、それらの疑問は、心の表層をかすめるように飛び交っ ているだけであった。 彼は呆然としていた。まるで他人事のように、こういう時、ひとは喜 ぶものだと考えていた。彼は全身でもって、この瞬間瞬間に、エレーヌ が自分のところにもどってくるということを感じているだけだった。つ まり、彼はうろたえていただけだった。 エレーヌは、じっとジャンのほうに顔を向けて、ほんの少し青ざめて 歩きつづけている。ジャンは、自分は大した男じゃないな、と確信した。 大した男なら、もう少しどうにか出来るはずなんだけどな。 しかし、エレーヌは、ジャンから眼を離さなかった。ジャンには、エレ ーヌが、何か自分に対して厳しく問題解決を迫っているように思えた。 切迫した瞬間だな、と彼は思った。おやおや、エレーヌはどんどん近 づいてくるぞ、本当に僕のところに来るのか知らん。ああ、もうあと、 2歩しかない。おや、立ち止まった。 実際、エレーヌは、ジャンから数歩離れたところにまでくると、ぴた っつと立ち止まった。人々は、固唾を飲んだ。身体中が固くなって、身 動きができないようだった。大広間にいる若者たちは勿論のこと、大広 間の戸口にいた好奇心の強い人々の眼が大きく見開かれていた。 午前の部の模範舞踏をみて、パタージュ氏の庭園でランチを食べると もうやることがないので、帰ったひとも多かったが、まだまだ相当数の ひとが、芝生のところにいた。彼らは、見晴らしのよい庭園からサン・ バレの町を見下ろして、ちょっとした落ち着いた平和な気分になってい たわけだった。 しかし、大広間の入り口付近にいたひとのあわただしい動きをみて、何 事かと幾分退屈していたこともあって、近づいていったのである。人々 は、事情も何も分からなかったけれども、音楽がやんで、静まり返った 大広間では何かの事件が起きているのに気付いた、 パタージュ氏との商談を無事終えたサルトルもそのひとりだったので 「何ですか」と隣の女性に聞いたが、「さあ」と答えるだけで、戸口の ほうに詰めかけていってしまった。しょうがないので、もう一人の女性 の腕を引いてみたが、こちらは振り向きもしなかった。こうして人々は 大広間の入口のほうにどんどん集まっていった。こうして大広間の外で は騒ぎが大きくなっていくのに対して、大広間のほうは静寂がいっそう 研ぎ澄まされていった。
エレーヌは、ジャンの数歩前に立ちつくして、まるで何か細かい調べ ものでもするかのように、注意深くジャンを見つめた。観察者の厳しい 眼差しだった。ジャンは、これを受けとめていたが、刻々と苦痛が増し ていった。こんな場合、一体、僕はどうすればいいんだろう。 しばらくして、ジャンは、気付いた。そうだ、愛情のこもった眼で、 エレーヌをみつめればいいのだ。彼は、6ケ月もの長い別離の日々、あ の苦しかった月日、エレーヌのことばかり想って過ごした日々を思い出 した。 そうだ。僕は、エレーヌを愛しているのだ。 彼は、いつの間にか一歩あとすざりしていたが、思いきってエレーヌの ほうに歩みでた。エレーヌの眼差しに疑念と不安が交錯した奇妙な混乱 が生じた。観察者の厳しい目つきが、一瞬、やわらいだ。そして、希望 の光が瞳に灯った。 その時だった。エレーヌがジャンに近づいてきた時から、マドレーヌ は、蛇にいすくめられた小動物のように怯えていたが、ジャンがエレー ヌのほうに一歩進みでたとき、その眼は、救いを求めるかのように大広 間をさまよった。彼女は、ようやくそれを探し当てたらしく、一心に、 眼をこらした。視線の先で、ひとりの男が激しい身振りを示した。 これ以上の憤怒を表した身振りはないほどに。それは、じっと立ち尽く して、エレーヌの一挙手一投に眼を光らせていたポールだった。 マドレーヌは、その身振りにはじかれたように、ジャンに寄り添った。 相手の女から自分の夫を守ろうとする妻のような真剣さがそこにあった。 誰もそれが演技だということを忘れてしまうような演技があるものだ。 その役柄を演じている役者は、その瞬間、まったく自分が演技をしてい ることを忘れて、ただ、そのひとになりきる。普段いくら下手な役者で も、一生に一度は、自分でもわからぬままに、どんな上手な役者でも敵 わない演技を見せるものだ。このときのマドレーヌがそうだった。 マドレーヌは、切ないほどの愛情と悲しみを全身に表して、ジャンに 寄り添った。人々は、一瞬、すっかりマドレーヌに同情してしまった。 パタージュ氏のわがままな令嬢に最愛の夫を召し上げられようとしてい るかよわい妻、それがマドレーヌだったのだ。赤毛のマドレーヌは実は はすっぱな娘ではなく、良き妻だったのだ。 エレーヌは、マドレーヌを眺めた。 今まで正確に筋書きとおりに事を運んできたのに、横から思いもかけ ない邪魔者が現れたのである。エレーヌは、マドレーヌを少し意地悪い 目つきで眺めた。それは、こう言っているかのようだった。 「お前さんが、演技をやっているのは、先刻承知しているよ。だけど、 それはムダなことだよ。私には裏の事情がちゃんと読めているのだから」 しかし、突然エレーヌは、顔色を変えた。空のかなたから、思いがけ なく音楽が響きはじめて、それに耳を傾けるような目つきで、眼の前の 女を見つめた。観察者の厳しい目つきも、意地悪な馬鹿にしたような目 つきも消えた。彼女は、じっと立っていたが、今度は前よりも一層凝固 してしまった。石のようになったという形容があるが、それが子の場合、 適切かもしれない。 ぼんやりと立ち尽くしていたが、エレーヌは、ふたたびマドレーヌを 見つめた。マドレーヌの迫真の演技はまだ続いていた。切ないほどの愛 情と悲しみはいっそう大きくなって、全身からこぼれ落ちそうだった。 彼女は、ジャンの肩に顔を埋めた。そして見上げると、エレ−ヌをにら んだ。 エレーヌは、再び顔色を変えた。マドレーヌ、そして動かないジャン を見ると、絶望的な眼差しになった。魂というものがあるとすれば、そ れが身体中から抜き取られたかのように、エレーヌは立ち尽くしていた。 すべてを失ったひとの姿だった。今にも崩れ落ちそうで、人々は彼女が 立っていられるのが奇跡のように思えた。
次の瞬間、エレーヌは、ジャンに飛びかかっていったと、誰もがそう 思った。だがエレーヌが飛びかかっていったように見えたのは、ジャン の右隣りにいた男だった。見知らぬ男だった。背の高い頑丈そうな青年 で、たまたまこの椿事に出くわして、許婚の手を握り締めながら、その 展開に眼をこらしていたのだった。 エレーヌは、男の手をとると、何か早口につぶやいた。男は、さっと 許婚の手を振り切ると、突然、エレーヌの言葉通りに、まるでバネ仕掛 けの人形のように、彼に課せられた突然の命令を遂行した。許婚の存在 を一瞬、すっかり忘れてしまったようだった。 エレーヌは、男の手をしっかりと握り締めていた。それによって辛う じて失神するのを免れているかのようだった。瞳は大きく開かれて、光 を失っていた。 男は、しばらくこの自分の立場について瞑想しているように思えた。 だが、彼は決してそれどころではなかったのだ。その証拠に、とがめる ような許婚の眼差しを見てはいるものの、その意味に気付かない様子だ った。 男は、次にエレーヌに踊りの申し込みをした。そしてちらっと許婚に 視線を走らせた。だが、彼はすでに自分の義務を遂行するように決心し たらしかった。エレーヌのしなやかな身体をこのうえなく真剣な表情で 抱くと、踊りはじめた。許婚の娘は、小さな叫びをあげてうづくまって しまった。 男は、エレーヌの身体をしっかりと抱えていた。彼の顔には悲劇的な 表情がしばしば浮かんだ。失神する深窓の令嬢を介抱する中世の騎士と いう風に自分を意識しているかのようだった。実際には、彼は、気まぐ れな成り上がり者の娘が気絶するのを、どうにか防いでいる田舎の愚か な青年に過ぎなかったのだが。しかし、彼は自分に課せられた騎士とし ての役割を十分に果たしていた。少しよたよたしていたけれども、顎を 引いて、顔を正面の楽団のほうに向けて、堂々と踊っていた。 慌てて音楽が再開された。有名な曲だったが、舞踏会用の曲ではない ようだった。それに演奏者も、動転しているのか、各パートが不揃いで あった。しかし、この場合、そんなことは、問題ではなかった。ただ、 音楽が奏でられること、音が出ていることが重要だった。それに皮肉な ことに不揃い加減が、まことに、男とエレーヌの踊りぷりとよく似合っ ていた。 男は、時々自分の立場を思い出すようであった。エレーヌと組んだ手 を解いて、許婚のところに戻ろうとした。しかし、エレーヌは、すでに 顔を男の頑丈な胸に埋めて、手を放そうとしなかった。そこで、彼は、 再び、自分の義務を確認した。 若者たちは、唖然として、この情景を眺めていたが、音楽が鳴り出し たので、気をとりなおして、踊りはじめた。この際、誰とでもいいから 踊らねばというカオスが出現した。事実、男に取り残された許婚の娘の ところには、何人もの青年が踊りを申しこんだ。曲も曲、演奏も演奏な ので、踊りも奇妙なものとなったが、一首の興奮状態にある若者たちに は、そうとは感じられなかったようである。 やがて、大広間は、こうした踊り手でいっぱいになった。入口に押し かけていたひとびとも、自分も踊りに加わらねば損だという気持ちにな った。 サルトルもその一人だった。残念ながら出遅れて、いい相手を見つける ことはできなかった。顔立ちがふぞろいな娘と踊りながら、彼はチェッ と舌打ちをした。ビヤ樽と踊っているような気がした。
この間、立ち尽くしていたジャンは、不意に、大広間の戸口に向かっ て走り出した。彼は、何度も、踊っているひとたちと衝突したが、そん なことには構ってなどいられない様子だった。誰も、ジャンを止めよう ということは考えつかなかった。 マドレーヌが絶叫した。人間の声とは思われなかった。奇妙なことが 続いているので、誰もが、それをはしたないとも思わず、何か当然のこ とが起きているような気がした。それにその声はひどく悲しみに満ちて いたので、尚更であった。赤毛のマドレーヌには、何とかしてジャンが 自分のもとから走り去るのを食い止めたいという思いしかなかったので あろう。大声を出してしまった後で、彼女は顔を真っ赤にした。 ジャンは、その声を耳にして、ふっと走るのをやめた。どうやらマド レーヌが自分を気遣って声を上げたのに気づいたらしく、首を傾けて、 何事かを考える様子を示した。しかし、次の瞬間、前よりもさらに激し い速さで、戸口へと突進した。戸口のところにいる黒山の群集には気づ かないように見えた。ひとびとは、不思議な早さで、さっと退いて、空 間を作った。 その開いた空間にジャンは立ち止まった。いかにも名残惜しそうに、 大広間の踊っている若者たちを眺め、また、自分を取り巻いている人々 をちらっと眺めた。これが、見納めだ。もうこんな世の中とは縁を切る のだ。そういう目つきだった。顔面蒼白で眼だけがギラギラしていた。 彼の目は、大広間の群集の中にエレーヌの姿を探した。だが、舞踏は 続いていて、ひとびとは何が起きても踊るのはやめないと決心したかの ようだった。踊ってもいない限り、何をしていいか分らなかったのかも 知れない。衝撃を受けた場合、ひとは無意識に手をこすり合わせたり、 肩をゆさぶったりする。今度の場合も同じようなものだったのであろう。 衝撃が大きい分だけ体を動かせる舞踏に専念したのかも知れない。 エレーヌは、踊りの輪の中にいた。ジャンが走りだし、マドレーヌの 絶叫をふりきって戸口を飛び出していくのを見た。彼女は、男の周囲を 回転したところだったが、さっと男の手を振り払った。傍らにいた数人 の男たちと、許婚の娘が短い叫びをあげた。 エレーヌの表情は、急に生々として明るくなった。次に、急に暗くな った。ジャンに愛されていたという事実を確信したあと、不意に忌まわ しい不吉な想像が彼女を促えたのだった。自分の仕打ちに打ちのめされ て、ジャンが自殺を図るのではないか。エレーヌは、戸口を走り出て、 「ジャン、待って。ジャン」と叫びながら、ジャンの後を追った。 急いではいたが、その物腰には、何か安堵に満ちたものがあった。いそ いそと恋人を追いかけるときの若い娘特有の風情が感じられた。 戸口にいた人々は、ジャンがブローニュの森に消えたいったのを見届 けると、急いで大広間のほうに眼をこらした。その瞬間、エレーヌが、 狂気じみた喜びの表情をうかべたまま、戸口から転がり出してきたので ある。 何人かの者は、また、鮮やかにさっと退いた。しかし、他の人たちは、 エレーヌをもっとよく観察しようとして、その後ろ姿を眼で追い続けた。 また、そのほかのひとびとは、エレーヌの後から、また誰かが駆け出し てくるのではないかと、その大広間の方をみつめたままだった。
その大広間では、また事件が持ち上がっていた。大広間の端にいて、 これまで事のなりゆきを見守っていたポールが、エレーヌが走り出して ジャンの後を追っていったのを見ると、突然、顔を蒼白にしたのである。 ジャンが走り出ていき、マドレーヌが叫び声をあげた時には、彼は まだ冷静だった。ひとびとの奇妙な乱舞を微笑を浮かべて楽しんでさえ いたのだ。大広間にいた人の中で、彼ほど雰囲気にまどわされずに、事 のなりゆきを冷静に眺めていたものは、いなかっただろう。彼は、男と 踊っているエレーヌのほんの僅かな表情の移り変わり、目の光の変化も 見逃すまいと眼を凝らしていた。エレーヌと踊っていた男と許婚の娘と のやりとりも、薄ら笑いを浮かべて眺めていた。 マドレーヌが叫び声をあげたとき、彼はかすかに舌打ちをした。そし て、エレーヌの反応を真剣な眼差しで見守った。ジャンが大広間を走り 出し、マドレーヌが絶叫した場面で、エレーヌが一体どういう行動をす るか、それが関心事だったのである。 だが、事は明白だった。エレーヌは、ジャンが彼女を愛していること を知って狂喜したのだ。そして、次には、ジャンが死ぬのではないかと 心配したのである。そして、ジャンの愛情を確信して戸口へと走ってい ったのだ。その間、エレーヌは、1度たりともポールのほうなど見なか ったし、頭の中には、ポールなど存在しなかった。 これが何を意味するのか。考えるまでのことはなかった。彼の顔は、 ゆがんだ。苦痛のために、握りこぶしを胸に叩きつけた。人々はポール が、かってこんなに感情をむきだしにしたのを見たことはなかった。 彼は、血も涙もない男であり、どんなに事態が切迫していても、決して 冷静な、見方によっては仮面のような表情を崩したことはなかった。兵 役時代の友人たちは、彼は戦場で決して死を恐れなかったといった。銃 弾が飛び交い、隣でばたばたと同僚たちが倒れていっても、彼は冷静に して沈着だった。軍が窮地に陥り、全員が死を覚悟した時も、顔色ひと つ変えたことはないよ。一度ぐらい悲しんでいるところを見たいよ。 いま、彼は悲痛な表情をしていた。彼は戸口のほうに駆け出した。そ のまま戸口を駆けぬけてしまいそうだったが、マドレーヌがこのとき、 再び、何か叫んだ。「あなた!」といったように聞こえた。 彼は、敏捷に立ち止まった。そして、マドレーヌが身をよじらせるよう にして、手をいっぱいに差し出しているのを見た。それは、赤毛の娘の 精一杯の努力だった。 ポールは、物もいわずにマドレーヌに近づいていくと、力まかせに、 彼女を殴った。マドレーヌは、ふらふらと倒れかかった。ポールは、彼 女を抱きかかえると、戸口に向かって再び走リ出した。赤毛のマドレー ヌは、失神していたが、喜びと安堵の笑いがその唇に浮かんでいた。
ひとびとは、何が何だかさっぱり分からなかった。しかし、ジャンの 場合、エレーヌの場合よりも、もっと鮮やかにポールの突進を避けるた に、後ろに退った。彼らは、大勢の人間がかくも見事に同じ行動をとれ るのを満足に思った。 別荘の庭には、パタージュ氏が舞踏教師たちのために用意した4頭立 ての馬車があった。パタージュ氏ご自慢の馬車で、選りすぐりのサラブ レッドたちだった。車窓の縁飾りも、ルイ14世時代の職人が彫ったも ので、シート地も牛の背中から1枚しかとれない極上のものだった。 パタージュ氏は、選挙に当選した暁には、これに乗ってアヴィニョン の南仏食糧組合の本部に乗りつけるのを楽しみにしていた。この白い幌 のついた馬車に乗って、丘を駆けのぼり、野原や湖のほとりをゆっくり と駆けぬけていく時のことを空想しては、手を後ろに組んで、馬車の回 りを歩きまわったものである。われながら、いい買い物をしたものだ。 ポールは、その馬車に近づいた。マドレーヌを馬車の中に放りこむと 彼はびっくりしている御者を造作なく引きづり下ろした。乗りこむやい なや激しい鞭を馬にあてた。馬は驚いて、いなないたが、ポールは委細 構わず、また鞭を一振りした。 馬車は、ブローニュの森とは反対側に走り出した。ポールはにやにや 笑いながら、ますます激しく馬を鞭打った。パタージュ氏ご自慢の駿馬 だけあって、ものすごい勢いで、躍りあがるようにして駆け出した。 馬車は砂塵を上げて、全速力でサン・バレの町のほうへと丘をまっし ぐらに下っていった。道は、太陽に照らされて、水蒸気が昇っていた。 まるで、ポールの邪恋の炎のようにそれは、めらめらと燃えあがってい るようにみえた。ポールとマドレ−ヌを乗せた馬車が、曲がりくねった 丘の斜面の道を駆け下りる速度は、素晴らしいものだった。やがて馬車 の白い幌は、かすかな点になって、春霞のなかに消えていった。
第4章 ハッピー・エンド
この舞踏会の事件の後、1月たって、ノフォラージュ氏の教会では、 ひとつの簡素な結婚式が催された。新郎は、ジャン。新婦は、エレーヌ だった。 ジャンは、父親と一緒に出席者のすべてに律儀に挨拶して回っていた。 小心者である証拠に、緊張して肩を小刻み震わせていた。タキシードは、 少し大き過ぎて、不似合いだった。しかし、友人に向ける時の顔は、さ すがに嬉しそうだった。 エレーヌには、白いウエディング・ドレスがよく似合った。あまりの 美しさに出席者からは、一様に、ため息が漏れた。上気したエレーヌの 気品のある顔立ちは、様々な恋の試練を乗り越えてきたものだけが知る 確かなメッセージが浮かんでいた。 「私は、幸せを、自分の手で、つかみとったわ」 結婚式には、エレーヌの父親のパタージュ氏をはじめとして、ジャン の父親のドモンジョ氏、そして選挙で争った頑固者のレオナルド氏が、 ぎこちない様子で並んで出席していた。そばには、サルトルもいた。彼 は、相変わらず、落ち着かない様子で、眼をキョロキョロさせていた。 「へえ、フランスの結婚式ってこんな風なんだ」 出席者の顔ぶれの中には、本来ならば、出席しているべきVIPがひ とり欠けていた。市長のアンドレ氏だった。公務多忙が理由であった。 しかし、選挙でパタージュ氏と組んだ盟友の欠席理由としては、いかに も、それは、不自然だった。本当の理由は、誰もがわかっていた。彼は 息子の不始末を知って、ほとほとあきれ果てたのである。 「ポールが? まさか」 彼は、事実を知らされたとき、絶句した。自慢の息子だけに、ショック も大きかったのである。 結婚式の後、パタージュ氏の別荘の大広間で、舞踏会が行なわれた。 これは、ジャンとエレーヌの強い希望に、パタージュ氏が譲歩yしたの である。ジャンとエレーヌは、(もう結婚したから若夫婦と呼んでもよ いだろう)以前から舞踏会で踊るのを楽しみにしていた。誰にも邪魔さ れずに、みんなに祝福されるなかで踊る!なんて、すばらしいんだ。 いま、ジャンは、自分の腕の中に、このうえなくしななやかでやさしい 生き物(つまり妻のエレーヌのことだが)を感じて、限りなく幸福だっ た。彼は、自分は大した男だと思った。 若夫婦は、式後、スイスへ新婚旅行に出かけた。アヴィニオンの空港 には、パタージュ氏やドモンジョ氏の仕事関係者も加わって大勢のひと が押しかけた。柱の陰には、ひっそりとポールとマドレーヌ夫婦の姿も 見かけられた。
ここで幾つかの、読者の疑問に答えておいたほうがよいだろう。 牧師のノフラージュ氏は、2,3日姿がみえなかったのを、読者は記憶 しておられるだろうか。 舞踏会の美しい朝、映画評論家がした質問と、それに対するパタージ ュ氏の皮肉な答えを。 「牧師のノフラージュ氏の姿がここ2、3日見えないが、どうしたので すかね」 「さあ、牧師として選挙に肩入れするのはまずいと思ったのではないで すか。上のほうから呼び出しをくらったのかもしれませんな」 実は、ノフラージュ牧師は、その間、アヴィニョンの市役所を訪問し ていたのである。南仏食糧組合の選挙でのレオナルド氏への支援を市長 に依頼するのが主目的であったが、その後、ふと思い立って戸籍係のと ころで、戸籍台帳に眼を通させたもらった。レオナルド氏の戸籍である。 やはり、彼は離婚していて、子供もいなかった。「するとパタージュ氏 と境界問題で争っている土地は、将来、どうなるのかな」 そのあと、何の気なしに、パタージュ氏の戸籍をみた。成る程、子供 は3人ですべて女。長女、次女は結婚している。3女がエレーヌで未婚 である。さらに、思いついて、サン・バレ市長のアンドレ氏の戸籍も閲 覧した。その時、ノフラージュ牧師は、その中の一行の記述に出くわし て、眼が釘漬けになった。一瞬、雷に打たれたようだった。 そこには、長男ポールとあって、ダボス家の長女マドレーヌと3月結婚 と記述してあるではないか。ポールは結婚していたのか。相手は、マド レーヌ? あの赤毛のマドレーヌか。最近、ジャンと仲良くしていると かいう。 意外な真相を前にしてノフラージュ牧師は、しばらく思案していた。 聖職者として懺悔を聞いた時と同じように、すべてを胸のなかに秘めて おくか。それともポールがエレーヌと結婚しようとしているのは重婚に あたる。神の許されぬところだから阻止すべきか。公表してしまおうか。 選挙運動の終盤になって、この事実を発表しようものなら、パタージュ 氏の陣営は、大きな打撃を受けるだろう。そうしてしまおうか。レオナ ルド氏を応援している立場としては、そうすべきだろうな。 結局、ノフラージュ牧師は、レオナルド氏に話す前に、直接パタージ ュ氏に会って話すことにした。最後の舞踏会の夜だった。 パタージュ氏は不機嫌そのものだった。牧師の顔をみると、露骨にいや な顔をした。握手をするでもなく、席をすすめることもしなかった。 娘がジャンを追ってブローニュの森に消えてしまい、捜索隊を出して、 森のなかをくまなく探しても発見できない最中だった。そんななか、選 挙の妨害者が、のこのこやってきて眼の前にいる。 ようやくパタージュ氏は落ち着いてきて、いつもの愛想のよい顔を取 戻して、牧師に聞いた。 「娘がジャンと心中でもしたのじゃないか、心配です。もしかして、お 立場上、エレーヌの居場所をご存知ありませんか」 牧師は返事の代りに黄ばんだ戸籍謄本をパタージュ氏に突きつけた。 「その前に、お伺いしたいことがあります。これはどういうことですか」 パタージュ氏は、疑わしそうに、書類を受けとった。やがて、手がぶる ぶる小刻みに震え出した。 「まさか、ポールが」搾り出すような声だった。 いつもの明るく強気な権力者の面影はなかった。青ざめた老人の皺くち ゃな表情がそこにあった。 「いいですか。ここは冷静に私のいうことを聞いていただけませんか」 とノフラージュ牧師は切り出した。お嬢さんのゆくへは、ご心配なく。 私は、居場所を知っております。しかし、その前にお願いしたい。お嬢 さんを、政治的小道具にお使いになるのはやめていただきたい。ポール と結婚させるとか、あるいはマドレーヌと離婚させてから、あらためて 結婚させるとか、そのような類のことはしないでいただきたい」 談判は、深夜に及んだ。結局、牧師のほうも譲歩して、エレーヌの居 場所をパタージュ氏に教えた。直ちに捜索隊がレオナルド氏の家にいき エレーヌとジャンを発見した。 「なぜ、知っておられたのですか」とパタージュ氏が聞いた。 「私は、エレーヌが一度悩んで告白においでになった時に、とにかく大 変なことが起こったら、レオナルド氏のところに行きなさい」といって おいたのです。 パタージュ氏には聞きたいことが山のようにあった。いまさらながら 政治や商売にかまけて、娘の気持ちを知ろうとしなかったことが悔やま れた。しかし、どうしても気になることがあったので聞いた。 「エレーヌの告白というのは、一体どういうことですか」 牧師は黙っていた。 「ジャンとエレーヌ、二人の結婚式が終わったら申し上げましょう」
新婚旅行にジャンとエレーヌが出かけたあと、パタージュ氏は、直ち に教会を訪れた。ノフラージュ牧師は、笑顔でパタージュ氏を迎えて、 席をすすめ、のんびりと世間話に花を咲かせはじめた。昔の仲のよかっ た頃の二人に戻ったようだった。しかし、パタージュ氏は気にかかって いることが頭にこびりついて離れなかったので、牧師に先日の約束を思 い出させた。 「つまり、ちょっとした思い違いが原因なのですよ」 牧師は、そう前置きして、次のように話しはじめた。 「ポールは、この町に帰ってきた直後に、マドレーヌと結婚しました。 兵役時代からのペン・フレンドだったようです。しかし、舞踏会に一緒 に行って、ジャンがエレーヌにぞっこんになったのを見ると、ちょっと した意地悪な悪戯をしたくなってきた。お嬢さんをすこし好きになった のかも知れません。ところが、おあつらえむきのように、あなたがろく に調べもしないで、ポールをエレーヌの婿にしようと、スイスにわざわ ざ呼び寄せました。ポールはチャンスを逃すような男ではありませんか ら、この機会をとらえて、あなたがわざと席をはずして二人っきりにし た夜、エレーヌを手ごめにかかったのです。エレーヌは激しく抵抗し、 それに興奮したポールは力まかせに首をしめたので、エレーヌは、恐怖 のあまり失神してしまったのです。ポールは、絞め殺してしまったと思 って、その場を立ち去り、失神から回復したお嬢さんは、てっきり処女 を奪われてしまった、もうジャンと結婚できる体ではなくなったと思い こんだのです」 パタージュ氏はソファの上で、居心地が悪そうにもじもじした。自分 の浅慮が娘を破滅の淵まで追い込みかけていたことに気付き、いまさら ながら、政治や商売ばかりにかかづらっていた人生のありようを悔やん だ。牧師は、やさしいいたわるような目つきでパタージュ氏をみやり、 話しを続けた。 「エレーヌは、もうすべてお終いだ、と自殺することも考えました。 それは思いとどまりましたが、あなたのいう通りに潔くポールと結婚し ようと思いました。そうすれば、何事も起こらなかったことになるし、 父親のあなたにも喜んでもらえる。大事な選挙にも勝って、あんなに楽 しみにしていた馬車に乗ってアビニョンにも凱旋してもらえる。そこで すべてを胸の中にしまい込み、ジャンとは今後一切付き合わないと決心 して、スイスからジャンには一切手紙を出さなかったのです」 「ところが、一旦は、そう決心したものの、日増しにジャンを愛する 気持ちは強くなる一方でした。ジャンは自分を愛している、そのジャン のためには、取り返しのつかない程度まで、ジャンと自分の間を離れさ せねばならない。それには、ジャンに自分を嫌わせればいいと思ったの です。これが、あのミサでのお嬢さんの狂気めいた行動になったのです」 パタージュ氏は、頭をかかえ、うめいた。かわいそうなエレーヌ。俺 は、娘に何ということをしてしまったのだ。 牧師は、パタージュ氏の肩に手を触れ、ニ三度、慰めるように撫でた。 教会で告白したあと、信者たちがよく号泣することがある。 「可哀想に、ここにも、またひとつの悩める魂がいる。アーメン」 「一方、ポールは、エレーヌの狂気じみた様子に魅せられてしまった のです。彼は、スイスのあの夜の一件以来、エレーヌが自分に愛想よく 振舞っているけれども、内心、殺したいほど憎んでいることを知ってい ました。そして、依然として、いや、ますますジャンを愛しているのを 知りました。彼は、そこで妻のマドレーヌをジャンにちかづけようとし たのです。ジャンとマドレーヌが愛し合っているのをみれば、エレーヌ もまた自分を愛してくれるかも知れないと思ったのです。その思惑通り になりかけたときもあったのです。さきほど申し上げたように、すべて があなたの思ったように円く収まるとエレーヌが思ったからです。 「その頃、エレーヌは、噂ではありましたが、ジャンがいまだに自分 を愛しているということを知ったのです。これが最後だ。何とかして、 ジャンの真意を確かめてから、ポールと結婚しようと決心しました。 そこで、ジャンの父親のドモンジョ氏とも仲のよい私に会って噂の真偽 のほどを確かめようと教会にお見えになったのです。 牧師は、メイドがお茶をもって居間に入ってきたので、会話を中断し た。「ありがとう、そこに置いてください。あとは、私がやるから」と いますぐにでも話しの続きを聞きたがっているパタージュ氏への配慮を にじませた。
牧師は、話しを再開した。 エレーヌは、時間がない、時間がない、すぐ家に帰らなくてはと、息を 弾ませながらやってきました。告悔室で向き合うと、昔のように元気に なったようでしたので、私がそう口に出すと、泣き崩れました。そして 一気に胸の中に秘めていたことを告白しはじめたのです。パタージュさ ん、その内容は、先日、申しあげたように、スイスでのあの忌まわしい 夜の事件でした。 私は、ジャンとの恋のいきさつでも、つまり、おのろけでも聞かされ るのかなあと思っていたので、正直いってびっくりいたしました。次に エレーヌぬ悩みに同情しました。そして、それが青春期にある人達がよ く陥りがちな経験のひとつであることも分かりました。誰でも、大人に なるためには、内面と外界の厳しい葛藤をくぐりぬけねばなりません。 それはさながら、さなぎが蝶に脱皮するときのような試練で、一番死亡 率が高い時期なのです。私は、エレーヌに語りました。エレーヌ、いま あなたは、神の与え賜うた試練に向き合っています。あなたには、この 試練を幸福に転換できる力がもう備わっています。自分を信じなさい。 愛の成就を信じなさい。そうすれば、自と道は開けるでしょう。 エレーヌは、その忠告を真剣に聞いてくれました。そこで安心した私 は、エレーヌに聞かされた内容が、パタージュさん、あなたやアンドレ 市長を攻撃する、またとない材料であることに気付いて、真実、喜びを 感じざるをえませんでした。エレーヌ、その事件後、お父さんについて どう感じていますか? その私の口元におそらく傲慢な笑みが浮かんでいたのでしょう。エレ ーヌは、私をじっと見つめました。長い時間が経過しました。そして、 私につばを吐きかけると、教会の外へと駆け出しました。私は、正直、 告悔室での、神の前での、そうした無礼な仕草に仰天しました、彼女の 背中に向って、とっさに「レオナルド氏を頼れ!」と叫びました。怒っ ていましたが、その言葉だけは言ってあげたのでした。ここに濁流の中 を流されている娘がいる。彼女の指先は、救いを求めて、岸辺に生えて いる1本の草木を求めている。誰でもいい、親身に相談に乗ってくれる ひとであれば。幸いレオナルド氏は、頑固者で、パタージュ氏、あなた の政敵ですが、常々、あいつは悪いやつだが、あんな奴からよくあんな にいい娘が生まれたものだ。赦されるものなら、後継ぎのいない自分と しては、養女にしたいくらいだと語っていたのです。 エレーヌに去られた後、私は神に祈りました。私の傲慢さを悟りまし た。パタージュさん、あなたをおとしめようという卑しい考え、あなた をおとしめる力が備わっているという邪な考え、私はそれを正しいこと と信じていたのです。だが、神に仕えるものは、何人もおとしめたりし てはならないのです。 パタージュ氏は、立ち上がって、牧師のそばに寄り、その手を押しい ただいて、こう囁いた。 「ありがとう、娘を救ってくれて。実の親よりも娘のことを深く考えて いただいて、ほんとうにありがとう。感謝の言葉もない。レオナルド氏 にも感謝をしたい。娘を救ってくれて、娘を信じてくれて」 それに続くパタージュ氏の言葉は、牧師にも信じられないものだった。 「ノフラージュ牧師、お願いがある。ぜひ、レオナルド氏に伝えてほし い。土地の境界問題は、私が全面的に悪かった。謝る。それから、選挙 のことだが、出馬は取りやめる」
ノフラージュ牧師は、大きくうなずいて、それがよい、それでよいと 繰り返した。政治家にとって、出馬撤回は、身を切るような決断のはず だった。多くの支援者を裏切ることになる。政治生命も絶たれるかも知 れない。しかし、政治は、ひとびとの幸福の調和点を探る試みである。 その政治家の正義と公正さへの信頼が根底になければ、誰も、政治家が どんなに美辞麗句を並べたてても、ひと一倍努力を重ねても信用しない だろう。パタージュ氏は、今度の事件で、それがよく分かったのである。 潔い決断である。牧師は、この男は間違うこともあるが、悔い改める勇 気をもっている。いい資質をもった政治家になれるだろうと見直した。 パタージュ氏は、重荷を下ろした時のようにすっきりした顔になって 牧師に話しを最後まで聞かせてほしいと頼んだ。牧師は笑顔で応じた。 「私は、何としてもエレーヌのために尽くしてやりたいと思いました。 一番の道は、ジャンとの結婚でしょう。しかし、それはポール、そして 父親のアンドレ氏にとっては、好ましくない事態です。彼らは傷つくで しょう。そうかといって、ポールが喜ぶようにすれば、ジャンのほうは 悲しむことになる」 名案は、浮かびませんでした。 しかし、私はあきらめまい、何かいい打開の道があるはずだと考え直し ました。そこで、ポールの身辺を調査しはじめたのです。もしエレーヌ と結婚することになったとしても、身辺に問題がなければ、それはそれ で、ひとつの選択でしょうから。そこで、2、3日、私はアンドレ市長 の評判、そしてポールの交友関係について調査してみたのです。結果は ご存知の通りです。 一方、エレーヌのその後の動きも気にかかっていました。レオナルド 氏に電話をし、その後、エレーヌが訪ねてきたかどうか聞いてみました。 「ああ、来たよ。いい娘だね」相変わらず、ぶっきらぼうな返事でした が、一晩話し合ったそうです。「あの娘も、俺のことが気にいったよう だったぜ。冗談めいた口調だったが、一緒に暮らしてもいいといってい た」 私は、意外な展開に驚いて、「まさか、あんたと結婚するなんて」と口 走ると、「よせやい。若い娘が、こんな爺さんと結婚してくれるはずな んかないだろ。養女になってもいいというんだ」 そんなことで、エレーヌも大分気が楽になったようです。ポールとの あの夜の一件も記憶から遠のいてきました。ポールとの婚約も終えて、 あの運命の舞踏会の日がやってきたのです。ポールは、最後のダメ押し で、妻のマドレーヌにジャンを愛している演技を強要しました。マドレ ーヌは、従順な女でしたが、夫・ポールがエレーヌを愛しはじめている 気配を感じました。どうもいつもの冗談ではなさそうだと気付いて、心 がゆれたのです。 エレーヌも必死でした。彼女は無垢な娘として、どうしてもジャンの 愛情を確かめたかったのです。もし、本当に、マドレーヌがジャンを愛 しているならば、愛するジャンのために身を引かねばならないでしょう。 そこで、舞踏会では、当然、いろいろの心理劇が火花を散らしたのです。 しかし、マドレーヌの最初のいくつかのへまがエレーヌを元気づけたの です。そして、マドレーヌが必死になって演技をしたにもかかわらず、 最後には、エレーヌにも真相が飲みこめたのです」 パタージュ氏は、黙って聞いていた。牧師の話しが終わると、彼は言 った。 「青春時代というのは、いくら悪いことが重なっても、過ちを犯すこと があっても、いい時ですなあ」 (完)