オトーサン、
ひさしぶりに読者からメールをいただきました。
パンドルネームは葉子さん。
やったぁ、女性からだと大はしゃぎ。
ところが、そのかたは、芥川賞作家・庄司薫さんのフアンでした。
オトーサンのフアンではなかったのです。(当り前か)
オトーサン、がっくり。
でも、学生時代の友人のフアンからのご要望とあれば、仕方がありません。
気を取り直して、駒場文学の思い出について語ってみようと思います。
目次
上の写真をご覧ください。
「白い瑕謹」福田章二
ご免なさい。
「しろいかきん」と打ったのですが、
このワープロソフトで変換しても、「きん」が正確に出ません。
謹、僅ではありません。写真の文字をよく見てください。
偏が「王」になっているでしょう。
そうなのです。
当時のオトーサンも、このワープロソフトなみに無学でしたから、
「カキン? 何じゃ、これ?」
そういったりして、恥をかいたりしたものです。
平成金融恐慌で「瑕疵担保契約」というのが結ばれて、
大問題になりましたが、あの瑕疵と似たようなもの。
小さな傷という意味でしょう。
何不自由なく過ごしている若者たちの青春時代の僅かなすれちがい
まあ、そんなところでしょうか。
この小説を書いた後、
福田章二くんは、
章二を庄司に換えて、ペンネームを庄司薫にしました。
「白い瑕謹」を「喪失」という題に換えて、
中央公論新人賞に応募して受賞し、学生作家誕生と話題になりました。
この作品が掲載されたのは、駒場文学第9号でした。
奥付によれば、
昭和33年4月15日 印刷
昭和33年4月20日 発行
編集人 福田章二
発行人 佐々木亨
印刷人 宇治雄二
印刷所 横浜刑務所
東京都目黒区駒場4869
発行所東京大学教養学部文学研究会
となっております。
当時、福田章二くんは、文学研究会の部長になっての初仕事で
はりきっていました。
編集後記では、
「駒場文学第9号が、まあ適度に周到な経緯を経て、ここに編集を終わった。
適度に云々と言うのは、結局は、なんだかんだですっかりバテてしまって、
さて出来上りは如何、その客観的評価如何といった肝心な点について、
自信あるいは予防線的弁明以前の、肉体的精神的状態にあると言うわけなのである」
にはじまって
「なお、今号の広告取りについて、顧問の山下(肇)先生は毎度のことながら、
小松清、田辺貞之助、朝倉季雄、土居寛之の諸先生に紹介状を戴き、ほんとうに
助かりました。末筆ながら、篤く御礼申しあげます。ー芸術は読むに堪えないもので
あってはならないーおお神よ!」
で終わる1500字程度のものですが、
軽妙な庄司薫節がすでに開花しています。
今回はこれでお終いにしますが、次回は、横浜刑務所について少し書いてみたいと
思います。
先回 オトーサン 葉子さんからメールをいただいたと書きました。 すると、 「お前、葉子さん、葉子さんと、はしゃいでいるけれど、 そういうひとは、ほんとにいるのか?まさか、お前の創作ではあるまいな」 そう強く疑ったひとが出てきました。 オトーサン、 ここで大きく胸を張ります。 「しかも、秋田美人だぞ」 「またまた、バカ言って、ひとを担ぐな」 そういう野次が飛んでまいりました。 オトーサン、 ここは、じっと我慢します。 コップの水など決してかけたりはしません。 第一、いくら技術が発達しても、メール相手に ほんものの水をかけることなどできないでしょ。 「じゃぁな。このサイトを見て、ご覧なぁ。 素敵なサイトだぜ。葉子さんって素敵なひとのようだろう。 まだお目にかかったことはないけれど...」 午後のお茶会 YOUKO(葉子) URL http://www4.justnet.ne.jp/~azf17346/ さて、本題に戻りましょ。 「ねえ、庄司薫さんって、横浜刑務所と何か関係があったのですか? あたし、心配だわ」 そういう葉子さんの声が聞こえてくるような気がいたします。 「困ったなあ...。 関係があるというと、心配なさるし...ないというと、ウソになるし...」 オトーサン、腕組みをします。 実は、昔は、同人誌といえば、ガリ版に決まっていたのです。 「一度でいいから、自分たちの小説(詩)が、活版印刷になったらいいなあ。 活字の匂いを嗅げたら、死んでもいい」 それほど、活版印刷は同人誌の作家たちの憧れだったのです。 文学研究会(通称:文研)の前身は、 民主主義文学研究会(民文研)で左翼。 ガリ版で闘争ビラを切るのと同じ気持ちで、文学を刻もうという意気込み。 活版印刷というようなブルジョワ趣味のヤツは殺せということになります。 ですから、 とても「活版印刷にしょうよ」なんていえる雰囲気ではなかったのです。 あの黒井千次さんが、左翼のリーダーとして活躍しておられた時代です。 それでも、 大江健三郎さんが銀杏並木賞をとられて、 ようやく東大の駒場や本郷にも活気が出てきました。 民文研は文研へ衣替えになりました。 オトーサンや福田くんが、 入学・入部したのは、昭和32年。 まだ、駒場文学はガリ版で、左翼が主流派でした。 高度成長で、すこしずつ左翼色が薄れていましたが、 そんななかに、右翼の福田くんが入部してきたのです。 オトーサンの初対面の印象はといえば... 黒いタートルネックのセーターを着たイブ・モンタンみたいだ。 顔色は一度も太陽に当ったことがないようで、白磁の陶器のようでした。 「左翼の闘士は汚いつらしているが、このひとはまったくの貴公子だ。 化粧でもしてるのかな」 あろうことか、福田くんは、クルマも持っていました。 そんなブルジョワは、駒場には珍しかった時代でした。 聞けば、三省堂の専務の息子さんとか。 日比谷高校卒で、一浪。 浪人中に、社交ダンスをマスター。プロ級。 「何だ、あいつは。変わってるなあ」 さて、そうした背景をご紹介したうえで 「駒場文学第9号」の目次をめくってみましょう。 注:画像が不鮮明ですので、内容を書き写します。 学年 同人誌評 寮生 岩淵伊祠 2 有 環状道路 佐々木亨 1 有 雄銀杏 三谷 峻 1 白い瑕僅 福田章二 1 断章 高沢伶一郎 2 有 ご覧のように、2年生の先輩が2人いました。 部長の高沢さん、そして気のいい小柄な岩淵さん。 1年生がオトーサンたち3人。 時々、毎日新聞の同人誌評にとり上げられていた2年生のふたりは 1年生のオトーサンたちには、雲の上のひとのように見えました。 とくに高沢さんは意気軒昂でした。 「昨秋号の高沢伶一郎君の小説「宇宙塵」にもぼくは感心した一人である」 などと、顧問の山下肇教授(独文学)があるところで書いておられました。 「大江さんのあと世に出るとすれば、高沢さんだよ」 オトーサン、福田くんとそんな会話をした記憶があります。 注:風の便りに聞けば、高沢さんは、若くしてなくなられたようです。 ところが、この第9号に載ったオトーサンの小説が 毎日新聞の同人誌でほめられたのです。 テーマは、神風タクシーの運転手の話し。 左翼系の毎日の記者には受けるはずと計算したのが当ったのです。 それを読んだ親父代わりの伯父さんからも電話がかかってきて、 オトーサン、ほんのちょっぴり栄光の香りを嗅ぎました。 一方、福田くんの小説は、誰からもほめられませんでした。 軟弱と思われたのでしょう。 無視。 早すぎたのです、時代の先を行っていたのです。 福田くんにしてみれば、面白くなかったのでしょう。 オトーサンをちくりました。 「ねえ、キミ、ウインドクリーナーって書いてあったけど、 あれ、ワイパーのことかい?」 クルマなどもっていない当時のオトーサンに、 ワイパーなんて難解な専門用語が分かるはずはありません。 黙って聞いていました。 高沢さんは、3年生になりました。 駒場の教養過程を終えて、本郷にいくことになりました。 次の部長に福田くんを指名しました。 福田くんは、俄然、張りきりました。 「活版印刷にしようよ」 (いま考えてみれば、当然です。だって三省堂の専務の息子ですもの) 「高くつくよ、どこにそんなお金があるの?」とオトーサン。 会計役として、お金をにぎっていたので、異議をとなえました。 「そうか、そんなに福田くんがやりたいのか。 じゃあ、どこか安い印刷所を探してみようか」 と高沢さん。 心当りがあるようです。 ある日、部室にふらっと現われた高沢さんがいいました。 「親戚のひとから、横浜刑務所を紹介してもらった。 あそこは囚人に写植をやらせるから,安いよ」 何回、横浜刑務所まで、校正に通ったでしょうか。 もう、すっかり忘れてしまいましたが、 みんなで上大岡の横浜刑務所まで出かけたものです。 (注:所在地を確認したい方は、下記のURLで地図をご覧ください) http://www.mapfan.com/index.cgi?ZM=9&REF=ibm.hpb&MAP=E139.35.48.0N35.23.45.80 おそるおそる門を入ります。 守衛さんが厳しい目付きで、われわれを見ます。 日頃バカにしている学生服や襟のバッジが、 こういうときに限って有難たく感じられます。 「このまま、出られなくなったら、どうしよう」 「網走でなくて、よかったなあ」 「今度デモでつかまったら、ほんとに、ここで作業させられるかも」 なんて冗談をいったりしていました。 門のすぐ脇の狭い部屋で、 囚人ではなく、看守さんが持ってきてくれた原稿に その場で赤筆をいれて、校正をやったものです。 囚人は、アマチュアですから、初校ミスの多いこと。 「あんまり赤筆をいれると、恨まれて、殺されるぞ」 もちろん、貴公子・福田くんもいましたよ。 「はきだめに鶴」という風情でしたが...、 このように、 オトーサンと庄司薫さんは musho仲間なのです。 強い絆で結ばれているのです。
3 ダンスパーティの夜
最初に、葉子さんは、 「オトーサンのフアンではなかったのです。(当り前か)」 と書きました。 そうしましたら、葉子さんからメールをいただきました。 「私は確かに庄司さんのファンですが(でしたが) HPシネマ・パラダイス in オトーサンの愛読者でもあるのです」 という内容です。 これを読んで、オトーサン、喜びました。 「そうか、俺のフアンなんだ。うれしいなあ。 葉子さんて、なんて心の優しいひとなんだ」 ところが、 また悪い奴がいて、 「フアン? 不安のほうだろ。冗談半分、お世辞半分、両方足してやっぱり不安。 それに、どこにもフアンなんて書いていない。愛読者とあるぜ」 やっぱり、 愛読者=フアンではなく、愛読者<フアン つまり、オトーサン<庄司さんということなのでしょうか? まあ、いいでしょ、いいでしょ、乗り出した船ですから。 今回のテーマは、ダンス・パーティ。 さて、 いくら安くても、活版印刷はお金がかかります。 部費 大学からの補助金 これでは、ガリ版刷りしかできません。 そこで、 張りきっている新部長・福田くんは、 「ダンス・パーティをやって、資金集めをしよう」 といい出しました。 「ダンスパーティ?」 オトーサン、反対しました。 だって、社交ダンスなんかやったことがなかったのです。 女の子の手だって握ったことはありません。 (そうそう、思い出しました。 一度だけ、高校のお祭りで、フォークダンスの輪のなかに入らされて、 好きな女の子の手に触れて、ドキドキしたことがあったっけ) それが、社交ダンス! 「あの女性を抱いて踊るやつ? 気持悪い、助けてくれぃ」 オクテだったですねえ。 「他に名案あるかい?」 そう福田くんにいわれると、反対できません。 「じゃ、みんなで手分けして、ビラをまいたり、 パー券を売って回るか」 部員が大勢集まった席ですから、 オトーサン、福田くんの提案に乗りました。 それからが、大変。 まず、会場を予約。 学内の同窓会館にしました。 パー券とビラを活版印刷。 部員が手分けして、あちこちへ散ります。 福田くんは、 合コンをやったことがある近所の実践女子大の 文芸サークルに券を買ってもらいにいきます。 この部長も長身の美人でした。福田くんとなら似合いのカップル。 オトーサンは、ひとりさびしく 青山学院大学の構内で、ビラをまきました。 大妻女子短大にも行きました。 早稲田大学(ワセダ)や東京女子大(トンジョ)に行った部員もいます。 さて、 ダンスパーティの当日。 オトーサンは、ずうっと受付け係。 福田くんは、少し受付けをやっていましたが、 「ちょっとお客さんを迎えにいってくる」と席を外しました。 時間になると、 次々とお客がやってきます。 部員のなかには彼女を連れてくるひともいます。 オトーサンには彼女などいません。 うらやましかったなあ。 「コノヤロウ」 その後はといえば....、 オトーサンの怒りの火に油をそそぎ、そのうえ強風であおったような夜でした。 「福田さん、いますか?」 「福田さん、いますか?」 「福田さん、いますか?」 「福田さん、いますか?」 もういいでしょう。コピー、貼り付けの繰り返しは... でも、こんなものじゃなかったのです。 およそ20名もの美女が次々とやってきて オトーサンに同じような質問をするのです。 「光源氏というのは、あれは、物語ではないのだ。 いま、あそこで踊っている福田のことなのだ」 オトーサンが受付けを終えたあとは、 踊れないので、ずぅっと、壁のシミになっているのに、 福田くんはといえば、 パートナーを軽やかに抱いて、大広間を蝶のように自由自在に踊っています。 見よ! 唇がほとんど触れなんばかりのあのポーズ。 この夜の出来事は、 ひとりの若者の人生を変えたのです。 だって、 オトーサン 翌日から 下北沢のダンス教習所に通いはじめたのです。 午前中に授業を終え、 午後1時から7時まで練習。 2年間これを続けました。 大学のダンス部に入部。 本郷の学生会館では満員の観衆を前に、「魅惑のワルツ」を踊りました。 世田谷区のダンス・コンペ、タンゴの部では 「ラ・クンパルシータ」を踊って3位入賞、Yシャツをもらいました。 「ねぇ、質問があるけれど...いいかい? オトーサン、話しの腰を折られて、ムッとします。 「いいよ」 「あのパーティの収益のほうはどうだった?」 「儲かりましたよ。だって、ものすごくひとが集まったし、 支出のほうは、会場の同窓会館はタダ。ビラ配りは無償奉仕でこれもタダ。 かかった費用はパー券とビラの印刷代だけ。 おかげで、活版印刷をやってもお釣りがくるくらいでした」 「でも、税務署への届けは?」 「そんなことしませんよ」 「大丈夫なんですか?」 「福田くんが、大丈夫だといっていたから、大丈夫なんじゃないの」 3年生の初夏のある日、 オトーサンは、 教養学科に進級し、駒場に残っていました。 本郷へは、サッカー部に入部した関係で、時々練習に通いました。 福田くんは、学生作家として有名人になっていました。 その福田くんがわざわざグラウンドにやってきました。 サッカー仲間が、 「おい、あれ福田じゃないか?」 福田くんは、練習しているオトーサンに近寄ってきました。 コーチの岡野さんも、指導をやめて見守っています。 (注:現日本サッカー協会会長) 「ねえ、キミ、あれ、よく書けているね」 「そうか、ありがとう」 オトーサンは、そっけなく言葉を返して、ボールを強く足で蹴りました。 それが学生時代における福田くんとの最後の会話でした。 福田くんが「あれ」といったのは、 オトーサンが、同期生の文集「俺たちは天使ではない」に書いた小説でした。 ほめてくれたのは、おそらくダンス・パーティのシーンの描写でしょう。 このシーンにご興味をお持ちのかたは、このHPの「青春時代」をご一読ください。 主人公のジャンをオトーサン、ライバルのポールが福田くんと思って読むと、 一層興味が湧くかもしれません。
4 福田くんの成績
さて,福田くんは日比谷高校から東大へ入学。 日比谷高校といえば、当時は、東大入学者数NO1。 いまは、開成高校でしょうか。 オトーサンは、戸山高校。 当時は、日比谷につぐ進学絞でしたが、 いまは、もう知っているひともすくなく、 「富山は魚がうまいところですなあ」なんて、まちがえるひとがいます。 ですから、 日比谷>戸山 といういう序列です。 まあ、 トヨタ>日産 野中幹事長>加藤鉱一 のようなものでしょうか。 でも、 かつては、 日産>トヨタ 加藤幹事長>野中副幹事長 だったのですから、この序列は変わるものなのです。 しかし、 戸山>日比谷 というのは、永久的に固定されていました。 ですから、オトーサンは、福田くんにコンプレックスをもっていたのです。 ふたりは、よく渋谷を徘徊しました。 音楽喫茶「らんぶる」「パウリスタ」など。 あと名前は忘れましたが、道玄坂の喫茶店。 駒場文学の打ち合わせによく使っていました。 シャンソン「赤い月」がかかっていました。 「ねえ、福田くん、昭和何年生まれ?」 「昭和12年」 「早生まれなんだ」 「いや、一浪した」 「へえ、ちっとも知らなかった」 「きみは?」 「昭和13年12月12日。でも子供の頃は、昭和12年12月12日と 教えられていた」 「神童ってわけだ」 「とんでもない。東大に現役で入れたのはマグレさ。 いまでも、あれは間違いでしたと取り消される夢をみるよ」 「ボクも、同じさ」 福田くんは、数学が不得意科目だったようです。 そんな会話で、福田くんの頭には 現役入学>一浪入学 学業成績では、 オトーサン>福田 というコンプレックスが形成されたようです。 さて、 2年生終了時には、学業成績が発表されます。 オトーサンたちは文Uですから、総数400人。 そのうち何番かという成績順位によって、どの学部に行けるかが決定されます。 1番ならば、法学部への進学が認められます。 10番以内ならば、経済学部への進学が認められます。 この両者とも例外的措置です。 入試のときに文Tを受けるべきだったからです。 50番以内ならば、駒場の教養学科へ。 あとのひとは、本郷の文学部か社会学部へ。 実をいうと、 オトーサン、戸山高校での成績は、2年終了時400人中200番でした。 東大入学者は、せいぜい60人。こんな成績では、東大入学なんて夢のまた夢。 だって、勉強なんかせず、日本文学全集や世界文学全集を読みふけっていたのです。 成績を聞いて、母が肩を落としているのをみて、1念発起。 能率的勉強法をマスターして、現役入学を果たしました。 高校の先生などは「奇跡だ」という始末。 もうひとつ、 地の利があったと思います。 だって、家が東大の駒場キャンパスから徒歩3分。 駒場は、中学時代から家の庭みたいなもの。 野球、テニス、実験池の蛙殺し... しょっちゅう遊びにいっていました。 野村紗知代さんではありませんが、 たとえ、不合格になったとしても、 「コロンビア大学に通っていました」 「東大に通っていました」 といえる状況でした。 1次試験は駒場でした。 オトーサン、 自分の家で受けるようなものですから、 入学試験のときもリラックスしていました。 隣の長野県からきた学生なんて、緊張しまくって可哀想なほどでした。 入学してからも、能率的勉強法は継続しました。 ですから、2年たって成績は400番中40番。 マグレで入学が、上位1割! オトーサン、ゴキゲンになって、文研のドアを開きました。 しばらくして、 福田くんがやってきました。 「どうだった?」 やってくるなり、オトーサンに順位を聞きます。 「ああ、40番だった」 「ふーん」 オトーサン、不敵な笑みを福田くんの端正な顔に認めました。 すぐ聞き返します。 「で、キミは?」 「1番だった」 ガーン。 オトーサン、 そのあと福田くんと何を話したかは覚えていません。 「こいつは、遊んでいるフリしてガリ勉していたんだ。 1番なんて、生易しい勉強で取れるはずはない」 福田くんは、その後、あろうことか法学部へ進学します。 40番のひとでも行ける教養学科などには行かなかったのです。 「裏切りやがって...」 だって、学生作家なら文学部へいくべきでしょう。 大江健三郎さんだって、文学部フランス文学科に進学しました。 でも、 40年の歳月が経って、 オトーサン、 当時の福田くんの心境を思いやる余裕が出来てきました。 かれにとって、 東大不合格は、大きなショック。 「まさか」 神様から身放されたような思いがあったのでしょう。 そこに身近に現われた東大現役入学のオトーサン。 「コンチクショウ、いつか見返してやる」 それが、この1番という成績と法学部進学になったのです。 福田くんは、こうしてトラウマを克服しました。 しかし、 この壮絶な福田くんの執念は、 不幸なことにオトーサンに乗り移ってしまったのです。 まるで、アラブとユダヤの千年戦争。 「このまま、市井の一市民では終わるまいぞ、 いつか福田を抜いてやる。今に見ておれ...」 ダンスは、セミプロになったので、抜きました。 ワイパーを知らずに恥をかかされたのは、自動車会社に入って解消。 成績のほうも、その後、学者に転進したからOKでしょう。 あとは、文学賞だけ。 さて、 オトーサン、 この稿を書き終えて、 ホッとして葉子さんの 素敵なHPを開きました。 葉子さんの詩、 「雪降る街で」を味わいました。 その一節が、あたかもレーザー光線のように オトーサンの心を射抜きました。 「...暮れて寂しい喧騒の街に あなたの心のひとときの安らぎがあったでしょうか」 「あなたの心に、ひとときの安らぎがあったでしょうか」(涙) 詩のもつ力は大きいですね。 次回は、駒場文学の詩人たちについて語ってみようと思います。
5 詩人・渡辺武信くん
もうひとつの まち 世界は大きすぎる どんな小さな街も ぼくらにとってはひろすぎる それでも ぼくたち 冬の街を駆けていくとき 額に渦巻くつめたい風に一瞬 世界のやさしさを発見し 不意に立ちどまったりする ぼくたちの視線が はげしく交わる点から 陽炎のようにのぼる 透明な炎 そして 君の視界からゆっくりと広さを閉め出し 正確に息づきはじめる 素敵な詩ですね。 これなら現代詩がきらいな葉子さんも いいと思われるのではないでしょうか。 YAHOOに「渡辺武信」と入力したら、 たくさん出てきて、そのなかのひとつに、この詩がありました。 詩集もいくつかあります。 「渡辺武信詩集」思潮社 「過ぎ行く日々」矢立出版 そうなのです。 彼は、現代日本を代表する詩人なのです。 それから、 YAHOOには、 渡辺武信「住まい方の実践」中公新書 の紹介もありました。 オトーサンも家をつくるときだけでなく、 ちょっと気の利いたエッセイを読みたくなったとき、 彼の本を読みます。 このほか「住まい方の思想」「住まい方の演出」を 中公新書から出しています。 翻訳もかなりあります。 ベルナルド・ルドルフスキー「驚異の工匠たち」鹿島出版会 ベルナルド・ルドルフスキー「建築家なしの建築」鹿島出版会 ポール・ゴールドバーガー「摩天楼」鹿島出版会 マーティン・ポーリ「バックミンスター・フラー」鹿島出版会 そうです。彼は建築家でもあるのです。 というより、これが本職。 渡辺武信設計室代表取締役。 映画評論家でもあります。 このエッセイや評論がまたいいのです。 「映画的神話の再興」未来社 「日活アクションの華麗な世界 上中下」未来社 翻訳に、 アレクサンダー・ウォーカー「スターダム」フィルムアート社 映画評論家・オトーサン、 実は、ひそかに彼をライバルと思っていましたが、 「銀幕のインテリア」読売新聞社 を読んだら、「こりゃあ、敵わないわ」と脱帽。 建築家であり、映画評論家である渡辺武信くんしか書けない世界。 この傑作は、絶版寸前。出版社にはもう在庫なし。 本屋に残っていたら儲けものです。 オトーサンは、探し歩いて最後の1冊?を入手。 そのうち、対談でもしたいなあ。 さて、 上の写真、駒場文学第9号の表紙は、 渡辺武信くんが作ったものです。 福田くん(庄司薫)が、部長になって 活版印刷にしようと言い出したとき、 「表紙のデザインを外部に依頼すると、お金がかかるなあ」 とオトーサンがボヤいていたら、 「じゃ、ボクがやってあげる」 建築科の秀才、渡辺くんが気軽に引き受けてくれました。 本質的にいい奴なのです。 出来あがった表紙、 何度みても、いい味があります。 渡辺武信の詩の世界そのもののように 知的て さびしがりやで 何といえない美しい味が出ています。 「詩人は損だ」 詩人の江頭さんが文句をいいます。 駒場文学第9号128ページのうち、 詩人のページは、 長島信弘(後に一橋大学教授・文化人類学)「砂漠」7p 江頭正巳「俺と僕と私」3p 渡辺武信「ぼくたちの密室を開くのは」3p と圧倒的に少ないのです。 ちなみに小説のほうは、 福田章二「白い瑕謹」28p 佐々木亨「環状道路」23p とページ・イーターでした。 でも、 江頭さんとちがって、 かれは広告取りにも協力的でした。 駒場文学の広告を取るために、 先生方から名刺と紹介状を戴いて、あちこち出版社を訪ね歩きました。 出版部数はほんとうは2000部でしたが、 10倍の20000部と偽って... 駒場文学第9号の広告主は以下の通りです。 表2 三修社「和独」 15p 紀伊国屋書店「人間・精神・物質」 21p 大盛堂書店「日本で最初の本のデパート」 表3 学生社「学生社新書 世界名詩選ほか」 三一書房「文芸思想史ほか」 表4 大修館書店「スタンダード仏和辞典」 このほか表紙折り込みがやたら多くて 中山書店「芸術心理学講座」 成美堂書店「東大教養学部教科書・参考書」 三省堂「コンサイス仏和辞典ほか」 南江堂「新独和辞典ほか」 白水社「西和辞典ほか」 博友社「独和辞典ほか」 五月書房「作家論全集森鴎外ほか」 これはみな福田くんの陰謀。 このほうが「いいスペースに載った」と広告主は喜ぶのです。 東大前の駅のそばにある成美堂書店にも 「駒場文学第9号」を並べてもらいました。 渡辺武信くんの表紙のおかげで、立派な雑誌にみえました。 ありがとう。 お礼ついでに、 駒場文学第9号に載ったかれの詩ではなく、 かれが書いた「表紙のことば」の一部をご紹介しましょう。 このほうが、渡辺フアンにとって、レア物でしょう。 「紙の上にインキをたらして息を吹きかける。 ボクは昔からこんなイタズラが好きだから表紙をつくっていることも忘れて パイプで吹いたり、ストローで吹いたりして20枚ばかりこんなものをつくった」 オトーサン、 昔の会話を思い出しました。 「ふーん、そんな風にして表紙つくったの」 「そう」 と渡辺くん。 この表紙のことばの結びは、もう詩人です。 「もうぼくには、表紙の構成を意識したデザイナーの目があるばかり。 そして、ぼくは、飼いならされた偶然をつくりだす」
6 詩人・天沢退二郎さん
「おいおい、詩人・渡辺武信くん、詩人・天沢退二郎さんとは何事。 どうして一方が「くん」で、他方が「さん」なのだ」 オトーサン、渡辺フアンから怒られそうです。 理由は簡単。 渡辺武信くんは、同い年。 天沢退二郎さんは、2年先輩の1936年生まれ。 いまとなっては、大した年の差ではありませんが、 学生の頃の2年先輩は、仰ぎ見る存在です。 しかも、 天沢さんは、1957年に処女詩集「道道」を出版していました。 すでに日本を代表する若き詩人だったのです。 ですから、初対面の時、オーラの輝きを目にして、 オトーサン、緊張しました。 「ウワーッ、天沢さんに会えた」 「道道」 こんなに雲が息苦しいのは 草地の径が、重いくらいに ぼくの胸に押しこまれているせいだ 遠くの 寒々とした建物の慕わしさ ぼくは入り乱れる支流を探りながら しんと涸川のような街道に出る けれども ポプラに風も吹かず 立ち並ぶ二階屋は捨てられた楽器のようだ 誰かぼくを見るものはいないのか 木立の奥の十字路さえ墓場の静寂 ヒバリもとばない すさんだひるま こんなに誰もいないのも やはりぼくの風景だからなのだ くもり空が苦しく記憶を揺する そして道標はいつも青くさびている 若くして名声を得た詩人が、 その後の人生を切り開いていくのは はたで見るほど容易なことではありません。 まして 天沢さんは、60年代の詩的ラジカリズムの旗手と目されました。 当然、新しい境地を開拓することが求められます。 言語の荒野へ、 未開拓の詩の世界へ と向かっていきました。 天沢さんといえば、引越し魔。 まるで後ろから追いたてられるように いろいろな庶民の住む街を彷徨しました。 当然、どこに行っても、たったひとり。 歳月が経過しても天沢さんは、たったひとり。 その底知れぬ孤独のなかから、 たくさんの詩集がこぼれ落ちていきました。 それを年代順に並べてみましょう。 「夢でない夢」大和書房 1973 「帰りなき者たち」河出書房新社 1981 「<地獄>にて」思潮社 1984 「天沢退二郎詩集」思潮社 1987 「ノマデイスム」青土社 1989 「乙姫様」青土社 1990 「欄外紀行」思潮社 1991 「天沢退二郎詩集 続」思潮社 1993 「天沢退二郎詩集 続続」思潮社 1993 「夜の戦い」思潮社 1995 「胴乱詩篇」思潮社 1997 「悪魔祓いのために」思潮社 1999 詩集「ノマデイスム」から一編だけご紹介しましょう。 天沢さんの詩は、散文詩へ、詩が消える寸前の詩の探求へという 困難な道へと向っていったのです。 「わたしの住む場所」 長い長い廊下にそって商店が並ぶ それも1階2階3階まであって そのたしかこのあたりに住んでいたんだがと 細い鉄の手すりのある螺旋階段を上ったり下ったり 酒屋の隣にパーマ屋その次が草鞋屋 いやここではないその真下の2階の 理容店でおもちゃ屋でその隣りが葬儀屋 いやここでもないしかしこのあたりなのだが 冷や汗にまみれて上ったり降りたりしているうちに やっぱりここではなかった! (略) そうだここだったここだったのだ (略) 見おぼえのあるわたしのベッドに蒲団は畳まれ 誰が供えたのか まっ赤なカンナの花が置いてある 肩身もせまく私はそのベッドの縁に腰を下ろした。 わたしの 住む場所はどこか? オトーサンには、天沢さんの饒舌のモノローグは、 孤独の証左のように思えてなりません。 やがて、天沢さんは、宮沢賢治にとりつかれてしまいました。 「宮沢賢治の彼方へ」思潮社 1987 「宮沢賢治の彼方へ」ちくま学芸文庫 1993 「謎説き・風又三郎」丸善ライブラリー 1991 ご興味のあるかたは、手に入れやすい文庫でどうぞ。 素敵で奇妙な童話をいくつも書きました。 「闇のなかのオレンジ」筑摩書房 1976 「オレンジ党と黒い釜」筑摩書房 1978 「オレンジ党、海へ」筑摩書房 1983 「光車よ、まわれ!」筑摩書房 1987 「ねぎ坊主畑の妖精たちの物語」筑摩書房 1994 そして、明治学院大学教授(仏文学)として、 翻訳もたくさん行っています。 アンリ・ボスコ「骨董商(上下)」河出書房新社 フランソア・ヴィヨン「ヴィヨン詩集成」白水社 ジョルジュ・バタイユ「青空」晶文社 「天沢さんの詩は難解だ」 そういう声も多く聞かれます。 でも、それは、おおきな間違いなのです。 フランス料理のように手がこんでいるだけなのです。 落ち着いて味わえば、こんなにおいしい料理はザラにないのです。 オトーサン、時々気になって天沢さんの本を買います。 そして自分の座標軸がぶれてきていないかどうか 北極星で船乗りたちが位置を確認するように 天沢さんの詩集でチェックするのです。 オトーサン、 この稿を書くために 久しぶりに精力的に大きな本屋をまわりました。 すると、どうでしょう。 詩のコ−ナーは片隅に追いやられていて 天沢さんの詩集など見当たりません。 マンガ本、コンピュータ本、ハウツーもの そんな下らぬ一時しのぎの本が溢れています。 日本人は、こんなことでいいのでしょうか? 日本人は、詩心を忘れてしまったのでしょうか。