我輩はサイクリスト
BD-1で下町散歩


 近代文明が生み出したもので、何が後世に残るか、 ということを友人と話したことがあった。  彼は映画だろうと言った。私は自転車だろうと言った。                    白鳥和也

目次

1 我輩、FDBに恋す 2 我輩、BD-1を試乗せり
3 我輩、BD-1を購入せり、その1 4 我輩、BD-1を購入せり、その2
5 我輩、浅草から吉原へ 6 我輩、吉原から龍泉寺へ
7 我輩、龍泉寺から日暮里へ 8 我輩、谷中から本郷へ
9 我輩、BD-1の高速性能を試す 10 我輩、武者小路実篤邸へ、その1
11 我輩、ちょっと柏駅まで 12 我輩の我孫子グルメ探訪、その1
13 我輩の我孫子グルメ探訪、その2 14 我輩、武者小路実篤邸へ、その2
15 我輩の我孫子グルメ探訪、その3 16 我輩、再び浅草から竜泉寺へ
17 我輩、根岸から浅草へ 18 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その1
19 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その2 20 我輩、根岸の里にて子規を偲ぶ
21 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その1 22 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その2
23 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その3 24 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その4
25 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その3 26 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その4
27 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その5 28 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その6
29 我輩、ニコライを偲ぶ、その1 30 我輩、ニコライを偲ぶ、その2
31 我輩、連雀町から駿河台下へ


1 我輩、FDBに恋す

オトーサン、 白鳥和也さんの本を読んでから、 折りたたみ自転車のことが頭から離れなくなってきました。 このフォールディングバイク(FDB)、 最近流行のようで、あちこちで見かけます。 「あんなもん、自転車じゃないよ」 その昔、宮田の折りたたみ自転車を買って、 クルマのトランクに収納し、箱根で走ってみてガックリ。 まったく、坂を登れないのです。 以後、見向きもしませんでした。 でも、最近は優れものが出てきたようです。 「自転車革命」と言うひとも出てきます。 ママチャリなんかを基準に、 この新種の自転車なるものを考えてはダメ。 21世紀を体感できる乗り物が誕生しつつあるのです。 オトーサン、 先日、柏駅東口まで自転車で行きました。 10時10分にスタートして、30分、6km。 「やっぱり、30分で着くんだ」 息子に譲った電動アシスト自転車と同じ所要時間。 「ロードレーサーがあれば、電動自転車なんか不要だ」 この辺の坂なら、軽々と登っていってしまうからです。 映画を見た後、ビックカメラへ。 ここには、折りたたみ自転車が並んでいます。 「安いなぁ、1万円から買えるのか」 売れ筋でも、2万円足らず。 「こりゃダメだな」 (1)シングルギアでは、坂は登れない。 (2)重量が14.3kgもあっては、持ち運びに向かない。   せいぜい、10kgが限度。 

●岩井商会 PFT-161K  16インチホイール  1段ギア  リヤキャリア付き   重量:14.3kg 価格:9980円(税込) オトーサン、 「やっぱり、安物は、いかんな」 大事な安全性や耐久性などに問題があるようです。 「高級品をみてみるか」 ネットで”おおやまサイクル”をクリックしました。 「重量 6.5kg!こりゃ、軽くていいなぁ」 「でも、シングルギアじゃ、話しにならん」

●パナソニック・トレンクル6500 14インホイール  重量:世界最軽量の6.5kg  折りたたみサイズ:長さ55cmX高さ33cmX幅58cm 400円のコインロッカーに入る。 チタンや軽量パーツを多用。 価格:14万9100円(税込) オトーサン、 次に、注目したのは、ブロンプトン。 「英国製か、かっこいいなぁ」 「ギアも6段あるし」 「折りたたむと小さくなりそうだ」 でも、サイトを探すかぎりでは、 不親切で、売る気あるのか?という感じ。 ブレーキの効きが悪いという書き込みもありました。

●BROMPTON T6  最高級ツーリングモデル  6段変速 16 インチホイール  泥よけ、リアキャリア付き カラー:ブリティッシュ・グリーン  重量:12.4kg 折りたたみサイズ:長さ60cmX高さ30cmX幅58cm  価格:13万8600円(税込) オトーサン、 「やはり、実物を見ないことには」 そこで、サイクルベース あさひの北松戸店へ。 ここは、以前、1度来たことがある量販店です。 「高い自転車なんかあるのか?」 馬鹿にしていましたが、 「おお、プジョー・パシフィックがある!」 「この本皮のサドル、かっこいいなぁ」 プジョーのライオンがエンボス加工してあるのです。 「この店、安い!買うべし。  でも、BD-1をみてからにしよう」 ネットでユーザーの声を調べてみると、 この本皮のサドル、固くて、とてもじゃないけど使えないとか。 使いこむと、なじんでくるようですが...

●プジョー・パシフィック18  ドイツのr&m社の「BD-1」のOEM。  8段変速  18インチホイール  前後サスペンション機能付き  サイドスタンドと本皮製シート付き 重量 10.9kg  折りたたみサイズ:長さ72cmX高さ39cmX幅60cm  価格:9万4290円 オトーサン、 サイクルショップおおやまへ。 ここは、BD-1に力を入れているのです。 ○ライズ&ミューラー BD-1   8段変速  18インチホイール 前後サスペンション機能付き  重量 10.9kg  折りたたみサイズ:長さ72cmX高さ39cmX幅60cm 価格:9万8000円 「バーディ、2006年モデルもありますよ」 「ばーでぃ?」 「ええ、愛称です」 BDは、ドイツ生まれ。 ドイツ語ではバーディと発音します。 「11万8000円か、高いなぁ。どこが変わったの?」 「折りたたみが壊れにくくなりました。  塗装も傷がつきにくい高級なものです」 「悪いけど、折りたたんでくれる?」 若い店員さん、あっという間に、折りたたみました。 「へぇ...、ちょっとやらせてくれる?」 「予習してきてください」 「そう」 読者のみなさん、 ヒマだったら、予習してみてください。 「よく考えたもんだなぁ」

「バーディ向けの輪行袋ないの?」 「置いてません」 「これで、代用できます」 「でもなぁ。じゃ、また来るよ」 オトーサン、 次に、新松戸のセオ・サイクルへ。 ・www.seocycle.co.jp 新松戸駅へ行くのははじめて。 10時50分に出て、11時25分につきました。 距離は、6.59kmと、柏駅へ行くのと同じくらい。 自転車パーツを多種揃えているのに感心しました。 DEROSAとか、CORNAGOのマシーンも置いてあります。 千葉県を中心に南関東に81店舗もあるとか。 「ブロンプトン、置いてない?」 「いま切らしています」 「BD-1専用の輪行袋ないかな?」 「ないですね」 でも、いろいろな輪行袋があって、参考になりました。 選ぶポイントは、袋のサイズと重さ。 それに、10kg以上の重量物を運ぶのですから。 肩かけベルトの幅や厚みも要チェック。 オトーサン、 帰宅してから、ネットでサーチ。 「おお、これ、よさそうじゃん!」 楽天で、専用3wayバッグを発見しました。 「背負えるのが、いいね」 ○BD-1専用輪行バッグ  商品番号:RM04-3WAYBAG  輪行しない時は、バックパックや手提げバッグになる  サイズ:畳むと:48cm x 36cm /広げると:100cm x 85cm  価格 1万3702円 (税込) 送料別途  www.rakuten.co.jp/ride-on/484795/484840/484843 オトーサン、 奥方の反対が予想されるので、 いまだに購入に踏み切っていませんが、 気分は、すでに、シティボーイ。 外人さんにまじって、六本木ヒルズあたりを散歩。 「時速30kmは出るらしい。  取り回しもいいらしいし、長距離も苦にならないらしい。  下り坂だけは、気をつけろとか」 これまでの長いショッピング経験からすると、 買う前にアレコレ夢想している時が、一番楽しいようです。


2 我輩、BD-1を試乗せり

オトーサン、 「どこかで、BD-1の試乗ができないかな?  それにブロンプトンも、一度実車を見てみたいなぁ」 FOB(折りたたみ自転車)、 いまや若いひとを中心にブームが起きていますが、 通販はともかく、実車を揃えた店は、なかなか見当たりません。 ネットで探しまくりました。 「おっ、馬橋にある!近くじゃん。  つるおかサイクルというのか。  聞いたことないなぁ」 ・ www1.ocn.ne.jp/~cycle 通販のサイトをみると、 FDBのブランド名がずらっと並んでいます。 「いろいろなブランドが、この分野に進出しているんだ」 自動車と同じブランドもあります。 ・BD-1/ BROMPTON/ DAHON/ PEUGEOT GIANT/ Panasonic/ BRIDGESTONE Bainci/ Tartaruga/ LAND.GEA  KHS/ CHEVROLE/ JAGUAR/ CORVETTE  「ほんとに実車があるのかなぁ?  ま、ともかく行ってみるか」 この近辺では、 1000台展示の量販店”サイクルベース あさひ"が、北松戸駅そば。 ロードレーサーと自転車用品の"セオサイクル”は、新松戸駅そば。 この2つの駅の間にあるのが、馬橋駅で、 つるおかサイクルは、その馬橋駅のそばにあるようです。 オトーサン、 「えー、今日は完全休養日なのですが、  いい陽気なので、馬橋まで自転車散歩しましょう」 近場なので、ニコニコペース。 生産緑地の鈴なりの柿の木を撮影したり、 北小金の色づいてきたイチョウ並木を撮影したり、 北部市場のコールマンのアウトレットを覗いたりしました。 「えー、10時38分、4.92km、国道6号に出ました」 ここまでくるのに、30分もかかってしまいました。  「えー、10時48分、6.18km、馬橋駅東口に着きました。  案外、近いですね」 でも、常磐線を渡る橋が分からず、ウロウロ。 新松戸方向へ引き返してようやく歩道橋を発見。 この歩道橋、富士見橋。 そういう名がついているからには、 晴れた日には、富士山が見えるのでしょう。 馬鹿でかい橋なので、 おばあさんたちが一息ついていました。 大きいカメラと三脚をもっている若いひともいました。 聞けば、常磐線では、変わった車両が撮影できるとか。 ようやく歩道橋を渡り終えると、 「へぇ、面白い道だなぁ」 常磐線と平行して走っている流山電鉄と 新坂川の流れにはさまれた奇妙な路地です。 オトーサン、 この路地、馬橋駅構内で行きどまり。 「何?鉄道用品株式会社」 鉄道マニア垂涎の鉄道模型でも売っているのでしょうか。 看板をみると、古い枕木を売っているようです。 フォークリフトを動かしている作業服のおじさんに訊きました。 「枕木、ホームセンターよりも安いですか?」 枕木、山荘の駐車場に使いたいのです。 「いいわねぇ、ウチもああいう風にできない?」 奥方は、甲斐大泉にある柳生博さんの ”八ケ岳倶楽部”の駐車場に前から憧れているのです。 「安いですよ。でも、自分で引き取りにこないと」 「トラックを借りないといけないか」 「短く切って、乗用車で何度も運ぶひともいるよ」 「なるほど」 そうすれば、自分たちで運べる重さになります。 「ありがとう」 この件は、後で検討しましょう。 いまは、自転車屋さんを探しましょう。

オトーサン、 馬橋駅西口のロータリーから大通りを直進。 見当たらないので、不安になってきました。 「あった!つるおかサイクル、ありました!」 11時15分、8.89km、家をスタートしてから、1時間08分。 寄り道したり、迷ったせいでしょう。 意外に時間がかかりました。 「こんな店か」 ネットでは、200台展示とありましたが、半分もなさそう。 「こんな店に、ブロンプトンがあるのかなぁ」 すっかり悲観的になりました。 「まあいいか、空ぶりでも。  古枕木の売り場をみつけたということで、  今日は満足しておくか」 物事は、なんでも前向きに受けとらなくては。 「もしかして、BD-1?」 店先に薄汚れたBD-1が無造作に置いてあります。 「あれ、店主のBD-1か」 サイトには、店主もBD-1のオーナーと書いてありました。 まっすぐに、BD-1に近づいていきました。

オトーサン、 「すいません。  折り畳み自転車に興味をもっているんだけど、  あれ、あなたのBD-1?」 「ああ」 30代半の店主、 冷やかし客とみたのか、無愛想です。 「ちょっとだけ乗っていいですか?」 「いいすよ」 実に友好的な答えが返ってきたので、驚きました。


3 我輩、BD-1を購入せり、その1

オトーサン、 早速、BD-1に跨ります。 「Tバーだな」 前に乗っていたクロスバイクと同じです。 「サドルも硬くないな」 まず、歩道を10mほど走ってみました。 「おー、こりゃ、いい乗り心地だ!」 段差を乗り越えるときのショックがマイルドです。 前後に装備されたサスペンションのせいでしょう。 「ロードレーサー気分で乗れるなぁ」 後で、わがロードレーサーの寸法を計測しましたが、 ハンドル高さ93cm、ホイールベース100cmとまったく同一でした。 ちょっと速度を上げてみました。 たちまち、20kmが出ます。 「こりゃ、いいや」 想像もしないほど、優れた自転車でした。 「これ買うわ!」 そう叫びたくなるほどです。 でも、その前に、有力候補のブロンプトンをチェックしなくては。 オトーサン、 店内に入りました。 「おー、あるある。3台もある!」 色は、深緑のブリティッシュ・グリーン。 流線型も好ましいし、ホイ−ルベースも長そうです。 英国紳士が、山高帽をかぶって、やったりとシティを流す感じ。 「あれっ、ハンドル、こうなの?」 Tバ−と思い込んでいましたが、ママチャリ風。 「こりゃ、あかんわ」 店主のつるおかさんに聞きました。 「ブロンプトンにするか、BD-1にするか迷っているんだけど、  どちらがいいの?」 「それは、お客さんの用途によりますよ」 「街乗りか、ロードもやりたいか」 「そうか」 ロードレーサーの楽しみを知ってしまうと、後もどりできません。 「やはり、BD-1か」

●BROMPTON T6  最高級ツーリングモデル  3段変速 16インチホイール  泥よけ、リアキャリア付き カラー:ブリティッシュ・グリーン  重量:12.2kg 折りたたみサイズ:長さ60cmX高さ30cmX幅58cm  価格:11万7840円 オトーサン、 一発で決めるのも、何なので、店内を見てまわります。 「DAHONは、どう?」 近所の自転車屋さんにすすめられたし、 カリフォルニアの折りたたみ自転車専門メーカーだし、 8.6kgという軽量が、何より魅力的です。 「ヘリオスのSLですか。なくなっちゃったからね」 「そうか、やっぱり」 いくら資本主義の世のなかでも、ないものは買えません。 このメーカー、毎年改良型を出すようです。

●DAHON ヘリオスSL  8段変速  20インホイール  重量:8.6kg  折りたたみサイズ:長さ80cmX高さ34cmX幅64cm 価格:11万4000円 オトーサン、 「おー、GIANTの折りたたみ自転車もある」 いま乗っていて、満足しているOCR-1は、GIANT。 台湾のメーカーですが、生産量世界一。 品質に間違いはないでしょう。 「安いし、ロードレーサーみたいじゃん」 いま乗っているOCR-1にちょっと似ています。 そうでなければ、おすすめモデルでしょう。

○GIANT MR4F 16段変速 24インホイール リアサスペンション機能付き  重量:10.3kg  折りたたみサイズ:長さ90cmX高さ90cmX幅15cm 価格:7万3710円 オトーサン、 結局、BD-1に戻ってきました。 「赤いのしかないの?」 「ええ、あとは、入荷待ち、順番待ちですよ」 「そうかぁ」 お値段を見ると、定価が13万1250円のところを 11万4200円となっています。 先日行ったセオサイクルでは、 店長さんが、10%レス(11万8125円)が限度と言ってました。 サイクルショップおおやまでは、11万8000円でしたから、 4000円ほど、安くなっています。 「おおやまさんでもいいんだけど、  あの若いひとが、イマイチ不親切だったからなぁ」 「彼が?そんなことないでしょう」 「どうして?」 「彼、おれの後輩だもの」 軽々に悪口など言うもんじゃありませんな。 「だって、彼さ。  BD-1の折りたたみかたを聞いたら、  予習してらっしゃいって言ってたんだよ」 「はは、はじめてだと、難しいからね」 「買うから、ちゃんと教えてね」 「いいですよ」 奥さんも出てきて、 「簡単ですよ、私でもやれますから」 ○ライズ&ミューラー BD-1  8段変速  18インチホイール 前後サスペンション機能付き  重量 10.9kg  折りたたみサイズ:長さ72cmX高さ39cmX幅60cm 価格:11万4200円 オトーサン、 つるおかさんが、電光石火、折りたたむのをみました。 「すまんけど、もう一度やって」 どうも、予習してきたのと、手順がちがいます。 「ちょっと、オレにもやらせて」 サドルを下けたり、ハンドルを倒すのは、簡単ですし、 後輪を内側に折るのも、まあ、何とかなるのですが、 前輪が厄介です。 「変だなぁ」 なかなかうまく行きません。 「構造を理解しなくては」 ついに、つるおかさんに、叱られてしまいました。


4 我輩、BD-1を購入せり、その2

オトーサン、 「それから、輪行袋ない?BD-1専用の」 「専用は、置いてないですね」 「そうなの」 「これ、どうですか?」 「そんなに大きくては...」 「そうですよね、せっかく軽い自転車を買ったのに」 奥さんが加勢してくれます。 「その一番、小さいのがいいな」 「あ、これですか?」 ○ちび輪バッグ   オーストリッチの折りたたみ自転車用輪行袋  小さく丸められるので、走行時の邪魔にならない  サイズ:横60-85cm、高さ65cm、幅35cm  重量:390g  価格:5145円 オトーサン、 「それから、スタンドがいるなぁ」 「スタンド、つけるんですか?」 ロードレーサーの通は、そんなものつけません。 停車するときは、どこかに立てかけるか、地面に寝かすのです。 「だって、便利だもん」 いい景色がみつかったとき、 スタンドがあれば、どこでもすぐに撮影できるじゃないですか。 「そうですか」 「BD-1専用のはない?」 「あれ、どうですか?BD-1専用のをつけてますよ」 つるおかさん、店先の自分のBD-1を指します。 「重くない?」 棚にあったのをみせてくれて、 「これ、持ってみてください」 「ほんとだ。軽いね。いくらするの?」 「1999円です」 「じゃ、これつけて」 「いいすよ」 つるおかさん、上機嫌です。 「ねえ、自転車のマージンって、何%くらい?  自動車の場合は、20〜30%だけど...」 「そうですね...」 いくら上機嫌でも、教えてくれませんでした。 「普通、自転車屋さんというと、 ママチャリと子供車を置いてるじゃない、  お宅は、折りたたみ自転車とMTBだけでしょ。  よくやっているなと思って」 奥さん、 「食べていくのが、やっとですよ」 「じゃ、こんなに値引きしていいの?」 「....」 「奥さんに後で怒られない?」 「怒りませんよー」 夫婦仲がいいようです。 好きな自転車で食べていければ、最高。 専門店に大事なのは、この志です。 「すまないけど、家まで乗って帰りたいので、  あのロードレーサー、  あそこに置いといていいかなぁ?」 「どこに?」 「あの金網の塀のところ」 「危ないですよ」 「ちゃんとカギをかけてあるよ」 「でも、世の中、悪いひとがいるから」 奥さんが、ロードレーサーを店内にしまってくれました。 そう、専門店では、 奥さんの働きがKFS(Key for Success)なのです。 オトーサン、 この後、帰り道にセオサイクルに寄って、 サイクル・コンピュータとボトル・ホルダーを取りつけてもらいました。 ほかの店で買ったのに、イヤな顔ひとつみせないというのは、 大したものです。 「さあ、これでOK。明日、輪行できるぞ!」 クルマの少ない流山電鉄沿いの道で、飛ばしてみました。 「おお、25kmも出る!」 本土寺の参道を走り、本堂の紅葉を撮影しました。 「あまり赤くないなぁ」 BD-1の鮮やかなレッドと無意識に比べてしまったのかも。 オトーサン、 この後、道に迷って、 北小金へ向かう長い坂を上る羽目に。 軽いギアにします。 「変速もやりやすいなぁ」 8段変速の状態を示すメーターがついています。

「登坂性能もいいなぁ」 ギアを2番目に軽い2にしました。 時速15kmのスピードで坂を登れるではありませんか。 「こりゃ、いい自転車だ!」 サスペンションのおかげで、乗り心地もソフト。 愉快なので、あちこち寄り道してしまいました。 「えー、3時38分、13.52km、帰宅しました」 家からつるおかサイクルまでが、ロードレーサーで8.89km、 つるおかサイクルからセオサイクルまでが、不明。 そして、セオサイクルから家までが、 新しいBD-1で、13.52km走りましたから、 今日は、25kmくらいは走ったのかも知れません。


5 我輩、浅草から吉原へ、その1

オトーサン、 「あぁ、やっと浅草へ行ける」 ”東京周辺自転車散歩”には、皇居とその周辺に続いて、 浅草、上野下町散策コースが紹介されています。 雷門に駐車して、鷲神社を経由し、 谷中銀座をぬけ、東大・赤門前を通過して、 不忍池から上野公園、かつぱ橋道具街をぬけて、雷門。 走行距離13.2km、所要時間2時間30分のコースです。 でも、このコース、 いくら日曜日でも、ロードレーサーには不向き。 邪魔にならない折りたたみ自転車向きと判断したのです。 オトーサン、 「えー、8時30分、ちび輪バッグにBD-1を収納できました」 家で2度ほど、BD-1の折りたたみの予行演習をしてきたのですが、 いざ、増尾駅で、本番モードになると、 簡単なハズの後輪がうまく折りたためないのです。 動揺したせいか、 難物の前輪のほうは、もっと時間がかかってしまいました。 その間、柏行きの上り電車が2本も通過していきました。 「3分もあれば、折りたためるはずなのになぁ」 柏行きの電車、混んでいました。 ちび輪バッグといえども、置き場所なし。 仕方なく、肩にかけて、つり革につかまっていました。 となりの小柄なご婦人、興味津々。 「それ、折りたたみ自転車?」 「ええ」 「あたし、鎌ヶ谷に10年住んでいるんだけど、好きになれないわ。  パリはいいわね。歩き回っていても、飽きないもの」 「そうですね、どこへ行っても綺麗だから。  でも、この辺は、自転車天国ですよ。  手賀沼もあるし、利根運河もいいし、江戸川と利根川が近いし」 「そう。定年になったから歩こうと思っているのよ。  あなた、脚がきれいでいいわね」 BD-1を褒められるとは思っていましたが、まさか脚とは。 オトーサン、 8時58分、流山おおたかの森から、つくばエキスプレスに乗車。 ようやく、最後尾の車両の身障者用スペ−スに、 ちび輪バッグを立てかけました。

「えー、9時25分、いまから組み立てを開始します」 今度は、あっという間に、完成! 雷門へ向かいます。 途中、若い女性に呼びとめられました。 「BD-1を褒められるのかな?」と思いましたが、さにあらず。 「浅草ビューホテルはどちらですか?」 「さあ」 若い女性に冷たくするはずはありません。 違う出口から出たので、方角か分からなかっただけ。 「やー、朝から、賑わっているなぁ」 雷門を背景に、BD-1を撮りました。

「その自転車、いいわねぇ」 待ち合わせ中のおばさんが、ようやく褒めてくれました。 「それ、何という自転車なの?」 「ドイツのメーカーで、ライズ・アンド・ミューラーというんですよ」 「きれいな赤ね。それ、お高いんでしょ」 「ええ」 この会話につられて、周囲のひとも、こちらを眺めます。 レクサス、ポルシェ、マセラッティを買わなくても、 10万円台で、これだけ注目されるなんて、幸せです。 オトーサン、 いくらBD-1が、こぶりでも、さすがに仲見世の雑踏は遠慮して、 その隣の路地をチョロチョロ走って、浅草寺の境内へ。 本堂、五重塔、二天門.... 撮影ポイントだらけでしたが、画像が重たくなるので省略しましょう。 「ほんとに、浅草は、自転車の街だなぁ」 道が狭いし、人通りも激しいので、クルマには、不向きです。 自転車だと、さほど大きな町でないので、 どこへでも行けるし、駐車できます。 「クルマが、かわいそうだなぁ」 国際通りも、言問通りも、 やたら警官がいて、駐車違反の取締まり中。 レッカーが根こそぎ駐車しているクルマを牽引していきます。 「すごいね、何かあるのかな?」 オトーサン、 まずは、鷲神社に向かいます。 「今年は、12年に1度の酉年の酉の市だったな。  何か、やってるかな?」 でも、静かなもんです。 通りかかったママチャリのおじさんに聞きました。 「とりの市は、いつでしたっけ?」 「今年の酉の市は、もう終わったよ。   二の酉が、先週の21日だった。今年は三の酉はないよ」 「そうですか...」 一度は行かなきゃと思いながら、いつも機会を逸しております。 ○ 酉の市 11月の酉の日(十二支)を祭日として、  浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、  開運招福・商売繁盛を願う祭りで、江戸時代から続く代表的な年中行事。   「この向かいが、西徳寺さんだったっけ」 画像を省略しますが、わが家の菩提寺。 祖父母、両親、伯父や叔父たちも、ここに眠っています。 そのうち、その列に加わることでしょう。 通りかかったからには、お墓まいりすべきでしょうが、 真紅のBD-1と一緒は、情婦でも連れてきたような感じ。 厳しかったおばあちゃんに、鯨尺の物差しで叩かれそうです。 オトーサン、 この後、清廉潔白なヤマケイと袂を分かちました。 そう、”東京周辺自転車散歩”(山と渓谷社)のコースから逸脱して、 吉原へと向かいました。 「ここまで来て、吉原に寄らないという手はないよなー」 読者のみなさん 「まさか、昼間から、ソープ通い?」 「そんなわけないでしょ。その方面は、もう引退しましたよー」 オトーサン、 実は、隆慶一郎のフアンなのです。 「一夢庵風流記」からはじまって「影武者徳川家康(上中下)」まで 全作品を読みつくしました。 「吉原御免状」のなかには、こんな一節があります。  誠一郎は、衣紋坂を降りながら、  初めて吉原を望見した。  ちょうど、灯の入ったところだった。  土堤の暗さにひきかえて、眩しいばかりの明るさである。  誠一郎は、足をとめていた。  夜の中のこれほどの華やぎを、  誠一郎は生まれて初めてみた。  「これは、なんだ」  当惑に似ていた。何よりもとまどいが先にきた。  やがて、それが驚嘆に変わった。  「これこそ、都というものではないか」  誠一郎は、動けなかった。  すくんだように、この光の洪水を見つめて、立ちつくしていた。  不意に、三味線の音が湧き上った。  それは、1挺や2挺ではない。  ゆうに百挺を超える三味線が、  一斉に、同じ音色を奏ではじめたのである。 オトーサン、 何度か、道を訊きながら、日本堤の交差点へ。 「これが、あの見返りの柳か」

「さびしいもんだな。このやせ柳」 ・やせ蛙 負けるな 一茶 ここにあり 小林一茶 あるいは、芭蕉の句の世界でしょうか。 ・夏草や 兵どもが 夢の跡  松尾芭蕉 話が、突然、飛躍しますが、 いまが旬の六本木ヒルズも、 数世紀後には、香港の九龍城のようなスラムになるのでしょうか。

○吉原遊廓  江戸幕府によって公認された遊廓。  はじめは日本橋近くにあり、明暦の大火後、浅草寺裏に移転した。  敷地面積は、2万坪。最盛期は、数千人の遊女がいた。  江戸市中のなかでも最大級の繁華街で、新しい文化の発信地だった。  女性の髷や、衣装が、ここから流行していった。  歌舞伎、浄瑠璃、舞踊などとなって、江戸市中で評判となった。    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オトーサン、 BD-1をとめた見返り柳のそばに、たたずみました。  「おー、鯨が見える!潮を吹いている」  浅草海苔というくらいですから、  浅草には、海がすぐそこにあったのです。  江戸湾のウォーターフロントから、  浅草川(隅田川)の上流へ。  浅草田圃を左手にみながら、  ヨシ原のなかの土手の一本道を走りました。  「ここが日本堤か。いい景色だなぁ」  見返り柳に、BD-1を結わえつけて、  衣紋坂を降りていき、吉原大門をくぐりました。  三味線の音が一斉に湧きあがり、  「サーさん、いらっしゃい!」  左右の遊女屋から黄色い声がかかりました。


6 我輩、吉原から龍泉寺へ

オトーサン、 「次は、一葉記念館だ」 吉原遊郭に隣接する龍泉寺3丁目。 樋口一葉といえば、いまや、新5000円札になった時の人。 でも、当初、一葉は、いくら貧しいとはいえ、 吉原遊郭の隣に引っ越してきたことを恥じたそうです。 でも、慣れるに従って、この地のもつ潜在的な文化力に目覚め、 名作「たけくらべ」が誕生したのですから、面白いものですね。 大沢在昌さんのベストセラー小説「新宿鮫」が いかがわしい歌舞伎町界隈から生まれたのと同じようなものでしょうか。 「ありゃ。なーんだ、せっかく来たのに」 閉館されているじゃありませんか。 いまや樋口一葉は、国家的ヒロイン、 その名に恥じない立派な記念館をつくろうというのでしょう。 工事現場に、新しい記念館の写真があったので撮影しました。 「吉原遊郭の色香が、まるでないなぁ」 地下の一葉さんも、苦笑いしているかも。

○一葉記念館  樋口一葉は、明治5年生まれ、 肺結核のため、24歳で短い生涯を終えた。  一葉記念館は、代表作「たけくらべ」の舞台となった  竜泉寺町の人々の熱意に動かされ、台東区が建設しました。 女流文学者の単独文学館としては我が国初めてのもの。  平成16年11月に新五千円札の肖像として登場している。  新しい記念館は、平成18年11月上旬に開館予定。 オトーサン、 「次は、竜泉小学校だ」 祖母が長年勤めていた小学校です。 正門前で、文房具屋もやっていました。 ここに住んでいたのは、3歳から7歳までだったので、 当時の記憶は、ほぼゼロに等しい状態です。 どこにあるのか、尋ね歩きました。 「知りません。最近引っ越してきたものですから」 「竜泉小学校?知らんね。竜泉中学なら聞いたことあるけれど」 「竜泉小学校は、竜泉中学になって、廃校になったよ」 最後に、有益な情報が、おそば屋のおばさんから得られました。 「廃校になったあと、何でも山梨県の高校になったようですよ」 場所も教えてくれました。 「ありがとう!」 喜び勇んで、現場へ行きました。 「なーんだ」 一葉記念館からわずか200mのところでした。 「変わったなぁ」 龍泉寺町の町名のもとになった龍泉寺が隣接するものの、 アパート、小工場が並び、背後には高層マンション... 「無残だなぁ」 あれからもう60年の歳月が経過したのです。 往時をしのぶ何かが残っていないだろうか? そう期待するのは無理というもの。 さらに、小さな疑問も残りました。 「なぜ、山梨の航空高校が龍泉寺町へ?」 ○日本航空高等学校・東京学習センター 普通科(英語コース/芸能コース)     航空工学科(航空自動車整備コース/モータースポーツコース)   住所:東京都台東区竜泉2-10-6  電話:03-5808-2841 オトーサン、 「じゃ、せめて金太郎飴の本店へ行ってみよう」 ○金太郎飴  練り飴の一種。  江戸時代中期に発明され、子供達の人気の的だった。 どこを切っても、断面に金太郎の顔が現れるので、  「金太郎飴のよう」という表現が生まれた。  どこを切っても同じ、没個性で、まるでトヨタみたい。  住所:東京都台東区根岸5ー16ー12 このお店に、母に連れていかれたのを覚えています。 教え子がいたのでしょうか、工場もみせてもらいました。 職人さんたちが、様々な色を積み重ねて太い幹のようにします。

それを声をかけあい、どんどん伸ばしていくのです。 最後は、直径2cmほどの棒になります。 それを包丁で、細かく切っていくと、金太郎飴の出来上がり。 20cmもの棒状の飴をもらって、一週間かけて食べた記憶があります。 「あるある、やっている!」 建替えで自社ビルになっています。 工場は、2階へ移動したとか。 この年になると、飴玉なんかしゃぶる趣味はありませんが、 記念に長い棒状の飴(160円)を買いました。

オトーサン、 金杉通りを浅草へ戻ります。 「おお、デモだ!そうなんだ」 先程の異常な警官の数と駐車違反取締まりは、 デモのためだったのです。 いろいろな色の旗が通過していきます。 1000人くらいの規模でしょうか。 ・憲法改悪反対! ・大増税は許さない! ・国民生活の最低保障確立! 珍しいのは、チンドン屋さんが先頭に立っていること。

「どうぞ!」 ビラをもらいました。 ・11.27 雷大行進 ・もう黙ってられない!みんなで行動を起こそう! ・花川戸公園から浅草寺一周コース ・どうぞ、一歩でも、二歩でもご一緒に! 「そういえば、学生時代、デモ行進したなぁ」 安保反対で、駒場から渋谷駅へ、 国会議事堂に突入したデモに参加したこともあります。 そんなひとが、いまや、BD-1で自転車散歩。 デモに加わる気は、さらさらありません。 歳月は、ひとを確実に蝕むのです。 学生時代に、こんなことを書いたひとと ほんとうに同一人物なのでしょうか?

 <神聖な議会>。  デタラメを言うな。インチキ選挙で金をばらまいて  の多数党が都合のいいときにルールを踏みにじり、  そのうらで正常化をブルジョワ新聞に叫ばせる。  これがわれわれの議会の正体だ。 硬くひきしまった寒気のなかで執行部に招集がかかり、  あなたも呼ばれていった。  決定が下り、ぎっしりと<樽づめ>になっていたぼくらに待望の時がやってきた。 ぼくらは一瞬にして背の高い森を夜気に出現させ、  わきあがる歌とシュプレヒコールはあかくただれた国会の空を鞭打った。  もどってきたあなたとぼくは、警官隊と装甲車のバリケードの前列にいた。  1万もの人間の後押しに、ぼくはあなたが地面から浮き上がり、  警官の壁の前に押しやられて圧しつぶされそうになっているのを見たが、  どうしようも出来なかった。  (注:6月15日でした。樺美智子さんが殺された日は) オトーサン、 「えー、11時25分、雷門に戻ってきました。 これから、ベルで食事をしましょう」 食後は、気が変わって、上野駅へ向かいます。 「えー、12時20分、これから輪行袋に入れます」 折りたたみ作業にも、少しずつ慣れてきました。 45分で柏駅へ。 再び、BD-1を組み立て、家まで7kmほど走りました。 帰宅したのは、午後3時でした。 「しまった!距離を図るのを忘れていた」 今日のルートをLivedoorの地図で確認してみました。 「浅草って、小さな街なんだ」 徒歩圏内の500m四方に収まってしまうのです。 もっと大きな街だと思いこんでいました。 そして、祖母が樋口一葉と同じく、 吉原遊郭のすぐそばに住んでいたというのも、 まったくの「想定外」でした。


7 我輩、龍泉寺から日暮里へ

オトーサン、 「えー、今日も浅草へ行きます。  いま、ちょうど10時、スタートします」 増尾駅で、輪行袋につめるのに、また手間取ってしまいました。 「そうか、ペダルを予め下げておかないと、  前輪がうまく折りたためないんだ」 予習も大事でしょうが、 やはり、こうやって、性懲りなく失敗を重ねて、 身体で覚えていくのが、大事なのでしょう。 今日も、東武線からつくばエキスプレスで浅草へ。 「えー、11時10分、浅草に着きました」 またもや、組み立てに8分もかかってしまいました。 昨日、見過ごした一葉記念館へ。 新館ができるまで仮の場所は、台東区生涯学習センター。 浅草ビューホテルの前を通過して、左折してすぐ。 受付嬢に教わって、エレベーターを3階で下りると、 フィットネス・スタジオ脇の一室。 「狭いな、お金取るの?」 「はい、すみません」

「ふ−ん、いろいろあるんだ」 樋口一葉の自筆原稿、文机などが展示されています。 「読めんなぁ」 明治時代のひと筆づかいは流麗そのもの。 文化というかアートの香り。 でも、いまの人間には、何が書いてあるのか判読できません。 あちこち手直ししていることだけは、分かります。 命がけで推敲したことも伝わってきます。 「おー、地図がある。 吉原から近いところに住んでいたんだ」 撮影お断りですが、無理を言って、 以下の地図を撮影させていただきました。 お礼に、一冊、本を買いました。 ・監修:野口碩、構成・文:藤井惠子  「樋口一葉と歩く明治・東京」小学館 2004年 樋口一葉が荒物・駄菓子の商売をした家は、 大音寺通リに面する商店街のなかにあって、 吉原からは、わずかワン・ブロックでした。 一葉は、引っ越してきた夜、 家の前を通って吉原へ向かう車の数を勘定したそうです。 10分間に75台もあったとか。 夕方から午前1時、そして午前3時からは 朝帰りのクルマがひっきりなしに通過したそうです。 「たまらんなぁ、眠つけなかっただろう」 たったの10ケ月で、この地を引き払ったのは、 商売がうまく行かなかったためだけではなく、 このうるささに耐えられなかったのでしょう。

オトーサン、 この後、浅草公会堂脇のベルで昼食。 今日のランチは、豚肉の生姜焼き。 840円なのに、ライス、スープ、サラダ、ドリンク、デザート付。 安いなぁと毎度感心しています。 なじみのウエイトレスとおしゃべりしました。 「今日はついに自転車で来たよ」 「あら、きれいな自転車ね」 「ついこの前買ったばかりなんだ」 「この前、お見えになったときは、  クルマを買ったと言ってらしたでしょう。  お金の遣いすぎよ」 「死ぬときに、お金なんか残してもしょうがないだろう」 「あたしに、頂戴!」 「は、は、は」 こういう会話ができるレストランって、少ないですよね。 「やはり、浅草だなぁ」 おとなりの女性、お皿にのった豚肉を切るのに、 ナイフとお箸を使っていました。 「フォーク、使えよ」 この町ならではの和洋折衷の味わいがあります。 「平日のほうがいいなぁ」 浅草に平日にきたのは、これがはじめて。 人出が少ないので、自転車でスイスイ走れます。 食後に合羽橋の道具街を通過しました。 歩道に商品を置いてあるのが邪魔。 でも、BD-1なら何とか走れます。 「それにしても、客が少ないなぁ。  ホームセンターに客を取られたんだろうなぁ」 オトーサン、 今日の主目的は、生誕の地を訪ねること。 戸籍をみると、荒川区日暮里で生まれたようです。 荒川区役所に電話しました。 「戦前に日暮里2丁目○○番地で生まれたものですが、  町名改正がなされているようなので、  いまは、どんな住所表示になっていますか?」 「しばらくお待ちください」 判明したのは、 「お探しの住所は、いまは東日暮里4丁目になっています」 「番地はどうですか。変わってませんか?」 「さぁ、変わってないとは思いますが...そこまでは」 66年もの歳月が経って、生家が残っているはずはありません。 でも、往時をしのぶ何かが残されていれば、納得できます。 オトーサン、 「柳通りを走ってみよう」 ヤマケイさんの地図には、 下町ならではの古い町並みをみることができる そう書いてあります。 「根岸か。東日暮里の隣町か。  この辺の家、生家と同じ感じかもなぁ」 さして広くない柳の並木道を走っては、すぐ立ち止まります。 BD-1なら、START&STOPが容易です。 もう来ることはないので、記念に何枚も写真を撮影しました。 「おっ、香味屋だ!こんなところにあったのか」 元気な頃の母親に連れられて会食しました。 「なつかしいわ」 しきりに言っていた理由がはじめて分かりました。 「このお店、生家のすぐ近くだったんだ」 父と食べにきたこともあったのでしょう。 今回、戸籍をはじめて真剣に読んだのですが、 母が父と結婚したのは、昭和13年4月5日。 父が死んだのは、昭和15年11月28日。 父は、明治40年7月12日生まれですから、 享年33歳の若過ぎる死でした。 母と連れ添ったのは、2年半。 「かわいそうに...」 後に残されたのは、 29歳の未亡人、それに3歳の兄と生まれて半年の弟。

○香味屋 創業、大正14年  東京屈指の洋食屋で、メンチカツが名物。  「根岸の里の侘び住まい」といわれ、  多くの文人墨客が好んで住んだ地にある。  住所:東京都台東区根岸3-18-18  電話:03-3873-2116  営業時間:11:30〜21:30  定休日:無休 オトーサン、 「おお、東日暮里4丁目の交差点だ」 でも、生家探しの困難は、ここからはじまるはず。 該当する番地を探さなければなりません。 第一、戸籍にある番地がいまでも存在しているのか、 それすら危ぶまれるのです。 「おっ、新聞屋がある」 そうでした。 交番よりも、ずっと頼りになります。 若いオニーチャンが、 張り出してある大きな地図をじっとみつめます。 みのもんた状態(待つことしばし) 「あっ、ありますよ」 「あるの!」 「ええ、あります」 「どっち?」 「あの交差点の左手」 「あの交差点って、東日暮里4丁目の?」 「そう、あそこを右手の路地に入ってください」 「ありがとう!助かったよ」 オトーサン、 その後、10分ほど、ウロウロ。 BD-1で走って見逃してはと思って、押し歩きで。 「見当たらんなぁ」 最近建て替えた家ばかりで、昔の家なんかありません。 しかも、住所表示をさぼっている家が多いのです。 「無駄足だったか」 「そうだよな、戦前だもんなぁ」 「竜泉の家だって跡形もなかったし」 「あった!」 奇跡というか、神の恩寵というか、 該当する番地がありました。 しかも、昔の町家がそのまま。 「ほんとうに、この番地なのか?」 住所を書いてきたメモを確認します。 「あっ、この庭木は...」 どこかでみた風景です。 気づいて、その場で凍りつきました。 母が長いこと暮らしていた渋谷の家そっくり。 椿と榊が並んで立っています。 「そうか、榊が父で、椿が母なんだ。  2人が寄り添う姿だったんだ」 「もうボロ家だから引っ越そうよ」 くら言っても、引越そうとしなかったわけが分かりました。 母は、再婚もせず、父との思い出に生きていたのです。 それなのに、処分してしまいました。 今頃はブルドーザーが入って、根こそぎ倒されているでしょう。 ・親孝行 したいときには 親はなし。 父は、教師で、雪霊なる歌人でした。 名前は忘れましたが、句誌の熱心な同人でした。 泉鏡花のような幽玄な作風の歌人になりたがっていたようです。 でも、33歳で死んでは、名声を得るはずもなし。 唯一、こんな句を覚えています。 ・ゆかりとし 思えどあわれに 思うなり  わが妻いまし 用足しに出でぬ    雪霊   「病床で詠んだ句だったのかも」 母は、この格子戸を開けて、お医者さんを呼びに行ったのかも。 子供たちのために、おいしい食べ物を買いに行ったのかも。 「.....たまらんなぁ」

オトーサン、 「....そろそろ帰ろうか」 このご時世、長い間立っていると怪しまれます。 帰りは、日暮里駅に出ましょう。 その前に、寄ってみたいお店があります。 「えー、1時44分、9.12km、羽二重団子に着きました」 ここも老舗ですから、きっと両親がきたことでしょう。 店の横に、正岡子規の句碑がありました。 泉鏡花の文章の一節が書かれた立て札もありました。 「そうか、泉鏡花も来ていたのか」 その名を、泉鏡花の「雪霊続記」からとった父が、 この店を見逃すことはなかったでしょう。 店の中に、喫茶室があり、庭園を眺めながら、 名物の団子セットを注文しました。 羽毛のようにきめのこまかい団子の味。 「この味、昔のままですか?」 「はい、勿論です」 「父は...、母は...、この味を味わったのか?」 「お客様、何か?」 「いや、独言だよ、気にしないで」

オトーサン、 店内にあった明治時代の写真を撮影させてもらいました。 去り際に、現在の店舗写真も撮影しました。

○羽二重団子  創業文政二年(1819年)  江戸は根岸、芋坂にあり、  粋で風雅な音無川のせせらぎを聞く  芋坂も 団子も 月のゆかりかな 子規  夏目漱石「吾輩は猫である」にも登場する。  住所:東京都荒川区東日暮里5-54-3  電話:03-3891-2924  定休日:火曜  営業時間:9時〜17時 オトーサン、 日暮里駅のそばにあるようなので、 駄菓子街なるものをみてから、 常磐線に乗ることにしました。 昔をしのぶ駄菓子にお目にかかれるかもしれません。 「どこにあるのかな?」 「ないなぁ」 「見当たらんなぁ」 「すみません」 ようやく得た答えは驚くべきものでした。 駄菓子街はすべて取り壊されていました。 その後に地上40階建ての超高層マンションが建つのです。 「...何をかいわんや」 便利、スピード、利益のあくなき追求。 日暮里は、日暮らしの里から、その日暮らしの街へ。 日本人は、大事な大事な魂を失いつつあるのではないでしょうか。 「嗚呼」


8 我輩、谷中から本郷へ

オトーサン、 「いよいよ、今日で完走だ」 ヤマケイさんの下町散策コースに挑戦してきました。 雷門に駐車して、鷲神社を経由し、 谷中銀座をぬけ、東大・赤門前を通過して、 不忍池から上野公園、かつぱ橋道具街をぬけて、雷門。 走行距離13.2km、所要時間2時間30分のコースのはず。 ところが、浅草から吉原へ、吉原から日暮里へと わが家のルーツ探しに手間取って、何日もかかってしまいました。 「えー、10時30分、日暮里駅に着きました。  これから、谷中銀座に向かいます」 BD-1の折りたたみと組み立てに大分慣れてきました。 オトーサン、 「谷中銀座、久しぶりだなぁ」 坂の上から谷中銀座の商店街を見下ろすと、 谷中は、谷底というか、文字通リ、谷の中。 「えー、10時40分、1.57km、メンチカツを注文しました」 いい匂いに立ち止まったら、ド派手な看板が目に飛び込んできました。 「メンチカツ?いま揚げてるから待ってなよ」 下町のおじさんらしい言葉が返ってきます。 待つことしばし。 「こりゃ、うめぇ」 肉がたっぷり、まるでハンバーグです。

オトーサン、 「坂の多い町だな、お寺の多い寺だなぁ」 それに道が曲がりくねっているのです。 「えー、10時49分、2.06km、へび道を走っています、  なんで、こんなにくねくね曲がっているんだ?」 後で分かったのですが、藍染川の上に道路をつくったためとか。 「見通しの悪い道路に、ミニバンで入りこむなよ」 充分用心していたので、出会い頭の事故にはなりませんでした。 こんな危ない道路、自動車進入禁止にすべきでは。 へび道が終わって、ようやく直線路になったと思うと、 次は、坂道。しかも、カーブしています。 「根津神社か、これがS坂か」 樋口一葉が春のつつじを愛でた神社ですが、 文豪・森鴎外が近くに住んでいて、S坂と命名したので、 新坂よりも、このほうが有名になったとか。 坂の途中に、そう記した案内板がありました。 坂の上から根津神社の境内を見下ろしました。 「この神社、紅葉もいいな」

オトーサン、 「もう東大か、谷中から近いんだ」 お茶の水駅から通っていたので、新発見でした。 正門前から安田講堂に向かう銀杏並木を撮影しました。 カップルに撮影を依頼されました。 「きみたち、東大生?」 「ええ、ボク、院生です」 「院生、すごいね。きみは?」 「社会人です」 その女性に聞きました。 「樺美智子さん、知っている?」 「知りません」 「ほんと?じゃ、安保闘争は?」 「アンポって何ですか?」 「キミは?」 「ボクも知りません」 「そうなの....ありがとう」 東大生なんか、なーんも知らないのです。  ぼくらは学校に帰っていった。  銀杏並木の道には、青い霧がたちこめ、  もう散りはてた木の葉がコンクリートのうえから  土のほうに転がって腐りはじめのにおいがしていた。  自治会室のくらやみのなかで、  あなたははじめてぼくに気づいたように眼をやわらげ、  これから仕事があるといった。  矢を放った弓のようにゆれる扉のところで  あなたとわかれの挨拶をしたとき、  あなたは憤りに疲れてうちひしがれているように思えた。  ぼくの内部に激しいいきどおりと  あなたのやさしい存在感が満ちてきた。  ちょうど潮が満ちてくるように。 ぼくはあなたを宙でとらえ口づけした。  出典:「ブリュメール1960」 オトーサン、 3年から東大教養学科に進んだので、ずっと駒場でした。 でも、サッカー部に入った関係で、本郷に練習にきました。 三四郎池を経由して、なつかしい御殿下グラウンドへ。 「変わったなぁ」 人工芝の緑が目に鮮やかというか、毒々しい感じ。 サッカーをやっている学生たちのユニフォームも上質のもの。 「おれたちの頃は、泥まみれだったよなぁ」 選手のひとりをつかまえて、聞いてみました。 「ねえ、キミ。  サッカー協会の岡野俊一郎さん、知ってる?」 「ええ」 「おれ、彼に教わったよ」 「そうですか」 冷静な答えが気に入りません。 「じゃ、岡埜栄泉の豆大福、知ってる」 「食べたことありますよ!」 「岡野さんの実家なの知ってる?」 「へえ、そうなんですか!!」 樺美智子さんは忘れ去られ、 岡野俊一郎さんは過去のひと、 岡埜栄泉の豆大福は、現役続行中というわけか。 この分では、樋口一葉が11歳で学校を中退したこと、 帝大の構内をぬけて上野図書館に独学に通ったことなど、 東大生は、誰も知らないでしょう。 「東大を出たって、どうってことないんだぞ。  お札の肖像に選ばれるわけじゃないんだぞ」 そう後輩にアドバイスしようかと思いましたが、 その批判は、自分に返ってくることに気づきました。 「うまいなぁ」 わずかにぬくもりの残っているメンチカツの残りを食べました。 ○谷中岡埜栄泉  上野広小路の初租・岡埜栄泉総本舗ののれん分けで創業100年   味といい、建物の雰囲気といい、お店の方のおっとり具合といい、 私はこちらの岡埜栄泉がとても好き。 有名な豆大福は、つぶ餡とこし餡があって、ひとつ¥200。 おもちの塩かげん・餡の甘さ・豆の食感など、 バランスが良くてとても美味しく、やさしい味がします。 住所:東京都台東区谷中6-1-26   電話:03-3828-5711   営業時間::930-1730 定休日:不定休 otomelonica.ciao.jp/eat/food.shtml オトーサン、 「そうだ、ルオーで昼メシでも食っていくか。  確か、赤門前にあったよなぁ」 でも、26年前に、正門前に移転したとか。 名物のカレーライスを注文しました。 「こんな味だったっけ?」 これで、950円とは納得できません。 場所代込みでしょう。 本を取りだして、樋口一葉のゆかりの地を確認しました。 一葉が、龍泉寺に住んだのは、わずか10ケ月。 幼い頃から本郷に住み、死んだのも本郷だったのです。 でも、夏目漱石や森鴎外など、帝大出の文豪を輩出したので、 一葉は、文京区で冷遇されてきたように思えます。 ・監修:野口碩、構成・文:藤井惠子  「樋口一葉と歩く明治・東京」小学館 2004年 オトーサン、 幸せだった少女時代を過ごした桜木の宿へ。 「赤門の真向かいにあるんだ」  腰ごろもの観音さま、  濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、  はらはらと花散りこぼれて、  前に供えし樒の枝につもれるもおかしく    出典:樋口一葉「ゆく雲」  いまは、法真寺の駐車場になっています。 唯一、心を慰めてくれるのは、お寺に建つ石碑。 先代の住職さんが、あわれに思って建立したものとか。 オトーサン、 「次は、菊坂の旧居跡だ」 本郷3丁目からゆるやかな菊坂を下っていきました。 もともと江戸の町は、そぞろ歩きのスケールですから、 BD-1でも、高速移動手段となります。 本気で探そうとしたら、押し歩きがちょうどいいのです。 「あった!」 ひとつの路地の奥に目印の井戸がありました。 近所のひとが犬の足を洗っています。 「おいおい、いいのかよ」 立ち去った後、BD-1と井戸と鐙坂を撮影しました。 父の死後、17歳の一葉は、戸主として、 この地で、母と妹と3人で針仕事などして、 細々と、生計をたてていたのです。 でも、楽しいひとときもあったようで...  優々たる春の光、春の匂いの、  身にも心にも家のうちにもみち渡りたる、  我が親子ばかりたのしきものありやあらずや  出典:樋口一葉「につ記二」   

オトーサン、 「さあ、これで一葉探しも終わりにしよう」 目指したのは、白山通りに面した「一葉終焉の地」 「分からんなぁ」 交通量の激しい通りなので、歩道しか走れません。 通行人も多いので、ゆっくり走りました。 「おかしいなぁ」 福山丸山公園まで行ってしまい、引き返しました。 「ここか」 12時57分、 7.14km地点でした。 洋服のコナカの店先に石碑があったのです。 先程、通過したところ。 店先のワゴンに置いている格安ジャンパーに気をとられていました。 石碑の脇には、自販機。 「こりゃ、ひどいなぁ」 肺結核で24歳で死ぬまでの”奇跡の14ケ月”の間に、 この地で、数々の名作が書きあげられたのです。 「暗夜」「大つもごり」「たけくらべ」「軒もる月」「行く雲」 そして、名作「にごりえ」。 台風による崖くづれで、住まいは跡かたもなくなったとはいえ、 この冷遇ぶりを目の当たりにすると、心が痛みます。 逝去の数日前には、泉鏡花が見舞いにきた場所。 葬儀には、森鴎外が出席を乞うて、樋口家に断られた場所。 没後、作家の森田草平が住んだ場所。 「せめて、自販機は撤去してほしいな」 「コナカには、立ち退いてもらいたいな」 「文京区、一葉公園くらいつくれよ。  マンションブームで儲かっているんだろうが」 

1時15分、9.04km。 重い心で、白山通り、春日通りをへて、上野の不忍池へ。 「あーあ、ここの景色も台無しだ」 ハス池の向こうに、高層ビルがニョキニョキ。 「耐震強度は、ダイジョウブなのか?」 わが日本国の現実に引き戻されました。 オトーサン、 これで、ようやくヤマケイさんの下町コースを完走したことになります。

輪行袋に、たったの3分で収納できたので、気をよくして 上野駅公園口から、常盤線に乗りました。


9 我輩、BD-1の高速性能を試す

オトーサン、 下町コースを走ってみて、 BD−1がシティ走行に適していることを確認しました。 ・軽量なので、持ち運びが楽。 ・小径車のため、狭い道でも走りやすい。 ・ブレーキの効きがいいので、STOPしたすい。 ・前後のサスのおかげで、路面のショックがマイルド。 ・太いタイヤ径のおかげで、走行安定性がある。 ・明るい塗装の赤色がオシャレ。 「えー、10時25分、スタートします。手賀沼に行きましょう」  今日は、C4にBD-1を載せてみました」 ロードレーサーのほうは、前輪を外した状態にして、 C4の後部座席を前に折りたたまないと、収まらないのです。 「面倒だなぁ」 ところが、BD-1は、楽々とトランクに収まるのです。 「こりゃ、2台積めるぞ」

オトーサン、 C4をいつものように親水広場に駐車して、 我孫子のK’sデンキへ。 実は、大分前のことですが、 転倒したときにビデオカメラを壊したのです。 液晶モニターの連結部が甘くなって、 きちんと折りたためず、開きっ放し。 それに、ビデオテープのカセットが開きません。 つまり、動画を撮れないということ。 修理に出しましたが、数週間はかかるとのこと、 「その間、カメラなしか、弱ったなぁ」 もう1台あるデジカメを代わりに使ってみましたが、 屋外では、液晶画面が暗く、何を撮ったか分かりません。 当てずっぽうにいくつか撮って、あとでトリミング。 「面倒だなぁ」 オトーサン、 久しぶりにデジカメ売り場に立ち寄ってみました。 店員さんに、以下の条件を言って、選んでもらいました。 ・手振れに強い ・大きく明るい画面の液晶モニター ・ある程度のズームがきく ・手持ちのSDカードが使える 店員さんが推奨したのは、以下の2機種。 ・KONICA MINOLTA DiMAGE X1 ・PANASONIC LUMIX DMC-FX9 オトーサン、 「平べったいのは、好かんなぁ」 「ほかにないの? これ、いいんじゃない?」 ・PANASONIC LUMIX DMC-LX1  840万画素の高画質  16:9のCCD&広角28mmのライカDCレンズ ・パワーLCD機能  (ボタンを長押しすると、液晶モニターがより明るくなる) 「5万4500円か。安くしてくれたら、買うよ」 「ちょっとお待ちください」 購入価格を書きませんが、 帰宅してチェックした価格コムの最安値は、4万7000円でした。 「まぁ、いい買い物だったなぁ」 すぐに撮影できるように、すべてセットしてもらいましたし... オトーサン、 12時20分、いつもの松屋で豚丼(290円)の昼食。 高い買い物をした後は、節約しなくてはという気分になります。 食後、時計回りに手賀沼サイクリングを開始しました。 まず、買ったばかりのデジカメで、 手賀沼の親水広場から、沼に浮かんだ噴水を撮影しました。 16:9画面ですから、ハイビジョンとおなじサイズ。 トリミングすれば、このサイズの画面が得られますが、 実は、そうではないのです。 新開発CCD&広角28mmのライカDCレンズならではの ワイド感や遠近感の新鮮な表現は、他のカメラではムリなのです。 「こういう主張のある製品、好きだなぁ」

オトーサン、 ゆつくりと遊歩道を走りました。 「乗り心地がいいなぁ。サスペンションのおかげだ」 すると、ママチャリのおばちゃんが無言で抜いていきます。 「おい、甘くみるなよ、このBD-1を何と心得る!」 前から、少し気になっていたのですが、 BD-1を小さな自転車とみて、あなどる傾向があります。 「きれいな自転車ね、  でも、すごい勢いで漕がないと、スピード出ないでしょう」 そう指摘するおばちゃんたちが多いのです。 おそらく、子供の自転車と同類とみなしているのでしょう。 「あのね。ギアの機能が分かってませんね」 「どういうこと?」 「この自転車、8段変速なの。だから、スピード出るんです」 「?」 口下手で、納得してもらえなかったようです。 こうなったら、実証するしかありません。 オトーサン、 ギアをセカンド・ギアにして、ママチャリを追いかけました。 おばちゃん、 追っ手を意識してか、スピードをあげてきます。 「20kmか、ふーん。  ママチャリでも、そのくらいは出るんだ」 時速22kmに速度を上げて、追い越しにかかりました。 おばちゃん、頑張ります。 「ここは、サッと抜くのが、礼儀だな」 いつまでも、勝てると思わせては、気の毒というもの。 ギアをトップにし、あっという間に抜き去りました。 このあたりの呼吸、高橋尚子ちゃんに影響されているかも。 「どのくらいスピードが出たのかなぁ?」 抜くのに無中で、 サイクル・コンピューターを見る余裕がありませんでした。 「まあ、いいや、あとで計測しよう」 猛スピードで抜いたので、息が切れました。 五本松広場で、一休みしました。 しばらくして、例のおばちゃんの自転車が通過していきました。 「ひょっとしたら、勝ったと思ったかも」 ウサギとカメの話しを思い出しました。 のんびりカメラをいじりながら休憩していると、 別のおばちゃんがきて、水鳥に餌やりをはじめました。 「ダメダメ、横取りしちゃ!」 投げたパン屑をユリカモメが空中でゲットしてしまい、 水面にいる白鳥には届かないのです。 おばちゃん、 そこで、一計を案じたようです。 一度に沢山撒けば、白鳥に届く可能性が高いとみたようです。 「は、は、は」 ユリカモメの数がふくれあがり、その捕捉速度がアップするだけ。 一向に、白鳥には届きません。 「おお、こりゃ、シャッターチャンスだ」 1秒3コマの連写ができるので、飛翔シーンが撮れました。

オトーサン、 この後、100mほどある砂利道へ。 ロードレーサーでは、パンクが怖いので、 ここは、歩いていました。 「ダイジョイウブかな?」 タイヤ径が、ママチャリと同じですから、何の問題もありません。 沼南側の新しいサイクリングロードに出ました。 「よーし、走るぞ!」 ギアをトップにし、サドルの位置も高くしました。 「すごい気配りだなぁ」 BD-1は、シートポストにゲージがついているのです。 16を14に合わせました。 いつも、キチンと望みの高さが得られるのです。 この辺りにも、 ドイツ人特有の精密さが顔をのぞかせていますね。 ぐんぐん、スピードを上げていきます。 さっきおばちゃんを追い越した時速22kmなど、楽々。 「おー、25km出た!」 スピードに乗ると、トップギアが軽くなります。 「おー、28km出た」 「おー、30kmを超えた!ほんとかよ」 読者のみなさん、 最高速度、いくらだったと思います? BD-1、ミニサイクルですよ。 答えは、33kmでした。 ロードレーサーにも負けないなんて、驚きです。 オトーサン、 流石に、息切れして、撮影休憩。 手賀沼の浅瀬で遊んでいる白鳥をズームで。 「ズームは、イマイチだな」 最大5倍ですから、白鳥の群れがよく見えませんでした。 「えー、2時04分、13.94km、手賀大橋に着きました。  今日の走りは、この辺にしておきましょう」 松屋近くのオランダ屋へ。 捺印済みのスタンプカードがみつかったので、 気をよくして、久しぶりに立ち寄ることに。 このお店、ケーキを注文すると、コーヒー無料。 椅子に座って、今日撮影した写真をチェックします。 五本松広場で撮った水鳥の連写から、 出来の悪いのをどんどん消去しました。 デジカメって、これが気軽にできるからいいのです。 だれでも、ちょっと頑張れば、名カメラマンになれます。 「イマイチだな」 そこで、近くの手賀沼広場まで追加に行きました。 帰宅して、デスクトップの背景にしてみました。 「いやー、細部の描写力がすごいなぁ」 840万画素の高画質なので、遠方の鉄塔まで写っています。 肉眼では、見えない景色までも、みせてくれるのです。 読者のみなさん、 申しわけありません。 せっかくの高画質なのに、 ホームページに載せるために、 カメラに添付された”PHOTO fun STADIO"を使って、 「ファイル操作」→「サイズ変更」をしたために、 普通のカメラで撮ったような写真になってしまったかも。

オトーサン、 感激して、知人に電話しました。 「LUMIX DMC-LX1、いいですよ」 翌日、すぐに購入し、喜んでもらいました。 「いいねぇ。軽くて、使いやすい。  光度不足もないし、ピントも合う」 「一流の品に取り囲まれると、幸せだなぁ」 C4、BD-1、そして LUMIX DMC-LX1。 老後の三種の神器と言っていいのではないでしょうか。 三種の神器のうち、BD-1を買った知人はまだいませんが.... ボーナスが入ったからと言って、安いFDBなど買ってはいけません。 安物買いの銭失いというじゃありませんか。 これまで出会った安物FDBのひと、みんな後悔していましたよ。


10 我輩、武者小路実篤邸へ、その1

オトーサン、 「おいおい」 BD-1をC4から下ろして組み立てました。 でも、なぜか後輪が固定されません。 そのまま走る分には問題ないのですが、 ちょっと持ち上げると後輪が折りたたみモードへ。 「もう、壊れたのか!」 馬橋のつるおかサイクルへ修理に行くことに。 「ありゃ、定休日だ!せっかく来たのに」 浅草へまた行くつもりだったのですが、 すっかり目算が狂いました。 オトーサン、 「しょうがない、手賀沼で我慢するか」 BD-1を、C4に積み直して、手賀沼へ。 「えー、11時18分、親水広場に着きました」 いつもは昼食の時間ですが、 お腹が空いていないので、 時計回りに手賀沼を半周することにしました。 沼南側の新しいサイクリングロードへ。 先日、時速33kmを記録した場所です。 「えー、向かい風です。スピードが出ませんねぇ」 時速15kmがやっと。 同時にスタートしたジョギングの若い女性が かなりの健脚で、追い越されそうです。 かなり頑張って漕ぎました。 「こりゃ、いかん、腰痛だぁ」 自転車の天敵は、風だけでなく見栄もあるようです。 オトーサン、 「えー、11時58分、12.18km、松屋に着きました」 また、豚丼(並)290円を注文しました。 ケチっているのではないのです。 牛丼よりも好きなのですから、しょうがありません。 ちょっとバテたので、40分も松屋にいました。 店を出て、BD-1をいじっていると、 「あれっ、直った!」 何ということはないのです。 留め金をちょっと横に押したら、カチッと嵌りました。 つるおかサイクルへの往復14kmは、 まったくのムダだったのです。 「まぁ、たまには、こんなこともあるさ」 物事、前向きに考えましょう。 オトーサン、 このまま帰宅しては、面白くも何ともありません。 柏に引っ越して、1年あまり。 我孫子周辺は、ほぼ走り尽くしました。 我孫子といえば、白樺派ゆかりの地として有名。 北の鎌倉とも呼ばれています。 大正末期に柔道の嘉納治五郎がやってきて、 それに続いて、陶芸家の柳宗悦やバーナードリーチ、 そして、志賀直哉、武者小路実篤をはじめ、 中勘助、滝井孝作、朝日新聞記者の杉村楚人冠が この地に住んで、黄金時代が花開いたのです。 学生時代に志賀直哉の愛読者だったので、 その旧居跡を見ましたし、 向かいにある白樺文学館も見学しました。 杉村楚人冠の旧居跡も、見学済みです。 オトーサン、 「武者小路実篤邸を探してみよう」 いつも、手賀沼畔のふれあいラインを疾駆しているので、 道路を渡って、船戸の森に近づいたことはなかったのです。 「へえ、ここもへび道だ」 くねくねと曲がった田舎道をのんびり走りました。 時々、農作業のお百姓さんの軽トラとすれちがいます。 「ここが、船戸の森か」 鬱蒼とした森が延々と続いています。 「へぇ、ここには、湧水もあるんだ」 八ケ岳の山荘では、冬期は凍りつく水道を使わず、 いつも湧き水のお世話になっています。 80年かけて流れ出た水のうまいこと。 東京から、わざわざ汲みにくるひともいるほど。 でも、ここ我孫子にあるなら、遠方まで行くこともないでしょう。 「この坂は、とても登れんなぁ」 100mほどですが、かなりの急坂です。 クヌギやケヤキの森の間の道を自転車を押して登っていきました。 「鞍馬山みたいだ。木漏れ日がきれいだな」 オトーサン、 「これが武者小路実篤邸跡か」 立派な門構えですが、閉まっています。 「見学できないのか」 手入れのいい庭に入ってみたいし、 武者小路実篤が、 春夏秋冬、朝昼夜、愛でて飽きなかった 眼下の手賀沼の風景がどんな感じなのか見たいものです。 後で、分かったのですが、 このお屋敷、いまは三協フロンティアの所有地で、 たまに社員研修に使っているとか。 見学したいひとは、電話予約が必要。 ・秘書室の電話:0471-33-6666 (月〜金)

オトーサン、 実篤邸跡の写真を撮って、引き返します。 「えっ?喫茶店があるの?」 誰も、こんなところにあるとは思わないでしょう。 面白いのは、店へのアプローチ。 橋になっていて、その途中にベンチがあったりするのです。 趣味人が建築家に設計させた山荘風。 「入ってみようか」 寄りつき難い雰囲気ですが、好奇心が勝ちました。

店内は、磨きこまれた空間。 お皿がたくさん飾ってあり、花も趣味よく生けてあります。 「どうぞ」 全身黒づくめの若い女性が案内してくれます。 女性客が、紅葉の庭がみえるいい席を占拠しています。 「ここしかないの?」 案内されたところは、 フロアより1段低い席で、階段下の狭い空間。 でも、船戸の森に面する竹林がみえます。 「まぁ、ここでもいいか」  ふーん、ランチ2000円か、いいお値段だなぁ」 「ケーキにするか。800円?高すぎるよ」 でも、コーヒー付きでした。 「なら、いいか」 上品なオーナーのおばさんが挨拶にきました。 「いらっしゃいませ」 「ケーキを和風のお皿に出すのって、面白いね」 「 .... 」 おばさんには、イヤ味と受けとられたようなので、 「これ、古伊万里じゃないの」 「そうなんですよ」 急に、上機嫌になりました。 コレクターなのでしょうか。

○家庭料理「小綬鶏」  武者小路実篤邸の跡地の一角、  リッチな気分でくつろげるお店。  店名は、よく見かける小綬鶏からとった。  住所:我孫子市船戸   電話:0471-85-8268  定休日:月曜日、火曜日、第3金曜日  営業時間:1000〜1800  ケーキセット:800円  ランチ:2000円(要予約) オトーサン、 お店を出て、BD-1のワイヤー錠を外していると、 やはりお店から出てきた妙齢のご婦人が話しかけてきました。 「いいわね、その自転車」 「乗ってみますか?」 「.....」 「普通の自転車とは、全然ちがう乗り心地ですよ」 「そう、じゃ乗ってもいいかしら?」 「どうぞ」 ご婦人、BD-1のサドルに跨ろうとします。 「ちょっと待って」 サドルの位置を低く調節しました。 ご婦人、走り出して.... この後のことは、あまりはお話ししたくありません。 20mほど走って、止まろうとして、転んだのです。 右手のブレーキを握ったので、前輪がつんのめったのです。 左手の土塀に傾いてとまって、 幸い、落車もせず、怪我もせずに済みました。 「止まるときは、左手のブレーキを....」 転ぶ前に教えておくべきでした。 「ありゃ、チェーンが外れた」 「すいません」 「なに、嵌めればいいだけですから」 「でも...」 ところが、なかなかチェーンが落ち止めに入らないのです。 「私にもやらせて」 「いいですよ、どうぞお帰りください」 「でも、申しわけないから」 寄り添って、チェーンを掛け直す努力をしました。 脂粉の香りがします。 20分近く一緒だったでしょうか。 「まいったなぁ」 オトーサン、 ようやくチェーンを掛け終えて、 親切なご婦人と別れることができました。 「あのひと、どういうひとなんだろう?  ダンナと別れて、ひと恋しいのかなぁ」 つまらんことを考えながら、 C4を駐車した親水広場まで、反時計回りに戻ることに。 ご婦人との出会いで、 時が逆戻りして、若返ったせいでしょうか、 わざわざ遠回りのルートを選んでいました。 「おお、走る、走る!」 先程は逆風でしたが、今度は追い風。 元気いっぱいに走りました。 でも、ロードレーサーの若者2人に追い越されました。 ここは、勝負どころ。 「やつら30kmで走っちょる。なんのなんの」 トップギアに切り替えて、追いかけます。 「みろ、このBD-1の実力!」 みるみる追いついていくじゃありませんか。 でも、全力疾走を続けたので息が切れてきました。 幸いにも相手が休憩したので、追いつきました。 荒い息をしていることは、伏せて。 「...すいません....ちょっと....聞きたいん...だけど」 これから冬になるので、冬物ウェアについて取材しました。 重ね着がいいという常識的な話しをした後、 「この手袋、走っていると寒いんだけど」 「ボクはこれを使っているんだけれど、これいいよ」 「どこが?」 「発熱素材なんですよ」 「へぇ、どこで売ってるの?」 「セオサイクルで買ったけれど」 「新松戸の?」 「そう」 「ありがとう!今度行ってみるよ」 オトーサン、 帰宅して、早速、ネットで探索しました。 「あるある!」 最近は、手袋も進歩しているようです。 ○紳士用防水発熱防寒手袋  表地は撥水加工を施したナイロン。  裏地との間に防水フィルムを入れて水や風をシャットアウト  裏地に東洋紡の発熱素材「エクス」を使用。  優れた防寒性を実現します。  立体裁断でグリップしやすいスベリ止め付き。  自転車・バイク利用時に最適。 価格:1995円(税込) 重量:110g カラー:グレー 続いて、 小綬鶏も調べてみました。 ○小綬鶏(こじゅけい)  雉をちょっと小さくした感じ。  中国南部原産で、大正時代に狩猟鳥として移入された。  さえずりは「チョットコイ」。 オトーサン、 またも妄想の世界へ。 「あのご婦人、ひょっとしたら、  チョットウチに来ない?って言っていたのかも」 高齢のジジイですら、こんなにもてるのですから、 若いひとなら、想像もつかぬほど、もてるでしょう。 BD-1、軽く10万円を超えますが、 付加価値を考慮すると、安い買い物ですよ。


11 我輩、ちょっと柏駅まで

オトーサン、 「休養日だけど、映画を見にいくか」 柏駅で映画をみて、お茶を飲んで、 そして、買い物すると、半日過ぎていきます。 家からBD-1で30分くらい。 「あれ?ここ満車なの?」 いつもの有料駐輪場に駐められません。 新しい駐輪場へ行けと書いてあります。 でも、肝心の場所が書いてないのです。 幸い、係員が戻ってきたので、場所を訊きました。 「ちょっと不親切じゃないの」 「ああ」 「場所は、どこなの?」 「長崎屋の前だよ」 「そう」 いつも寄る新星堂の前なので、好都合です。 不快な気分が直りました。 「2時間まで無料、それ以後100円、いいじゃん」 ここの係員のおじさんは、元気です。 この新しい駐輪場の使いかたを おばあちゃんたちに、嬉々として教えているからでしょう。 「そうだよなぁ。人間、何かの使命感が必要なんだ」 駐輪場でボヤっと当番し、会話のないまま過ごしていると、 さびしさが積み重なって、人間味が失われていくのでは。 「おじさん、この駐輪場、いいねえ」 「いいでしょ、農協でやることになったんですよ」 「ここ、だいじょうぶ?自転車、盗まれない?」 「一応、鍵かけたほうがいいですよ」 「盗まれること、あるの?」 「ここはまだないけど、  あっちの駐輪場は、ときどき盗まれるらしいよ」 「えっ?」 「そう。悪い奴がいるからね。  買った1時間後に盗まれたひともいるからね」 有料の駐輪場で盗まれることがあるなんて、 考えもしませんでした。 その場合、補償はどうなるのでしょうか。 買ったとき、500円払って、自転車保険に入りましたが、 高額なBD-1の場合でも、きちんと保険金を払ってくれるのでしょうか?

オトーサン、 映画を見た後、丸井へ。 ここの紳士用品売り場、 かなりオシャレで高額な品物を揃えています。 ブランドの素敵なバッグをみつけましたが、 残念ながら、肩かけかばん。 これでは、サイクリングには不向きです。 そこで、おしゃれなリュックサックを探しました。 「かっこいいリュックって、ないもんだねぇ」 「ええ。申し訳ありません」 高齢化が進むのですから、 両手が使えるリュックサックの需要も増えるはず。 もっとデザインや機能を工夫してほしいもの。 自転車用のものは、背中が蒸れないようにすべきです。 あるようなのですが、売場が見当たりません。 オトーサン、 その後、長崎屋へ。 今年の冬は、ウォーム・ビズ関連グッズが流行しているとか。 「スーパーって、ダメだなぁ」 "昭和枯れすすき"を思わせる商品、店内、接客態度。 そこで、店内に入居している100円ショップのダイソーへ。 「試してみるか」 手にとったのは、レッグ・ウォ−マー。 巣鴨のとげ抜き地蔵では、人気商品でした。 おれはそんな年じゃないぞと馬鹿にしてきましたが、 思いきって買ってみました。 帰宅して、机に向かうときに履いてみました。 いままで膝かけをしていても、足元がスース−。 それが、まったく寒くなくなりました。 膝掛けも不要です。 暖房温度を3度くらい下げてもいいのでは。 暖房費も大幅に節約できそうです。 これがたったの105円。 「ダイソーって、大した会社だなぁ」 オトーサン、 この後、丸井の前にある喫茶店へ。 休日は、若いカップルで超満員の人気店です。 我孫子や流山あたりの若いひとが、 わざわざ青山の表参道まで行かなくても、 ここで、おシャレな気分が味わえるからでしょう。 「お値段は、おもさん(表参)価格だなぁ」 テーブルに、どーんとケーキ満載の大皿が置かれました。 繁盛店のウエイトレス、ひまなときでも、 いそがしそうにするクセがついています。 「どれがいいかな?」 迷うのも、お値段のうちでしょう。 ウエイトレスを待たせて、しっかり迷いました。 さて、一番高いケーキを食べた後の感想はというと、 正直のところ、期待したほどではありませんでした。 「となりの若い女、うるさかったなぁ」 誰かの悪口の言い放し。 「場所柄か、ご時世なのか」 お値段は、ケーキとコーヒーで、1050円でした。 オランダ屋なら、3回楽しめるお値段。 レッグ・ウォーマーなら、10足も買えます。

オトーサン、 「やはり、柏は、まだまだだなぁ」 人口が増え、地価も上り、 若者のメッカになりつつあるとはいえ、 この周辺で味わえるのは、せいぜいプチ都会気分。 どこか欲求不満が残ります。 奥方や娘が、何かというと、 銀座・渋谷・新宿に繰り出す気持ちが分からないでもありません。 「郷に入れば、郷に従え。  サイクリングを楽しめばいいのに」 手賀沼や印旛沼、利根運河、江戸川、利根川、小貝川...、 まさに、柏周辺は、サイクリング天国です。 これからは、野鳥のシーズン。 これだけ自然に親しめる場所なんて都心にはありません。 最高じゃないですか。 でも、そういいながらも、 FOBを買って、浅草など都心へ通うひとがいます。 誰でしょうね?


12 我輩の我孫子グルメ探訪、その1

オトーサン、 「今日こそ、休養しよう」 疲れが出たのか、唇が痛み、お腹の具合もいまいち。 でも、このどこまでも晴れわたった冬の空を見上げると、 もうダメ、外出することにしました。 そろそろ、お昼時。 湖北駅そばの美味しい店へ行ってみましょう。 もう10時半を過ぎています。 家から自転車で行くと、途中で空腹になりそうなので 手賀沼の親水広場まで、C4で行き、 そこからサイクリングすることにしました。 途中ガス欠になりそうなのに気づいて、満タン。 ハイオクで、リッター131円で、7100円になりました。 「自転車は安いなぁ」 それに、クルマでは味えない非日常の世界が現れてきます。 オトーサン、 「えー、いま11時45分、3.43km、道に迷いました」 親水広場から市民農園へ、 そこから天王台駅を目指して、坂を上っていきました。 「おお、東我孫子駅だ」 ここまでは、順調だったのですが、その先、道に迷いました。 JR成田線に沿って走っていったのですが、 道路が線路からどんどん外れていくのです。 「我孫子カントリークラブにぶつかりました」 立ち入り禁止と書いてあって、その先へは進めません。 迂回もダメなようです。 しょうがないので、元に戻って、JR成田線の踏切りを渡り、 国道356号線沿いに歩道をしばらく走りました。 BD-1、小ぶりなので、こういう狭い道を走っても、 さほど苦になりません。 段差にも強いし。 オトーサン、 「えー、12時05分、6.71km、ようやく湖北駅へきました」 駅前を自転車に乗り降りしながら、 ネットの井戸端会議で紹介されていた名店を探し歩きました。 「あった!」 台湾料理で、立派とはいえない店の外観。 ランチメニュ−を出されましたが、 「これがいいや、この海鮮おこげ」 ネットでおすすめの料理を注文しました。 正式な料理名は、おこげご飯の海鮮ソースかけ。 お値段は、コーヒーがついて、1200円。 運ばれてきたものをみて、仰天。 「えっ、何これ?」 「おこげです」 「インスタントラーメンじゃないの?」 四角い干しご飯が中華丼の底にあるだけ。 でも、ご安心。 それに海鮮ソースをたっぷりかけてくれるのです。 やがて、その干しご飯がやわらかくなってくるというわけ。 「これで、おこげかなぁ?」 疑問が残りますが、海鮮のほうは、オススメ。 牡蠣、海老、烏賊、あさりなどがたっぷり入っています。 スープも淡白ですが、上品なおいしさ。

○龍鳳館  住所:我孫子市湖北台1-13-18 電話:04-7181-5002 営業時間:1100-300 /500-1200 定休日:無休: オトーサン、 お店の陽気なオネーチャンと会話。 「どこからきたの?」・ 「台湾」 「それは分かっているけど、台湾のどこ?」 「台中」 「ああ、一度行ったことあるよ、料理のうまい場所だよね」 「ありがとう」 彼女、店の外まで見送りにきてくれました。 オトーサンの赤い自転車をみて、 「それいいね、私のよりいいね」 「いいだろう、高いんだ」 店先にある彼女の自転車は、コールマンのFDBでした。 次に訪れたときは、交換して乗ってみましょう。 オトーサン、 この後、和菓子屋さんを探します。 お隣の花屋の奥さんに聞きました。 「すみません、福一って、どこにありますか?」 わざわざ、店の外まで出てくれます。 「あの先に信号が見える?あそこを右に折るとすぐよ」 おかげで、あっという間に、福一へ。 言われないと気づかない地味なお店です。 「こんにちわ。  お宅がTVチャンピオンで優勝したと聞いて、  はじめて来たんだけれど、どの御菓子がおすすめですか?」 「文学焼きですね」 文学を焼くというネーミングは、気に入りませんが、 我孫子の文士に因み、かつ三笠焼きをイメージしたのでしょう。 「じゃ、それを3つ」 お相手してくれたのは、美人の奥さん。 「ご主人、こんなにお若いんですか?」 「TVチャンピオンに出たのは、もう大分前ですから」 「じゃ、その奥の写真に近いの?」 「そうですね」 「池田尚史さん、男前じゃないの」 「ありがとうございます」

○和菓子 福一   住所 我孫子市 湖北台 8-6-2  電話:04-7188-0160   営業時間:900-1830 定休日:日曜日 オトーサン、 湖北台団地をぬけて、一路手賀沼へ。 「えー、1時02分、10.30km、手賀沼フィシングセンターに出ました。  走るぞー」 子供とおなじで、食事後は元気になります。 新しいCRを走っていくと、カメラマンたちが群れています。 「何か珍しい鳥でもいるのかな」 三脚にのせたカメラと20mも離れた場所にいます。 「何か撮れますか?」 「いろいろね」 「カワセミとか?」 「スズメも撮れるよ」 「スズメ?」 「スズメも固まれば、キレイだよ」 「で、あれは何?自動で撮影できるの?」 「ほれ」 おじさんのひとりが、手元のリモコンをみせてくれました。 「へぇ、最近は、こうなっているんだ」 確かに、遠隔操作なら、鳥も警戒しないでしょう。 「このカメラ、いいでしょう」 「それ?ダメだよ、500ミリか1000ミリないと、  鳥は撮れないよ、  それに手振れに強くなんてウソだよ、  ちゃんと三脚を使わなければ」 「....」 完全に馬鹿にされたようです。

オトーサン、 ご自慢のLUMIX DMC-LX1が まったくプロの連中に相手にされなかったので、 一念発起しました。 しばらくBD-1で沼の周辺を走ってから、 絶好の撮影ポイントへ。 先日は、光学ズーム4倍だったので、 水鳥が点にしか撮れず、 見られたものではなかったのですが、 デジタルズームがついていて、 16倍までズームが可能だと分かったので、 再度挑戦してみました。 「いい写真だと思うけどなぁ」

オトーサン、 この後、時速25kmで、高速ツーリング。 「チキショウ!」 ロードレーサーのお兄さんが楽々と抜いていきます。 抜き返せませんでしが、時速29.5kmを記録しました。 「変だな。30kmは出るはずなのに」 後でチェックしたら、トップギアにしていませんでした。 「勝てたはずだ」 オトーサン、 「えー、1時40分、親水広場に戻ってきました」 親水広場の芝生に座って、 手賀沼の噴水をみながら、文学焼きを食べてみました。 「美味い!」 やはり、TVチャンピオン、こしあんが一味違います。 この後、汗をかいたので、早めにお風呂へ。 今日は、完全休養日なのに、走ってしまいました。 「ま、すこしは運動しなきゃな」 今日の走行距離は、16.53kmでした。


13 我輩の我孫子グルメ探訪、その2

オトーサン、 「今日こそ、休養しよう」 でも、晴れわたった空を前にすると、 もうダメ、昨日と同じく外出することに。 そろそろ、お昼時。 また、湖北駅そばの美味しい店へ行ってみましょう。 11時02分、親水広場からスタート。 BD-1の組立て、もうスムースなもんです。 「えー、11時11分、0.91km地点、ここの藤棚を撮っておきましょう」 昨日は、ここを抜けて行ったので、道に迷ったのです。 失敗は2度と繰りかえさないために、写真を撮っておきましょう。

オトーサン、 昨日、どこかで腕時計を失くしました。 よく失くすので、安物にしているので、 金銭的には、どうってことはないのですが、 サイクリング中の時間が記録できないのは、困りものです。 奥方に腕時計を借りようとしました。 「あなた、ケータイもっているでしょう」 「ああ」 「時計がついてるでしょう」 「なるほど、なるほど」 いまケータイで時刻をみていますが、 いちいち取り出すのは、面倒。 やはり腕時計のほうが、楽チンです。 「えー、2.40km、峠下広場です。  時間は、えーと、液晶がみえずらいなぁ。  そう、11時20分のようです」 いつもは、この広場、通過してしまうのですが、 身体が暖まってきたので、早目に調整することに。 まず、昨日買ったばかりのネック・ウォマーマーを脱ぎました。 (この保温効果、抜群です) それから、ハイソックスを足元へ下げて、折りました。 さらに、セーターを脱いで、Tシャツと薄手のウインドブレーカーだけに。 手袋は薄手のをはめてきたので、そのままに。 手賀沼からの冬の風、 さっきまでは冷たかったのに、もう心地よく感じられます。 「冬は運動するにかぎるな。  それにしても、いい景色だなぁ」 水辺を走ると、心がなごみます。 散歩しているひとも、うれしそうです。 その平穏を妨げないように、ゆったりと走りました。 時速10kmから15km程度で走るのをポタリングというそうです。 辞書を引いたら、"putter"(ぶらぶらする/のんびり遊ぶ)と出ていました。 すぐ上に、"putt"(ゴルフのパット)とありました。 「へぇ、パットって、のんびり入れるもんなんだ」 ハンディ36のひととして、はじめてパットの奥義を理解しました。 まあ、それはともかく、のんびり走るというのは、いいものです。 これが、ロードレーサーでは、そんな気になれません。 図体のでかいママチャリでも、ムリでしょう。 BD-1ならではの境地です。 (冬のボーナスが出たら、即買うべし)

オトーサン、 「えー、11時28分、3.31km、五本松下広場にきました。  あれっ、ひとだかりしてるぞ」 三脚つきの望遠カメラがみえました。 「ははぁ、また例によって鳥談義をしているな」 通り過ぎましたが、会話の一部が耳に入りました。 「昨日、あっちで会長がカワセミを2羽見たってさ」 あっちというのは、昨日、三脚が立ち並んでいたところでしょう。 会長というのは、LUMIXを思いっきり馬鹿にしたひとかも。 ま、そんなことはどうでもいいのですが。 「えー、11時33分、4.21km、手賀沼フィッシングセンターを通過しまーす」 いつもは、舗装路面を行くのですが、 BD-1は砂利道にも強いことが分かったので、田圃の中央へ。 「おお、360度の景色だ!」 明治時代には、手賀沼の埋め立てが盛んでした。 そのときつくられた田圃が見渡すかぎり広がっています。 オトーサン、 「えー、いまけやき坂を上っています」 この坂、およそ1.5kmほども続くのです。 途中、一休みして、湖北台団地を撮影しました。 この巨大団地のあるおかげで、 湖北駅前にグルメの店が存在できるのでしょう。

「えー、11時55分、6.85km、湖北駅前にきました。  もう、お目当ての店がみえます」 ネットには、「とん吉:上野の双葉と並ぶ」とのコメント。 双葉といえば、上野のとんかつ御三家のひとつ。 「ぽん多」「双葉」「蓬莱屋」という評判の名店じゃないですか。 でも、このとん吉、 店構えは、ふつうの町のとんかつ屋。 それ以上でも以下でもありません。 入ると、初老のご主人とおかみさんのお2人。 「ヒレカツ定食!」 メニューをみて、一番高いのを頼みました。 読者のみなさん、いくらだと思います? 「950円!たったの950円ですよ」 「おばさん、音が聞こえるけど、テレビどこにあるの?」 「うちは、テレビを置いてません。あの音はラジオです」 「そうなの」 ちょっと気まづい雰囲気に。 スポーツ紙を読んでいると、料理が運ばれてきました。 とんかつ、ご飯、味噌汁、お新香。 「さて、お味はどうかな?」

オトーサン、 食べ終わって、ご主人に言いました。 「やー、すばらしかった。  久しぶりにおいしいとんかつを食べられました。  ありがとう」 ご主人が頭を下げました。 実直で恥しがり屋さんみたいです。 ヒレ肉のやわらかいこと、油のさっぱりしていること。 絶妙な仕上がりです。 そこらの有名店のとんかつなんて、足元に及びません。 「奥さん、この気配り、うれしかったよ。 お新香は、たくあん、白菜、きゅうりのつけものでしょ。  お味噌汁の具は、豆腐、ワカメ、油揚げ。  ちょっとしたことだけど、3つずつ揃えているでしょう」 奥さん、ぽっと顔を赤らめました。 そういえば、きゃべつも刻んだものだけでなく、 刻まないものも添えてありました。 ○とん吉  住所:湖北南口駅前通リ  電話:04-7188-3024  営業時間:1130-2030  定休日:月曜日 オトーサン、 大満足して、帰路へ。 12時55分、親水広場に戻りました。 走行距離は、13.80km。 ちょっと少ないですが、今日はこれで終わり。 「かわせみ饅頭でも買って買えるか」 さきほど、会長がかわせみを2羽みたという会話を思いだして、 C4で、我孫子駅まえの和菓子の老舗「はせがわ」へ。 「かわせみ饅頭ありますか?」 「すいません、もう終わりました」 「残念だなぁ」 紀の宮さまのご結婚を祝して、 我孫子の鳥類研究所にご勤務されていたことに因んで、 かわせみ饅頭をつくったのですが、もう終わっていたとは。 「じゃ、代わりに、その上用饅頭を」

○はせがわ  明治23年創業  住所:千葉県我孫子市白山1-1-26  電話:04-7182-0832 営業時間:900-1930(日曜日は1700)   定休日:無休


14 我輩、武者小路実篤邸へ、その2

オトーサン、 先日、船戸の森にある武者小路実篤邸へ。 でも、閉まっていて、見学できませんでした。 武者小路実篤が、愛でた手賀沼の風景が どんな感じなのか見たかったのですが、果たせませんでした。 見学したければ、電話で予約すればいいと分かって、 早速、三協フロンティアの秘書室に電話しました。 女性秘書が出てきて、快く見学を許可してくれました。 「では、土曜日の午前10時からでよろしいですか?」 「ええ、その後、10時半から24名の団体の予約があります」 「管理人さんも大変でしょうから、  10時半からでも、こちらはかまいませんが」 「よろしいですよ、ご遠慮なさらなくても」 「分かりました」 「では、10時から、ご1名様ということで」 「はい、そういうことでお願いいたします」 無事、予約が取れました。 楽しみです。 オトーサン、 当日の朝、寝坊して、 「10時の予約か、忙しいな。  11時過ぎにすればよかったなぁ」 でも、いまさら変更もできないので、あたふたと家をスタート。 親水広場にC4を駐車して、BD-1を組み立てます。 「えー、2分もかからず、組み立てが完了したのですが、  チェーンが外れていました」 リュックのなかに入れた作業用の手袋を探したりして、 手間どって、さらに2分ほどかかってしまいました。 「えー、9時45分、1.64km、文学の広場にきました」 ここには、白樺派の文士の石碑があるのです。 せっかく武者小路実篤邸を見学できるのですから、 訪問する前に、まず石碑を撮っておきましょう。

○武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)  1885/5/12 - 1976/4/9) 東京都生まれの小説家。 公卿の家系である子爵・武者小路実世の第8子として誕生。  2歳の時に父親が死去。学習院初等科、中等学科、高等学科を経て、  1906年に東京帝国大学哲学科に入学。  1910年、学習院の同級生だった志賀直哉や有島武郎らと「白樺」を創刊。  1918年、ユートピア実現を目指して、宮崎県に「新しき村」を建設したが、  1939年に埼玉県入間郡毛呂山町に「新しき村」を建設した。  1951年、文化勲章受章。  代表作  「お目出たき人」「その妹」「友情」「人間万歳」「真理先生」    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 撮影で手間取ったので、大急ぎで武者邸へ。 船戸の森まで飛ばし、例の急坂はBD-1を押して走りました。 100mほどの坂ですが、走るとやはり汗をかきます。 「10時5分前だ、間にあった!」 すでに、門が開いています。 「へぇ、ずいぶん、手際がいいなぁ」

邸内に入って、管理人をさがしました。 誰もいる気配がありません。 「変だなぁ」 とりあえず、お屋敷の写真を1枚撮りました。

そのとき、屋敷の奥で人影が。 「すみません、管理人さんですか?」 「....」 「見学にきた者ですが、お庭を撮影してよろしいですか?」 「かまいませんよ」 「あの、ここ、開いているときは、  予約なしでも、見学できるのですか?」 「ああ。開いていればね」 「そうですか」 不親切な管理人さんでした。 でも、どこか眼光鋭いものがありました。 オトーサン、 「いいお庭だなぁ」 お屋敷のあちこちを撮影して回りました。 「おお、井戸がある!」 「おお、あづまやがある」 来客があると、武者さんは、ここに座って、 手賀沼を見下ろしながら、談笑したのでしょうか。 樹木が育っているので、木の間がくれですが、 手賀沼の水面が青くキラキラ輝いています。 「武者さん、大金持ちだったんだ」 京都の豪族・貴族のお庭を見学しているみたいでした。

庭をめぐる小路のひとつを下ってみました。 「おお、ここが裏木戸か。  武者さん、ここから手賀沼散歩に出かけたんだ」 屋敷から下の道路へは、もう10mもないのです。

オトーサン、 そさくさと見学を終えて、門のところへ。 庭師に出会いました。 「ここのお庭、手入れがすばらしいですねぇ」 「ああ、うちの会長さんが植木が好きで、  低木はみな後から植えたんだよ」 「ここ、いつごろ買われたの?」 「そうさね、もう12、3年前になるかな」 「へぇ、三協フロンティアの会長さん、風流人だねえ。  何でも、グアムに植物園をもっているって?」 「ああ、公開している以外にも、あちこちにあるよ」 「へぇ、大したもんだ。どういうひとなのかなぁ?」 「いま、会ったでしょう?」 「会った?」 「いまの時間、おられたのは会長だけだよ」 「えっ、すると、あのひとだったの?  おれ、管理人と間違えたよ」 「もう引き揚げましたよ、不機嫌そうに」 「....そんなこと言われてもなぁ。  おれ、ちゃんと予約してきたんだよ」 「そのようですね、ノートに書いてありましたよ」 「そうでしょ、そうでしょ」 オトーサン、 冷や汗をかいてしまいました。 ま、世の中、行き違いってあるもんで... その昔、Hという名前の役員さんがいました。 若いAくんが、同じ名前の同僚Hを呼びだしました。 たまたま電話を取ったのは、H重役。 「はい、Hです」 「あのな、Hよ、そう他人行儀な話し方するなよ。  例の1件だけどさ」 「.....」 このAくん、後で大目玉を食らったのは言うまでありません。 でも、そのH重役からではなく、ずっと下の上司からでした.... オトーサン、 「...あの可愛い声の秘書が叱られなきゃいいが」 月曜日になったら、彼女に電話して、 本日の顛末をひととおり説明しておきましょう。


15 我輩の我孫子グルメ探訪、その3

オトーサン、 「さあ、湖北へ行くか」 でも、同じ道を引き返して行くのはシャクなので、 手賀沼とは反対方向へ船戸山を降りることに。 「あー、行き止まりだ」 電車の線路が行く手をさえぎっています。 「この先、行けるよ」 「行ける?」 「歩道橋を渡ればいいんだよ」 我孫子っ子は、知らない大人をみても警戒しないようです。 赤いBD-1に乗っているので、親しみを感じたのでしょうか。 「ほんとだ、歩道橋がある」 道を曲がった途端に歩道橋が現れました。 BD-1なら、軽量なので、引きずりあげるのも楽です。 「おお!すごい!」 オトーサン、 小学校低学年の頃、池上線の沿線に住んでいました。 そのためか、電車の線路をみるとワクワクします。 「えー、10時30分、4.28km、歩道橋の上です。  随分、レールがあるぞ」 常磐線と成田線でしょうか。 常磐線のレールはピカピカで、成田線は錆びています。 「本数が少ないからだろうなぁ。  増やせばいいのになぁ」 本数が少ないから沿線開発が進まないのです。 ま、典型的なニワトリかタマゴか問題です。

オトーサン、 我孫子駅前から線路沿いに走りました。 「ありゃ、線路沿いの道がなくなった」 さあ、それからがいけません。 迷いに迷いました。 大体、東我孫子駅そばの名門我孫子CCが いかんのじゃないでしょう? 成田線沿いの道路を遮断しているのです。 「えー、11時15分、10.45km、南青山入口交差点にきました」 成田線のガードをくぐってしばらく、 NECの工場や川村学園前を通過しました。 「ここ、前に来たことがあるな」 クルマで古利根沼を探し歩いたときに通過しました。 「じゃ、湖北駅はそう遠くないぞ」 それでも、大分長いこと走りました。 「えー、11時40分、14.52km、お目当ての店を発見しました」 ネットの掲示板には「隠れた名店」とあったお店です。 はるばる来る気になったのは、 以下のようなコメントをみたのです。 一番ネタが良くって、 旬を味わえて仕事が丁寧で良心的な寿司屋は『金寿司』さん。 家族経営のアットホームなお店です。 今ではお寿司屋さんと言えばこの店にしか行かなくなりました。 カウンターデビューをお考えの方がいらっしゃったら こちらをお薦めしたいです。(お座敷もありますからご家族でも) ちなみに家人はこちらのヒカリモノと穴子が、私は貝類が大好きです。 そして、鮪もとてもいいものを仕入れています。 あ〜、こう書いていたらまた行きたくなってしまった〜 オトーサン、 のれんをくぐると、カウンターと小さな座敷。 ”渡る世間は鬼ばかり”の藤岡啄也さんに似ています。 「何にしようかなぁ」 鉄火丼を注文しました。 鉄火丼が好きなので、 築地界隈をはじめ、あちこち食べ歩いているので、 良し悪しの判定くらいならできるでしょう。 待つことしばし。 座敷には、初老のひと2人が酒を飲み交わしております。 なじみ客らしくおやじと世間話。 いい雰囲気です。

オトーサン、 食べ終わって、おやじさんに。 「おいしかった。とくに寿司飯が上等だったよ」 「ありがとよ」 「ネットでみたんだ」 「ウチは宣伝しないからね。  さては、ウチのお客さんが書いたな」 息子と顔を見合わせて笑っていました。 ○金寿司  住所:湖北駅前  電話:04-7188-7585 ランチ:インド赤身まぐろの鉄火丼(味噌汁、サラダ、デザートつき)1575円  営業時間:1130-2300 定休日:水曜日 オトーサン、 この後は、昨日と同じコースで、手賀沼フィッシグセンターへ。 その手前まで砂利道を走って、田圃の真ん中から 湖北台団地の遠景を撮影しました。

フィッシグセンターそばの若鮎樋管も撮影しました。 「濁流だなぁ」 湖北台団地からの汚水でしょう。 湖北でグルメを味わっておいて言う資格はないでしょうが、 この濁流が手賀沼を汚染しているのです。

オトーサン、 余力を残していたので、手賀沼を一周することに。 ・12時45分、17.54km、手賀沼フィッシングセンター ・1時10分、22.40km、手賀大橋 ・1時30分、27.41km、北柏橋 ・1時48分、31.27km、オランダ屋へ到着 「この店、グルメじゃないけど、安いなぁ」 ケーキ代だけで、コーヒーは無料なのです。

「えー、2時18分、親水広場に戻ってきました。  これでお仕舞いにしまよう」 今日の走行距離は、32.77km、 BD-1で、こんなに走ったのは、はじめてです。 「長距離も、そう苦にならんなぁ」 ほんとにBD-1、おすすめです。 繰り返しますが、ボーナスでゲットしてください。


16 我輩、再び浅草から龍泉寺へ

オトーサン、 「浅草へ行かなきゃ」 前回、浅草から吉原、そして龍泉寺から日暮里へ駆け抜けました。 でも、一葉ゆかりの地にいくつか見落としがありました。 それに、ほかの用件も出てまいりました。 というのも、読者からメールをいただいたからです。 ○オトーサンヘ そばの値段から入場料、事典のような知識と、 様々な角度から楽しませていただきました。 これからも楽しみにしています。 特に蕎麦屋さん情報とか。 シルクロード雑学大学長澤法隆 http://www.geocities.jp/silkroad_tanken/ 「こう言われちゃ、もう1回行くしかないなぁ」 てなことで、浅草へ水曜日に出かけました。 水曜日は、浅草公会堂前の「ベル」の定休日。 他店で浮気していい日だからです。 「久しぶりに並木の藪へ行こう」 並木の藪といえば、三大藪蕎麦の名店。 (あとの2店は、かんだやぶそばと池之端藪) オトーサン、 「えー、9時40分スタートします」 浅草へ行くと決めたら、一刻も早く行きたい。 その気持ちが裏目に出ました。 まず、パスカードを忘れて、わが家に引き返しました。 次に、輪行袋を忘れたことに気づいて、玄関を開け閉めしました。 3度目は、カメラにSDカ−ドを入れ忘れていました。 「二度あることは、三度あるんだ」 自嘲しながら、「もう忘れ物はないだろう」と安堵していたら、 電車に乗ってから気づきました。 「しまった、地図を忘れた!」 オトーサン、 「えー、10時50分、浅草に着きました」 BD-1の組み立ては順調でしたが、 走り出したらチェーンが外れていました。 「変だな?何が原因なんだ?」 原因究明できなければ、対策の立てようもありません。 でも、目下の懸案は、地図の入手。 「どうしようか?そうだ、図書館へ行ってみよう」 台東区立台東図書館は、前回行った生涯学習センターにあります。 3階の樋口一葉記念館を訪れたときに見つけました。 「池波正太郎記念文庫もあるのか」 奥方は、池波正太郎のフアン。 「全部読んだわ」 その関係で、つき合わされました。 それに、池波正太郎さん、 ひと頃、台東区役所に勤めていました。 同じ頃、叔父のひとりが台東区役所にいたので、 ちょっと親しみを感じております。 期待して入ってみたこの文庫、レイアウトは、よく出来ております。

でも、残念ながらいくつか問題があります。 1つ目は、すべてケースに入っていて、撮影できないこと。 2つ目は、ここでみつけた池正さんの本を買えないこと。 3つ目は、専属の係がいないので、何も質問できないこと。 オトーサン、 図書の貸し出し業務で忙しい係の女性に、 長い間待たされて、ようやく以下の本を入手しました。 「地図くらい載っているだろう」 ・台東区教育委員会「下谷・浅草文学案内」平成6年 オトーサン、 雷門へ引き返して、並木藪蕎麦へ。

「鴨なんばん!」 この時期は、鴨なんばん。 池正フアンなら、これで決まりでしょうね。  初冬の、鴨なんばんがではじめるころの、平日の午後の浅草へ行き、  ちょっと客足の絶えた時間の、並木の藪の入れ込みへすわって、  ゆっくりと酒をのむ気分はたまらなくよい。           池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」 オトーサン、 鴨なんばんができるまで、 地図をひろげて研究にいそしみした。 「ふーん、この地図いいな」 先程、図書館で本を買ったら、おまけに地図がついていました。 ・台東区立台東図書館「下谷・浅草文学地図」 広げると、新聞紙大なので、普段なら気がひけるのですが、 まだ、11時40分、並木の藪といえども、客足の少ない時間。 「こりゃ、いいや!」 文学碑、文人の墓、文人の旧居、 さらには、文学作品の舞台まで記入されているのです。 樋口一葉についても、盛りたくさん。 ・鷲神社:「たけくらべ」「二の酉」「胸より胸へ」      樋口一葉文学碑 ・龍泉寺:樋口一葉記念館、一葉公園 樋口一葉記念碑、一葉たけくらべの碑      樋口一葉旧居跡        オトーサン、 いつも、もり蕎麦2枚を注文します。 蕎麦はもちろん、辛いつゆも好きです。 でも、鴨なんばん(1700円)を食すのははじめて。 「お待たせ」 運ばれてきた品をちらっとみて、 「おお、こりゃ豪勢だ!」 どんぶりからはみだしそうに分厚い鴨の肉が並んでいます。 中央に鴨のつくね、傍らに長ネギ。 具にかくれて、細いお蕎麦。 食べた後の感想は...というと、 「鴨とは、こんなに美味いものだったのか。  ほかの店の鴨は、ありゃ鴨なのか?  まいった、まいった、恐れ入谷の鬼子母神だ」 ○並木藪蕎麦  住所:東京都台東区雷門2−11−9  電話:03-3814-1340  営業時間 1130-1900  定休日:木曜 オトーサン、 冷えた身体が温まりました。 「げに、冬は並木の鴨なり」 BD-1に、うちまたがって、 鷲のごとく軽やかに鷲神社(おおとりじんじゃ)へ。

この境内にも、一葉の碑がいくつかありました。 一葉直筆の石碑もあって、写真を撮ってみましたが、 まったく判読できないので、掲載はやめておきましょう。 オトーサン、 「次はどこだ?」 前回立ち寄った一葉記念館に隣接する一葉公園へ。 「なーんだ。記念館だけでなく、公園も再開発中なんだ」 この後、ものの100Mも離れていない旧居跡へ。 「えー、12時25分、5.55km、ここでした。  なーんだ、さびしいなぁ。  道路際、駐車場の前に碑があるだけか」

後で知ったのですが、 ここには、以下のような「碑文」を刻んだ石碑があったのです。  ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。  一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。  明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。  今町民一葉を慕ひて碑を建つ。  一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。  菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、  昭和十一年七月のことなりき。  その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。  昭和二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、碑も共に溶く。  有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。  愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。  唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。  僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。                         昭和二十四年三月                         菊池寛撰                         小島政二郎補並書                          森田春鶴刻 この見事な碑文を刻んだ石碑は、一葉公園に移転していたので、 残念ながら、見ることはできませんでした。 「嗚呼」 オト−サン、 一葉めぐりの後、飛不動へ。 鷲神社と一葉記念館の間にあるので、寄ってみました。

「そのお守り、下さい」 知るひとぞ知る海外旅行の無事を祈るお守りです。 今年、欧州へ5回も出張した娘にあげましょう。 ○飛不動尊・正宝院  創建間もない頃、住職が修行のために、  はるばる大峰山に辿り着いたところ、  不動明王は一夜にして大峰から江戸へ飛び返り、  祈っていた人々の願いを叶え、利益を授けた。  この奇端により「空を飛び来て衆生を守り給うお不動さま」として  人々から畏敬され、以来「飛不動」と呼ばれるようになった。  住所:東京都台東区竜泉3-11-11 オトーサン、 ふと思いついて、質問しました。 「あの−、元の竜泉小学校の後に、日本航空高校が入ったでしょう」 「ああ」 「この飛不動の近くだから、あの場所を選んだのでしょうか?」 「そんな話は聞いたことないね」 「そうですか...」 あるいは、樋口一葉の両親が山梨県出身だから、 山梨の日本航空高校が、この地に東京センターを設けたのでしょうか? 疑問が疑問を呼んでまいりました。


17 我輩、根岸から浅草へ

オトーサン、 「ともあれ、金曽木小学校へ行ってみるか」 今朝、出かける前に、台東区役所に電話して、 明治時代末期に「下谷区下根岸○○番地」は、 いま、どういう住所表示に変わっているのか、聞いてきました。 「そうですね。根岸4丁目15番地ではないでしょうか」 「ありがとう!助かります」 先日は、子供の頃住んでいた竜泉小学校前の家を探しました。 その後、生まれた場所の東日暮里3丁目に行きました。 そして、今日は、亡くなった母が生まれた場所を訪れるのです。 Livedoorの地図で、下調べすると、 金曾木小学校が根岸4丁目16番地なので、その近辺のようです。 「昔のままだといいんだけどなぁ」 オトーサン、 「えー、12時56分、7.77km、おお、スリーセブンだ。  金曾木小学校の前に来ました」 この小学校の名前は、母が懐かしそうに発音していたせいか、 耳に残っています。 でも、今日の今日まで、”金杉”小学校と思いこんでいました。 「金曾木だったのか」 通りかかったおばあさんに質問しました。 「金杉と金曾木、同じなんですかね?」 「あたしゃ、嫁にきて50年、ここに住んでいるけど、分からないねえ」 話を前に進める都合で、後で判明した事実を記しましょう。

○金杉   地名は古くからあり、鎌倉時代に金曽木彦三郎なる人物がいて、   地名を姓名にしたと考えられ、それが金杉に変わったが、   金曽木は小学校名として残る。   江戸時代になると、奥州裏街道沿いに町が造られ、金杉上.下町ができた。   その町並の裏側は田畑で金杉村になっていた。 オトーサン、 「変わったなぁ。みんな戦後の建物ばかりだ」 関東大震災があり、終戦の年の3月10日の大空襲があり、 そして、昨今のマンションブームで、破壊され尽くしたのです。 「どこかに、往時をしのぶものが残っていないかなぁ」 あたりを徘徊しました。 「この大銀杏だけか」 金曽木小学校脇の路地を入ると、小さな神社にぶつかりました。 碑文を読みました。

○下根岸稲荷神社 通称、石稲荷。   東山天皇の貞享4年(1687年)、豊島郡金杉村大塚に創建された。   祭神は倉稲魂命(ウカノタマノミコト)。   子供の夜泣き、出世稲荷として広く信仰を集めた。   神社の宝物は、姫路城主の二男で、この地に画庵を構えていた   酒井抱一が文化十年(1813年)に奉納した旗幟である。 「子供の夜泣きに霊験があるのか」 祖母は、赤子の母を抱いて、きっと、この神社にきたのでしょう。 この大銀杏の色づくのも見たにちがいありません。 ここでも、後で調べた昔の風景を記しましょう。 ○金杉通り ...石稲荷の境内に出る。  ここはふだんはがらんとした広場で参詣するものはほとんどないが、  祭りの日になるとたちまち人で一杯になる。  飴屋、おでん屋、密豆腐、玩具屋、絵草紙屋と立ち並び、  小遣いを握りしめた子供たちはあちこちと群がり歩く、  急ごしらえの屋台も上では絶えず笛太鼓が流れ、ヒョットコの踊りが続いている。 出典:www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/ taitou-imamukasi/kanasugidoori.html オトーサン、 BD-1で、根岸界隈を走り回りました。 浅草村が、上根岸、上根岸、上根岸になり、 そして、根岸1〜5丁目に変わったようです。 「昔の面影はないなぁ」 何かの折に聞いた母の言葉がよみがえってきました。 「”根岸の里の侘び住まい”を後につけると、  いい俳句になるのよ。  初雪や 根岸の里の 侘び住まい。  ほらね」 「へぇ、じゃ、ボクもやってみよう。  鶯や 根岸の里の 侘び住まい  ほんとだ」 でも、もう根岸の里は跡形もありません。 母も3年前に、93歳で亡くなりました。 空き地という空き地には、マンションが建設中です。 オトーサン、 1時38分、もとの場所に戻ってきました。 立ち去る前に、石稲荷の碑文を読み返しました。 「出世稲荷か。  ...結局、祖母も、母も、オレも、わが家系は出世に縁遠かったなぁ、  祖父も、父も、早死にしたし...」 「貞享4年か、あれっ?」 ○貞享(じょうきょう)   日本の元号の一つ。   天和の後、元禄の前。   1684年から1687年までの期間を指す。   この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。   江戸幕府の将軍は、徳川綱吉。      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ”貞”は、弟の名前、”享”は、自分の名前ではありませんか。 (もっとも、正しくは、”亨”と書きますが) 父が早死にしたので、名前の由来を聞いたことがなかったのです。 父が国文学を専攻していたので、古典から引用したみたいよ そう母に聞いたことがありますが、 あるいは、この碑文にヒントを得たのかもしれません。 こんなこと、他人からみれば、どうでもいいことでしょうが、 人並みに自分の名前の由来くらい知りたいじゃないですか。 また、ひとつ謎が増えました。 オトーサン、 「へぇ、こんなところに」 路地を出ようとしたら、クルマが無理やり入ってきました。 止むをえず、待機していると、二宮金次郎の銅像が目に飛び今できました。 ちょうど下学時の子供たちが通りかかったので、 思いきって質問してみました。 「キミたち、このひと、誰だか分かるかい?」 「にのみや きんじろう」 「ほー、えらいね、よく分かったね」

○二宮尊徳(にのみや そんとく) 1787/9/4 -1856/11/17 江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて 農村復興運動を指導した篤農家・思想家。 通称、金次郎。 小学唱歌にもなった。  教科書の中に、薪を背負いながら勉学に励む姿があることから  全国の尋常小学校に金次郎像が建てられる。  大きさは1m、子供たちに1mの長さを実感させるのにも役立った。  児童がマネすると交通事故になりかねないので、  1970年代以降、校舎の立替時などに撤去されつつある。    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 浅草に戻りながら、 「かけがえない私、大したことない私。巧い題名だな」 朝日新聞の書評欄にあった本の題名がふと口をついてきました。 もう残り少ない人生、かけがえない自分、 そのルーツを掘り下げる作業を試みてきましたが、 多少の成果が上がったものの、 空しさもほうは、いっそう増してくるようです。 オトーサン、 「え−、1時55分、12.81km、アンデユラスをみつけました。  へぇ、こんなお店なのか」 店に入ると、かなり混んでいます。 年増のウエートレスさんに聞きました。 「すいません、池波さんの座っておられた席は、どこですか?」 「ああ、その窓際よ」

 帰りぎわには、「アンデユラス」へ寄って、ダッチ・コーヒー。  これはもう習慣のようになってしまった。         池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」 オトーサン、 おばあさん2人連れが、立ち去った後、その席へ移動しました。 コーヒー茶碗とケーキをのせたお皿は、自分で運びました。 「あいよ」 お冷のほうは、年増のウエートレスが運んでくれました。 「そうか、池波さんは、この窓から往来を見ていたんだ」 通りかかった何人かは、鬼平犯科帳に登場したのかも。 「浅草公会堂が近いしなぁ」 池波正太郎さんの舞台劇が上演され、 舞台稽古の帰りには、決まって、ここの店に立ち寄ったのでしょう。 「おお」 外をみやると、着流しの池正さんがやってくるではありませんか。 早々に席を空けて、立ち去ろうとすると、 池正さん、 「お若ぇの、お待ちなせぇやし」 「はーっ」 ...そんなことあるはずないか。 オトーサン、もはや若くなんかないもんね。 昨日で、67歳になってしまいました。


18 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ

オトーサン、 「へぇ、こんな本が家にあったんだ」 浅草から戻ってきて、書棚を探したら出てきました。 ・池波正太郎、重金敦之、土屋郁子、近藤文夫ほか  「池波正太郎が残したかった”風景”」新潮社 2002年 池波正太郎さん、 生まれは、待乳山聖天のそばは、浅草聖天町。 「五十をこえると、やはり、故郷がなつかしくなるものなのだろうか... 私の故郷は、何といっても浅草と上野なのである」 浅草に足繁く通われたのも、ごく自然な感情からなのでしょう。 鮭が大海原から昔の川に戻ってくるようなもの。 それに、池波さんの子供の頃の風景は、 筆舌に尽くし難いほど、ステキだったのです。

photo:江戸名所:真乳山山谷堀三囲堤

池波正太郎さん、 こんな文章を書いておられます。  いま、待乳山聖天宮の境内へのぼり、  大川の西岸を見わたすと、  やや左寄りに、  山谷堀と今戸橋の名残りがわずかにながめられるのを、  まだしも、  「佳し」   と、おもわなくてはならぬ。  灰色の空の下で、大川は、  「川とも道路ともつかぬ....」  姿を横たえている。  護岸工事の完成によって、大川の景色は抹殺された。  わずかに、コンクリートの護岸堤の向うに、  三囲の社の屋根がのぞまれるにすぎない。             池波正太郎「江戸古地図散歩」   故郷が、幼時の記憶が、 無残に破壊されつくされたことへの、 激しい怒りを抑えた名文ではありませんか。 「...分かるなぁ」 オトーサンだって同じ。 龍泉寺の旧居も、根岸の旧居も、跡形なし。 「母を殺すな、父を殺すな、祖父母を殺すな」 奇跡的に日暮里の旧居が残っていたから 破壊したものへの復讐を思いとどまったようなものですが... オトーサン、 「待乳山聖天へ行かなければ...」 つくばエキスプレスを浅草で降りて、 BD-1を組み立てて、雷門から言問橋へ。 隅田川に沿いに隅田公園をぬけていきました。 突然、おじさん2人連れに声をかけられました。 「それいいね、高いんだろう」 「ええ、高いですよ、は、は、は」 BD-1を褒められると自分が褒められたような気がします。 「すいません。まつちやませいてんは、どこにありますか?」 「そこだよ、は、は、は」 目と鼻の先でした。 「へぇ、立派なお寺だなぁ...ふーん」 おじさんのひとり、 後ろから声をかけてきます。 「あのね。  1月7日が大根まつりだから、来るといいよ、  タダで大根のおでんが食べられるよ」 浅草のひとは、このように人情味があるのです。 平日なのに参拝客がひっきりなしに来ていました。 この地では、まだ信心も残っているのです。

○待乳山聖天(しょうでん)  関東三聖天のひとつ待乳山本龍院。  595年、突然、待乳山が盛り上がり、金龍が天下って、この山を守った。  境内にある「大根」の意匠は、当時の御利益を示すもの。  大根は人間の深い迷いの心、怒りの毒を消すといわれており、  大根を供えることにより聖天さまがこの体の毒を洗い清めてくれ、  身体を丈夫にして、良縁を成就し、  夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護する。 オトーサン、 「浅草はいいなぁ」 あちこちに昔の名残りが残っています。 「さっき立派な歌碑があったな、チェックしておこうか」 隅田公園に引き返しました。 「そうか、これが有名な花の歌碑なんだ」

♪春のうららの墨田川 上り下りの船人が  櫂の滴も花と散る 眺めを何に例うべき  見ずや曙 露浴びて 我にもの言う桜木を  見ずや夕暮れ手をのべて 我さし招く青柳を  錦おりなす長堤に 暮るれば上る おぼろ月   げに一刻も千金の 眺めを何に例うべき (作詞:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎) オトーサン、 「この川、昔のひとは大川と呼んでいたのになぁ」 時を経るにつれて、言葉のセンスが落ちていくようです。 ○隅田川  古くは、「宮古川」「住田河」、「澄」「墨」「角」の字が当てられていた。  江戸時代には吾妻橋近辺までの下流は「大川」、  浅草近辺は「浅草川」、「隅田川」、  上流は「荒川」「宮古川」と呼ばれていた。  明治43年の水害を機に荒川放水路が作られ、 昭和40年放水路の方を荒川、岩淵の水門から下流東京湾までの23Kmを  正式に隅田川という名称にした。 若いひとに、「大川」と言っても、もう通じません。 隅田川なんて、片隅に追いやられたようじゃないですか。 大川、いいですねぇ。 大きな川、大きなゆったりと流れる川。 それに単純明快じゃないですか。 大川に小舟を浮かべれば、川風さわやか、 そして群れなす都鳥の舞い....  名にしおはば、いざ言問わむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと                在原業平「伊勢物語」 石原都知事、 あなた、文化人でしょう。 「隅田川、大川と呼ぼうよ。 それにあの言問橋、コンクリートは無趣味だ、掛け変えろ」 そのくらいのことはリップサービスでもよいから言ってほしいものです。


19 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その2

オトーサン、 「池波さんって、いい作家だったなぁ」 飄々としていて、茶目っ気もあって、人なつっこくて。 映画好きというのは、オトーサンと同じ。 ○池波 正太郎(いけなみ しょうたろう)  1923-1990年  東京都生まれ。  下谷区西町小学校卒業後、株式仲買店に勤める。  旋盤機械工を経て横須賀海兵団に入団。米子の美保航空基地で敗戦を迎える。  その翌年、下谷区役所衛生課に勤務。  長谷川伸の門下に入り戯曲「鈍牛」を発表、上演。新国劇の脚本と演出を担当。  1960年、「錯乱」で直木賞受賞。  「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」の三大シリーズで絶大な人気を得る。  吉川英治文学賞、大谷竹次郎賞(戯曲)、菊池寛賞を受賞。  1990年、5月3日、急性白血病で死去。67歳。  戒名は「華文院釈正業」、西浅草・西光寺に葬られる。 オトーサン、 実は、これから、池波さんのお参りに行こうと思っているのです。 台東区立台東図書館でもらった「下谷・浅草文学地図」を 見ながら、雷門から並木通りを下って浅草通りへ、 田原町の交差点まで行ってから国際通りを雷門へちょっと戻って、 左手の路地に入りました。 「この辺のはずだけどなぁ」 やたら小さなお寺が多いので、1つずつ丁寧に表札を見ていきました。 「分からん」 東本願寺の前で、ギブアップして、 ちょうど通りかかったおまわりさんにたづねました。 「西光寺って、どこにありますか?」 若いおまわりさん、ポケットから地図を出して、 親切に教えてくれました。 「なーんだ。ここだったのか」 おとなりの土岐さん宅の前で、 ついさつき地図をみたばかりではないですか。 「おー、ここなのか」 池波正太郎さんのイメージが大きかったので、 大きなお寺だと思い込んでいたのです。 読者のみなさん、 門が閉まっていて、お参りできませんでしたが、 生前の池波さんが、このお寺でお参りしている写真を、 後で見つけたので、掲載させていただきます。 酒乱で家を飛び出した父親との確執は、 ようやく晩年になって解消したとか。 この手を合わせた姿には、涙を誘うものがあります。 「もうおられないんだ....」 お参りした本人が、お参りされる側に....諸行無情。 「真宗大谷派か、ウチと同じじゃん」 南無阿弥陀仏、なんまいだ。

オトーサン、 お寺の前で軽く頭を下げて、 今度は石川啄木の歌碑を探しました。 「すぐそばのハズなのに。...分からんなぁ」 路地から路地へと探し歩きましたが、 歌碑などどこにも見当たりません。 「すみません」 あの世に手が届きそうなおばあちゃんをみつけて、 ようやくヒントを得ました。 「その先じゃよ」 指さす方向へ行きました。 「なーんだ、土岐さん宅じゃないの」 池波さんの眠る西光寺のお隣りじゃないですか。 最初に立ち止まった場所じゃないですか。 表札が2つあって、土岐のほかに 等光寺とあるのを見落としていたのです。 「ここも門が閉まってるなぁ」 勝手に入れば、住居侵入罪になります。 「入っていいんだよ」 みると、さっきのおばあちゃん。 浅草のひとは、ほんとうに、親切ですねぇ。 「勝手に、門の鍵を外していいのかなぁ?」 門を入るとすぐ右手に大きな歌碑がありました。 「心に染み入るようないい歌だなぁ」 ・浅草の 夜のにぎはひに まぎれ入り  まぎれ出で来し さびしき心

読者のみなさん、 後で判明したことですが、ここで紹介ましょう。 ○石川啄木歌碑  岩手の実家は寺だったが、父が寺を売り払ったため、 葬式があげられず、友人の歌人・土岐善麿の兄が  住職だった等光寺で葬儀を行った。   ○啄木の葬儀(東京朝日新聞記事)  社員故石川一氏の葬儀は、  昨日午前10時浅草松清町なる等光寺に於て執行された。  途中葬列を廃して、未亡人せつ子や  佐藤真一、土岐善麿、金田一京助其他の人々柩に付添い、予め同寺に参着。  棺は狭い本堂に淋しくおかれた。  やがて会葬者はポツポツ集まる。  夏目漱石、森田草平...いう先輩やら親友やらの諸氏が見える。 しんがりには佐々木信綱博士が来られる。 それに本社員の誰彼を加えてわずか4、 50名が淋しい顔を合わせた。 人は少ないが心からの同情者のみである。 程なく導師土岐静師は3名の若い僧侶を具して淋しく読経する。 おわって白衣の未亡人は可憐なる愛嬢京子を携えて焼香した。 香煙の影に合掌せる母子の姿は多感なる詩人の柩と相対して淋しい人生の謎である。 4、50名は等しく泣かされた。 続いて一同の焼香も式は終わって  棺は大遠忌のにぎにぎしい 本願寺を5、6人の人に守られつつ、  町屋の火葬場へ淋しくかつがれていった オトーサン、 「そうだったんだ」 土岐は、あの高名な土岐善麿さんだったのです。 ○土岐善麿( とき ぜんまろ)  歌人・国文学者。東京生まれ。哀果と号する。   中学時代金子薫園の「白菊会」に参加し、 早大文学部英文科の同級に若山牧水、北原白秋がいた。 のち石川啄木と知り合い、二人で生活派短歌の基礎を作った。 1917年、読売新聞社会部長として駅伝の起源となる「束海道駅伝」を実行、   成功したものの、予算オーバーの責任をとって辞職。   翌年、東京朝日新聞に転じ、定年まで31年間勤務した。   戦後は、ローマ字運動やエスペラントの普及につとめ、   国語審議会会長として国語国字の基礎確立に尽くし、   都立日比谷図書館館長として新館建設にあたり、   日中文化交流協会代表として日中国交回復に寄与した。 学士院賞受賞。文学博士。芸術院会員。 1980年歿、94才。 ・ わがために一基の碑をも建つるなかれ      歌は集中にあり 人は地上にあり 「えらいひとだったんだ。 自分を知りたかったら、歌集を読め。  石碑なんか建てるなと言い残すなんて」 それなのに、友人・石川啄木を偲んで歌碑を立てたのです。 こういう篤い友情、いまや見られませんね。 友情なんて、一時の手段とみなす輩の多いこと。 土岐善麿さん、 すぐれた校歌を多数作詞しておられるので、 その高い志のこめられた歌詞に感動したひとも、 きっとおられることでしょう。 オトーサン、 「えー、11時40分、6.17km、リスボンに着きました」  ここは、池波さんがよく通われたお店です。  終わって、六区の「リスボン」で、ポーク・カツレツでビール。  古い洋食屋だが、最近興行街の中へ移転して、店も大きくなった。                池波正太郎の銀座日記 「すいません。池波さんの座った席はどこですか?」 「知りませんねぇ」 「....」 怒って出ていこうと思いましたが、 思い直して、ハヤシライスを注文しました。 お味のほどはというと、? 「池波さんの頃に比べると、味が落ちたんだろうなぁ」 それに...店員も、料理人もやる気なし。 紙ナプキンもなく、お冷やも催促しないとくれません。 ●リスボン  住所:台東区浅草1丁目25-18  電話:  営業時間:1200-1530/1700-2030 定休日:火曜  ・ハヤシライス950円

オトーサン、 「馬場さんの言った通りだったなぁ」  ハヤシライス(750円)も高い値段ではない。  ここはひとつ下町の意地をみせてくれるかと思ったが、  結果は思わしくなかった。  ハヤシライスのソースは、給食のそれを思わせた。  馬場啓一「池波正太郎が通った味」 中公文庫1999年


20 我輩、根岸の里にて子規を偲ぶ

オトーサン、 「根岸の里らしい場所、ないかなぁ?  そうだ、子規庵に行ってみるか」 母が住んでいた根岸4丁目には、 当時の面影がまったくなかったので、 根岸2丁目の子規庵なら、面影が残っているだろう、 そう見当をつけたのです。 「どこにあるのかな?」 前に走った柳町通りをぬけていきました。 「こごめ大福か」 香味屋の先に、格調高い和菓子屋がありました。 「ためしてみるか」 名物の"こごめ大福"(220円)を1ケ買いました。 美味しかったら、また買いにきましょう。 ○竹隆庵岡埜  住所:台東区松が谷4-28-3 電話:03-3842-4617  営業時間:9:45-18:00  定休日:水曜 オトーサン、 「これが御行の松か」 いまの松は三代目とかで、大したことありません。 昔は、「根岸の大松」ともてはやされたとか。 明治・大正の頃には、枯れていなかったのです。 子規の歌碑がありました。   ・松一本 根岸の秋の 姿哉  子規 「母も父と一緒に見にきたんだろうなぁ」 ひょっとしたら、下の絵に描かれているのかも。 ともあれ、この御行の松は、子規ワールドへの入り口です。

オトーサン、 「次は、笹乃雪だ」 創業310年、江戸時代からの老舗です。 湯豆腐を食べて往時を偲ぶのもいいでしょう。 「でも、今日はやめとこう。  リスボンで昼メシ食べたばかりだからな」 店先には、正岡子規先生真筆の碑と称する立て札がありました。 ・あさがおに あさ商ひす 笹の雪 ○豆腐料理 笹乃雪  住所:台東区根岸2-15-10     電話:03-3873-1145  営業時間:1130 -2100 定休日:月曜日

オトーサン、 「さあ、いよいよ子規庵だ」 ところが、迷いに迷いました。 鶯谷駅付近は、ラブホテルだらけなので、 あの落語の三平堂のほうから行こうとしたのが間違いでした。 「すいません、子規庵はどこですか?」 この辺も、人情味あるひとが多いですなぁ。 おじさん、子規庵まで案内してくれました。 「おー、ここか。  ふーん、根岸の里の風情が残っているぞ」 戦時中に更地にされ、その後、忠実に復元したようです。

オトーサン、 「なんだ。やってないじゃないか」 12時から1時までは、お昼休みでした。 「あと15分か。しょうがない、待とう」 道端に腰掛けていると、旅行鞄をもったおじさんがやってきました。 「松山から来たのですよ」 聞きもしないのに話しかけてきます。 「そりゃ、大したもんですね。子規のフアンですか?」 「子規の真筆らしい短冊をもっているのだけど、  松山の子規記念博物館で聞いたんだけど、分からないというので、  ここでみてもらおうと思って」 「へぇ」 何なら12チャネルの「何でも鑑定団」にでも、出品したら、 そうチャチャを入れようかと思いましたが、踏みとどまりました。 「松山といえば、大江健三郎さんでしょう」 「いや、あの人は、松山からちょっと外れたところの出だし、  地元じゃ評判悪いんですよ」 「そうなの、おかしいじゃないですか。  何ってたって、ノーベル賞作家ですよ」 「地元のために、何もしてくれないからね」 「ほぅ」 オトーサン、 学生時代、駒場文学の同人だったので、 先輩の学生作家、大江さんの作品に興味しんしん。 「いずれは、オレも先輩みたいになりたいもんだ」 このHPに載せてある「ブリュメール1960」、 審査員の先生から、 もし応募していたら、大江さん以来の受賞者になれたのに そう言われたこともあります。 そんな尊敬する人物なので、反論したわけ。 「ところで、天野祐吉さん、ご存知ですか?  松山の子規記念博物館の館長と聞いたけど」  あのひとと、昔、一緒に仕事したことあったんだけど」 「そうですか、天野さん、知りませんなぁ」 どんな経緯で、子規記念博物館の館長になったのか、 聞いてみたかったのですが、空振りに終わりました。 天野さん、当時のことを語りたがらないので、 エピソードなどを彼を相手にちょっと披露したかったのですが、 残念でした! ○天野祐吉(あまのゆうきち)  コラムニスト。 1933年東京千住生まれ、 松山市に移住し、松山南高校時代には劇団活動に参加。  上京し、創元社、博報堂、現代文化研究所、日放を経て、  1979年にマドラ出版を設立し、「広告批評」を創刊する。 編集長,発行人を経て、朝日新聞にコラムを執筆、 テレビのコメンテーターとしても活躍中。  松山市立子規記念博物館館長、愛媛大学経営協議会委員。  主要著書  「広告みたいな話」「嘘八百」「天野祐吉のCM天気図」  「ゴクラクトンボ」「見える見える」「おかしみの社会学」  「嘘ばっかし」「広告論講義」「天野祐吉のことばの原っぱ」  「私説広告五千年史」など多数。    絵本は「くじらのだいすけ」「絵くんとことばくん」など。 オトーサン、 「おお、ようやく開いた」 1時を3分過ぎていました。 もうひとり中年男性が待っていたので、3人で門を入りました。 例のおじさんは、見学よりも鑑定で忙しそうです。 「これは子規の字に間違いないですね」 「そうですか!」 ○子規庵  住所:台東区根岸2丁目5-11   (旧:下谷区上根岸82番地) 電話:03-3871-8218 入庵時間:1030-1600(1200-1300は休み)  定休日:月曜日、夏休みと年始年末  入庵料:500円 オトーサン、 「写真を撮っていいですか?」 「いいえ、お断りしています」 「残念だなぁ。500円払ったんだから、いいのかと思った」 この子規庵、 子規のフアンなら泣いて喜びそうな素材がごろごろ。 それなのに、写真も撮らせてくれないなんて。 でも、読者のみなさん、ご安心下さい。 ネットってうれしいですね。 病床にある子規の写真が入手できました。 ○正岡子規  1867/10/14日- 1902/9/19 俳人、歌人。 松山藩士・正岡常尚と八重の長男。  本名は、常規(つねのり)。  一高から1890年帝国大学に進学したが、1892年中退し、  父親の親友が社長の日本新聞社に入社、  志願して日清戦争に従軍し、発病する。  1898年、松山で発刊した「ほととぎす」を東京に移し、  俳句・短歌・評論・随筆など、多方面で活躍した。  死を迎えるまでの7年間は結核を患い、子規庵で過ごす。  享年35歳。  雅号の子規はホトトギスの異称、  結核を病み喀血した自分を血を吐くまで鳴くホトトギスに喩えたもの。  また、子規は、日本への野球導入期の選手で、  自身の幼名「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、  「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともあった。 2004年に野球殿堂入りを果たしている。

オトーサン、 「これが辞世の句か、  あわれだなぁ、さぞ苦しかっただろうなぁ」 激痛にあえぎなら、小1時間かけて包帯を替えた、 7年に及ぶ闘病生活の末でした。  ・糸瓜咲きて 痰のつまりし 仏かな 「この6畳間、日当たりがいいなぁ」 寝たきりでも、庭のへちま(糸瓜)を眺めたり、 友人から送られた樹木をみたり、気が晴れることもあったのでしょう。 ・緑立つ庭の小松の梢より 上野の杉に鳶の居る見ゆ 線路のそばなので、電車の音がうるさいと ぼやいたりもしたそうですが。 オトーサン、 「この部屋に、みんなが集まったんだ」 隣の8畳間も、南向きでぽかぱかして気持ちのいいこと。 この部屋に、一高の同級生で親友の夏目漱石、 後輩の高浜虚子、森鴎外、島崎藤村、伊藤左千夫ら、 錚々たる人物が訪れたのです。 当時最高の文学サロンだったのです。

「どうぞ、お庭もごらんください」 でも、庭木は子規の頃とはちがうし、 目の前のマンションの布団干しが丸見えだったり、 興冷めもいいところです。 子規の本や絵はがきの販売所があり、商売商売。 気をまぎらわそうと、質問しました。 「ネンテンさん、ここに来られたって?」 「ええ、1ケ月ほど前にお見えになりました」 「ふーん、ネンテンさんの有名な歌、知ってる?」 「いいえ、知りません」 「"三月の甘納豆のふふふふふ"っていうんだ」 ・坪内稔典「子規のココア・漱石のカステラ」日本放送出版協会1998年 この坪内稔典(つぼうち としのり)さんの本、 たまたま柏市図書館しょうなん分館で借りたのですが、 実に面白いエッセイでした。 何でも、京都教育大学の教授で俳人だとか。 俳句からも察せられるように、ユーモアたっぷりの方のようです。 子規の研究家として、こんなエピソードを披露されています。 子規の代表句 ・柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺   これは、漱石の句を踏まえているというのです。 明らかに、似ていますよね。 ・鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺   子規は、松山の漱石の下宿に転がりこみ、 数ケ月滞在した後、漱石にカネをもらって、奈良へ遊び、 そのカネを使い果たしたと漱石に書き送っています。 子規は無類の柿好きで、元気な頃には、 一度に16ケも食べたことを漱石はよく知っています。 そこで、以下は、オトーサンの迷解釈ですが、 子規の代表句は、 以下のように漱石に伝えたかったので、 誕生したのではないでしょうか。 ・柿食えば カネがなくなる 法隆寺 読者のみなさん、 「そんな馬鹿な!」 お叱りをいただくかもしれませんが、 偉大なる子規といえども、 この句を詠んだのは、28歳、茶目っ気たっぷりの頃。 大体、子規という雅号は ホトトギスから取ったという悲壮な説が定説になっていますが、 子規本人は、こうも言っています。 「”杓子定規”から取った」と。 オトーサン、 「これで大体見終わったなぁ」 お庭から外の道路へ。 「おー、ありゃ、ありゃ、あーあ」 目の前に飛び込んできたのは、ラブホテルの料金表。 この1軒だけではありませんぞ。 子規庵は、ラブホテル街に浮かぶ小島状態でした。 そこで、短歌1首と川柳一首を発句いたしました。  ・ほととぎず 鳴きつるかたを眺むれば   ただありふれた ラブホテルかな  ・よがり声 根岸の里は ラブホテル

オトーサン、 「締めは、羽二重団子さんに行くか」 ネンテンさんの御本には、こんな引用もありました。  例えば、「団子が食いたいな」と病人は連呼すれども、  彼(妹の律子)は、それを聞きながら何も感ぜぬなり  病人が食いたいといへば、もし同情のある者ならば、  直に買ふて来て食わしむべし  律に限ってそんなことはかつてなし...             正岡子規 「仰臥漫録」 オトーサン、 「えー、1時45分、13.41km、羽二重団子に着きました。  ここで、また、団子を食べようと思います」 真昼間のせいでしょうか、お客はオトーサンだけ。 このお店の横には、子規の石碑が立っていました。 ・芋坂の 団子売る店 にぎはひて  団子くふ人 団子もむ人 では、最後に下手な歌で締めくくりましょう。 ・日暮里の 団子売る店 さびしけり  団子食わねで 乳をもむ人 遺憾なのは、 日本の行政に、面規制という概念がないことです。 団子を食べる人の家の脇に乳をもむ人の家があるなんて、 お役人たちは、変だと思わないのでしょうか? お役人たちは、恥ずかしくないのでしょうか? 根岸などは、日本近代文学発祥の地ですから、 風致地区に指定して、風俗店などの入りこまぬように 街区規制を採り入れるべきです。 「...もう手遅れかも」


21 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その1

オトーサン、 先日、再び、台東区役所に電話しました。 「すみません。  明治末期に下谷区中坂町67番地が、  いま、どういう住所表示になっているのか教えてください」 戸籍をみると、祖母が福井県から出てきて、 世帯をもち、伯父を出産したのが、この場所なのです。 戸籍係が手間どっているので、 「下谷区は、台東区でしょう、問題は、中坂町ですよね」 「そうなんですが...中坂町が見当たらないのです」 「そんな馬鹿な、ちゃんと戸籍謄本に出ていますよ」 「ちょっとお待ちください」 調べてもらうことにして、30分後にかけ直しました。 「分かりました。中坂町でなくて、谷中坂町ではないでしょうか」 「そうかもね。でも、戸籍が間違っているなんて」 「すいません」 でも、この戸籍は福井県丹生郡越前町のもの。 台東区があやまることはないのです。 平成14年9月10日、越前市長、京谷宗雄さんが、 「この謄本は、除籍の原本と相違ないことを認証する」 と書いて、ハンコまで押してありますよ。 オトーサン、 没後数十年も経過しているのに、 祖母には頭が上がりません。 父親代わりに厳しく躾られました。 読み書きそろばんも教わったし、 疎開中の畑仕事も手伝わされたし、 小学校の頃、喧嘩して泣いて戻ってくると、 「情けない、男なら、勝って戻っておいて!」 そう一喝され、勝利を収めて戻ってきたこともあります。 「勉強ばかりしないで、運動せよ」 口ぐせのように言われました。 晩年は失明し、祖母の目を治せるように 目医者になろうと思ったこともあります。 身内をほめるのも何ですが、偉大なひとでした。 早く夫を亡くし、女手ひとつで、 男5人と女1人、そして孫2人を育てあげたのですから。

オトーサン、 「これで、谷中に行く立派な理由ができたぞ」 場所は、谷中の墓地をぬけて、すこし先のあたりのようです。 「えー、9時48分、日暮里駅につきました」 BD-1を組み立てていると、ひとだかり。 「きれいな自転車ね、それブリジストン?」 「いや、ドイツのメーカーのものです」 「へぇ、ドイツの!」 自動車でも、VW、BENZ、BMW、ドイツ製品の威力は大したもの。 自転車は、あまり知られていないようで。 「これ、台湾製なのですよ」 「台湾?」 「台湾は、いまやハイテクバイクのメッカですよ」 「そうなの」 オトーサン、 「おお、近いなぁ」 400mも走らないうちに、谷中霊園へ。 桜並木の広い道路の両側にお墓がぎっしり並んでいます。 「おお、長谷川一夫のお墓だ」 道路側で一番分かりやすい有名人のお墓でしょう。 番地は、甲九号二側。

若いひとは、知らないでしょうが 「水もしたたるいい男」とは、このひとのこと。 昨今もてはやされている俳優など足元にも及ばない 二枚目、スーパースターでした。 「雪之丞が柱の陰から、ぬっと顔を出して、  おい、おれだよ、オレって、言いそうな気がするなぁ」

○長谷川一夫  1908/2/27 - 1984/4/6 京都出身。  5歳で歌舞伎の舞台を踏む。初代鴈治郎に入門。 192年松竹下加茂撮影所に入社、映画界に進出。 林長二郎という芸名でデビュー。 抜群の美貌で、たちまち、日本を代表するスターに。  衣笠貞之助監督に重用され、「雪之丞変化」の演技は国民を魅了した。 その後11年間に120本の映画に出演する。 1937年東宝に移ったために暴漢に襲われたものの、 これが話題となり、さらに人気沸騰。 1938年本名の長谷川一夫に戻し、戦後、新演技座を再開した。 1952年出演した映画「地獄門」がカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。 1955年東宝歌舞伎を発足。 1964年にはNHK大河ドラマ「赤穂浪士」に出演しテレビ界でも活躍した。 1974年には宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」を演出した。 死後国民栄誉賞。 オトーサン、 すぐそばの”五重の塔”跡を見学。 幸田露伴の名作「五重の塔」では、 大工の棟梁・十兵衛が命をかけて建造にあたるのです。 「おじゃまもんに読んでもらいたいなぁ。  ...ほんとに何も残っていない。  どこのどいつか知らないが、放火するとは」 となりが駐在所というのは笑えます。 「宿直のおまわりさん、何してたんだろうなぁ」

高くそびえていた頃をイメージしました。 この界隈は、さぞ、にぎわっていたことでしょう。 いま、この五重塔を再建する話がもちあがっているそうです。 10億円で再建できるそうですから不可能ではないでしょう。 石原都知事がラブホテル税を創設すれば、すぐ資金が集まるでしょう。

○天王寺五重塔  1644年に最初の五重塔が完成したが、  1771年目黒行人坂の火事で焼失し、  1791年に再建され、幸田露伴の「五重塔」のモデルとなった。  総ケヤキ造り、高さ34.18mと関東一高かった。  関東震災や戦災にも耐え、谷中のランドマークになっていた。  1976年、洋裁の縫子とその監督との心中放火により焼失。  なお、東京に現存する五重塔は、寛永寺、池上本門寺、浅草の3つ。


22 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その2

オトーサン、 徳川慶喜のお墓に参拝しました。 この徳川幕府最後の将軍は、谷中墓地の主のようなもの。 巨大な面積を占めております。 ここへ向かう道は、きちんと標識が出ているのはいいのですが、 小岩を敷き詰めたもの。 「走りにくいなぁ」 ついに、BD-1から降りて、押して歩きました。 墓地からでて、BD-1に乗ると、ほっとしましたが、 それもつかの間。 浅草から伸びている言問通りの交通の激しいこと、 そして何よりも、その歩道の狭いこと。 地元のひとでしょうか。 器用に乗りこなしているひともいますが、 こぶりのBD-1でも危険と判断しました。 ここも、歩いていくことに。 歩きだすと、急に谷中が大きく広く見えてくるから不思議です。 古い家屋をみつけて写真をとりました。 明治時代の酒屋、旧吉田屋とか。

この軒下で日向ぼっこをしているおじいさんに、 「すいません、下町風俗記念館はどこですか?」 「ここだよ」 「?」 「この裏にあるよ」 「?」 「不忍池にもあるよ」 「?」 まあ、いいでしょう。 目指す池波正太郎さんゆかりのお店は、 この角を右折してすぐのはずです。 「えー、11時24分、1.71km、オーギョーチーへきました。  ありゃ、休みかよー、せっかく来たのに」 このお店について、池正さんは、こう書いています。  私が子供のころは、浅草六区の松竹座の横町にあった店で、  よく食べたものだが、いまは、この店だけだ。  ほんとうに五十年ぶりに、オーギョーチーを食べたことになる        池波正太郎の銀座日記 台湾の店なのです。 オーギョーチー、見たことも、食べたこともなく、 興味しんしんですが、残念です。

○愛王子  住所:台東区上野桜木2-11-8  電話:03-3821-5375  営業時間:100-1700  定休日:無休(不定休?) オトーサン、 立ち去りかねて、お店の前をうろうろ。 「おっ!」 「なーんだ、ここにあったのか」 かねて気になっていた谷中の岡埜栄泉が 愛王子の向かいにあるじゃないですか。 さっそく、写真を撮ってから、お店に入りました。 呼ぶと、若い女性が笑顔で出てきました。 「豆大福4つ、お願いします」 買った以上、堂々と取材できます。 「上野と、どう味がちがうの?」 「餡がちがいますね」 「じゃ、チェーン店ではないの?」 「あたしは、4代目の妻ですが、  ずいぶん前にのれん分けしたようですよ」 「そう... 妙なことを伺いますが、 岡野さんに、昔、サッカーを教わったことあるんだけど、 こちらの系統なの?」 「いえ、上野のほうです」 「そうなの」 どうっていうことはないのですが、一安心。

○谷中岡埜栄泉(やなか おかのえいせん) 明治3年(1873年)創業の岡埜栄泉総本舗から のれんを分けてもらい、明治33年に創業。 現在は4代目、創業105年の老舗。    住所:台東区谷中6-1-26 電話:03-3828-5711 営業時間:930-1730 定休日:不定休  ・豆大福 230円 オトーサン、 「いよいよ、おばあちゃんち探しだ」 ここらへんだと思うと、またBD-1に乗るわけにはいきません。 何軒かお寺の前を通りすぎて、 予めLivedoorの地図で見当をつけた妙情寺を探しました。 「おお、あった!」 でも、表札には、日蓮宗とあります。 祖父も祖母も、浄土真宗のお寺の出ですから、 仮住まいにしても、日蓮宗のお寺のはずはありません。 「おとなりかなぁ?」 信行寺とあります。これも日蓮宗。 もう、これまで。手がかりはみつかりませんでした。 オトーサン、 「最後までがんばらなくては。  ちょっと昔のことを伺ってみよう」 犬に盛んにほえられましたが、 呼び鈴を鳴らして待ちました。 住職さんが普段着で出てこられました。 事情を話しました。 「そりゃ、善光寺だったのかもしれませんなぁ」 「善光寺っていうと?あの善光寺?」 「ここの善光寺は、信濃の善光寺の宿院だったようですよ」 善光寺は浄土宗の本山なので、 祖父母は、善光寺のお世話になっていたのかもしれません。 「その善光寺はどこにありますか?」 「昔、焼けて、どこかへ移転したようです」 「どこへ移転したのか、分かりませんか?」 「分かりませんなぁ。  この坂に名前が残っているだけで...  それも昔は、もうひと筋向こうの通りだったようですよ」 「そうなんですか」 もはや、おばあちゃんちの手がかりはなさそうです。 オトーサン、 谷中についての情報をまとめてみました。 ○谷中  本郷台と上野台の間の谷なので、谷中と命名された。  旧町名は、谷中寺町。寺院は七十数軒ある。  「寺院の屋根の下に谷中の町がある」といわれた。  集まってきた理由は、  まず寛永年間(1624〜1643年)に上野寛永寺の子院が数多く建立され、  次に慶安年間(1648〜1651年)、江戸再開発で神田の寺院が移転。  さらに明暦の大火(1657年)後、府内の焼失寺院が移ってきた。  谷中善光寺の門前に町屋が形成され、参詣にくる人で賑わうようになった。  幕末の1868年、上野戦争の兵火で多くの寺院が焼失したものの、  その後再建され、震災・戦災にもあわず、昔ながらの情緒が残っている。 オトーサン、 「ところで、妙なことを伺いますが、  日蓮宗のお寺さんが、この辺りに多いのはなぜですか?」 「そりゃ、簡単ですよ。  幕府の命令で移転させられたとき、  お宅が行くなら、ウチもお隣にと誘いあったために、  この辺に集まったのでしょうなぁ」 「なるほど」 オトーサン、 「この先の玉林寺を見ておくか」 このお寺の本堂裏にある椎の大木は、樹齢600年とか。 「おお、立派な木だなぁ」 写真を撮り終わったところで、 品のいいおばさんが買い物袋をもって境内に入っていきます。 「すいません、お寺の方ですか?」 「いいえ、私は檀家です」 「ああ、そうですか?  何でも、この境内の先の路地がいいらしいって、  インターネットで読んだのですが、  境内を抜けていっていいのですか?」 「インターネット?」 「ええ、インターネット」 「その赤い自転車で?」 「ええ」 「じゃ、参道の右手の路地は階段だからやめといたほうがよさそうね。  左手のほうがいいと思うわ、三浦坂に出るから」 「ありがとう!」 おばさんの許可をもらったものの、 おそるおそる細い細い路地をぬけていきました。 「ふーん、ここがディ−プな谷中か」 洗濯物を干した町家の脇、庭先をかすめるのですから、 相当の勇気がいりました。

オトーサン、 「おー、出た!」 急な細い坂道に出ました。 目の前をタクシーが無理やり通過していきます。 いまにも、BD-1に当たりそうです。 タクシーを無事にやり過ごして前をみると、 間口1間もないお茶屋のようなお店。 その前に、猫グッズがところ狭しと並んでいました。 若い娘たちが覗き込んでいるお店がありました。 猫グッズのねんねこ家。 「可愛い!」 「この猫、可愛いわねぇ」 「ねぇ、猫の目玉、食べていかない?」 「そうね、白玉あずきだったよね」 オトーサン、 こんなところにまで 若い娘たちが入りこんでいるのには、驚きました。 谷中横丁散歩ブームと言われていますが、 どうも本当のようです。 猫グッズには興味がないので、 谷中路地裏猫分布図なるものを撮影することにしました。 「ほんとに、こんな猫がいるのかなぁ?」

オトーサン、 この後、巨木メタセコイアを見に。 「ふーん、メタセコイア・マンションか、  めっちゃセコイ、マンションだなぁ」 オヤジギャグを飛ばしながら、写真も撮らずに通過しました。 (住所は池之端4-23-2) ここは、不忍池の端ですから、上野駅は間近か。 BD-1に乗って、人通りのすくない道を選んで走りました。 でも、すぐ繁華街というか、風俗街。 またもや、BD-1を押して歩く羽目に。 「えー、12時37分、連玉庵に着きました」

ここも、池波正太郎さん、ゆかりのお店なのです。  池之端の連玉庵と、浅草・並木の藪へ、父はよく行った。  私は、そのあとで映画を観せてもらえるのをたのしみに、  黙然と酒を飲む父につきあったのだ。     散歩のとき何か食べたくなって   オトーサン、 この店ははじめてなので、 入り口を入って、すぐ左手の席へ。 「天ざる!」 注文してから、女店員に聞きました。 「池波正太郎さんは、どこに座っていたの?」 「さあ?」 飛び切りの美人ママが出てきて、 「入り口のそばのあちらの席ですよ」 「あ、そう、ありがとう」 こういう風に、痕跡が残っているのは、うれしいものです。 でも、外観とはちがって、 内装は、デンザイナーズ・マンションの一室風。 店内の壁に嵌めこまれたショーケースに、 お猪口がずらっと飾ってあります。 池波さんの席のほうの壁には、浮世絵など。 真っ赤なセーターに黒のロングドレスのママの好みなのでしょう。 待つことしばし。 天ざるそばがきました。 ♪た〜かすぎ、す〜くなすぎ  蕎麦の名店で出るおなじみの歌が出てまいりました。 お腹を満たすのではなく、心を満たすところ。 そう頭で分かっていても、 目の前に出された分量をみると、愚痴が出ます。 「でも、この太めで硬い蕎麦は、好きだな」 つけ汁は甘からず、辛からず。 てんぷらも量がすくないのですが、さらっと揚がっているし、 これで、いいのではないのでしょうか。 ○蓮玉庵   万延二年(1861年)年創業。 不忍池の蓮に因んで「連玉庵」と名づけた。   森鴎外の小説「雁」や樋口一葉の作品に登場する。   斉藤茂吉の短歌にもある。   ・池之端の 連玉庵に 吾も入りつ 上野公園に 行く道すがら   現在は、6代目。   住所:台東区上野2-8-7     電話:03-3835-1594 営業時間:1130-1530、1700-1930(平日) 定休日:月曜   ・もり 630円   ・天ざるそば 1580円 オトーサン、 老舗・連玉庵を出ました。 みると、お隣りは、大人のおもちゃのお店。 老舗の隣りなのに営業許可がでるとは不思議です。 「お腹がさびしいなぁ。  やはり、どこかで豆大福を食うか」 家に持ち帰る分が減りますが、まあ、いいでしょう。 蕎麦の名店には、食後のおやつが欠かせません。 「うめぇ!」 谷中岡埜栄泉の豆大福、 餅も餡も、見事なお味でした。 それに、ボリュームもあります。 オトーサン、 午後1時ちょうど上野駅公園口につきました。 走行距離をチェックすると、たったの7.19km。 「谷中は、面白いところだなぁ。また来るか」 谷中の墓地の他の有名人のお墓もチェックしたいし、 愛玉子も食べてみたいし、下町風俗博物館も見学したいし、 それに路地裏も、丹念に見ておきたいじゃないですか。 大名時計博物館もあるとか。


23 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その3

オトーサン、 「今日が最終日だ、行くべし」 寒波襲来で、外出は何かと億劫ですが、 1枚上に重ねれば、何とかしのげるでしょう。 「えー、10時55分、浅草に着きました」 BD-1の収納や組み立ては、もう苦になりません。 今日は、輪行袋の上で作業をやったので、1工程減りました。 「まだ、昼飯には早いな」 念のために、六区にあるヨシカミの前へ行き、 開店準備中のおばさんに聞きました。 「ハヤシライス、50人前で売り切れだそうだけれど、  何時頃に来ればいい?」 「並ばないとだめよ」 「じゃ、11時45分より前に並ばないと駄目か」 「間に合わないかもよ」 洋食屋のヨシカミ、随分繁盛しているようです。 受け答えが強気です。 オトーサン、 浅草寺へ。 「五重の塔があると、オーラが出てくるなぁ」 谷中にも、やはり、五重の塔がほしいところです。

「おー、やはり賑わっているなぁ」 羽子板市の最終日は、月曜日。 でも、年寄りは、平日でもかまわないのでしょう。 オトーサン、 羽子板市は、はじめて。 羽子板の相場が分かりません。 40-60cmの大きさのは、リュックサックに入らないので、 一番小さい羽子板のお値段を聞いてみました。 「5000円です」 「ふーん」 正月に、急遽、NYへ行くことになったので、 聞いてみました。 「外人へのおみやげには、どんなのが喜ばれるかな?」 「弁慶でしょうね」 「ふーん」 ちょうど、外人が通りかかりました。 ”Oh!BENKEIね。how much?” ”Five thousand Yen” お店の女性に代わって、そう教えてあげると、 ”Very Expensive、Very Expensive”を繰り返しています。 ”But, this is hand madeよ” ”Oh,no!Very Expensive" どこかへ、消えていきました。 商談不成立。

オトーサン、
「ほかの店も、見てみよう」
やはらひとだかりのする店がありました。
ここのオジサン、
弁慶の値段を聞くと、
「今日は最終日だから、4000円にまけとくよ」
「いいね。でも、お金もってきてないんだ」
「何しに来たの?」
鼻の先で笑われました。
「コンビニはどこにあるかな?お金をおろしてくるよ」
急に商売人顔になって、
「二天門を出て、右に行ってごらん」

オトーサン、
お金をおろして戻ってきました。
先程のオジサン、
お年寄り3人組を相手に商談中でした。
「5万円は高いな」
「じゃ、4万円にするよ。
 どう奥さん、財布握ってるんでしょう?」
「どうするかね」
「そうだね」
おじさん、商機とみて、ソロバンを取り出します。
「どう?もっとこっちへおいでよ、
 他の店にバレたら、このお値段ヤバイからさ」
お年寄り3人組、顔を見合わせて相談しています。
「どうする?」
「そうだね」
ラチがあきません。

○羽子板市
   江戸の華と呼ばれた年の瀬恒例の市。
   浅草寺境内で催され、今年は12月17日(土)〜19日(月)。
  文政年間に初正月を迎える女子に羽子板を贈る習慣があり、
  歳の市で正月用品としてこれを売ったのが始まり。 
  今年は朝青龍、バレンタイン監督の羽子板が話題を呼んでいる。 
  境内には50店が軒を連ね、「娘道成寺」「弁慶」など、
  歌舞伎を題材にした華やかな押し絵羽子板が並んでいる。
  40-60cmを主に、1-5万円の羽子板が売れ筋。
  
オトーサン、
気が気でありません。   
「ヨシカミに間に合わなくなる。
 そうか、羽子板市は一日中やっているんだ」
まずは、ヨシカミに行くことと気づきました。
「おお、もう行列だ」
先客が20人ほどいます。
「うますぎて申し訳けないス!」という看板が効果的なのか、
一時期、マスコミにとりあげられたせいか。
それとも、ほんとうに旨いのか?
「リスボンとどちらが旨いか比べてみよう」
このお店、池波正太郎さんも、ご贔屓だったとか。

 ヨシカミの洋食の威勢のよいこと、安いこと。
 これもまさに浅草の洋食屋だし...
     「散歩の途中で何か食べたくなって」 

オトーサン、
「大きな店だなぁ」
中は、外観から想像できないほどの広さ。
50人は座れるのではないでしょうか、
案内されたのは、キッチン奥のカウンター。
白衣のコックさん、10人はいるでしょう。
ほんとうに威勢のいい職場です。
うらぶれたリスボンとは、大ちがい。
「はい、どうぞ」
おばあちゃんが、ハヤシライスを運んできました。
「おお、みるからに旨そうだな」
実際、美味でした。
肉もたっぷり入っているし。

おばあちゃん、気が利くひとで、 お冷やを3回も注ぎ足してくれるではありませんか。 こんなお店、はじめてです。 言っちぁ何ですが、 リスボンさん、 強く言わないと、お冷をもってきてくれませんでした。 「1200円か」 リスボンよりも、250円高いですが、 この味、この雰囲気、このサービスなら、納得のお値段です。 さらに、レジでお金を払うと、マッチをくれました。 「いまどきマッチ?} でも、このマッチ、ただのマッチではなかったのです。 羽子板の形をしていました。 羽子板市の最中だから、羽子板のマッチ。 ヨシカミ、さすがです。 やはり、繁盛店は一味も二味もちがいます。 オトーサン、 「こりゃ、いいや」 浅草寺の境内に戻って、4000円も払う気がしなくなりました。

○ヨシカミ  住所 台東区浅草1−41−4  電話 03-3841-1802  営業時間 11:45〜22:00  定休日:木曜 ・ハヤシライス 1200円


24 我輩、浅草にて池波正太郎を偲ぶ、その4

オトーサン、 「せっかく、浅草まで来たんだから、隅田川をみておくか」 ヨシカミのハヤシライスで、元気になったせいでしょう。 池波正太郎さんのゆかりの駒形堂へ。 隅田川にかかる駒形橋のたもとにあるのです。  駒形堂がコンクリート造りになったのはさておき、  往時の場所に、いまも建っていることは、  私の想像力をさまざまにかきたててくれる。  したがって、私の小説に駒形堂を使っていることが少なくない。              江戸切絵図散歩 オトーサン、 「こんなに小さいのか?」 写真を撮っている間に、何人もの女性が拝観していました。 まだ、篤い信仰の対象になっているようです。

○駒形堂  浅草寺発祥の地。通称“こまんどう”  雷門2丁目駒形公園内。  628年、檜前浜成・竹成兄弟が江戸浦にて漁労中に  仏像を投網の中に発見し、上陸した場所を記念し、建てられたもの。  大川からみると、駒(馬)の形をしているので、駒形堂と命名。  本尊は、「馬頭観世音」、「殺生禁止」の戒殺碑がある。  江戸時代には、広重の錦絵になった。  吉原の遊女2代目高尾が詠んだ句も有名。   ・君は今、駒形あたり ほととぎす   オトーサン、 隅田川の河岸に出てみました。 池波さんに倣って心中に往時を思い浮かべてみます。 満々と水をたたえた大川には、何艙もの小船が往来しています。 かなたには、町家と青い松のつらなり。 ところが、眼前の風景に目を移すと... 「どうも、あのウンコが気に入らんなぁ」 アサヒビールの屋上に燦然と輝く あの黄金色のシンボル・モニュメントのことです。 まあ、賛否両論あるようですが。

オトーサン、 「おいおい、駒形堂の横にもビルが建つのかよー」 ビルの谷間に埋もれてしまうではないですか。 「どこのどいつだ。大馬鹿野郎は?」 工事の看板を読むと、浅草むぎとろでした。 むぎとろなら、一度食べに入ったことがあるお店です。 「なに?火事により消失した?」 みると、半天を着たおじさんが、 小さな机にお菓子を並べて売っています。 「おじさん、いつ焼けたの?」 「今年の8月です」 「放火?」 「いえ、失火です」 「失火というと、ガス漏れ?」 「いえ、漏電です」 「ま、保険金もらえたんでしょう」 焼け太りという言葉が出そうになりましたが、飲み込みました。 見ず知らずのひとに、火災の原因まで話してくれるなんて、 やはり浅草です。 おじさん、 「このとろりんとう、美味しいですよ」 「とろりんとう?」 「ええ、当社の看板のとろろいもを生地に入れて、  沖縄産の黒砂糖をたくさん使っています。  そりゃ、美味しいですよ」 「要するに、かりんとうの一種か。いくらするの?」 「一袋300円です、いつもは480円ですが」 迷っていると、自転車で駆けつけたおばさん、 大量に買い込んでいます。 「あとでくるからね、取っておいてよ。  それから、領収書出るんでしょうね」 売り切れると困るような気分になって、 2袋も買ってしまいました。 少しは、復興の足しになるかも。 オトーサン、 「次は、橋を渡って、横綱町へ行くんだっけ」 駒形橋を渡ると、急にさびしい町並になります。 クルマも人通りも少ないのです。 「この先、まだ走るのかな?」 疑心暗鬼になったころ、横綱町という標識が出てきました。 大相撲で有名な両国国技館は、もうすぐそば。 でも、今日は、下町の知られざる顔をみておこうと思ったのです。 「東京都慰霊堂か、陰気だなぁ」 近所の主婦が、子供を遊ばせています。 横綱公園とも呼ばれています。  なぜか、サラリーマンもいます。 オトーサン、 「こりゃ、スゴイわ」

○鉄柱の熔塊  大日本麦酒株式会社吾妻工場内の鉄柱が、  猛火により熔解し、かたまりとなってしまったもの。 大日本麦酒といえば、いまのアサヒビール。 あのウンコとはちがって、黒いかたまりです。 記念碑を読むと、胸が痛くなってきます。 阿鼻叫喚の地獄図が浮かんでくるじゃありませんか。

読者のみなさん、 長文ですが、決して、忘れてはならぬ過去です。 ○震災記念堂/東京都慰霊堂  顧れば大正12年9月1日突如として関東に起こった震災は  東京の大半を焦土と化し、5万8000人の市民が業火の犠牲となった。  最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡であった。  与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し、  官民協力広く浄財を募り、昭和5年9月、本慰霊堂を竣成した。  はからずも、昭和19年より、東京は空襲により  連日爆撃焼夷の禍を受け、数100万の家屋財宝は焼失し  無慮10万をこえる人々はその難に殉じる惨状を見るに至った。  戦禍の最も激甚を極めたのは、20年3月10日であった。  全都が惨害をこうむり、7万7000人を失った。 オトーサン、 「可哀想に、これからというのに...」 地震も戦争も、まず犠牲になるのは弱いもの。 とくに、子供たちだったのです。

○震災遭難児童弔魂像  関東大地震により死亡した児童5000人の死を悼み、 この不遇の霊を慰め、永く当時を追憶するため、  小学校長らが中心となり、弔魂碑を企画したところ、  共鳴する者が18万2027名に及び、巨額の醵金を得た。  この悲しみの群像は、第二次世界大戦中、  金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけが残されていたが、  昭和36年当初の作者、小倉右一郎氏の高弟によって、  往時の群像を模して再建された。 オトーサン、 「へぇ、となりじゃん」 NTTドコモの高層ビルが、この慰霊堂の隣にありました。 「よく、こんな場所に建てるなぁ」 免震構造であることを祈るのみです。 「へぇ、安田庭園も、となりじゃん」 無料なので、1枚写真を撮りに入りました。 この美しい庭園もビルの谷間になろうとしています。

オトーサン、 「♪蛙が鳴くから、帰えろ」 浅草へ引き返えしました。 途中、FDBの若いひとと交差点レースをしたりして。 おみやげに、池波正太郎さんゆかりのお菓子屋さんへ。 「いい場所なのに、さびれているなぁ」  蛸の絵が皮に浮き出した、この店の最中を、  子供のころの私は、どれほどうまがったか......。  蛸松月は、いまも広小路の角に健在なのだ。  ああ、今度、浅草へ行ったら、忘れずに買って来よう。        散歩の時何か食べたくなって   

オトーサン、 最中はあまり好きでないので、蛸まんじゅうを注文しました。 「3ケじゃ、少なくて悪いね」 「いえ、そんなことありませんよ」 奥さん、やや他人行儀です。 「妙なことを伺いますが、奥さんは、どこの小学校?」 「田原小学校ですよ、すぐそこの」 「3月10日の大空襲で焼けなかった?」 「いいえ、焼けませんでしたよ」 「そう...そりゃ、よかったねぇ」 亡くなったた母が、 この近所の松葉小学校に勤務していて、 3月10日の大空襲のとき、 先生総出でバケツ・リレーをして、 延焼をまぬがれた話などをしました。 ○松葉小学校の歴史  明治37年6月15日  創立  大正12年9月1日  関東大震災で校舎全焼失 昭和18年     東京都松葉国民学校と改称 昭和19年     学童疎開を宮城県秋保温泉に実行 昭和20年3月    東京大空襲で通学区域のほとんどが焼けるが、 本校舎は焼失を免れた 昭和22年    6.3制施行により、校名を台東区立松葉小学校と改称 昭和29年    廃校反対運動が功を奏して、存続決定 奥さん、 「そう、学童疎開中は、親子離れ離れになったの?」 「ええ、母は宮城県、ぼくと弟は福井県。  その間、おばあちゃんが面倒を見てくれたんですよ」 急に身内のような顔になって、 お菓子袋に、以下の小冊子をつけてくれました。 ○蛸の由来  安政の末、初代熊澤亀蔵は小塚原(南千住)の宿場にて あんころ餅の行商をしておりましたが、 元治元年浅草東本願寺西門前に移りだんご屋を開業、 安くて美味しいと評判になりました。  或る日根岸の里の茶人某がおだんごの作り方をみたいと云って泊まりこみ。  翌朝出来たてのおだんごを一口食べると、  「シコシコして蛸の食べ口にそっくりだ、これからは蛸だんごにしなさいよ」「  とおすすめ戴き以後「蛸だんご」として営業を続けておりましたが、 明治15年現在の田原町に移り、商号を蛸松月とし、 蛸もなか、蛸まんじゅうを看板に、今日に至っております。 何卒御引き立ての程お願い申しあげます。     店主敬白 ○鮹松月(たこしょうげつ) 住所:台東区雷門1-16-7 電話:03-3844-0181   営業時間:930-1800  定休日:水曜  ・蛸まんじゅう:158円 オトーサン、 「えー、1時25分、松葉小学校を経由して、  上野駅に着きました。9.42kmでした」 たったの9.42kmでしたが、 悲しみと喜びがぎっしり詰まった9.42kmでした。 「浅草は、いいなぁ。また来よう。  次は、蛸まんじゅう、沢山買ってあげよう」


25 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その3

オトーサン、 「今日は、いよいよ谷中に行くぞ」 月曜日に行くつもりでしたが、行く先々が月曜休みとは。 それで、浅草へ行ったのです。 「えー、11時04分、上野駅に着きました」 ちょっと出遅れたので、柏駅で、スーパーひたちに飛び乗ったら、 何と19分で上野につきました。 「おー、朝倉文夫だ!」 日暮里で下車して、朝倉文夫彫塑館へ直行するつもりだったのです。 ところが、スーパーひたちは、日暮里で停車せず。 「あらら」と思っていたら、 上野駅で、朝倉文夫の彫像が出迎えていたのです。 「偶然ってあるもんだなぁ」

○朝倉文夫:三相 智情意  昭和34年5月5日 日本国有鉄道  昭和33年10月10日上野駅開設75周年式場に出席した浅倉文夫が、  たまたま明治16年自分の誕生日と同じなことに感激し  台東区を通じて像を寄贈した。 オトーサン、 上野駅西郷口でBD-1を組み立てて、上野公園へ。 「おお、ここが精養軒か」 大学に入学したとき、母が大いに喜んで、 ここで食事を奢ってくれたことを思い出しました。 池波正太郎さんは、子供の頃、この裏手で、 宝探しをして遊んでいたとか。

「えー、11時30分、390m、寛永寺の五重の塔にきました。  これがあると、やはり趣がありますねぇ」

オトーサン、 上野動物園前へ、 入ろうかどうか迷いましたが、 「そのうち来よう」と通過し、東京都美術館の裏手へ。 「おー、猫がいる」 この前撮影した谷根千猫分布図に出ているやつかも。 掃除のおじさんに聞くと、10年前からいる古い猫とのこと。 年をとったでいか、人に慣れているのか、 逃げもしないで、撮影に応じてくれました。

芸大の門前を通過しました。 大きなチェロを抱えて歩いている芸大生とすれちがったり、 娘の入学で喜びいっぱいの母親たちを眺めたりしました。 「さぞ、鼻が高いだろうなぁ」 オトーサン、 「えー、11時45分、2.14km、吉田屋にきました」 ここは、この前、おじいさんが日向ぼっこしていました。 「腹減ったなぁ」 おじいさんが座っていたベンチに腰かけて、おにぎりを食べました。 はじめて、中へ入ってみました。 明治の酒屋ですから、日本酒の樽や瓶が陳列されています。 日本酒はあまり飲まないので、スキップ。 「おー、ビール瓶の変遷か、こりゃ珍しい」 左から、明治、大正、昭和です。 でも、平成の現在、大瓶で飲むひとは減りましたね。

オトーサン、 吉田屋から30mほどの愛玉子へ。 「おお、今日はやってますね」 「....」 陰気を絵に描いたような小柄なおじいさんが、 「何食べる?」 「じゃ、オーギョーチー」 「....」 「おお、これが池波さんが愛したデザートか」 思ったよりも分量が多く、お腹がいっぱいになりました。 「いい味ですね、このシロップ、実に上品だ」 「....」 このおじいさんに、口を利いてもらうようになるには、 数回通わなければならないかもしれません。 冬なので、お腹が冷えないように、 コップには、お湯が入っていました。 このあたりの心遣いが、この店を長続きさせている秘密かも。 「でも、このおじいさん限りでお仕舞いだろうな」 読者のみなさん、 行くなら、ほんとに今のうちですよ。 おじいさんの体調次第で休みにしてしまうようなので、 電話してから行ったほうがいいかもしれません。 先日は、せっかく来たのに、空振りに終わりました。

○愛玉子  愛玉子とは台湾でしか取れない果実。 その果汁を寒天状に固め、シロップやかき氷をかけたり、 あんみつに入れたりして食べる。 大正初期からあるオリジナルの名物で、 藤山一郎が店名にせよと言ったとか。 サトウハチロー、橋本明治、東山魁夷、池波正太郎ら、  この伝説のデザートを愛した芸術家は数知れず、  高名な作家の作品が飾られている。  住所:台東区上野桜木2−11−8  電話:03-3821-5375  営業時間:10:00〜18:00  定休日:不定休 ・オーギョーチー 400円


26 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その4

オトーサン、 旧吉田屋酒店でもらった地図をたよりに、三崎坂へ。 「へぇ、さんさき坂って言うんだ」 みさき坂とばかり思っていました。 お目当ては、喫茶・乱歩。 そう、あの有名な江戸川乱歩の「乱歩」です。 下谷小学校のそばなので、すぐに分かりました。 でも、若いひと4人が盛んに写真を取りまくっているので、 写真を撮りづらいので、あたりをウロウロ。 昔風の町屋が1軒あるじゃないですか。 「ちょっと覗いてみるか」

店内に入ると、 京都・清水坂の土産物屋。 可愛い和小物がたくさん並んでいます。 「すいません。  海外のおみやげがほしいのですが、  何がいいですかねぇ?」 「そうねえ、モビールなんかどう?」 「モビールか、じゃ、もらおうか」 「ありがとうございます」 「ところで、お宅を紹介したパンフない?」 「いいえ。  でも、この絵の背景に使われているのが、  ウチの千代紙です」 「へぇ、どれが?」 「この朝顔です」 「これ、ゴッホの絵でしょ、スゴイじゃん」 「ええ、ダンギー爺さんという絵です」 「パリのどこかで見たなぁ」 モネの家にも、おびただしい浮世絵のコレクションがありましたっけ。 ジャポニズムの源流のひとつが、このお店だったとは。

  photo:フィンセント・ファン・ゴッホ        油彩、カンヴァス 1887年 パリ、ロダン美術館所蔵 ○ジャポニズム   フランス語で、Japonisme。   19世紀末、欧州で流行した日本趣味のこと。   万博の展示をきっかけに、浮世絵や工芸品が注目され、   印象派の画家に大きな影響を与えた。   なかでも、多色木版刷りの色彩の鮮やかさや   扇、歌舞伎などを描いた模様の美しさに驚倒したゴッホは、   浮世絵を油絵で模写し、名作「タンギー爺さん」が生まれた。   ルイ・ヴィトンのモノグラムも、市松模様の影響を受けている。   ○菊寿堂いせ辰 1864年、初代辰五郎が堀江町団扇河岸に   錦絵と団扇制作の問屋「いせ辰」を開店。   以来、江戸千代紙や紙工芸品の店としてつとに名高い。 最近では、映画「SAYURI」にも使われた。  住所:台東区谷中2-18-9   電話:03-3823-1453   営業時間:1000-1800 定休日 なし ・江戸千代紙(木版手刷り):1,200〜20,000円 ・モビール・うちわ・人形:1,500〜2,000円 オトーサン、 この知る人ぞ知る谷中の名店を後に、 お目当てのおとなりの独歩へ。 先刻の4人組は、どこかへ行ってしまいました。 安心して店の写真が撮れます。 あえて、正面でなく、店の横の写真を撮りました。 「こっちのほうが、正面よりも、変わってるしな」 読者のみなさん、 「乱歩゜」は、「乱歩」や「乱歩。」の誤植じゃないですよ。 よーく、見てください。

  ・D坂より308歩  散歩のあとは乱歩゜の珈琲  さんまは目黒、珈琲は乱歩゜ D坂とは、このそばの団子坂のこと。 江戸川乱歩の傑作「D坂の殺人事件」では、 ご存知、名探偵・明智小五郎が大活躍します。 ○江戸川乱歩  小説家、探偵小説研究者。  1894年10月21日、三重県生まれ。  愛知県立第五中学に入学し、活字を自分で組んで雑誌を発行。  卒業の年、父が設立した平井商店が倒産。  苦学覚悟で上京し、湯島天神の印刷所、雲山堂に活版工見習として住み込む。  早稲田大学予科に合格後、母方の祖母の世話になり、読書三昧の生活をはじめる。  1913年、早大政治経済学部に進み、「自治新聞」を編集、  英米の探偵小説の翻訳を掲載する。  19年、退職し、本郷団子坂に古書店「三人書房」を開く。  20年、大阪「時事新報」に組版工として就職。  21年、ふたたび上京し、日本工人倶楽部の職員となり、  機関誌「工人」の編集にあたるが、翌年退職。  22年、大阪の父の家に妻子とともに転がりこみ、  23年、「二銭銅貨」が「新青年」に掲載され、24年専業作家になる。  25年、「D坂の殺人事件」、「屋根裏の散歩者」、「人間椅子」を発表。  第一短編集「心理試験」がベストセラーになる。  以後、「パノラマ島奇談」、「陰獣」、「黄金仮面」「怪人二十面相」など発表。  疎開先からもどり、アメリカのミステリーに驚き、  探偵小説の復興を決意し、47年、「探偵作家クラブ」を設立し、会長に就任  55年、「宝石」の経営難を救うために、編集長に就任。  私財を投じ、広告集めまでしたが、この過労がたたり、病をえる。  65年7月28日、脳出血で死去。71歳。 オトーサン、 「おお!」 狭い喫茶店のなかは、すっちゃかめっちゃか。 先ほどの4人組が、何やら叫びながら、 店内のありとあらるところを撮りまくっているではありませんか。 ウエイトレスさん、 「何にされますか?」 「ブレンドコーヒー。ああ、それからトーストも」 「バター・トースト?」 「いや、ジャム・トーストがいいな」 4人組、男性2人と女性2人です。 オトーサンまで撮りはじめました。 たまらずに、質問しました。 ”Where are you from?" 4人組のなかで、一番ヒマそうで、 おとなしくしている娘さんに質問しました。 首を振ります。 日本語も、英語も、通じないようです。 ”From Taiwan" スキーウェアを着た年嵩の姐御が、代わって答えます。 片言の日本語が通じるのは、この姐御だけのようです。 "How long do you stay in Japan?" "Just one week" "Have you ever been to Akihabara" "Akihabara?" 驚いたことに、この連中、秋葉原に行かずに、 谷中見物をしているようです。 年嵩の男は、台北一のレコード・CDチェーンのオーナーとか。 新たなジャポニスムが台湾で起きている模様です。 オトーサン、 若い男のほうに、店に飾ってある短歌を指さして、 撮れ撮れとけしかけました。 "She is a most famous modern Japanese poetess" 果たして、これで意味が通じるかどうか。 でも、撮っていました。 ・白猫と 目があっている 路地の裏  時の割れ目と おもう下町               俵万智 エールの交換で、若い娘さんの写真を撮らせてもらいました。 「可愛い娘だなぁ」

オトーサン、 4人組が嵐のように去ったあと、 ウエイトレスさんとおしゃべり。 同じ柏市ということが分かって意気投合しました。 この店に通ってくるには、 鶯谷駅よりも日暮里駅のほうが近いと言っていました。 「谷中墓地をぬけてくるの?」 「いいえ、もう1本先の路地を」 このウエトレスさん、 谷中の路地めぐりを趣味にしているうちに、 ここを職場にしてしまった模様です。 カウンターのなかにいる品のいいマスターとも、 仲良くしようとしましたが、 年を聞いたら怒られました。 タンギー爺さんとはちがって、偏屈爺さんのようです。 ○乱歩゜ / らんぽ  住所:台東区 谷中2-9-14 周辺地図  電話:03-3828-9494 営業時間:1000-2000 定休日:月曜 ・ブレンドコーヒー:400円 オトーサン、 この後、お目当ての大名時計博物館へ。 道に迷いましたが、下町のひとはみんな親切です。 ちゃんと教えてくれるのです。

オトーサン、 路地をめぐり歩いて、ようやく探し当てました。 「分からんはずだ。  個人宅だもんな。小さな土蔵が博物館なんだ」 恐る恐る庭に入っていきました。 ドアには鍵がかかって、無人。 でも、若いひとが母屋のほうから出てきて、 開けてくれました。 「いくら?」 「300円です」 「ところで、ここ撮影禁止なの?」 「はい」 「ケチケチすることないのになぁ。  写真撮っても壊れるわけじゃなし」 口には出しませんでしたが、興冷めです。 「なーんだ、  大名時計というと有難く聞こえるけど、  昔時計とか、和時計と呼んでいた代物か」 1951年、宣教師ザビエルが持ってきた機械時計に 大いに感激した大名たちが、 お抱えの御時計師に製作させたものなのです。 「パンフレットないの?」 「そこにあります」 「肝心の時計の写真がないね」 「ええ。ほんとうはカタログをつくるべきなのですが」 ICレコーダーに時計の種類を吹きこみました。 ・掛時計、櫓時計、台時計、尺時計、枕時計、印籠時計、  御籠時計、置時計、和前時計、香盤時計... 「この香盤時計、愉快だなぁ」 要するに、灰の上に、蚊取り線香のようなものを 迷路のように並べて、その燃え尽き方で、 時刻を計測するのです。 このほか、歩度計もありました。 何里何丁歩いたか計測するものです。 いまの万歩計ですよね。 マッチ箱くらいの大きさでした。 オトーサン、 「不定時法か。これも変わってるなぁ」 夜明けから日暮れまでの昼を6等分、 日暮れから夜明けまでの夜を6等分するのです。 それ自体は、どうってことはないのですが、 季節によって、昼と夜の長さが変わるので、 いっときの長さも変わるというのは、日本独自でしょう。 「池波さん、ここに来られた?」 時代ものを書くさいに、 草木も眠る”丑三つ時”などと、 不定時法を使う関係で、興味があったはず。 聞こうと思いましたが、 学生さん、何も知らなそうなので、あきらめました。 陶芸家の上口愚朗さんが懸命に収集したものの、 息子さんやお孫さんの代になると、 やる気が失せてきた模様です。 「気持ちは、分かるな、  お守りするのは面倒だよなぁ」 余計なお世話でしょうが、 台東区に寄付して、きちんと管理してもらったら。 ○大名時計博物館  住所:台東区谷中2-1-27  電話:03-3821-6913  開館時間:1000-1600 休館日:月曜 7月1日〜9月30日、12月25日〜1月14日 入館料:300円


27 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その5

オトーサン、 「さあ、次は、朝倉彫塑館だ」 また、道に迷いかけましたが、 親切な下町のおばさんに救われました。 「そうね。自転車なら、あっちから回ったほうがいいかもね。  こっちは、クルマの通りが激しいからね」 ほんとうに、下町のひとって、親切です。 こういうことがあるから、下町散歩がブームになるのでしょう。 「えー、1時16分、5.23km、朝倉彫塑館に着きました。  へぇ、こんな風になっているんだ」 個人宅じゃないですか。

オトーサン、 門を入って、お屋敷のドアを開けて、きっぷ売り場へ。 入館料を払って、受付のおばさんに聞きました。 「摂さん、お幾つになられた?」 「83歳です」 「ほー、もうそんな歳になられたのか」 この摂さん、 若い頃は、いつも話題のひとでした。 美人で、毛並みがよくて、そして誰よりも才能豊かで... 母は、自分より年下でしたが、 同じ、下谷生まれ、下谷育ちということで、気にしていました。 晩年、日本画を描いたり、押し絵をはじめたのも、 彼女の影響を受けたのかもしれません。

○朝倉 摂  1922年、東京出身。 父は彫刻家の朝倉文夫氏。  53年に日本画で上村松園賞を受賞。 48年に初めて舞台美術を手掛ける。 70年代にはロックフェラー財団の招きで渡米し、 本格的に舞台美術の仕事を始める。 以来、舞台美術家・画家として活躍。 代表作に「明治の柩」「リア王」「越前竹人形」「ヤマトタケル」。 03年、東京・北千住「THEATRE1010」の芸術監督に就任。 今年、エイボン女性大賞を受賞。 まずは、広いアトリエへ。 天井が吹き抜けになっていて、彫刻がずらり。 代表作の「墓守」もありました。 でも、気に入ったのは、猫の彫刻。

「娘の摂さんも、猫好きだったしなぁ」 産後の猫など、猫好きじゃないとつくれません。 一方で、残酷そのものの吊るされた猫の像もあります。 心の中に慈愛と悪魔が共存していたのでしょうか? 優れたアーチストには、時に、悪魔がとりつくようです。

○朝倉 文夫  1883〜1964  明治16年3月1日、大分県上井田村生まれ。  10歳のとき養子として朝倉宗家を継ぐ。  19歳のとき竹田中学校を中退して上京し。  明治36年、東京美術学校彫刻選科に入学。  在学中に1200点の作品を制作し、明治40年首席で卒業。  その後は彫刻界の重鎮として活躍。  大正8年に帝展審査員となっる。  同10年に東京美術学校教授、同13年に帝国美術院会員。  昭和23年に文化勲章を授与されている。  「墓守」など数多くの傑作を生み、  「自然主義的写実主義」といわれる作風を確立した。 オトーサン、 順路に従って、洋風のアトリアに続く、 日本家屋へ。 まず、中庭が目に飛び込んできました。 「ほー、見事なお庭だなぁ」 朝倉文夫さんご自身の作庭とか。 ここは、大威張りで撮影可能です。

オトーサン、 順路に従って、和室、茶室の数々、 2階にも、数多くの部屋があるので驚きました。 「何じゃ、こりゃ、東宮御所より広いのでは?」 入ったことはないので、いい加減な例えで申し訳ありません。 登山姿の秩父宮様の像も展示されていました。 昭和天皇が弟君に贈るために、 朝倉文夫さんに製作を依頼されたものとか。 「秩父宮様も、ここに、おいでになったの?」 「ええ」 「そりゃ、そうだよね、モデルになったんだ」 何回も来られたのでしょう。

photo:秩父宮殿下登山像(1928年) オトーサン、 「いやー、驚いた。  こりゃ、すごい豪邸じゃん。  彫刻家って、こんな家をもてるのか。  オレも、彫刻家になっておけばよかった」 係りのおばさんたちに笑われました。 読者のみなさん、 ちょっと見にくいですが、1階の図面です。 このほか、広い2階や屋上庭園もあるのです。


28 我輩、ディープな谷中を偲ぶ、その6

オトーサン、 シメは、谷中墓地。 先日は、長谷川一夫さんのお墓探しをしました。 今日は、佐々木信綱さん。 幼い頃、このひとが、父親ではないかと夢想していました。 同じ歌人だし、国文学を研究していたようだし。 いま考えると、とんでもない誤りです。 あちらは、やんごとなき高名のひと、 わが亡父は無名に終わったひと... オトーサン、 「えー、1時49分、5.79km、谷中墓地の交番につきました」 若い巡査がいたので、ちょっと冷やかしに寄ってみました。 「あのー、すいません。  隣の五重の塔が焼けた頃、この交番あったのかなぁ?」 「ええ、ありましたよ」 「じゃ、宿直の巡査のひと、気づかなかったのかなぁ?」 「ここは、泊まれませんよ」 「そうですか」 いまも、日中だけ、近くの交番から出張してくるだけとか。 「幸田露伴の五重の塔、読みました?」 「いいえ」 「読んでおくといいよ」 「ええ、そうしましょう」 「ところで、さっき、この墓地で外人を見かけたけれど、  誰のお参りに来ているのかなぁ?」 「いやー、知りませんね。  私、この10月から勤務しているものですから」 「そう。じゃ頑張ってね」 オトーサン、 「甲8号7側って、どこだ?」 佐々木信綱さんのお墓を探しました。 「なーんだ、五重の塔跡のすぐそばじゃん」 父君や祖父の石碑と並んで立っています。 石碑には、奥様の名前が並んで彫ってあります。 「仲よきことは美しきかな」

石碑の裏をみると、 奥様は、昭和23年10月19日、享年74歳。 信綱さんは、昭和38年12月2日、享年91歳。 「随分、前に奥さんに先立たれたんだ」 こうして、お墓の前で、代表歌を思い出すと、 ひときわ、この世の無常を感じます。 銀の匙をくわえて生まれてきたようなひとでも、 深い苦しみを味わっていたようです。 ・草深き 父の御墓に ぬかづきて 昔の罪を ひとり泣くかな 「奥さんとも喧嘩したんだ」 ・世に生まれ 出でざりしが 最も幸と 君が口より 聞くべきものか

○佐々木信綱  1872〜1963  歌人・歌学者・万葉学者・文献学者。  幕末の歌人・国学者広綱の長男として三重県に生まれる。  早くから父の手ほどきを受け、5歳のとき、  ・障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬が鳴く  東大古典講習科卒、  父の没後、あとを受けて竹柏会を主宰、「心の華」を刊行。  約一万首の歌を作り、現代短歌の源流となる。  1905年から31年まで東大で「和歌史」を教える。  歌集「思草」など、歌学史、和歌史の研究に多くの業績をあげ、  生涯の研究の総括に「万葉集事典」を刊行した。  熱海西山の凌寒荘で急性肺炎により永眠、91歳。  「歌材は広く探求せよ、表現は深玄であれ、  しかして各自の歌境を、おのおのの個性に、環境に求めよ」  門下からは川田順、九條武子ら多くの歌人が輩出した。  唱歌、「夏は来ぬ」は有名。  第一回文化勲章受章。  歌人・佐々木幸綱は、信綱の孫にあたり、 俵万智さんに歌を指導した恩師して知られる。   オトーサン、 この後、霊園事務所を探しました。 ここで、パンフレットをもらいました。 霊園案内図と著名人墓碑の場所が載っています。 「ここには、鳩山一郎さんのお墓もあるんだ。  おお、横山大観さんの隣じゃないか」 「へぇ、ニコライのお墓もあるんだ」 どういう経緯で、異国に骨を埋めたのでしょうか? またもや生来の好奇心が湧いてきました。 ・ニコライ(1836-1912) ギリシャ正教会大主教 乙2号新1側 「えー、いま、2時14分、日暮里駅につきました。  今日は、この辺にしておきましょう。  走った距離は...ああ、たったの6.96kmだ」


29 我輩、ニコライを偲ぶ、その1

オトーサン、 今日は、ニコライさんのお墓を訪ねよう。 実にいい天気で、日本海側のひとには、申し訳ないくらいです。 先日は、鹿児島でも吹雪だったというのに、晴れ続き。 「えー、10時35分、日暮里駅につきました」 ここからは、谷中墓地は、もう目の前。 ニコライさんのお墓も、500mも走らないうちに発見しました。 「乙2号新1側。へぇ、ここだけ広いんだ」 ニコライさんだけでなく、代々の大主教も合祀されていました。 「あの大きな石造の棺桶が、ニコライさんなのかな?」 よく分からないので、小さな石碑だけを 柵の間にカメラを差し入れて撮影しました。 「しまった!予習してから行くべきだった」 後で、分かりましたが、 あの棺桶には、何と「不朽体」が収められていたのです。 不朽体! ギリシャ正教では、聖人の体は腐らないとされ、 それどころか、いい匂いがするそうです。 神によって聖人は、来世の命を約束されているからとか。

○聖ニコライ(1836-1912) ロシア正教の宣教師。  本名は、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン。 (Nicholai Kasatkin)  教区補祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。  1857年、サンクトペテルブルク神学アカデミーに入学。 ゴロヴニンの「日本幽囚記」を読み、日本人が公正で親切と感じ、  日本伝道を志ざす。  (ゴロヴニンは、ロシアの探検家で、  国後島で測量を行っていた際に幕府の役人に捕らえられ、  1811年から2年の間、松前に拘留されていた)  1861年、函館のロシア領事館付の司祭として来日。  最初の10年は、日本研究に費した後、日本正教会の活動を開始。  東京と京都に神学校を開き、各地に聖堂を建てた。  また、聖書をはじめとする祈祷書の翻訳を行なった。  生涯を日本伝道に捧げた彼は、神田で没した。  享年75歳。谷中墓地に葬られた。  1970年になって、墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。  ロシア正教会は、「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」として聖人の列に加えた。  その不朽体は、ニコライ堂(大腿部)や函館ハリストス正教会などにある。  ニコライ祭は、2月16日に行こなわれる。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「えー、11時15分、湯島天神に着きました。  近いなぁ」 谷中墓地から、愛玉子-東京芸大-上野動物園-不忍池を巡ってきたのに、 わずか1.27kmとは....。早回しの映像をみているような気がします。 「ここ、一度、来たっけなぁ」 息子の中学受験の合格祈願だったと記憶しています。 残念ながら、不合格でした。 境内には、数々の合格祈願の絵馬が下っていました。 「他力本願はいかんぞ」 ニコライさんのように、燃えるものを自分のなかに持たなければ。

オトーサン、 昔ながらの甘酒を飲みながら、 「ここは、泉鏡花の小説「婦系図」で、  お蔦、主税の悲恋の舞台だったっけなぁ」 「湯島の白梅」の哀切なメロディが口をついてきます。

♪湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気  知るや白梅玉垣に  残る二人の影法師  忘れられよか筒井筒 岸の柳の縁結び  固い契りを義理故に 水に流すも江戸育ち  青いガス灯境内を  出れば本郷切り通し  あかぬ別れの中空に 鐘は墨絵の上野山   作詞:清水保雄  作曲:佐伯孝雄) 「ふたりは、どちらの坂を下りていったのかなぁ。 それとも、お蔦は女坂、主税は男坂だったのかなぁ?」 そんなことを思いながら、男坂と女坂を撮影しました。 これも、後で知ったのですが。 この坂、上るときは女坂、 下るときは、男坂がいいそうです。 機会があったら、試してみてください。

○湯島天神(湯島天満宮) 
 初詣、合格祈願、梅の名所。
 創建は、14世紀、菅原道真を祀っている。
 後に大田道灌が再興した。
 現社殿は1995年造営のもの。 
 住所:文京区湯島3 
 電話:03-3836-0753 
  開門:600-2000
 無休

オトーサン、
「さぁ、次は、池波さんのうさぎやだ」
       
 そのとき、たしか、男坂を下って、
 黒門町のうさぎやへ立ち寄り、名物のどら焼を買ってから、
 花ぶさへおもむいたのである。 
     散歩のとき何か食べたくなって

でも、黒門町と聞くと、心が騒ぎます。
親戚のおじさんが、この町の理髪店に勤めていたからです。
子供の頃、勤め帰りに、渋谷の家に寄って、
おばあちゃんと故郷のひとの消息について話した後、
よく頭をバリカンで刈ってくれたもの。
「どこにあるのかなぁ?」
黒門小学校のあたりをウロウロしましたが、
見当たりませんでした。

「えー、11時45分、3.88km、うさぎやに着きました。
 やー、混んでるなぁ」
ここのどら焼きを食べると、
ほかのお店のどら焼きには、縁遠くなるとか。
「どら焼き、6個!」
こんなに少ない注文をするひとは、他にいないようでした。

○うさぎや  台東区上野1丁目10番10号 電話:03-3831-6195  営業時間:900-1800 定休日:水曜 どら焼き 180円 オトーサン、 「えー、12時05分、4.57km、神田明神下へきました。  すごい急な階段だ、こりゃ無理だよ」 蔵前橋通りの派出所のおまわりさんに道を聞いたら、 「信号を渡って、すぐ先の左手だ。  その自転車なら、担いで登れるな」 下町の巡査は、なかなか人情味があります。 でも、この階段を担いでのぼるのは、無理のようです。 「おー、こりゃ、立派な神社だなぁ」 湯島天神より大きいとは思っていませんでした。

○神田明神  730年の創建。  伊勢神宮の神田であり、祭神は大己貴命。  平将門の首塚が近くにあったので、合祀されるようになった。  明治時代には、逆臣・平将門は祭神から外されて、  少彦名命が大洗磯前神社から勧請されたものの、  1984年になって本社祭神に復帰した。  江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、  1923年の関東大震災で焼失したが、再建され、  東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。  神田祭は、祇園祭、天神祭とともに日本三大祭とされ、  神田囃子は、無形文化財に指定されている。    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「銭形平次の石碑はどこだ?」 おとなりの小さな石碑も忘れずに撮影しました。 平次と八五郎は、やはり名コンビですよね。 「親分てぇへんだぁ」 このせりふがなければ、捕り物がはじまりませんよね。

○銭形平次  野村胡堂原作の小説「銭形平次捕物控」の主人公。  岡本綺堂「半七捕物帳」とともに有名な捕物帳、時代劇である。  平次は、神田明神下に住む十手を預かる岡っ引で、  長屋に女房のお静と二人暮し。  ひとたび事件が起こると、八五郎との捜査で、  卓越した推理力と寛永通宝を使った「投げ銭」で鮮やかに賊を逮捕する。  野村胡堂の死後、神田明神境内に記念碑が建立されている。    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 今朝の新聞記事を思いだしました。 「野村胡堂さんも、嘆いているだろうなぁ」 甥っ子がお縄頂戴では、シャレにもなりません。 本体のソニー帝国も、落日模様だし...。 ●資産管理会社、228億円申告漏れ  ソニー創業者の故盛田昭夫氏の長男英夫氏が社長を務めていた  食品販売会社「レイケイ」が東京国税局の税務調査を受け、  2004年3月期までの3年間で約228億円の申告漏れを 指摘されていたことが分かった。 レイケイは盛田家の資産管理会社としても知られる。 読者のみなさん、 野村胡堂さん、 実は、ソニーの創業経営者・盛田昭夫さんの伯父さん。 もともとは、報知新聞の記者だったのですが、 「銭形平次捕物控」が当たって、お金持ちになったのです。 そこで、創業期に資金不足に陥った盛田さんが、 井深大さんと一緒に、お金を借りに行ったというわけ。 当時のお金で、5万円借りるつもりが、言いだせず、 結局、3万円だけ借りてきたとのことです。

○野村 胡堂  1882/10/15 - 1963/4/14日 小説家・作家・音楽評論家。  「銭形平次捕物控」の作者として知られる。  岩手県に農家の次男として生まれる。  盛岡中学では、下級生に石川啄木がおり、  啄木に俳句・短歌の手ほどきをした。  1907年、一高を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、  学資が続かず退学し、「報知新聞」に入社し政治部に配属された。  社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。  31年、「オール読物」、銭形平次もの「金色の処女」を発表、  これ以降、26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。  49年、捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任。  63年、肺炎のため死去。享年80歳。  1970年、長谷川一夫らによって銭形平次記念碑が神田明神に建立された。 音楽評論では「あらえびす」のペンネームで知られ、  レコード収集は1万3000枚に及んだが、生前、東京都に寄付した。  死の直前、私財のソニー株1億円を基金に野村学芸財団を設立。  奨学金の交付を目的のひとつとした。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


30 我輩、ニコライを偲ぶ、その2

オトーサン、 「えー、12時15分、5.38km、湯島聖堂にきました。  ここ、はじめてです。いい景色だなぁ」 京都のお寺みたいです。 お茶の水駅のそばに、こんなに深い森があるとは 思いもよりませんでした。 「そうか、ここが東大のルーツなんだ」

○湯島聖堂  1690年、林羅山が上野公園の私邸内に建てた  孔子廟「先聖殿」を将軍綱吉が「大成殿」と改称して移転した。  当初朱塗りで青緑に彩色されていたが、  度々焼失したため、1799年に改築されて黒塗りとなった。  1923年、関東大震災でも焼失し、鉄筋コンクリートで再建された。  1797年、林家の私塾が幕府の昌平坂学問所となる。  明治維新では学問所は新政府に接収され、後に廃校。  1877年、東京帝国大学として復活した。  オトーサン、 真っ黒な大成殿へ。 「ここは、なんとも陰気な感じだなぁ」 湯島天神とともに、合格祈願の場ですが、 参拝するひとも少なく、さびしいかぎりです。 「もう、孔子は時代遅れか...」 礼儀作法も、思いやりも、時代遅れ、 自分のことだけ考え、自分だけよければいいという時代。 ホリエモンのような鬼子がそのいい例。 東大も、もはや斜陽でしょう。

○孔子  紀元前551年‐479年  春秋時代の中国の思想家で、儒教の創始者。  氏は孔、名は丘、字は仲尼、雅号は尼父。  孔子とは尊称(子は先生という意味)。  山東省の魯で政治に携わるが、失望し,  自分の政治理想を実現しようと,14年間諸国をめぐった。 最後は、故国にもどり,教育や古典の整理に専念した。  門人たちとの対話をまとめた経典「論語」は、  社会には「礼」という秩序が必要、人を思いやる「仁」が大事と説き、  江戸中期以降、わが国社会の基本倫理となった。  孔子像は世界最大、台北ライオンズクラブから寄贈されたもの。 オトーサン、 神田川にかかる聖橋へ。 湯島聖堂で出会った中年の夫婦に話しかけました。 ガイドブック片手に、東京見物のご様子。 「この橋、なぜ聖橋というか、ご存知ですか?」 「湯島聖堂のとなりからですか?」 「いいえ、湯島聖堂とニコライ堂の間に架けられたからです」 「ほーっ」 「あなた、ニコライ堂も、見ておかなきゃね」 「ああ」 ちょっとだけ、得意な気持ちになれました。 オトーサン、 この聖橋には、実は、いやな思い出があるのです。 東大に合格して、天にも昇るような気持ちの頃、 この橋を渡っていたとき、鳥打帽のおじさんとすれちがいました。 「東大生かい?」 「ええ」 学生服と学帽で分かるはずなのに、確認してきました。 「おい、いい気になるなよ!」 あっという間に、立ち去っていきました。 「何だ。あいつ...」 あっ気にとられ、やがて怒りがわいてきました。 貧しい家に育ち、どんなに歯を食いしばって勉強してきたか、 彼に分かるはずはありません。 それなのに、切捨て御免のあの言葉。 52年後の今になっても、覚えています。 「おい、いい気になるなよ!」 そう言いたくなるOBが大勢いることも事実です。 東大は、明治から昭和時代の日本をリードしました。 間違いなく繁栄の原動力でしたが、 敗戦=破滅の引き金を引いたことも事実でしょう。 オトーサン、 「へぇ、こんな景色、はじめてみた」 眼下には、神田川。 向こうに見えるのは、昌平橋。 中央線と総武線のレールが交錯して、 電車がすれちがうと、面白い現象が起きます。 そこで、別名はステレオ橋。 秋葉原の電気街のそばですから、 ヒマなときに、耳を傾けてはいかが?

オトーサン、 「神田川の土手、きれいになったなぁ」 戦後しばらく、ここはホームレスのメッカでした。 土手の土色が見えないくらい、板張りのバラックだらけ。 今となっては、信じられないことですが、 南こうせつさんの「神田川」よりも、 もっと貧しい風景が広がっていたのです。

♪貴方は もう忘れたかしら  赤い手拭い マフラーにして  二人で行った 横丁の風呂屋  一緒に出ようねって  言ったのに  いつも私が 待たされた  洗い髪が 芯まで冷えて  小さな石鹸 カタカタ鳴った  貴方は 私の身体を抱いて  冷たいねって 言ったのよ  若かったあの頃  何も怖くなかった  ただ 貴方のやさしさが  怖かった  貴方は もう捨てたのかしら  二十四色の クレパス買って  貴方がかいた 私の似顔絵  巧くかいてねって  言ったのに  いつもちっとも 似てないの  窓の下には 神田川  三畳一間の 小さな下宿  貴方は 私の指先見つめ  悲しいかいって きいたのよ  若かったあの頃  何も怖くなかった  ただ 貴方のやさしさが  怖かった  (作詞:喜多条忠 作曲:南こうせつ) オトーサン、 「えー、12時20分、5.63km、ニコライ堂に着きました。  このあたり、何度も来たなぁ」 そうそう、日立本社に何回か打ち合わせに来ました。 井上眼科には、白内障の手術で入院したこともあります。 「いやいや、そんな程度じゃないぞ」 急に、思いだしました。 4年間、朝晩、通った道でした。 南柏から新お茶の水駅まで満員電車でやってきます。 ほっと一息つきながら、 この坂を小川町まで下っていったじゃないですか。 路地裏の喫茶店でモーニングを食べてから、 今度は、バスに乗って、靖国神社の前の会社まで。 通勤時間1時間30分以上。 「ありゃ、辛かったなぁ」 こうして、ニコライ堂と相対するのは、はじめて。 「美しい建物だなぁ」 4年間も通っていて、一度も入ったことがないなんて。 一度も、ニコライ堂の鐘の音を聞いたことがないなんて。 通勤行為って、あれは一体何だったのでしょう。 単なるブーメラン運動?

○ニコライ堂  1891年の創建。  正式名称は、日本ハリストス正教会東京復活大聖堂。  宣教師ニコライの名を取って、ニコライ堂と呼ばれている。  ニコライが、英国人技師コンドルに依頼し、7年の歳月をかけて建造。  関東大震災によって、尖塔部分が崩壊したが、  1929年に岡田信一郎が高さ35メートルのドームとして修復。  日曜日に鳴りわたるニコライの鐘が印象深い。  住所:千代田区神田駿河台4-1-3 オトーサン、 「藤山一郎さん、うまかったなぁ」 彼の歌う「東京ラプソディー」は名曲でした。 昭和世代のひとなら、涙がこぼれる歌詞であり、メロディでしょう。 その2番に「ニコライの鐘」が出てくるのです。  ♪現に 夢見る 君の   神田は 想い出の街   いーまも この胸に この胸に   ニコライの 鐘も鳴る   たーのし都 こーいの都   夢のパラダイスよ 花の東京  (作詞:門田ゆたか 作曲:古賀政男) ニコライさん、 いまは聖人に祭りあげられていますが、 ニコライ堂を建てた後も、苦労が絶えなかったのです。 ○大津事件から日露戦争へ  1891年、ロシア皇太子ニコライの来日が決定。  日本政府は皇太子を国賓として歓迎。  5月11日、有栖川宮親王とともに琵琶湖を遊覧した後、  京都への帰路に事件が起きた。  何と、沿道警備に当たっていた津田三蔵巡査が  剣を抜いて皇太子に斬りつけたのだ。  ニコライは、皇太子を見舞うとともに、  日ロの友好関係が損なわれないように、  駿河台の大聖堂を訪れていただきたいと哀願した。  だが、皇太子は、神戸碇泊中の軍艦に移り、上京も中止。  この大津事件は、天皇がロシア軍艦を訪れて謝罪することで終ったが、  日本国民の対ロシア感情は、以後、悪化の一途をたどる。  正教会への風当たりも強くなり、スパイ容疑までかけられた。  1904年2月、日露戦争が起こる。  ニコライは、日本にとどまることを決意。  7万人を超えたロシアの捕虜を宗教的に慰安する  「俘虜信仰慰安会」を通じて書籍や聖書の提供を行った。 オトーサン、 「そうか。  日本人が、ロシアの皇太子に切つけたんだ。  日本は、ロシアを侵略したんだ」 日ロ友好条約がいまだに締結できないのも、むべなるかな。 両国間のトゲは、領土問題だけじゃないことを理解しなくては。 うらみつらみが積み重さなっているのです。 「そういえば、おじさんも、長いこと抑留されていた」 池波正太郎さんと同じ頃、 台東区役所に勤めていた叔父が、シベリアに抑留されていました。 「いや、アフガニスタンだったっけ?」 4年間通った道すら忘れるくらいですから、 こまめに記録しておかないと、歴史はどんどん消えていくのです。


31 我輩、連雀町から駿河台下へ

オトーサン、 連雀町を目指します。 神田郵便局と交通博物館の裏手、 靖国通りと、外堀通りが交差するあたり。 現在の地名は、須田町。 江戸情緒が残った奇跡の三角地帯。 神田藪蕎麦に行くか、まつやに行くか? 食後は、竹むらのお汁粉か、ショパンのコーヒーか? 夕食は、あんこう鍋のいせ源にするか、鳥鍋のぼたんにするか? 大いに迷うところです。 でも、もう気持ちは定まっています。 「えー、12時29分、6.44km、まつやに着きました」 ここも、池波正太郎さん、お気に入りのお店です。 ちょうどお昼時、やはり行列です。

オトーサン、 このまつや、 池正さんに教わる前からのフアンです。 いつもは、ごまそばの大盛りを食していますが、 今日は、カレー南ばんにしました。  いまでも、有名な蕎麦屋では、カレー南ばんを出さない。  その是非はさておいて、  私がよく足を運ぶ神田・須田町の蕎麦屋まつやには、  この一品がメニューにあって、それがまた、うまい。  うまいといえば、まつやで出すものは何でもうまい。            池波正太郎「むかしの味」 オトーサン、 ようやく座れましたが、相席。 老夫婦が日本酒を飲みながら、さるそば。 となりの中年夫婦は、日本酒を飲みながら、天ぷら。 「こりゃ、うまいや」 カレー南ばんを夢中になって食べていると、 酒党が、軽蔑したような目つきをしています。 「安いもの食ってるな」 「冗談じゃない、そっちこそ、勘違いするな」 無言のバトルがありました。 お昼時に、お酒を飲むのは、ルール違反じゃないでしょうか。 この寒空の下で、外で大勢のひとが待っているのです。 お酒を飲むなら、やはり、昼めし時は避けなければ。 それが礼儀というものでしょう。 ○まつや  住所:千代田区神田須田町1-13  電話:03-3251-1556  営業時間:11:00〜19:00  定休日:日曜  ・カレー南ばん 900円 オトーサン、 「カレーの味、ほんとにいいなあ」 何ともいえない、いいお味です。 濃くもなく、薄過ぎもせず、 カレーとおそばのコンビネーションが絶妙。 食後は、予定通り、竹むらへ。 ここも、池波正太郎さんのお気に入りです。 ものの50歩もあるかないか。  神田須田町の竹むらへ入ると、   まさに、むかしの東京の汁粉屋そのもので、  汁粉の味も、店の人たちの応対も、しっとりと落ち着いている。        池波正太郎「むかしの味」

○竹むら  住所:千代田区神田須田町1-19  電話:03-3251-2328  営業時間:1100-2000  定休日:日曜・祝祭日  ・田舎しるこ 710円 オトーサン、 「食った食った、お腹いっぱいだ」 ここのお汁粉も、甘すぎす、実にいいお味です。 お餅もとろりと溶けて、舌が喜んでいます。 人間いくつになっても、いい食事をすると、幸福感で満たされます。 というか、歳を重ねるほど、食意地が湧いてくるのです。 「あと何回、食べられるか?」 靖国通りへ出ました。 「お兄さん、道教えて」 さっき竹むらの前で道を聞いてきた田舎娘です。 「まだ探してるのか?どこへ行きたいの?」 食事を終えた満足感から、親切心を出しました。 彼女、名詞を出します。 裏に地図が載っています。 「どれどれ。あーそうか、靖国通りを渡らなきゃ」 すぐそばなので、案内してあげることに。 「お兄さん、その自転車いいね」 「ありがとう」 「お兄さん、お昼、何食べたの?」 「そこのまつやで、カレー南ばん」 「ふーん、いくらだった?」 「900円」 「へー、昼飯に900円も出すの?」 「....」 オトーサン、 彼女と別れて、靖国通りを駿河台下へ。 「スポーツ用品店が減ったなぁ」 ヴィクトリアやミナミといった大手も、客まばら。 スキーブームが去って、いまや無残な状態です。 バブルの頃でしたっけ。 夢中になってスキー用品を買った狂想曲がウソのようです。 「増えるは、スタバばかりなり」 でも、スターバックスにも、そろそろ飽きてきましたよね。 オトーサン、 書店の並ぶ駿河台下へ。 ショーウィンドウに全面広告。 「”天皇と東大”か、立花隆さん、大きく出たなぁ」 文学研究会の後輩で、下手な詩を書いていた橘くん。 「田中金脈研究」で、時の首相、田中角栄を失脚させ、 その後も、優れた大著を出し続け、 いまや、わが国を代表する知識人になりました。 母校で教鞭をとっているようです。 その母校を天皇を道連れにして斬りまくるとは... オトーサン、 駿河台には、星の数ほど本屋があるとはいえ、 足が向くのは、やはり、三省堂本店です。 庄司薫さんのおやじが、ここの専務だったのです。 「Gさん、おしいことをしたなぁ。  若くして死んでしまって」 彼は、サラリーマンの勉強会のはしり、流通懇談会の常連でした。 彼のツテで、三省堂本店前に、新車を展示したこともあります。 そして、何よりも、昨日のことのように覚えているのが、 はじめて自分の本を出したときのこと。 自分の本が書棚に並んでいるかどうか、 人並みに、有名書店をチェックして歩いたものです。 「おお、あった!探しにくい場所だなぁ」 店員の目を盗んで、平台に置き直したりしたもの。 その数ケ月後、売れない本だったので、 三省堂の書棚には、もう見当たりませんでした。 近くの古本屋に、置いてありました。 「バッタ売りかよー」 これ以上、恥をかかないように、 お金を出して買ってしまいました。 その後、自著を2冊出して、合計3冊で打ち止め。 「ああ、本を出したい!」 学生時代の願望が満たされたのでしょう。 もう本を出す気にはなれません。 立花隆さんのように、 次から次へと、新分野で大著に挑むなんて、 気力も体力も、そして肝心の知力もありません。 立花隆さんの本を買おうかとも思いましたが、 分厚いし、上下巻で5000円超では、手が出ません。 文庫本を5冊買いました。 「機内で読もう」 ・竹内 玲子「笑うニューヨーク DELUXE」 講談社文庫 2002年 ・竹内 玲子「笑うニューヨーク DYNAMITES」 講談社文庫 2003年 ・嵐山光三郎「東京旅行記」 知恵の森文庫 2004年 ・マイケル・コナリー、古沢嘉通訳「暗く聖なる場所(上下)」講談社文庫 2005年

○三省堂・神田本店  住所:千代田区神田神保町1-1  電話:03-3233-3312  営業時間:1000 - 2000  定休日:無休 オトーサン、 「ちょっと走り足りんなぁ」 帰路は、秋葉原からつくばエクスプレスと思っていましたが、 予定を変更して、日暮里まで戻ることにしました。 新ルート開拓は面倒なので、さっき走ってきた道を逆走。 神田明神下で、気になる自転車屋をみかけたので、 タイヤに空気を入れがてら、店内を見学しました。 ロードレーサーが並んでいる本格派のショップです。 店主の木村さんとおしゃべりしていたら、 来年の大島サイクリングのお誘いをいただきました。 「大島一周か、いいなぁ」

○サイクルショップ マイロード  住所:千代田区外神田2-15-2 新神田ビル1階 電話:03-5289-7650 営業時間:1030−2000 定休日:水曜 第3土日 オトーサン、 上野へ出て、不忍池を周回し、 高層ビルが建ちはじめている周辺風景を撮影しました。 「何だ、このユリカモメめ!」 おじさんが派手にエサをやっているので、 すごい数のユリカモメが集まってきています。 そのうちの1羽が、撮影中の手に止まるじゃありませんか。 ユリカモメ、白い優美な姿をしていますが、 実に強欲・凶暴で、カラスの天敵とか。

オトーサン、 「えー、2時45分、日暮里駅へ戻ってきました」 ずいぶん、あちこちへ寄りましたが、 駿河台下まで往復したのに、12.79kmでした。 柏駅往復と同じ距離だと分かりました。 東京の下町って、ほんとうに狭いのです。 DELUXEで、DYNAMITESな場所が大部分ですが、 暗く聖なる場所も、まだまだ残っているのです。 でも、この平成ミニバブルで、どんどん消えています。 「みるなら、今のうちだ。  オレの目の黒いうちに間に合うかなぁ?」


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