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荷風探訪


 ただ行かんために行かんとするものこそ、  真個の旅人なれ。  心は気球の如くに軽く、  身は悪運の手より逃れ得ず、  如何なる故とも知らずして常に唯だ、  行かんかな、行かん哉と叫ぶ。      ボードレール「旅」永井荷風訳

目次

1 我輩、春風に乗って、北千住 2 春風に乗って、三ノ輪・谷中霊園
3 春風に乗って、谷中・本郷 4 春風に乗って、湯島・上野
5 花の名所めぐり、荒川・隅田川 6 花の名所めぐり、飛鳥山周辺
7 花の名所めぐり、三ノ輪商店街 8 墨東春情、浅草
9 墨東春情、新東京タワー 10 墨東春情、玉の井、その1
11 墨東春情、玉の井、その2 12 墨東春情、玉の井、その3
13 墨東春情、玉の井、その4 14 墨東春情、鐘ケ淵
15 墨東春情、浄閑寺 16 桜花満開、千鳥が淵・靖国神社
17 桜花満開、九段・市谷 18 桜花満開、飯田橋・後楽園
19 桜花満開、牛天神・伝通院 20 桜花満開、小石川植物園・六義園
21 春の水辺紀行、人形町・清洲橋・小名木川 22 春の水辺紀行、深川不動尊・富岡八幡宮
23 春の水辺紀行、旧弾正橋・新田橋 24 春の水辺紀行、清澄庭園あたり
25 春の水辺紀行、すみだ川、その1 26 春の水辺紀行、すみだ川、その2
27 春の水辺紀行、芭蕉稲荷・記念館 28 荷風残照、真間川・弘法寺
29 荷風残照、真間川・弘法寺 30 荷風残照、菅野仮寓・白幡天神社
31 荷風残照、葛飾八幡宮・大黒家・終焉の家 32 荷風追憶、偏奇館跡、その1
33 荷風追憶、偏奇館跡、その2 34 荷風追憶、偏奇館跡、その3
35 荷風追憶、嗚呼!土木工事 36 荷風追憶、嗚呼!紀尾井町
37 荷風追憶、荒木町・八重次 38 荷風追憶、三島自決・和平飯店
39 荷風追憶、抜弁天・西向天神 40 荷風追憶、余丁町・断腸亭跡
41 荷風追憶、戸山高校/戸山ケ原 42 荷風追憶、鬼子母神・東京音大
43 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その1 44 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その2
45 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その3 46 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その4
47 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その5 48 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その6
49 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その7 50 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その8
51 荷風追憶、わが輩は自転車乗り(最終回)


1 我輩、春風に乗って、北千住

オトーサン、 「花見に行くべし」 長い冬の間中、BD-1でトレーニングに励んできました。 小径車なので、ロードレーサー並みとは行きませんが、 かなりの長距離を走れることが分かってきました。 自宅から手賀沼を一周して戻ってくると、34km。 最長は、八千代の道の駅から稲毛海岸往復の42.195km。 柏の自宅から浅草まで行ってみました。 距離は、ほぼ30km。 北千住を経由すると、38km。 そんななか、今日のお花見コースは、楽勝の17km。 ・北千住駅 - 素盞雄神社 - 三ノ輪 - 谷中 - 根津神社 - 東大構内 - 湯島天神 - 上野公園 - 上野駅 

オトーサン、 9時30分に家を出て、東武野田線の増尾駅へ。 輪行で柏駅へ。 もう輪行には、慣れました。 数分もあれば、収納も、組み立ても完了。 北千住までは、つくばエキスプレスでも行けますが、 今日は、常磐線の特急を利用しましょう。 松戸のすぐ先で江戸川を渡り、 荒川を渡れば、もう北千住駅で、近いものです。 柏駅から20分もかかりません。 「いよいよ、サイクリングだ」 北千住の賑やかな商店街を抜けていきます。 「あれ、お団子屋、今日は休みか」 やはり花より団子、 団子の味を心残りに、墨田川にかかる千住大橋へ。 橋を渡ると、交通の激しい4号線(旧日光街道)です。 いつもは、南千住に出て、明治通りを白髭橋へ、 向島経由で、言問橋から浅草へ渡るのですが、 今日は、まず三ノ輪をめざしましょう。 「あのおばさん、早いなぁ」 ママチャリなのに、一気に千住大橋を駆けぬけていきます。 追い越されると、やはり悔しいもの。 橋のたもとで小休止したら、 たまたま芭蕉像のそばでした。 一応写真を撮りました。 その先の三差路は、左の吉野通りを行くと、南千住。 今日は、4号線を行くので、交差点を横断しました。 渡ったところに交番があって、 脇に墨痕鮮やかに芭蕉の句碑ありの看板。 細い路地の奥には、何かが隠されている気配が... にわかに空間が広がって、 「おお、花の神社だ!」 さほど広い境内ではありませんが、 丁寧に手入れがされて、 梅と桃と桜が同時に満開ではないですか。 ○素盞雄(すさのお)神社  石神信仰の神社で、創建は795年と伝えられる。  境内には、1820年建立された芭蕉の旅立の句碑がある。 オトーサン、 神主さんをみつけて、句碑のありかをたづねました。 「右手、本殿脇にあります」 「ありがとう」 行く手に立ちふさがったのは、小型トラック。 純白のいずずエルフ。 交通安全のお祓い払いの最中でした。 「おお、粋な」 神主さんが桜の花びらを振りかけているではありませんか。 エルフが、春日大社の鹿に見えてきました。 「芭蕉の頃は、この辺にも、鹿が出没したのかしらん?」

オトーサン、 「これが、あの有名な句の石碑か。  ”行春や鳥啼魚の目は泪”だったなぁ」 芭蕉の奥の細道を習ったのは、確か中学校でした。 残念ながら、石碑の表面が磨耗して、判読できません。 奥の細道フアンには、この石碑は貴重なものでしょう。 撮影することにしました。 「奇しくも、今日は3月27日だ!」 でも、芭蕉の頃は旧暦でしたね。 ですから、実際には、2月28日(大安)。 日中の気温15度といった春の陽気ではなく、 さぞ、寒風の中の意を決しての旅立ちだったのでしょう。 ○奥の細道  (千住旅立ち:元禄2年3月27日)  彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、  月は在明にて光おさまれる物から、  不二の峰 幽かにみえて、  上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。  むつましきかぎりは宵よりつどひて、  舟に乗て送る。  千じゆと云所にて船をあがれば、  前途三千里のおもひ胸にふさがりて、  幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。  ・行春や鳥啼魚の目は泪  是を矢立の初として、行道なをすゝまず。  人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。 (オトーサン訳)  3月末の27日、夜明けの空が霞み、  有明けの月がぼんやりと光って、  かすかに富士山をみることもできるが、  上野や谷中の桜を再び見ることができるのだろうか、心細い限りである。  弟子たちは私を慕って、昨夜から集まってきて、  一緒に船に乗りこんでくれた。 千住というところで船を降りたが、 陸路の果てしない長さを思って、胸が痛み、 この世はみな幻とは思うものの、別離に涙がとまらない。  ・行春や 鳥啼魚の 目は泪  これを旅の第1句に詠んで、歩きはじめたものの、足どりは重い。  弟子たちは、姿が見えなくなるまで見送ってくれるのだろう。


2 春風に乗って、三ノ輪・谷中霊園

オトーサン、 「もう三ノ輪か、近いなぁ」 千住大橋から1kmも走らぬうちに、 前方に4号線と国際通リの分岐点がみえました。 三ノ輪の交差点のそばには、お馴染みの金太郎飴。 「都電の停留所はどこですか?」 近所のおばさんに聞きました。 「あっちよ」 「へぇ、戻るんだ」 駅は、4号線からちょっと入ったところでした。 自転車整理係のおじさんがいたので、 質問してみました。 「この都電、自転車、持ち込めるかねぇ?」 「さぁ?」 「折り畳めるだけどさ」 「どのくらいの大きさになるかね?」 「半分くらいだね」 「何か袋でもかぶせるのかね?」 「ええ」 「そうだね。運転手に聞いてごらん」 このおじさん、最初からそう言えばいいのに、 でも、憎めないおじさんです。 都電に乗るのは、次回のお楽しみとして、 BD-1を駐輪して、写真を撮ろうとすると、 件のおじさん、 「おい、そこ自転車置いては困るよ」 「はいはい、ちょっとだけね」 「そのちょっとが困るンだ」 言葉はきついのですが、笑顔です。 この辺りが、下町のいいところですねぇ。

おじさん、 「写真撮るなら、バラの季節にくるといいよ」 「バラ?、そうか、この植え込み、バラか」 注意してみると、関東の駅百選に選ばれたという掲示板もあります。 「バラの季節って、いつ頃?」 「5〜6月だね、きれいだよ」 ○都電 「都電」は、もともと鉄道馬車として開通していた   新橋〜品川間を1903年電車化したのははじまり。   競合する東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道が合併し、   1911年に市営化、1943年東京都となるに伴い「都電」となる。   昭和30年代前半までは、都民の足として隆盛を誇ったが、 モータリゼーションの進展により、72年までに撤去されて、   荒川線だけが生き残っている。   開業:1911年 /区間:三ノ輪橋〜早稲田 /営業キロ:12.2km 出典:http://www.threeweb.ad.jp/~yokhoo/toden/toden2.html オトーサン、 「もう11時か、腹減ったなぁ」 昼食は浅草と仮決めしてきましたが、小腹が空きました。 この三ノ輪橋駅の商店街は、繁盛しているらしいので、 「ここで早めの昼食を取るか」 そう思って、商店街、ジョイフル三ノ輪の アーケード下を歩いてみましたが、 食欲をそそるお店は発見できませんでした。 駅そばの焼き鳥屋の匂いに吸い寄せられました。 「へぇ、子うなぎの串焼きか」 珍しいので、1串120円を注文してみました。 「うまいなぁ」 いっそ、ここで、うな丼でもと思いましたが、 立ち食い風なので、断念しました。 オトーサン、 「ここらは、何度も走ったなぁ」 両親が新婚生活を送った根岸界隈をぬけて、 常磐線を日暮里駅で越えれば、谷中霊園です。 「金杉通りから金曾木小学校、これでよしよし」 「ラブホテルが増えてきたなぁ、鶯谷か」 「日暮里中央通リか」 すこし迷って、日暮里駅より手前の陸橋へ。 そこを渡れば、もう谷中霊園です。 お墓の間をぬけて、さくら通リへ出ました。 「おお、桜が見事だなぁ」 桜のトンネルが、前方に広がっています。 その風景の中に、気持ちが吸いこまれていきます。 芭蕉が、奥の細道で、 「上野や谷中の桜を再び見ることができるのだろうか」 そう述懐したあの谷中の桜です。 「この桜、オレも、あと何回見られるかな。  そうだ、西行法師も桜を詠んでいたっけ」 ・願わくば花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ 「西行法師みたいに桜の下で死ねたら、いいだろうなぁ。  死んだ後も、この桜を見られるように、  いっそ、ここにお墓を移すか...」

○谷中霊園  東京・台東区谷中にある都立霊園。  面積は約10万平方m、7,000基の墓がある。  かつては、天王寺の寺域の一部で、  幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった五重塔跡がある。  桜の名所としても親しまれ、中央園路は「さくら通り」と呼ばれる。  著名人が数多く埋葬されている。  朝倉文夫、上田敏、鏑木清隆、佐々木信綱、獅子文六、  高橋お伝、渋沢栄一、徳川慶喜、ニコライ、長谷川一夫、  牧野富太郎、三木武吉、宮城道雄、本居長世、横山大観  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 帰宅してから、都営霊園について調べてみました。 「谷中霊園は満杯か」 やがて自分が入る小平霊園の募集倍率が 異常に高いのをはじめて知りました。 「ふーん、オフクロ、なかなかやるなぁ」


3 春風に乗って、谷中・本郷

オトーサン、 「腹減ったなぁ」 子うなぎの串焼きだけでは、お腹がもちません。 「どこかに旨い店がないかなぁ。  ...そうだ、谷中銀座へ行こう」 日暮里駅へ出て、夕焼けだんだんを降りると、 谷底にある商店街が、谷中銀座。 小さなお店がみんな元気という風景は、いいもんです。 中程にある肉のスズキに寄りました。 「メンチカツ4つ」 おみやげに3ケ、自分のおやつに1ケ。 1ケ147円ですから、しめて588円。 このお店、TVで紹介されたとかで、大人気。 今日もおばさんたちが、お店の前の椅子に腰掛けて、 メンチカツを食べていました。 「このメンチ、おいしいわね」 「そうでしょ、お肉がたっぷりなのよね」 「ほんと、ハンバーグみたい」 オトーサン、 谷中銀座をぬけて、有名なへび道へ。 今回で2度目ですが、ほんとうに曲がりくねっています。 「樂しいなぁ、こんな道、ほかにあるか?」 いまは、道路になっていますが、 その昔は、音無川が曲がりくねって流れていたようです。 走っていると、酔ってきそうです。 「根津神社で、食おう」 例のメンチカツ、暖かいうちに食べなくては。 前回は、神社脇のD坂を上っていきましたが、 今回は、広々とした境内に入ることに。 まず、トイレを使わせてもらいました。 「どこかベンチないかな?」 幸い、桜の木のそばにありました。 「うめえ」 メンチカツって、外で食べるとなぜ旨いのでしょうね? 森鴎外や夏目漱石も、この味を味わえたのでしょうか?

○根津神社  東京・文京区根津にある神社。  日本武尊が1900年前に創祀したと伝えられる。  境内は、つつじの名所として知られる。  社殿は、1705年の創建、五代将軍・徳川綱吉の普請とされ、  権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。  社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。  近くには、森鴎外や夏目漱石らの旧跡が残されている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 境内を抜けると、目の前に大きな病院。 「へぇ、こんなところに、日本医大があったんだ」 ひっきりなしに患者が出入りしています。 「腹減ったなぁ」 メンチカツが呼び水になって、本格的な昼食を要求しています。 「でも、病院の近くじゃ、食べたくないな」 空腹をかかえて、かなり急な坂道を登りきると、本郷通りでした。 「どこかに、旨いレストランでもないかな?」 下調べをしてきなかったのが悔やまれます。 前回、来たときは、東大正門前のルオーでカレーを食しました。 「同じ店というのも、芸がないしな」 「お、ここ、よさそうだ」 ちょっとおしゃれな食堂がありました。 「山猫亭か」 それこそ宮沢賢治の童話に出てきそうな名前です。 店内に入ると、東大の関係者らしいのが、10人ほど。 若い外人教師を囲んで、女子学生たちが食事しています。 まだ空席があったので、窓のそばのテーブルに座りました。 変わった形の猫の置物がたくさんあります。 メニューは、インドカレー、ベトナム・チャーハン、 そして、今日のランチがマグロのソテー。 「メシがこないなぁ」 シェフはたったの1人、東大関係者に出すだけで精一杯。 30分以上待たされました。 「こんな店、キライだ」 本来なら、写真を撮って、 住所、電話、営業時間などを記すべきでしょうが、 省略することにしました。 「味もイマイチだったしなぁ」 オトーサン、 食後は、東大構内へ。 前回は、正門から入って、三四郎池や御殿下グラウンドをみて、 赤門から出てきましたが、今回は違うルートに。 「へぇ、ここが東大病院か?」 その昔、ここで誤診されたことがあります。 それ以来、大学病院には不信感を抱いております。 ・患者をモルモット代わりにしている。 ・患者数が多くて、扱いがぞんざいである。 そんな思い出もあるし、 春風に乗ったウィルスに感染するのも困るので、 早々に通過するだけにしました。 オトーサン、 病院から遠ざかって、ホッとしました。 「やはり、人間、健康がイチバンだなぁ」 病気で気弱になったら、こんな歌に共感するかも。 ・花の色は うつりにけりな いたづらに   わが身世にふる ながめせしまに 小野小町 (オトーサン訳)  あたしの美貌もすっかり衰えてしまった、  つまらないことで悩んでいるあいだに。


4 春風に乗って、湯島・上野

オトーサン、 「次は、湯島天神だ。  ♪湯島通れば思い出すだ」 花の季節、ここの白梅はチェックしておかなくては。 「ありゃ、もう散ったか」 3月の上旬にくるべきでした。 お受験シーズンも終わって、境内は閑散たるもの。 ただ合格祈願の絵馬の多いのが目立ちました。 ○湯島天神  東京・文京区の神社。創建 458年。  亀戸天神、谷保天満宮と並ぶ江戸三大天神。  学問の神様として知られる菅原道真公を奉っていることで、  受験シーズンには、合格祈願に験生が多数訪れる。  境内の梅の花も有名で、白梅と紅梅が約400本ある。 泉鏡花の「婦系図」(1907)の舞台となり、  また、この歌謡曲や映画「湯島の白梅」が大ヒットした。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 読者のみなさん、 せめてネットでみつけた画像をお楽しみ下さい。 「同じようなことしているひとが、いるもんだ」 でも、写真の腕前は、段ちがいです。

出典:東京自転車生活 http://jinx.oops.jp/blog/archives/2005/02/ac_1.php 読者のなかには、 「♪湯島通れば思い出すって、何だ?」 そんなひともおられるかも。 ♪湯島通れば思い出す  お蔦主税の心意気  知るや白梅玉垣に  残る二人の影法師  忘れられよか 筒井筒  岸の柳の縁結び  かたいちぎりを義理ゆえに  水に流すも江戸そだち  青いガス灯 境内を  出れば本郷切通し  あかぬ別れの中空に  鐘は墨絵の上野山  (作詞:佐伯達夫 作曲:清水保雄) オトーサン、 「次は、上野の桜だ。 その前に、うさぎやに寄っていくか」 すでに奥方へのおみやげに、メンチカツがあります。 次回に見送ることにしましたが、 どういうわけか、店の前を通りかかってしまいました。 「買うか」 こお店のどら焼きは、絶品。 「どら焼き、3個。少なくてゴメンね」 「どういたしまして!あら、自転車で来られたの?」 「ええ、北千住から」 「まあ、それはそれは、ありがとうございます」 こういう女将がいるから、繁盛するのでしょう。

○うさぎや  台東区上野1丁目10番10号 電話:03-3831-6195  営業時間:900-1800 定休日:水曜 どら焼き 180円 オトーサン、 右手に、松坂屋そしてアメ横をみて走ります。 でも、あまりの人出で、ついに自転車を降りて徒歩へ。 公園へは、正面から入りました。 「そうなんだ。正式名称は、上野恩賜公園なんだ」 動物園へ向けて、桜並木を走りましたが、 やはり、あまりの人出で、ここも徒歩。 ○上野の桜  11種類、1100本の桜が咲き乱れる。  日本三大夜桜に数えられる。  1642年、徳川家光が寛永寺を建立したときに、  大名、僧侶がヤマザクラ、サトザクラ、エドヒガンを植えたのが起源。  また、林羅山が桜峯塾を開き、周辺にさくらを植えた。 住所:東京都台東区上野公園池之端三丁目  見ごろ:3月下旬〜4月中旬  問合せ:上野恩賜公園管理所:03-3828-5644

オトーサン、 不忍池の桜を上野山から見下ろして、 「まるで、花の雲のようだなぁ」 この「花の雲」という言葉、芭蕉の句からきているそうです。 さすが、芭蕉、見事なセンスですねぇ。 ・花の雲 鐘は上野か 浅草か この句が転じて、 「花は上野か浅草か」という名文句が誕生したとか。 俳聖・芭蕉、やはり、現代日本人の心のなかに 息づいているのですね。 オトーサン、 「浅草の桜も見ておきたいけれどなぁ」 墨堤の桜並木が瞼に浮かんできます。 あちこちに寄ったために、もう午後3時。 上野駅から常磐線に乗って帰宅することにしました。 いずれ、近いうちに浅草へ足を伸ばしましょう。


5 桜の名所めぐり、荒川

オトーサン、 春の訪れともに、元気になってきました。 今年は、めずらしく、花粉症で悩まずにすみました。 例年5月はじめまでマスクをしていますが、 今年は、もう少し早くマスクから解放されそうです。 マスクを外して、空気を吸い込むと元気になりました。 「よーし、花の名所を見てまわるぞ、  のんびりしてはおれんぞ。  ”三日見ぬ間の桜かな”  ”花の命は短かりし”だからな」 てなことで、江戸時代から上野浅草と並ぶ桜の名所、 飛鳥山公園へ行くことにしました。 飛鳥山公園は、JR京浜東北線・王子駅下車。 この駅は、中学時代の恩師が王子に住んでおられる関係で、 何度も行っております。 駅を降りて、目の前の高台が飛鳥山公園ということも知っております。 でも、まだ、一度も、訪れたことはなかったのです。 ○飛鳥山公園  武蔵野台地の外れに位置する公園。  650本の桜があり、「飛鳥山の花見」として有名。  江戸中期、鷹狩りに訪れていた徳川吉宗が、  山桜を植え、その後王子権現に寄進し、  庶民の行楽地として開放したのがはじまり。  桜並木のほか、児童遊戯施設、滝・噴水・川、  博物館、紙の博物館、渋沢資料館もある。 さて、今日のお花見コースは、20km。 ・北千住駅 - 荒川サイクリングコース - 隅田川・豊島橋 - 王子駅 -  飛鳥山公園・音無川親水公園・王子神社 - 町屋 - 三ノ輪 - 北千住駅 

オトーサン、 北千住駅に降り立って、 「さて、王子までどうやって行くかな」 三ノ輪に出て、 はじめて、自転車を都電なるものに乗せて、 王子まで輪行するつもりでしたが、気が変わりました。 「風がないな。気持ちよく走れそうだ。 そうだ、荒川のサイクリングコースを走ろう」 都電は、行きに乗るのではなく、 王子から三ノ輪までの帰路に乗ればいいのです。 「そうなると、まずは、おやつの用意だ」 北千住の商店街で、団子でも買いましょう。

オトーサン、 「ここの団子、安いなぁ。  3本買って、150円だもんなぁ」  いまどき、このお値段とは。  自家製で、出来立てだから旨いこと。  次から次へと売れていくのもムベなるかな。  これで、チェーン店とは信じられません。 ○だんごの美好  住所:足立区千住1-20-9  電話:03-3882-6998  営業時間:7:00〜19:00 定休日:月曜日  ・各種だんご 40〜60円  ・和菓子類   細巻、太巻、いなり寿司、   おにぎり、赤飯、山菜おこわ オトーサン、 北千住商店街を東進し、堤防に突き当たりました。 階段を「よいしょ、よいしょ」と自転車を運びあげます。 「不親切だなぁ。スロープぐらいつけとけよ」 ようやく堤防に登って、先をみたら、スロープがありました。 さっき商店街で抜き去った高校生が、先にいるではありませんか。 「ちくしょう。ま、いいか」 風はないといっても、やはり広い荒川の河原、 向かい風の影響で、時速20kmを出すのは困難でした。 30分ほど、全力疾走しました。 右手をみると荒川の対岸に、 首都高環状線の高架が延々と伸びています。 巨大なジェットコースターにみえなくもありません。 時折、大きな橋が現れます。 上流へ向かって、千住大橋、西新井橋、扇大橋、江北橋。 以前、埼玉県の大宮の先の指扇から、 千住大橋まで下ってきたことがあります。 そのとき、橋が多すぎて、わけが分からなくなったことを 覚えています。 江北橋の先は、鹿浜橋、新荒川大橋、戸田橋、笹目橋、 秋ケ瀬橋、羽倉橋、治水橋で、 新上江橋からスタートしたのでした。 オトーサン、 「そろそろ、この辺で、堤防を降りなきゃいかんだろう」 2段重ねで、江北橋と首都高が迫ってきました。 自転車を草原に倒し、上半身裸になりました。 まずは、ペットボトルのお茶をぐいぐい飲んで、 「団子でも、食べるか」 1つだけにしておくつもりでしたが、 みたらし団子、磯部団子、つぶあん団子と 全部平らげてしまいました。

「北へ飛んでいったか。鴨がいないなぁ」 TVが荒川の鴨がイナバウワーをしているシーンを 写していましたっけ。 「...さてと、どうするか」 幸い、自転車のおじさんが通りかかったので、 王子への道順を聞きました。 「あれが高速道路王子線なんだ。 その先に、大きな団地が見えるだろう」 「ああ、あれね」 「豊島団地っていうんだけどさ。  川沿いに下っていくと、豊島橋があるから、  そこから団地のほうへ行けばいいよ」 「川?」 「ああ、墨田川だよ」 「墨田川?」 「ああ、隅田川」  オトーサン、 「荒川のそばに隅田川?」 半信半疑でしたが、行ってみることに。 なるほど、隅田川がありました。 「ふーん、この下流が浅草なんだ」 川べりの公園化を進めている最中のようで、 桜の背丈は、まだ低いものの、 花を愛でる家族連れの姿がありました。

読者のみなさん、 拡大図をご覧下さい。 隅田川が荒川に寄り添っているでしょう。 考えてみれば、これは当然で、 隅田川の洪水を防ぐために造られたのが、荒川放水路。 つまりは、ご覧の荒川なのです。 荒川のほうが、広々として自然のままに見えるのに、 隅田川のほうは狭くて、 人工的な放水路に見えなくもないというのは、 いかにも皮肉ですね。


6 桜の名所めぐり、飛鳥山周辺

オトーサン、 交通の激しい王子駅前を突き切って、 花見客でにぎわう飛鳥山公園入り口へ。 屋台も出ています。 自転車で行くのは、到底ムリのようなので、 本郷通りの鉄柵にロックしました。 「この階段を登っていくのか」 お年をとったひとは、辛そうです。 オトーサン、 「おお、JRが下を走っている」 桜の梢の間から電車を見下ろすのも、オツなもの。 突然、非日常の世界が開けてきたようです。 「おお、やっとるやっとる」 花見といえば、青いビニール。 昔ながらのゴザのほうが、桜の木には優しいそうですが、 いまは、万事、効率の時代。 「お山の大将やってるなぁ」 飛鳥山に登っても、さらに、お山の上だと気分がいいのでしょう。

オトーサン、 「見事な桜だな、満開だ」 狭い園路を抜けていくのは、なかなか大変です。 それに、あちこちで、写真を撮る人が立ち止まって、 流れを堰とめています。 しゃにむに人ごみをかきわけて、公園の中心部へ。 児童遊戯エリアにぶつかりました。 都電が1両飾ってあって、その奥は博物館エリアのようです。 「桜は、ここらで終わりか、案外少ないなぁ」 戦前までは、都内で一二を争う桜の名所と言われていたようですが、 戦争やその後の公園整備のなかで、本数が半減したのでしょうか。 「大体分かった、帰ろう」 上野公園のミニ版という感じでした。 オトーサン、 「あっち側に何かありそうだ」 飛鳥山公園の外れの高台から眺めると、 人波が、そちらのほうにも吸い込まれています。 階段を降りて、自転車を停めた場所へ。 「この通り渡れないなぁ」 本郷通りは交差点が少ないので、 公園の先端部を迂回して、 横断歩道を渡って、ようやく通りの向かい側へ。 「おっ!」 見事な風景が展開しています。 渓流にかかる橋、そして桜。 「こりゃ、写真になる」

トイレを探していたら、また、絶好の風景を発見。 「これは、いい写真になるぞ」 暗いトンネルのアーチの向こうに、 桜花咲き匂う極楽浄土。

オトーサン、 あまりきれいとはいえぬ公衆便所で用を足してから、 そばにある案内看板を読みました。 「ふーん、そうなんだ」 ○音無川親水公園  石神井川(音無川)跡に作られた公園。  春は桜、秋は紅葉と行楽の名所だったが、  戦後の改修で、流路が変わり、コンクリート張りになってしまった。  その後、親水公園として整備され、往時の面影を取り戻した。  「日本の都市公園100選」に選ばれている。 オトーサン、 「次は、王子神社だ」 場所が分からないので、近くの老人に聞きました。 「ほら、あの橋の先、右手に階段がみえるだろう、  あそこを登っていけば、すぐだよ」 「ありがとう」 急に、静かな、ほとんど陰気な風景に出会いました。 「ふーん、これが王子神社なんだ」

○王子神社   中世に熊野信仰の拠点となった神社。   王子の地名の由来となった神社である。   熊野三所若一王子が勧請されて、王子村が誕生した。   「王子田楽」を奉納する8月の祭礼や、12月の熊手市が有名。   また、天然記念物の大イチョウ(目回り6m、高さ20m)がある。 オトーサン、 王子神社の境内を突き切って、町の喧騒へ。 飲食店、パチンコ屋、不動産屋...下町の風景がありました。 ここにも、容赦ない開発の波が及んでいて、 飛鳥山の高層マンションの看板がありました。 一応、お値段をチェックすると、1億超とありました。 「最上階なら上空からお花見ができるかも」


7 桜の名所めぐり、三ノ輪商店街

オトーサン、 「さあ、帰ろう、帰りは樂だな」 ところが、そうは問屋が卸しませんでした。 都電の王子駅へ行きましたが、 花見客で、どの電車も超満員でした。 「乗れないのかぁ」 せっかく、はじめて都電に乗ろうと楽しみにしていたのに。 「しょうがない、線路沿いに走ろう!」 幸い、線路脇の道路が直線で空いています。 気持ちよく飛ばしました。 「おお、追いついた」 「お、抜いた」

オトーサン、 都電との競争が面白くなってきました。 こちらは、交差点で止まらざるを得ませんが、 あちらは、専用の線路があります。 でも、割りに頻繁に駅があって、乗り降りに時間がかかっています。 「楽勝だ」 三ノ輪橋までの中間地点、町屋まではリードしていました。 「おお、何たること」 線路沿いの道路がなくなってしまうではありませんか。 ジグザク走行を強いられて、戦局は一転不利に。 ついに、町屋で追い抜かれてしまいました。 オトーサン、 「あー、やっと着いた!」 おなじみの三ノ輪橋が近づいてきたようです。 女子高生の後をつけました。 どうやら、近道がありそうです。 「ありゃ?」 買い物客で賑わっている商店街に出ました。 アーケードに、三ノ輪ジョイフルとあります。 「すごいねえ、こりゃ」

前回、たいした商店がないと書きましたが、大間違いでした。 どうも、横丁だけみたようです。 本通りは、遥か向こうまで商店が立ち並んでいましした。 オトーサン、 自転車を置いて、全部見て回りました。 「大勝湯か。いいねえ、お風呂屋さんもあるんだ!」 「うまそうだなぁ」 焼き鳥の匂いで立ち止まりました。 運動した後に、この鳥富士の焼き鳥で一杯。 ビールをグビグビ、その後、大勝湯へドボン、 最高でしょうねぇ。 でも、早く帰らないと。 明日UPするホームページの原稿を書かなくては。 「おみやげでも買うか」 おおぶりの牡蠣の串焼きを4本買いました。 このお店、そんなものも売っているのです。


8 墨東春情、浅草

オトーサン、 「さあ、今日の花見は、浅草だ!」 ”花は上野か浅草か” 花見には見逃せないスポットです。 でも、ただ浅草・隅田川の花見だけでは物足りません。 そこで、文豪・永井荷風ゆかりの地をめぐることにしましょう。 今日のお花見コースは、19km。 ・浅草駅 - 吾妻橋 - アリゾナキッチン - 新東京タワー建設予定地 -  言問橋・桜橋 - 東向島・啓運閣 - 三ノ輪・浄閑寺 - 北千住駅 

オトーサン、 11時に、つくばエキスプレスの浅草駅下車。 「おお、浅草寺も、桜が満開だ」 仲見世は、相変わらずの人出です。 早速、隅田川に向かいました。 水上バス乗り場は、長蛇の列。 列が吾妻橋の半ばまで伸びて歩けないほど。 桜並木が連なる川面のきらめきは格別です。

「いろんなアングルから撮っておかなきゃ」 吾妻橋の長蛇の列を撮影しようとしました。 その時でした。 「あっ!」 バッテリー切れ。 電池ならそこらで買えますが、 バッテリーとなると、それはムリ。 一瞬、頭が真っ白になりました。 「今日の取材は、ジ・エンドか」 家に引き返すことも考えましたが、時間的にムリ。 バカチョンカメラを急遽購入することも考えました。 「それも、馬鹿らしいなぁ」 結局、松屋浅草店へ。 幸い、デジカメ売り場でバッテリーをみつけました。 「充電しないで使えるの?」 「試してみましょう、ほら、写せますよ。 でも、大事に撮ってくださいね」 「ありがとう!助かった」 オトーサン、 「腹減ったな」 ひと安心したら、お腹の時計が正常に動き出しました。 「アリゾナへ行こう」 このレストランは、永井荷風が常連だった場所。 「ハヤシライス!」 今回は、2度目。 前回はランチを注文したのですが、 イマイチだったので、違うものにしました。 ○アリゾナキッチン 1949年開店。 文豪・永井荷風が、開店以来足繁く通ったとか。  住所:東京都台東区浅草1-34-2 電話:03-3843-4932 営業時間: ランチ1130 - 14:30 ディナー1700 - 21:15 定休日:月曜日


オトーサン、
「今日のはうまかったなぁ」
気をよくして、会計のときに、女主人に聞いてみました。
「荷風さんの写真、撮っていいですか?」
「どうぞ」
「荷風さん、いつも、どこに座っていたの?」
「ここですよ」
入口の側でした。
池波正太郎さんも、そうでしたが、 
やはり、作家という種族は、
店の外を通過するひとびとを観察したいのでしょう。

読者のみなさん、
ここで、永井荷風の経歴を確認しておきましょう。
名声が天にも届くようになった晩年、
墨田川の川向こうの「墨東」の路地裏を彷徨し、
その消えゆく風景と人情を記録した稀有な作家でした。

○永井荷風、その1
 小説家、随筆家、フランス文学者。
 1879/12/3 -1959/4/30。
 東京・小石川区生まれ。
 父親は高級官僚で、漢詩人だった。
 一高の入試に失敗し、東京高商付属外国語学校に入学するが、
 清元、日本舞踊、落語の稽古に耽溺し、除籍処分。
 22歳、暁星学校夜間部に入学したが、
 将来を心配した父親によって、1903年アメリカに留学させられる。
 シアトルのハイスクール卒業後、遊蕩を心配した父親の指示で、
 ミシガン州のカマラズ大学に入学し、フランス文学を専攻する。

オトーサン、
長女が、カラマズ大学に学んでいた関係で、
カラマズ大学を訪れたことがあります。
とてつもなく広大なキャンパスを見学した後、
「おい、この店が、カラマズで一番いい店か?」
「そうよ」
「はっはっは」
タコスを食べさせるファースト・フ−ド店でした。
永井荷風の父が、この地を選んだ理由が分かりました。
悪い遊びをする場所なんか、どこにもないのです。
シカゴまで遊びに行こうとすると、クルマで2時間もかかります。 
荷風に興味をもったのは、娘の本棚に荷風の本があったからです。

○永井荷風、その2
 1905年、26歳、卒業後ワシントンの日本公使館でアルバイト。
 その後、三菱銀行ニューヨーク支店の臨時雇となるが、
 銀行の仕事が肌にあわず、父親に頼みこみ、リヨン支店へ転勤。
 またもや放蕩を尽くした後、半年後に辞職して帰国。
 「アメリカ物語」、次いで、「フランス物語」(発禁)を出版し、
 新進作家として注目される。
 夏目漱石の推薦で、朝日新聞に「冷笑」を連載。
 1910年、31歳で、慶應義塾大学教授に就任。
 「三田文学」を創刊し、初代編集長となる。
 だが、相変わらず、花街で女性遍歴をつづける。
 1912年、父親の勧めで齋藤ヨネと結婚するが、
 なじみの芸者八重次との仲は切れず、
 父親の死去を受けて、わずか半年でヨネと離婚し、
 八重次を入籍するも、1年後に離婚した。
 1916年、慶應義塾大学を退職、三田文学からも退く。
 「文明」を創刊し、「腕くらべ」、「四畳半襖の下張」(発禁)を発表。
 58歳になって、俄かに花街・玉の井通いがはじまる。
 当時の玉の井は、麻布の偏奇館からは、
 電車をいくつも乗り継がなければ、たどりつけなかった。
 路地裏遍歴のなかから名作「墨東綺譚」(1937)が誕生した。


9 墨東春情、新東京タワー

オトーサン、 知人が新東京タワーの誘致に動いていたので、 何年も前から、どこに落ち着くのか興味シンシンでした。 3月27日の「ニュース藪にらみ」に、以下のように書きました。 ・新東京タワー墨田・台東地区に  NHKと在京民放キー局5社で構成する  「新タワー推進プロジェクト」は、  地上デジタル放送用の電波塔・新東京タワーの  建設地を墨田地区とする方針を固めた。  2010年末の完成を予定しており、  600m級の電波塔としては世界一となる。  建設費500億円は土地所有者の東武鉄道などが負担し、  テレビ局側は賃料を支払う。  オトーサン、  「ははーん、あそこか。花見がてら、写真を撮りにいくか」  アサヒビールのウンコビルのそば、業平橋を渡れば、浅草。  浅草名物がまた増えることになります。 東京タワー333mの倍の高さだから、大したものです。 オトーサン、 地図で、場所を確認しました。 「北十間川沿いだな。 東武伊勢崎線の業平駅へ行けば分かるだろう」 ところが、はじめてのことゆえ、迷いに迷いました。 押上駅まで行ってしまい、引き返してきました。 業平駅で、駅員に聞けばよかったのです。 「業平か、いい名前だな」

読者のみなさん、 伊勢物語、あまりにも有名ですよね。 その一節「東下り」、はじまりはこうです。    昔、男ありけり。  その男、身をえうなきものに思ひなして、  「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて行きけり。  もとより友とする人、一人二人して行きけり。  道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。 オトーサン、 高校時代、受験勉強に明け暮れる日々、 通学する新宿〜高田馬場までのわずかな時間に 伊勢物語を読み進みました。  「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、  ・名にし負はば いざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありや なしや  と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり 自分のおぼつかない姿に、 在原業平の想いを重ねあわせたものです。 「自分も、都落ちするかもなぁ」 業平という地名は、言問橋と並んで、由緒のある地名、 往時を偲ぶ貴重な文化遺産といってもいいでしょう。 オトーサン、 「でも、この地名も長いことないかも」 東京では、すべてが早いテンポで変わっていきます。 荷風も、 「墨東綺譚」のなかで、こう嘆いています。  ...東武鉄道会社が盛り場の西南に玉の井駅を設け、  夜も12時まで雷門から6銭で人を載せてくるに及び、  町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。  今まで一番分かりにくかった路地が、一番入りやすくなった代り、  以前目貫といわれた処が、今では外れになったのであるが... 時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。  いわんや人の一生においておや。 オトーサン、 「おお、ここか」 有刺鉄線の隙間から、建設予定地を撮影しました。 荒涼たる草っ原です。 ここに、馬鹿でかいタワーが建つのです。 高さ約610m、特別展望ロビー約450m、展望ロビー約350m。 この高さからなら、眼下に隅田川や浅草寺を見下し、 右手に両国国技館やお台場がみえ、 左手に、新宿、六本木ヒルズ、東京タワー、 そして晴れた日には富士山も見えるでしょう。


オトーサン、
「東武鉄道の社員かな?」
ちょうど、お昼時でした。
となりの古ぼけた低層のビルから
社員らが連れだって出てきました。
リーダ−格のおじさんに聞きました。
「すいません、ここに決まったのですか?」
「ええ、そうです」
「よかったですねぇ」
「ええ」
「これで、東武鉄道もお金持ちになるねぇ」
「は、は、は」
「この辺も、高層マンションが出きて、
六本木ヒルズみたいになるかもねぇ」
お世辞のつもりで言ったのですが、
彼も、紅1点の女子社員も、真面目に受け取りました。
「そうなりますよ。きっと。
現に、隣の曳舟では、大規模開発が進んでいますからね」
「へぇ、そうですか」
「そうなのよ」

オトーサン、
話は前後しますが、ネットで曳舟の再開発について調べてみました。
「おお!ほんとだ」
下町は永遠に消え、荷風の記憶も風化しそうです。
そのうち、東京中、こうなってしまうのでしょうか?
こんな投書もありました。

masaさんにおしえていただいて
このあたりを歩いた時も、この写真を見ても、
これは何か間違っていると、直感的に思わずにはいられませんでした。
これまであったもの、
長い間をかけて積み重ねられてきたもの、
つまりみんなで共有する歴史やひとりひとりの記憶、
歩きなれたみち、
そういうものが、一挙に取り去られてしまうということは、
戦争や地震のような災害の仕業、
さもなければ一人の死がもたらすものでした。
もし、この状態が肯定されるのであれば、
地震も戦争の破壊もいいことじゃないかと考えられることになるだろうし、
さもなければ逆に、再開発とは災害のひとつということになるでしょう。
玉井一匡 : 2006年03月15日  

オトーサン、
「先へ進もう」
墨田川にかかる言問橋を渡りました。
川べりの隅田公園は花見客で超満員なので、
空いている路地を走って、歩道専用の桜橋に出ました。
この欄干から、1枚写真を撮りました。
「おう、花見の船がたくさん出ているなぁ」

ちょうど、そのとき、橋の真ん中で、 すみだ童謡を歌う会が、桜色のパンフレットを配って、 歌唱への参加を呼びかけていました。 「新東京タワーも、ここ墨田に決まりました。  今日はそれを記念して、みなさまとご一緒に童謡を歌いましょう。  それでは、いきますよ」 ○花  ♪春のうららの隅田川   のぼりくだりの船人が   櫂のしずくも花と散る   ながめを何にたとうべき    (作詞:武島羽衣 作曲:滝廉太郎) オトーサン、 ちょっとだけつきあって、先を急ぎました。 墨堤通りを北上し、白髭橋に向かうのです。 工場や首都高向島出入口があって味気ない通リですが、 古い料亭などの穴場があるのです。 「お、すごい行列だ」 長命寺の桜餅を買い求める客が、 「店頭販売は2時から」と貼り札してあるのに、 1時間も前から並んでいるのです。 「ちょっといい気になっとらんか?」 新東京タワーで観光客が増えときの このお店の増長ぶりが今から心配になりました。 「こんなところで買わなくたって、もっといい店があるのに」 勿論通過いたしました。 言問団子も、客が溢れていました。 その脇の草野球場の入り口には、 王選手(現監督)の碑があって、少年の頃練習していたとか。 オトーサン、 「この店だよ、ここのが旨いんだよ」 先日、偶然発見して、 試しに、餡なしと餡入りの草餅を買って帰りました。 「この餡なし、いいだろう。  きな粉と白みつをかけて食べるんだ」 「おいしそうね」 次女は、きな粉が好きなのです。 「あたしは、餡入りのほうがいいわ。  餡が甘ったるくないし。  このよもぎ、草の匂いがするわ」 奥方は、すっかり餡入り草餅のフアンになってしまいました。 ときどき、買ってきてと頼まれるようになりました。 読者のみなさん、 じまん草もち、地図の紫印の場所です。 近くにクルマで来られたら、 白髭橋たもとのリバーサイド隅田に 巨大な駐車場に駐車して、散策しては? 向島百花園で草餅を食すもよし、 永井荷風の「春情鳩の街」の舞台となった 鳩の街を散策するもよし。 昔の花街の佇まいを味わえます。

○志満ん草餅  草餅、柏餅、みたらし団子、各125円  住所:墨田区堤通1-5-9  電話:03-3611-6831 営業時間:1000 - 1700 定休日:水曜日


10 墨東春情、玉の井、その1

オトーサン、 「さあ、玉の井へ行こう」 でも、玉の井はもうありません。 荷風の時代は、とうの昔に過ぎ去ったのです。 私娼窟の汚名を恥じて、いまは東向島。 「えーと、明治通りを行けばいいんだな」 向島百花園までは、通ったことがあります。 その先は、未知の体験となります。 「あれ、これって、水戸街道、6号線じゃないか」 ここは何度も走ったことがあります。 「そうなんだ」 6号のすぐ先に東武伊勢崎線の高架が、 浅草から業平、曳舟、そして東向島と延びてきていました。 「へえ、こんなところに東武鉄道博物館?」 高架下にひっそりと位置しているので、 一杯飲み屋と間違えかねません。

オトーサン、 この後、迷いに迷いました。 荷風の「墨東綺譚」の迷路ワールドに迷いこんだみたいです。 細い路地は通りぬけられたり、行きどまりになっていたり。 植木鉢を小奇麗に並べてある家もあれば、 索漠とした廃業寸前の家内工場もある。 荷風も、はじめて玉の井にきたときは、 迷いに迷って、行き当たったそうですが... 「墨東綺譚」には、こんな一節があります。

六月末の或夕方である。 梅雨はまだ明けてはいないが、 朝から好く晴れた空は、日の長いころの事で、 夕飯をすましても、まだたそがれようともしない。 わたくしは箸を擱くと共にすぐさま門を出て、 遠く千住なり亀戸なり、足の向く方へ行ってみるつもりで、 一先電車で雷門まで往くと、 丁度折好く来合わせたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。 吾妻橋をわたり、広い道を左に折れて源森橋をわたり、 真直に秋葉神社の前を過ぎて、 また姑く行くと車は線路の踏切でとまった。 踏切の両側には柵を前にして円タクや自転車が幾輌となく、 貨物列車のゆるゆる通り過ぎるのを待っていたが、 歩く人は案外少なく、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。 降りてみると、白髭橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交差している。 オトーサン、 ついに、自力探索をあきらめて、 通りかかった老爺に道を聞きました。 「すいません、いろは通りはどこにありますか?」 「ああ、その先、線路沿いに行くといい」 さびれた商店街に出ました。 「ここか」 街灯に標識が出ていて、いろは通リ。 その文字の上に、微かに玉の井とあります。

いろは通リを自転車で左右をみながら走りました。 「わからんなぁ」 しょうがないので、また自転車をとめて訊くことに。 今度は、元気そうなおばさん。 「すいません。啓運閣ってどこにありますか?」 「啓運閣?知らないね」 「玉の井の投げ込み寺で有名らしいけど」 「何を投げ込むの?」 「何でも、そばに大きな八百屋があるとか」 「ああ、あそこね、そういえば、お寺もあったわ。  じゃ、あっちよ」 「あっちって、どのくらい戻ればいいんですか?」 「行けば分かるわよ」 なるほど、歩いて行ったら分かりました。 スーパーのセイフーがあって、 その店先に露天風の八百屋があって、 その背後にわずかにお寺の屋根がのぞいています。

オトーサン、 並んでいる野菜の間をぬけて、お寺へ。 「これじゃ、地元のひとも知らんはずだ」 手がかりは、日蓮宗・啓運閣という小さな石碑の文字のみ。 お寺というより個人経営のマンショ風です。 でも、手書きの立て札がありました。 「これですべてか」 残念ですが、収穫もありました。 荷風手書きの地図があるのです。 あの迷路と、その道端の家々を1軒1軒記録しているのです。 ここ玉の井に通いつめなければ、できない地図です。

オトーサン、 「そうか、この地図を描き終えて、 ようやく小説の構想が形をなしてきたんだ」 やはり丹念な取材というのは、大事ですね。 その場に居合わせるような臨場感がでてきます。 「墨東綺譚」の、もっとも名高い一節が生まれたのです。 わたくしは多年の習慣で、 傘を持たずに門を出ることは滅多にない。 いくら晴れていても入梅中のことなので、 その日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、 さして驚きもせず、 静に傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、 いきなり後方から、 「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、 傘の下に真白な首を突込んだ女がある。 油の匂で結ったばかりと知られる 大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。 わたくしは今方通りがかりに 硝子戸を開け放した女髪結の店のあった事を思い出した。 吹き荒れる風と雨とに、 結立ての髷にかけた銀糸の乱れるのが、 いたいたしく見えたので、 わたくしは傘をさし出して、 「おれは洋服だからかまわない。」 実は店つづきの明い燈火に、 さすがのわたくしも相合傘には少しく恐縮したのである。 「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」と女は傘の柄につかまり、 片手に浴衣の裾を思うさままくり上げた。 オトーサン、 「主人公は、小説家大江匡だったな」 彼は、玉の井で、こうして、雪という売春婦と知り合うのです。 そして、足繁く、雪のところへ通うことになります。 「この出会いのシーン、鮮やかだなぁ」 でも、女性との出会いは、 女性遍歴を重ねた荷風にとっては、 勿論、はじめてのはずはありません。 数え切れないといってもいいでしょう。 若き荷風の「ふらんす物語」の一節を読んでみましょうか。 もうガス燈がついているけれど、昼間見ると、 夜半には、放蕩の馬車で埋まってしまうこの歓楽の大路も、 一条の汚い場末の街道に過ぎない。(略) 霧は小止みになっている。 それでも近所の古片れ屋の前には傘もささぬ女供が大勢集っている。 貞吉は、食事すべき料理屋の問題を解決しようと、 先ずカフェーに這入った。(略) 貞吉は、フランス人が食欲をつけるとかいって、 きまって食事前に飲むアペリチェフの一杯。 その勘定にと給仕人を呼んで5拾フランの紙幣を崩させた。 すると、隣の室の帳場で内儀さんらしい声が聞こえていながら、 いやに暇取っている。 カフェーの中庭を越えて、裏長屋に通じているのか。 頻と帽子の冠り方を気にしながら出てきた1人の女が、 待ち遠しそうに剰銭を待っている貞吉の顔を見ると、 にっこりしてボンソワール(今晩は)といいながら行き過ぎた。 貞吉は黙っている。 女は鼻唄を歌いながら表の戸口まで歩いたが、 「チョッ。まだ降っているんだ。」 思案するらしく佇んで往来を見ている。 やっと剰銭を受け取った貞吉は、 給仕人がメルシー、モッシュー(有難うござい)の声を後ろに外へ出る。 その場の機会が、何という事なしに、佇んでいる女をば、 開いた傘の中へ入れてやることになった。 読者のみなさん、 お気づきでしょうか? 片や玉の井、片やパリのピガール、 場所こそ違いますが、いずれも雨の花街。 傘のなかへ娼婦が入ってくる、相合傘のシーン。 それがきっかけになって、物語が動き出すのです。


11 墨東春情、玉の井、その2

貞吉は、この後、この娼婦と料理店に行き、 その後、一夜をともにし、肌を許しあう仲になります。 彼女、ロザネットは、一緒に新世帯を持ちたいといい、 200法(フラン)で切りまわしてみせると言い切り、 貞吉も、それに同意するのですが... 最初の1カ月は、万事が物珍しく、愉快なばかりか、 ロザネットは約束通りの金高で滞りなく遣って見せた。 2カ月目に、毎日晩餐の仕度をしに来る日雇いの老婆に対する 賃銭だけが、支払い兼ねるという。 ところが、3カ月になってぼっかり室代として、70法の不足を訴えた。 この追加の出費をめぐって、 2人の仲は険悪になっていくのです。 並べた枕から女の寝顔を眺めると、 髪を解いた生際の抜上り方が、おぞけ立つほど厭わしく、 金を入れた歯の間の汚目が、不潔に見え、 よくこんな女の唇に接吻が出来た。 油ぎった小鼻の形が不快でならぬ。 目の縁にはもう皴が寄っている。 白粉の剥げた頬の血色の悪い事、身体に何か病毒でもありはせまいか。 汗を交え、呼吸を接するのは危険なような気さえ起こった。 そして、有名な文章が続きます。 フェミニストらが女性軽蔑だとして、 荷風を蛇蝎のごとく嫌う根拠となった文章です。 それに連れて、感じるともなく深く感じて来るのは、 結婚に対する不快と反抗の念である。 結婚とは、最初長くて3カ月の感興を生命に、 一生涯の歓楽を犠牲にするものだ。 毎日、毎夜、一生涯を同じ女の、次第に冷えて行く 同じ肉、同じ動作、同じ愛情、同じ衝突、同じ講和、同じ波瀾、 一つとして新しい範囲に突飛することはない。 良人たるべき単調に堪え得る人は、驚くべき意力の人だ。 でも、荷風は、長期にわたって女を愛したことのない男かというと、 まったく、そうではないのです。 このフランスに来るまえ、 アメリカのカラマズ大学を卒業後、公使館に就職し、 そこ華盛頓(ワシントン)で、ひとりの娼婦と知り合います。 ...アーマ。 それは華盛頓郵政局の裏手、 Cストリートに住んでいた醜業婦だ。 最初は洋行したての誰もがする通り、 無遠慮に面白可笑しく英語会話の練習が出来る、 趣味と放蕩と勉学との不思議な調和を喜んで、 無闇に通った。 珍しいのが第一で、事実はそれほどに惚れてはいないが、 芝居や小説で見る通りの真似をして やたらに愛情のデクラメーションをやった。 いい加減やり尽くして、大分飽きて来た時分に、 それをば最初から真に受けていたアーマは、 次第に足の遠のき掛かった貞吉に追い縋った。 貞吉は少しく当惑した。 行末が、空恐ろしく思われた。 それでも、腐れ縁が続いていたのですが... 貞吉は、三等書記官に昇進し、ロンドン転勤を命じられるのです。 それを知ったアーマは、半狂乱になります。 いよいよ赴任が迫った或る日、貞吉はアーマのもとを訪れます。 きっと寝床の中に泣いているだろうと思ったアーマは、 午後の寝乱れた髪のままながら、 長椅子の上に起きていて、 半分引き寄せた窓掛の間から外を見ていた。 貞吉の姿を見ると、静に立って手を取り、 「別にお変わりもなくって?」と、 妻君が、毎朝夫にするような、軽い接吻の礼をなし、 そのまま、長椅子の上へ並んで座らせた。 この後、クライマツクスが訪れます。 ...死ぬの何のと、あれは皆私の我儘でした。 後生ですから、私にかまわずにイギリスへ行らしッて下さい。 初めてお目にかかってから満2年も嬉しい月日を送ったんですもの、 この上、何の彼のと我儘ばかりいっちゃ神様にも済みません。 ほんとに構わず行って下さい。 ね、あなた。 ですけれど、私の事だけはどうか忘れないでいて下さい。 無駄使いせずに私はお金を沢山ためて、 きっとロンドンまで逢いに行きます。 だから、あなたも、浮気なんぞしないで待っていて下さい。 2人一緒に、そうしたら、あなたの夏休みに、 スイスの温泉にでも行こうじゃありませんか。 ね、一生忘れないという誓言だけ立てて下さい。 手紙を船の出る度々に出す約束だけして下さい。 それもう、私は心から満足です。 アブソリュートリーに幸福です。」 片手で心臓のあたりを打ち、声に力を入れていい切った。 貞吉は覚えずほろりと涙を流した。 拝むようにその足元に跪いた。 オトーサン、 こうして貞吉は、売春婦のヒモに転落せずにすみます。 アーマとの記憶も、大西洋を渡り、 ロンドンに行き、そしてパリ転勤が続くなかで、 次第に薄れていくのですが、 ある日、アーマから手紙が届くのです。 かつて自分を恋した華盛頓のアーマは、 運河工事で大勢の人が入り込むパナマの新開地へ出稼ぎに渡ったが、 1カ月もたたぬう中に風土病に冒され、瀕死の砌りに、 最後の祝福を昔の恋人に送るとの事。 筆取る苦しさもさぞと思われる読みにくい文字さえ、 わずか十行に足りない。 貞吉は少時茫然として、何事も考える事が出来なかった 貞吉は、アーマが自分に逢いたいがために 出稼ぎに行き、そこで病んだことを知るのです。 アーマが生涯ただひとりの ”血の煮えくりかえる熱烈な恋愛”相手になるだろうと 異郷・巴里の街の一室で予感するのです。 アーマは今頃はもう死んでいるだろう。 熱帯の土の下に、あの美しい身体はもう腐って虫が湧いているだろう。 美しい身体 実に暖かであった、肥っていた、滑であった。 満三年間毎夜自分の肉が親しく触れて、 感じたその身体は、もう千万里のかなたに朽ち腐されてしまった。 貞吉は覚えず身震えするほどの恐怖に打たれたが、 階段を下り尽くして入口の戸を押すと、 楽土の雲を破った如く、夏の夜の、燈火涼しい巴里の巷は、 慄然として目の前に拡がる。 貞吉は狂する如く辻馬車を呼び、出来るだけ早く馳けろと命じた。


12 墨東春情、玉の井、その3

オトーサン、 「墨東綺譚」を読むと、 つくづく若い頃の恋の重大さを思わざるをえません。 「アーマとの恋が30年経っても、尾を引いているんだ」 相合傘がきっかけで、 お雪のところに通うようになった貞吉は、 お雪が世帯をもちたがる気配を察して、 身を遠ざけようと思いはじめるのです。 その夜、お雪が窓口で言った言葉から、 わたくしの切ない心持ちはますます切なくなった。 今はこれを避けるためには、 重ねてその顔を見ないに越したことはない。 まだ、今の中ならば、それほど深い悲しみを お雪の胸に与えずとも済むであろう。 オトーサン、 「未練か...」 そのまま消えてしまえばいいのに、 肌を接した女なのだから、 せめて一言、それとなく別れをほのめかしたい。 そう思うがゆえに、貞吉は常夏の花一鉢を買って、 お雪のもとへ訪れてしまったりするのです。 そして、もう行くまいと決心するものの、 数日たつと、身体のほうが勝手に玉の井へ向かってしまうのです。 お雪は窓から立ち、茶の間へ来て煙草に火をつけながら、 思い出したように、 「あなた、あした早く来てくれない。」といった。 「早くって、夕方か。」 「もっと早くさ、あしたは火曜日だから診察日なんだよ。 十一時にしまうから、一緒に浅草に行かない。 四時頃までに帰って来ればいいんだから。」 私は、行ってもいいと思った。 それとなく別盃を酌むために行きたい気はしたが、 新聞記者と文学者に見られてまたもや筆誅させられる事を恐れもするので... 結局、お雪に買い物代として、お金を手渡します。 「あなた、ほんと。」 「気味が悪いのか。心配するなよ。」 わたくしは、お雪が意外なよろこびに眼を見張ったその顔を、 永く忘れないようにじっと見詰めながら、 紙入れのなかの紙幣を出して茶ぶ台の上に置いた。

・朝日新聞連載中の「墨東綺譚」の挿画(木村荘八) 貞吉は、手切れ金のつもりで多めに置き、 気持ちの上では、一応、すっきりはしたものの、 やはり、最後に一目見てみたいと 何日か後に、玉の井に向かってしまいます。 路地に入る前、顔をかくすため、鳥打帽を買い、 素見客が五六人来合わすのを待って、 その人たちの陰に姿をかくし、 溝のこなたからお雪の家を覗いてみると、 お雪は新形の髷を元のつぶしに結い直し、 いつものように窓に座っていた。 ...わたくしは人通りに交じって別の路地へ曲がった。 「未練たらしいなぁ」 思わず、外野席で慨嘆してしまうほど、 貞吉の、お雪への未練には強いものがありました。 以下は、最後の場面です。 わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、 旅行をするからとか何とか言って別れよう。 その方が鼬の道を切ったような事をするよりは、 どうせ行かないものなら、 お雪のほうでも後々の心持がわるくないであろう。 出来ることなら、真の事情を打ち開けてしまいたい。 わたくしは散歩したいにもその処がない。 尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。 風流弦歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、 年寄が茶を啜ってむかしを語る処ではない。 わたくしは図ずもこのラビラントの一隅において 浮世半日の閑を愉む事を知った。 そのつもりで邪魔でもあろうけれど 折々遊びに来る時は快く上げてくれと、 晩蒔ながら、わかるように説明したい.......。 わたくしは再び路地へ入ってお雪の家の窓に立ち寄った。


13 墨東春情、玉の井、その4

オトーサン、 啓運閣付近の乱雑を前に立ちつくします。 「貞吉、お雪か...」 お雪、ロザネット、アーマ、 彼女らの姿が走馬灯のように浮かんでは消えてゆきました。 「セイフーか...」 ン十年前の同窓会の賑わいが浮かんできました。 「へえ、そうなの?」 同級生が、スーパー、セイフーの2代目なのを知ったのです。 卒業後、ダイエーに売却したことを聞きました。 ダイエーの野望、その後の転げる岩のような運命。 産業再生機構の下での懸命の再生努力。 「八百屋お七か...」 セイフーの前で、 商魂たくましくセイフーの客を奪っている露天商。 八百七、セイフー、啓運閣、荷風の描いたラビラントの地図。 この一隅は、まさに、玉の井名物のラビラントそのもの。 八百屋のおやじによれば、 3月10日の大空襲にも、この辺りは奇跡的に焼け残ったとか。 オトーサン、 「でも、荷風の手がかりは、ここだけか。 ...帰るとするか」 貞吉のように立ち去り難い未練があります。 せめてお雪に似た女にでも逢えないだろうか? 「銭湯にでも入ってから帰るか」 汗も流したいし、 銭湯なら女性の出入りもあるでしょう。 その中には、お雪の面影を残した女もいるかも。 奥壁に、レトロなペンキ絵やモザイクタイル絵があって 当時を偲ぶことができるかも。 「すいません、中島湯はどこにありますか?」 探しても無益な迷宮と分かったので、 自転車で通りかかった色黒の主婦に聞きました。 「ナカジマゆ?ワカラナイ」 アクセントからすると、東南アジア系でしょう。 背広の男性2人連れに聞きました。 「私たち、ここの人間でないもので」 「ああ、コンビニでも、つくろうというの?」 「まあ...」 ようやく、お年寄りのおばあちゃんを発見。 「ああ、中島湯かね。  その先の角を右へ曲がったところだよ」 「ありがとう!」 「でもな、やってないよ」 「今日は、定休日?」 「いや、お風呂屋さんをやめたみたいだよ」 「中島湯が?」 「そう」 墨東綺譚には、こんな一節もあるのです。 この道の片側に並んだ商店の後一帯の路地は 所謂第一部と名付けられたラビラントで。 お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、 突然第一部のはずれの道端に現れて、 中島湯という暖簾を下げた洗湯の前を流れ、 許可地外の真暗な裏長屋の間に行先を没している。 わたくしはむかし北廓を取り巻いていた鉄漿溝より一層不潔に見える この溝も、寺島町がまだ田園であった頃には、 水草に蜻蛉のとまっていたような清い小流であったのであろうと、 老人にも似合わない感傷的な心持にならざるを得なかった。 オトーサン、 「ここか」 凝然として立ち尽くしました。 何の変哲もないマンションがそこに。 あとで、ネットで中島湯の画像を探し、対比してみました。

・出典:墨東綺譚から旧玉の井を歩く
 http://www12.ocn.ne.jp/~kyubun/tamanoi.html

「何だ。ネットには地図も出ているんだ」
あれほど苦労した啓運閣や中島湯の場所が出ています。
「行く前に、十分下調べをしなくては」
いつも、そう思っていますが、なかなか思うようにはいきません。

オトーサン、 「ほかの銭湯でもいいや」 銭湯なら煙突が見えてもいいはず。 昔は、煙突で見当がついたもの、 でも、いまは、そんなもので探すひとは皆無でしょう。 古い木造家屋に「たい焼き」の小さな看板を発見しました。 「買うか」 たい焼きには、目がないひとです。 麻布十番に行くと、つい買ってしまうほう。 でも、ここの置き屋風の飾り窓に近寄っても、 まったくひとの気配がありません。 「すいませーん」 「はーい」 「お雪か?ちがう!」 暗がりから、顔をのぞかせたのは、 眼鏡をかけた細面の女。 年のほどは、30前半か。 お雪ではありませんが、 ここ東向島で出逢った女性のなかでは、いちばんの美人。 たい焼きを1ケ買ったあと聞いてみました。 「この辺に、お風呂屋さんないですか?」 「長生湯さんがあるわよ」 「長生きする湯ですか?」 「そうよ、第二長生湯」 飾り窓から、クビを突き出すようにして、 「そういえば、最近、煙突が見えなくなったね」 「どちらの方角ですか?」 「あっち」 「あっち?」 「案内してあげたいけど、年寄りが病気で目が離せないのよ、  ゴメンネ」 「ありがとう。じゃ、お大事にね」 「あ、うれしいわ、そんなこと言ってもらって」 オトーサン、 ようやく、第二長生湯を探し当てて、写真を撮りました。 でも、武士の情け、公開はやめましょう。 これも、後でネットで調べたものですが、 ここ玉の井周辺でも、 銭湯がどんどん廃業に追いこまれているようです。 さっきの男性2人連れが大活躍しているのでしょう。 ○東向島周辺の公衆浴場  松の湯 東向島1-10-18  良の湯 東向島2-15-6  寺島浴場 東向島6-34-18  狸湯 墨田2-21-8  三松湯 墨田4-9-12 (廃業)  第二長生湯 墨田4-36-4  美人湯 東向島6-4-10  花の湯 東向島1-30-8


14 墨東春情、鐘ケ淵

オトーサン、 「あれっ、鐘ケ淵駅に出てしまった」 下町の駅の間の距離は、自転車だとあっという間です。 ここは、前に柏に帰るとき、6号線に出るために、 何度か横断したことがあります。 今日は、鐘ケ淵通りの商店街を逆走します。 この道は、トラックなどが多いので、気を遣います。 「鐘ケ淵、由緒のある地名かも」 調べたら、綾瀬川と荒川、隅田川が合流する地点。

洪水で亀戸普門院の釣鐘が沈んだことで、 その鐘ケ淵と名づけられたとか。 「沈むとは縁起が悪いなぁ」 でも、この辺りの昔の景色はステキですねえ。

オトーサン、 あっという間に、突き当たって、 墨田川沿いに走っている堤通りへ。 「景色悪いなぁ」 隅田川沿いに壁のようにマンションが続いています。 この都営白髭東アパート、 1kmにわたって、線上に連なっているのです。 関東大震災や東京大空襲で苦しんだ地域ということで、 火事をこの防火壁で食い止めるためとか。 それにしても、異様な風景です。

オトーサン、 「へぇ、そうなんだ」 これも後でネットで調べていて発見したのですが、 この都営白髭東アパート、あのカネボウの工場跡地だったのです。 というか、ここがカネボウの発祥地なのでした。 新旧のマークを比べてみましょう。 もっとも、この旧鐘紡マークは、明治27年に商標登録され、 現在でも、「糸」の商標として使われているとか。

「...鐘紡か」 トヨタ50年史を編集したとき、 文面から削除した秘話がありました。 自動織機の発明者・豊田佐吉が息子の喜一郎に、 「わしは織機をつくってお国に尽くした。お前は自動車をつくれ」、 そう言ったことは、周知の事実ですが、 その背後には、紡績をやっていては、 当時日本一の会社だった鐘紡に追いつけない、 いっそ自動車に打って出て、日本一の会社になってやろう、 そういう強い想いがあったのです。 読者のみなさん、 カネボウの歩みをふりかえってみましょうか。 ○カネボウの歩み 1887 東京綿商社として鐘ヶ淵に創立 1889 紡績工場操業開始 1893 社名を鐘淵紡績に改称 1934 毛紡績、化繊、麻紡績業に進出 1936 鐘紡絹石鹸発売 1945 戦災により事業場の大半を失う 1960「総合美宣言」 1961 化粧品、鐘淵化学工業から復帰 1963 ナイロン事業進出 1966 薬品事業へ進出 1967 銀座にカネボウ化粧品販売設立 1974 カネボウ薬品設立 1987 創立百周年 1999 医薬品新薬事業を日本オルガノン社に営業譲渡 化成品事業をアイオンに営業譲渡 2001 カネボウ株式会社に社名変更。 2003 アクリル事業を撤収 2004 化粧品事業を営業譲渡。 2006 産業再生機構による支援を終了し、 新スポンサーとしてアドバンテッジ、    MKSパートナーズ、ユニゾン・キャピタルが決定 出典:カネボウ    http://www.kanebo.co.jp/company/profile.html オトーサン、 「田舎の三流企業が、いまや日本一。 対してカネボウは、倒産し、再建中とは...」 世のなかの移り変わりの激しさを感じます。 「へぇ、これが、昔の工場なんだ」 何でも、新撰東京名所図会に掲載された 鐘ケ淵工場の絵図だそうです。

「お雪さんは、鐘紡絹石鹸を使ったかなぁ? 絹石鹸を使っていれば、病気にならずにすんだかも」 「墨東綺譚」が連載されたのは、昭和12年(1937)。 鐘ケ淵工場の操業開始は、1889年、 鐘紡絹石鹸の発売は、1936年、 時期的には符合しますが、どうでしょう。 次に訪れたときは、そんなことを考えながら、 堤通りを走ってみましょう。 以下の地図でご覧のように、 都営白髭東アパート16棟が連なっていますが、 往時を偲びながら走れば、味気なさも薄れるかも。

読者のみなさん、 荷風は、この工場のことを知っていたようです。 小説「すみだ川」の第5版之序に、 次のような一文がありました。 今年花また開くに際し都下の或る新聞紙は 墨上の桜樹漸く枯死するもの多きを説く。 ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。 さらばやがてはまた幾年の後に及んで、 いそがしき世は製造所の煙筒叢立つ都市の一隅に当たって かつては時鳥鳴き葦の葉ささやき白魚閃き桜花雪と散りたる 美しき流れのあった事をも忘れ果ててしまう時、 せめてはわが小さきこの著作をして、 傷ましき時代が産みたる薄幸の詩人が いにしえの名所を弔う最後の中の最後の声たらしめよ。


15 墨東春情、浄閑寺

オトーサン、 白髭橋を渡りました。 「もう墨東じゃないけどな」 荷風ゆかりのお寺、三ノ輪の浄閑寺へ向かうのです。 橋を渡ってすぐ、右手に東京ガスのガスタンク。 「爆発したら、ひとたまりもないなぁ」 明治通りを突っ走りました。 左手は、あの山谷なのです。 子供の頃から、物騒な場所と刷り込まれています。 桜見物で賑わう墨田川の堤でしたが、 この辺だけ、人気もなく、青いビニールテントが並んでいました。 勿論、ホームレスの住処です。 ○山谷  日雇労働者が集まっているスラム街である。  簡易宿泊施設が集中する泪橋交差点を中心とした  台東区清川1・2丁目、日本堤1・2丁目、東浅草二丁目、  橋場1・2丁目、荒川区南千住1,2,3,5,7丁目を指す。  労働条件は悪く、暴力団の食い物にされている。  過激派の潜伏場所で、教会などと共同して炊き出しを行っている。  だが、近年、簡易宿泊施設は、外国人の格安の宿として利用されている。  西隣には、ソープランド吉原がある。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「もう三ノ輪だ、自転車は早いなぁ」 時計をみると、午後2時35分。 白髭橋を渡ってから2km強、15分ほどで到着しました。 「さて、どこにあるんだ?」 三ノ輪は何度も来ているので、 ひとに道を聞かないつもりでしたが、ついにギブアップ。 大きなお寺だから、屋根ぐらい見えるだろう、 そう思いこんでいましたが、とんでもない。 教えてもらった方向は、4号線(日光街道)そいのマンション。 その裏のじめじめした場所に、浄閑寺がありました。 「がらーんとしているなぁ」

「あれ、何だ?」 立て札を覗き込んでいるひとに近づきました。 荒川区教育委員会が作成した案内版でした。 ○投込寺(浄閑寺) 浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。 安政二年(1855年)の大地震の際、たくさんの 新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから 「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の 川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ 新吉原総霊塔が建立された。 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、 寛保三年(1743年)から大正十五年(1926年)にいたる。 十冊の過去帳が現存する。 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、 作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。 「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、 このような縁でここに建てられたものである。 オトーサン、 そのカメラをもった若い男性に従って、 お墓の間の狭い道をぬけて、お寺の裏手へ 「これが遊女の慰霊塔か」

地元のおじいさんが陣取ってて、 誰彼となく、ひとをみつけると講釈していました。 「どのくらいの遊女が埋葬されているんですか?」 「埋葬?冗談じゃない、  女郎は着物をはぎ取って、犬や猫の死体のように  穴に放り込んだんだ」 「すさまじいですね。何人くらい?」 「1万人とも、2万人とも言われている」 「何でも、遊女の平均寿命は22歳だったそうですね」 若いひとがつけ加えました。 「詳しいですね、お若いのに」 「投げ込み寺の過去帳や人骨から測定したようですよ」 おじいさん、 「....」 自分より詳しいひとがいたので、気に食わないご様子。 読者のみなさん、 荷風の「断腸亭日乗」の一文をお読み下さい。 「昭和12年(1937) 六月廿二日。快晴。風涼し。 朝七時桜を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。 起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。 日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに、 大関横町といふバス停のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。 香烟脉ゝたり。 掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ、 鉄道線路下の道路に出るに、 大谷石の塀をめぐらしたる寺即これなり。 門を見るに庇の下雨風に洗われざるあたるに朱塗りの色の残りたるに、 三十余年昔の記憶は忽ち呼返されたり。 土手を下り小流に沿ひて歩みしむかし この寺の門は赤く塗られたるなり。 今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。 セメントの建物なり。 オトーサン、 「この辺、川なんかないよなぁ」 交通量の激しい道路が交差し、マンションが林立しています。 都電の駅名に「三ノ輪橋」とあるのも、不可解です。 でも、これも後に判明したのですが、 この浄閑寺に嫁いだ方の記録がありました。 荷風が小流と書いたのは、 道灌山から日暮里を廻って来た音無川で、 寺のすぐ横を通る日光街道で交叉した地点が、 市電三輪橋終点で、今は「三輪橋」と刻んだ石柱一本が立っている。 この音無川は昭和四年に暗渠になったが、 それまでは浄閑寺横から曲がって、 吉原土手の裾を縫いつつ山谷堀に入ったのだった。 昔、遊客を乗せた猪牙舟が通ったとは思えぬ二間幅位の浅い溝川だったが、 荷風が始めて見た頃、清流であったらしいことは、 明治二十四年病没した浄閑寺二十二代戸松恭念の妻で、 遺家族六人を扶養さすべく岩野真雄の母となったおてい婆さまが、 毎夜昔話を嫁である私に語った中で推測できた。 ・出典:岩野喜久代「三輪浄閑寺」  http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/yomoyama/jyoukanji.html では、再び荷風の「断腸亭日乗」の一文に戻りましょう。 六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、 帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、 今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。 近隣のさまは変わりたれど 寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。 余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、 この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。 石の高さ五尺を越ゆるべからず、 名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。 オトーサン、 「あーぁ、こんなに立派な詩碑を建てちゃって」 例のおじいさん、 「これは荷風さんのお墓じゃないんだ。  お墓は雑司が谷霊園にある」 「そうなんですか」 ちょうどお参りにきた若い女性が感心しています。 「そうなんじゃ、荷風さん、怒っておられるじゃろうて」

○永井荷風。その3 戦時中は、日記「斷腸亭日乘」を書き続けた。  東京大空襲で偏奇館の焼亡後は、都内を転々とした後、  岡山に疎開して敗戦をむかえる。  1946年、千葉県市川市に移り、浅草のストリップ劇場に通いはじめる。  1952年文化勲章受賞。53年芸術院会員。  1959年3月、浅草を散歩中に転倒し、自宅で吐血して死亡。 享年79歳。 オトーサン、 「そうだったんだ」 これも、岩野喜久代さんの記録ですが、 次のように、その経緯が詳しく書かれています。 剥落の美を追慕する永井荷風は、浄閑寺を好んで、 昭和十二年六月廿二日の日記に、 「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、 この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。 石の高さ五尺を越ゆるべからず、 名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。」と書き残し、 その後昭和三十年七月、毎日新聞社刊「荷風思出草」のなかで、 親友相磯凌霜氏との対話では、浄閑寺に葬られる時は、 遺骸を差荷の駕籠に入れ、なるべく雨のショボ降る夕暮れ時、 お伴は相磯氏只一人が冷飯草履をはき、尻っぱり姿で、 ボンノクボまではねを上げて、 トボトボ三輪の浄閑寺に送り込むという話である。 しかし、晩年が近づくと、墓はどこでもいいとなり、 結局、遺族は文化勲章受章者を葬るにふさわしい礼儀をつくして、 雑司ヶ谷の父君の傍らに葬った。 文壇の諸氏が、荷風の心情を汲んで、浄閑寺に詩碑を建てたのは、 昭和三十八年五月で、設計者は谷口吉郎博士であった。 投込み寺が一躍文学寺になって、以後、東京名所の一つとなり、 毎年四月三十日荷風忌の文学講演には七、八十人が欠けたことがなく、 また文学散歩の人々の往訪絶え間ない寺となったが、 私は密かにこの詩碑は俗に言う「ひょうたんから駒が出た」碑だと思い... オトーサン、 「世の中、思い通りに行かんものだなぁ」 死んで花見が咲くものか。 生きてるうちが花なのよ。 そういう言葉が身にしみました。 身も心も、渇きを覚えて、ジョイフル三ノ輪へ逃れました。 商店街の入口にある喫茶店へ。 ホットコーヒーを頼みました。 この「Coffee House あめみや」、繁盛店で、 ひっきりなしに、客が出入りしていました。  おかみさんを冷やかしました。 「へぇ、大型液晶テレビがある、儲かっているんだ」 「....」 荷風が生きていたら、 地上デジタル放送の新東京タワーからの電波を受信する 液晶ハイビジョンTVに買い替えるだろうか? それとも、アナログに固執するかもしれないなぁ。 いやいや、そんなはずはない。 「テレビか?あんな軽薄なもの」 そう言い放って、テレビも持たなかったにちがいありません。 そして、墨東の荒廃ぶりを目のあたりにして、 さぞかし嘆くにちがいありません。 「嗚呼、品性下劣な同胞よ。 西洋の技術に媚び、古き清き日本人の心やいずこ?」 そんな詮なきことを考えました。


16 桜花満開、千鳥ケ淵・靖国神社

オトーサン、 「いい天気だ、桜が満開だ」 荷風ゆかりの地を駆けぬけてみましょう。 今日のお花見コースは、17km。 いずれも、都心の花の名所です。 ・秋葉原駅 - 千鳥ケ淵・靖国神社 - 市ケ谷 - 小石川後楽園 - 伝通院 - 播磨坂 - 小石川植物園 - 六義園 - 日暮里駅 

オトーサン、 10時30分に、つくばエキスプレスの秋葉原駅下車。 「この駅は、いかんなぁ」 大深度地下駅なので、自転車を担いで上る時間の長いこと。 地上に出た地点で、バテバテでした。 須田町、神保町と古本屋街をぬけて、九段下へ。 「すごい人出だなぁ」 国技館の側の坂道を敬遠して、 靖国神社側の坂道を漕ぎ上りました。 さほどきつい坂ではないのですが、度々ストップ。 花見客は、足取りが不安定です。 途中であきらめて、押して上りました。 千鳥ケ淵へ。 自転車が邪魔になったので、歩道の柵に結えました。 警官が叫んでいます。 「立ち止まらないで、お進みください!」 こんな状況下では、花見を樂しむ気はしないので、 早々に立ち去ることに。 中国人カメラマンの横で撮ってみました。 「やはり、プロはいい構図で撮るなぁ」 オトーサンにしては、いい写真が撮れました。

11時を回りました。 「腹減ったな、どこで食うか?」 昔、通っていた九段の会社のそば、 勝手知ったると言いたいのですが、歳月が流れ、 お店の廃業・転業のすさまじさには驚きます。 「しょうがない、カレーでも食うか」 カレーなら、アジャンタと決めていましたが、 会社のすぐ脇に、新しいカレー屋が出来ています。 「ま、入ってみるか」 インド大使館のそばですから、そう変な商売はしていないでしょう。 地下の穴倉に入っていきましたが、 内部は、思ったよりも、広く安心しました。 厨房は、インド人シェフたち。 ランチ・メニューから選びました。 「チキンカレー、下さい」 アジャンタでは、一番辛くないのが、チキンカレーでしたっけ。 「はーい」 「ナンにしますか、ライスにしますか?」 「ライス」 「ちょっと待っててね。すぐできるから」 ウエイトレスは、日本人の愛想のよいおばさんでした。 やがて、運ばれてきたのをみて、仰天。 「おねえさん、ライス半分にしてくれる」 「はいはい」 この山盛り、半端じゃありません。 ドライカレーのライス、小皿に入ったサラダ、 スープ、チキンカレー、これで、850円は安いほうでしょう。 チキンカレーも、まったく辛くありませんでした。 ○インド料理ムンパイ  住所:千代田区九段南2-2-8 松岡九段ビルB1F 電話:03-3261-2211 オトーサン、 「腹が減っては戦ができん」 臨戦態勢を整えて、いざ、靖国神社へ出撃。 「そうか、植木市もやってるんだ」 奥方と一緒に、よく見にみましたっけ。 秋になると、銀杏が色づき、銀杏を拾ったもの。 会社が目の前なので、昼休みに茶屋でよく食べたもの。 おいなりさん、おでん、パンなど。 つまり、小泉vs中国・韓国とは無縁の庶民の安らぎの場でした。 「しょうがないねぇ」 A級戦犯は別の神社に移すべきでしょう。 乃木神社もあるし、東郷神社もあるし... 違う意見の方もおられるでしょうが、 オトーサンは、そういう立場です。 ○靖国神社  所在地 東京都千代田区九段北3-1-1  主祭神 護国の英霊  創建 明治2年(1869年)  近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、  朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、  慰霊・顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「ああ、桜が見事だなぁ」 桜の名所のひとつとして、 心おきなく樂しめるようにしてほしいもの。

オトーサン、 境内に入って、 「おいおい、どうなってるんだ?」 あの問題の遊就館に新館ができているではありませんか。 「入場料800円?冗談じゃないよ」 戦死者を追悼するというより、 国威発揚、もういちど戦争するぞという姿勢がありあり。 新館に入って、零戦の写真だけ撮って、 憤懣やるかたのない思いで出ました。

○零式艦上戦闘機 大日本帝国海軍の主力戦闘機。  海軍の艦上戦闘機としては実質的な最終形式で、  日中戦争の途中から太平洋戦争の終わりまで戦い続けた。  太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、  アメリカ軍から「ゼロファイター」の名で恐れられた。  設計は三菱だが、三菱と中島飛行機で生産された。  この名称の由来は、零戦が制式採用された昭和15年は  皇紀2600年にあたり、下2桁が「00」になったため。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「会社の写真も撮っておくか」 昭和41年から10年以上通った九段ビルです。 トヨタ自動車販売の東京本社でした。

「あーぁ」 クルマのショールームが消えています。 ごちゃごちゃと、トヨタホームの事務所などへ。 その昔、ここをコンピュータールームにしようとして、 M専務が神谷正太郎社長にド叱られて青くなったもの。 「クルマが本業でしょう、お客様が第一でしょう?」 オトーサン、 あらためて、その偉業を偲びます。 「販売の神様は、えらかったなぁ」 物事の本質を知っておられました。 同じ論法でいえば、靖国神社の現状は、 創建された明治天皇が知られたら、さぞ立腹されるでしょう。 ・四方の海、皆兄弟と思ふ世に       など波風の立ち騒ぐらむ 「そんなに参拝したかったら、明治神宮においで」 そう仰せられるかもね。


17 桜花満開、九段・市谷

オトーサン、 「この辺、荷風の匂いがするなぁ」 荷風は、明治27年から37年まで、 15歳から23歳まで、この九段に暮らしたのです。 父親が靖国神社宮司の広壮な屋敷を借りたのです。 二松学舎大学の裏手(九段南2丁目)に当たります。 その後、一家は、市谷余丁町に屋敷を購入して引越します。 何と、敷地約2000坪!、建坪240坪!です。 でも、荷風の肌には合わなかったようです。 荷風は、昭和3年、49歳になって、 懐かしいこの地に舞い戻ってきて、 待合「幾代」を九段の3番町に開業し、 麹町の芸者・お歌に営業させているのです。 オトーサン、 「富士見町か」 九段の会社に勤めていた頃は、 昼飯を食べに、連日、この辺りに出かけたものです。 お高くとまっていた料亭が、 時流に流されて、ランチを提供するようになったためです。 夕食の接待に使ったこともあります。 昔の花街の匂いがぷんぷんしていました。 「あの美人女将、どうしているかなぁ?」 当時50歳とは信じられぬ美貌を誇っていましたが、 もう80歳、生きておられるかしらん。 オトーサン、 「へえ、こんな文章があるんだ」 明治42年、荷風 歳のときに「中央公論」に発表した 「祝盃」のなかの一文です。 主人公の私は、16歳、思春期の真っ盛り。 親友の岩佐と一緒に、 生まれてはじめて、吉原仲の町へ女郎買いに行くのです。 二人は早や夏らしい夕風の吹きそめる往来へと 親の家をば逃げるように飛び出し 四五町の間は互いの顔さえ見ず非常に急いで、 そして世間を憚るように町の溝際を歩いて行った。 その頃、私の家は市谷の濠外にあったので 足にまかせて来かかった処は九段の公園であった。 往来はまだ明るい。 公園の葉桜の陰ばかりが早や夜らしく暗くなっているのを見るや、 私と岩佐とは同じ秘密を包む身のいずれが言い出すともなく 殊更に暗い木立の奥の腰掛を択んで腰をおろした。 「君はいくら貰った。」 「拾円。」 「そうか、僕の処に拾五円ある。」 「拾円に拾五円プラス二十五円だね。  大丈夫だろうな、二十五円あれば。」 (中略) 私たち2人は公園の木下闇を去るに臨んで 家の手前やむをえず穿いて出た小倉の袴をぬぎすて 風呂敷に包んで片手に抱えた。 そして三番町通を真直に九段の坂上まで来ると 丁度暮れそめた市中の燈火が一面見渡す限り眼の下に輝いている。 突然私はこの急な長い坂一ッ下りさえすれば、 あの美しい燈火の海のはずれに 白粉を塗った幾多の女が赤い襦袢に立て膝して われわれの来るのを待っているのかと思うと、 一種名状すべからざる感慨に打たれて 覚えず立ちどまって遠くを眺めた。 オトーサン、 「いまでいえば、こんなルートだったんだろうな」 この九段の公園というのは、靖国神社でしょうか? この木立ちの奥で、いそいそと着替えたのでしょうね。 小説ですから、まあ、考証するのは無駄かも。 荷風は、東京の坂を愛しました。 「東京は坂の上からの景色が美しい」 九段上からの夜景は、さぞ美しかったでしょうね。 いまでは、どの坂もビルが邪魔をして、 「美しい燈火の海」なんか見えなくなっているのです。

オトーサン、 「市ケ谷土手の桜を見に行こう」 靖国神社の脇をぬけ、法政大学へ。 外濠公園沿いに飯田橋へ向かいます。 渡ると、神楽坂の牛込橋で、ストップ。 「この桜は、絵になりそうだ」 東京メトロ飯田橋駅の真ん前だったので、 若いひとたちが、赤いBD-1をみつめていました。 囁き声が聞こえてきました。 「あれ、折りたためるのよ」 市ケ谷方向を撮ったものです。 あの超高層ビルは、法政大学・市ケ谷キャンパスでしょう。

○市ケ谷キャンパス    住所:千代田区富士見2-17-1   電話:03-3264-9240 JR線・地下鉄線の市ケ谷駅と飯田橋駅の中間に位置。 法・文・経営・国際文化・人間環境・キャリアデザイン学部・ 第二部全学部・大学院・通信教育部の学生が学びます。 外濠公園の緑と靖国神社の杜に囲まれて、 ひときわ高くそびえる地上26階の「ボアソナード・タワー」。 このインテリジェント・タワーがシンボルの都心型キャンパスです。 神田古書店街やスポーツ用品店街、日本武道館、 後楽園、東京ドームなどは徒歩圏内。 新宿や渋谷をはじめとする主要エリアへも電車で10分ほど。 交通アクセスも抜群です。 オトーサン、 「あーあ、大学全入時代、  こうでもしなきゃ、学生が集まらんのか?」 新宿や渋谷といった遊び場が近くないとダメなのでしょうか? いまでは、神田の古本屋街には、学生の姿をみません。 就職先は、六本木ヒルズあたりの会社を狙うのでしょうね。


18 桜花満開、飯田橋・後楽園

オトーサン、 飯田橋から水道橋の後楽園へ。 「枝垂れ桜がきれいだったな。見に行くか」 合併後、オフィスは、九段から水道橋へ変わりました。 「あんなところへ移るのイヤだなぁ」 「いっそ、辞めてやるか」 「いいねえ、飯田橋の職安が隣にあるぜ」 なーんて、当初は、不満たらたら。 でも、住めば都。 「案外、ここもいいねえ」 日建設計が腕を振るっただけあって、 巧みに、小石川後楽園を借景に利用しています。 高層階から見下ろす庭園風景もなかなかのもの。 それに東京ドームがすぐそばというのも便利です。 実業団に出場したトヨタの応援に行って、 古田敦也選手の見事な打撃にほれたことを覚えています。 「あいつ、なかなかやるなぁ。 ふーん、川西明峰高、立命館大を出たのか?」 その後のことはご存知の通り、 90年ドラフト2位でヤクルト入り、 MVPになるわ、ソウル・オリンピックで銀メダルをとるわ、 さらに選手会長として大活躍、いまや監督です。 ちょっと負けがこんでいるけれど。 オトーサン、 「あれ?道を間違えたかな?」 電車の線路沿いに行けば、間違いないと思っていたら、 突然、奇妙な風景にぶつかりました。 「何だ、この超高層ビル?いつの間にできたんだ」 別に都知事じゃないのですから、 オトーサンの許可は不要なのですが、 あまり、いい気持ちはしません。 「どこもかしこも、同じような風景ばかり」 森ビルの社長に言わせると、 六本木ヒルズも、表参道ヒルズも、まだ点。 いずれ、線にし、面にするんだとか。 「...いい加減にせい」 オトーサン、 「この辺一帯が、再開発されたんだ」 オフィス棟をはじめ、商業施設など、まるで六本木ヒルズ。 「どうも、こりゃ、反対方向に走っているな」 このまま進むと、九段下に出そうです。 別の通りを引き返しました。

「あれだ!」 ドブ川のような神田川を渡ると、再び外堀通りに出ます。 周辺に高いビルが出来て、トヨタビルが小さく見えます。 ちょうど昼休み、社員がぞろぞろ歩いています。 後輩連中に出会うかもしれません。 自転車姿で出会うのも、何なので、道路の反対側を走りました。 それから、おもむろに道路を横断しました。

オトーサン、 「ほんとに、会社のすぐそばだったんだ」 トヨタビルの裏は、もう小石川後楽園の入り口。 花見客が吸い込まれていきます。 「65歳以上は、150円でいいのね」 「はい、身分を証明できるものありますか?」 運転免許証をみせました。 「もう、枝垂れ桜は終わりかね?」 「ええ、もうすこし早くお出になれば」 てなことで、葉桜になった枝垂れは敬遠して、 入口正面の小さな桜を撮影しました。

オトーサン、 「あーあ、せっかくの景色が台なしだ」 右手は東京ドーム、左手は文京区役所の超高層ビル。 「ケシカランなぁ。区役所ごときが...」 こんな景色を役人が自分たちだけ樂しんで、 庶民を見下ろしているのでしょうね。

「ケシカラン!」 奥まで入ってゆっくり鑑賞する気を失いました。 出口に、こんな昔の風景画が飾ってありました。 衝撃を覚えました。 広い広い川筋、 そして青い澄んだ空にぽっかりと浮かぶ富士山! 毎日、庶民が見ていた風景です。

○小石川後楽園  住所:文京区後楽1-6-6  電話:03-3811-3015  開園時間:900 -1630 入園料:300円 休み:12月29日〜1月3日  水戸徳川家の江戸上屋敷内の庭園。  1629年初代藩主頼房が庭の造営に着手し、 2代光圀が、明の遺臣・朱舜水を登用し、 中国趣味を取り入れ、回遊式築山泉水庭園とした。 「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から、  後楽園と光圀が命名した。  1923年、岡山の後楽園と区別するため小石川と冠した。 都立庭園として公開されている。  (国指定特別史跡・特別名勝) オトーサン、 家に戻ってから、江戸時代の地図を見てみました。 (文政十一年、1828年) 「そうなんだ。 水戸殿、黄門さまの広大なお屋敷は、 づたづたにされちまったんだ」 東京ドーム、後楽園遊園地、地下鉄駅が屋敷を寸断し、 神田川は狭くなり、屋敷を流れる清流も消えています。

 
オトーサン、
「明治のひと、荷風が嘆いたのも、無理はないなぁ」
1915年、荷風36歳の「日和下駄」には、こんな一文があります。

今日東京市中の散歩は私の身にとっては
生まれてから今日に至る過去の生涯に対する
追憶の道を辿るに外ならない。
これに加うるに日々昔ながらの名所古墳を破却していく
時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。
およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味わおうとしたら
埃及伊太利(エジプト、イタリア)に赴かずとも
現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思をさせる処はあるまい。
今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹も
この次再び来る時には
必貸家か製造所になっているにちがいないと思えば、
それほど年経ぬ樹木とても
何とはなく奥床しく悲しく打ち仰がれるのである。


19 桜花満開、牛天神・伝通院

オトーサン、 「さあ、伝通院へ行こう!」 今回の荷風探訪ツアーの主目的です。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、 こんな記述があります。 文豪永井荷風は、 1879年に伝通院の近くで生まれ、 1893年までここで育った。 パリにノートルダムがあるように、 小石川にも伝通院があると賞賛した。 その思い出は、随筆「伝通院」を生んだ。 1908年にパリから帰国して伝通院を訪れたが、 なぜかその晩には本堂が焼失してしまった。 なんという不思議な縁であろう。 本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰って つかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった オトーサン、 後楽園を出て、 ものの200mも走らぬうちに、牛天神下なる交差点へ。 「自転車は早いなぁ」 会社から昼休みに、 この辺りまで足を伸ばしたことがありますが、 何もないので、引き返した記憶が残っています。 「荷風ゆかりの牛天神、なくなったのかなぁ?」 天神様の森らしきものが見当たりません。 ○牛天神(北野神社)  住所:文京区春日1-5-2  源頼朝が奥州征伐の途中、  この入江に船を留めて凪を待つ間に、  夢に菅原道真(天神様)が牛に乗り衣冠を正して現れ、  二つの願いがかなうことを告げた。  夢から覚めると天神様が乗っていた牛に似た石があった。  そこで、頼朝は神社を創建した。

荷風が、20歳のとき書いた「花ちる夜」(未完)には、 こんな情緒纏綿たるくだりがあります。 「鈴ちゃん。其じゃどうしても私と一緒に死ぬ気か。」と、 男は漸く意を決したものの如く突と顔をあげた。 「ええ。」と、ふるえ声で、 「若旦那、如何して...何処へ行って死ぬのですよ。」 「何処だって......。うむ、彼の牛天神の森へ行こう。」 女は涙にむせかえりながら男と手を引き合った。  オトーサン、 「わからんなぁ」 この界隈はがらんとして、誰もいないので、 聞くに聞けず、通り過ぎることにしました。 この後、安藤坂を上る予定でしたが、 どうやら、道を間違えたようです。

「すいません、安藤坂はどこですか」 ようやくママチャリのおばさんに出会ったので、聞きました。 「反対方向よ、牛天神の交差点から左手に上るのよ。 でも、この先、すぐそこの坂を上ってもいけるわよ」 「ありがとう」 結局、安全策で、牛天神下へ逆戻り。 「これが安藤坂か、きつい上りだなぁ」 途中で息が切れて、自転車を降りました。 「そうだ、荷風生誕の地へ寄らなきゃ」 確か、現在の住所をメモしてきたはずですが、ありません。 (注:文京区春日2-20あたり) オトーサン、 「どこで落としたのかなぁ?」 春日通りの手前で出会った 上品そうなご婦人に聞くことにしました。 ご婦人、オトーサンの服装を検閲してから、 やおらこう言い放ちました。 「あのね、この辺は有名人が多いのよ。  いちいち覚えてなんかおられないのよ」 「...」 何たる横柄な答えでしょう。 また自転車に乗って、坂を上りながら、思い当たりました。 「...そうか、ここらは、山の手なんだ」 皇居(お城)の北は、もう山の手でした。 彼女は、下町のおかみさんではなく、 山の手の奥様でおられたようです。 文京区役所の高層ビルといい、 このご婦人の物腰と口調、 文京区がキライになりそうになりました。 オトーサン、 「ここが伝通院か」 数人のおばさんたちが、道端に陣どって、 お寺の絵を描いていました。 「...下手だなぁ」 境内にちょっと入ってみましたが、 思ったより小さいし、趣きもないので、落胆しました。 どうやら敷地の半分以上が、淑徳学園に取られてしまったようです。 お寺さんが、幼稚園を経営しているケースが多いですが、 この伝通院は、高校と中学を経営している模様です。

○伝通院  小石川の高台にある浄土宗の寺。  本尊は、僧源信作とされる阿弥陀如来像。  徳川家康の母、於大の方の菩提寺として名高い。  家康は、芝の増上寺に埋葬するつもりだったが、  「増上寺を開山した聖聡上人の師である 了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」 との増上寺十二世観智国師の言上を受けてのものという。  1608年に堂宇が竣工。  寺領600石を与えられ、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、  増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所となった。  増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。  その威容は、江戸名所図会などで知ることができる。

 高台の風光明媚な地であったため、 富士山・江戸湾・江戸川も眺望できた。  東京大空襲で、山門や本堂などがすべて焼失した。  現在の本堂は、1988年、戦後2度目に再建されたもの。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オト−サン、 「伝通院は、荷風の文章で偲んだほうがよさそうだなぁ」 その名もズバリ「伝通院」という随筆があります。 その一文を読んでみましょうか。 われわれはいかにするとも おのれの生まれ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。 もしそれが賑やかな都会の中央であったならば、 われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその目を曇らして、 一国を代表する偉大の背景を打ちまもるであろう。 もしまたそれが見る影もない痩村の端れであったなら、 われわれはかえって底知れぬ懐かしさと同時に 悲しさ愛らしさを感ずるであろう。 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。 私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば 1年2年に恋いしく思返す。 ...この地勢と同じように、 私の幼い時の幸福なる記憶も この伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。 オトーサン、 「今の子供たち、かわいそうだなぁ」 さだめし、こう書き改めなくてはならないでしょう。 私の幼い時の幸福なる記憶も このコンビニを中心として、常にその周囲を離れぬのである。


20 桜花満開、小石川植物園・六義園

オトーサン、 「もう、1時過ぎか、急がなくては」 あと2ケ所、見るところが残っています。 小石川植物園と六義園、いずれも見るのははじめて。 地図を紛失したので、場所を尋ねながらの走行になりました。 散歩中の上品な老人夫婦に出会いました。 ”仲良きことはいいことかな”の絵に描いたようなご夫婦。 お歳は、もう70代後半か。 老人、いわく 「そうさね、この春日通りを真っ直ぐに行って、  大塚3丁目から右折するといいよ」 奥さん、何か言いたそうにしていますが、 老人、構わず、 「かなりあるよ。でも、自転車ならダイジョウブか。  ちょっと坂になっているよ」 奥さん、 「お気をつけてね」 オトーサン、 幸い歩道が広いので、飛ばしました。 「あれっ、何だこれ?」 見事な桜並木が目の前に飛び込んできました。 地元のひとでしょう、 大勢の桜見物のひとで賑わっています。

道端に文京区教育委員会の案内板がありました。 「ふーん、そうなんだ。新しい桜の名所なんだ」 荷風の死後に桜並木が誕生したのです。 ○播磨坂  この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、  一般にいわれる環三道路(環状3号線)です。  かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所で、  その名にちなんで坂下の底地一帯は「播磨たんぼ」といわれ、  この坂道も播磨坂と呼ばれていました。  昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、  この道路も道の両側と中央に  樹齢15年ぐらいの桜の木約130本が植えられました。  その後婦人会の努力によって、  「環三のグリーンベルト」は立派に育てられています。 オトーサン、 「この道、散歩したら、気持ちいいだろうなぁ」 でも、先を急がなくては。 小石川植物園をめざしてひた走ります。 「おいおい、入り口は、ずっと先なのかよ」 植物園の塀に沿ってどんどん戻っていくのです。

後で気がついたのですが、 さきほどの播磨坂を上っていけば、入り口に出たのです。 やはり、地図は大事です。 それにしても、さっきのおじいさん、 妙な道を教えてくれたものです。 「...さては、耄碌していたのか」 奥さんは、旦那に遠慮して、 道順を訂正しなかったのかもしれません。 あの年代の夫婦は、まだまだ夫唱婦随なのでしょう。 オトーサン、 植物園の入り口へ。 東大の腕章をつけた係員に質問しました。 「あの、入場券はどこで買うのですか?」 「あそこの煙草屋さんで買ってください」 言われるままに、煙草屋の看板娘(?)から購入しました。 「おー、ここ、いいねぇ」 上野、墨堤、飛鳥山といった定番の花の名所。 花を見にいくのか、人ごみを見にいくのか? ここは、放歌高吟、酔っ払い、喧嘩、スリ、迷子もなく、 桜の下で、家族が静かに団欒しています。 千利休が茶の心の真髄と称えた 「新古今和歌集」の気分になれそうです。 ・花をのみ まつらん人に やまざとの          ゆきまの草の 春をみせばや                     藤原家隆 まるで、昔の武蔵野の自然が残されているようでした。 東大の観察や実験を行う場なので、自然然を保存しているせいでしょう。 商売気がないというのも、乙なものですねえ。 オトーサン、 「広いなぁ」 奥へ奥へと、ズンズン歩いて行きましたが、 正直、自転車で走りたい距離であり、気分でした。 1kmはあるでしょうか。 「おお、ここだ」 さきほど、係員に伺った撮影ポイントを発見しました。 日本庭園とその向こうに旧東京医学校本館。 ようやく自信作が1枚撮れました。

○小石川植物園  正式名称は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園  前身は、幕府の小石川御薬園。  1684年に五代将軍・徳川綱吉の別邸を薬草園としたもの。  八代将軍・徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園になり、  そのなかに、養生所が設けられた。  東京帝国大学が1877年に開設されると、  その附属の植物学研究所になり、一般公開されるようになった。  1998年からは大学院理学系研究科の附属になった。  面積:161,588m2  住所:文京区白山3-7-1  電話:03-3814-0138 開園時間:900〜16:00 定休日:月曜日、年末年始 入園料:330円  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 読者のみなさん、 こんな記事、ご存知ですか? オトーサンが訪れたのは、4月4日だったのですが、 その1週間後、両陛下がここを視察されたのです。 天皇、皇后両陛下は10日午前、小石川植物園を訪れた。 世界で初めてイチョウに精子があることが発見された木や、 約500種類の高等植物が植えられた標本園など、 約1時間にわたって園内を視察した。 オトーサン、 「おれは、たったの30分で見終えたぞ」 おそらく新記録ではないでしょうか。 ま、まったく自慢になりませんが... 「次は、六義園だな」 自転車散歩、まだ初心者ですから、いそがしくなりがち。 でも、徒歩だと、1日で、これだけは回れません。 クルマでも、無理でしょう。 今日訪れた場所のほとんどが駐車場がないのですから。 「ありゃ、葉桜?」 今の時期に、ここを訪れるひとは、 枝垂れ桜がお目当てなので、 「葉桜じゃないか、入園返せ!」とならないように、 注意を喚起しているようです。 入園してすぐに、その名物の枝垂れ桜がありました。 「なるほど、葉桜だ」 この大樹を樂しむには、3月下旬に来るべきでした。

○六義園(りくぎえん)  1665年、5代将軍徳川綱吉の右腕、柳沢吉保が  綱吉から賜った4万9000坪に下屋敷と庭園を造った。  御殿を六義館、庭園を六義園と称した。  「詩経」の六義(むしさ)からとったもの。  六義とは、詩の六形式、風、雅、頌、賦、比、興。  回遊式築山泉水庭園で、元禄時代のおおらかな気風がある。  明治期に岩崎弥太郎が購入、1938年に東京市に寄贈され、  一般公開されるようになった。つつじ、紅葉がいい。  面積:87,809m2  住所:文京区本駒込6-16-3  電話:03-3941-2222  開園時間:900 -1630  入園料:300円  定休日:年末年始 オトーサン、 「また来よう。次は、ノンビリと」 六義園を10分ほどで退出しました。 たったの10分、これも新記録(?)でしょう。 不忍通りと間違えて、本郷通りを疾駆し、 途中、気がづいて進路を変更し、 団子坂、谷中霊園の桜並木をみて日暮里駅へ。 「近いな、こんなに近かったのか。  2時45分か、思ったより早く着いたなぁ」 実は、最短距離の西日暮里駅へ行きたかったのですが、 日暮里駅になってしまいました。 カウンターでみると、六義園から4kmでした。 自転車で走れば、距離を感じません。

オトーサン、 「雑司ケ谷霊園にも行っておけばよかったなぁ」 六義園から、わずか1km、自転車なら5分の距離でした。 東京の都心って、案外狭いのです。 山手線一周がわずか30kmだそうですから。 自転車なら、変幻自在なツアーが組めます。 自転車、いいですねぇ。 荷風の生きた明治時代、 文明開化で、自転車が入ってきて間もない頃、 自転車は、ごく一部のひとのものでした。 「荷風にも、BD-1に乗ってほしかったなぁ」


21 春の水辺紀行、人形町・清洲橋・小名木川

オトーサン、 「桜が散ってしまう、急がなくては」 今回は、隅田川沿いに、 荷風や芭蕉ゆかりの地を駆けぬけ、 水の都といわれたお江戸の名残りを偲びましょう。 今日のお花見コースは、17km。 ・御徒町駅 - 人形町 - 清洲橋・小名木川 - 深川不動尊・富岡八幡宮 - 清澄庭園 - リバーウォーク - 芭蕉史跡 - 相撲部屋・成等院 - 浅草駅 

オトーサン、 つくばエキスプレスで、秋葉原に出るつもりでした。 「エスカレーターが長いから、疲れるかも」 ひとつ手前の御徒町のほうが小さい駅だから BD-1を担いで歩く距離が短いだろうと思って、 はじめて下車してみました。 「なーんだ、この駅も歩かされるなぁ」 駅構内から出て、自転車を組み立てるとホッとします。 駅前は清州通りでした。 そのまま道なりに走っていけば、清洲橋で、 すみだ川を渡れば、深川に出ます。 「もう、11時か、人形町で食べていくか」 人形町には、芳味亭(洋食)、玉ひで(親子丼)、 そして、小春軒(フライ、バター焼き)など、 その名前をあげるだけで、よだれの出る名店が揃っています。 オトーサン、 甘酒横丁が閑散としているので、 よもやと思いましたが、一軒一軒確認して回りました。 「あーあ、みんな休みだ」 日曜日は定休日なのですねぇ。 荷風と手紙のやりとりもした仲だった 文豪・谷崎潤一郎生誕地の石碑を撮りました。

オトーサン、 「大分、桜が散ったなぁ」 浜町藪そばも、お休み。 これまた仕方がないので、隣接する公園を撮影しました。 なぜか、弁慶の銅像がありました。 空腹が耐え難くなってきたので、 理由を詮索する余裕がなくなっています。 「おー、着いた!」 清洲橋の上から、墨田川の流れを眺め、 小名木川が注ぐ河口を撮りました。 低いビルが並ぶ平凡な風景ですが、 芭蕉が「奥の細道」に旅立ったとき、 「ここから大川に出て、千住まで舟旅をしたんだ」 そう思って、河口をじっと眺めると、 どうっていうことのない風景にも、いくばくかの興趣を感じます。

読者のみなさん、 「奥の細道」の出だしは、こうでしたね。 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、 日々旅にして、旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、 海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、 やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、 そヾろ神の物につきて心をくるはせ、 道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、 もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、 三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、 住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 家もひとに譲り、旅先で死ぬ覚悟でのスタート。 小名木川の静かな流れから、 波音高い大川に漕ぎ出たときは、 諸行無常の思いで、さぞ心が波打ったことでしょう。 オトーサン、 「荷風も同じ想いだったのだろうか?」 「深川の散歩」の書き出しは、こうなっています。 多年坂ばかりの山の手に家する身には、 時たま浅草川の流をみると、 何ということなく川を渡ってみたくなるのである。 雨の降りそうな日には、 川筋の眺めのかすみわたる面白さに、 散策の趣きはかえって盛になる。 清洲橋という鉄橋が 中洲から深川清住町の岸へとかけられたのは、 たしか昭和三年の春であろう。 この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、 人通りもまたさして激しくはない。 それのみならず河の流れが 丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、 ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、 橋の中ほどに佇立むと、 南の方には永代橋、北の方には新大橋の構わっている 川筋の眺望が、一目に見渡される。 西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、 東の方、深川の岸を望むと、 遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、 近く仙台堀にかかった上の橋が見え、 また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。 これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳しているので、 市中川筋の展望の中では、最も活気を帯び、 また最も変化に富んだものであろう。 オトーサン、 佃島の高層ビル群を眺め、 「昔と変わったなぁ」 後ろ髪を引かれながら、清洲橋を渡り終えました。 その先一帯は、倉庫の多い寂しい場所です。 「ここらは、前に何度か通過したなぁ」 晴海に住んでいた頃、清澄庭園によく遊びにきました。 クルマでは、細部を見落としがちです。 自転車の速度で移動すると、 「こんないい公園があったのか」 「こんなに川や橋の多い地域だったのか」 そういう新発見があります。 清澄庭園に隣りあう清澄公園の枝垂れ桜も見事でしたし、 仙台堀川にかかる桜並木は今が盛りでした。 知るひとぞ知る場所でしょうね。


22 春の水辺紀行、深川不動尊・富岡八幡宮

オトーサン、 「さ、次は、もんなか」 門前仲町を地元のひとは、もんなかと呼びます。 晴海トリトンに住んでいた頃は、 毎週のようにやってきたものです。 晴海トリトンは、一時期、再開発のお手本でした。 いまとなっては、六本木ヒルズのミニ版でしょう。 住友商事本社ビルをはじめとする高層オフィス棟が3つ、 マンション2棟と飲食・娯楽・サービス施設が集合。 大体のことは、このなかで済んでしまいます。 時々、コンクリートの圧迫感に耐えかねて、 臨戦態勢のサラリーマン・OLに飽きると、 無性に外の空気を吸いたくなったものです。 「いい立地だけど、ヒトの住むところじゃないな」 2年ほどで、いまの柏の一軒家に引越しました。 都心からは遠くなりましたが、 自然が近いし、隣近所もいいひとばかり、 気にいっています。 晴海、豊洲あたり、いまや高層マンション・ブーム。 読者のなかには、 「住んでみたいな」 そう思っておられる方もいるでしょう。 ご参考までに、 よく散歩したスポットを図示してみましょうか。

銀座、築地、月島、そしてもんなか。 それぞれ捨て難いスポットですが、 一番くつろげるのが、もんなかでした。 徒歩圏内なのですが、 途中、越中島あたりが寂しいのでクルマで。 賑やかな永代通りに面した商店街、 深川不動尊や富岡八幡宮の参道に列なる沢山のお店を 冷やかしていると、気持ちがなごみました。 伊勢屋か、駅前の喫茶店で一休みしながら、 「いっそ、もんなかに住むか?」 「いいわね」 手頃なマンションがないか、裏通りまで探し尽くしました。 でも、いかにも安普請か、高速道路沿いのマンションしか 見当たりませんでした。 オトーサン、 「いっそ、あの佃島のリバーシティに住むか」 奥方、 「いいわね、松井選手とお近づきになれるかも」 「田原総一郎さんも、竹中さん(大臣)も住んでるぜ」 墨田川を見下す超高層マンションに食指が動いたこともあります。 中古2DKなのに、5000万円もしました。

オトーサン、 「...住人が気に食わんなぁ」 70過ぎの老人が孫娘のような女と下見にきていました。 疎遠な子供たちに遺産を残すくらいなら、 銀座のチーママにマンションを買ってやろうというのでしょう。 成り上り者と銀座の女の巣窟と見ました。 池波正太郎さんも、同じ意見だったようですね。 「江戸切絵図散歩」(1989)に、こんな一文があります。 「川のない都市は、都市ではない」 とだれかがいったように、 いまの東京は、人と車両の激増によって、 もっとも安易な方法で「都市美」と、 それにともなう人の生活を打ちこわしているのだ。 そしてこれを「開発」とか「再開発」とか称してはばからない。 築地から佃島にかけて、近い将来に 「リバーシティ21」と称する再開発が始まろうとしている。 川を埋めたてつくしたから、今度は海というわけか。 そこへ建築家が加わって、 日本人の生活と無縁のビルデイングを建てたり、 文化センターをつくったりする。 オトーサン、 「路地裏を抜けて行こう!」 もんなか、 永代通りを自転車で走行するのは、ムリというもの。 「この辺に住んで、なじみの飲み屋に通ったらいいだろうなぁ」 あっという間に、深川不動尊の境内へ。 日曜日だから、すごい人出です。

○深川不動尊 1703年に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、 明治14年不動堂が完成した。 境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがある。 この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として 江戸情緒を色濃く残す深川の中心街で、 納め不動(12月28日)や毎月28日の縁日では参詣者で賑わい、 多くの露店が並ぶなど盛況を呈している。 住所:富岡1-17-13 電話:03-3641-8287 オトーサン、 参拝よりも、BD-1をどこに駐輪するか、 場所探しをし、ツーロックを終えると、 「あー、腹、減った。もう12時だぞ」 目の前の近為、おばさんたちのすごい行列です。 「ぶぶ漬け、いいんだけどなぁ」 1時間待ちでしょう。 「冗談じゃないよな」 ○近為  深川1号店  住所:江東区富岡1-14-3  電話:03-3641-4561  営業時間:1000-1800  (お食事処):11:00〜17:00  定休日:月曜日  ・京のぶぶ漬けと黄金づけ:1500円   10種類ほどの漬け物と銀だらの粕漬けがセット オトーサン、 「漬物でも買っていくか」 お腹が減っていますが、売り切れが心配で。 昼食に先行させました。

○深川2号店  住所:江東区富岡1-14-5  電話:03-3641-4561  年中無休  春の商品:  ・筍の柔漬:882円  ・春きゃべつ:420円 オトーサン、 「しょうがない、ここにするか」 深川へきたら、深川めし。 このお店は、元祖と称しております。 一度食べましたが、お座敷に座って、江戸気分。 お味もまあまあでした。 「でも、今日は、?だなぁ」 いそがしいのか、醤油の味が濃すぎます。 厚揚げばかりで、肝心のあさりが少なすぎます。 「ロクなモンじゃないな」

○六衛門(ロクエモン) かつおだしに醤油、みりん、酒を加えたタレに、 大きなアサリを入れて煮る ねぎや厚揚げが入ってボリュームがある。 住所:江東区富岡1-12-2 電話:03-3641-2594 営業時間:1130-1430、1700-1930 定休日:水曜日 ・深川丼:1050円 ・あさり御飯:1050円 オトーサン、 昔の漁師のように早メシ。 15分後には、もう富岡八幡宮へ。 「混んでるなぁ」 骨董市をやっていました。 「骨董というより、廃品置き場みたい」 てなことで、ここも数分で通過しました。 ○富岡八幡宮  富岡八幡と言えば江戸三大祭の一つ「深川八幡祭り」。   3年に一度(8月中旬)本祭りが催され、   50台余りの神輿に水をかけながら練り歩く連合渡御は勇壮無比で、   あでやかな辰巳芸者の手小舞や粋な鳶若頭衆の木遣りが、   江戸情緒を盛り上げます。

 八幡宮は、1624年、当時永代島と呼ばれた小島に  京の公が八幡神像を奉安したのが始まりといわれ、  以来、深川っこの信仰を集めています。  境内には、「深川力持碑」「木場の角乗り碑」をはじめ  「横綱力士碑」「力持碑」など、  深川にまつわる多くの石碑等があり、昔をしのばせます。  住所:富岡1-20-3 電話:03-3642-1315


23 春の水辺紀行、旧弾正橋・新田橋

オトーサン、 「そろそろ引き返さなきゃ、先が長いから」 でも、今日樂しみにしてきた場所がひとつだけ残っています。 下調べをしたら、日本最古の鉄橋があるというのです。 「知らなかったなぁ」 もんなかにしょっちゅう来ていたのに、 富岡八幡宮の裏手までは足を伸ばしてことはありません。 地図をご覧下さい。

オトーサン、 「これか?小さな橋だなぁ」 行く途中には、昔風の家が並んでいました。 この界隈だけ、荷風の時代が残っているみたいです。 案内板を読みます。 「へぇ、そうなんだ。 ”やはた”でなく、”はちまん”橋って呼ぶんだ」

○旧弾正橋(八幡橋)  住所:江東区富岡1-19から 2-7  1878年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作。  国産初の鉄橋、長さ15.2m、幅3mのアーチ型をしている。  京橋の楓川にかけられていたが、  関東大震災後、廃橋となり、1929年に現在地へ移設。  富岡八幡宮の東隣りなので八幡橋と改称。  掘が埋め立てられて遊歩道となったので、  いまは、人道橋として活用されている。  国指定重要文化財であり、  1989年には日本で初めて米国土木学会より  「土木学会栄誉賞」が贈られている。 オトーサン、 橋の下の緑地を見下ろしました。 「川のほうがよかったのに。なんで埋め立てるの?」 埋め立てて、細長い公園にしたようです。 橋のたもとからは下りられないので、迂回しました。 「何、これ?」 長屋の猫に気をとられてあやうく見逃すところでした。 「これって橋だったの?新田橋?」 岡にあがったカッパじゃあるまいし、 誰も、長屋の脇に橋が飾ってあるとは思わないでしょう。 写真入りの立派な掲示板がありました。 「赤ひげ先生か、えらいお医者さんだったんだ」 橋に名前が残るなんて、大したものです。

オトーサン、 新田橋の写真に残された昔の風景をみて、 荷風の深川好きを思いだしました。 「深川の唄」の一文をご紹介しましょう。 水の深川は久しい間、 あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、喜びの 感激を満足させてくれた処であった。 電車はまだ敷設されていなかったが既に其の頃から、 東京市外の美観は散々に破壊されていた中で、 河を越した彼の場末の一画ばかりが わずかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、、 衰残と零落との言い尽くし得ぬ純粋一致の美を 味わして現れたるのである。 オトーサン、 「荷風は、深川の海の匂いが好きで、 辰巳芸者の匂いが大好きだったのだろうな」 ○深川の開発  深川は、その昔、海と散在する小島だった。  家康の大規模な江戸開発に応じて、  慶長年間に深川八郎右衛門が、この辺一帯を埋め立て、  小名木川や源森川など川の整備を進めた。  家康が、その功を賞賛し、深川八郎右衛門の名をとって、  深川村と名づけたのが、深川のはじまりである。  やがて、諸寺院の移転建立や庶民の移住が進み、  江戸文化の中心地となった。 明治21年、帝国大学開設に伴い、  隣接する根岸遊郭が文教地区にふさわしくないとして  移転されられ、深川の先の出島に洲崎遊郭が誕生した。

オトーサン、 「深川は、東洋のヴェニスだったんだ」 先ほどの「深川の唄」には、こんな一文も。 夏中洲崎の遊郭に、燈篭の催しのあった時分、 夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。 苫のかげから漏れる鈍い火影が、 酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照らす。 川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、 文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。 水門の忍返しから老木の松が水の上に枝を延した庭構え、 燈影しずかな料理屋の二階から芸者の唄が聞こえる。 月が出る。 倉庫の屋根のかげになって、 片側は真暗な河岸縁を新内のながしが通る。 水の光で明く見える板橋の上を提灯つけた車が走る。 それ等の景色をば云い知れず美しく悲しく感じて、 満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。 オトーサン、 若い頃、ヴェニスに遊んだときのことを、 まざまざと思いだしました。 ある夜、夕食をすませて、 ホテルに横づけされたゴンドラに乗りました。 月が出て、水面に写り、ゆれ動いています。 船頭は、あざやかな櫂さばきで、 家々の脇の細い水路を縫っていきました。 窓に明かりがともり、笑い声が聞こえてきます。 やがて、大川に出ます。 前方には、かの有名なリアルト橋。 恋人たちが身を乗り出してゴンドラを眺めています。 ゴンドラの数が数拾艘に達すると、 橋の上、両岸には、大勢の観光客が集まってきした。 きらめく家々の窓も開かれて、 美男美女らのシルエットが浮かび上がります。 すると、船頭たちが一斉に唄いはじめたのです。 何という声量、何という悲しいメロディ。 歌声が天にこだまし、星々がまたたいています。 知らない唄もありましたが、 「おお」 このメロデイは、サンタルチアじゃありませんか。 ♪月は高く 海に照り  風も絶え 波もなし  月は高く 海に照り  風も絶え 波もなし  来よや友よ 船は待てり  サンタ ルチア  サンタ ルチア  来よや友よ 船は待てり  サンタ ルチア  サンタ ルチア オトーサン、 異郷に浮遊していることもあって、 気分が高揚し、感激の涙があふれてきました。 「スカラ座よりも、メトロポリタン歌劇場より、いい! ...この感激は、一生忘れないだろうな」 オトーサン、 この東洋のヴェニスを破壊し尽した様を 新旧の地図で比較してみました。 現在の地図の赤い線の下は、 すべて海だったのです。 潮の香り、ただよう大海原だったのです。 佃島も月島も、昔は、文字通り「島」だったのです。 陸地と島と海の間にドラマがあったのです。 「佃島の城主さん、どうしているかなぁ?」 その昔、子孫なる方にお会いしたことがあります。 顔立ちが凛々しく、時代劇の主人公に出会ったよう。 それに引きかえ、現代のエライさんの顔の貧しさよ。 欲とカネと権力にまみれた顔と顔。 この悪しき時代の風潮を如実に物語っています。 荷風ならずとも、慨嘆したくなります。 「嗚呼!江戸は消え、明治はるかに去りぬ」


24 春の水辺紀行、清澄庭園あたり

オトーサン、 「さぁ、清澄庭園で休憩だ」 でも、その前に、一ケ所、チェックポイントが。 清澄通り沿い、仙台堀川にかかる海辺橋のたもと。 「こんなところにあったのか」 クルマで何度も通っているのに気づきませんでした。 先程は道の反対側を歩いていたのに。 芭蕉が「奥の細道」へ旅立つべく、舟に乗った場所とか。 「怪しいなぁ」 仙台堀川でなく、小名木川のはず。 でも、当時は川が四通八通していたから、 ここから乗船して、小名木川へ向かったのかも。 「何か、年寄りくさい芭蕉だな」 1689年に、この地をスタ−ト、 当時46歳で、150日間、2400kmを走破したのですから、 もっと元気なはず。 でも、51歳で「奥の細道」を完成させ、 すぐに亡くなったのですから、 旅から帰ってきたら、もうヨレヨレだったのかも。 その頃の芭蕉に見えなくもありません。 ま、芭蕉像も、作者の気分で、いろいろな姿になるのでしょう。 東京が為政者の気分で、形を変えてきたように。 そう解釈しておきましょう。

・photo:採茶庵跡

オトーサン、
「清澄庭園、久しぶりだなぁ」
この公園、奥方と何度も来ました。
四季おりおり、清々しい憩いの場ですが、
お花見には向いていません。
桜の木が少ないのです。
池をめぐりがら、色々な岩を樂しむ趣向になっているのです。
「よーし」
奥方に監視されて、できなかったことを決行しましょう。
売店で、鯉のエサを買いました。
奥方は、麩を半分に割って、何度も投げ与えるタイプです。
「勿体ないわよ」
一度に数個を投げようものなら大変です。
何を言われるか分かりません。
幸い、今日は、ひとり。
ここは、紀伊国屋文左衛門の気分でいきましょう。
「えーい」
1袋すべての麩を池に投げこみました。
鯉も水鳥も馬鹿騒ぎ。
昨今の株式市場のようでもあります。
文左衛門が吉原で豪遊した折に、
太夫たちに金貨をばらまいたような気分です。

○清澄庭園  この地の一部は、江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡、  1716-36年は、関宿城主・久世大和守の下屋敷となり、  岩崎弥太郎が買い取り、明治13年に「深川親睦園」として竣工。  隅田川の水を引いた大泉水を造り、全国から取り寄せた名石を配して、  明治を代表する「回遊式林泉庭園」が完成した。  関東大震災で破損の少なかった東側を公園用地として東京市に寄付  1932年に公開され、1977年には西側も追加取得し公開された。  1979年、東京都の名勝に指定。 住所:江東区清澄2・3丁目 電話:03-3641-5892 営業時間:900-430 定休日:年末・年始 オトーサン、 「文左衛門のお墓参りでもするか」 清澄庭園の東側には、深川江戸資料館があり、 そのあたり一帯は、寺町になっているのです。 石を投げれば、坊主に当たる地域。 でも、近年のお寺は、不景気ですから人員削減。 寄ってみた玉泉院などは、門を閉じているありさま。 州崎遊郭の遊女の墓所なんか誰も行かないのでしょう。 それに反して、元気なのは、その名も「出世不動尊」 若いひとが数多く参拝していました。 もう参拝する意味がないので、 「おお、桜が見事だなぁ」 1枚だけ写真を撮りました。 この写真でも、拝めば御利益があるかも。

「分からんなぁ」 Livedoorの地図にも載っていません。 探し歩いているのは、成等院です。 ちょうど老婆が家から出てきました。 「すいません。成等院を探しているんですが」 「ああ、案内してあげるわ」 「すみません」 「いいのよ、ウチは檀家だから」 ものの数10秒、30メートルも歩かないうちに、お寺に到着しました。 「お墓も造ったのよ。黒御影石で、 おじいちゃんが眠っているの。 もうすぐ、あたしも入るの。 ほら、あれよ」 「やぁ、立派なものですね。真新しい」 「そうなの、そうなのよ」 流石は、下町のおばあちゃん。 いま会ったばかりなのに、百年の知己のようです。 「それで、紀伊国屋文左衛門のお墓はどこにあるのですか?」 「そこよ、そこ」 おばあちゃんのお墓よりは大きいものの、 あの江戸を代表する豪商のお墓とはとても思えません。 このおばあちゃん、 文左衛門のお墓も時々掃除をしているようなので、 声には出しませんでしたが、 清澄庭園の然るべきところに移設すべきではないでしょうか。 石原都知事なら、どう判断するでしょうか? 何しろ、日本橋を移設せよといわれる過激な方ですから。

○紀伊国屋文左衛門 1669年 - 1734/5/26 紀州出身の元禄期の豪商。   20代の頃、紀州は蜜柑が大豊作。   だが、江戸に運ぼうとしても、航路は嵐。   上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。   紀州では安く、江戸では高い。   これに目をつけた文左衛門は、大金を借りて蜜柑を買い集め、   船乗りたちを説得し、大波を越え、ついに江戸へ。   まさに「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」   カッポレで唄われるほど人気を博し、蓄財に成功した。   その後、側用人柳沢吉保らに賄賂を贈って接近し、   上野寛永寺の造営で巨利を得て、幕府御用達の材木商人へ。   だが、深川の木場を火災で焼失し、廃業した。   晩年は、深川八幡で過ごし、文化人と交友した。 子孫に美田を残さずの心意気で、一代で財を使い尽くした。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「この際、相撲部屋を見ておこう」 相撲といえば両国となりますが、深川もメッカなのです。 「おいおい、イメージダウンじゃないのか」 このHPに載せるのはどうかと思いましたが、 相撲部屋がこんなチンケなマンションとは。 大鵬親方といえば、歴史に残る名横綱。 北の海親方といえば、相撲協会の理事長。 それが、こんな状態とは。 「六本木ヒルズに相撲部屋を!」とはいいませんが、 せめてもう少し何とかならないのでしょうか。 国技なのですから。


25 春の水辺紀行、すみだ川、その1

オトーサン、 「清洲橋のそばに芭蕉庵があるのか。 それなら寄らない手はないな」 清澄公園からは、ものの5分も経たずに清洲橋へ。 「さてと、どこにあるのかな?」 隅田ベりのマンション前の道路で子供と遊んでいる 若い奥さんに、その所在を尋ねましたが、 「あたし、最近、ここに越してきたものですから」 予想通りのお答えでした。 それにもめげず、あちこちで道を聞き続けて、 「万年橋のたもと」というキーワードをゲットしました。 オトーサン、 「おお、ここか」 小名木川が隅田川に流れこむあたり、 そこにかかっているのが、万年橋でした。 橋のわきに東屋があって、解説がありました。 風光明媚な場所ゆえに、富嶽三十六景にも描かれたとか。 勿論、当時は、典雅な木造の橋でした。 橋の下から遠く富士山が見えるなんて、 いまとなっては、とても信じられませんが...

 
オトーサン、
持参した文庫本を開きます。
永井荷風の「深川の散歩」の一文を確認しました。

或る日わたくしはいつもの如く中州の岸から清洲橋を渡りかけた時、 向に見える万年橋のほとりには、 かつて芭蕉庵の古址と、征木稲荷の社とが残っていたが、 震災後はどうなったであろうと、ふと思い出すと、 これを尋ねて見たことがあった。 (中略) この静かな道を行くこと一、二町、すぐさま万年橋を渡ると、 河岸の北側には大川へ突き出たところまで、 同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ち並び、 川の眺望を遮断しているので、 狭苦しい道はいよいよ狭くなってきたように思われてくる。 オトーサン、 「変だな、この辺りのはずなんだけど」 ちょうど、ガイドブックをもって通りかかった 上品な女性に場所を聞きました。 「こっちのはずよ」 東屋の先の階段を川岸へ降りていきます。 自転車を柵にロックして、後についていきました。 「おお、清洲橋を望む風景、いいなぁ」 はるか向こうに見えるのは、新大橋でしょう。 汚いビルも目に飛びこんではきますが、 広い川幅だけをみつめ、川風に吹かれていると、 江戸のひとびとが、”大川”と呼んだのも納得できます。

東京の町をすみずみまで歩き通した荷風は、 「日和下駄」のなかで、「水」と題して、 都市と水の関係について、考察しています。 今試に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、 水は江戸時代より継続して今日においても 東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。 陸路運輸の便を欠いていた江戸時代にあっては、 天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、 いうまでもなく江戸商業の生命であったが、 それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、 時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。 しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、 全く伝来の審美的価値を失うに至った。 オトーサン、 「さすが、荷風。 いいところに目をつけている」 学校で習いました。 4大文明は、大河のほとりに誕生したと。 エジプト文明は、ナイル河、 メソポタミア文明は、チグリス・ユーフラテス河、 インド文明はガンジス河、 中国文明は黄河でしたっけ。 そして、世界の有名な都市は、 すべてステキな川のほとりにあります。 ロンドンのテームズ川、パリのセーヌ川、 NYはハドソン・リバーとイースト・リバー、 ローマはテベレ川、ベルリンはシュプレー川。 そして、東京の中心を流れるのは、隅田川なのです。 オトーサン、 上流に向かって、川沿いの遊歩道を散策しました。 大都会・東京のなかで、 これだけ開放感あふれる遊歩道はほかにないでしょう。 「セーヌ河畔よりいいな」 セーヌ河畔は、犬の糞だらけ、 とても歩けるような状態ではありませんでした。 (最近は、きれいになっていますが) 「おお、最新式の観光船だ」 流線型になったので、セーヌ川の風景に似てきました。 「おお、やっとる、やっとる」 パン屑をやたら振り撒いているおじさんに出会いました。 清澄庭園でバカなマネをした直後なので、親近感を覚えました。 ゆりかもめは、すばしこい水鳥です。 空中でエサを捕らえることができるので、 手賀沼で白鳥にエサを投げると、途中でさらっていきます。 頭にきて、それ以来、この鳥の印象が変わりました。 容姿はいいが、性根の腐っている女か、 毛並みはいいが、平気で悪事を働く連中か。 「...やっぱり」 おじさんのパン屑がなくなると、 ゆりかもめの群れは、今度は観光船のほうへ。 どこにエサがあるか、ちゃんと知っているのです。


26 春の水辺紀行、すみだ川、その2

オトーサン、 足が疲れてきました。 サッカーボールを上手に蹴り上げている若者に、 聞いてみました。 「この遊歩道、どこまで続いているのですか?」 「あの先までですね」 あの先と指されたところまで行ってみました。 両国橋よりは手前で、見覚えのある橋です。 「そうか、ここなんだ」 首都高・6号向島線と7号小松川線が合流する渋滞名所。 ひどい時など1時間近くも一寸刻みで、 イライラしながら隅田川を見下ろしていましたっけ。 でも、今日見る隅田川はステキです。 同じ場所なのに、視点が変わっただけで、 またく違った場所に感じられるのは、不思議です。 荷風を読む前と後では、 訪れる場所の印象がまったく変わってしまいます。 心の働きって、微妙なものですね。

オトーサン、 「ここ自転車で走れるようにすればいいいのに」 そう思った瞬間、自転車のおじさんが出現しました。 「おじさん、ここ自転車で走っていいの?」 「....」 気まずそうな顔をして走り去っていきました。 どこの世界にも、不心得者がいるのもです。 「おお、歌碑があるんだ」 ゆっくり歩いて、はじめて気がつきました。 「あるわ、あるわ」 芭蕉の歌碑が数多く遊歩道に沿って立っています。 ・古池や 蛙飛び込む 水の音 ・花の雲 鐘は上野か 浅草か

オトーサン、 ようやくスタートした万年橋へ戻ってきました。 するとジョギングで追い越していった若い夫婦が、 万年橋を渡って、対岸の隅田川沿いを走っていくではありませんか。 「なーんだ、芭蕉庵はあっちだったんだ」 マネをして、下流方向へ散歩を開始しました。 「ここ、どこかなぁ?」 思い出しました。 首都高9号深川線です。 オトーサン、 「汗、かいてきたなぁ」 もう小1時間も早足で歩き続けています。 「すいません、あの橋、何という名前ですか?」 ベンチに腰をかけて煙管で煙草を吸っているひとに尋ねました。 「ああ、あれね、いーたいばし」 「いい鯛橋?」 「ああ、いーたいばしね」 突如、了解しました。 江戸っ子は、”えいたいばし”と正しく発音できないのです。 「分かりました、永代橋ですね。 じゃ、永代橋の向こうの橋は?」 三角定規のように見えなくもありません。 「あれか、何と言ったけなぁ」 おじさん、新しい橋の名前は知らないようです。 覚えたくないのかも。 正解は、中央大橋。 晴海から佃島へ。 リバーティ21の超高層マンション前を通過する橋です。 八丁堀を経て東京駅へ、よく都バスで通ったもの。 間近でしかみていなかったので、 こうして遠方から見ると、随分印象がちがいます。

オトーサン、 「印象が違うと言えば...」 短編随筆「夏の町」には、 荷風の少年時代のこんな回想が載っていました。 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れた その頃の事を回想して今に愉快でならぬのは 七月八月の両月を大川端の水練場で送った事である。 自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も深く、 そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も急激であるかを、 もし質問する人でもあったら一々明細に説明する事が出来るのは 皆当時の経験の賜物である。 (略) 自分が水泳を習い覚えたのは新伝流の稽古場である。 新伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮州の上に建てられる。 浮洲には一面葦が茂っていて汐の引いた時には 雨の日なぞにも本所辺の貧しい女たちが蜆を取りに出てきたものであるが 今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、 浜町河岸には今以って毎年水練場が出来ながら、 わが新伝流の小屋のみは他所に取払われ、 浮洲に茂った葦の葉は二度と見られぬものとなった。 一通遊泳術の免許を取ってしまった後は教師の監督を離れるので、 朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場衣服を脱ぎ捨て 肌襦袢のような短い水着一枚になって大川端をば汐の流に任して 上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、 疲れると石垣の上に這上って犬のようのに大川端を歩き廻る。 濡れた水着のままでよく真砂座の立見をしたことがあった。 永代の橋の上で巡査に咎められた結果、 散々に悪口をついて捕えられるなら捕えて見ろといいながら 四、五人一度に橋の欄干から真逆様になって水中へ飛込み、 暫くして四、五間も先の水面にぽっくり浮み出して、 一同わァいと囃し立てた事なぞもあった。 オトーサン、 信じられません。 随筆でなく、SFかと思ってしまいそうです。 「隅田川は、泳げたんだ」 「永代橋から飛びこんだ?」 しかも、荷風少年は、実に元気でした。 吾妻橋あたりまで泳ぎ切ったとは。 歩くだけでも、大変だというのに。

photo:緑色がかつての本所御舟蔵の所在地。


27 春の水辺紀行、芭蕉稲荷・記念館

オトーサン、 「なーんだ、こんなところにあったんだ」 万年橋の東屋に、案内地図があれば、 隅田川畔をあんなに探し歩かずにすんだのです。 「なーんだ」 正木稲荷神社、 隅田川と清澄橋がみえるのはいいのですが、 何という無趣味な公園にしてしまったのでしょう。 昔の芭蕉庵の絵があったので、わずかに気が落ち着きましたが...

 
オトーサン、
「なーんだ。こんなちっぽけなんだ」
芭蕉稲荷は、10メートルほど先にありました。

次は、芭蕉記念館。 「すみません」 おばあちゃんをみつけたので、場所を訊きました。 「あそこよ、すぐ先よ」 すぐ先という言葉は、要警戒です。 「何メートルくらい?」 「すぐ先よ、いいところよ」 おばあちゃんの辞書には、メートルはなさそうです。 100メ−トルほど歩きました。 「こんな倉庫ばかりのところにあるのか?」 読者のみなさん、 同じ過ちを繰り返してもらいたくないので、地図を載せましょう。

オトーサン、 「こんなビルなのか...」 「こんなに、せせこましいのか...」 おばあちゃんは、ほめていましたが、 この記念館、あまり感心しませんでした。 館内は撮影禁止でした。 芭蕉の墨染めの衣はネットで入手し、 芭蕉が愛した蛙は、絵葉書を撮影したもの。

 
オトーサン、
「つまらなかったなぁ」
期待が大きすぎた反動でしょう。
荷風は「深川の散歩」で、こう書いています。

わたくしはこの愁路の傍らに
芭蕉庵の址は神社となって保存せられ、
正木稲荷の祠はその筋向かいに
新しい石の華表(鳥居)をそびやかしているのを見て、
東京の生活はいかにいそがしくなっても、
まだまだ伝統的な好事家の跡を絶つまでには至らないのかと、
むしろ意外な思いをなした。

震災で、深川一帯が全焼したなかで、
このあたりが残っていたのがよほどうれしかったのでしょう。

オトーサン、
「さあ、帰ろう」
もう午後3時を過ぎています。
最短経路で、御徒町駅へ戻ろうと、
新大橋を渡って、浜町公園の脇を通り、清澄通りを北上しました。
「変だな」
どこで道をまちがえたのでしょうか?
浅草橋駅に出てしまいました。
「浅草橋か」
”トヨタ50年史”の執筆者だったKくんが、
はじめて東京に出て、浅草の観音様を見学しようとして、
この浅草橋で降りてしまったのです。
「遠かったですよ、遠かったの何の」
このKくん、
明治記念館が結婚式場とは知らずに
見学に行ったこともあるとか。

オトーサン、
仕方がないので、御徒町駅を断念して、
浅草駅へ行くことにしました。
「自転車だと早いなぁ」
もう雷門のにぎわいが見えてきました。
「ボンソワールで、ひとやすみするか」

荷風には、「断腸亭日乗」なる日記があります。 その晩年の記述に目を通すと、 哀切きわまりない想いがしてきます。 文章がどんどん短くなっていくのです。 最後は、俳句のようです。 毎日のように「アリゾナにて食事」が出てきますが、 ”ボンソワル”なる文字も散見します。 すべて、採録してみましょうか。 (1950年) 五月十一日。晴。正午ロック座に至る。拙作「渡鳥」初日なればなり。 午後巌谷氏楽屋に来る。終焉後女優らとボンソワールに食事してかへる。 八月初三。雨。午前木戸氏上林氏来話。夕刻浅草。 小川佐藤桜鈴木田毎らとボンソワルに飲む。帰途また驟雨。 (1951年) 四月十六日。晴。夜浅草。マッカーサー元帥日本を去る。 九月二十日。陰また晴。夜浅草。ボンソワル。 九月二十三日。日曜日。晴。植木屋二人来る。夜浅草。ボンソワルに食す。 (1952年) 正月二日。陰。高梨氏來話。夜雨。ボンソワルに食す。 (1953年) 七月二九日。晴。島中氏来話。夕食浅草ボンソワル。 ボンソワール、 カフェ・レストランに衣替えしていました。 エクテリアはオレンジ、インテリアはピンク。 「あーあ」 店のひとは、荷風を知らず。 こんな風では、荷風なら、こんな句を思いだすかも。 ・名月や 銭金いはぬ 世が恋ひし 知十翁


28 荷風残照、真間川・弘法寺

オトーサン、 「今日は、黄砂がすごいなぁ。  市川でも、桜はもう散ってしまっただろうな」 今回は、終戦後、焼け出された荷風が移りんだ地を訪れ、 晩年を迎えた荷風残照をしみじみと味わいましょう。 今日の荷風探訪コースは、16.5km。 東京の下町を離れて、千葉・市川周辺の旅です。 ・矢切駅 - 江戸川・真間川 - 弘法寺 - 手児奈霊堂・亀井院 -   文学の道 - 居宅跡・白幡天神社 - 葛飾八幡宮 - 終焉の家 -京成八幡駅 

オトーサン、 「さて、市川へは、どうやって行ったものだろう」 本八幡や市川妙典の映画館へは、 クルマで度々通っています。 自宅から1時間くらいでしょうか。 試しに自転車で行ったこともあります。 往復40kmくらいでした。 でも、この方法だと見学する余裕がなくなってしまいます。 「そうだ、柴又まで電車で行って、 それから江戸川を下って、市川へ出てみよう」 増尾駅から船橋行きに乗って、 鎌ヶ谷で乗り換え、北総線の新柴又へ。 このルートは、2度目です。 「そうか、矢切で降りる手があったな」 何も江戸川を渡ることはないのです。 ひとつ手前の矢切駅で降りて、 江戸川べりを南下すれば、すぐ市川へ出ます。 オトーサン、 「さて、どう行ったものか」 構内は馬鹿でかいのですが、 駅舎を外から撮ると可愛らしくみえます。 静かなというか、さびれた駅のひとつでした。 この先の道は、 駅前交番の巡査に教わったとおりでした。 道はくねくねし、起伏がかなりあります。 でも、西へ向かいさえすれば、 江戸川に出ることが分かっているので、 自信満々で行くと、 「やや!」 高い崖の上に出ました。 江戸川を見下ろす絶景ですが、 その甚だ急な階段をみると降りるのはムリなようです。 右手に林、左手に住宅地をみて、ひたすら南下しました。 「へぇ、ここにあるんだ」 静かで手入れのいい里美公園に出ました。 八重桜が満開でした。 急坂を下ると、もう江戸川沿いのサイクリングロード。 「いつ来ても、いい景色だなぁ」 いい写真になる予感がします。

オトーサン、 「次は、真間川だな」 1946年、荷風は67歳になっていました。 オトーサンが柏に移転したのと同じ頃です。 荷風は、市川に移り住んでからも、 健脚ぶりを発揮して、 菅野の借家周辺を散歩しはじめました。 随筆「葛飾土産」には、こんな一節があります。 荷風は散歩の達人ですから、 生き生きと記述された場所は、 忽ち光彩を放ち、訪れてみたくなるのです。 真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。 手児奈という村の乙女の伝説から 今もってその名は人から忘れられていない。 市川の町に来てから折々の散歩に、 わたくしは図らずも江戸川の水が国府台の麓の水門から導かれて、 深く町中に流込んでいるのを見た。 それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、 その道筋を見きわめたい心になっていた。 これは子供の時から覚え初めた奇癖である。 何処ということなく、道を歩いていてふと小流に会えば、 何のわけとも知らずその源委をたずねて見たくなるのだ。 来年は七十になるというのにこの癖はまだ消え去らず、 事に会えば忽ち再発するらしい。 雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。 オトーサン、 矢切駅から、3.33km。 11時33分に真間川の取水口に到着しました。 「どうってことのないドブ川だなぁ」 清流どころか、相当汚れています。 橋の欄干には、水質検査の作業員がいました。 荷風の頃は、清流だったのです。 真間川の水は、ここを源流として東に流れ、 本八幡駅の先から南下して、原木へ。 旧江戸川に注ぎこみ、まもなく東京湾へ出るのです。 荷風の健脚ぶりを示す一文をご紹介しましょう。 或日試みた千葉街道の散策に、 わたくしは偶然この水の流れに出会ってから、 生来好奇の癖はまたしてもその行衛と その沿岸の風景とを究めずにはいられないような心持ちにならせた。 流は千葉街道からしきりと東南の方へ迂回して、 両岸とも貧しげな人家の散在した陋巷を過ぎ、 省線電車の線路をよこぎると、 ここに再び田と畠との間を流れる美しい野川になる。 しかし、その眺望のひろびろしたことは、 わたくしが朝夕その仮寓から見る諏訪田の景色のようなものではない。 水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。 遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のあたりに横たわっているあたりに、 灰色の塔の如きものの立っているのが見える。 (略) 畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、 折々飛び立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、 近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。 (略) たどりたどって尋ねてきた真間川の果てももう遠くはあるまい。 鶏の歩いている村の道を、二、三人物食いながら来かかる子供を見て、 わたくしは土地の名と海の遠さとを尋ねた。 海まではまだなかなかあるそうである。 そして、ここは原木といい、 あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。 寺の太鼓が鳴り出した。 初冬の日はもう斜である。 わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。

オトーサン、 ガイドブックを取りだしました。 「弘法寺に寄るといいと書いてある」 この本は、比較的薄いので、持ち歩きに便利です。 ・井上明久・藪野健「荷風2時間ウォーキンング」中央公論新社 2004年 「おお、ここか。すごい階段だな」 この階段を自転車を担いで登るのは大変そうです。 幸い本堂へ向かう車道があったので、そちらを利用しました。 これも息が切れるほどの急坂でした。

「なかなか、いい構えだなぁ」 幸い、左手の仁王様の金網が破れていたので、 その隙間にカメラのレンズを向けて、撮影に成功しました。 フラッシュなしで、これだけ明るいのですら、 最近のデジカメの性能はおそるべしです。

 
オトーサン、
ようやく境内に入って、本堂を撮影しました。
「これは興冷めだな」
建てかえられて、コンクリート造りに。
「これが枝垂れ桜か」
樹齢400年、伏姫桜という名がついています。
でも、もう葉桜もいいところ。
「残念だなぁ、荷風は見ただろうになぁ」

○真間山弘法寺  奈良時代、基菩薩が立ち寄った折、   手児奈の心情を哀れに思われ、一宇を建て、霊を弔った。   弘法大師が来訪時、「求法寺」を「弘法寺」と改称。   鎌倉時代1275年、法華経の道場となり、日頂上人が開山となった。   その折、日蓮聖人が大黒天を授与し、寺宝となっている。   元旦と初甲子にかぎり開帳されている。  住所:千葉県市川市真間4-9-1   電話:0473-71-2242 


29 荷風残照、真間川・弘法寺

オトーサン、 「よいしょ、よいしょ」 弘法寺の急階段をBD-1を抱えて、下り切りました。 「腹減ったなぁ」 でも、今日のお昼は、出てくるときから、 荷風ゆかりのお店で食べることに決めております。 「手児奈霊堂はどこにあるのかなぁ」 幸い通りすがりの場所にありました。 弘法寺とは目と鼻の先。

「ここが手児奈霊堂か」 悲しい美女の伝説が残されていなければ、 すーと通り過ぎてしまう社寺のひとつです。 参拝者は、わずかに杖を引く老人ひとり。

「分かった、こんなところだったのか」 空腹で先を急ぐので、次は亀井院。 ここには、手児奈が水を汲んだという真間の井戸がありました。 「ふーん」

オトーサン、 ついに、路傍の芙蓉亭に飛び込みました。 「ワンタン!」 ワナタンメンでなく、ワンタンならおやつ代わり。 大黒屋の昼食「荷風セット」も、お腹に収まるでしょう。 食後、真間の継橋に向かいました。 「これか、チッポケな橋だなぁ」 その昔、ここは入り江で、そこにかかっていたのです。 いまは、千葉商科大学の学生たちの通学路か。

オトーサン、 手児奈ゆかりの地をすべて見終えて、 先を急ぎながらも、やや後悔しました。 「手のひとつも合わせてやれば、よかったなぁ」 読者のみなさん、 もし、この地を訪れることがあったなら、 創作した新・手児奈伝説をご一読下さい。 地上から争いが永遠になくなることをともに祈りましょう。 ○新・手児奈伝説  万葉のむかし、蘆の茂れる海辺に村里あり。  真水の出る稀なるよき井のもとに稚児集いけり。  おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、  男は「この女をこそ得め」と思ひ、女は「この男を」と思ふ。  なかに粗末な衣なれども、見目麗しき娘あり。  其の名を手児奈と呼べリ。  甲斐性なき国造りの娘なりしが、  求婚する男引きも切らず、そのさま雲霞の如し。  隣国に武き国主おりて、恋しき男あるも、  政略をもって手児奈を嫁とするに至れり。  時経りて、両国の間に戦乱生じるや、  忽ち鬼将と化し、蘆舟に乗せ、妻を海原に放てる。  不思議なるかな、一陣の風起こりて、  真間の浦に舟を吹きよせ、手児奈は九死に一生を得たり。  嗚呼、これも神の御加護かと手児奈は喜びに震え、  人の行き通はぬ崖下に庵を営み隠れにけり。  心静かに日々を送らむとするも、  数多の男、美貌いまだ衰えざるを聞きつけ、  遠く都からも来りて、手を変え品を変え甘言を弄せり。  あまつさえ男どもの醜く争う様をみて、  「吾が心は、千葉のように分かつことはできても、  吾が身体はひとつにして、分かち難し、いかにすればや」  うち泣きて、あばらなる板敷きに月のかたぶくまで伏せり。  鹿の鳴けるを聞きて、心定まり、手児奈は庵を去りて、  真間の井戸より流れでる清流に沿いて歩めり。  歩み遅く、限りなく遠くも来にけるかなと思へしが、  たちまち真間の入り江に至れり。  夕日の海に沖つ白波たつをみて、かなしと思へり。  「吾が身はいずれ死ぬ身なりけむ。  つひにゆく道とはかねて聞きしかど今宵とは思はざりし」   死をもって、争いを永遠に絶たむと波間に身を投げ入れたる。  その夜、嵐起こりて、手児奈の遺骸を浜に吹きよせり。  言い寄りし男ども、遺骸を前に打ち揃いて嘆き悲しみ、  相携さえて真間の井戸の傍らに懇ろに葬れり。    ・勝鹿の 真間の井見れば 立ち平し      水汲ましけむ 手児名し思ほゆ           万葉集 高橋虫麻呂   ・我も見つ 人にも告げむ 勝鹿の      真間の手児名が 奥津城ところ            万葉集山部赤人 ・足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の        真間の継橋やまず通はむ             読み人知らず オトーサン、 「おお、桜並木は残っているじゃないか」 もう葉桜もいいところですが、真間川沿いにありました。 荷風が生きていたら、さぞ喜ぶことでしょう。 いまは、格差が拡大しているとはいえ、 平和で桜を愛でる余裕が出てきたのです。

真間川の水は提の下を低く流れて、 弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、 数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。 その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は 明治三十年頃われわれが墨田堤に見た桜と同じくらいかと思われる。 空襲の頻々たるところ、この老桜がわずかに災を免れて、 年々香雲あいたいとして戦争中人を慰めていたことを思えば、 また無量の感に打たれざるを得ない。 しかし、この桜もまた隅田堤のそれと同じく、 やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。 戦敗の世は人挙って米の価を議するにいそがしく 花を保護する暇がないであろう。 オトーサン、 道端で出合ったおばさんに尋きました。 「文学の道って、どっちにあるのですか?」 「この川ぞいにしばらく行けば、分かるわよ」 「ありがとう、しばらく行くのね」 「そうよ」 またもや曖昧表現ですが、止むをえません。 「おー、ここだ」 またもや葉桜ですが、止むをえないでしょう。 満開の頃は、さぞや美しいことでしょう。

オトーサン、 文学の道を発見しました。 桜並木の遊歩道に文化人の碑が点々と。 「十把一からげか」 戦時中当局におもねった輩のなかに荷風記念碑もありました。 市川在住の文化人を並べて悦にいってる 教育委員会の面々の顔が浮かびました。 上記のマンガも教育委員会のアイディアでしょう。 最初はグー、最後はペケですぜ。 荷風なら、こういい捨てたことでしょう。 我国役人気質の愚劣なること唯これ一驚すべきのみ。


30 荷風残照、菅野仮寓・白幡天神社

オトーサン、 「さあ、いよいよ荷風の寓居跡探しだな」 頼りになるのは、大雑把な地図と住所のみ。 自力で探すのをあきらめて、新聞配達店に飛び込みました。 「すいません。菅野4-17-5って、どのあたりでしょう? 流石その道のプロ、新聞全紙くらいの地図があって、 それを一緒に見ながら探してくれました。 「この先の信号の手前の道を右手に折れればすぐだね」 もうダイジョウブと一安心いたしたのですが... 「しまった!」 念のために控えていた住所を確認したら、 菅野3-17-5の間違いでした。 もう一度、新聞屋さんに頭を下げればいいのでしょうが、 恥ずかしいので、自力で探索開始。 「なんで、こう住所を表示しないんだ」 新しく建てられた家は、軒並み住所表示なし。 日出学園の周りなどはくるぐる2周もしてしまいました。

オトーサン、 「ここかな?」 もはや荷風が間借りしていた家などありません。 住所が該当するだけで、よしとしなければ。 菅野3-17-5とあった表札を撮影しました。 プライバシーに配慮して、掲載はとりやめましょう。 戦時中、荷風は悲惨な状況におかれます。 自宅が焼け、引越先の中野が焼け、疎開先の岡山も焼け、 熱海に疎開した後、ようやく、この地へ。 1946年1月16日、従弟の家に転がりこんだのです。 「断腸亭日乗」の記述をご紹介しましょう。 一月十六日。晴。 早朝荷物をトラックに積む。 五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過熱海を去る。 余は五里その次男及田中老人らと一時四十分熱海発臨時列車に乗る。 乗客雑沓せず。夕方六時市川の駅に着す。 日既に暮る。歩みて菅野二五八番地の借家に至る。 トラックの来るを待てども来らず。 八時過に及び五里の細君来りトラック途中にてしばしば故障を生じたれば 横浜より省線電車にて来れりと言ふ。 長男十時過に来りトラック遂に進行しがたくなりたれば目黒の車庫に至り、 運転手明朝車を修繕して後来るべしと語る。 夜具も米もなければ俄にこれを隣家の人に借り哀れなる一夜を明したり。 一月十七日。晴。 荷物を積みし車の来りしは日も既に暮れし後なり。 米炭その他盗まれしもの少からずと云ふ。 オトーサン、 「閑静な住宅街じゃないか」 道が細くて、曲がりくねっているので、 クルマが入ってこられない関係で、 格好の散歩道になっています。 荷風は、この市川暮らしが気に入ったようです。 随筆「葛飾土産」には、こんな一文が。 戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の付近に、 むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、 まったく思い掛けない仕合せであった。 わたくしは近年市街と化した多摩川沿岸、 また荒川沿岸の光景から推察して、 江戸川東岸の郊外も、 大方樹木は乱伐せられ、草は踏みにじられ、 田や畑も兵器の製造所になったものとばかり思込んでいたのであるが、 来て見ると、 まだそれほどには荒らされていない処が残っていた。 心して尋ね歩めばむかしのままなる日本固有の風景に接して、 伝統的なる感興を催すことが出来ないでもない。 (略) 松、征木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、 夏の朝早く鰯を売りあるく男の頓狂な声。 さてはまた長雨の晴れた昼すぎに聞く竿竹売や、 蝙蝠傘つくろい直しの声。 それらはいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手で聞き馴れ、 そしていつか年と共に忘れ果てた懐かしい巷の声である。 読者のみなさん、 もう消えてしまった荷風の寓居ですが、 たまたま当時のスケッチが残っていたので、ご紹介しましょう。

オトーサン、 荷風寓居跡を去って、先を急ぎます。 「おっ、この風景は、荷風の風景かも」 わずかに松並木の跡が残されています。 板塀の家も。 でも、荷風は、この菅野の寓居を 次第にうとましく思うようになっていくのです。 「断腸亭日乗」には、こんな記述が出てくるようになりました。 八月初三。晴また陰。 午前隣室のラジオ既に騒然たり。 頭痛堪えがたければ出でて小川氏を訪ふ。 午後小川氏来り話す。 夕飯後机に向かうに家内のラジオ再び起る。 鉛筆手帳を携へ諏訪神社の林下に至り 石に腰かけて数行を草する中夜色忽ち迫り来たり 蚊もまた集り来る。 国道を歩み帰宅後耳に綿をつめ夜具敷延べて伏しぬ。 この有様にては五月以来執筆せし小説「さち子」の一編も 遂に脱稿の時なかるべし。 悲しむべきなり。 八月十三日。晴。 夜机に向かはむとするに隣室のラジオ喧騒を極む。 苦痛に堪えず。 門外に出るに明月松林の間に昇るを見る。 ラジオの歇みたるは十時過ぎなり。 その時まで林下の小径を徘徊するに露気肌に沁みて堪がたく、 虫の声は昨夜よりも多し。 家にかへるに疲労して何事をも為す能わず。 悄然燈を滅して寝に就く。 十二月三十一日。陰、後に晴。 正午扶桑書房主人来話。共に林屋に茶を喫す。 小西方にて読書。 不在中陵霜子来訪。餅を恵まる。 褥中読書。唯睡魔の来るを待つなり。 今年ほど面白からぬ年はわが生涯にかつてなし。 貸間の生活の読書詩作に適せざること 今に至りて初めてこれを経験したり。 言ふべきこと記すべきことなし。 隣室のラジオに耳を蓋うて亡国の第二年目を送らむのみ。 読者のみなさん、 こんな風に荷風の愚痴は年末まで続いたのです。 「文豪なのに...信じられなーい。  お金持ちだったろうに」 進駐軍による預金封鎖の噂もあって、 金欠病におびえていたのです。 しかし、荷風はついに翌1947年1月8日、 知人のフランス文学者小西茂也宅へ転居することになります。 (後で知ったのですが、この小西宅 日出学園の反対側、菅野3-19-8でした。 探し歩いていたときに通り過ぎていたようです) オトーサン、 自転車を走らせていると、神社にぶつかりました。 「荷風は、ここでも、藪蚊に悩まされたのかなぁ?」 そんなことを思いながら、参拝いたしました。

この神社、荷風は菅野に引っ越して3ケ月後に その存在を知ったようで、こんな記述があります。 四月十八日。晴。南風烈し。 午後八幡の湯屋に行きしが休の札出したれば 帰途垣根道の曲がり行くに従い歩みを運ぶに、 老松古榎欝然として林をなせる処、一宇の廃祠あり。 草間の石柱を見て初めて白幡神社なるを知る。 八月初二。時々驟雨。 昨日より闇市取払となり八百屋に野菜少なし。 白幡祠畔の氷屋六平心やすければ立ち寄り その畠につくりし茄子胡瓜を買つてかへる。 隣室のラジオ今夜もまた騒然たり。 封鎖預金いよいよ没収の風聞あり。 ○白幡天神社  1180年、源頼朝が安房の国に旗上げの際に  当地に白旗を掲げたので「白幡」と名づけられた。  現在の本殿は明治13年に造営された。  社額は勝海舟の揮毫によるもの。  住所:市川市菅野1-15-2


31 荷風残照、葛飾八幡宮・大黒家・終焉の家

オトーサン、 「気の毒だなぁ」 荷風は、小西茂也宅へ転居したものの、 間借りは、何かと支障があったようです。 一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。 小西氏の家水道なく炊畢盟漱共に 吹きさらしの井戸端にてこれをなす困苦言ふべからず。 加ふるにこの日朝より電気来らず。電気あんかも用ふる事能はず。 終日夜具の中にうづくまりて読書す。 電気は去ル六日より二日置きならでは使用すること能はざる由。 三時頃凌霜子来り話す。 夜小西氏今宵の寒さ氷点下二度なれば 夜ふけて寒さいよいよ烈しくならん時の用心したまへとて 夜具一枚持出でて貸し与へらる。深情謝すべし。 三月初九日。忽ち晴れ忽ち陰。 農夫頻りに畠を耕す。烏鶯処々に飛ぶを見る。 町に行きて野菜サラドを買ふ。 夜先考の詩集をよむ。 ラジオ騒然たり。 されどこの度移りし家はやや広ければ 五叟の家に比すれば忍びやすし。 夜十時過ぎラジオ始めて歇みしが 執筆の感興既に逸して机に向かうを得ず。 洋服のほころびを繕いて後寝に就けり。 一昨年の今月今夜麻布の家を失いてより遂に安住の処を得ず。 悲しむべきなり。 1958年の年末、荷風は、中古住宅を買って移転しています。 「断腸亭日乗」に、こんな記述があります。 十二月十三日。快晴。温暖春の如し。 午後小林氏と共に八幡の登記所に至り 売主代理人と会見し家産の登記をなす。 然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ 途法に暮れをるを見て気の毒に思ひ その老母と共に周旋すること頗懇切なり。 今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし。 小林氏の老母はなほ心あたりをさがして 女中になるぺきものを求めて後引越の世話をすぺしと言ふ。 菅野一、一二四番地平家建瓦葺家屋十八坪金参拾弐万円。 登記印紙代二千四百円。登記証記載金高五万円 オトーサン、 「東菅野2-9、 いまは何も残っていないのか。 じゃ、行くのはやめよう」 終焉の地を訪ねることにしました。 下調べした住所は、市川市八幡4-25-8とあります。 「葛飾八幡宮のそばかな?」 裏手を尋ね歩きましたが、 近所のひとは、最近引っ越してきてわからないとか、 この辺ではないわよと否定します。 「弱ったなぁ」 とりあえず、有名な千本イチョウを見学しました。 荷風が好きだった桜草の市もやっていました。

○葛飾八幡宮の千本イチョウ
 関東最大のイチョウの巨樹
 隙間なく幹が折り重なっている。
 目周り12m、樹高20m、樹齢1000年 
 国指定天然記念物 
 場所:市川市八幡4-2

オトーサン、
「おかしいなぁ、もしかしたら、この辺かも」
八幡4丁目の外れで、
ステッキをもって散歩中の老人に出会いました。
「ああ、荷風終焉の家なら、大黒屋に行って聞けばいい。
京成八幡駅の前だよ」

オトーサン、 いそぎ大黒屋へ。 「ありゃ、支度中だ」 でも、勇を鼓して店内へ。 「すいません。荷風の家を探しているんですが」 「ああ、すぐそこだよ」 老婆が快く相手してくれました。 一安心すると、お腹がグーグー。 「あのう、荷風セット、いま食べられますか?」 「いいですよ」 支度中なのに、老婆は注文を受けてくれました。 まるで、下町の行きつけのお店のようではないですか。 聞けば、この老婆は女将で、28歳のときに嫁いできて、 最晩年の荷風に食事を提供したとか。 「荷風さん、どの席に座ったの?」 「あなたの座っている後ろの席よ」 ほどなく荷風セットがやってきました。 カツ丼、上新香、日本酒一合。 昼間から酒は呑まないことにしていますが、 今日だけは例外。 「うまい酒だね。 この上新香、おいしいねえ」 「...」 カツ丼のほうを褒めるべきだったかも。 「いつも、同じものを食べられてね」 いつも、大事に大金の入った鞄を抱いておられた。 家に置いておくと、無用心だといって」 「一度落としたこともあったしね」 「...」 「荷風さん、ここから浅草へ通われたのでしょう?」 「ああ、判を押したようでしたね」 写真中央は荷風が通った頃の大黒家。

○大黒家    
 住所:市川市八幡3-26-5
 電話:047-322-1717
 営業時間:1100-1400 1630-2200   
   (土・日・祭日 1100-2100)   
 定休日:第一木曜日 

読者のみなさん、
「断腸亭日乗」における大黒家の記述をすべて採録しましょう。
「最後の日もこられたの?」
「ええ」
大黒家なのに大黒屋と勘違いしていたようです。
最後は、大黒屋と書くのも、もう億劫になったのかも。

(1959年)
三月一日。雨。
正午浅草。病魔歩行困難となる。
驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。
三月十一日。晴。正午大黒屋食事。
三月十二日。晴。嶋中高梨両氏来話。病臥。晩食。
三月十三日。晴。正午大黒屋。
三月十四日。晴。正午大黒屋。相磯氏来話。
三月十五日。晴。正午大黒屋。
三月十六日。晴。正午大黒屋。
三月十七日。雨また陰。正午大黒屋。
三月十八日。晴。正午大黒屋食事。
三月十九日。晴。正午大黒屋。
三月二十日。晴。正午大黒屋。
(略)
四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼食。
(略)
四月二十九日。祭日。陰。

オトーサン、
「もう一度伺いますが、
荷風さんの家、どう行けばいいんですか?」
「ウチの裏手よ、2分もしないで着くわよ。
永井って書いてあるわよ」
「そうですか」
路地を突き当たってすぐ、右手奥の家。
荷風終焉の家のように思えましたが、
表札の名前が違います。
それに番地も違います。
八幡町3-25とあって、4-25ではありません。
4-25を求めて、さらに路地裏へ。
「分からんなぁ」

オトーサン、
鞄に忍ばせてきた
1957年3月27日の「断腸亭日乗」をチェックしました。

三月廿七日。晴。
午前十時凌霜子小山氏来る。小林来る。
十一時過荷物自働車来り荷物を載せ八幡町新宅に至る。
凌霜子、小山氏の二人と共に新宅に至り 
それより小林の三人にて運転の荷物を整理するに
二時間ほどにて家内忽ち整理す。
二氏午後三時頃去る。
余一人粥を煮て食事をなす。

四月十八日。陰。後に晴。
小林来話。菅野の旧宅明日買手の人に売渡し代金持参すべしといふ。
正午過浅草。アリゾナ

オトーサン、
目を皿のようにして、病没日まで見ましたが、
住所は出ていません。
恥をしのんで、大黒家に舞い戻りました。
先程撮影したデジカメ液晶画面を見せます。
「おばあちゃん、表札がちがうけど、この家かねぇ?」
「そうよ。ここよ、養子さんが家を継いだけど、
ひとがうるさいから表札を変えたのかもね。
あたし、最近足が弱ったので、しばらく行ってないけど」
「ありがとう。おかげで、念願がかないました」
どうやら本に出ていた番地がちがっていたようです。
帰宅後、ネットを探しまわったら、
ちゃんと居宅の写真も出ていたし、
荷風が大事に抱えていた手提鞄の写真も出ていました。
出典:東京紅團 荷風散策
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kafu-10.htm

オトーサン、
「でもなぁ」
こうやって、足を棒にしてようやく見つけたおかげで
荷風への想いがいっそう深まってきました。
「...お墓まいりに行ってあげなくては」


32 荷風追憶、偏奇館跡、その1

オトーサン、 「もう桜は散ってしまったなぁ」 先日、荷風の終焉の家を訪れたのですが、 お墓まいりに行きたくなりました。 今回の荷風探訪コースは、30.78km。 2つのゆかりの地もあわせて訪ねることにしましょう。 ・秋葉原 - 皇居 - 溜池 - 偏奇館跡 - 抜天神・西向神社・断腸亭跡 -  戸山高校 - 鬼子母神 - 雑司が谷霊園 - 日暮里駅 

オトーサン、 地図をつらつら眺めて、 「山手線半周か、ちょっと強行軍だな。  早出しないと、回りきれないかも知れないなぁ」 9時20分にスタートして、電車の乗り継ぎがよく、 1時間後には、TX秋葉原駅へ。 地上に出るのに一苦労ですが、 今回は3回目とあって、長いエスカレーターは敬遠しました。 エレベーターを2回乗り継いで、無事地上へ。 淡路町からお堀端に向かいました。 皇居を半周して、議事堂前、首相官邸を経由して、溜池へ。 溜池跡の碑を発見。 「へぇ、ここに池があったのか。 ほー、徳川3代将軍・家光が子供の頃に、ここで泳いだのか」 いまは交差点。往時を偲ぶよすがは全くありません。 路地を通過して、路地へ。 「溜池眼科か」 ここで、女医さんに目の治療を受けましたっけ。 警備の厳しいアメリカ大使館前へ。 「並ばせているなぁ」 門外の長い行列は、ビザ申請のひとのもの。 いかにも、交付してやるというデカイ態度ですが、 世界中で、こんな調子なら、イメージダウンもいいところ。 木っ端役人は、こんな簡単な事実に気がつかないのでしょうか? 駐日大使は何をしているのやら。 オトーサン、 右手にアメリカ大使館の長い塀、 左手にホテル・オークラをみながら、霊南坂を登ります。 「この坂は、険しいなぁ」 毎月1回水曜日に朝食会があって、 この坂をいつもクルマで通ったものです。 流通懇談会、1969年にはじまって20年ほど続きました。 「橋本保雄さん、お元気かなぁ」 メンバーのおひとりで、オークラの副社長になられました。 「そろそろだな、荷風の旧家跡は」 右手は、スペイン大使館に変わっています。 その先には、スエーデン大使館やサウジアラビア大使館。 この辺は、大使館だらけです。 ○麻布界隈に大使館が多いわけ  日本には約140カ国が大使館を置いている。  そのうち約70カ国が東京・港区にあり、  さらに40カ国近くが西麻布や元麻布などに集中している。  理由は、日本が開国した時、幕府が麻布界隈を選んだため。  「明治政府が大名の別宅を没収し、  それを大使館として外国に貸しつけた。  ドイツ大使館が細川豊前守邸、カナダ大使館は青山備前守邸。  後発国の大使館も、この界隈に集中した。  出典:日刊ゲンダイ:2006年4月15日) オトーサン、 「泉ガーデンのあたりと聞いたけど」 再開発されて、往時を偲ぶものは、何もありません。 当時の地名は、麻布区市兵衛町。 泉ガーデンの住所は、六本木1-5-2。 「分からんなぁ」 立札ぐらいはあってよさそうですが。

でも、この地は、荷風ゆかりの地として欠かせません。 1919年、41歳の荷風は、 この風雅な地が気にいって、新居を建てることしたのです。 「断腸亭日乗」で、当時の記述を拾ってみましょう。 家を建てるのは、誰にとっても大仕事ですが、 文豪もひとの子、その弾む心が伝わってきます。 (1919年) 十一月八日。 麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。 帰途我善坊に出づ。 このあたりの地勢高低常なく、 岨崖の眺望あたかも初秋の暮霞に包まれ意外なる佳景を示したり。 西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る。 帰宅後ノワイエ夫人の「新しき望」といふものを読む。 十一月十二日。 重て麻布市兵衛町の貸地を検察す。 帰途氷川神社の境内を歩む。 岨崖の黄葉到処に好し。日暮風漸く寒し。 十一月十三日。 市兵衛町崖上の地所を借りる事に決す。 建物会社社員永井喜平を招ぎ、その手続万事を依頼せり。 来春を俟ち一庵を結びて隠棲せんと欲す。 夜木曜会連座に往く。 (1920年) 正月三日。快晴。 市中の電車雑踏甚だしく容易に乗るべからず。 歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。 麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。 日本風の夜具布団は朝夕出し入れの際手数多く、煩瑣に堪えず。 三月十一日。 午後麻布に行く。帰途愛宕山に登る。 春日遅々。夕日白帆に映ず。ぐう花の的歴たるに似たり。 五月廿三日。この日麻布に移居す。 母上下女一人をつれ手つだひに来らる。 麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。 名づけて偏奇館といふ。 五月廿四日。 転宅のため立ち働きし故か、痔痛みて堪え難し。 谷泉病院遠からざれば赴きて治療を乞ふ。 帰来りて臥す。枕上児島献吉郎著「支那散文考」を読む。 五月廿八日。 井川滋君来たり訪はる。 その家余が新居と相遠からざるを以ってなり。 「三田文学」創刊当時の事を語合ひて十年一夢の嘆をなす。 夜雨降り出し隣家の竹林風声颯颯たり。 六月一日。晴。 新居書斎の塵を払ひ書函几案を排置す。 枕上児島氏の「散文考」をよむ。 オトーサン、 「断腸亭日乗」をリュックサックに収って、 「そうか、荷風は、元気なときは、愛宕の山に登ったんだ」 ♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として 神谷町方面をみて、愛宕山を探しました。 高層ビルだらけで、愛宕山なんか隠れてしまっています。 「またもや森ビルの仕業か。  どこもかしこも、六本木ヒルズ...」


33 荷風追憶、偏奇館跡、その2

オトーサン、 泉ガーデンのそばで、うろうろ。 乳母車の女性に聞きました。 「すいません、偏奇館跡って、ご存知ないですか?」 「さあ、ここへ引っ越してきたばかりですから」 笑顔もみせず、そさくさと立ち去ります。 人情、紙のごとく薄し。 そこで、戦法を変えて、 工事中のマンションの警備員に聞きました。 「すいません、道源寺はどこですか?」 「知らないなぁ、おれら、ここいら辺の者じゃないから」 移動して、テレビ朝日のほうで、 バイク便のオニーチャンに聞きました。 「あの、キミ、道源寺、どこにあるか知らない?」 「ちょっと待ってください」 彼、若いもんに似合わず親切でした。 三角の肩かけバッグから地図を取り出して、 「ありませんねえ」 「そう...ありがとう」 偏奇館ありし頃の雰囲気を残している道源寺も、 道源寺坂も消えてしまったのでしょうか? それとも、最近の地図は、ビル名を載せるだけで、 お寺の名前など載せなくなったのでしょうか? オトーサン、 もう一度、泉ガーデンへ戻りました。 長い塀に自転車をよせて、 「断腸亭日乗」を取り出しました。 「可哀想に。この偏奇館での隠遁生活も平穏じゃなかったんだ」 引っ越して、3年目に不幸が続きます。 まず、7月11日、幼なじみで唯一心を許せる井上唖々が 46歳の若さで死んでしまったのです。 そして、あの運命の9月1日... (1923年) 九月朔。 こつ爽雨歇みしが風なお強し。 空折々掻曇りて細雨煙の来るが如し。 日まさに午ならむとする時天地忽鳴動す。 予書架の下に座し「桜鳴館遺草」を読みいたりしが、 架上の書帖頭上に落来るに驚き、立って窓を開く。 門外塵煙濛々殆し尺を弁ぜず。 児女雛犬の声頻りなり。 塵煙は門外人家の瓦の雨下したるがためなり。 予もまた徐に逃走の準備をなす。 時に大地再び震動す。 書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。 数分間にしてまた震動す。 身体の動揺さながら船上に立つが如し。 門によりておそるおそるわが家を顧るに、 屋根瓦少しく滑りしのみにて窓の扉も落ちず。 やや安堵の思をなす。  昼餉をなさむとて表通の山形ホテルに至るに、 食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に座したり。 食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能わず。 庭上に座して唯戦々恐々たるのみ。 物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。 ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。 十時過江戸見坂を上り家に帰らむとするに、 赤坂溜池の火は既に葵橋に及べリ。 河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。 葵橋の火は霊南坂を上り、大村伯爵家の隣地にてやむ。 わが庵を去ること僅に一町ほどなり。 十月三日。 快晴始めて百舌の鳴くを聞く。 午後丸の内三菱銀行に赴むかむとて日比谷公園を過ぐ。 林間に仮小屋建ち連なり、糞尿の臭気堪ふべからず。 公園を出るに爆裂弾にて 警視庁及近傍焼残の建物を取壊中往来留となれり。 数奇屋橋に出で濠に沿うて鍛冶橋を渡る。 至る処糞尿の臭気甚だしく支那街の如し。 帰途銀座に出て烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見坂を登る。 坂上に立って来路を顧れば一望唯びょうびょうたる焦土にして、 房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。 帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり。 されどつらつら明治大正現代の帝都を見れば、 いわゆる山師の玄関に異ならず。 愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、 灰燼になりしとて惜しむには及ばず。 近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、 この度の災禍は実に天罰なりといふべし。 何ぞ深く悲しむに及ばむや。 民は既に家を失ひ国土また空しからむとす。 外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。 自業自得天罰てきめんといふべきのみ。 オトーサン、 書を閉じて、安堵のため息。 「荷風も、偏奇館も、関東大震災を生き延びたんだ」

photo:在りし日の偏奇館 明治末期に溜池を埋め立てなかったら、 火の手は霊南坂まで上ってこなかったでしょう。 わずか一町(109m)、危ないところでした。 後世になるほど、ひとの考えることは安易・軽佻浮薄の方向へ。 平成の世などは、もっとヒドイものです。 あれだけ世間を騒がせた耐震偽装も後を絶たないとか。 超高層ビルはダイジョウブと言っていますが、 ほんとうかどうか? 想定している震度を上まわる地震がくれば、 NYのワールド・トレードセンターのように呆気なく崩壊するでしょう。 「大地震が迫っているというのになぁ」 ○関東大震災  1923年9月1日の午前11時58分に、  伊豆大島、相模湾を震源として発生した 直下型大地震(マグニチュード7.9)による災害。  東京をはじめ関東地方の広い範囲に大きな被害をもたらした。  地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なり、  強風が吹き荒れていたことから火災がひろがった。  ・死者・行方不明者 : 10万5千余人     ・避難人数 : 190万人以上  ・住家半全壊 : 21万1千余  ・住家焼失 : 21万2千余 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「首都移転をすべきなのに、東京に集中させるとは。  小泉のやることときたら...山師の玄関を広げやがって。  それにしても、偏奇館跡の碑、ないかなぁ」 泉ガーデンの前の道を徒歩で丹念に探し歩くことにしました。 「おお、あった!」 ガイドブックには、 この近辺一帯は様変わりして、 偏奇館跡の碑も消滅したとありましたが、 その後、場所を変えて再建されたようです。

○偏奇館跡  小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の  偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、  昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。  荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。  偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、  軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、  滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、  当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。   冀(ねがわ)くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ   われ一人住むといへど   幾年月の過ぎ来しかた   思い出の夢のかずかず限り知られず                      「偏奇館吟草」より   平成十四年十二月     港区教育委員会


34 荷風追憶、偏奇館跡、その3

オトーサン、 「もう思い残すことはないか」 1920年から1945年までの26年間、 41歳から66歳になるまで、ここで暮らしたというのに、 荷風を偲ぶ手がかりは、碑ひとつのみ。 心残りなので、周囲を散歩してみることに。 サウジアラビア大使館を発見。 アメリカ大使館とちがって、テロに襲われる心配がないせいか、 守衛さんも、どことなくノンビリしています。 (オサマ・ビン・ラディンは、サウジアラビア人) 「すいません、道源寺、知りませんか?」 「いいえ」 「石油の値段、上ったねぇ」 「...申し訳ありません」 「いいんだ、あなたのせいじゃないんだから」 オトーサン、 大使館脇を谷町ジャンクション方向へ。 「あれ、こんなところに」 古い日本家屋がみえました。 マンションにはさまれて押しつぶれそうになっています。 一日中真っ暗で陽のあたる部屋はなさそうです。

「まさか、荷風の家ということはないな」 偏奇館は、終戦の年、B29の猛爆撃による火事で、 焼け失せてしまいました。 「この家、残っているだけマシかもなぁ」 私事に亘りますが、昨年渋谷古いボロ家を処分しました。 その後、取り壊されたようですが、まだ見に行っていません。 見に行けないというのが、正直な気持ち。 それでも、大事なものを取り出す余裕はあったので、 中学や高校の卒業記念アルバムなどが残っています。 でも、荷風の場合は、何も残せなかったようです。 読者のみなさん、 若いひとは戦争を知らないひとばかりになりましたが、 戦争はしてはいけないし、巻きこまれてもいけません。 「断腸亭日乗」を一読してください。 以下の一文は、戦争文学の傑作でしょう。 (1945年) 三月九日。天気快晴。 夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。 火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ 忽ち市兵衛町二丁目表通りに延焼す。 余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり 隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き 日誌及び草稿を入れたる手提包を提げて庭に出でたり。

谷町辺にも火の手の上るを見る。 また遠く北方の空にも火光の反映するあり。 火星は烈風に舞ひ粉々として庭上に落つ。 余は四方を顧望し到底禍を免るること能はざるべきを思ひ、 早くも立迷ふ煙の中を表通に走り出で、 木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと 角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、 仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言う。 道を転じて永坂に至らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。 時に七、八歳なる女の子老人手を引き道に迷へるを見、 余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り 谷町電車通に出で溜池の方へと逃がしやりぬ。 余は山谷町の横町より霊南坂上に出でスペイン大使館側の空地に憩ふ。 下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る。 荷物を背負ひて逃来る人々の中に 平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまじりたり。 余は風の方向と火の手とを見計り 逃ぐべき路の方向をもやや知ることを得たれば 麻布の地を去るに臨み、 二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、 再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。 巡査兵卒宮家の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、 余は電信柱または立木の幹に身をかくし、 小径のはずれに立ちわが家の方を眺むる時、 隣家のフロイドルスペルゲル氏 どてらにスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ。 崖下より飛来りし火にあふられその家まさに焼けつつあり、 君の家も類焼を免れまじと言ふ中、 わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて来り 先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ 各その住家を捨てて逃来るりし由を告ぐ。 余は五、六歩横町に進入りしが 洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り 黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、 近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能わず。 唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。 これ偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃ゆるがためと知られたり。 火は次第にこの勢いに乗じ表通へ焼抜け、 住友田中両氏の邸宅も危く見えしが 兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり。 蒸気ポンプ二、三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間ほどは経たり。 消防夫傍の防火用水道口を開きしが水切れにて水出でず、 火は表通曲角まで燃えひろがり 人家なきためここにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり。 三月十日。 町会の男来り罹災のお方は炊出しがありますから 仲の町の国民学校にお集り下さいと呼歩む。 行きて見るに、向側なる歯科医師岩本氏及その家人であるに逢ふ。 握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが 寒風は昨夜に劣らず今日もまた肌を切るが如し。 余は一ます代々木なる杵屋五叟の家に到り身の処置を謀らんと 三河台電車停留場に至りしが、電車の運転する様子もなし。 六本木の交番にてきくに青山一丁目より渋谷駅までは電車ありとの事に その言う如く渋谷に行きしが、省線の札売場は雑踏して近寄ること能はず。 寒風に吹きさらされ路上に立ってバスの来るのを待つこと半時間あまり、 午前十時過漸くにして五叟の家に辿りつきぬ。 一同と共に昼食を食す。 飯後五叟は二児をつれ偏奇館焼跡を見に行き余は炬燵に入りて一睡す。 昨夜路上に立ちつづけし後革包を提げ青山一丁目まで歩みしなれば 筋骨痛み困憊甚だし。 ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり。 余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと 数れば二十六年の久しきに及べるなり。 されどこの二、三年老の迫るにつれて 日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに到りしが、 戦争のため下男下女の雇はるる者なく、園丁は来らず、 過日雪のふり積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、 むしろ一思いに蔵書を売払ひ身軽になり アパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになりいたりしなり。 昨夜火に遭ひて無一物となりしは かへつて老後安心の基なるやまた知るべからず。 されど三十余年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻 今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。 昏暮五叟及その二子帰り来り、市中の見聞を語る。 大略次の如し。 昨夜猛火は殆ど東京全市を灰になしたり。 北は千住より南は芝、田町に及べリ。 浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、 芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。 明治座に避難せしもの悉く焼死す。 本所深川の町々、亀井戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。 午前二時に至り寝に就く。 灯を消し眼を閉るに火星粉々として暗中に飛び、 風声しゅうしゅうとして鳴りひびくを聞きしが、 やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠りにおちぬ。

○東京大空襲  1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。  B-29爆撃機325機による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、  その後、城東地区にも爆撃が開始された。  0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。  投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。  当夜は低気圧の通過に伴って強風がふいており、  この風が以下の条件と重なり、10万人ともいわれる犠牲者が出た。  焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上が焼失した。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


35 荷風追憶、嗚呼!土木工事

オトーサン、 「腹減ったなぁ」 時計をみると、もう11時45分。 通常の昼めし時を過ぎております。 「どちらから溜池へ出るか」 霊南坂を下ってアメリカ大使館をぬけていくか、 それとも、TV朝日や全日空ホテルの前をぬけていくか。 「おっ!」 サウジアラビア大使館のそばの黒いビルの前に 石碑が立っていました。 「憲法草案立案の地」 空腹だったので、写真も撮らずに通過しました。 「しまった!」 もう坂を下っているので、引き返せません。 考えてみれば、 アメリカ大使館のすぐそばということは、 アメリカの監督下で憲法がつくられたことを 雄弁に表しているではありませんか。 憲法第1章第1条の草案は、こうなっていました。 ・天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって  この地位は、日本国民の至高の総意に基く。 それをGHQ(占領軍総司令部)は、こう変えさせました。 ・天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって  この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 この天皇崇拝を抹消しようという占領軍の意思が より明確に示されたのは、この写真です。

オトーサン、 この写真を見たときの驚きがいまも鮮やかに残っています。 背の高いマッカーサー元帥と背の低い昭和天皇。 マッカーサーは、ホリエモンのようにノーネクタイ。 天皇陛下は、モーニング姿の正装。 天皇陛下がきちんと両手を下げているのに、 マッカーサーは、腰に手をあてたラフなスタイル... 永井荷風は、「断腸亭日乗」に、こう記しています。 疎開先の熱海で、この事実を知ったのです。 (1945年) 九月二十八日。 昨夜襲来りし風雨、 今朝十時ごろに至ってしづまりしが 空なほ晴れやらず、海原も山の頂もくもりて暗し。 昼飯かしぐ時、窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに、 昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、 赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。 戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至っては その悲惨もまた極れりといふべし。 南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り 和を請はむとしてそのまま捕虜となりし 支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。 (略) 我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して 和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知らざりしなり。 (略) 我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年の東京震災の前後より 社会の各方面において顕著たりしに非ずや。 余は別にいはゆる愛国者といふ者にもあらず、 また英米崇拝者にもあらず。 唯虐げられる者を見て悲しむものなり。 強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。 これここに無用の贅言を記して、 穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。 オトーサン、 「そうか、アメリカ大使館がGHQの本部だったんだ」 屈辱的な霊南坂下を通らなかったのは、正解でした。 「溜池を通るのはやめよう」 排気ガスが充満していそうな気がします。 全日空ホテル前から道路を横断して、横丁へ。 急に走りやすい静かな街になりました。 「坂が多いな」 空きっ腹でフーフー言いながらぬけていきました。 「ここらは見覚えがあるな。TBSのそばだ」 TBSへはよく通いました。 TV番組では「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」、 ラジオ番組では、「おはよう片山竜二です」などの打ち合わせで。 「大沢悠里さん、まだやっているんだ。  久しぶりにお顔を拝見するか?  や、やっ!ここも再開発か」

高層ビルの工事中のようです。 「ま、フジテレビは河田町からお台場へ、 日テレも麹町から汐留へ。 いずれも超高層ビルをつくったんだから、 TBSだけが古いビルのままというわけには, 行かないんだろうが...」 見慣れた風景が、かくも無残に消えてゆくのは残念です。 「少しは、記念に何かを残せよなぁ」 荷風の懸念がいまや現実となっているようです。 荷風の書いた「江戸芸術論」のなかの 「浮世絵の鑑賞」なる一文を読みましょう。 余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が 何ら愛惜の念もなく見附と呼馴れし旧都の古城門を取払ひ なお勢に乗じてその周囲に繁茂せる古松を濫伐するを見、 日本人の歴史に対する精神の有無を疑はざるを得ざりき。 泰西の都市にありては一樹の古木一宇の堂舎といへども、 なほ民族過去の光栄を表現すべき貴重なる宝物として尊敬せらるるは、 既に幾多漫遊者の見知する処ならずや。 (略) 余は甚だしく憤りきまた悲しみき。 然れども幸いにしてこの悲憤と絶望とは やがて余をして日本人古来の遺伝性たる 諦めの無差別感に入らしむる階梯となりぬ。 見ずや、上野の老杉は黙々として語らず訴へず、 独りおのれの余命を知り従容として枯死し行けり。 無情の草木遥かに有情の人に優るところなからずや。 オトーサン、 「なんだか食欲が失せたなぁ」 久しぶりに一つ木通りで昼食をと思っていましたが、 素通りすることにしました。


36 荷風追憶、嗚呼!紀尾井町

オトーサン、 「腹減ったなぁ」 TBS/一つ木通りから赤坂見附へ。 紀尾井町をぬけて、四谷へと北上しましょう。

○紀尾井町   紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家、 この三家の頭文字をとってつけられた町名。   弁慶橋、清水谷公園、赤阪プリンスホテル、 ホテルニューオータニ、紀尾井町ビル、   上智大学(聖イグレチオ教会)、料亭・福田屋、   文芸春秋社などがある。 オトーサン、 紀尾井町の入り口、弁慶橋で立ち止まりました。 「この橋は変わってないな」 この弁慶濠、若い頃、デモで清水公園に集合したとき 見た覚えがありますが、当時は澄んでいたのに、 いまやドブ、異臭がただよっています。

右手に赤坂プリンスホテルをみながら 紀尾井町通リを上って、 左手奥のホテルニューオータニへ近づきました。 「この坂は、そう急勾配じゃないな」

このホテルのてっぺんを 慢性的渋滞の首都高から展望すると、 いつもこう思うのです。 「麦わら帽子に似ているか、うまいこと言うなぁ」 森村 誠一さん、 作家に転向する前に、 ニューオ−タニに、9年2ケ月も勤めておられたので、 愛着があるのでしょう。 「高層の死角」か「人間の証明」か、 どちらか忘れましたが、 麦わら帽子という言葉が出てきました。 後年、知ったのですが、 森村さん、 西条八十の「帽子」という詩がお好きだったようです。 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、 僕はあのときずいぶんくやしかった、 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、 紺の脚絆に手甲をした。 そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。 けれど、とうとう駄目だった、 なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの。 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、 その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく。 ○森村 誠一   1933/1/2 -   作家。推理小説、時代小説、ノンフィクションなどを手がける。 埼玉県熊谷市出身。青山学院大学文学部英文学科卒。 ホテルニューオータニ勤務経験をもとにホテルを舞台にしたミステリが多い。  1969年、「高層の死角」により第15回江戸川乱歩賞を受賞。  最近では写真俳句に関心を持ち、旅行時や散歩時もカメラを持ち歩いている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「ニューオータニで食べていくか」 イベントや接待でよく利用したものです。 庭園に面したレストランは、実に快適です。 もっとも、コーヒー一杯で1000円のお値段ですが。 「こんな格好じゃなぁ...  じゃ、紀尾井町ビルで食べるか。  確か、OBでも利用できたよな」 このビルは、地上26階、地下4階でした。 バブルの真最中の1990年に出来たもの。 もともと、ここの一部に トヨタ自動車工業の紀尾井寮があって、 再開発の話がもちあがって、 大京に土地を譲渡した見返りに、 19階のワンフロアを貰って、ゲストハウスにしたのです。 財界進出活動の一助にしようという狙いでした。 若手が見学に行って、 「つまらんビルだなぁ、ただの箱じゃないか」 そうけなしていたのが、 19階に入るや、度肝を抜かれて、 「おお、この絨毯、毛足が長いぞ」 「捻挫しそうだ」 「おお、壁は総大理石張りか」 「すげえ、シャンデリアだな」 東西南北の超高層ビルからの眺めも堪能しました。 「いい景色だねぇ、あれが皇居か」 「ふーん、新宿のスカイラインがみえる!」 「富士山は見えるか?」 「いや、スモッグで、かすんでる」 いまは、どうなっているでしょう。 あちこちに高層ビルができて、 眼の前は、別の高層ビルの壁だったりして... オトーサン、 空腹に堪えながら、上智大の脇を抜けます。 「ここも、ごちゃごちゃ建物だらけになったなぁ」 小泉チルドレンの猪口邦子教授が大臣になりました。 昔は、大したことのない大学でしたが、 いまやブランド大学のひとつに成長しました。 それにつれて、学生数も増え、旧校舎が手狭になって、 構内にいくつもの建物が出来ていったのです。 写真じゃみっともないので、絵にしたのでしょう。

オトーサン、 紀尾井町を通過して、ボヤクことしきり。 「荷風の言う通りだな。 どんどん汚らしくなっていく」 読者のみなさん、 江戸文政十一年(1828年)の 紀尾井町の地図をご覧下さい。 江戸城外堀が大運河のように町を取り巻いています。 溜池あたりでは河幅は220メ−トルもあったそうです。 大名屋敷沿いの大運河のほとりには、長い松並木。 江戸城外門のひとつ赤坂御門の石垣の威容。 赤坂見附から溜池までは堤防沿いに榎並木が続いています。 清水谷からの湧き水が清流として流れていたのです。 この赤坂御門は、大山街道の起点でした。 「おお、ヴェニスのようだ。  ヴェニスよりも、きれいだったのだろう。  残しておけば、世界遺産に登録されただろうに」 天下の美景が、幕府を眼の敵にした明治政府の手で台無しにされ、 いまや、平成の御世に、つまらんビルだらけの街が完成?したのです。

読者のみなさん、 想像してみて下さい。 まんまんたるお濠の水面に老松が影を落とし、 面を上げれば、はるかに富士の白雪がみえる。 夏の夜ともなれば蛍が飛び交う。 そんなト−キョーがありえたのです。

「日和下駄」の一文で、閉じましょう。 眼前の利にのみあくせくして 世界に二つとない自国の宝の値踏をする暇さえないとは、 あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた話である。 思わず畠違いへ例の口癖とはいいながら愚痴が廻り過ぎた。 世の中はどうでも勝手に棕櫚箒。 私は自分勝手に唯一人日和下駄を曳きづりながら 黙って裏町を歩いていればよかったのだ。 議論はよそう。 皆様が御退屈だから。


37 荷風追憶、荒木町・八重次

オトーサン、 「腹減ったなぁ」 四谷見附の喫茶店を思い浮かべました。 会社の先輩が脱サラしてやっているのです。 トーストかサンドウイッチくらいにはありつけそうです。 でも、二度目に行ったとき、移転して 分かりにくい場所だったことを思い出しました。 「ま、いいか、探すのは次にするか」 荷風ゆかりの地、余丁町の断腸亭跡はもうすぐ先、 今日は強行軍ですから急がなくては。 この余丁町の家は、荷風が23歳のときに父君が買ったもの。 敷地約2000坪、建坪約240坪の広大な邸でした。 でも、洋行することになって、1年あまりで、この家を離れます。 この家に戻ってきたのは、5年後の1908年、29歳のときです。 新進作家として売り出し、31歳の若さで慶応の教授に就任し、 まともな結婚をしてみせて父君を安堵させたのです。

photo:慶応大学教授時代の荷風(右から2人目) オトーサン、 「しょうがない奴だなぁ」 荷風は、帰国後、新橋芸者「八重次」に夢中となり、 家庭を顧みず、荒木町の妾宅に通う日々を送っていました。 1913年、父親が死ぬと間髪を入れず妻を離婚。 芸者・八重次を家に引きいれます。 それが原因で、母や弟を怒らせ、 慶応大学教授の座も追われました。 弟と絶縁し、余丁町の屋敷を2つに分け、 6畳間を新築し、これを断腸亭と名づけて、執筆の拠点とし、 日和下駄で散歩する日々を送るようになるのです。 ま、端から見れば西欧かぶれの道楽息子 一日中ぐうたらぐうたら。 でも、作家たちの多くが愛国者を装い、 戦争を賛美し、若者を戦場に駆り立てていったなかで、 荷風は軍部に背を向け孤高を守ったのです。 この姿勢が戦後評価され、文化勲章受賞につながるのです。 世の中、何が幸いするか、ほんとに分からないものです。

photo:荷風自筆の絵 以下荷風23歳から39歳までの歩みを整理してみました。 ○荷風年表(余丁町時代) 1902年 牛込区大久保余丁町79に転居    「野心」を処女出版 1903年 渡米、シアトルからタコマ市へいく 「夢の女」「女優ナナ」を発刊、 「隅田川」を「文芸界」に掲載 1904年 米国ミシガン州にてフランス語、英文学を学ぶ   1905年 ワシントン日本公使館に働く 12月正金銀行ニューヨーク支店に勤める   1907年 正金銀行リヨン支店に転勤   1908年 3月正金銀行を辞職し、ロンドン経由で7月帰国     「あめりか物語」を発刊 1909年 「ふらんす物語」を発刊(発禁) 12月「すみだ川」を「新小説」に発表 1910年 森鴎外、上田敏の推薦で慶応義塾大学教授就任 「三田文学」創刊 1912年 湯島の材木商斉藤政吉の次女ヨネと結婚   1913年 新橋芸者の八重次に夢中となり、家庭を顧みず      父、久一郎死去。妻ヨネと離婚 1914年 八重次と結婚、これが原因で、弟と絶縁    「日和下駄」を三田文学に連載 1915年 八重次と離婚し、一時築地に転居   1916年 慶応大学教授辞任 大久保余丁町の自宅に戻り、断腸亭を新築   1918年 12月余丁町の自宅を売却 オトーサン、 「よほどいい女だったんだ」 「断腸亭日乗」には、 生涯交渉のあった女性16名のリストまで記載しています。 それぞれの女性にコメントがついていますが、 煩雑になるので、「八重次」と「関根うた」だけにしましょう。 (1936年) 一月三十日。 つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。 一  鈴木かつ 二  蔵田よし 三  吉野こう 四  内田八重      新橋巴屋八重次明治三十四年十月より大正四年まで、      一時手を切り大正九年頃半年ばかり焼棒杭、      大正十一年頃よりまったく関係なし新潟すし屋の女 五  米田みよ 六  中村ふさ 七  今村栄 八  野中直 九  大竹とみ 十  吉田ひさ 十一 白鳩銀子 十二 清元秀梅 十三 関根うた      麹町富士見町川岸屋抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて身受、      飯倉八幡町に囲ひ置きたる後、昭和三年四月頃より富士見町にて      待合幾代という店を出させやるたり、昭和六年手を切る、     日記に詳かなればここにしるさず、実父上野桜木町々会事務員 十四 山路さん子 十五 黒沢きみ 十六 渡辺美代 この外臨時のもの挙ぐるに遑あらず。   「八重次とは長いつきあいだったんだ」 荷風22歳のときに知り合い、36歳で離婚、 その後、偏奇館を新築した41歳の頃、半年ほどヨリを戻し、 43歳までつきあいが続いていたようです。 オトーサン、 新宿通りを直進して、 四谷三丁目から北上するつもりでしたが、 考えを変えました。 「面倒だけど、荒木町をぬけていくか」 四谷税務署の脇から入って、路地を適当に走りぬけました。 「よくこんな古い町が残っていたなぁ」 この辺り、新宿にも四谷にも近いのですから、 億ションの再開発にはもってこいの場所なのに、 なぜか昔の民家がそのまま軒を連らねています。 色街だった頃の雰囲気が随所に残っていて、 「ほんとに走りやすいなぁ」 細い路地が入り組んでいるので、クルマに出会いません。 「このあたりの家かなぁ」 八重次が住んでいた妾宅は、荒木町27番地とか。 勝手にこの家と決めて、 2階を仰いで、往時の2人の姿を想像いたしました。

「矢はずぐさ」には、こんな一節があります。

八重はその年二月の頃よりリウマチウスにかかりて
舞うこと叶わずなりしかば一時山下町の妓家をたたみ
心静かに養生せんとて殊更山の手の片隣を選び
四谷荒木町に隠れ住みけるなり。
わが家とは市ヶ谷谷町の窪地を隔てしのみなれば
日毎二階なるわが書斎に來たりて
そこらに積載せたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。
(略)
かくわが家に半日を過ごして夕暮れとなりぬれば、
共に打ち連れ立ちて芝口の哥沢芝加津という師匠の許まで
端唄ならひに行くを常としたり。
前の夜も哥沢節の稽古に出でて初夜過る頃
四ッ谷宇の丸横町の角にて別れしなれば、わが病臥すとは夢にも知らず、
八重は襖引き明けて打ち驚きたるさまなり。

オトーサン、
八重次とは、
「大正九年頃大正九年頃半年ばかり焼棒杭」とあるので、
「断腸亭日乗」の大正九年の記述を目を皿のようにして
チェックしましたが、見当たりませんでした。
翌大正十年もチェック。
出てくる女性名は百合子のみ。

(1921年)
九月十一日。
秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。
午後百合子訪ひ来りしかば、
相携へて風月堂に往き晩餐をなし、
掘割づたひに明石町の海岸を歩む。
佃島の夜景銅版画の趣きあり。
石垣の上にハンカチを敷き手を把り肩を接して語る。
冷露雨の如く忽ちにして衣襟の濡ふを知る。
百合子の胸中問はざるもこれを察するに難からず。
落花流水の趣きあり。
余は唯後難を慮りて悠々として迫らず。
再び手を把って水辺を歩み、
烏森停車場に至りて別れたり。
百合子は鶴見の旅亭崋山荘に寓する由なり。

「悪い奴ちゃなぁ。
ところで、この百合子が八重次なのかなぁ?」
よく調べると、彼女は清元秀梅でした。
さきほど省略したコメントには、こう書いてあります。

十二 清元秀梅
     初清元梅吉内弟子、大正十一年頃、折々出合ひたる女なり、
     本名失念大阪商人の女

「冷たい奴だなぁ。本名を忘れてしまうとは」

オトーサン、
大正十二年をチェック。
「あった!みつけた」
八重次についての記述が2ケ所だけありました。
大正九年というのは、荷風の記憶ちがいだったようです。

(1922年)
二月三日。
雨ふる。
夜芳町の妓家に飲む。
唖々氏来り会す。
銀座清新軒に至りて更に一酌し陶然として家に帰る。
八重次の手紙あり。
感冒久しく癒えず。
昨夜俄かに血を吐くこと二回に及び、
長谷川病院に入り、生命危うしといふ。
愕然酒醒め終夜眠ること能わず。

二月四日。
雨歇む。
午後草花一鉢を携へ、長谷川病院に八重次を訪ふ。
受付のもの面会謝絶の札貼りてありといふ。
余は人目を憚り唖々氏の名を借りて刺を通ずるに、
病室幸いにして見舞いの人なき由。
漸くにして逢ふことを得たり。
前日の手紙は精神興奮のあまりに識せしものなるべし。
重患なれど養生すれば快復の望みなきにはあらざるべし。

オトーサン、
「なーんだ、仮病か」
荷風はそう思ったのでしょう。
その荷風の表情をみて、八重次がさとったのか、
”大正十一年頃よりまったく関係なし”とあるので、
それっきりになったのでしょう。
この八重次、
荷風と別れてよかったようです。
後に新舞踊の新陰流を創設して、文化功労者にえらばれたとか。


38 荷風追憶、三島自決・和平飯店

オトーサン、 「しまった!」 市ケ谷の防衛庁前に出てしまいました。 進みたかった方向は行き止まりで、 路地をながながと引き返したら、防衛庁前。

photo:通信塔は地上高220m オトーサン、 「まさか」 三島自決のニュースを聞いたのは、 32歳のときでした。 総監室での三島の割腹自殺は、当時の大ニュース。 「...まだ45歳だろう」 もうすこし待てば、ノーベル文学賞をもらえたはず。 「駒場文学」で一緒だった庄司薫さんの才能を 三島由紀夫は高く買っていました。 そんなこともあって好意をもち、ほとんどの作品を読んでいました。

photo:演説する三島 ○三島 由紀夫   1925年/1/14 - 1970/11/25  劇作家、国家活動家・楯の会会長。   東京市四谷区生まれ。 学習院を経て東京帝国大学法学部卒。 卒業後、大蔵省国民貯蓄課に勤めたが9ヶ月で退職、作家へ。   代表作は「仮面の告白」「金閣寺」「潮騒」「豊饒の海」。 戯曲に「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」「近代能楽集」などがある。 唯美的な作風で知られる。 1966年末、民族派の万代潔と出会い、民兵組織による国土防衛を思想。   自衛隊に体験入隊をし、F104戦闘機に試乗したり、将校の山本舜勝と交遊した。   日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成。 1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の総監室を訪れ、 益田兼利総監を人質に取り籠城。 バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を撒き、演説後、割腹自殺。   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 翌日の新聞に掲載された檄文を読みました。 「馬鹿な!犬死じゃないか」 日本が腐っていること、 アメリカの植民地になり下っているあたりは、 うなづけましたが、 その後、死ぬことで、憲法を改正し、 自衛隊を名実ともに軍隊にせよというあたりは、 まったく理解できない言辞でした。 それに文章が三島らしからぬ下手な饒舌。 「最近、おかしくなってきたんじゃないの? 病弱だったのに、突然ボディビルをはじめたり、 自衛隊に入隊して軍隊ごっこを樂しんだり...」 そんな風に受け取ったのです。 長い檄文ですので、抜粋を掲載しましょう。 ...敢てこの挙に出たのは何故であるか。  自衛隊を愛するが故であると断言する。  われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、  国の大本を忘れ、国民精神を失ひ本を正さずして末に走り、  その場しのぎと偽菩に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆくのを見た。  政冶は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽菩にのみ捧げられ、  国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかきれ、  日本人自ら日本の歴史と伝統を冒涜してゆくのを、  歯噛みしながら見ていなげればならなかった、  今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。  それは自由でも民主主議でもない。日本だ。  われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。  これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。  もしいれば、今からでも共に起ち、共に死なう。  われわれは至純の魂を持つ諸君が、  一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり  この挙に出たのである。 オトーサン、 いまだに三島が死へ傾斜していった理由が解せません。 三島の世代は、特攻隊で死んでいった世代でした。 三島もお国のために死ぬつもりだったのが 入隊検査で不合格になり、無念の思いをしたそうです。 戦後もその思いを引きづっていて、 いつ死のうかと時と場所を見計らっていたという説もあるようです。 「いまどき死んだってしょうがないだろうに」 そう思ってしまいます。 書きたいことはほぼ書きつくしたので、 作家人生に行き詰まったという説もありました。 芸術表現欲求と行動欲求の間を振り子のようにゆれて、 たまたま行動欲求が自決という形で現れたという説もありました。 「それも、ちょっとなぁ」 いまのところ、やや納得できるのは、 甘美なる死へ憧れ説です。 三島が自分でも一番気にいっている そう広言していた作品に「憂国」があります。 二・二六事件を題材にしたものですが、 ここに自決というテーマがあらわれているのです。 その出だしを採録してみましょうか。 昭和十一年二月二十八日。 (すなわち二・二六事件突発第三日目)、 近衛歩兵一連隊勤務武山信二中尉は、 事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し憶悩を重ね、 皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、 四谷区青葉町六の自宅八畳間に於て、 軍刀を以って割腹自殺を遂げ、 麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。 中尉の遺書は只一句のみ「皇軍の万歳を祈る」とあり、 夫人の遺書は両親に先立つ不幸を詫び、 「軍人の妻として来るべき日がきました」云々と記せり。 烈夫烈婦の最期、まことに鬼神をして哭かしむるの感あり。 因みに中尉は享年三十歳。夫人は二十三歳。 華燭の典を挙げしより半歳に充たざりき。 オトーサン、 「アホな」 こういう純粋な軍人もいたでしょうが、 大部分の国家が動員した軍人たちは、並みの人間。 いまだって、同じようなもの。 ○官僚汚職事件  90年代は、行政の汚職や腐敗が明るみに出た。 単発的もしくは個人の特異な性格によるものではなく、 日本社会のありようそのものを反映していた。  89年のリクルート事件では文部、労働の事務次官経験者が、 93年に厚生省、97年に運輸省の事務次官経験者が逮捕された。 大蔵省も監督業界からの過剰な接待を受けた汚職で キャリア組が逮捕、幹部の更迭が行われた。  外務省では官房機密費の不正流用やハイヤーの水増しがある。 国防分野も無関係ではなかった。 防衛庁からは兵器の入札汚職で調達実施本部の長官・副長官が逮捕され、 ロシアへの機密漏えいで逮捕者が出た。 相次いで腐敗が露見しているのである。  出典:http://www010.upp.so-net.ne.jp/iwao-osk/90s/BCor.html オトーサン、 「まさに、荷風が喝破していた通りじゃん」 「断腸亭日乗」の記述をよみましょう。 (1944年) 九月初七。 午前驟雨雷鳴あり。 無花果熟して甘し。 近隣の南瓜早くも裏枯れしたり。 鳳仙花白粉花秋海棠皆満開。 萩木芙蓉の花また満開となれり。 町会事務所にて鮭の缶詰の配給をなす。 噂によればこれら缶詰は初軍部にて強制的に買上げをなせしもの。 貯蔵に年月を経過し遠からず腐敗のおそれありやと見るや 町会に払い下げをなし時価にて人民に売りつけ相当の鞘を得るなり。 軍部及び当局の官吏の利得これだけにても莫大なりしといふ。 日米戦争は畢竟軍人の腹を肥やすに過ぎず。 その敗北に帰するや自業自得といふべしと。 これも世の噂なり。 オトーサン、 早々に防衛庁前を通過して、曙橋へ。 「腹減ったなぁ」 自転車をとめて時計をみると、12時10分過ぎ。 走行距離15.05km。 「もうどこでもいいや、食おう」 地下鉄駅前に中華料理屋を発見しました。 「和平飯店か。名前がいいな。  でも、汚ねぇ店だな。  おいおい2階に上らせるのかよ」 細い急勾配の階段を上っていきました。 2階の店内はほぼ満席でした。 「カウンターでいいですか?」 「いや、それなら帰る」 「じゃ、こちらへどうぞ」 愛想よく4人席へ案内してくれました。 そこで長年のカンが働いて、 「この店、うまいかも」 五目焼きそばを注文しました。 待つことしばし。 「こりゃ、旨そうだ」 事実美味しゅうございました。 「ま、B級グルメだけどな」 以前上海で訪れた和平飯店は まちがいなくA級グルメでしたが。

オトーサン、 「この店、案外いいなぁ」 ネットで探索したら、こんなコメントを発見しました。 和平飯店のお馴染みさんのようです。 会社移転前に通っていたなじみの上海料理屋。 ひさびさに行き、お母さんらに挨拶。 味。うまああああい!  肉の甘味と卵の旨味、オイスターかなんかわからんが ジャンとの絡みが見事。 ご飯めちゃ進む。 お母さん、いつもどおり「おかわりいらない?」と薦めてくる。 本来はごはん以外はおかわりできないのだが、 常連サービスでスープとザーサイもおかわりをもらう。 多謝。 麻婆豆腐最高! ツァンツァイ最高! 今日一転して「味わって食べるなら和平」と認識を新たにする。 一番好きな味。 ○和平飯店 曙橋店  電話:03-3354-3750  住所:新宿区住吉町6-5 岡本ビル2階  定休: 無休  営業時間:11:00 - 24:00 オトーサン、 「和平飯店はいいなぁ、平和が何よりだなぁ」 憲法改正が間近になってきて、 「三島の死は、犬死にではなかった」 そう言ってはしゃいでいる人もいるようですが、 トンデモナイ話です。 ・喉元過ぎれば熱さを忘れる。 ・後悔先に立たず。 読者のみなさん、 もうひとつ「断腸亭日乗」の記述を味わいましょう。 (1921年) 十一月五日。 百合子来る。 風月堂にて晩餐をなし、 有楽座に立寄り相携へて家に帰らむとする時、 街上号外売の奔走するを見る。 道路の談話を聞くに、 原首相東京駅にて刺客のために害せられしといふ。 余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず。 何らの感動をも催さず。 人を殺すものは悪人なり。 殺さるるものは不用意なり。 百合子と炉辺にキュイラッソォ一杯を掲けて寝に就く。 オトーサン、 「いいせりふだねぇ」 ・人を殺すものは悪人なり。 ・殺さるるものは不用意なり。


39 荷風追憶、抜弁天・西向天神

オトーサン、 「ここも荷風ゆかりの地らしいなぁ」 12時40分、16.08km、抜弁天に着きました。 「その先の道が交差したところよ」 杖をついた足元のおぼつかないおばあちゃんのいう通り、 三方が道で抜けられるごく小さな祠でした。 それで、この奇妙な名前がついたようです。 手を清める場所でしょうか、 そこにあった龍が見事だったので、撮りました。

立て札には、こんなことが書いてありました。 ○抜弁天   後三年の役(1083-87)で奥州に向かう途中ここに宿営し、   富士山を拝み、戦勝を祈願し、奥州を鎮定した。   帰途、戦勝のお礼として厳島神社を勧請して社を建てた。。 庶民からは、難を切り抜けられる神社として信仰され、 江戸六弁天(本所、須崎、滝野川、冬木、上野)のひとつとなった。 なお、神社付近一帯は、江戸時代の犬小屋跡である。   五代将軍徳川綱吉は1682年、世継の徳松を亡くした悲しみから、 1685年以降、数回にわたり生類憐れみの令を出した。 この辺りに2万5000の犬小屋を設けて野犬を収容した。 http://www.shinjukuku-kankou.jp/map_shinjuku_20.html オトーサン、 「次は、西向天神だな」 荷風の「日和下駄」の第十一「夕陽」には、 この西向天神が出ています。 抜弁天からは、400mくらい距離でしょうか。 東都の西郊目黒に夕日ケ岡というふがあり、 大久保に西向天神といふがある。 倶に夕日の美しさを見るがために人の知る所となつた これ元より江戸時代の事にして、 今日わざわざかかる辺鄙の岡に杖を留めて 夕陽を見るが如き愚をなすものはあるまい。 しかし私は日頃頻りに東京の風景をさぐり歩くに当って、 この都会の美観と夕陽との関係甚だ浅からざる事を知った。 (略) 東京における夕陽の美は若葉の五、六月と、 晩秋の十月十一月の間を以って第一とする。 山の手は庭に垣根の至る処新樹の緑滴らんとするその木立より 夕陽の空紅に染出されたる美しさは、 下町の河添には見られぬ景色である。 (略)  ここに夕陽の美と共に合わせて語るべきは、 市中より見る富士山の遠景である。 夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならず その麓につらなる箱根大山秩父の山麓までを望みうる。 オトーサン、 急な階段のそばに自転車をとめようとしましたが、 近所のおじさん、2人が世間話に花を咲かせているので、 遠慮して、神社の裏手から這い上がりました。 「この樹、なんという名前かなぁ」 木立の多い神域にいると、気持ちが爽やかになります。 酸素の供給量が多いのでしょう。 排気ガス公害が大問題になった牛込柳町が、 この近くとは、とても思えません。

オトーサン、 「へぇ、藤圭子の歌じゃん」 境内に石碑がありました。 演歌「新宿の女」の歌詞が書いてありました。 藤圭子といえば、宇多田ヒカルのお母さん。 ここに石碑がつくられたのは、 作詞/作曲を手がけた石坂まさをが近くで育ったためとか。 オトーサン、 ネクラな藤圭子が好きでしたから、 口づさみはじめて、 「こりゃ、荷風批判の歌だなぁ」 荷風が生きていたら、苦笑したことでしょう。 ♪私が男になれたなら  私は女を捨てないわ  ネオンぐらしの蝶々には  やさしい言葉がしみたのよ  バカだなバカだな  だまされちゃって  夜が冷たい新宿の女   話が横に逸れました。 この西向天神、荷風にとって思い出の場所なのです。 親友の唖々子が亡くなったのが、この西向天神のそばだったのです。 「梅雨晴」には、こんな記述があります。 何度も見舞いに通ったのです。 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、 風も涼しく吹き通っていたのを幸、 わたしは唖々子の病を東大久保西向天神の傍その寓居に問うた。 (略) 唖々子は既に形容枯渇して 一月前に見た時とは別人のようになっていたが、 しかし談話はなお平生と変りがなかったので、 夏の夕陽の枕下にさし込んで来る頃まで供に旧事を談じ合った。 ともに夕陽を、富士山を見たのでしょう。 そして、「断腸亭日乗」には、悲しい結末が。 (1923年) 七月十一日。 正午酒井晴次来談。 午後速達便にて井上唖々子逝去の報来る。 夕餉を食して後東大久保の家に赴く。 既に霊柩に納めたる後なり。 弔辞を述べ焼香して帰る。 電車にて西村渚山人に逢ふ。 七月十二日。 午後井上宅にて告別式執行せらるる。 葬儀は家人のみにてなす由なり。 この2ケ月後に関東大震災があり、 落ち着いた翌年、お墓まいりをしますが、 震災の爪跡が残っていたようで... (1924年) 四月二十日。 午後白山蓮久寺に赴き、唖々子の墓を展せむとするに墓標なし。 オトーサン、 「早死にした親友の思い出は、納豆みたいだななぁ」 答えは、あとを引くです。 これを書いていたら、 中学時代の親友・平野純一くんのことを思い出してしまいました。 渋谷神泉町の酒屋の息子で、 成績はあまり芳しくなかったのですが、 仲良し4人組の他の連中に負けまいと猛勉強をして、 当時、日比谷高校と並んで名門だった 戸山高校に成績上位で入学しました。 担任の先生から、 「平野くん、キミよりいい成績で入ったよ」 そう言われて、すごく嬉しかったことを覚えています。 その彼、早稲田大学を出て、家業を継いで、 渋谷一帯の酒屋組合の有力者として活躍していました。 ところが、難病にかかってしまったのです。 上京して自宅に見舞いに行くと、 車椅子に座っていて、 顔をみるや手を握りしめて、すすり泣くのです。 慰めようもないので、 中学時代に渋谷から多摩川まで 4人で自転車で遠征した話をすると、号泣。 葬儀は型どおりに終わりましたが、 思い出のほうは長く後を引くのです。 「キミ、なんで擦り切れるまでズボンを履き続けるの?」 「だって、時間が勿体ないじゃないか」 寝る間を惜しんで、勉強に集中していたのです。 いまでもズボンの皴をみると、彼を思い出します。 「もうすこし、このまま履いていよう」 オトーサン、 「話がわき道にそれた」 荷風の唖々子の思い出が「断腸亭日乗」に出ています。 (1925年) 正月十六日。 故押川春浪の友人数名発起人となり、 墓碑建立の寄付金を募集す。 そもそも予の初めて春浪と相識りしは明治三十二、三年の頃、 生田葵山が下宿せし三番町の立身館なり。 春浪その頃神楽坂のビヤホール某亭の女中お亀といふものと親しかりき。 今日神楽坂右側演芸館の建てる処なり。 予亡友唖々子と外神田の妓を拉し、根津の温泉宿紫明館に泊りいたりし時、 春浪おかめを伴い、同じく泊まりに来りしことありき。 余が外遊中春浪はおかめを妻とし、女子を挙げたり。 余帰朝の後日吉町のカッフェー・プランタンにて、 生田葵山、井上唖々、妓八重次、有楽座女優小泉紫影らと、 観劇の帰途茶を喫しいたりしに、 春浪別の卓子にて余の知らざる壮士風の男、二、三人と酒を飲みいたりしが、 何か気にさわりしことありしと見え、 唖々子に喧嘩を吹きかけし故、一同そこそこにプランタンを逃げ出したり。 その夜春浪余等一同待合某亭にありと思ひ、 二、三人の壮士を引き連れ、その家に乱入し、器物戸障子を破壊し、 三十間掘の警察署に拘引せられたり。 春浪は暴飲の果遂に発狂し、二、三年ならずして死亡せしなり。 余はプランタン事件より断然交を絶ちたれば死亡の年月も知らず。 オトーサン、 「記憶って、どういうメカニズムなのかなぁ」 とんでもないときに、 平野純一君のことが夢枕に出てくるのです。 荷風にも同じことが起きたようです。 今度は唖々子でなく、八重次ですが... (1925年) 十二月十三日。 昨夜就床の後胃の消化不良の故にや、腹鳴りて眠ること能わず。 硝子窓薄明くなりしころ漸く睡につきしに、 忽ち旧妓八重次に逢ひたる夢を見たり。 およそ夢といふもの覚むると共に思出さみとするも得ざるが常なるを、 昨夜の夢のみいかなる故にや、 覚めたる後もありありと心に残りたり。 かの女静なる庭を前に中二階の如き家の窓に寄りいたるを、 われ木の間がくれに見て忍び寄り、 頻りに旧情を温めむと迫りしかど、 聴くべき様子もなかりし故悄然として立去りぬ。 余かの妓と馴れそめし昔といへども、 さまで心を奪はれいたるにはあらざりしを、 いはんや別れてより十余年を過ぎたるに、 突然かくの如き夢を見んとは、誠に思ひもかけぬことなり。 八重次、震災の後、羽根沢のあたりに就居なせる由人より聞きしが、 今はいづこに住めるや。 それさえ定かには知らざるなり。 重ね重ね笑うべき夢なりけり。 この日日曜日にて、かつはまた宮中盛典の翌日なれば、 市中の雑踏甚だしかるべきを思ひ、終日家にあり。


40 荷風追憶、余丁町・断腸亭跡

オトーサン、 「分からんなぁ」 荷風の断腸亭跡を尋ね歩きました。 「断腸亭」の由来は、腸が弱かったことや 「断腸花=秋海裳」が好きだったからとか。

オトーサン、 下図のごとく、 余丁町(よちょうまち)までは順調にやってきたのですが、 番地探しとなると、もうダメ。 「あのおやじ、ひでえ奴だなぁ」 後で分かったのですが、目と鼻の先だったのに、 もっと抜弁天のほうだよとぬかすのです。 「これが坪内逍遙旧居跡か」 大通りに面しているので、すぐに案内板が分かりました。 でも、荷風の碑はどこにも見当たりません。 ガイドブックを取り出して、確認しました。 大通り(放射6号線)の13番地と14番地の間を 東京女子医大方向に入ってすぐ右手、 「余丁町郵政宿舎」が永井家の跡地であると書いてあります。 「うーん、これか」 何の変哲もない3階建てのアパートです。 敷地2000坪、このアパートの敷地より断然広かったのです。 荷風は、父君の家の玄関脇に6畳を増築して、 断腸亭と名づけたのです。

オトーサン、 「ふーん、大通りの向こう側一帯が刑務所だったのか。 さぞかし、頭に来ただろうなぁ」 荷風は随筆「監獄署の裏」で、こう書いています。 私の家は市ケ谷監獄署の裏手でございます。 五、六年前私が旅立する時分にはこの辺は極く閑静な田舎でした。 下町の姉さん達は躑躅の花の咲く村と説明されて、 初めてああ然うですかと合点するくらいでしたが、 今ではすつかり場末の新開町になつてしまひました。 変りのないのは狭い往来を圧して聳立つ長い監獄署の土手と、 其の下の貧しい場末の町の生活とです。  オトーサン、 「市ケ谷監獄署といっても、 その広さがピンとこないので、 明治40年(1907年)の地図を参照してみました。 現在の小石川工業高校はすっぽりこの中に入っています。 さぞ、陰鬱な雰囲気だったでしょう。 その昔、三億円事件が起きた府中刑務所脇を 好奇心のまかせて歩いたことがありますが、 実に気分の悪いものでした。

photo:東京監獄市ヶ谷刑務所 ピンクの○印が断腸亭跡、緑の○印は坪内逍遙旧居跡 赤い×印は、三島由紀夫の生家   オトーサン、 「しかし、何が幸いになるか分からんなぁ」 この監獄のそばに住んだおかげで、 荷風が誕生したのですから、 世の中は、何が幸いするか分かりません。 荷風は、「花火」で、こう書いています。 明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、 わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で 囚人馬車が五六台も引続いて 日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。 わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、 この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。 私は文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。 小説家ゾラはドレヒュー事件について 正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。 然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。 私は何となく良心の苦痛に絶えられぬような気がした。 私は自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。 以來わたしは自分の芸術の品位を 江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。 その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた オトーサン、 「幸徳秋水が死刑になった事件か」 荷風は、フランス留学中傾倒したゾラのように 敢然と決起し、政府にその不当性を抗議できなかった自分らに イヤ気がさして、江戸戯作者に身を落とす覚悟を決めたのです。 「フランス物語」(発禁)、「四畳半襖の下張り」(発禁)を書くことで、 下半身からの抵抗姿勢を見せることにしたのでしょう。 ○幸徳事件

1911年1月、 爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えた(実行せず)という容疑で、 幸徳秋水らが大審院に付され、大逆罪で12名が処刑された事件。 政府によるでっちあげで、無政府・社会主義者への弾圧だった。 被告の家族、友人たちの捜索・取調べも行われ、 出版物取り締まりが強化された。 この事件は文学者たちにも大きな影響を与えた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「それでも、それなりに快適な暮らしだったんだろうなぁ」 後に昭和天皇の侍従だった入江相政の父君に 地所の半分を譲ったそうですが、それでも1000坪。 「断腸亭日乗」には、こんな記述も。   (1918年) 正月七日。 山鳩来りて庭を歩む。 毎年厳冬の頃に至るや山鳩必ただ一羽わが家の庭に来るなり。 いつの頃より来り始めしにや。 仏蘭西より帰来りし年の冬われは始めてわが母上の、 今日はかの山鳩一羽庭に来りたればやがて雪になるべし かの山鳩来る日には毎年必雪降り出すなりと語らるるを聞きしことあり。 されば十年に近き月日を経たり。 三年前入江子爵に売り渡せし門内の地所いと広かりし頃には 椋の大木にとまりて人なき折を窺い地上に下り来りて餌をあさりぬ。 その後は今の入江家との地境になりし檜の植込深き間にひそみ 庭に下り来りて散り敷く落ち葉を踏み歩むなり。 この鳩そもそもいづこより飛来れるや。 果たして十年前の鳩なるや。 あるいはその形のみ同じくして異れるものなるや知るよしもなし。 されどわれはこの鳥の来るを見れば、 殊更にさびしき今の身の上、訳もなく唯なつかしき心地して、 或時は障子細目に引あけ飽かず打眺ることもあり。 或時は暮方の寒き庭に下り立ちて米粒パンの屑などを 投げ与ふることあれど決して人に馴れず、 わが姿を見るや忽ち羽音鋭く飛去るなり。 世の常の鳩には似ずその性偏屈にして群に離れ孤立することを好むと覚し。 何ぞ我が生涯に似たるの甚だしきや。 ところが、この半年後、荷風の心は暗鬱になります。 母が、先考(死んだ父)の遺品を隠していたことを 偶然知ってしまったのです。 芸妓・八重次を妻にしたことで、 弟・威三郎と断絶しましたが、 母もそのことで憤り、ついに自分を見捨てたと思いこむのです。 「断腸亭日乗」の記述をみましょう。   (1918年) 八月八日。筆持つにもの憂し。 屋後の土蔵を掃除す。 貴重なる家具什器は 既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、 残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひいたりしに、 この日土蔵の床の揚板をはがし見るに、 床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。 開き見れば先考の往年上海より携げ帰られし陶器文具の類なり。 これに依って窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を 余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。 果たして然らば余は最早この旧宅を守るべき必要もなし。 再び築地か浅草か、いづこにてもよし、 親類縁者の人々に顔を見られぬ陋巷に引き移るにしかず。 ああ余は幾たびかこの旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、 遂に長く留ること能はず。 悲しむべきことなり。 こうして荷風は、余丁町を引き払います。 天涯孤独の道へ突き進むことになるのです。


41 荷風追憶、戸山高校/戸山ケ原

オトーサン、 余丁町から明治通りへ出て、北上。 荷風のお墓のある雑司ケ谷霊園は、池袋。 山手線沿いに大久保駅、高田馬場駅と通過していきます。 「走りにくいなぁ」 車道は、超満員。 歩道も、ひとだらけ。 やたら遠く感じましたが、 1時30分、18.98km、戸山高校前へ。 「昔は、この道、クルマなんか走っていなかった」 真昼間にくるまが1台もいない明治通り。 まるでSFの世界のようです。 卒業してから、もはや半世紀が経過しております。 「やや、校門が立派になった」 ン十年ぶりですので、写真を撮っていると、 校門から出てきたセンセイに質問されました。 「OBの方ですか」 「ええ。昭和32年卒です」 「...」 「同期の住田くんが城北会の会長をしていました」 「ああ、住田さんと同期ですか。  どうぞ、なかへお入り下さい、ご案内しましょう」 「いや、今日は急いでいるので、また、次の機会に」 卒業以来、まったくご無沙汰ですから、 いまさら、のこのこ入っていける身分ではありません。 「そうですか。あなたの頃は東大に大勢入ったのでしょうねぇ」 「60人くらい入りました。私もまぐれで入りました」 「いまは、10人もいませんね、 でも、東京都から進学指導重点校に指定されましたし、 文科省からスーパー・サイエンス・ハイスクールの指定を受けているから、  これから少しはよくなるのではないですか」 「そうですか」

○東京都立戸山高等学校  補充中学として創立以来、共立中学、城北中学、  府立四中・四高から都立戸山高校にかけて、  日比谷高校に次ぐ120年近い歴史と伝統を誇る  都立を代表する名門校である。  自主自立を校風とし、クラブ活動、生徒会活動にも力を入れている。 <OBの著名人> 東條英機 - 内閣総理大臣、陸軍大将 原文兵衛 - 警視総監、環境庁長官、参議院議長 浜四津敏子 - 参議院議員 藤井治芳 - 日本道路公団総裁、建設省事務次官 宮津純一郎 - NTT元社長 岡村正 - 東芝社長 小宮山宏 - 東大総長 宮沢俊義 - 東大法学部教授、憲法学、日本野球機構コミッショナー 森永卓郎 - 経済アナリスト 和歌森太郎 - 歴史学者、民俗学者 田邊元 - 哲学者、京都帝大教授、元本学教諭。文化勲章 羽仁五郎 - 歴史家 乙武洋匡 - スポーツライター、「五体不満足」 林望 - 書誌学者、エッセイスト 浜口庫之助 - 作曲家 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 在学時代、勉強漬けで、あまり思い出もありませんが、 それでも、何人かは、覚えています。 まずは英語のブル(藤村久雄)。 暗記を強制され、毎回当てられのが怖くて怖くて... 国語の福島正義センセイ、 黒板の字が上のほうは威勢がいいのですが、 だんだん小さくなっていくので、渾名がダイシェンセイ。 これらの諸先生の風貌・言説は、 リンボウ先生の御本に活写されております。 戸山高校のOB諸君、おすすめです。 注)林望「帰らぬ日遠い昔」講談社 1992 ・ブル余談を許さず/大先生とニレイサン/ ・サトチュウ「美しき数学」 書道の小林秀雄センセイは、前衛書道家なのに、 新聞の字をマネしてきちんとした字を書くことを指導されました。 同期生では、何といっても住田笛雄くんでしょう。 「こんなに出来のいい男がいるのか!」 成績は学年で1番、ラクビー部の主将、生徒会長、 家に帰ると、源氏物語の研究。 東大をさけて、一橋大学へ首席で入学、柔道部へ。 柔道部の先輩に日本経団連の奥田碩会長がいます。 卒業して日立製作所入り。 彼、子会社の社長にはなったようですが、 本体の社長にしないとは、 日立は、ひとを見る目がない会社のようです。 いまだに経営不振ですよね。 オトーサン、 久しぶりに、卒業アルバムをみました。 「オレ、3年A組だったっけ。  おお、平瀬センセイだ」 物理がキライで、センセイの試験では 100点満点で20点しかとれなかったりしました。 出来の悪い生徒という記憶があったのでしょう。 東大入学を報告に行ったら、 「ほー、きみが...」 絶句しておられました。 2年生のときの成績は、学年400人中200番でしたから、 センセイとしては、信じられなかったのでしょう。 オトーサン、 「住田くんか」 その凛々しい顔を眺めました。 「彼女と結婚するとはねぇ...」 相手のひとの顔もしげしげと眺めてしまいました。 それから好きだったひとの顔も。

オトーサン、 興に乗ってきたので、 松涛中学の卒業アルバムも開いてみました。 「おー、いるいる!」 娘に見せました。 「これが細木数子さんだよ」 「へぇ、可愛い顔してるわね。  中学生のときの写真なんか見たことないよ。  週刊誌に高く売れるわよ?  お宝画像よ」 「ハ、ハ、ハ」 彼女、3年A組でした。 モデルスクールとして発足したので、 越境入学者も多く、センセイもみんな張り切っていて、 生徒も、真面目に勉強にスポーツに励んでいました。 1954年卒、ともに三回生ということになります。

photo: 若き頃の細木数子さん(中央) 読者のみなさん、 「今日は、荷風と無関係じゃないか」 そうお叱りをこうむりそうなので、 荷風「日和下駄」の一節をご紹介しましょう。 東京市中、どこへでも出かけたひとでしたから、 この戸山ケ原にも勿論足を伸ばしていました。 余丁町から、わずか1km強。   戸川秋骨君が「そのままの記」に霜の戸山ケ原といふ一章がある。 戸山ケ原は旧尾候御下屋敷のあった処、 その名高い庭園は荒らされて陸軍戸山学校と変じ、 付近は広漠たる射的場となっている。 この辺豊多摩郡に属し近き頃までつつじの名所であったが、 年々人家稠密していわゆる郊外の新開町となったにかかわらず、 射的場のみは今なお依然として原のままである。 秋骨君曰く  戸山の原は東京近郊にめずらしい広開した地である。  (略)  戸山の原は、原と言えども多少の高低があり、立樹が沢山にある。  大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林を為した処もある。  そしてその地には少しも人工が加わっていない。  全く自然のままである。  もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは  此処にそれを求むべきであろう。  高低のある広い地は一面に雑草を以って覆われていて、  春は摘草に児女の自由に遊ぶに適し、  秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。  四季の何時と言わず、絵画の学生が此処其処にカンヴァスを携えて、  この自然を写しているのが絶えぬ。  (略)  凡そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起こす、  然らずともこれに加工を加うるに躊躇しない。  然るに如何にして大久保の辺に、  かかる殆ど自然そのままの原野が残っているのであるか。  不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の賜である。  戸山の原は陸軍の用地である。  その一部分は戸山学校の射的場で、  一部分は練兵場として用いられている。  しかし、その大部分は殆ど不用の地であるの如く、  市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。  騎馬の兵士が大久保柏木の小路を隊をなして駆け廻るのは、  甚だ五月蝿いものである。  否五月蝿いではない癪にさわる。  天下の公道をわがもの顔に横領して、意気頗る昂る如き風あるは、  われら平民の甚だ不快とする処である。  しかしこの不快を与うるその大機関は、  また古の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるのである。  思えば世の中は不思議に相贖うものである。  一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。 秋骨君が言う処大にわが意を得たものである。 オトーサン、 「この辺、変わったなぁ」 もう昔の武蔵野の面影はまったくありません。 「A級戦犯の東條英機が先輩だったとはねぇ... ま、いいか」 それより、森永卓郎さんや林望さんが後輩と知って、 なんだかうれしくなってしまいました。

戸川秋骨は、慶応義塾時代の同僚でした。 ○戸川秋骨  1870 〜1939 明治時代の評論家・英文学者 1891年、明治学院を卒業して明治女学校教師となる。  93年、島崎藤村・木村透谷らと雑誌「文学界」を創刊、  東大英文専科に学び、99年山口高校教授。  欧米に留学、帰国して1910年慶応大学教授となる。  早くから翻訳家として知られ、 「エマーソン論文集」や「哀史」(レ・ミゼラブル)、  「十日物語」(デカメロン)は広く読まれた。  「英文学講話」「英文学覚帳」などを著作がある。


42 荷風追憶、鬼子母神、東京音大

オトーサン、 「さぁ、いよいよ雑司ケ谷霊園だ」 明治通りを引き続き北上します。 山手線に沿って高田馬場、目白、池袋駅へ向かうのです。

「おお、こんなところで、都電に出会うんだ」 都電荒川線が早稲田を起点に面影橋をへて、 この高戸橋から右折し、しばらく明治通り沿いに北上するのです。 「ここらいい感じだなぁ」 学習院下なんていう駅は、皇族が利用していそうです。

千登世橋で、都電とはお別れ。 明治通りを北上し、適当な場所で右に折れました。 しばらく簡素な路地を走っていくと、 緑の濃い風格を感じさせる神社にぶつかりました。 神社の前を楽器をかかえた女子大生が次々と通り過ぎていきます。 そのひとりをつかまえて、 「すいません、この神社何というのですか?」 「知りません」 ニベもないお答えでした。 「顔をきれいなのに、心は夜叉か」 後で知ったのですが、東京音大生のようです。 ここは、東京音大生の池袋駅からの通学路になっているようです。 「こんな大学あったっけ」 芸大や桐朋や武蔵野は聞いたことがありますが、 東京音大は知りませんでした。 「毎日通っている神社の名前も知らないなんて!  お前ら、西洋音楽かぶれか」 口には出しませんでしたが、イヤ味を言いたくなりました。

○雑司が谷鬼子母神堂 創建は1578年。  鬼子母神はインドの邪悪な神だったが、  釈迦の諌めによって改心し、安産・子育ての神となった。  本堂は1666年、前田利常の三女満姫が、  天下安全・子孫繁栄の祈願として造られたもの。  境内の大銀杏は樹齢500年、周囲6.6mで天然記念物。 オトーサン、 「荷風のことだから、鬼子母神は訪れているだろうなぁ」 後で調べたら、「日和下駄」に出ていました。 私は市中の寺院や神社をたずね歩いて 最も幽邃の感を与えられるのは、 境内に進入って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、 路傍に立つ怱門を潜り、 彼方なる境内の樹木と本堂鐘楼等の屋根を背景にして、 その前に聳える中門または山門をば、 長い敷石道の彼方から遠く静に眺め渡す時である。 (略) 寺の門はさながら西洋管弦樂の序曲の如きものである。 最初に惣門がありその次に中門あり然る後幽邃なる境内あって ここに始めて本堂が建てられるのである。 (略) 山の手の其の中でも殊に木立深く鬱蒼とした処といへば、 自ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。 雑司ケ谷の鬼子母神、 高田の馬場の雑木林、目黒の不動、角筈の十二社なぞ、 かかる処は空を蔽う若葉の間より夕陽を見るによいと同時に、 また晩秋の黄葉を賞するに適している。 夕陽陰裏落葉を踏んで歩めば、 江湖りん落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。 東京音大生、 「ふん、あたし、荷風なんか知らないわ。 それに、その人、音楽のことなんか知らないのでしょ」 あるいは柳眉を逆だてて、憤るかもしれませんが、 荷風には、なかなかの音楽通でもあったのです。 何しろ、NYやパリで、音楽三昧だったのですから。 遠く独り、欧米の空の下に彷徨うとき、 自分が思想生活の唯一の指導、唯一の慰藉となったものは、 宗教よりも、文学よりも、美術よりも、むしろ音楽であった。 音楽関係の書き物としては、以下のものがあります。 ・西洋音楽最近の傾向 ・歌劇フォースト ・欧州歌劇の現状 ・欧米の音楽会及びオペラ劇場 ・仏蘭西観劇談 ・オペラ雑感 東京音大生、 諸君のセンセイは、こんなこと教えてくれますか? 教えられますか? 「オペラ雑感」の一節を読んでみましょう。 ...で、しばしば伊太利もしくは仏蘭西のオペラ中で 極く艶麗なものを聴いていると 丁度日本で義太夫の心中物でも聴いていると 同様の感を抱くことがある。 この種のオペラの仕組みは、 重に、一人の男が二人の女から恋されその間に立って、 共々その身の破滅を来す筋とか、 あるいは一人の女がその思う男のために 身を犠牲にして死ぬとかいふ筋で 実例を挙げればヴェルディの傑作「リゴレット」に於いて 娘グイルグの死は「矢口の渡」で、傾兵衛の娘を思い出すし、 トーマの「ミニオン」に於いて我娘の行動を探らんがために 音楽者となって旅する親爺は何やら朝顔日記の悲しみにも比すべく 「ギオコンダ」の結末に於ける激しい活劇は近松の浄瑠璃を想像せしめ 「トラビアタ」の身の上の哀れさは浦里、梅川、小春などにも比較し得るだろう。 しかし、これらの、オペラは音楽が余りにも美しく 歌曲が変化に富んでいる結果として前にも述べた如く、 感覚上は強い悲哀の美を感じさせるけれども それ以上深く心の底に突き入る力を欠いてしまった、 この欠点を補い、オペラをして最上の芸術たらしめたものは 即ちワグネルである、 ワグネルのオペラは伊仏のものとは全く材料の方面がちがう。 独逸固有の国民音楽を起こすために、 彼はことごとくその古来の伝説を材とした、 「タンホイゼル」といい「ローヘングリーン」といい、 「ラインゴルド」(ライン河の指輪」といい皆そうである。 (略) ワグネルは旧来のオペラの規定を全然破壊してしまい、 流暢な歌曲のみを主としたオペラあんるものと、 科白劇とを混和せしめた上に、 シンホニー式の音楽を応用して、劇中の人物、事件、感想を説明した、 この音楽が有名なワグネルのGuiding motive と称するもので、 科白も歌謡もいい顕わすことの出来ない深き感想は この「モーチーブ」のために極めて深刻に聴者の心に伝送することが出来る、 トリスタンの例をいえばトリスタンが幕を排して出る時には 「英雄トリスタラン」と名付る、大波の寄せては返すような器楽が奏せられるので、 トリスタンのこの瞬間の感情が言語で説明するよりもなお深く了解し得られるし またトリスタンとイゾルデが毒を飲んで、互いに顔を見合す時には Confesion of love 及び desire 次に granne の名称ある 三種のモーチーブが恋する男女の心中を説明する。 「トリスタン」以外の例を挙ぐれば、...(略)


43 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その1

オトーサン、 またもや、道に迷ってしまいました。 都電の踏み切りに出たところで、 散歩中の老人夫婦に聞きました。 「雑司ケ谷霊園ね。  線路を渡って直進し、左に曲がると霊園事務所がある」 「直進しないで、すぐ左折するんじゃないの?」 「分かりやすいほうを教えたんじゃ」 「だって、遠回りになるでしょ」 このご夫婦、喧嘩をはじめてしまいました。 「ああ、大体分かりました。ありがとう」 夫婦喧嘩は犬も食わないと申します。 自転車だから、多少遠くてもどうっていうことないのです。 旦那さんの言う通りに走りました。 「ふーん、結構緑の濃い霊園なんだ」 谷中霊園よりも、緑が多いような気がします。 この霊園管理事務所でも、立派な案内図をくれました。 埋葬著名人66人のリストがあります。 「おいおい、東条英樹も、ここかよ。 靖国神社にあるのじゃなかったのか」 それとも分骨して、両方に埋葬されているのでしょうか。 文人では、夏目漱石、泉鏡花、小泉八雲、森田草平など。 画家では、竹久夢二、東郷青児など。

赤丸:荷風の墓 青丸:夏目漱石の墓 オトーサン、 「ここか」 地図を見ながらでも、 なかなか荷風のお墓をみつけるのは大変でした。 午後2時20分、24.31km、ようやく到着。 1-1-7側3番でした。 「思ったより、いい雰囲気だな」 永井家の一画は、生垣に囲まれています。 五月の光に若葉が輝いています。 誰かが手向けた花が飾ってありました。

荷風は、生前、こんなことを言っていました。 (1937年) 六月廿日。 ...六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、 帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、 今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。 近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしは かさねがさね嬉しきかぎりなり。 余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、 この浄閑寺のえい域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。 石の高さ五尺を超ゆべからず、 名は荷風散人墓の五字を以って足れりとすべし。 オトーサン、 「五尺以上あるなぁ」 「永井荷風墓か、五文字だけど」 浄閑寺でなく、ここにしたのは、 文化勲章を受章して、気が変わったのでしょうか。

photo:受賞者記念写真、後列右が荷風 オトーサン、 「...父君のお墓のそばか」 父親とはいろいろありました。 「お墓のなかで気まずい思いをしていないかなぁ?」 荷風の本を読み込んできたので、 この父子の緊迫した関係について詳しくなりました。 安定したきちんとした職業に就かせたい父親と わが道を行きたい息子のすさまじい角逐が展開されました。 世の父親の参考にもなると思うので、ご紹介しましょう。 「西遊日誌抄」から。 (1905年) 一月廿七日。 家尊(父)郵船会社の処用を帯びミネソタ号に乗じて 太平洋岸の者シアトルに来りしが 数日前再び同船にて帰航の途につきたりといふ。 書簡の終に七律一首を録せらる。 幾従人海閲波瀾 無定身従愁更酸 来又倉黄帰又急 別何容易会何難 寸書未尽平生意 両地空違骨肉歓 湖上天寒宜自重 老懐偏顧一家安 オトーサン、 「分かるなぁ、この気持ち」 はるばる日本からシアトルまで行って、 息子にも会えず、早々にとんぼ帰り。 別れるのは簡単なのに、会うのはなんと難しいことか。 手紙では意を尽くせないので、 会って親しく語り合おうと思ったが、残念だ。 そちらは寒いから、気をつけてな。 老いた父は、一家の平安を祈るだけだ。 「あーぁ、親の心、子知らず。荷風には通じなかったんだ」 (1905年) 八月廿九日。 家書に接す。 父は予の仏蘭西行にはいかにするとも同意しがたき旨申来れり。 ああ父と余との間には何事も同意せられざるなり。 失敗と失望とに馴れたる予は今更何の驚き嘆く事あらんや。 余は早晩ワシントンを去らば身を紐育の陋港に晦まし 再び日本の地に帰る事なかるべし。 九月廿三日。 再び家書を得たり。 仏国に遊ばんと企てたる事も予期せし如く父の同意を得ざりき。 今は読書も健康も何かはせん。 予は淫樂を欲して已まず。淫樂の中に一身の破滅を冀ふのみ。 先夜馴染みたる女の許に赴き盛にシャンパンを倒して快哉を呼ぶ。 十一月廿四日。 父の書簡ワシントンより転送せらる。 開き見るに父は故郷にて正金銀行の頭取と会見し 余をしてその紐育出張店の事務見習員たらしむる事を依頼したれば、 この手紙読み次第紐育出張店の支配人に面会して その身の行末を頼むべしとの事なり。 余は読み終わりて茫然として為す処を知らず。 余は米国にある事既に三年なりといへども 商業に関して学ぶ処全くなし。 正金銀行に入るとも長くその職に堪え能はざるや明かなり。 後日に至いろいろ思ひ惑ひて決するに能はず。 十二月七日。 ああ余は遂に正金銀行に入りたり。 余にしてもしこの度父の望める銀行に入らずば 永久父と相和するの機会あらざるべしとの素川子の忠告によりて さすがに我儘もいひ兼ねたるなり。 美の夢より以外は何物をも見ざりし多感の一青年は 忽ち世界商業の中心点なるウォルストリイトの銀行員となる 何らの滑稽ぞや。 十二月八日。 余の生命は文学なり。 家庭の事情やむをえずして銀行に雇はるるといへども 余は能ふかぎりの時間をその研究にゆだねざるべからず。 余は他日必ずかの「夢の女」を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。 余は絶望すべきにあらずと自ら諌めかつ励ましたり。 然も余は一時文芸に遠ざからざるべからざる事を思ふ時は 何らか罪悪を犯したるが如く また深き堕落の淵に沈みたるが如き心地して 心中全く一点の光明なし。 銀行の帰途酒場の卓子に独り痛飲して夜半にいたる。


44 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その2

オトーサン、 「おいおい、娼婦と再会か」 銀行勤めをはじめて、半年ほど経った頃のことです。 父君は、「道楽息子もようやく落ち着いてくれたか」 そう一安心していたことでしょう。 ワシントンで馴染みの娼婦が 突然紐育(NY)に荷風に逢いにやってくるのです。 (1906年) 六月十六日。 ワシントンの妓女イデスその後久しく消息なかりしが ニューゼルシー州トレントン市に来れる由書き越しぬ。 七月五日。 イデスは次の日曜日正午十二時と一時の間にさるところより 電報打つべければそを受取りたらば直に来よと手紙にていひ越しぬ。 七月八日。 イデス巳に紐育にあり。 余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつつありといふ。 余はこの電報を片手にして馳せ行けり。 ああ去冬十一月落葉粛々なるワシントンの街頭に 別離の涙をそそぎしよりあたかも九箇月なり。 彼女は一日とてもその夜の悲しさを忘れたる事なしとて 熱き接吻もて余の身を掩へり。 ホテルにある事半日、夜の来るを待ちて 共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて シャンパンを傾け酔歩まんさん腕をくみて 燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。 彼女はこの年の秋かおそくともこの年の冬には 紐育に引移りて静なる裏通に小綺麗なる貸間を借り 余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でてやまず。 余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、 その嬉しさ忝じけなさ涙こぼるるばかりなれど、 それと共にまたやがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては むしろ今の中に断然去るに如じとさまざま思い悩みて眠るべくもあらず。

今余の胸中には恋と芸術の夢との、 激しき戦ひ布告せられんとしつつあるなり。 余はイデスと共に永く紐育に留りて米国人となるべきか、 然らばいつの日かこの年月あこがるる巴里の都を訪ひ得べきぞ。 余は妖艶なる神女の愛に飽きて歓楽の洞窟を去らんとする かのタンホイゼルが悲しみを思ひ浮べ、 悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。 ああ男ほど罪深きはなし。 七月九日。 朝晩く疲れし睡眠より覚むるや余らは直に接吻せり。 彼女は午後二時半の汽車にてトレントン市に帰るとの事なりければ、 食事して後直に馬車を雇ひてペンシルベニヤ停車場に赴き 渡船にてハドソン河を渡る。 彼女はこの道すがら車の中舟の上にてもしばしば余を接吻せり。 発車の時刻迫り来るや彼女は汽車の窓より また逢ふまでの形見にとて胸にさしたる薔薇の花を投げたり。 余は突然いかなる犠牲を払ふとも彼女を捨つること能わずと感じぬ。 昨夜の二心は忽ち変じて 今は一刻だも彼女なくしては生くる事能はざるが如き心地となれり。 汽車は巳に動き出して ハナカチ打ち振る彼女の姿は見る見る中遠ざかり行きぬ。 七月九日。 彼女がこと心を去らず。 余はさまざまあられなき空想に包まるる身とはなれり。 そもそも余が父は余をして 将来日本の商業界に立身の道を得せしめんがため 学費を惜しまず余を米国に遊学せしめしなり。 子たるものその恩を忘れて可ならんや。 然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。 余はむしろ身をこの米国の陋巷にくらまし 再び日本人を見るにしかじと思ふことしばしなり。 イデスはやがて紐育に来りて余と同棲でんといひしにあらずや。 余は娼家の奴僕となるも何のはばかる処かあらん。 かかる暗黒の生活は余の元来嗜む処なるを。 七月十二日。 彼女の手紙は毎朝余の銀行に行かんとする時 余の机上に飛来れり。 ああ余は実に不思議なる運命に遭遇せり。 七月十四日。 机上小包郵便あり。 開き見るに銀製の巻煙草入にして彼女の贈る処。 「愛はすべてなり」との文字を刻したり。 七月十八日。 イデス再び余を見んがため この月の末紐育に来るべしといひ越しぬ。 七月廿八日(土曜日) 午後四時金ボタン輝やしたるベルモントホテルのボーイは イデス余を待ちつつある由の書状を持ち来れり。 余は直にホテルに赴けり。 晩餐後ブロードウエーを歩みそこここの酒場に休みて飲む。 帰途彼女は是非にも余が寓居を見ねばやまずといふに やむなく導きて余が寓居に至る。 暁近き頃共にホテルに帰る。 八月一日。 正午日本領事館の素川氏と会食す。 子語りていふ。 君近頃銀行内の評判宜しからず 解雇の噂さへあるやに聞き及べりと。 (略) 八月二日。 遠からず日本に呼び戻さるべき運命はまさにその一歩を進め来らんとす。 混乱せる余の胸中には 第一に余は如何にしてイデスと別るべきか。 別れて後いかにすべきか。 第二に余は帰国の後何をか為すべき。 銀行解雇となりたる余は何の面目をもて父に見ゆべきか。 第三に余は帰国の後果たして文壇に立ち得べきや否や。 第四に余は米国を去りて日本に帰りし後当時を思ひ出でて 返らざる追憶の念に泣く事なからんか。 これらの問題は連続してその回答を求めんとするなり。 ああ余は到底米国を去る能わず。 敢て一女子のためといふ勿れ。 米国の風土草木凡てのものは 今余の身に取りてあまりに親愛となりたるを。 八月五日(土曜日) 忍ぶべからざる炎暑は鉄の都会に来襲せり。 食後午睡して夕暮の来るを待つ。 夜涼風を迎へんとて独百三十丁目の渡船場に至りハドソン河を渡る。 明月紐育の方に現はれ金光大河の面に砕け流るるさま甚だ偉なり。 陸に上りてパリセードの深林にさまよふ。 ああ余は何故にこの月夜この寂寞たる深林の中に 自殺する事を敢てし得ざる。 哀れ卑屈なる余よ。 八月廿日 彼女はホテルを引き払ひて四十九丁目の貸間に移り、 毎夜寄席の運動場または諸処の舞踏場に行きて 浮きたる世渡りせんといふなり。 日曜日は重なる寄席芝居は休みなれば その日の夜をわれとの会合に当つべしと約す。


45 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その3

オトーサン、 「NYで、オペラ三昧か」 紐育ほど観劇に適した地はないでしょう。 荷風は、イデスとつきあいながら、 銀行の勤めを終えると毎晩のように観劇に励むのです。 解雇通告がいつ来るかと怯えながら...

(1907年) 正月一日。 千九百七年とはなりぬ。 余は午近く起出ると共に唯茫然また唖然として 灰色に曇りたる新年の空を打ち眺めぬ。 そもそも余が生涯何ぞかく意外な事のみ多きや。 余の米国に来りし事既に意外なり。 新大陸の諸処に彷徨し 緑陰深きワシントンの街頭に図らずも金髪の一女に逢ひ 遂に別れべからざる情縁に悩む。 実に意外なり。 一度父の命により正金銀行の雇人となり 算盤を把る事早くも二年いまだ解雇せられず。 実に意外なり。 余は今正に進来れる千九百七年を如何に送り尽くすべきか 全く予想する事能わず。 余は秋風に翻る落葉の如く運命の導く処に行かんのみ。 オトーサン、 「流石に元旦だけは殊勝だなぁ」 でも、この後も相変わらず自堕落な生活を続けていくのです。 そして、半年ほど後に転機が訪れます。 七月二日。 銀行に赴くにボーイ来りて支配人より申渡すべき事あれば 支配人室に来るべしといふ。 余は直に解雇の命令なるべしと思ひ そのつもりにて赴き見るに何たる意外の事ぞや。 銀行本店より通知書あり仏蘭西リヨン出張店に 見習雇一名入用なるにつき即刻紐育出張店の余を その方へ向くべしとの事なりといふ。 この日の午後日本よりの後便にて これらの事凡て余が父の斡旋によりし事を知り得たり。 感激極まりて殆ど言ふ処を知らず。 オトーサン、 「まさに”山より高き父の恩”だな」 子供の頃から夢に見たフランス行きが突如実現したのです。 文中、その狂喜ぶりが窺えます。 「...問題はイデスだな」 七月三日。 仏国大西洋汽船会社出張店に赴き 十八日出帆ブルタンユ号中等切符を購ふ。 七月九日。 イデスと別杯をくむ。 この夜の事記するに忍びず。 彼女は巴里にて同じ浮きたる渡世する女に知るもの二、三人もあれば いかにもして旅費を才覚し、この冬来らざる中に巴里に渡り それよりリヨンに下りて再会すべしといふ。 ああ然れども余の胸中には最早芸術の功名心以外何物もあらず。 イデスが涙ながらの繰言聞くも上の空なり。 オトーサン、 「いいなあ。フランス暮らし」 この詳細は「ふらんす物語」(1909)に明らかですが、 ここでは随筆「矢立のちび筆」(1914)の記述を見ましょう。 夢のような時間が流れはじめたのです。 思へば千九百七、八年の頃のことなり。 われ多年の宿望を遂げ得て初めて巴里を見し時は、 明くる日を待たで死すとも更に恨む処なしと思ひき。 泰西諸詩星の呼吸する同じき都の空気をばわれも同じく吸うなり。 同じき街の敷石をば響きも同じくわれも今は踏むなり。 世界の美妓名媛の摘む花われもまた野に行かば 同じくこれを摘むことを得ん。 われはヴェルレエヌの如くにカッフェーの盃をあげ

レニエーの如くに古城を歩み、ドーデの如くにセーヌの水を眺め、 コッペエの如くに舞踏場に入り、ゴーチェーの如くに画廊を徘徊し ミュッセに如くにしばしば泣けり。 かくてわれは世にも最も幸福なる詩人となりぬ。 オトーサン、 「まったく同じだなぁ」 はじめて巴里へ入ったときの感激は、 齢70近くなっても、いまだに新たなものがあります。 セーヌ川のほとりを散策し、 かつ船に乗り、セーヌにかかる橋々を愛で、 カルチェ・ラタンに行き、ゆかりのカフェで ヴェルレーヌを偲び、上田敏訳の詩を口づさんだりして... 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。 げにわれは うらぶれて こゝかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。  (上田敏訳「秋の歌」) その後、画廊を見て歩きました。 またある日は、郊外に遊び、ロワール川の古城めぐりをしたものです。 荷風とちょっと違うのは 舞踏場が満員だったので、クラブへ行ったこと。 金髪のホステスと踊り、 シャンパンで祝杯をあげました。 請求書をみて青ざめ、酔いが覚めたりして... さて、再び「西遊日誌抄」に戻りましょう。 半年ほどが経過しました。 (1908年) 正月元旦。 去年は殆ど日記といふもの書かざりしが 今年よりまた書続くべし。 今年の正月は思ふに余が海外において遊ぶべき 最後の新年にはあらざるか。 わが愛する仏蘭西の最初最終の新年にはあらざるか。 正月廿三日。 紐育なる素川君に長文の書を送る。 要旨は余銀行の勤務到底忍ぶばからざるが故に 辞職せんとの事につき善後策を相談しやりたるなり。 オトーサン、 「おいおい、もう辞めるのかよ」 どうしようもない親不孝ものです。 正月廿九日。 銀行に赴かず終日床にあり。 二月一日。 銀行辞職と決心し手紙を父の許に送る。 二月三日。 銀行支配人の私宅を訪ひ辞職の意を告ぐ。 二月廿三日。 銀行を休みてよりは俄かに閑散の身となり 精神追々安まり行くやうなり。 午前読書午後久しぶりにて筆を執る。 三月五日。 この日銀行よりいよいよ解雇の命を受けたり。 三月十九日。 米国における日本人の生活を描写すべき長編小説の腹案をなす。 三月廿日。 父の書簡来れり。 いよいよ帰国すべき運命は定められたり。 兼ねて覚悟したる事ながら心今更の如くに驚き悲しむ事かぎりもなし。 三月廿一日。 夜しらじらじらと明けそめし頃ふと目覚めて 夢とも現ともなく身の行末を思ふ。 余は日本に帰るも父を見る事を欲せずいづこに姿をかくすべきか。 余が懐中には今些少の金あり再び紐育に帰りてイデスをたづね 悪徳不良の生活を再演せんか。 余は惑へり苦しめり余は決断すること能わず。 三月廿四日。 心地すぐれず旅装を準ふるの勇気なし。 終日床に臥す。 三月廿五日。 余はいかにするとも仏蘭西を去るが如き心地せず トランクは今方漸く取片付けたれど 余は何となく巴里かどこかに終身滞留し得るが如き心地するなり。 三月廿六日。 名残惜しければ病を犯してリヨンの街々を見物す。 夜に入りて心地ますますわろし。 この分にては巴里に行くを得べきや。 三月廿七日。 空夏の如くに晴れ渡りたり。 余はもう一日リヨンに止まらんかと思ひしが 遂に意を決して停車場に赴き巴里行の切符を購いたり。 オトーサン、 「フランス滞在は、わずか11ケ月だったんだ」 この後、ロンドンをへて、長い船旅のあと、 日本に帰国するのです。 この年、荷風29歳でした。 不肖の息子を父はどう迎えたのでしょうか?


46 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その4

オトーサン、 「フランスから早々と帰国したのは、 ”あめりか物語の評判を知りたかったのかも」 随筆「書かでもの記」の一節に、こうあります。 「あめりか物語」は明治四十年紐育より仏蘭西に渡りし年の冬 リヨン市ヴァンドオム町のいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ 序文並びに挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ 市中美術館の此方なる郵便局より書留小包にして 小波先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。 この稿料いかほどなりしか記憶せず。 翌年秋帰国せし時「あめりか物語」は既に市に出ていたりき。 われは直に仏蘭西滞在中及び帰航の船中にてものせし草稿を訂正し 「ふらんす物語」と名づけ前著出版の関係よりして請われるままに 再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の厄に会ひて... オトーサン、 「新進作家、出鼻をくじかれたわけか」 そこで、荷風は、フランス語の教師になろうとします。 巴里滞在中に知り合った上田敏に手紙を書くのです。 京都の高校教師になるつもりが、 瓢箪から駒で、慶応義塾の教授に就任することになるのです。 1910年、荷風わずか31歳。 現代ならば、いくら優秀でも、助教授がいいところ。 文明開化の明治は、洋行帰りのものを重用したのです。 おなじく「書かでもの記」の一節に、秘話が紹介されています。 ...その頃われは父への手前心はもとより進まねど 何処か学校の教師にてもやせんと思煩へる折からなり。 ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらりと耳にせしかば 早速事を京都なる先生に謀りしことありき。 これに対する先生の返書今偶然にこれを函底に見出しぬ。 再読するにまのあたりに生ける先生の声を聞くが如し。 (略) 昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件これあり候が 早速その向を探リ申候処今年九月よりの事なれば 何分人選等の事は校長にも深く考へおらず 従って御尊父様の御親交ある松井博士の紹介あらば 自然御就任の事となるべしと考え 小生もあまり騒立てぬ方かへってよろしからむと控おりし候 しかし小生の心の底には別に一種の考ありて 貴兄の御入洛を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共に ただ今帝都にて新芸術の華々しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして 教育界の沈滞したる空気中に入れ しかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は 貴兄自身にとりてもわが文学のためにも不得策にはあらざるかと やや心進まざる向もこれあり... (略) 然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり 珍しき事を聞込候 この事は非常に秘密に致しおり候やうに承をり候が 今度東京の慶応義塾にてその文学部を刷新し これより文壇において大活動を為さむとする計画これあり それにつきて文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候趣に候、 そこで三田側の諸先輩一同交詢社にて大会議を開き 森鴎外先生にも内相談ありしやうに覚え候が、 義塾の専任となりて諸の画策をする文学家を選び候処 夏目漱石氏か小生をといふ事に相定候由、 然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事難くして交渉纏まらず また森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木を訪問したる時、 森先生のいはるるには、 京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、 そこで先方の言ふには小生のことわりたる時 誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、 森先生は貴兄を推薦なされ候、...

オトーサン、 「鴎外は荷風が好きだったのか」 鴎外は、1907年(46歳)、陸軍軍医の頂点である陸軍軍医総監に。 1910年には、慶応義塾文学科顧問に就任していたのです。 荷風の17歳年上。 仰ぎ見るほどのひとでした。 でも、小説「舞姫」を書いたのは、29歳のとき。 荷風が「あめりか物語」を書いたのも、29歳。 「ワシとそっくりだな」 そうつぶやいていたのかもしれません。 洋行して女性に熱愛されたあたり、写し鏡のようです。 ○舞姫  薄幸の踊り子エリスと  将来を期待されたエリート日本人留学生太田豊太郎は  些細なことがきっかけで愛し合うようになる。  しかし豊太郎は結局エリスとの愛よりも  日本での出世のために帰国することを選ぶ。  心労で豊太郎は人事不省に陥り、  その間に友人から真実を知らされたエリスは発狂する。  病状が悪化したエリスに後ろ髪を引かれつつ  豊太郎は日本に帰国する。 オトーサン、 荷風の墓石の隣に鎮座する父君の墓石をみやって、 「大学教授就任か。 文部官僚だった父君も、さぞ安心されただろう」 ○永井久一郎  尾張藩士・永井匡威の長男。  藩儒・鷲津毅堂に漢学を、森春濤に漢詩を学ぶ。  英語習得を志して上京し、箕作麟祥の門を叩いた。  慶応義塾に移り、明治3年、当時日本人が多数学んでいた  ラトガース・カレッジに留学した。  帰国後、文部省に勤め、東京書籍館(国会図書館の前身)の創設に携わり、  その後、帝国大学書記官、文部大臣秘書官、会計課長などを務める。  西園寺公の勧めで退官し、日本郵船会社に入り、上海支店長や横浜支店長を歴任。  漢詩人として名声があり、「来青閣集」10巻を残した。  來青は久一郎の号であり、別に禾原という号もあった。  上海で中国の詩人と詩の応酬する機会にも恵まれた。  妻・恒は、鷲津毅堂の娘。  文明開化の時代、洋学と漢学の二股をかけた秀才のひとりだった。  大正2年(1913)1月2日逝去。 オトーサン、 「どんな漢詩を書かれたのかなぁ」 随筆「十六、七のころ」には、 漢詩の作法は最初父に就いた学んだとあり、 父の紹介で岩渓裳川先生に学んだとあります。 生涯の親友だった井上唖々と知り合うのも、 この先生の席だったということです。 文人としてのレールは、 この頃すでに父親の手で敷かれていたのかも。 米国留学というのも、父親と同じコースですよね。 随筆「矢はずぐさ」には、こんな一文があります。 わが父はこの上なく物堅き人なりき。 然れども生前自ら選みたまひしその詩稿「来青閣集」といふを見えば 良辰佳会古難並 玉手燦燦酒幾巡 休道詩人無艶分 先従花国賦迎春 ...の如き艶体の詩を唱し得るなり。 オトーサン、 「漢詩はよく分からんな」 でも、三行目は、やや分かります。 「言うなかれ、詩人に艶聞なしと」 荷風は艶聞だらけでしたが、 父・久一郎も、少しは遊んだこともあるのでしょう。


47 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その5

オトーサン、 「頭隠して尻隠さずだな」 荷風せっかく長年の親不孝を晩回しようとしていたのに、 大失敗をやらかすのです。 「断腸亭日乗」の引用も、これが最後になります。 長文になりますが、おつきあい下さい。 (1926年) 正月初二。 先考(父)の忌辰(命日)なれば早朝書斎の塵を掃ひ、 壁上に懸けたる小影の前に香を焚き、 花瓶に新しき花をさし添えたり。 先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、 あたかも雪降りしきりし午後四時頃なり。 これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ひ来られ、 歓語して立帰られし後、 庭にありし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るるを慮り、 家の内に運入れむとて両の手に力を籠められし途端、 卒倒せられしなり。 余はこの時家にあらず。 オトーサン、 「あーぁ、何か大事な用事でもあったのか?」 ところがそうではなかったのです。 数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、 二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、 意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、 障子細目に引きあけてといふ。 葉歌の言葉そのままなるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、 償ひがたきわが一生の過なりけれ。 余は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、 当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、 その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはいかにと言へば、 予その年の秋正妻を迎えたれば、 心中八重次にはすまぬと思ひたるを以て、 歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて 一日先立って塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。

オトーサン、 「正妻を迎えたのに、妾と湯治かねぇ」 父親の手前、意にそまぬ結婚をしたとはいえ、 体裁だけ繕うから、こういう不始末が生じるのです。 予は家の凶変を夢にだも知らず、 灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、 三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。 世には父子親友死別の境には虫の知らせといふこともありと聞きしに、 平生不孝の身にはこの日虫の知らせだもなかりしこそ いよいよ罪深き次第なれ。 (略) かくて夜のあくればその年の除日なれば、 是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、 籾山庭後君の許より電話かかり、 昨日夕方より尊大人(父)御急病なりとて、 尊邸より頻に貴下(荷風)の行方を問合わ来るにより、 内々にてちょっとい知らせ申すとの事なり。 予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。 心中窃かに父上は既に事切れたるに相違なし。 予は妓家に流連して 親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、 覚悟を極めて家に帰りぬ。 オトーサン、 「どの面下げて...オレなら気が弱いから病気になるなぁ」 仮病でも装うかも。 でも、人生、往々にして、こういう間の悪いときがあるもの。 やはり、逃げ隠れせず、堂々と場面に立ち向かうべきでしょう。 母上わが姿を見、涙ながらに 父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、 壮吉(荷風の本名)は如何せしぞ。 まだ帰らざるやと。 度々問ひたまひしぞやと告げられたり。 予は一語も発すること能わず、黙然として母上に後に随ひ行くに、 父上は來青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 (略) さて先考は昏睡より覚めざること三昼夜、 正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 來青閣にかりもがりすること二昼夜。 五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて 耶蘇教の式を以って葬儀を執行し、雑司ケ谷墓地に葬りぬ。 オトーサン、 「そうして、それ以来、ここに鎮座ましますのか」 荷風のとなりは、父君にとって、嬉しいのでしょうか? 不肖の子ほど可愛いといいます。 おそらく喜んでいるのでしょう。 でも、荷風のほうは、身を縮め放しかも。 随筆「正宗谷崎兩氏の批判に答ふ」には、 こんな一文が残されています。 わたくしは...「父の恩」と題する小説をかきかけたが、 それさへやゝもすれば筆を拘束されることが多かつたので、 中途にして稿を絶つた。 荷風にかぎらず、親子の相克というものは、 越え難い山谷のようなものなのでしょう。


48 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その6

オトーサン、 「ああ、何たる行状!」 荷風は、父の強いすすめで、1912年9月28日に 湯島の材木商斎藤政吉の次女・ヨネと結婚しました。 ご存知のように、八重次の存在を秘しての結婚です。 だが、父の死後数ケ月も経ぬうちに、 父への義理は果たしたとばかり、 13年2月17日には、ヨネと離婚してしまうのです。 翌、1914年3月、母の同意を取りつけ、八重次を入籍します。 媒酌人は市川左団次夫妻でした。

「矢はずぐさ」の新婚生活の描写には、 荷風にしては神妙かつ弾んだ筆先が窺えます。 こんな荷風を亡父は草葉の陰で泣いていたのかも。 われ家を継ぎいくばくもなく妓を妻とす。 家名を辱しむるの罪元より軽きにあらされど 如何せんこの妓心ざま素直にて 唯我につかへて誤ちあらんことをのみ憂ふるを。 何事も宿世の因縁なりかし。 初手は唯かりそめの契りも年経ぬれば 人にいはれぬ深きわけ重なりて まことの涙さそわるる事も出で来ぬるなり。 それを迷の夢と悟りしと人はいふなるべし。 世のそしり人の蔑も迷へるものは顧みず。 われは唯この迷ありしがために いはゆる当世風の教育なるものを受けし 女学生上りの新夫人を迎ふる災厄を免れたり。 盃もつ妓女が繊手は女学生が体操仕込の腕力なければ、 朝夕の掃除に主人が愛玩の什器を損わず、 縁先の盆栽も裾袂に枝引折らる虞なかりき。 世の中一度に二つよき事はなし。 親しき友にも矢重との婚儀は改めて披露せず。 祝儀の心配なぞかけまじとてなり。 物堅き親戚一同へはわれら両人は身分を省みて 勿論披露は遠慮致しけり。 人のいやがる小説家と世の卑しむ妓女との野合、 事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方 かへってご迷惑なるべしと察したればなり。 オトーサン、 「そうなんだ」 父親だけでなく、親戚の重圧もあったのです。 ネットには、こんな記事が出ていました。 父・久一郎の三弟・ソ之助は 福井県知事、鹿児島県知事、名古屋市長、日本赤十字副社長を歴任。 貴族院議員に勅撰され、枢密顧問官となっている。 また、久一郎の五弟・大島久満次も台湾民政官、神奈川県知事を歴任。 荷風は、明治期の高級官僚を輩出した家系に育った。

然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。 我らがこの度の事目出度しとて物祝ひ賜はる向も少なからざりしかば、 八重は口やかましき我が身を世話の手すきを見計らいて 諸処方々に返礼に歩きけり。 秋は忽ち過ぎ去りぬ。 (略) 八重諸処への礼歩きもすまして今は家にのみあり。 障子は皆新しう張り替へられたり。 家の柱縁側なぞ時代づきて飴色に黒みて輝りたるに 障子の紙のいと白く糊の匂いも失せざるほどに新しきは 何ともなくよきものなり。 座敷も常より明くなりたるやうにて 庭樹の影小鳥の飛ぶ影の穏やかあんる夕日に映りたるも また常より鮮かなる心地す。 (略) 折かがむ背中もやがて円火鉢  かどのとれたる老を待つかな それはさて置き、八重わが家に来りしてよりは わが稚き時より見覚えたるさまざまの手道具皆よく綺麗にふき清められて、 昨日まではとかく家を外なる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩の児も 此に漸く家居の樂を知り父なき後の家を守る身となりしこそうれしけれ。 (略) わが家広からず然れども屋後なほ数歩の菜園を余さしむ。 ふき、せり、たで、ねぎ、いちご、しょうが、うど、いも、ゆり、 しそ、さんしょう、くこの類時に従って皆厨房の料となす。 八重日々菜園に出て繊手よくこれを摘み調味して わが日頃好みて集めたる器に盛りぬ。 (略) 八重多年教坊にあり都下の酒楼旗亭にして知らざるなし。 加うるに骨董の鑑識浅しとせず。 わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々の弁を要せず。 いつも痒いところに手が届けり。 オトーサン、 「新婚のオノロケか」 文面に目を通す限りでは、よき世話女房のようです。 先妻への意地もあったのかも。 ところが、翌1915年、八重次は荷風のもとを離れます。 荷風の口うるささに辟易したのか、 生来の浮気の虫が再発したためか。 置手紙があったのです。 (1915年2月10日) 目出度き甲寅の年は暮れて新しき年も いつか鶯の初音待つ頃とはなりけり。 一日われ芝辺に所用あって朝早く家を出て帰途庭後庵をおとづれしに いつもながら四方山の話にそのまま夜をふかしく車を頂戴して帰りけり。 門の戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬の裾にまつはる事のみ 常に変らざりしが家の内何となく寂然として。 召使ふ子女一人のみ残りて八重は既に家にはあらざりき。 八畳の茶の間に燈火煌々と輝きて、 二人が日頃食卓に用ひし紫檀の大きなる唐机の上に、 箪笥の鍵を添へて一通の手紙置きてあり。 (略) その折にはわれさまでは驚かず、 大方新橋あたりの妓家ならずば 藤間が弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、 唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知れり。 オトーサン、 文面は以下のものだったとか。

「つまりきらはれたがうんのつき  見下されて長居は却而御邪魔」 八重次は、新橋で再び芸妓となったのです。 この後、荷風は、幸福なる夫を演じるのをやめ、 この年の終わり、新橋の芸妓(米田みよ)を身請けし、 浅草に囲い、その後、神楽坂に待合を開かせます。 だが、これも長続きせず、次の女へ。 さらに性懲りもなく、次なる女へ。 1916年には、慶應義塾を退職し、「三田文学」からも退きます。 「腕くらべ」、「四畳半襖の下張」といった春本作家に転落。 二度と妻は娶らず、子もなく、孤独死を遂げるのです。 こんな自堕落な男がなぜ文化勲章をもらえたのか? 皮肉なことに、荷風の自由清新な学風の中で育った 慶應義塾の教え子、久保田万太郎などの尽力があったそうですから、 世の中の帰趨は最後になるまで分からないものです。

オトーサン、 ふたたび、同じ疑問を抱きます。 こんな荷風を亡父は草葉の陰からどんな気持ちで 見守っておられたのでしょうか? 荷風がお墓に入ってきたとき、 果たして歓迎したのでしょうか?


49 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その7

オトーサン、 「そうだ、御母堂にも手を合わせなければ」 荷風は、父君に顔向けできないばかりか、 母堂にも、顔を合わせられない親不幸ものなのです。 何しろ、病気見舞いにも行かず、 臨終にも葬儀にも立ち会わなかったのです。 「断腸亭日乗」には、凍りつくような記述が... (1937年) 九月初五。 日の光全く秋らしくなりぬ。 蝉時雨歇む間もなくこおろぎも昼の中より鳴きすだくなり。 (略) 九月八日。 (略) 哺下午睡より覚めて顔を洗ひいたりし時、 勝手口に案内を請うものあれば戸を開き見るに、 従兄永井素川氏なり。 ケントン夏服にパナマ帽をかぶりたり。 西大久保伯母上危篤なれば 直に余が車に乗りて共に行かるべしといふ。 何はともあれちょっと顔を出されたし、 これ僕が一生の御願なりなど、 言葉軽く誠に如才もなき勧め方なり。 余は平生より心の奥深く覚悟する所あれば、 衣服を改め家の戸締などして後刻参上致すべければ 御安心あるべしと、体よく返事し素川君を去らしめたり。 風呂場にて行水をなし浴衣のまま出でて浅草に至り 松喜に夕餉を食し駒形の河岸を歩みて夜をふかしう家にかへる。 九月九日。 哺下雷鳴り雨来る。 酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。 酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば 唯事の次第を報告に来りしのみなり。 葬式は余を除き威三郎一家にてこれを執行すといふ。 共に出でて銀座食堂に夕食を食す。 尾張町角にて酒井とわかれ、 不二地下室にて空庵小田その他の諸子に会ふ。 雨やみて涼味襲ふが如し。 <欄外朱書> 母堂鷲津 氏名は恒、 文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒歩町に生る。 儒毅堂先生の二女なり。 明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す。 一女三男を産む。 昭和十二年九月夕、東京西大久保の家に逝く。 雑司ケ谷墓地永井氏塋域に葬す。 享寿七十六。 追悼。 泣きあかす夜は来にけり秋の雨。 秋風の今年は母を奪いけり。 photo:三田文学会大会にて。中央が荷風。 読者のみなさん、 「なんで、そんなに弟が憎いの?」 ほんとうにそうですよね。 「断腸亭日乗」には、こんな赤裸々な記述も。 御母堂逝去の半年ほど前に遡ります。 (1937年) 四月三十日。 くもりて南風つよし。 午後村瀬綾次郎来りて母上の病すすみたる由を告ぐ。 されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、 出でて浅草を歩み、 日の暮るるを待ち銀座に食し富士地下室に憩ふ。 いつもの諸子の来るに会ふ。 この日平井程一氏(佐藤春夫門人)書を寄す。 拙作「墨東」についての批評なり。 余と威三郎との関係 一 威三郎は余の思想及文学観につきて苛酷なる批判的態度を取れるものなり。 二 彼は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき    同じ家に住居することを欲せず、   母上を説き家屋改築を表向の理由となし、旧邸を取壊したり。   余が大正三年秋余丁町邸内の小家に移りしはこれがためなり。    邸内には新に垣をつくり門を別々になしたり。 三 余は妓を家に入れあることを    その当時にてもよき事とは決して思ひおらざりき。 唯多年の情交俄かに縁を切るに忍びず、    かつはまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も    悉くこれを黙認しいたれば、   母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。  四 彼は大正五年某月余の戸籍面よりその名を取り去りて    別に一家の戸籍をつくりたり。 これによりて民法上兄弟の関係を断ちたるなり。 五 彼は結婚をなせし時その事を余に報知せず。    (当時余は築地に住居せり) 故に余は今日に至るまで彼が妻の姓名その他について知るところなり。 六 余が家の書生たりしものの中、小川守雄米谷喜一の二人は   母上方へ来訪の際、庭にて余の顔を見ながら挨拶をなさざりしことあり。 この二人は平生威三郎と共に郊外遠足などなしおりし者なり。 七 地震の際、余母上方へ御機嫌伺に上りし時、    威三郎の子供二人余に向ひて「早く帰れ」と連呼したり。 子供は頑是なきものなり。 平生威三郎らが余の事をあしざまに言ひつるが故に子供は憚るところなく、 かくの如き暴言を放ちて恐れざるなり。 八 以上の理由により、余は母上の臨終及葬式にも    威三郎方へは赴くことを欲せざるなり。    (威三郎一家は母上の隠居所に同居なされるを以ってなり) オトーサン、 「まるで、子供の喧嘩だなぁ。 ...さあ、帰ろう、長居しすぎた」 でも、もう2度と雑司ケ谷墓地に来ることはないと思うと、 後髪を引かれる思いになりました。 「そうだ、この際、夏目漱石のお墓を見ておこう」 荷風は、漱石の依頼で朝日新聞に「冷笑」を連載し、 一躍人気作家になったのです。

photo:冷笑のカット 森鴎外には生涯頭が上らなかったようで、 鴎外のお墓まいりは度々しているようですが、 漱石にも世話になっているのです。 もっとも出会ったのは、一回、2時間ほどとか。 この両人、気が合わなかったのかも。


50 荷風追憶、雑司ケ谷霊園、その8

オトーサン、 「冷笑、つまらなかったなぁ」 この「冷笑」、荷風にとっては、 はじめての新聞連載小説でした。 文壇の大御所・泉鏡花の「白鷺」を受けてのもの。 連載予告には、こんな紹介が。 明日より掲載の小説 冷笑 永井荷風氏作 短編作家として、帰朝以来、文壇の視聴をあつめたる永井荷風氏は 初めて我朝日紙上にて、長編「冷笑」を公にせられんとす。 「冷笑」は氏の短編より長編に移る第一の作なれば、 読書子の注意も亦新なるものあらむ。 はじまったのは、1909年12月13日、 終了したのは、1910年2月28日、 全78回にわたって連載されました。 この「冷笑」、荷風としては、 「あめりか物語」「ふらんす物語」に続く三部作、 いわば「にっぽん物語」にしようとして、 俄然張り切って書いたようです。 でも、漱石の文体を意識したのか、 内容はともかく、文章そのものが生硬です。 例えば、こんな文章が多いのです。 評論家のように堅苦しい文章じゃないですか。 つまり最初に己れと云ふものを出來るだけ卑しくして、 然る後に、一種超越した態度に立つて局外者を眺めて見ると、 何につけ自然と巧まずして冷な笑ひが口の端に浮んで來るものである。 この冷笑から感得される痛快の味の中には 他人と自分の兩方に對する二重の意味が含まれる。 中谷は次第に滅びて行くべき舊式の薄暗い舞臺裏から 進歩を追ふ觀客諸君を眺めると同樣の痛快を、 又一層深刻に花柳界の裏面に於いて發見した。 オトーサン、 「そうか、いろんな事情があったんだ」 連載中に、慶応義塾教授就任の動きがあったのです。 2月4日に鴎外が就任依頼の書簡を送り、 2月6日に荷風は鴎外宅を訪問、 そして、評議員会での決定が2月15日。 こんなことも、文章が堅苦しくなった理由でしょう。 あるいは、荷風お得意の推敲ができなかったこともあったかも。 後の随筆「怠倦」では、こんなぼやきも。 此の春朝日新聞紙上に「冷笑」と云ふ小説を書いていた時に、 自分は其の日の朝机に向って書き綴った自分の文章が 毎日々々機械的に翌日の新聞に載っているものを見て、 何となく自分もいよいよ小説家になった。作者になった。 筆を家業にする専門家になったやうな心持がして 何とも知れず一種の不安と不快とを覚えた。 オトーサン、 「でも、荷風らしい艶な記述もあるな」 後に単行本として出版したときに、 伏字にした149文字を再現してみましょうか。 以下の文章中、アンダーライン部分です。 例へば恋した女と二人で芝居帰りの夜の街を、 殊に寒い冬の晩などに歩いて御覧なさい。 大勢の人の寄集った華やかな明い処から逃れ出て、 冴え返る星の光と瞬きする街頭の薄暗い火影に、 今度は唯一ツ互に恋する人の顔のみ、 じっと近く頬を接するやうに眺め合ふ時、 いかに吾々はこの世界が 吾々の恋そのものの為に出来て居るかを感ずるでせう。 吾々は歩いて行く其の一足の響き毎に、 公衆の前だけに着飾った衣服の一枚々々を脱ぎ捨てて、 羞しさを知らぬ吾々二人の眼のみが見る自由な自然な姿になる 其の場の有様を夢のやうに空想します。 全く晴れの場所からの帰途に、 遠い静かな木の陰に休んで居る侘住居の、 しめやかな燈火と柔らかな夜具の手触を思ひやるほど 甘い優しいものはないでせう。 オトーサン、 「言論統制か、困ったもんだ」 この程度で発禁になるようでは、 現代の週刊誌は全誌発禁でしょうし、 映画もますほとんどはノックアウトでしょう。 愛国心を強要し、軍備を強化し、 こんな時代に戻そうという議員が増えてきているそうですから、 何をかいわんや。 オトーサン、 「おお、これが漱石のお墓か」

実に立派な威厳を感じさせるお墓です。 故人の意思に反して弟子たちが建造してしまったものとか。 「軍服を着せられたみたいだ。可哀想に」 外見上は、荷風のお墓のほうが、ずっと住み心地がよさそうです。

○夏目漱石  小説家、英文学者。  1867/2/9 - 1916/12/9 牛込馬場下横町に生まれる。本名、金之助。  東大在学中に、同級の正岡子規と親交を結び、俳句を学ぶ。 東京帝国大学卒業後、松山中学、五高などで英語、英文学を教える。  明治33年、イギリスに留学し、帰国後一高、東大で英文学を教える。  「吾輩は猫である」「坊っちやん」を発表して一躍有名に。  明治40年、朝日新聞社入社。  「三四郎」「それから」「門」の三部作や、  「虞美人草」「彼岸過迄」「道草」「こころ」「明暗」などを執筆した。  文明批評や漢詩、俳句などを著わ。  1916年、胃潰瘍のため49歳で逝去。   オトーサン、 「漱石も可哀想になぁ」 「断腸亭日乗」では、荷風も同様の感想を漏らしています。 荷風は、漱石より12歳年下ですが、漱石よりも長生きしました。 以下の文章を書いたのは、48歳のとき。 (1927年) 九月廿二日。 終日雨雫々たり。 無聊の余近日発行せし「改造」十月号を開き見るに、 漱石翁に関する夏目未亡人の談話を その女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり。 漱石翁は追従狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。 また翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり。 余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり。 たとえその事は真実なるにもせよ、 その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、 未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。 見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、 妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。 然るに真実なれば誰彼の容赦なく何事に係らず これをあばきて差し支へなしと思へるは、 実に心得ちがひの甚しきものなり。 女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては これまた言語道断の至りなり。 余漱石先生のことにつきては多く知る所なし。 明治四十二年の秋余は「朝日新聞」掲載小説のことにつき、 早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき。 これ余の先生を見たりし始めにして、同時にまた最後にてありしなり。 先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及び一家の事なぞ とやかく噂せらるることを甚だしく厭はれたるが如し。 然るに死後に及んでその夫人たりしもの 良人が生前最も好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。 ああ何らの大罪、何らの不貞そや。 余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり。 新寒肌を侵して堪えがたき故就眠の時掻巻の上に羽布団を重ねたり。 彼岸の頃かかる寒さ怪しむべきことなり。 (略) のらくらと既に五十の夜寒哉 オトーサン、 「食えん老人だな」 この記述のすこし前に、 芸妓・お歌を身請けして、囲っているのです。 芸妓>カフェーの女給>正妻 これこそ荷風がその生涯をかけて発見した方程式のようです。 では、その理想の女のイメージとは...

photo:荷風と関根うた (1927年) 九月十七日。 ...夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す。 お歌年二十一になれりといふ。 容貌十人並とは言ひ難し。 十五、六の時身を沈めたりとの事なれど 如何なる故にや世の悪風にはさして染まざる所あり。 新聞雑誌などはあまり読まず、活動写真も好まず、 針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし。 昔より下町の女によく見らる世帯持の上手なる女なるが如し。


51 荷風追憶、わが輩は自転車乗り

オトーサン、 「漱石、可哀想になぁ」 今度の可哀想は、自転車に乗れなかったことです。 ロンドンに留学していた頃、ノイローゼになってしまった漱石に、 下宿のおかみなどが自転車に乗ることを奨めたです。 漱石の「自転車日記」を御一読下さい。 まずは冒頭。 おかみの描写が秀逸です。 西暦一千九百二年秋忘月忘日 白旗を寝室の窓に翻えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、 婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺まで運び上げにかかる、 運び上げるというべきを上げにかかると申すは 手間のかかるを形容せんためなり、 階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、 時を費す事三分五セコンドの後 この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、 あたり近所は狭苦しきばかり也、 この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷える余に向って 婆さんは媾和条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した、 自転車に御乗んなさい。 オトーサン、 「漱石は勉強ばかりしていて、 運動神経が鈍かったのかなぁ?」 でも、出だしが間違っています。 監督の言う通り、女物の自転車で練習すればよかったのです。 それも中古でなく、新品の。 ああ悲いかなこの自転車事件たるや、 余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく 否自転車より落るべく 「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、 監督兼教師は○○氏なり、 悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼は まず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、 その理由いかにと尋ぬるに 初学入門の捷径はこれに限るよと 降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる、 不肖なりといえども軽少ながら鼻下に髯を蓄えたる男子に 女の自転車で稽古をしろとは情ない、 まあ落ちても善いから 当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、 もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか 珍汾漢の気炎を吐こうと暗に下拵に黙っている、 とそれならこれにしようと、 いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、 思えらく能者筆を択ばず、 どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、 あてがわれたる車を重そうに引張り出す、 不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、 伏して惟れば関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車に 万里の波濤を超えて遥々と逢いに来たようなものである、 自転車屋には恩給年限がないのか知らんとちょっと不審を起してみる、 思うにその年限は疾ッくの昔に来ていて 今まで物置の隅に閑居静養を専らにした奴に違ない、 計らざりき東洋の孤客に引きずり出され 奔命に堪ずして悲鳴を上るに至っては 自転車の末路また憐れむべきものありだが せめては降参の腹癒にこの老骨をギューと云わしてやらんものをと... オトーサン、 「ふーん、このあたりで練習したんだ」 クラパム・コンモンは、漱石が下宿していた場所のそば。 昔は、こんな風景だったようです。 クルマはなく、馬車と自転車の風景です。 当時、自転車が大流行していたのです。

「どこへ行って乗ろう」 「どこだって今日初めて乗るのだから なるたけ人の通らない道の悪くない落ちても 人の笑わないようなところに願いたい」と 降参人ながらいろいろな条件を提出する、 仁恵なる監督官は余が衷情を憐んで 「クラパム・コンモン」の傍人跡あまり繁からざる大道の横手 馬乗場へと余を拉し去る、 (略) 猛然とハンドルを握ったまでは あっぱれ武者ぶりたのもしかったが いよいよ鞍に跨って顧盻勇を示す一段になると おあつらえ通りに参らない、 いざという間際でずどんと落ること妙なり、 自転車は逆立も何もせず至極落ちつきはらったものだが 乗客だけはまさに鞍壺にたまらずずんでん堂とこける、 オトーサン、 「あーあ、初心者なのに坂を下るとは」 わが息子も、乗り始めの頃、得意になって坂道に挑戦。 ところが、ブレーキをかけても勢いが止まらず、 鼻血ドバーッ、鼻の骨を折りかけたことがありましたっけ。 子供は身軽ですから、被害も少なくてすみますが、 運動不足で神経過敏な漱石では、 文章を読まずとも、成り行きが読めるじゃありませんか。 忘月忘日  例の自転車を抱いて坂の上に控えたる余は 徐ろに眼を放って遥かあなたの下を見廻す、 監督官の相図を待って 一気にこの坂を馳け下りんとの野心あればなり、 坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、 路幅十間を超えて人通多からず、 左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり、... とにかく自転車用道路として申分のない場所である、... 人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる監督官は さあ今だ早く乗りたまえという、... されども乗るはついに乗るなり、 乗らざるにあらざるなり、 ともかくも人間が自転車に附着している也、 しかも一気呵成に附着しているなり、 この意味において乗るべく命ぜられたる余は、 疾風のごとくに坂の上から転がり出す、 すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して 吾が自転行を壮にしたいたずらものがある、 妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、 今度は大変な物に出逢った、 女学生が五十人ばかり行列を整えて向からやってくる、 こうなってはいくら女の手前だからと言って 気取る訳にもどうする訳にも行かん、 両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている、 下りようとしても車の方で聞かない、 絶体絶命しようがないから 自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。 ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり、 けれども毫も留まる気色がない、... も止まらないで板塀へぶつかって逆戻をする事一間半、 危くも巡査を去る三尺の距離でとまった。 大分御骨が折れましょうと笑ながら査公が申された故、 答えて曰くイエス、 (略) 余が廿貫目の婆さんに降参して 自転車責に遇ってより以来、 大落五度小落はその数を知らず、 或時は石垣にぶつかって向脛を擦りむき、 或る時は立木に突き当って生爪を剥がす、 その苦戦云うばかりなし、 しかしてついに物にならざるなり、 オトーサン、 「結局、自転車は物にならなかったんだ」 もしと言うのも何ですが、 漱石が、もし自転車に乗れるようになっていたら、 49歳で亡くなることはなかったでしょう。 「...49歳といえば、若いよな」 オトーサンが酔狂にもロードレーサーなるものに 乗り始めたのは、確か50歳になってからでした。 漱石が自転車を物にできなかったのは、 かえすがえすも残念です。 自転車で身体を鍛え、もっと長生きして、 名作をたくさん残してほしかったものです。 一方、荷風はといえば、 ちゃんと自転車に乗れたのです。 「あめりか物語」には、 シアトルのそばのタコマに学んでいた頃、 サイクリングを樂しんだという記述があります。 見下ろすピュージェット湾(Puget Sound))、 その前方に仰ぎ見るタコマ富士(Mount Rainier:4392m)、 「絶景かな、絶景かな」

さぞ快適なサイクリングだったでしょう。 その荷風、帰国してから自転車に乗ったという 形跡がないのは残念です。 その代わり、荷風散人と称して、 蝙蝠傘をもち日和下駄でやたら散歩していたのが、 78歳という当時としては稀な長寿につながったのでしょう。 以下は、羨ましいサイクリングの描写です。 タコマに滞在していた時分、 その年も十月の確か最後の土曜日だった。 (略) 今日の晴天は、恐らく今年の青空の見納めであろうという。 私はこの地の事情を熟知している或る友の忠告で、 彼と共にこの日一日を、晩秋の平原に自転車を馳らする事とした。 家を出て、タコマ通という山の手の一本道を東へ走る。 首を回らして眺むれば、タコマの市街は ビューゼットサウンドと呼ぶ出入の激しい内海に臨んで、 著しい傾斜をなしているので、 無数の屋根と煙筒、広い埋立地、波止場、幾艘の碇泊船、 北太平洋会社の鉄道......全市街はただ一目に見下されてしまう。 そして入江を隔つる連山の上には、 日本人がタコマ富士と呼ぶ白雪を戴くレニヤー山がぎ然として聳え、 夜明の晩い北方の朝日がちょうどその半面を真紅の色に染めている。 我らは忽ちにして、 街端れの大きな谷の上に架けてある橋を二つばかり越えた後、 特別に造られた広い自転車道を四哩ばかり馳しり、 南タコマと呼ぶ一小村落を後にして、 直ちに広漠たる野原をば、 道の通ずるままにあるいは上リあるいは下る事、 あだかも波に揺れらる舟の如く、 遂に行き尽くして樫の林に這入った。 道はやや険しくなり、 この地方、殊にワシントン州の各所に 黒い深い森林を造っている真直な松の木は、 樫の林に引き続いてここにも忽ち我らの行手を遮った。 私らは漸く苔むす一条の小道を見出し、その導くがままに、 林間の湖水アメリカン、レーキの畔に休み、 更に転じて遂にスチルカムという海角の孤村を訪うたのである。 オトーサン、 「もう3時か、遅くなったな」 ここまで、すでに28.34kmを走っています。 これから日暮里駅まで走らなければなりません。 交通の激しい不忍通りの歩道を遠慮しいしい走りました。

オトーサン、 3時20分、31.64km、日暮里駅に到着。 「まあ、目的は達したな」 たった一日の間に、これだけ回れたのは、 BD-1のおかげ、いや荷風の魅力のなせる業でしょう。 ・秋葉原 - 皇居 - 溜池 - 偏奇館跡 - 抜天神・西向神社・断腸亭跡 -  戸山高校 - 鬼子母神 - 雑司が谷霊園 - 日暮里駅 


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