マッチ1本、ニューヨーク(上巻)

1 なんとなく旅支度 2 そうだ、京都から行こう
3 気がつけばダラス、その1 4 気がつけばダラス、その1
5 ダラスいいとこ、一度はおいで、その1 6 ダラスいいとこ、一度はおいで、その2
7 光の渦のニューヨーク 8 バーンズ・コレクションへの旅、その1
9 バーンズ・コレクションへの旅、その2 10 バーンズ・コレクションへの旅、その3
11 バーンズ見学記、ルノワール 12 バーンズ見学記、セザンヌ
13 バーンズ見学記、ゴッホ 14 バーンズ見学記、モジリアニ
15 バーンズ見学記、モネその1 16 バーンズ見学記、モネその2
17 バーンズ見学記、ゴーギャン 18 バーンズ見学記、キリコその1
19 バーンズ見学記、キリコその2 20 バーンズ見学記、キリコその3
21 怒るバーンズ 22 正しい大晦日の過ごし方
23 正しい元旦の過ごし方、その1 24 正しい元旦の過ごし方、その2
25 正しい元旦の過ごし方、その3 26 ニューイヤーコンサート、その1
27 ニューイヤーコンサート、その2 28 ニューイヤーコンサート、その3
29 ニューイヤーコンサート、その4


1 なんとなく旅支度

オトーサン、 「例年にない寒さだなぁ」 東京は、まだしも、しんしんと雪が降りつもり、 永遠に止む気配もない雪国のひとたちは、さぞ大変でしょう。 こんなときって、南国へ行って、のんびり過ごしたいじゃないですか。 バリ島か、プーケットか、ハワイか、オーストラリアか、 どこか安全で暖いリゾート地に行きたいなと思っていました。 夜遅く帰宅した次女がポツリ。 「格安航空券が取れたから、NYにしたよ」 「えっ、NYに行くの?」 奥方は、次女の言いなりですから、多勢に無勢。 「NYかぁ」 ここ数年、NYに住む長女と逢っていません。 「ま、いいか。  元気でやっているか、見に行くか」 でも... 堅く決心をしていたのでは? ブッシュのアメリカには、決して行くまいと。 無法なイラク戦争で、世界はどんなに暮らしにくくなったことか。 入国するのに、全数荷物検査&指紋押捺&長蛇の行列... 「冗談じゃないよ」 ・テロ戦争、いつまで続く ぬかるみぞ オトーサン、 ぼやいているうちに、出発日が近づいてきます。 「冬支度だろう、面倒だなぁ」 ぶつぶつ言いながら、揃えたのが以下のもの。 機内手荷物の範囲に収めました。 「まぁ、これで十分だろう」 忘れたとしても、 長女の家にあるでしょうし、現地で買えばすみます。 1. 冬支度  ・ジャンパー、シャツ、ブリーフ、ハイソックス、靴   帽子、厚手のコート、厚手の手袋   ネックウォーマー、レッグウォーマー 2.身につけるもの  ・旅券、航空券、クレジットカード  ・財布(日本円、ドル)、小銭入れ  ・手帳、ボールペン  ・ハンカチ、ティシュ 3.肩掛け鞄に入れるもの  ・ノートパソコン&ケーブル  ・カメラ&SDカード  ・胃腸薬、ガム  ・自宅のキー、予備の眼鏡  ・文庫本5冊    4.大型旅行鞄に入れるもの  ・スーツ  ・着替え(Yシャツ1、Tシャツ3、ブリーフ3)  ・洗面用具(タオル、電気剃刀)  ・バッテリ・チャージャー、単眼鏡  ・お土産   5.控えておくもの  ・住所・電話(自宅、大使・領事館)  ・Passport No.、有効期限  ・Air Ticket No. 発行所、発行日、ルート  ・クレジットカード連絡先、カードNo.  ・鞄に名札 オトーサン、 「漏れがないかなぁ」 読者のみなさん、 「ちょっと少なすぎない?」 確かに、「しまった!」と思うこともあります。 例えば、重いパソコンをもっていったのに、ケーブルを忘れたとか。 カードで、お金を下ろそうとしたら、暗証番号を忘れていたり。 現地で病気になって、クスリの名前が言えず、青くなったり。 かといって、重たい荷物も馬鹿らしいし...。 以前、NYに行ったとき、 詳細な携行品リストをつくったことを思い出しました。 「あれをみれば、抜けはないはず」 自分のどのHPに書いたか忘れています。 「ああ、ここか。....つまらんこと書いてるなぁ」 ウキウキ、ワクワク気分で、NYに行ったこともあるのです。 重複になりますが、ご興味のある方、のぞいてみてください。

携行品リスト: 必需品 パスポート、同コピー、予備の写真4.5cm×3.2cmを2枚 出入国カード 日本円5万円入りの財布 米ドル500$(すべて20$以下の紙幣で)入りの財布 路上強盗へのチップ(現金100$)入りの財布 小銭入れ カード(VISAとAMEX)とその番号控え 搭乗券、マイレージカード ホテルの予約書 キャリーバッグとネームタグ 肩かけ鞄(リュックサックは危険) 腕時計 メガネとその予備 手帳(日記・家計簿と兼用) ボールペン数本(万年筆は気圧の関係でダメ) 旅程表(宿泊先住所、電話番号) 出発時の備忘録(戸締まり、ガス栓、電気、ゴミの処分) 家賃の支払い 帰宅時の自宅のカギ 予備知識(時差、気温、衣類サイズ、日本への電話番号) リコンファーム時の航空会社の電話番号と会話のしかた ポリデント? ニトログリセリン? 恥かしくない程度の服装と着替え一式 化粧道具一式 ある程度の体力と英語力 あれば、なにかと助かるもの ポケットの深いシャツ 小型電気かみそり、歯ブラシ、ハミガキ、爪切り、クシ 手ぬぐい、扇子、サングラス 整理用の小袋 スリッパ 目覚し時計 ルーペ 雨具、折り畳みがさ 懐中電灯 万能ナイフ 靴ヒモの替え、靴敷きの替え 胃腸薬、かぜ薬、湿疹薬、目薬、 綿棒、バンドエイド、リップクリーム ティツシュ、パウダーティシュ ガム、楊枝 体温計、血圧計 電卓、テレカ 名刺、住所録、電話帳 ガイドブック 簡単な手みやげ(ひよこ) 機転 あれば、楽しいもの 単眼鏡(双眼鏡より軽い) デジタルカメラ、記録メディアおよび大量の乾電池 国際免許証、レンタカーの予約書、ドライブマップ 水着(帽子、パンツ、ゴーグル、手ぬぐい) 文庫本数冊 あなたが追っかけならサインペン 巨人が勝っていれば昨日のスポーツ報知、 サッチーの記事の出ている女性週刊誌 ブロードウエイのミュージカルのあらすじ 万歩計 DVDとソフト B5ノートパソコン、ケーブル、バッテリー、海外用変圧器 家族の写真 愛人または愛人の写真、もしくは愛人の飼っている猫の写真 機内で入手不可能なアルコール類(越の寒梅) 明るい笑顔と食欲 持っていってもよいが、役に立たないもの 機嫌の悪いときの奥方(旦那) パジャマ、浴衣 バスタオル、バスローブ 避妊具 裁縫セット、巻尺 睡眠薬 石鹸、洗濯ばさみとロープ 蚊取線香、ゴキブリホイホイ みそ、しょうゆ 梅干し、海苔、佃煮 缶切り、ワインの栓ぬき 社交用のスーツ、タキシード、およびドレス数十点 外務省の渡航先警告書 辞書(英和・和英)、英会話の本、または翻訳機 時刻表、JRのイオカード TVガイド、首都圏道路地図 ヘアドライヤー ケイタイ電話、カーナビ、VTRのテープ 花束 地位・権力 ガンバッテ持っていくべきもの 長年愛用の枕 座布団 ぬいぐるみ おはし 日清のかっぷらーめんと湯沸かし器 お米(魚沼産のコシヒカリ)と小型炊飯器 ゴルフ道具、テニス道具、スキー道具 アクアラング、ライフジャケット 非常用のながーいロープ ズボンプレス機と大きな姿見 体重計 自転車、クルマ椅子、松葉杖 マージャン、囲碁、将棋、花札、トランプ、百人一首 聖書、仏典、漢籍 消火器 作務衣、下駄、着物 勇気・好奇心・忍耐力 持っていってはいけないもの ルイヴィトンのバッグ ウエストポーチ 三越の紙袋 高価な装身具、手提げ金庫 ウォークマン るるぶ、地球の歩き方 普通のカメラ、フィルム、リチウム電池 ビデオカメラとバッテリー、充電器、コード 仕事の書類 たばこ 海外旅行保険 トラベラーズ・チェック ベレー帽 野菜・果物、花の種、土壌入りの植木鉢 肉、肉製品 とら、ライオン、ペンギン、九官鳥 麻薬、処方箋のない薬 商業目的と間違えられそうな大量のみやげもの 愛人のマンションのカギ いかにも日本人らしい持ち物 必要だが、持っていけないもの 住み慣れた家 愛車 犬または猫、もしくは熱帯魚、おおとかげ 夏目漱石全集、平凡社大百科事典、志ん朝落語全集 絵画・彫刻、 書画・骨董 思い出のアルバム 毎日の新聞 ソニーの大画面TVべガ マッサージ機のアーバン 鋭利な刃物、拳銃 救急車、消防車、パトカー 親切な隣人 崇高な精神 つい持っていってしまいがちなもの 住民票、健康保険証、年金受領書(控) 米穀通帳、自動車保険証書 預金通帳、株券、印鑑 卒業証書 愛車のカギ 猫のエサ 猫よけペットボトル クリーニングの預り証 透明な市役所指定のゴミ袋 非常用ナップサック(かんぱん、非常食など) 各種カード類(レンタルビデオ屋、アコム) 今週末のスーパーの特売のチラシ タイのバーツ、ロシアのルーブル紙幣 ゴミ箱 包丁とまな板 日本風のみやげもの(絵葉書、扇子、箸、おりがみ) 夫婦喧嘩、見栄、日頃の品の悪いしぐさ オトーサン、 晩年の母の言葉を思い出しました。 「あたし、旅行はもういいわ。  退職してから、随分あちこち行ったから」 「えっ、旅行熱が冷めるなんていうことがあるのか?」 海外旅行に狂っていた頃なので、ショックを覚えました。 同じような心境になってきたようです。 「お正月は、NYなんかに行くよりも、  BD-1で、寺社を参拝したほうが気分がいいよな」 でも、思い直しました。 「NYへ行くのも、これが最後かも...」 年齢とともに、海外旅行が億劫になります。 「何でも見てやろう」とおう気持ちは、若いときだけかも。 今回は、格安航空券なので、関空発。 「成田から行けば、まだ楽なのになぁ」 30日は、帰省ラッシュと重なって、 のぞみの指定席券が取れませんでした。 「おいおい」 次女は、あまり気にしていません。 「自由席でいいのよ、並べばいいんだから」 終戦直後のように、立ちっ放しになるかも。 オトーサン、 「網棚で寝ていくぞ!」 戦争直後の列車は超満員でした。 デッキに座ったり、肘掛に座らせてもらったり、 はては、列車の屋根に乗るひとまでいたり、 網棚なんか特等席という感じ。 非常事態になると、どういうわけか元気になります。 やはり、戦前生まれのひとなのです。


2 そうだ、京都から行こう

オトーサン、 「京都まで何時間かかるかなぁ」 次女によれば、京都から関西空港まで 「はるか」という名の直通列車があるそうです。 「はるか、か...、はるかだなぁ」 テレビをつけると、帰省ラッシュの報道。 「....は、乗車率130%でした。  今日の午後から明日にかけてが、帰省ラッシュのピークです」 高速道路のほうがスゴイだろうと、耳を傾けると、 東名、名神、関越とも、ピーク時が分散されているようです。 「おいおい、混むのは、新幹線だけかよ。  いっそ、京都までクルマで行くか?」 でも、誰も、この提案に乗ってきませんでした。 「自由席なら、1時間も並べば、座れるわよ」 「そうかなぁ」 「そういうものよ」 オトーサン、 「すげえ」 東京駅構内の混雑に目を回しました。 退職後1年余り、混雑とは無縁でした。 利根川などサイクリングロードを走っていました。 「なんで、こんなに、ヒトが大勢いるんだ」 マスコミは、少子化、人口減を憂えていますが、 この混雑をみている限り、そんな気にはなれません。 大体こんな小さな島国に、1億2000万人は多すぎます。 江戸時代の3000万人、その倍の6000万人で御の字。 オトーサン、 「ほんとに座っていけるのかなぁ?」 ようやく奥方と次女がトイレから戻ってきました。 「混んでたわぁ」 「なんで、この時期にみんな帰省するのよ」 次女は、「帰省現象」に当たり散らしております。 「そんなこと言ったって、お前」 聞いている様子もないので、会話を終えます。 オトーサン、 「なーんだ。楽勝じゃん」 のぞみを1本捨てて、次発の新大阪行きのひかりにしました。 自由席は長蛇の列と思いきや、5号車の10人目。 5号車には、もうひとつ入口がありますが、 横5列、縦18列、定員90人ですから、余裕もいいところ。 楽々、3人席がとれました。 ・11時05分 静岡 ・12時06分 名古屋 「なつかしいなぁ」 関が原あたりは一面の雪景色です。 「あれは伊吹山か。よくスキーに行ったなぁ」 11時を過ぎると、空腹になるひとなので、 ひとり、サンドイッチを食べました。 12時43分、京都駅着。 「今度、BD−1で、京都を走るか」 旅行の大荷物を運ぶことを思えば、 10kg強の輪行袋をもつのは、なんでもありません。 オトーサン、 「はるかの京都発は、何時だったっけ?」 切符をみれば分かることですが、面倒です。 今回の旅行は、手配から何から何まで次女にお任せ。 何しろ、彼女は、旅行のプロ。 余計な口出しをすると、しかられます。 「3時18分よ、あと2時間あるわね」 奥方と何やら協議しています。 「行こう」 「行こうって、どこへ?」 「いいから、ついてらっしゃい」 まず、八条東口の一時荷物預かり所へ。 大荷物を預けて身軽になりました。 (1日、410円/営業時間900-2000) 地下鉄に乗って、四条。 歩いて数分の錦市場へ。 オトーサン、 2時間後、はるかの車内で。 「2時間もあれば、京都見物できるんだ」 「そうよ」 「おいしかったわね、あのお寿司屋さん」 「あんなに美味なお寿司を食べると、 ウチの近所の回転すしは、何だったってことになるわね」 「赤貝がおいしかったわ」 奥方が2皿も続けて取っていたので、 つられて食べてみましたが、絶品。 「いわしも、うまかったなぁ」 「市場のなかだから、新鮮なのかしら」 「あの茶碗蒸しも、おだしがひと味ちがうのよね」 「おれ、もう食えない」 「そりゃ、そうよね」

○廻鮮錦市場   日本海や瀬戸内海の漁港直送の新鮮魚介、  シャリは契約農家に依頼した、酢もオリジナルの合わせ酢。  住所:京都市中京区高倉通錦小路西入ル大丸錦口裏  電話:075-257-1888  営業時間: 1100-2140  定休日:無休 オトーサン、 新幹線で、サンドウィッチを食べたのに、 この錦市場で、寿司を5皿食べました。 さらに.... 歳末の買い物客の熱気に負けて、 豆大福を買い食いしてしまいました。 奥方は、おみやげを買い込んでいました。 ・八つ橋 ・打田の漬物 ・麩まんじゅう ・カップそば(関西味) 大満足で、京都駅にもどって、 「はるか」に乗ったのです。 関空までの所要時間は、1時間13分。 海外旅行の前に、京都見物が待っていようとは。 オトーサン、 「関空、いいわい」 成田が出国ラッシュというのに、ガラガラ。 心配していた出国手続きも、ごくスムース。 まったく並ばずにすみました。 ただ、荷物検査は、やや面倒になっていました。 パソコンとペットボトルは、 鞄から出してトレイに乗せろとのこと。 「なんで?」 「ほかの荷物が隠れるからです」 「なるほど」 テロ警戒がこんな形で出ているようです。 それにしても、関西空港公団、あまりに芸がなさすぎます。 中部国際空港に客をとられ、閑散としています。 数年後に、4000mの新滑走路が出来たら、 もっと赤字が増えるでしょう。 オトーサン、 関空のキャッチフレースを思いつきました。 ・そうだ、京都から行こう 東京方面からの渡航客を誘えば、繁盛間違いなし。


3 気がつけば、ダラス、その1

オトーサン、 「暑い、暑い、暖房しすぎだ」 ダラスの気温は14度。 そこへ暖房。 テキサス人も、カウボーイハットをぬいでいます。 空港で、すっかり汗をかいてしまいました。 奥方と次女は、化粧品の買い物に精を出しています。 ここも空いているので、店員が親切に説明してくれるようです。 「いつになったら買い物が終わるんだ」 見回すと、可愛い女店員さんが目に入りました。 マンゴー・アイスクリームを注文しました。 「そんなにいらないよ。減らして」 「ほんまに?」 「ああ、お腹が冷えるからね」 「お客さま」 「何だい?」 「100円多いです」 「あ−そうか、取っておいてよ」 困った顔をするので、100円玉を受け取りました。 1ケ300円だったのです。 このアイスクリーム、 コーンの断面が三角形。 アイスはもちろん、コーンも美味でした。 そこで、関空のキャッチフレースを思いつきました。 ・そうだ、関空から行こう  三角アイスが待っている オトーサン、 ようやく買い物を終えた女性陣とモノレールで移動。 「SAKURA LOUNGE、どこにあるのかなぁ」 そうなのです、 今回の旅行は、張りこんで、ビジネスクラス。 だから、専用の豪華休憩室が利用できるのです。 4人席を確保し、オーバー、鞄や買い物袋を置きます。 「あなた、荷物みていてね」 奥方が向かったのは、 奥にあった2台の黒皮張り最新鋭マッサージ機。 次女と2人並んで目を閉じながら、 「あなた、生ビールもあるわよ」 なるほど、ドリンクやおつまみ、 さらに新聞・雑誌なども置いてありました。 オトーサン、 迷わず、生ビールの機械へ。 「おお!」 この機械、只者ではありません。 グラスをおいて、ボタンを押すと、45度に傾くではありませんか。 琥珀色の液体が静かに注ぎこまれると、 今度は、元の姿勢になって、勢いよく純白の泡がかぶさります。 「うめえ!」 ビールは最初の一口と言いますが、 正しくは、このしっとりした泡の間から流れ出す 適度に冷えた液体の感触ではないでしょうか。 「おお、まさしくランチョンの味だ」 駿河台下のビアホール、ランチョンの老職人が 生ビールをグラスに注ぐあざやかな手つきを思い出しました。 それが機械で再現されているとは。 あまりのうまさに、お代りしてしまいました。 もちろん、何倍飲もうと、タダです。 高いビジネスクラスの料金も、すこしは、元をとれたかも。 オトーサン、 18時34分に機内へ。 「この席か」 てっきり2階席かと思っていたので、拍子抜けしました。 すぐ後ろは、エコノミー。 カーテンで仕切っていないので、 すぐうしろの初老のビジネスマンの光線を感じます。 「いい気になりやがって。死ね!」 いつもは、光線を発するクチですから、 その気持ち、痛いほどよく分かります。 「シャンパン?」 席に落ち着いてもいないのに、 初老の白人客室乗務員が聞いてきます。 奥方と次女は飛びつくように、YES。 「いつも飲みゃしないのになぁ」 タダとなると、態度を変える節操のない連中であります。 "and you?" "No!" オトーサン、 なぜか、ノーが口をついて出てきました。 生ビールでお腹がいっぱいだったせいか、 シャンペンを飲みあきていると気取ってみたかったのか、 われながら動機が分からぬ反応でした。 乗務員が去ってしばらくして、 「ちょっと飲ませて」 次女のをせびってしまいました。 「断らなきゃいいのに」 「ねえ」 奥方も同調します。 「味は、ラムネと変わらんなぁ」 「ふふ」 笑われてしまいました。


4 気がつけば、ダラス、その2

オトーサン、 「おお、やっと離陸したか」 時計をみると、19時07分。 順調に上昇し、水平飛行に移ると、 機内サービスの開始です。 「やってる、やってる」 ビジネスクラスのサービスも、10年1日の如しですなぁ。 進歩改善の跡がみえません。 ・食事メニューの配布 ・アメニティ・グッズの配布 ・ドリンクと夕食サービス ・ヘッドホーンの配布 こちらは、出発までのドサクサで、 いい加減、眠たくなっているのに、 こういうセレモニーが延々と続くのです。 ビュッフェ・コーナーを設置して、 置いておけば、好きなときに取りに行けるのに、 芸のないことです。 ついでにいえば、シートも工夫がないですなぁ。

ビジネスクラスでも、フル・リクライニングにはなりません。 いっそ、カプセルホテルのようにしたらいかが。 人間ひとり寝るだけなら、全長2m、全幅1m、全高50cmもあれば十分。 折り重ねるように設置すれば、可能のはずです。 オトーサン、 「ちぇっ」 洋食を選ぼうと楽しみにしていたのに、 品切れで和食を取らされました。 豪華幕の内弁当風ですが、お味は? ほとんど食べ残しました。 エアライン、とくにアメリカのエアラインに うまいものを期待するのは、大間違いのようです。 「京都のお寿司屋さんで、詰めてもらえばよかったなぁ」 エアラインは、給食業者との腐れ縁を切って、 入札でもして、外部開放すべきでしょう。 現状では、コンビニのおにぎりや吉野家の牛丼のほうが、 ずっとずっと美味です。 オトーサン、 手元の液晶TVも見ず、リクライニングにして、熟睡。 8時間後に、尿意を催してお目覚め。 「あと、1時間20分か」 関空からダラスまでの飛行所要時間は、10時間35分。 手元の時計をみると、午前4時20分。 現地時間の13時20分に直しました。 でも、奥方も次女も熟睡。 「いまから、映画みても中途半端だしな」 便意を催してトイレに行きましたが、 長時間、座りづめのためか、出ません。 出るのは、お奈良だけ。 退屈しのぎに、五言律詩を考案いたしました。

○天空凝視(柏庵)  天空機滑走     機内圧上昇     蠕動如遠雷      高圧欲開放      乗客幸熟睡      指差囲確認       雲霞出腸内      微香拡散中    我凝視天空    オトーサン、 訳文に手を入れていると、 初老の白人乗務員が通過しました。 「まあ、奴には読めんだろう」 トイレに立ったときに鉢合わせしました。 「日本語、お上手ですね」 「19歳のときに教会ボランティアで仙台に来た、  でも、勉強しなかったから」 そう境遇を嘆いていました。

 空高く機は飛べり  気圧上昇につれ  腸内蠕動、さながら遠雷のよう  我慢も限度   幸い乗客は熟睡中  念のため指差し確認する   煙、腸内を出て   微香が室内に拡散する その間、知らんぷり オトーサン、 「しまった」 朝食サービス。 奥方のトレイには、 オムレツやクロワッサンが載っています。 こちらは、シリアルとヨーグルトのみ。 気を取られていたのが失敗のもとでした。 14時40分、 ダラス・フォートワース空港に無事着陸。 奥方に聞かれました。 「あなた、あの姿勢でずっと寝ていたの?」 「ああ」 「もっとリクライニングできたのに」 次女、追い討ちをかけて、 「ビジネスクラスの恩恵を全く享受しなかったようね」 総括されてみれば、その通り。 シャンパンも飲まず、食事もエコノミー、 映画も見ず、リクライニングも不十分とはね。 この稿の題名、 「気がつけば、ダラス」ではなく、 「気がつけば、エコノミー」とすべきだったかも。


5 ダラスいいとこ、一度はおいで、その1

オトーサン、 「こりゃ、ダラス経由は正解だったかも」 心配していた入国審査は、呆気なく終了しました。 まず、パスポ−トと機内で記入した書類をもって、 入国審査の列に並ぶのです。 ・縦長の出入国カード(緑色) ・税関申告書(白色) 空いていて、待つ間もなく、入国審査官のブースへ。 「なーんだ。簡単じゃん」 前のひとの様子をみていると、 小さなスキャナーに、 「左手の人差し指」を押し付けています。 次に、「右手の人差し指」。 そして、小さな球状のカメラに向って写真撮影。 呆気ないものです。 オトーサン、 「いよいよ、おれたちの順番だ」 若い女性の入国審査官です。 「デブッチョだなあ」 テキサス人のでかいこと。 胴回りのサイズが身長より大きいひとなんてザラ。 これってほんとうですよ。 家族と分かると、笑顔でジェスチャー。 でも、奥方はスキャナーに指先を置いただけだったので、 彼女に指先を押えられました。

自分の番になったので、 「エイヤー」 と気合で押し付けたら、OKでした。 「...次は、顔写真か」 球状のデジカメ、 どこかで見たような気がすると思ったら、 ホールセールクラブ"COSTCO"の会員になったときでした。 当時よりは、一回り小型化されて、卵ほどの大きさ。 したがって、まったく威圧感はありません。

オトーサン、 「楽だったなぁ」 「鞄、開けろと言われなかったわ」 「あたしも」 奥方が、ほくほくしています。 行く前に、こんな会話がありました。 「それ、持っていくのか」 「ええ、あの娘が楽しみにしているからね」 「でも、その種の食品は持ち込み禁止だぞ」 「そんなこと言ったって」 「911以後のアメリカは戦時中なんだぞ」 「取られたら、それはそれでいいわよ」 大胆不敵というか、世間知らすというか。 ところが、ダラス空港は鷹揚なもの。 ノーチェックとは。 家族連れだったからでしょうか。 オトーサン、 「馬鹿でかい空港だなぁ」 なんでも、世界第2の空港で、 広さは、マンハッタン島ほどもあるとか。 「ふーん、これで回るのか」 国際線からNY行きの国内線に乗り換えるわけ。 スカイリンクという無人運転のモノレールで、 AからEまでのターミナルを 8の字を描くように結んでいるのです。 お団子の串にあたるのは、ハイウエィ。 すぐわきがPですから、駐車しやすそうです。 「Cターミナルのどこに行くんだ?」 次女に聞きましたが、無言。 黙ってついてこいというのでしょう。

「おお、真新しいじゃん」 このスカイリンク、まだできたてとか。 つくばエキスプレスもそうですが、静かです。

「広いなぁ」 8の字カーブのごく一部を撮影しました。

「あれが、ダラスだよ」 地平線のかなたにスカイラインが見えました。 「だだっ広いところね」 奥方、 鞄を開けられずにすんだので、 ダラスが好きになったようです。 あるいは、あれはダラスでなく、 ツインシテイであるフォートワスかも。 いずれの都市も、空港から30km弱離れています。 日本で、そんな遠くの先が見えるところがあるでしょうか? まさに、大平原のなかの空港です。


6 ダラスいいとこ、一度はおいで、その2

オトーサン、 スカイリンクを降りて、C21ゲートへ。 AAの航空機がたくさんあります。 そう、ダラスは、アメリカン・エアラインのハブ空港なのです。 本社も、ダラスにあります。 奥方に説明します。 「セブン-イレブンの本社は、ダラスだよ」 「そうなの?日本の会社じゃなかったの?」 「いや、アメリカの会社だよ。  鈴木敏文さんが、頭を下げてノウハウをもらいにきたんだ。  いまでは、救う立場になったけどね」 次女に聞きました。 「いつ出発するの?」 「...」 彼女、添乗員時代に、 顧客の無駄な質問に散々悩まされたのでしょう。 不機嫌な顔をします。 そういえば、切符をもらっていました。 見れば、すぐ分かること。 見ると、搭乗時間まであと2時間。 時間があったら、ダラスのダウンタウンに行って、 あの有名な教科書倉庫を見たかったのに、無理のようです。 自分で旅程を立てたら、便を遅らせても、見に行ったはず。

○ケネディ大統領暗殺事件  アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが  1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された事件。  ケネディは、ディーレイ・プラザで自動車パレードを行っていた。  午後12:30にケネディらを乗せたリムジンは、  テキサス教科書倉庫の前、20メートルの位置で、狙撃された。  三発の銃弾の内一発は車列を外れたものの、  次の一発がケネディに命中し、コナリーを傷つけた。  そして、最後の銃弾がケネディの頭部に致命傷を与えた。  暗殺者は、倉庫の従業員オズワルドとされたが、  間もなく、ジャック・ルビ-によって射殺されたので、  身代わり説も、依然煙ぶっている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか オトーサン、 次女に聞きます。 「ブッシュ大統領、大統領になる前、どの州の知事だったか、  知ってるか?」 「テキサスでしょう」 「あたり!」 「なぜ、テクサス州で立候補したか知ってるか?」 「...」 「ダラスは、オイル・ビジネスの中心地だからさ。  ブッシュの家業は、もともと石油採掘業。  でも、そっちのほうはことごとくうまくいかず、  たまたま、テキサス・レンジャーズを買収したんだ。  すっかり有名になったおかげで、知事になれたんだ」 「テキサス・レンジャーズって、何よ」 「プロ野球のチ−ムさ。  アメリカでは、プロ野球のオーナーというのは、  ものすごく名誉なことなんだ」 「ふーん」 「なぜ、テキサス州知事を狙ったかというと、それには裏がある。  1993年に、父親が再選を賭けた大統領選挙で敗北したのは、  大票田のテキサスで、アン・リチャーズに負けたからなんだ。  息子はおやじの敵をとったんだ。かなり汚い手を使って」 「どんな?」 「ライバルの悪いうわさを流し続けたのさ」 「どんな?」 「アン・リチャーズはレスビアンだと、  ラジオや電話で、組織的にささやきまくったんだ。  この悪知恵を出したのが、ローブだよ」 「ローブ?」 「カール・ローブ大統領上級顧問。  策士、大統領の懐刀といわれる男さ。  いまは、イラク戦争がらみでCIA工作員名を漏洩したということで、  国家機密漏洩で訴追されそうだけどな。 ○CIA工作員リーク事件  元米外交員ジョセフ・ウィルソンの妻、バレリー・プラムが  CIA職員であることが米政府内の何者かによって記者に漏洩された事件。  イラクの大量破壊兵器について、  ブッシュ政権が情報操作を行っていたと批判したウィルソンに復讐するために、  ローブが、ウィルソン夫人の身に危険が及ぶ可能性のある  国家機密を記者に漏らして、政権批判を封じようとしたことが発端である。  だが、裁判で、マット・クーパー記者の所属する米タイム社が  漏洩元を記した取材メモを連邦大陪審に引き渡す事態となり、  事件をもみ消すことができなくなった。  この汚い工作をブッシュ大統領が黙認したといわれることから、  いまやブッシュ大統領は泥沼にはまり込んでいる。 オトーサン、 奥方相手に、調子に乗って、 「911の世界貿易センタービルの崩壊も、  ブッシュの謀略だったという説がある」

「まさか」 「友人の木村愛二さん説の受け売りだけどさ。  古い建物を破壊するときのように内側から爆破したらしい」 参照:www.jca.apc.org/~altmedka/ 「まさか。  だってTVで見たわよ。航空機がぶつかっていたわよ」 「あの程度で、鋼鉄製のビルが2つも崩壊するはずはない。  どうも、自作自演らしい」 「だって、その後、きちんと調べたでしょうに」 「連邦危機管理庁(FEMA)が、事件後すぐ残骸を運び去ったので、  FBIやCIAも、調べようがなかったらしい」 「ほんとかしら?」 次女、 「やめなさいよ、  そんな馬鹿なこと言っていると、逮捕されるわよ」 「ま、そうだな」 オトーサン、 17時10分、搭乗開始になったので、 ダラスにまつわる噂話をささやくのをやめました。 いつまでもやっていると、 この稿の題名は、 「ダラスいいとこ、一度はおいで」ではなく、 「ダラスに、二度とくるな」になりかねないところでした。


7 光の渦のニューヨーク

オトーサン、 ゲートで空港をじっとみています。 「すごい離発着回数だな」 アメリカでは、航空機などバスのようなもの。 ありあまっている感じです。 「連中、要領悪いなぁ」 コンテナを牽引した車両が到着して、 荷物の機内への積み込みがはじまりました。 若い男が、モタモタついています。 手伝えばいいのに、もう1人は、じっと見ているだけ。 モタついているうちに、だんだん太陽が落ちていきます。 砂漠の夕焼けに見えないこともありません。 「ここも、要領悪いなぁ」 ようやく搭乗が開始されると、 今度は前がつかえて、なかなか前へすすめません。 「後ろのほうから、案内すればいいのに」 ほかに機内渋滞の原因としては、 各自の手荷物がでかいこともあります。 天井のラゲージに押し込もうとして手間どっています。 もうひとつは、図体、とくに腰回りがでかいこと。 そのため、席になかなか腰を押し込めないのです。 日本人が、ネズミのようにすばしっこいとすれば、 テキサス人は、象のようなもの。 「連中、NYに何しに行くのかなぁ」 「カウントダウンじゃない」 そういえば、クラッカーをもっている若者グループもいます。 オトーサン、 「おい、今度は、エコノミーなのか?」 「そうよ」 次女は、関空〜ダラス便の開通を知って、 その区間だけ格安ビジネスクラスをゲットできたのです。 「ま、あと3時間乗るだけだからな。  夕飯は何が出るかなぁ?」 「何、言ってるのよ。そんなもの出ないわよ」 「だって、前は出ていたぜ」 「心配しないで。ちゃんと夕食を買ってきたから」 奥方が、京都で買ってきたものを並べます。 ・おにぎり ・麩まんじゅう ・スナック菓子 ジュースのサービスがあったので、これで十分です。 となりのテキサス人がめずらしそうに、 麩まんじゅうの笹を外していく作業をみていました。 テキサスには、サボテンはあっても、 笹なんか見たことはないのかもね。 オトーサン、 エコノミークラスのほうが落ち着く性質なのか、 ぐっすり寝てしまいました。 耳に奥方と次女の会話が入ってきて目覚めました。 「そうなの、いつも出張はビジネスクラスなの?」 「そりゃ、そうよ」 「おい、ほんとうかよ」 「お前、いくつだ?」 「...」 「おれ、お前の年頃に、はじめて海外に行った。  お金がないから、エアロフロート航空の格安航空券で、パリに行った。  出発が4時間遅れたうえに、突如、ハバロスク空港に降りたんだ。  機内灯も消えて、心細かった。そのまま拉致されるかと思ったよ」 「それ初耳よ」 「真夜中にモスクワ空港に着いた。  お腹ぺこぺこ。売店に掛け寄ったら、ぴしゃとシャッターが下りた。  そのまま、朝まで8時間、ロビーで夜更かし。  ひでえもんだった」 「ふーん」 「それだけじゃないぞ」 「なに?」 「ヒマだし、ロビーが寒くて、暗いもんだから、  暖房して明るいトイレに行った。  そこで、フィルムを交換していた連中が逮捕されていたよ」 「そのひとたち、どうなったの?」 「知らん。  オレ、トイレからすぐ帰ってきたから。  でも、ヒマだから、クリスマス・ツリーをみていたら、  隠しカメラがあるのに、気づいた。  この一件で、すっかり、ソ連嫌いになった」 1960年の安保闘争の頃は、アメリカ嫌いだったのですが、 そう簡単にひとを逮捕しない自由の国ということで。 アメリカのほうがいいと思うようになったのです。 でも、911以降のアメリカは、戦時中ということで、 テロリストとみなされれば、簡単に逮捕される国になったようです。 不用意な言動には、注意しなければ。 奥方がダラスで荷物を調べられなかったというのは、 奇跡のようなものです。 この稿をお読みになられた方は、決して真似しないように。 オトーサン、 「おお、もう着陸か」 ラガーデイア空港、混んでいるようで、 旋回を続けている航空機の灯りがみえました。 3機はあります。 暗闇に光る蛍のようです。 「きれいねぇ」 ニューヨークは光の渦です。 あの光が、希望の光だった頃があったのです。 「翼よ、あれがNYの灯だ」 でも、いまは、エネルギーの無駄使いに見えます。 オトーサン、 8時35分に着陸し、スムースに荷物も受けとって、 マンハッタンの娘のアパートに向かいました。 「ラガーディア空港は、近くていいなぁ」 「そうでしょ、そうしたのよ」 次女は得意そうです。 NYには、ほかにケネディ空港とニューアーク空港があります。 「おお、マンハッタンだ!」 「きれいね」 まさに、光の渦そのものです。

オトーサン、 乗ったイエローキャブは、 クラウン・ヴィクトリアでした。 トヨタ車ではなく、フォード車。 このクルマ、タクシーやパトカーに多く使われているようです。 この運転手、妙な黒人でした。 ぶつぶつ言っています。 独り言かと思ったら、ケイタイで誰かと話していました。 「プロだろう、それでいいのか?」 さすが、自由の国・アメリカ、 スワヒリ語をしゃべろうと、 運転しながらの電話も、許されるのでしょう。 過剰なエネルギー、過剰な移民流入、過剰な自由。 それは、いいことなのか? テロの温床になっていないのか? オトーサン、 「すげえなー」 奥方が、娘のアパートで、鞄を開けました。 次から次へと、みやげものが出てきます。 「まるで手品みたいだ。  それにしても、よくチェックされずにすんだなぁ」 食品類、土産物、母親の愛情が部屋いっぱいに広がりました。 過剰な商品や過剰な愛情、 それはいいことなのか? 娘を縁遠くしていないか? でも、嬉しそうな長女の顔をみると、 そんな気持ちも、すっとんでしまいました。


8 バーンズ・コレクションへの旅、その1

オトーサン、 寝る前に、長女にぼやきました。 「着いた翌日、しかも、5時起きかよ」 「予約制で、年末くらいしか取れないの」 「予約がいるのか?」 「少人数しか入れてくれないのよ」 「へぇ、エラソーに」 奥方、 美術通なので、 「バーンズ・コレクションをみられるって、大変なことなのよ。  あたしはいいわよ、ビジネス・クラスで疲れていないから」 「そうだな、おれもいくよ」 次女 「行くに決めているのに、余計なこと言って」 こんな会話があって行くことになったのです。 バーンズ・コレクション、美術好きにとっては聖地です。 ○バーンズコレクション  アメリカの富豪で医学博士のA・C・バーンズが収集した  フランス近代絵画を中心とする世界屈指のコレクション。  死後「非公開・非複製」の遺言があったため、公開されなかった。  1960年、その遺言の一部を裁判所が取消したことにより、  週3回、1日100人に限り、制限時間内にみるという条件で  ようやく公開されることになった。  1994年に東京・国立西洋美術館で開催された展覧会は、  空前の110万人もの入場者を記録した。  ・住所:300 North Latch's Lane, Merion, PA 19066 U.S.A.  ・電話:610-667-0290   フィラデルフィアのダウンタウンから   Septaの列車(R5)で30分、Merion駅下車。  ・開館日:金土日(7・8月は、水・木・金)  ・開館時間:金土日930 - 1630/日1300-1430 ・入場者数:金・土曜は200人、日曜は100人  オトーサン、 翌朝、意外にすっきり起きられました。 やはり、ビジネスクラスでよく眠れたせいでしょう。 女性3人の身支度が終わるまで、1時間半待ちました。 彼女らをみていると、女性という種族は、 人生の貴重な時間をムダに使っていますなぁ。 お化粧や身支度にかける時間があれば、 1日1本、DVDで映画がみられるかも。 オトーサン、 いざ、出かける段になって、 「朝飯は、グリーン・キッチンで食べような」 NYにきたときは、 この古いアイルランド系のレストランで、 朝食を取るのが、習慣になっています。 長女、 「そうしましょう」 奥方、 「いいわよ」 次女、 「少しは、パパの希望も聞いてあげなきゃね」 どうも身内に厳しい批評家がいるようです。 でも、彼女のおかげで、こうしてNYにこられたのですから、 心のなかでは、手を合わせるべきなのかも。 オトーサン、 さすがに冷えるNYの街路を歩いて、 お目当てのグリーン・キッチンへ。 「あれ!....つぶれたのか」 「そうみたいね」 NYは不動産バブルが続いていて、 娘の住むあたりも、高級住宅街になってしまいました。

「あたしのアパートも改装されて、家賃が値上げされたのよ」 「いくら払っているんだ?」 「....」 「払えるのか、お前の給料で?」 「厳しいわね」 「貯金しているか?」 「僅かだけどね」 「クイーンズあたりへ引越したいと言っていたけど」 「ここは便利だから、やめたわ」 「会社までどのくらいかかるの?」 「30分ね」 「この前、地下鉄とバスのストがあっただろう。  あのとき、会社まで歩いていったのかい?」 「会社がリムジンを手配してくれた」 「へぇ、いいね」 「でも、5時起きよ、マンハッタン組は。  クイーンズ組は、マンハッタンに入れないから、  お昼からの出社だった関係で」 「4人以上乗っていないとクルマは走ってはいけなかったらしいね」 「そうよ」 「ここ、いい場所だよな。アッパーイーストだもんな」 「そうなの。みんなに羨ましがられているわ」 10年前、娘が大学を出て住みはじめた頃は、 イーストはイーストでも、 このあたりは場末でしたが、 いまや高級住宅街に変身して、 古い店舗やアパートはどんどん取り壊されています。 イエローキャブを拾いました。 「フィラデルフィアへは、アムトラックで行くんだろう?」 「いいえ、バスで行く」 「バス?」 「そう、アムトラックだと100$するけれど、  グレイハウンドだと、28$ですむの。ネットで買うと」 長女は、やりくり上手になっているようです。 「グレイハウンド、大丈夫か?」 「大丈夫よ」 グレイハウンドのバスというと、貧乏人の乗り物で、 女性には危険というイメージがあります。


9 バーンズ・コレクションへの旅、その2

オトーサン、 8時30分、 8番街42丁目のポート・オーソリティ着。 グレイハウンドのカウンターに直行して、 長女がネットで買ったチケットをゲット。 「これで一安心よ、ごはんでも食べましょう」 「うん、いいね」 グリーン・キッチンで食べるつもりが、空振りしました。 どこでもいいから、口に入るものなら何でも、という気分。 エスカレーターでワンフロア上がると、店舗が並んでいました。 「AU BON PAINでいい?」 「いいねぇ」 ここは、お気に入りのベーカリーカフェです。 クロワッサンとベーグル、それにシチューを注文しました。 次女は、馬鹿でかいサラダボウルを取っています。 ひとりで全部食べるのかと思ったら、 「みんなでシェアしましょう」 「いいねぇ」 彼女、案外、思いやりもあるのです。 奥方、シチューを一口すくって、 「おいしわね」 「どれ?」 「あたしも」 てなことで、もうひとカップ追加することになりました。 日本のベーカリーカフェでも、 冬には、各種のシチューを出したらいかがでしょうか。 オトーサン、 食後、女性陣の後をついて、DUANNEへ。 ここは、マツモトキヨシのようなもの。 NY市内なら、どこにもあります。 「また、化粧品か」 女性は、なぜ、こうも化粧品コーナーが好きなのか、 理解に苦しみます。 関西空港でも、ダラス空港でも、化粧品コ−ナー。 もういい加減飽きたのではないかと思うのですが、 そうでもなさそうです。 もっとも、オトーサンは、 家電店をみると、欲しいものもないのに、 チェックしないと気がすまないほうですが。 9時45分、いよいよバスに搭乗。 大勢並んでいるので、座れるかどうか心配になりましたが、 定員分しかチケットを売っていなかったようです。 わが家族は、全員きちんと隣合わせに座れました。 乗客の7割は、黒人というところ。 白人はとみると...、若者だけ。 貧乏旅行といえば、グレイハウンド。 10時、出発。 バスは、リンカーン・トンネルへ。 ハドソン川の底をくぐりぬけ、 マンハッタン島からニュージャージーへ出るのです。 「ねぇ、パナソニックの看板見えるでしょう」 「大きい看板ね」 「Yさん、今年も、こられるようよ」 「そう、娘さん、元気になったかしら?」 「元気よ」 NYにきて、元アメリカ松下の社長Yさんの娘さんも、 見違えるように元気になったようです。 わが娘の場合もそうですが、 NYには、若者を奮いたたせる何かがあるようです。 「トヨタの看板もあるぞ!」 石油価格高騰で、燃費のいいプリウスが人気のようです。 "More and more and more mallege!" TOYOTA Hybirid System バスは、95号線を快調に走ります。 右手に、ニューアーク空港がみえ、沼がみえた頃、 雪がパラつきだしました。 雪景色に見入ってしまいました。 おかげで、車内のTV映画を見損ないました。 気付くと、サンドラ・ブロックの活躍はもう終わっていました。

巨大なトラックにぬかれたりすると、 彼女の出世作「スピード」のシーンが再現されます。 「95号線を下りたぞ」 どうやら、フィラデルフィアへ向かうハイウエーに乗り変えたようです。 大きなショッピング・モールがみえます。 「メイシーも入っているな」 オトーサン、 11時45分、フィラデルフィアへ到着。 10年ほど前になるでしょうか。 退職後、自由の鐘やフイラデルフィア美術館を見にきました。 落ち着いたいい街という印象が残っています。 「思ったより早かったなぁ」 「そうね」 これなら、アムトラックよりも早いかもしれません。 心配していた郊外電車の駅は、なんと隣のビルでした。 簡単に切符を買えました。 「SEPTAって、何の略かなぁ」 「さあ、日本で言えば、JRみたいなものよ」 「そうか。でも、何の略かなぁ?」 その後、こだわって調べたら、 South Eastern Public Trasportation Authorityの略でした。 ま、分かったといって、どうってことはないのですが。 オトーサンたち、 フードコートで、AU BON PAINで買ってきたパンを食べます。 「あのRIB、うまそうだなぁ」 ダラス空港で、ステーキを食べたかったのですが、 肝心のお店がありませんでした。 いま、目の前に、うまそうな肉があるのに、 もう昼食は用意済み。 じっと肉片を見ていたら、また次女に笑われました。 「行くよ」 「どこへ」 「この先のモールへ」 SEPTAの駅、Market East Stationは、 巨大コンベンションセンターとつながっているのです。 「おい、どこへ行くんだ?」 「Bed Bath & Beyondよ」 女性陣は、目を輝かせて、 BBBへ突入していって、出てきません。

○ベッド・バス&ビヨンド  「ホームファッション」は、いま注目の業種で、  ここは、量販店・住居関連部門のひとの視察先。  創業は1971年。 店舗数640店舗と急成長中。 有名ブランドを幅広く揃え、高品質PB商品も販売。  店舗面積は、25,000から50,0000square feet、  新しい店舗は、90,000square feetを超えている。  取扱いアイテム数は、1万5000〜2万5000品目、  EDLPで販売し、年2回、在庫一掃セールを行う。   オトーサン、 Radio Sharkなる電気屋で、I-Podの値段をチェック。 戻ると、女性陣、何やら沢山買い込んだようです。 「それ、何だ?」 「湯上り用のスリッパよ」 「ずいぶん沢山買ったなぁ」 「5つ買ったよ」 「そんなに?」 「だって、75%引きなのよ」 「75%か、そりゃ買うよな」 クリスマスが終わると、セール・シーズン。 「でも、何も、いま、買うことないだろうに」 「だって、夕方戻ってきた頃には、お店が閉まっちゃうのよ」 「そうか」 女性陣、それなりに理性的判断をしているようです。 でも、この後、それが裏目に出るのです。


10 バーンズ・コレクションへの旅、その3

オトーサン、 13時15分、列車が無言で発車。 「何か不気味だなぁ」 奥方、 「でも、千代田線よりいいわよ」 「ああ、あれはひどかったね」 2人で、両替のために、 渋谷のシティバンクまで行ったのですが、 表参道で乗り換えるまでの1時間、 ひっきりなしにアナウンスがありました。 ・車内で電話するな ・優先席に座るな ・発車します、ドアが閉まります ・駆け込み乗車は危険です ・我孫子で遅延してお詫びしたい ・信号で止まります ・信号が青になったので、発車します.... 音量が馬鹿でかいので、気が狂いそうになりました。 オトーサン、 「空いているなぁ」 新幹線みたいに、座席は前向き。 通路をはさんで、左が3人掛け、右が2人掛け。 変わっている点は、ベンチシートであること。 レールは広軌でしょうか、車幅が広い気がします。 「あれ、フィラデルフィア美術館じゃないか?」 「もう通り過ぎたわよ」 「そうか。さっき渡ったのが、Schuylkill Riverだったんだ」 フィラデルフィアの中心街は、 この川とDelaware Riverに挟まれているのです。 2つとも、大きな川です。 長女、 「さ、降りるわよ」 「もう着いたのか?」 時計をみると、乗車して25分でした。 車掌が、何か叫んだようですが、 あれは、"Merion"と言っていたのです。 「無人駅だなぁ」 降りたのは、オトーサンたちだけ。 列車が行ってしまうと、森の静寂のなかに取り残されました。 駅前には、お店などなく、 バスも、タクシーも、待っていません。

オトーサン、 「道、分かるか?」 「....」 次女が長女がネットからダウンロードした 簡単な地図を片手に先導してくれました。 線路沿いの広大な公園に沿って、進行方向とは反対方向へ。 500mほど歩いたでしょうか、左折しました。 「この道でいいのか?」 「....」 Latch's Laneという道路標識があったので、一安心。 鬱蒼とした木立のなかに、豪邸がぽつりぽつりと現れてきます。 敷地は、1000-3000坪くらいあるのではないでしょうか。 「15分くらい歩くようよ」 「いや、20分はみておいたようがいいようだよ」 ひたすら歩きます。 時々、クルマが通過するだけで、 道を聞ける歩行者などいません。

オトーサン、 「雨だ!  傘、持ってくればよかったなぁ」 「....」 出がけのバタバタで、すっかり忘れていました。 おまけに、ゆるやかな上り坂なので、 余計、目的地が遠く感じられます。 「フィラデルフィアで、レンタカーを借りればよかったなぁ」 「.....」 15分ほど無言で歩いていくと、 それらしい建物が見えました。 クルマが入っていくので、見当をつけた次第。 「ここか」 「そうみたいね」 「あれ、ちがうわ」 何かの公共施設のようです。 さらに、5分ほど、雨に打たれながら歩いて、 ようやく、バーンズコレクションを発見しました。 感激して、入り口で記念撮影をしました。

オトーサンたち、 建物に入りました。 長女が初老の係員にチケットを渡しました。 彼、エラそうに、顎で地階を示します。 地階には、クロークがあるようです。 「あらら」 紙袋が雨で濡れたために破れて、 ベッド・バス&ビヨンドで買った商品が床に落ちてしまいました。 リュックサックに2ケ、コートの大きいポケットに1ヶ収納しました。 あとは、女性陣が手にもちます。 係員、この一連の不審な動きをじっと見守っています。 ようやく騒動が終わって、地階へ。 コートルームに、コートや手荷物を預け、 貴重品は、その脇のロッカーへ預けるようです。 (25セント硬貨が必要、後で返ってくる) オトーサン、 注意します。 「その前に、ギャラリーショップに行こうよ」 財布も預けてしまうと、買い物ができません。 それに、ガイドブックがないと、十分鑑賞できないじゃないですか。 コートルームの反対側に、ショップ。 ほかのミュージアム・ショップ同様、画集や絵葉書を売っています。 「この美術館のガイドブック、ないですか?」 ここの女性係員も、エラそうです。 顎で、本の場所を示します。 「これしかないの?」 分厚い大判で、値段は60$。 これでは、持ち運びに不便です。 結局、何も買いませんでした。 この階には、 AudioTour Renta(7$)もありましたが、パス。 なんでも、いわゆる解説ではなく、 構図や配色を中心とした解説だそうです。 オトーサン、 「この先にトイレがあるけど、いいか?」 「行くわ」 「あたしも」 「あたしも」 女性陣も、すっかり冷えきってしまったようです。


11 バーンズ見学記、ルノワール

オトーサン、 ようやく念願の展示ホールへ。 吹き抜けの大きな部屋です。

まず眼に飛び込んでくるのは、正面天井よりの大作。 「マチスだろうな」 いくら素人でも、マチスくらいは分かります。 でも、題名は? 普通の美術館では、 絵のそばの壁面に説明プレートが貼ってあって、 作者名、題名、製作年、サイズなどが書いてあるのですが、 ここには、見当たりません。 「あれかな?」 中央の椅子に座っているひとたちが、 クリアケースを手にして、 それに見入っては、壁面を見上げています。 マネしてみました。 「なるほど」 何枚ものセロケースが、椅子の横のホルダーに入っています。 「これはちがうな、別の壁面の説明だ」 A4変形の紙に、壁面毎の絵画(白黒写真)と説明が載っています。 このホールの場合は、東西南北の4面分、 4枚のセロケースを探して、お目当ての絵画の説明を読むというわけ。 「そうか、3点しかないから、南の正面だな。  マチスのは、”ダンス”だったんだ」 そんな風にして、クリアケースを4枚揃えました。 「入り口が北面か、右手に15点、左手に18点の33点か。  次に、東面はというと、12点か。  最後に西面が8点か、  合計してみるか、えーと、56点か。  そんなにあるのか」 56という数字は、それ自体驚くべきものではありませんが、 1点のお値段は、すくなくともロールスロイス以上でしょうから、 このホールだけでも、時価数十億円にはなるでしょう。 オトーサン、 とりあえず、ぐるりと一回りすることに。 メトロポリタンやルーブルとはちがって、 個人ギャラリーですから、回るだけで半日かかるということはないでしょう。 「順路はどうなっているんだ?」 特に順路表示はありませんが、 部屋の入り口に番号があるので、ローマ字でUの部屋へ。 どうやら反時計まわりに展示室が並んでいるようです。 「これで、1階は終わりか」 先ほど地階に降りた脇に2階へ上る階段がありました。 「いくつ部屋があるんだろう?」 2階だけ数えてみました。 右手には、中くらいの部屋が2つ、小部屋が3つ、 左右対称だから、合計で、10部屋か。 1階も同じようだったから、20部屋くらいかなぁ」

オトーサン、 絵画を見はじめました。 「ルノワールだらけだなぁ」 その部屋に行っても、ルノワール。 贅沢な話ですが、これだけルノワールだらけだと、 ”仏の顔も二度三度”で、食傷気味になります。 「ルノワールは、何点あるのですか?」 大ホールに舞い戻って、係員に聞いてみました。 「131点。世界最大だ」 得意そうに答えてくれました。 リトグラフでも、1点10万円はしますから、1310万円。 でも、本物ですから、1点平均3億円はするでしょう。 「すると、400億円か」

オトーサン、
奥方をみつけました。
じっくり見て回っているようで、まだ1階のY室にいました。
「モジリアーニの風景画で、9億円するのかあるそうだから、
 見逃さないほうがいいよ」
娘たちにも教えてやろうと探しました。
2人は、2階の][室に仲良く肩を並べてみていました。
同じことを繰り返しました。
「そう、あの絵かな?」と長女。
「モジリア−ニなんて、あったっけ?」と次女。 
「何しろ、4段掛けだから、よほど注意深くみないとなぁ」
「そうねぇ」と次女。

オトーサン、
またもやホールに引き返して、
今度は、手帳とボールペンをとりだしました。
セロケースをみせて、
"OK?"
中年の女性係員に尋ねました。
”Oh,No!"
"But just draw this floor plan"
"Is it important?"
"Yes. Very Very important"
奥方が、Tokyo National Museumで働いていると
付け加えたら、効果テキメン。
"Really?"
"Yes!"
てなことで、手帳に書き写したものを、
このHPのために新たに書き起こしました。
「そうか、全部で23部屋あるんだ。
 ...それにしても、下手な字だなぁ」
でも、読者のなかで、
バーンズ・コレクション見学を予定されている方には、
すばらしいプレゼントになると確信いたします。

読者のひとり 「おい、出入り口がないぞ。これじゃ、密室だ」 オトーサン、 「でも、最近、耐震強度が問題になっているものですから、 できるだけ、開口部は描かないほうがいいと思って」 「ほんとは、手抜きだろう」 「へ、へ、へ」


12 バーンズ見学記、セザンヌ

オトーサン、 その昔、中学で美術の授業を受けて、 セザンヌが描く風景画や静物画が好きになりました。 あちこちの美術館で、たくさんのセザンヌを見てきました。 水浴画だけでも、200点以上描いたそうですから、 生涯に描いた絵は、どのくらいになるか想像もつきません。 「何でも、このバーンズコレクションには、  セザンヌが50点以上あるそうだ」 奥方に話してしまったものですから、 チェックするために、セザンヌだけをざっと見てまわりました。 オトーサン、 「エクス・アン・プロバンスか」 フランス語を勉強したとき、 このセザンヌが愛した土地の名前をよく発音練習したもの。 ”エクサン”と鼻母音を利かすのが、コツなのです。 すると、彼が繰り返し描いた山の風景が浮かんできて、 その空気まで感じるような気がしたものです。


オトーサン、
「静物画=セザンヌ」というイメージを持っています。
油絵をはじめて描いたときも、果物を描いたりして...
でも、全然、セザンヌの果物のように美味に見えないのです。
というか...腐っているように見えるわねと言われたりして。


○ポール・セザンヌ
  (1839-1906)

 南フランスのエクス=アン=プロヴァンス生まれ  近代絵画の父と呼ばれ、20世紀絵画の扉を開いた  後期印象派を代表する画家。  少年時代は詩作や絵画の創作に熱中した。  パリに出てからはマネなど当時の前衛画家たちと行動を共にしたが、  近代都市へと変貌していたパリの雰囲気に馴染むことができなかった。  1880年代以降はエクス=アン=プロヴァンスに戻り、  その風景、人物、静物、水浴画を多数描いた。  「自然を円筒形と球形と円錐形によって捉えよ。  自然は平面よりも深さにおいて存在する。  そのため、赤と黄で示される光の震動の中に  空気を感じさせる青系統を入れる必要性がある」  晩年は、新時代の芸術の先駆者として若い芸術家の支持を受け、  キュビズムなど20世紀美術に決定的な方向をあたえた。 読者のみなさん、 「お前、セザンヌの絵だけどな、  バーンズ・コレクションに展示してあったやつか?  ちがうんじゃないのか?」 「ええ、撮影禁止なものですから、  ネットであちこちから集めてきました」 「それって、変じゃないか?」 「でも、セザンヌの教えに忠実に従っただけですよ。  自然はそのままで捉えるよりも、手を加えたほうが  雰囲気がよく伝わるって。  そんな風なことを言っているでしょう」 「....???」


13 バーンズ見学記、ゴッホ

オトーサン、 「次は、ゴッホだな」 原色を多用し、激しい筆使いなので、 いちいちプレートをみなくても、分かる画家です。 それに、何といっても、話題に事欠きませんよね。 ・生前には、1枚しか売れなかったとか。  「オレと同じだ」  「?」 ・死後には、オークションで巨額で落札されるとか。  「オレもそうなるかも」  「?」 オトーサン、 いまでも覚えています。 バブルの時代に、ゴッホの「ひまわり」が、58億円で落札されたことを。 「馬鹿なことするなぁ。どこのどいつだ?」 安田火災海上保険でした。 いまは、大成火災海上保険、日産火災海上の3社が合併して 損保ジャパンとなっています。 「本業をおろそかにするから、こうなるんだ。ザマミロ」 この42階に東郷青児美術館があって、いまでも見られます。 「誰が見になどいくもんか。  世界中の笑い者になったのに」

オトーサン、 展示ホールの次の展示室Uに行くと、 「おお、”郵便配達夫”がある!」 ほかに”花束と果物”も、ありました。

展示室Yに行くと、
「ふーん、工場なんかも描いているんだ」

展示室[に行くと、 「おお、”煙草を吸う男”もある!」 ほかに、”家と人物”、”寝そべる女”もありました。 最後のは、ゴヤの絵かと思いました。 ゴッホらしらぬ絵画もあるのです。

展示室]Wには、"Lupanar; Tavern Scene"。
「どう訳すのかなぁ?」

オトーサン、 ざっとゴッホをみてきて、 「やっぱり、ゴッホの人物像が好きだなぁ」 ”耳に包帯をした自画像”や 浮世絵の影響が出ている”タンギー爺さん”が有名ですが、 先程みた郵便配達夫は、なかなかのもの。 あの大昭和製紙の斉藤某が、バブルの頃に オークション史上最高値125億円で落札した ”医師ガシェの肖像”よりも、ずっと深みがあるじゃないですか。 「売りに出したら、いくらするだろう?」 おそろしい値段がつきそうです。


オトーサン、
「ゴッホの黄色は、じっくり見ておかねば」
いまは便利な時代になって、
素人が鑑賞する分には、
絵葉書、ポスター、複製画、リトグラフなどで
十分代用できると思っていましたが、
ゴッホの場合は、まったくちがうのです。
それを思い知らされたのは、”アルルの跳ね橋”。
どこで本物を見たのか忘れましたが、
「全然ちがうじゃん!」
「そうね、白が輝いているわ」
「そう、狂気の白だ」
買った絵葉書と比べながら、
橋の色について、奥方とそんな会話をしました。

オトーサン、 バーンズ・コレクションの絵をみながら、 再確認しました。 「晩年のゴッホは、狂っていたんだ」  こんな暗い絵を毎日1枚づつ描いていれば、  そりゃ、狂いもするよな」 でも、ゴッホは、好んで狂っていったフシがあるのです。 弟のテオにあてた手紙には、こうあります。 「ともあれ、僕は、自分の作品に人生を賭け、  そのため理性は、半ば壊れてしまった...それもよい」


○フィンセント・ファン・ゴッホ
 (1853-1890) 

 1853年オランダのフロート・ズンデルト生まれ。  父は牧師。祖父も牧師で、激しい性格の持ち主だった。  1869年、美術商の伯父の紹介でグーピル商会に勤め、  弟のテオと文通をはじめ、以後、生涯にわたって財政的支援を受ける。  失恋でやる気をなくし、1876年に商会をクビになる。  伝道師にもなれず、炭坑で事務の仕事につく。  1880年、ブリュッセルでデッサンの勉強を始める。  1881年、両親と暮らし始め、画室も作る。  義理の従兄弟、画家アントン・モーヴの指導を受ける。  1888年、ポール・ゴーギャンと南仏アルルで共同生活をはじめたものの、  ゴーギャンに自画像の「耳の形がおかしい」と言われると、  自らの左の耳朶を切り取り、女友達に贈りつけたりした。  サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院入院。  1890年、パリ郊外で猟銃自殺を図り、2日後に死亡。  ゴッホは、印象派を出発点とし、浮世絵の影響を受けて、  次第に、強い輪郭線、明るい画面、人物のデフォルメを  特徴とするようになった。  晩年は、暗い素材を選び、筆触はますます長く伸び、うねり、  象徴主義に傾斜していった。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


14 バーンズ見学記、モジリアニ

オトーサン、 「風景画どこにあった?」 娘たちに出会ったので聞きました。 「確か、2階にあったよ」 そういわれても、2階にも、10室ありますし、 3段掛け、4段掛けのなかから探すのは、至難の業。 「おお、これか」 ]T]室にありました。 地味な絵で、小学生でも描けるのでは。 「これが、9億円もするモジリアニなのか?」 彼は、早く死んだし、風景画は極端に少ないので、 希少価値がついたのでしょう。

Photo:"Cypress Trees and Houses" オトーサン、 「これこれ、これだよなぁ」 モジリアニといえば、首の長い女性像です。 中学生の頃、美術全集をめくりながら、学友たちと雑談しました。 「こんな長い首のひとって、いないよなぁ」 「キリンみたいだ」 「でも、外国人は8頭身というから、  こういうひともいるかもしれないよ」 「そうかなぁ」 まだ、デフォルメなんていう手法を知らなかったのです。

オトーサン、
「なつかしいなぁ」
中学生の頃、この裸体画が出てきて、
「....」
「....」
一瞬、沈黙。
当時は、いまのようにヌードなど氾濫していなかったのです。
「毛がある!」
「...あるんだ」
ヘアで驚いたなんてねぇ。

オトーサン、
「へぇ、男性も描いているんだ」
これは、新発見でした。
「カネに困って描いたんだろうな」
当時は、肖像画が1枚いくらくらいで売れたのでしょうか?

オトーサン、
「ふーん、自画像か」
ゴッホの自画像に比べると、随分間が抜けています。
ほとんど、竹久夢二かマンガの世界です。
伊達男だから、夢想の世界に生きていたのでしょう。

○アメディオ・モジリアニ

 Amedeo Modigliani(1884-1920)  イタリア、トスカナ地方の港町のユダヤ系の家庭に生まれる。  パリに憧れ、モンパルナスに集まる若い画家たちの群れに加わった。  彼らは、「エコール・ド・パリ」と呼ばれ、  ユトリロ、シャガール、フジタなどが貧困のなかで独自の画風を作り出した。 モジリアニは、セザンヌの厳しい造型、  対象を幾何学的に把握するキュビスム、 アフリカ黒人彫刻のたくましい表現に大きな影響を受けた。 単純化されデフォルメされたフォルムと精妙な色調は 画家の詩的ニュアンスと相俟って、哀調を帯びた独自の画風を創り上げた。 彼は、エコール・ド・パリの中心人物、イタリア生れのハンサムボーイ、 そして結核による早死と話題には、事欠かない。 オトーサン、 「そういえば、このひとのお墓を見に行ったなぁ」 パリ14区に、モンパルナス墓地があるのです。 墓碑銘には、こう刻まれていました。  アメデオ・モディリアーニ  画家  1884年7月12日 リヴォルノに生まれ  1920年1月24日 生涯を終えし  まさにそのとき    栄光来たりぬ その隣りには、こんな碑も。  ジャンヌ・エビュテルヌ  1898年4月6日  パリに生まれ  1920年1月24日 パリに死す  アメデオ・モディリアーニにつき添い  その貞節は究極の犠牲すらいとわざりき 読者のみなさん、 実は、このジャンヌ・エビュテルヌ、 モジリアニの死の翌日、身籠もったまま アパートの5階から身投げして後を追ったのです。 享年21歳。 ○ジャンヌ・エビュテルヌ

 1898年、パリ生まれ。
 父親は会計士で、17世紀文学の研究家。
 兄は画家で、彼女も画学生だった。
 1917年の謝肉祭の日に、二人は出会って、同棲。
 モディリアニ、33歳、ジャンヌ19歳だったので、両親は猛反対。
 貧困のなか、安ホテルを転々とするが、
 モジリアニは、飲んだくれで、自堕落な生活態度はあらたまらず、。
 彼女は、ただただ耐えて待つ日々だった。

オトーサン、
「彼の帰りを首を長くして待っていたんだ。
 かわいそうになぁ、変な男にほれてしまって」
でも、モジリアニがジャンヌ・エビュテルヌを描いた肖像画、
いまや、高値を呼んでいます。
先日は、3136万8000ドルと最高値を更新したとか。

モジリアニ、いわく。
「私が描く人物は見ることができる。たとえ瞳をつけてやらなくても...」
オトーサン、いわく。
「そんなこと言ったって、睨んでいる絵もあるじゃないか」


15 バーンズ見学記、モネその1

オトーサン、 「おお、ここにいたか」 展示室\で、奥方に出会いました。 「この絵、素敵ね。思い出すわ」 「何を?」 「ジヴェルニーよ」 「ジヴェルニー?」

・Le bateau-atelier 1876 「モネの庭園、見に行ったでしょう」 「ああ、あそこか。これ、モネの絵か」 奥方がみているセロケースで確認しました。 読者のみなさん、 機会があったら、ぜひ、ジヴェルニーに行ってください。 パリからは、観光バスが出ています。 シテイラマのガイドを翻訳すると、 「パリから北西へ約70kmの美しい田舎町、ジヴェルニー。 ここに巨匠クロード・モネが晩年を過ごした家とアトリエが 当時の姿で残されています。 彼は自らの手であの有名な「睡蓮」のインスピレーションの 源となった見事な庭園を作り上げました。 そしてこの地でかれの天分が開花したのです。 日本の影響を強く受けた庭園の太鼓橋や 彼のコレクションの一部である数々の浮世絵も 合わせて御鑑賞ください」 オトーサンが、 当時感激して書いた文章をご紹介しましょう。  睡池のある日本風庭園は、  柳が垂れ、ボートが浮かび、小さな太鼓橋がかかっています。   ・Bassin aux nympheas 1899  日本人観光客が驚ろくのは、むしろフランス庭園のほうでしょう。  花が咲き乱れています。  まさに地上の楽園とは、ここを指すのでしょう。

・The Artist's Garden in Argenteuil (A Corner of the Garden with Dahlias), 1873
・The Artist's House in Argenteuil 1873
・The Artist’s Garden in Ventheuil 1873 

 モネの家で驚くのは、
 アトリエにある40点ほどの彼の絵よりも
 各部屋に飾ってあるおびただしい数の浮世絵のほうでしょう。
 北斎、歌麿、写楽。
 ここは、世界一の浮世絵美術館です。
 残念なのは、外国人も日本人も浮世絵を見ずに
 通過するだけだということです。

オトーサン、
「ジヴェルニーもよかったけれど、
 オランジュリー美術館の睡蓮の間は、最高だったなぁ」
「....」
実は、奥方は、行っていないのです。
正確に言うと、行ったら改装で閉館中だったのです。
仕方がないので、おなじパリのマルモッタン美術館に行きました。
「マルモッタンには、イヤになるほど、睡蓮の絵があったわね」
「ああ。でも、オランジュリーの「睡蓮」の大壁画に敵うものはないなぁ」
「....」
「2006年には、改装されて再開されるらしいよ。
 見に行こうな」
「....」
睡蓮の間と呼ばれるオーバル・ルーム2部屋には、
壁一面に「睡蓮」の連作8点が掲げられている。
モネが、8年間にわたって手を加えていた名作中の名作。
部屋の中央には、ゆったりとした白い革張りのソファがあります。
街を歩き回った疲れで、いつの間にかまどろみ、
目を開けると、朝の睡蓮が夕景の睡蓮へ...
至福・至上の絵画体験でした。

・Waterlilies 1916-1923 ○クロード・モネ Claude Monet, 1840/11/14 - 1926/12/5。   印象派を代表するフランスの画家。 「光の画家」ともいわれ、時間や季節で移ろいゆく光と色彩の変化を   生涯にわたり追求した画家。  1890年、パリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに土地を購入。   以後、没するまでこの地で制作を続けた。   モネは、ジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、   さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造った。   この庭は、自分の「最高傑作」だと言った。   モネの代名詞ともなっているのが、「睡蓮」の連作。   晩年には、もっぱら「睡蓮」に傾注した。   1890年代には、岸に生える柳の木や、   池に架かる日本風の橋などが描かれていたが、   1900年代になると、画面のすべてが水面に浮かぶ睡蓮、   水面に映る空や樹木のみになり、抽象画のようになった。   印象派の画家のなかでは、もっとも長生きし、多数の作品を残している。   ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらは独自の道を進み、   マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、   モネは終生印象主義の技法を追求し続けた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


16 バーンズ見学記、モネその2

オトーサン、 「バーンズのモネのコレクションは、ちょっと物足りないなぁ」 「そうね、39点もあるそうだけど」 「へぇ、どうして分かった?」 「あの娘たちが、聞いてくれたの」 「第一、”印象・日の出”がないのがさびしいよなぁ」 「そうねぇ」

Impression Soleil Levant 1872-1873 「あれ、どこで見たっけ?  ロンドンのナショナル・ギャラリーだったっけ」 「マルモッタンじゃなかった」 「ああ、そうだ、ロンドンのは、国会議事堂だった」

Houses of Parliament, Sunset 1902 この有名な”印象・日の出”、 ”日没”という説もあるそうですが、 1873年、パリで開かれた第1回印象派展に出品したところ、 「なんだかぼやけた絵だなぁ」 「ほれ、色と色の間に隙間がないじゃないか」 「第一、輪郭がない」 批評家のセンセイ方に散々叩かれたのです。 とはいえ、印象派という名前のもとになったのですから、大したもの。 オトーサン、 「でも、オレが好きなのは、ルーアンの大聖堂だなぁ」 「そうみたいね、わざわざ、見に行ったわよね」 「そうだったっけ。  でも、あれは最高傑作だよなぁ」 モネが、妻アリスに、 「毎日新発見を付け加え、疲れ切っている」と書いたのは有名です。 「そうかもね」 「そうかもねって?」 「...」

・Rouen Cathedral in Morning 1892 ・Harmony in Blue and Gold 1892 ・Harmony in Brown 1892

奥方、 「この絵も素敵ねぇ」 「ああ。キミが好きなのは、日傘を差す女だろう」 「そうよ、だって、あれ素敵じゃない」 「あれは、どこで見たっけ」 「ワシントンのナショナルギャラリーよ」 「あそこは、よかったなぁ。写真撮らせてくれて」 「そうよ、フラッシュなしなら許可すべきよ」 買ってきたポスターを額に入れて、わが家に飾りました。 「あれ、どこへしまったのかなぁ。  引越し騒ぎで、どこかへ行ってしまったか」 「わたしたち、転勤ばかりだったわねぇ」

・Girl in a Garden with a Dog 1873
・Woman with Parasol 1875

オトーサン、 モネが最愛の妻カミーユを失って、 家族の思い出を描いた絵は、どれも胸を打たれます。 ・モネ、カミーユ、ジャン、仲むつまじくお散歩。 ・従姉妹たちと海辺へ。 ・三輪車に乗って喜んでいる息子ジャン。 「...過ぎ去りし幸せか」 「それ、どういう意味?」 「....」

・Promenade pres d'Argenteuil 1873
・Sur la plage a Trouville 1870-1871
・Jean Monet sur son tricycle a cheval 1872 

読者のみなさん、
モネのこんな絵をご存知ですか?
野中の一本杉。
ひとはひとりで生まれ、
ひとりで生き続け、
ひとりで死んでいくのです。
モネは、そんな人生を体現したひとでした。

On the Coast at Trouville 1881 ○クロード・モネ、その2

Claude Monet 1840/11/14 - 1926/12/5  1840年パリ生まれ  5歳の時、一家はル・アーヴルに移住した。  風景画家ブーダンと知り合い、  キャンバスを戸外に持ち出し、風景画家の道へ。  1859年、パリに出て、ピサロらと知り合う。  2年間の兵役を経て1862年、グレールのアトリエに入り、  シスレー、ルノワールらと知り合う  1870年、普仏戦争を避けてロンドンへ赴き、  イギリス風景画のターナーを研究。  1873年、第1回印象派展に「印象、日の出」を出品。  「印象派」という名称の由来となる。  1870年、カミーユと正式に結婚する(子ども2人)  1879年、カミーユは、32歳で死去  1880年、官展に入選し、初めて個展を開く。  セーヌ河流域のアルジャントゥイユなどを転々とし、  1885年、「日傘を持った女」など、家族を描く。  1890年、ジベルニーに土地家屋を購入し、「睡蓮」を連作。  1892年、アリス・オシュデと結婚、「ルーアン大聖堂」を連作。  1923年、白内障の手術を受ける。  1926年、86歳で死去。


17 バーンズ見学記、ゴーギャン

オトーサン、 「ゴーギャンか」 誰がみても、ゴーギャンの絵は分かります。 原色、はっきりした輪郭、南洋の風景や女性。 「南洋の女は、裸でないとなぁ」 不埒なことを言いつつ、 ワシントンのナショナル・ギャラリーや オルセー美術館、メトロポリタン美術館の絵を思い浮かべます。

・M. Loulou 1890 
・Words of the Devil 1892
・Femmes de Tahiti  1891 
・Ia Orana Maria 1891 

○ポール・ゴーギャン

 Eugene Henri Paul Gauguin 1848/6/7 - 1903/5/9 ポスト印象派の独創的な画家。 1848年、パリ生まれ。 二月革命で、ナポレオン3世が大統領に就任し、 弾圧を恐れた共和系ジャーナリストの父親は、  ペルーに亡命を図るが、旅の途中に急死してしまう。 残された妻は、ポールが8歳になった1855年帰国。  オルレアンの叔父の援助で神学学校を卒業し、  1865年、水夫として南米を訪れる。  この頃、母が死亡。  1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争に参加。  株式仲買人となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。  普通の勤め人として、日曜画家だったが、1876年、サロン初入選。  1882年の金融恐慌を受けて、翌83年退職、画業に専念。  妻の実家コペンハーゲンに移るが、絵は売れなかった。  1888年、ゴッホと共同生活を試みるが、耳切り事件で破綻。  1891年、絶望したゴーギャンは楽園を求め、タヒチに渡る。  13歳の現地の少女を愛人にして、制作を続けるものの、  貧困や病気に悩まされ、1893年パリに戻るが、絵は売れなかった。  同棲した女性に逃げられる。  1895年、ふたたびタヒチに渡り、14歳の少女を新しい愛人にする。  1897年、貧困と絶望のなかで、自殺を決意(未遂)  1901年、タヒチから1500kmも離れたヒヴァ・オア島に渡る。  1903年死去、現地に埋葬された。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか オトーサン、 経歴を読みました。 「日曜画家でも、プロになれるのか?」 でも、そうとう強引・傲慢でないと、 つまり、平気で妻子を見捨てるような男でないと、 アーチストにはなれないようです。

・Portrait of the Artist with the Idol 1893 オトーサン、 彼の晩年の名作をボストン美術館で見ました。 すごく長い哲学的ともいえる題名なのです。 「我々はどこから来たか?  我々とは何か?  我々はどこへ行くのか?」 われわれ凡人は、 「そんなこと分かるハズないだろう。アホ」 そう言って終わってしまいそうですが、 ゴーギャンは、死ぬ前に、その問いを自分に課したのです。 「...やはり、歴史に名を残すひとはちがうなぁ」

・Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?  1897-98 オトーサン、 この絵の解説をネットで発見しました。 長文なので、抄訳しましょう。  これは、ゴーギャンの最高傑作である。  こんなに長い題名をつけるつもりはなかったが、  描き終えてから思いついたと言っているが、  どうも、そのようには思えない。  この絵画は、3つの部分からなっている。 右手から左手へ、大きな楕円が描かれている。  このなかに、答えがあるのではないのか?  右手は、我々はどこから来たか?を表している。  赤子、3人の若い女性がいる。  なぜ、3人が寄りそっているのだろう? 中央部分は、我々とは何か?を表している。  2人の女が、運命について語りあっている。  男は、迷っており、半ば攻撃的である。  中央の若者は、経験の果実を摘んでいる。  これは、明らかにエデンの園のようだ。  ヒトの無邪気で自然な生への、よりよき人生への願望を示している。 子どもが果実を食べており、その姿を離れた偶像が見ている。  精神の必要を象徴しているのだろう。  女たちがいる。  (ひとりは、不思議にも、貝のなかへねじれている)  動物が一緒にいる。やぎ、猫、鶏と世界を分かちあっている。  最後の部分は、我々はどこへ行くのか?を表している。  美しい若い女が子ども抱き、老女が死の準備をしている。  彼女の青白く灰色の毛が、それを物語っているが、  そのメッセージは、奇妙な白い鳥の存在によって強調されている。  変異した海鳥とも解釈できる。 これこそ、ゴーギャンの未知なる来世のシンボルなのである。  (はるか右手の犬は、ゴーギャン自身のシンボルである)  これらのすべてが、熱帯の楽園タヒチに配置される。  太陽と自由とゴーギャンが探し求めた色彩に満ちて。  森のなかに小川が流れている。  その背後には、輝く青い海が光り、  他の島に、そびえたつ霧多き山々が見える。  ゴーギャンは、この絵は彼の遺言であることを明確にしている。 病み、評価されず(その通りだった)、  自殺しようとして、見事に失敗したという話をつくりあげている。  友人にこう書く。  砒素をもって、山に分け入ったが、 気がつくと、まだ生きていた。  そこで、戻って、傑作を描こうとしたと。  これほどの偉大な芸術家が、自分の作品を評価してほしくて、  こんなデタラメな話を思いつくとは、悲しいことである。  願わくば、彼に生きていてほしかった。  この傑作に、いまや我々が畏怖の念をもっていることを   知ってほしかった。  Text from "Sister Wendy's American Masterpieces" www.artchive.com/artchive/G/gauguin/where.jpg.html


18 バーンズ見学記、キリコその1

オトーサン、 ダリの奇妙な絵が好きです。 世界各地の美術館でダリの絵に出会いましたし、特別展も見ました。 もっとも、バルセロナ郊外のダリ美術館は見損ないましたが。

・Salvador Dali(1904-1989) "The Persistence of Memory" 1931 「これも、ダリかな?」 確認すると、キリコだった経験があります。 ダリと比較すると、ややマイナーな存在。 でも、NYのMOMAやメトロポリタン美術館に行ったら、 キリコの絵画が数多くありました。 そのなかで、一番、気に入ったのは、「アリアドネ」。 この絵、巨大な煉瓦塀の影が不気味に伸び、 手前には、横たわる女神がいて悲劇を感じさせます。 でも、遠方に目をやると、白いタワーに向けて、 右手から帆船が、左手から煙を吐く機関車が近づいてきるのです。 この遠景には、子どもの頃見た情景が重なって、 全体として、一度見たら忘れられない絵画になっているのです。

・Ariadne 1913 読者のみなさん、 「その棺桶の女は、誰なの?」 当然の疑問です。 ご存知の方もおられるでしょうが、 ネットで調べた結果を紹介しておきましょう。 要は、ほれた男に捨てられた女アリアドネなのです。 ○アリアドネ  クレタ王ミノスの娘。  ミノス王は、アネナイを征服し、  化け物ミノタウロスの生贄として  アテナイに対し、毎年、若者を差し出すよう命じた。  ある年、若者テセウスがやってくる、  だが、アリアドネは、彼に一目惚れ。  テセウスは、アリアドネに与えられた剣でミノタウロスを殺し、  与えられた糸をたどって迷宮を脱出する。  だが、駆け落ちした後、テセウスはアドリアネを捨て去る。  後に、アドリアネは、酒神ディオニュソスの妻となり、  トアス、オイノピオンを産む。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか オトーサン、 「キリコは、ギリシャ人なんだ」 遠近法などを駆使した超モダーンな表現手法なのに、 題材は、古代ギリシャ。 本来あるべき場所でないところに、想定外の物体が出現。 その結果、時間が止まったような、 時間を超えた不思議な感じが伝わってきます。 あちこちで、キリコの絵画をみてきましたが、 残念ながら、代表作といわれる作品の本物を見たことがありません。 「倉敷の大原美術館昔、一度、行ったけどなぁ」 当時、麗子には興味があったのですが、 キリコには興味がなかったので、記憶にありません。

・Misterio y melancolia de una calle 1914 
・Hector and Andromache 1917

オトーサン、
「キリコって、どんなひとなんだろう?」
このユニークな画家、キリコの経歴をみておきましょう。

○ジョルジョ・デ・キリコ
  Giorgio de Chirico, 1888/7/10 - 1978/11/20
    ギリシア生まれのイタリア人画家。
  パリやアメリカに住んだこともあるが、
  生涯のほとんどをイタリアで過ごした。

1900年アテネのPolytechnic Instituteで絵の授業を受ける。   1906年、家族がMunichに引越ししたので、Academy of Fine Artsで学ぶ。   ドイツ系スイス人画家アーノルド・バーキンの魔法じみたリアリズムや   哲学者フリードリッヒ・ニーチェの著作にある”現実拒否”思想に感銘する。   1917年、カルロ・カールに出会い、形而上絵画を知り、   そのほうが、現実をより的確に示すことができると確信する。   形而上絵画は短命だったが、ダダやシュールリアリストに影響を及ぼした。   初期作品に見られる、アーチの並ぶ建物、影法師、煙を吐く機関車などの モティーフで満たされた風景は、見る者を不安にさせるとともに、 どこかで見た、なつかしい風景のようにも思える。 後に、こうした形而上絵画から古典的な作風に転じたので、   シュルレアリスム(超現実主義)の提唱者アンドレ・ブルトンを失望させるが、   父を機関車に見立てたすぐれた小説「エブドメロス」を発表し、   ブルトンらを驚かせた。 代表作 ・街の神秘と憂鬱 1914 ・ヘクトールとアンドロマケの別れ 1917 大原美術館      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか

19 バーンズ見学記、キリコその2

オトーサン、 「バーンズは絵画教育に熱心だったんだ」 バーンズ博士は、コレクターというだけでなく、 絵画を心から愛していて、その研究に精進していたのです。 そして、自分が収集した絵画をベースに、 子どもたちに絵画をより深く味わう教育をはじめたのです。 これが分かったのは、帰国してからのことですが、 「しまったなぁ。勉強してから見に行けばよかった」 そんなことを言っても、後の祭り。 (今日の分は、ちょっと生真面目な見学記になりますが、 あるいは、これから絵を楽しむコツが含まれているかも。 我慢しておつきあいください) キリコも教材に出てくるので、取りあげることにしましょう。 バーンズ財団の公式サイトに出ていた内容の一部を翻訳しました。 ○絵画鑑賞ガイド   ・絵画は、集中してみよう。  ・絵画は、色彩、線、光、形、スペースから構成されることを知ろう。   (以下、バーンズ所蔵の絵画をベースにガイドが続きます)   まず、絵が提示され、次に質問が続きます。 (1)色彩

・Henri Matisse"Seated Riffian"1912-13     ・どんな色彩が使われているか?   ・一番、多く使われている色彩は? (2)線

・Henri Rousseau”Woman Walking in an Exotic Forest”1905   ・多く使われている線は?   ・それは直線か曲線か?   ・どんな形やパターンが見えるか? (3)光 

・El Greco"Apparition of the Virgin and Child to Saint Hyacinth" 1610,   ・光はあるか?どの光が一番多いか?  ・光はどこからきているか? ・光は何に当たっているか?   ・光の色は?   ・一番明るい光は、どんな形をしているか? (4)形

・Horace Pippin”Giving Thanks” 1942   ・どんなちがった形があるか? ・どの色彩が形をつくっているか?   ・色彩は重なりあっているか?  ・形が重なると、空間をつくりだすが、  どんな形が繰り返されているか?   ・形が繰り返されるとパターンになるが、    どんなパターンがあるか?   ・どんな形が好きで、どんな形がキライか? オトーサン、 「おお、キリコの絵が出てきた!」 (5)スペ−ス

・The Red Tower 1913 ・あなたから最も遠い形はどれか? ・絵画の中心にあるのは、何か? ・左手にある白い建物についてであるが、   このビルの影の線を見ることができるか? ・それは、赤い塔の方向まで伸びているか? ・背景の青い山脈がみえるか? 「おお、このキリコの絵も、バーンズにあった」 この絵は、一番最後に置かれ、 これまでの学習を総合したものになっています。 (6)色彩+線+光+形+スペース

・Fantasy-Sophocles and Euripides 1925 ・どんな色彩があるか? ・一番、明るい色彩はどれか?  ・多くの線がある。水平線、垂直線、対角線はあるか? ・この繰り返し表われる線で、どんなパターンができているか?  ・光は、どこからきているか?  ・最も明るい部分と暗い部分はどれか?  ・どんな形が重なりあっているか?    (形が重なりあうと、スペースができる)  ・背景のビルを見ることができるか?  ・中間や手前には、何が見えるか?  ・全体として、キリコの絵は、何を感じさせるか? オトーサン、 「そういうことか、あのオーディオガイド」 普通の美術館にあるガイドは、 画家の経歴や絵を描いた背景を説明しています。 でも、バーンズのガイドは、絵の見方を説明しているのです。 料理でいえば、どこかのタレントみたいに、 「おいしい!」というだけでは、何が何だか分かりません。 やはり、素材、その加工法、調味料、調理法、盛り付けなどを 一通りチエックしてから総合判断をしなくては。 「バーンズさんは、本当の教育者だったんだ」 釣った魚をあげるのではなく、釣りの仕方を教えること。 そんな言葉を思いだしました。 バーンズさん、 絵を集め、飾りたて、その数を誇るコレクターに終わらず、 集めた絵をもとに、実地と理論の双方から、 若いひとに、絵画を学ぶ場をつくり出そうとしたのです。 「うーん、絵画の世界も、奥が深いなぁ」


20 バーンズ見学記、キリコその3

オトーサン、 「この絵、何だか六本木ヒルズみたい」 キリコの絵画で、題名は、”偉大なる形而上学者” ニューヨークのMOMA(The Museum of Modern Art)にあります。

・The Great Metaphysician 1917 「時価総額で世界一になる」 そんなことを言ったひとがいましたね。 どう考えても現実的でないことを堂々と宣言していました。 「すごいね、よくそこまで言うよねぇ」 若いひとは、liveDoorの社員ならずとも、 そんな偉大な彼に憧れたのではないでしょうか?。 シュールレアリズムというのは、 その提唱者A・ブルトンによれば、 「夢の全能性への信頼に基づく」芸術の総称だそうですから、 「意識下の世界を客観的に表現した」ホリエモンは、 ある意味、シュールレアリズムの旗手キリコと同じ世界の住人だったのです。 さて、読者のみなさん、 「どちらが、本当の六本木ヒルズにみえますか?」

 
「うーん、昔は、左の写真のようにしか見えなかったけれど。
 でも、あんな事件が起きるとなぁ...」
そうなのです。
美しかるべき秩序に満ちた偉大な塔は、幻影だったのです。
第1次世界大戦後、理想を語りながら、利権に蠢く政治家たち...
そんな理想と現実の隙間に、シュールレアリズムが花咲きました。
六本木ヒルズも、都心再開発のシンボルでした。
だが、回転ドア事故で、その機械仕掛けの杜撰さが、
そして、ホリエモンを頂点とするヒルズ族のうさん臭さが
露呈してくると、以前とちがった物の見方が出てきます。
キリコの絵3点を見ましょう。

(左:Love Song)
 白く大きな彫像は絶頂期のホリエモンでしょう。
 でも、オレンジ色の洗車手袋がだらりと下り、
 怪しげな作業後に取り出された利益(濃緑の玉)が、
 前方に転がっています。

(中央:The Disquieting Muses)
 青い箱に神妙に腰かけたチルドレン。
 その彼に、公認の印である現金の入った箱が...
 頭が風船状のひょろ長い人物は、コイズミさんでしょうか。
 建物の暗い影で、凝視している人物は、亀井さんか。
 それとも、金の流れを内偵中の特捜班のひとりでしょうか。 

(右:The Nostalgie of the Infinite)
 もはや砂漠と化した六本木ヒルズ。
 何やら、なつかしそうに訪れた人影は、誰あろう。
 7年の刑期を終えて出所したホリエモンです。

 
・Love Song 1914
・The Disquieting Muses 1916. 
・The Nostalgie of the Infinite 1913-4

オトーサン、
「夢も、現も、幻もか」
アートは、その3つの世界を自由に羽ばたけるのです。
キリコがいま生きていたら、どんな絵を描いているでしょう。

オトーサン、
「さぁ、最後は、キリコの自画像だ」
2枚重ね。
変わっていますね。
普通の写真とレントゲン写真を重ねたようでもあるし、
ジキルとハイドの対比を楽しんでいるようにみえなくもありません。

・Self-Portrait 1922 「この手法、使えるなぁ」 キリコの上をゆく3枚重ねにしてみましょう。

 
・Hakuan(1938-) Sinnging Old Clock 2006


21 怒るバーンズ

読者のみなさん、 「キリコ、いいねぇ。気に入った」 キリコの他の絵も見たくなった方は、 下記の画家のURLをコピー&ペーストして、 Googleの検索に入力してみて下さい。 ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Giorgio De Chirico 読者のみなさん、 「おお、すげえ!」 オトーサン、 「そうでしょ、そうでしょ」 最近のネットの画像検索は、進歩しています。 下手な美術館より、ずっと充実しています。 「ほかの画家も見たいんだけど」 「もちろん、見られますよ」 世界の美術館めぐりを、無料でできるのです。 これまで取り上げた画家も同じ手順で見ることができます。 ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Henri Matisse ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Pierre-Auguste Renoir ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Paul Cezanne ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Vincent Van Gogh ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Amedeo Modigliani ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Claude Monet ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Paul Gauguin ► WahooArt.com ► Portfolio - Painter Pablo Picasso オトーサン、 展示室]]で奥方をみつけました。 「そろそろ帰ろうか?」 「そうね。あの娘たちは?」 「じゃ、探してくるよ、ショップで待っていて」 幸い、すぐに娘たちに出会いました。 「パパ、ママは?もう、時間だけど」 「ああ、階下のショップに行ってるよ」 「そう、ここ、4時半までなんだけど」 「へぇ」 この時はじめて、 バーンズ・コレクションの見学時間は、 2時間と決められていることを知りました。 オトーサン、 女性陣がミュージアム・ショップにいる間、 展示されていたバーンズさんの年表をみました。 ○年表  1872:フィラデルフィア郊外に労働者の家庭に生まれる(1.2)  1880:母親とアフリカ系アメリカ人復興会議に出席し、      以後、アフリカン・アートと文化に興味を抱く。  1892:ペンシルバニア医科大学を卒業  1894:ベルリン大学に1年間留学。  1895:フィラデルフィアのH. K. Mulford社のコンサルタントに(5年間)  1900:ドイツ、ハイデルベルグのRuprecht-Karls大学で、医学博士号取得。

1901:NYでローラと結婚。欧州へ新婚旅行。  1902:製薬会社Barnes and Hilleを設立。      伝染病に効能のあるArgyrolを開発し、特許で財をなす。

 1905:Merionに新居。  1907:会社の全株を買う。 1908:A.C. Barnes Companyを設立。      病院や医師向けに医薬品の直売を開始。  1912:バーンズの依頼で、アーチストのWilliam Glackensと      Alfred Henry Maurerが、パリの画廊で近代絵画を購入。      ゴッホの”Postman”やピカソの”Woman with a Cigarette”      バーンズ、パリでゴーギャンの”Haere Pape”を購入(6月)。

   
     Leo Steinと意気投合し、死ぬまで文通を続ける(12月)。
     自社工場内で労働者のために、心理学とアートのクラスを設ける。
     William Glackens、Ernest Lawson、Maurice Prendergastの絵画を展示。
 1915:はじめて論文発表"いかに絵画を判断するか"
  1917:著名な教育者ジョン・デューイのコロンビア大学でのセミナーに出席し、
     科学的教育学の方法を学ぶ。以後、終生の友人となる。
 1922:MerionのJoseph Lapsley Wilson氏の邸宅を購入。
     1880年代にはじまった植物園を保存・発展させることを約束する。
     バーンズ財団の設立許可(12月)
     マチスの”Joy of Life”を購入。

    パリの画商Paul Guillaumeと文通をはじめ、アフリカン・アーツをまとめ買い。  1923:絵画75点を展示。      (スーチン、モジリアニ、ピカソ、マチス、キリコ、キースリング、      Alexis Gritchenko、Helene Perdriat、Irene Lagut、Jacques Lipchitz)  1923:現在の美術館と住居を建設。      フランス・ルネッサンス様式、建築家Paul Philippe Cretによるもの。      (Ben Franklin BridgeとRodin Museumを手がけた)      Jacque Lipchitzに、美術館の外壁に7つの薄浮彫り彫刻の製作を依頼。     ホールの陶器とタイル張りを依頼。  1925:美術館の序幕式(3.19)      スピーチは、ジョン・デューイとフィラデルフィア交響楽団の有名な指揮者     レオポルド・ストコフスキ。.      セザンヌの”The Card Players”を購入。

    ”The Art in Painting”を出版。      現在も、財団の絵画教育のテキストになっている。  1926:画商Paul Guillaumeを財団の外務大臣に任命。      フランス政府から、レジオン・ド・ヌール勲章を受章(2.26)  1929:A.C. Barnes Companyを売却。  1931:マチスにホールの壁画製作を依頼("The Dance")  1933:"The Dance"が完成(5月)      セザンヌの”Nudes in Landscape”を購入。

 1940:妻ローラ、植物学校を設立。      18世紀の農家Ker-Fealを購入。      装飾芸術と家具を展示するために、2つのウィング(部屋)を増設。  1951:リンカーン大学から名誉博士号を授与(6.5)   78歳、自動車事故で死去(6.24) オトーサン、 女性陣が戻ってきたので、 「この絵、誰だろう?」 長女、 「知らなかった?バーンズさんよ」 「そうか、やはり、バーンズ博士か。  だいぶ、イメージがちがうなぁ」

先程見た写真のほうは、 どこかの財閥の若い御曹司にみえますが、 この絵をみる限り、不機嫌で意地悪なおじいさんという感じ。 「誰が描いたんだ?」 「キリコよ」 「えっ?」 何で、キリコに依頼したのでしょう? なぜ、わざわざ、気味の悪い肖像画を描かせたのでしょう? どういう経緯で、バーンズ博士は、キリコと知りあったのでしょう。 年表を見直しても、書いてありません。 オトーサン、 現在、バーンズ博士が不機嫌な理由は分かります。 遺言に反して、遺族が、辺鄙なMerionから、 市の中心部へ移転を強行しようとしているからです。 以下の記事(抄訳)をご一読下さい。 ○バーンズは、救われないだろう。  財団の恒常的な赤字解消のために  2004年秋に発表された計画によれば、  財団は2つに分割される。  ルノワール、セザンヌ、マチス、ピカソといった  大衆に人気のある画家の作品は、市の中心部の施設に移転し、  12エーカーの美術館と教育機関は、Merionに残る。  だが、財団は、マス・マーケット向けのアトラクションに変質してしまうだろう。  大勢の観光客がやってきて、商業施設や美術館に恩恵をもたらすに違いない。  (フィラデルフィア美術館、ロダン美術館、   フランクリン協会、自然科学アカデミーなど)  だが、移転によって、  バーンズの「神聖で特別の場所」という精神は変質してしまう。 それは、悪である。  悪いというだけでなく、まったくの悲劇である。  まさに、古い諺のとおりだ。  「手術は成功したが、患者は死んだ」 By Edward J. Sozanski (Inquirer Staff Writer) 2003/5/4


22 正しい大晦日の過ごし方

オトーサンたち、 バーンズ・コレクションを出ました。 「素敵なコレクションだったわねぇ」 「ねぇ、記念写真、撮らない?」 「いいよ」 「おお、雨が上った。よかったなぁ」 「夕焼けが素敵ねぇ」 雨上りの静かな森のなかを歩いていきました。 点在する邸宅のなかには、窓の明かりも... 「あっ、リスがいる!」 「思ったよりも近かったなぁ」 帰りは、やや下り坂だったせいもあるでしょう。 のんびり歩いて、15分ほどでMerion駅へ到着しました。 「静かな駅ね」 「誰もいないわね」 「あーぁ、待合室も閉まっている」 10分ほどで、電車が来たからいいようなものの、 暗くなったら、心細くなったかも。

オトーサン、 「バスは何時発?」 「7時よ」 「6時のに乗れないか?」 「聞いてみるわ」 こういうとき、長女を頼もしい存在です。 「6時の列に並びなさいって」 長い行列の後ろにつきました。 「この人数だと、乗れるかなぁ」 7割が黒人だし、待合室は暗いので、やや不安です。 「大丈夫よ、人数分しか売らないから」 ハリウッド映画に出てくるような芸人風の黒人カップルも。 緑色の幅広帽、金ピカの長いドレス、手にしたクラッカー、 笑うと、露出する歯茎がピンク。 「カウントダウンに行くのかなぁ?」 「そうかもね」 「そういえば、今日は大晦日だっけ」 乗車がはじまりました。 「おい、この列じゃないぞ」 「あら、そうね。ワシントンに行ってしまうわ」 そんなことで、並び直しましたが、 無事、6時のNY行きに乗れました。 それでも、満員難なので、4人バラバラの席になりました。

オトーサン、 黒人男性のそばで、こっくりこっくり。 やはり、疲れが出てきたようです。 目が覚めると、外は真っ暗。 どうやら、95号線を走っているようです。 「おお、やっと着いた!」 7時55分にポート・オーソリティに無事戻りました。 行きよりも、道が混んでいたようです。 「タクシーで帰るか」 「今日はダメ、地下鉄で帰るわよ」 「そうだった」 地下鉄の駅の構内は、警官だらけ。 ものものしい警戒態勢で、殺気を感じます。 カウントダウンのすごい人出にまぎれて、 テロリストが何やら企んでいるかも... ここは、バーンズ・コレクションの至福の場所ではないのです。 そう、マンハッタンは、戦場であり、戦時中なのです。 オトーサン、 「若いひとは、いいなぁ」 地下鉄の車内は、陽気な白人の若者ばかり。 笑いあい、大声で話しています。 なかには、抱き合ってキスするカップルも。 カウントダウンに繰り出すのでしょう。 「カウントダウンか」 1999年の大晦日は、 タイムズ・スクエアのカウントダウンに参加しましたっけ。 寒いなか、5時間も待って、紙吹雪やひとびとの興奮を体験しました。 「パリの大晦日、思い出すなぁ」 シャンゼリゼのそばの安宿にとまって、 早めに寝ていたら、けたたましいクラクションに起こされました。 シャンゼリゼ大通りに出てみると、クルマで埋まっています。 若いひとがクラクションを鳴らし続け、 クルマの屋根に乗って腕を振り回したりと、乱チキ騒ぎ。 まるで、5月革命のようでした。

 
・photo:NY:Times Square/ Paris:Champs Elysees
 
オトーサン、
地下鉄から降りて、バスに乗りかえるまでの間に、
ブロードウェイの夜景を撮影しました。
「ま、これは、これで大晦日だ」
やや場末とはいえ、マンハッテンはマンハッタン。

オトーサン、 流石にバテたので、 帰宅してすぐベッドへ。 「ごはんよー」 奥方の声で起きて、夕食のテーブルへ。 テ−ブルの上には、カップ麺。 「なに、これ?」 「錦で買ったのよ、味は関西風よ」 「わーい、年越しそばだ!」 長女の声が聞こえます。 NY、寿司屋は何店もあるのに、 うまい蕎麦屋ときたら、1軒もないのです。 神田のまつや、浅草・並木の藪あたり、 ぜひ、NYに出店してほしいもの。 急にNYに来ることになりましたが、 そうでなければ、並木の鴨なんばんを味わった後、 帰宅して、入浴後、ゆっくり紅白歌合戦を見ていたことでしょう。 みのもんたの司会ぶりをチェックできたかも。

オトーサン、 「ま、たまには、こういう大晦日があってもいいか」


23 正しい元旦の過ごし方、その1

オトーサン、 「ウーン」 イキみましたが、出ません。 「午前3時か」 あきらめてトイレから戻りました。 やはり長旅の後は、どうしても便秘気味になります。 次に目が覚めたのは、午前8時。 何と、11時間も眠っていたことになります。 「腹減ったなぁ」 昨夜は、例のカップ麺のほか、 ケンタのチキンナゲットをつまんだ程度。 長女の台所の冷蔵庫を開けて、豆乳のパックを発見。 「アメリカのは、何でもデカイなぁ」 豆乳2L入りなんて、日本では、どこにも売っていないでしょう。 「うめぇ」 エアコンが効いているので、喉が渇きます。 ついでに言うと、NYのアパートは、 電気代、ガス代、水道代は、 家賃のなかに含まれているので、使い放題。 一晩中、エアコンをつけっ放しなのです。 「ムダづかいも、いいところだなぁ」 世界中に貧しいひとがたくさんいるというのに、 ここに住んでいると、そんなことを忘れてしまいます。 オトーサン、 写真をPCに取り入れて整理したり、 もってきた本を読んだりして、女性陣の起きてくるのを待ちます。 「おお、やっと起きたか」 そのあと、1時間30分も待たされました。 3人もいるからしょうがないのでしょうが、 シャワー、お化粧、身支度などで、1時間30分もかかるとは、 何という時間のムダづかいなのでしょう。 アパートの外に出たのは、10時30分。 「寒いな」 気温は、3度くらいでしょうか。 着こんでいても、体の芯から冷えてきます。 それでも、歩き出すと、やや温まってきます。 女性陣の写真を撮りました。 後ろからみると、3姉妹にみえないこともありません。

「グリーンキッチンはつぶれたか。  ...すると、朝飯はどこへいくか?」 「Agataは、どう?」 「いいよ、もうどこでも、近くなら」 「Agata、レストランを増設したのよ」 「へぇ」 そんなことを言いながら、歩いていきます。 アッパーイーストの元旦は、静かなもの。 「すごいゴミだなぁ」 大きなクリスマス・ツリーが路上に捨ててあります。 こんな大きさでは、日本の一般家庭には入らないでしょう。 それに、お値段も手が届かないでしょう。 ツリーのとなりには、これも、巨大な黒いビニールのゴミ袋。 「NYは、分別収集しないのか?」 「そんな面倒なことはやらないわよ」 国土が広いから、焼却せずに、穴を掘って埋めているのです。 注:地域によっては、3つに分別収集しているようです。  ・青色の箱へ:缶、ペットボトル、パック、プラスチック・金属容器。  ・緑色の箱へ:ガラス製品 ・黄色の箱へ:新聞・雑誌、書類、電話帳など。 ちょうど巨大なゴミ収集車がやってきて、 シャンデリアを粉砕して、呑みこんでいきます。 「すげえ。...勿体ねえなぁ」 まだ使えそうなソファなども放り出してあります。 アッパーイーストでも、守衛のいるアパートの住民は、 リッチのようです。

 
オトーサン、
身体が温まってきたので、手袋を脱ぎました。
歩いていたら、なぜか食欲がなくなってきました。
「Agata、1stにあったんだっけ」
「そうよ。でも、最近あまり来なくなったの」
「どうして?」
「アッパーウエストでお買い物するようになったの」
「どうして?」
「ほら、最近、バスでアッパーウエストへ出て、
 それから地下鉄に乗るようにしから」
「そのほうが近いか」
「ヨガに通うついでだし」
長女は、1年ほど前から、ヨガをはじめたようです。

オトーサン、
「Agata、メシはどこで食わせるんだ?」
「ほら、あそこよ」
これまでは、食材売り場の外れで、
止まり木に座って、パンとドリンクだけだったのが、
きちんとしたレストランを作ったとか。

「ほんとだ」 道路を隔てたリカー・ショップを買収していました。 同じ色の緑色のキャンバズが、かかっています。 「FOOD BARって呼んでるのよ」 「フード・バー?」 「そう」 「まあいいや、行こう」 「でも、これ見てよ。  Poilaneのパンを扱うようになったのよ」 「へぇ」 「ポワラーヌ?あのパリの?」 奥方も会話に加わってきます。 昔ながらの製法でパンをつくっている 世界的にも、めずらしいパン屋さんです。 (参照:このHP:パリ、グルメ探訪記) 読者のみなさん、 ここで、アッパーイーストを代表する 繁盛店”Agata”のプロフィールを紹介しておきましょう。

 
○Agata & Valentina
  アガタは、シシリー生まれ。
 夫のJoe MuscoとLouis Balducciが、
 南イタリア風のマーケットをオープンしたとき、
 近所のひとをその魅力の虜にするとは思いも寄らなかっただろう。
 ファースト・フードを食べにくるひと、食材を買いにくるひと。
 この店には、見たこともない食材があふれている。
 クルミ(pecan)や ドミ・グラース、 
 干したり、酢漬けのグーズベリー 、
 鮮やかな色の見事な果物の棚、
 店員がいつも入れ換えているパリパリのレタスの山。
 店内調理の食品には、赤ん坊にもいい柔らかいミートボール、
 アヒルは砂糖漬けのバリバリしたスライスされたアヒル、
 柔らかいナスとサクサクした胡椒を添えた
 甘く風味のいいカポナータ(caponata)、
 シシリア人は、いい味つけされた食材が大好きだ。
 アンチョビ、トマト、ピスタチオ・ペ−スト、リコッタチーズ。
 350種以上のチーズカウンターがある。
 地方色豊かなまだ知られていないLe Marechalもあるのだ。 
 豊穣は続く。
 肉屋は、乾燥して年季物の最上等の肉を運んでくる。
 注文に応じて、カットしたりしてくれる。
 魚屋は、魚専門で、ステーキやフィレ肉には触れない。
 アスプレッソの豆は、シシリーのアガタの仲間から、
 他のコーヒーは、イタリア本土から仕入れてくる。
 店内は、直角のクエスチョンマークのような形になっており、
 カーブしてはいない。
 スポーツ村風の装飾、ランタンやかご、
 乾燥棚には、パスタが布地のように垂れ下っている。
  やや問題な点もある。
 サンドイッチを注文する待たされることと、
 レジが果物を袋に投げ入れることだ。
 2度注意しないと、他の尖がった品物と別にしてくれない。
 
  住所:1505 First Avenue 79th Street
  電話:(212) 452-0690
  営業時間;800-2030
  定休日:無休


24 正しい元旦の過ごし方、その2

オトーサン、 「ここ、やめよう」 「そうね」 Agataのフード・バー、中途半端です。 カウンターとレストランからなっていて、 デザインはオシャレなのですが、 カウンターのほうは、先客で占拠されているし、 奥のレストランは、白いテーブルクロスがかけてあって、 高そうだし、誰も座っていません。 法事か何かで貸切で使うにはいいのでしょうが、 4人家族がポツンと座っていても、様になりません。 「そうね、ここじゃ落ちつかないわね」 奥方も同意しました。 次女はとみると、もう店の外。 善悪良否の判断が素早いひとです。 オトーサン、 「腹減ったなぁ」 長女、 「じゃ、バスに乗ろう」 何枚かのカードを使って、 4人が無事に乗車できました。 朝食を摂りに、 アッパーイーストからアッパーウエストに出るのでしょう。 このバス、2両連結ということは、利用者が多いのでしょう。

長女、 「変なのよ、ここの組合」 「なんで?」 「20日から3日間もストやったでしょう。 大損害を蒙っているはずなのに、  年末から1月2日までは、料金半額にしたのよ」 「へぇ、どうして?」 長女の説明によれば、 ニューヨークの地下鉄・バスを運営する 都市圏交通公社(MTA)のストは、25年ぶり。 700万人の足に影響が出ただけでなく、 クリスマスセール中だったので、経済損失は1200億円。 上部団体も批判的だったため、結局、労組側の譲歩でスト終了。 ニューヨーク州地裁から300万ドルの罰金支払いを命じられたとのこと。 「だって、賃上げが狙いだろう?」 「そう、あと年金問題ね」 「それが失敗したから、料金半額か。  やっぱり、変だよな」 「やはり、世論を味方につけたいからでしょうね」 「そうか、そんなものなのか」 オトーサン、 そんなことを話しあいながら、 車窓の外を流れていくセントラル・パークの冬景色を眺めます。 ところどころ雪が残っています。 「ここ、一度、自転車で走ってみたいなぁ」

長女、 「降りるわよ」 どこか分かりませんが、アッパーウエストでしょう。 しばらく歩いて、 「ここよ、評判がいいの」 「へぇ、SARABETHっていうのか」 中を覗くと、いまは超満員。

オトーサン、 メニューをちらっと眺めました。 ・BREAKFAST  Four Flowers Juice ... 5.00  Orange Juice ... 4.50  Grapefruit Juice ... 4.50 ・CEREALS  SARABETH'S HOT PORRIDGE 'THREE BEARS STYLE'  ・Baby Bear   hot porridge with milk and honey... 5.75  ・Mama Bear  hot porridge with fresh cream, raisins and honey ... 6.00 ・Papa Bear  hot porridge with bananas, fresh cream, raisins and honey ... 6.25 以下、延々と英語メニューが続くのですが、 解読しようとすると、頭が痛くなってきます。 次女、 「ここ、やめよう」 長女、 「どうして?」 次女、 「待てない。ほかにもあるでしょう」 長女、 「そうね、じゃ、他へ行きましょう」 てなことで、”HOT PORRIDGE”が何か分からずしまいでした。 後で聞いたら、”熱いおかゆ”だったとか。 オトーサン、 「次はどこだ」 「どこがいいかねぇ」 長女が次にとまったのは、NICE MATIN。 「いい朝か、いいじゃん」 「そうね」 次女、さっさと入っていきます。 混んでいますが、すぐに座れました。 内装は、さきほどの店と似たようなもの。 カジュアル・レストランでした。 早速、大きなメニューを眺めます。 ○BREAKFAST  ・American breakfast   Large juice or fruit, choice of any breakfast entree, coffee or tea 15.00  ・EggsTwo Farm Fresh Eggs scrambled, poached, up or over 7.75   with choice of any breakfast meat 9.75  ・Lorraine Omelet bacon, onions, comte & thyme 9.75  ・Goat Cheese Omelet fines herbs 9.25  ・Artichoke & Leek Frittata pesto, fontina & parmesan 10.75 ・Egg White Frittata Fresh spinach & mushrooms 10.25 ・Scrambled Egg Whites w/ One Yolk  peppers, scallions & sliced tomatoes 9.50 ・Shirred Eggs Nicoise  two eggs baked in a casserole on a bed of swiss chard bechamel sauce & parmesan 10.75 ・Poached Eggs Provencal  ratatouille in crisp puff pastry, tomato-cream sauce 10.75 ・Spicy Lamb Sausage & Egg Scramble  tomatoes, onions & creme fraiche 10.75 ・Smoked Salmon with Soft Scrambled Eggs  creme fraiche & chives 11.25 ・Eggs Benedict english muffin, canadian bacon,  2 poached eggs & hollandaise 10.50 ・Salmon Benedict  english muffin, smoked salmon, 2 poached eggs & hollandaise 11.75 オトーサン、 このメニューも、延々と続いています。 「おれ、これでいいや」 ・Lorraine Omelet bacon, onions, comte & thyme 9.75 "Lorraine"も、"comte & thyme"も、意味不明ですが、 中核にある"Omelet bacon, onions"は、了解。 まあ、間違いなくオムレツの一種にはありつけるでしょう。 女性陣も、それぞれちがうメニューを注文しました。 長女、 「飲み物はどうする?」 「含まれていないのか?」 次女、 「あたし、カフェオレ」 奥方、 「じゃ、私も」 「じゃ、オレも」 長女、 「それじゃ、カフェオレを4つね」 オトーサン、 「この店、分量多すぎないか?」 奥方と次女、 「そうね、いくら何でもね」 長女、 「まあ、こんなものよ。  NYで暮らそうとしたら、この位は食べなきゃ、  体がもたないのよ」 オトーサン、 「そういえば、お前のほうが肥ってるな」 長女、 「...」 この店、カフェオレが、大きなボウルで出たきたのです。 「...馬じゃあるまいし」 猛烈に空腹だったのに、 オムレツをもてあましまして、3分の1残しました。 食事中の話題は、耐震偽装問題。 「そういえば、NYは地震がないのか?」 「ないわよ」 「じゃ、姉歯はここで働きゃいいんだ。 は、は、は」 「....」 このアイディア、あまり受けなかったようです。

○Nice-Matin   住所: W 79th St,   電話:(212) 873-6423   営業時間: 700-300, 530-1200  日曜:700-300, 500-1100


25 正しい元旦の過ごし方、その3

オトーサン、 「お腹、いっぱいだ」 何か胃がもたれる感じ。 吐き気はありませんが、重圧感があります。

「まあ、歩いているうちに治るだろう」 事実、ブロードウェイをぶらぶら散歩している間に、 胃のもたれは消えました。 「食べ過ぎたか」 京都では、食べすぎました。 NYまでの長い旅では、食事時間が不規則になりました。 「便秘だし、すこし、お腹が弱っているのかも。  それに、冷えたし」 ヒトの消化管は、 食道・胃・十二指腸0.5m+小腸6m+盲腸〜直腸1.5m=8m。 肉体の中にあるとはいえ、ラジエータのように、 案外、外気の影響を受けやすいのです。. 次女、 「ちょっと待って」 すっと靴屋に入っていきます。 「最低、30分はかかるぞ」 女性3人が、ああでもない、こうでもないと品定め。 結局、小1時間ほど、待たされました。 これも、一種のストレスで、胃腸によくないのです。 オトーサン、 「コンサートは、何時から?」 長女、 「2時30分からよ、まだ時間あるわ」 あと、1時間くらいありそうです。 「ここ覗いてみない?」 「いいわよ」 奥方は、例によって、娘の言いなり。 Fairwayへ入っていきます。 「このスーパー、前に見たよ」 「でも、最近、よくなったのよ」 「そう、楽しみね」 ○Fairway Market  多くのアッパーウエストの住民にとって、  フェアウェイなしの暮らしは、考えられない。  1974には、みずぼらしい店だったが、  3万5000平方フィートもの多層階の美食家の殿堂に急成長した。

 床から天井までぎっしりと、生鮮食品、手軽な調理食品、  食欲をそそるパンなどが並んでいる。  新鮮な肉、魚、アペタイザー、デリ、  そして、コーヒー、オリーブ、オイル、伝説のチーズ部門が、  フェアウェイを食材店にのしあげたのだ。  生産地、特徴、使用法を書いた数えきれないほどの  雄弁な説明ボードのおかげで、すべてが分かる。  2階には、オーガニック食品、自然食品、サプリメントが、  清潔な部屋に並べらている。  天井が明るいカフェは、2000年にオープンし、  サンドウィッチ、ピザ、ハンバーガー、朝食を提供し、  夜は、ステーキハウスになる。  住所:2127 Broadway 74・75th Sts.  電話:212-595-1888  営業時間:600-100  定休日:無休 オトーサン、 「ここトイレないか?」 急に便意を催してきました。 「2階の奥にあるわよ」 階段を駆け上って、トイレを発見。 空いていた身障者用トイレに飛びこみました。 「ビー、ビー、ザーツ」 フェアウェイから藪に打ち込んだような気分。 明らかにOBならぬBBです。 その証拠に、お尻がビビー言っています。 ○下痢  糞便内の水分量が多くなり、  糞便が本来の固形状の形を失って、水様〜粥状となった状態。  腸の中の悪いものを早く排泄してしまおうとする人体の防御反応。  日に、数回〜10数回の下痢が続くと、  体内の水分不足を起こし、体力を消耗する。  絶食しての安静が第一。 オトーサン、 少しお腹が落ち着いたので、 買い物中の女性陣に加わりました。 奥方は、瓶入りのジャムを買っています。 「これからコンサートに行くのに買い物かい?」 「でも、このくらい、いいわよ」 「パパ、このジャム、SARABETHのよ」 「サラベス?」 「ほら、さっき食べ損なったレストランよ」 「何でも、もとはジャム屋さんだったんだって」 「へぇ....オレ、下痢になった」 次女、 「汚くしてるから、ウィルスでも入ったのよ」 長女、 「コンサート、行ける?」 「ああ」 奥方、 「だいじょうぶ?」 「ああ」 オトーサン、 もう一度、フェアウェイの個室へ。 「こんなに水分が体外に出ていのかなぁ?」 下痢の原因についても、考え続けました。

「ウイルスや細菌に感染したのかなぁ?」 「食あたりかなぁ?」 「疲れたのかなぁ?」 「ストレスかなぁ?」 「それとも、朝方、豆乳をごくごく飲んだのがよくなかったのかな?」 医者でもないのに、いくら考えても栓のないこと。 くよくよ考えるほど、ストレスが嵩じて、また症状を悪化させます。 「元旦早々、BBか」


26 ニューイヤーコンサート、その1

オトーサンたち、 リンカ−ンセンターのAvery Fisher Hallへ。 「おいおい、どこまで上るんだ?」 安いチケットだったようです。 長女の後について、どんどん階段を上っていきます。 「天井桟敷か?」 「まあ、そんなところね」 たまのコンサートですから、張りこんでいいハズ。 でも、何度も居眠りをした前科があるので、 長女は、高い席はムダと判断したのでしょう。 後で、判明しましたが、40ドルの席でした。 ○料金表  First Tier $95  Prime Orchestra $95-$85  Orchestra $75  Second Tier Seats $65  Second Tier Boxes $55  Third Tier Seats $45  Third Tier Boxes $40 3階から見下ろすと、こんな感じ。 撮影禁止を承知で撮ったので、ブレています。 オペラグラスでもないと、顔の表情は分かりません。

オトーサン、 「ま、いいか」 長女が苦労して入手してくれたのですから、 文句を言ったら罰があたります。 入り口でもらったプログラムを眺めました。 「”Salute to Vienna”、何じゃこれ?」 「ウィーンに挨拶という意味よ」 「ふーん」 「これみて!」 「"World's Greatest New Year's Concert!"か。  ふーん、何というオーケストラだ?」 「そこに大きく書いてあるでしょう」 「”The Strauss Syamphony of America"、知らんなぁ。  ウィーン・フィルじゃないのか」 ○ニューイヤーコンサート  毎年1月1日に、ウィーン楽友協会の大ホールで行なわれる  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のマチネのコンサート。  おもにヨハン・シュトラウス一家のワルツやポルカなどを演奏する。  毎年変わる指揮者は、楽団員全員による投票によって決定されている。  新年の初めであり、会場の観客は正装をしているが、  新年を祝う気軽で陽気なコンサートである。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 長女、 「悪かったわね」 「すまんすまん」 考えてみれば、 ウィーン・フィルが元旦にNYに来るハズはないのです。 オトーサン、 音痴ですから、 N響だろうが、ボストン交響楽団だろうが、 区別がつきません。 網走番外地管弦楽団や小菅刑務所フィルであっても、 (そんなものあるか、バカ)同じようなものでしょう。 「指揮者は?」 「それも書いてあるでしょう」 「ふーん、知らんなぁ」 あるいは、有名なのかも。 ・Karl Sollak, conductor ・Aga Mikolaj, soprano ・Zoltan Nyari, tenor  With Dancers from: The Vienna Opera Ballet 読者の音楽通の方のために、 指揮者と歌手2人の経歴紹介を載せておきましょう。 ○Karl Sollak, conductor (Vienna)  Viennese conductor Karl Sollak was educated  at Vienna’s famous Wiener Musikhochschule  and has been Associate Conductor of the Vienna State Opera,  in addition to assisting some of the world’s pre-eminent conductors.  His collaborative relationship with Placido Domingo  has extended to more than a dozen successful concerts,  including the Millennium Concert in Tokyo,  and the final concert in Domingo’s World Opera contest Operalia in Hamburg.  His extensive operative conducting experience  has seen him work with numerous European and American Opera companies  in cities including Prague, Munich, Tenerif, Helsinki, and Washington. ○Aga Mikolaj, soprano (Munich)  Born in Kutno, Poland, soprano Aga Mikolaj studied  at the Academy of Music in Poznan  with Professor Antonina Kawecka from 1990 to 1996.

While attending the Academy,  she was recognized and received special awards  in singing competitions in Holland and Spain (Affredo Kraus Competition).  Since graduating, Ms. Mikolaj has appeared throughout Europe  in various operas and operettas,  and is known today as one of the best young European lyric sopranos  and leading Mozart voices.  Since 2002 Ms. Mikolaj has been a leading soprano  with the Munich National Theatre (Bavarian State Opera)  and has also appeared at the Opera Bastille in Paris  and with the Vienna State Opera, among others. ○Zoltan Nyari, tenor (Budapest)  Zrinko Soco received his diploma at the Zagreb University of Music.  He made his opera debut at the Croatian National Opera  as Tamino in Mozart’s THE MAGIC FLUTE  and at the National Opera in Stuttgart, Germany  as Idamantes in Harry Kupfer’s production of IDOMINEO.

 Since then, other engagements have included appearances  in Vienna at the Volksoper,  as well as other opera houses in Nantes, Orleans, Paris-Creteil, Hanover,  Tokyo, Vienna, Dubrovnik and Bregenz.  His wide ranging repertoire includes such major roles  as Belmote in Mozart’s ABDUCTION FROM THE SERAGLIO,  Saenger in Richard Strauss’s DER ROSENKAVALIER  and Alfredo in Verdi’s LA TRAVIATA. オトーサン、 長い英文を斜め読みして、 「ふーん。指揮者とこのテノール歌手は、東京にも来たんだ」 来たらどうだってもんじゃないんですが、親しみを感じます。 「秋葉原に行ったかなぁ?」 「吉野家の牛ドン、食ったかなぁ」 バカなことを言っている間に、はじまりはじまり。 指揮者が出てきて、軽く頭を下げます。

拍手喝采。 「こつちのひとは、なんで拍手するんだ? 上手いかどうかも分からんじゃないか」 奥方や娘たちのように、 つられて拍手するようなハシタナイ真似はいたしませんでした。 でも、ホントのことを言うと、 消化器官が管弦楽を奏ではじめたので、 それどころじゃなかったのです。


27 ニューイヤーコンサート、その2

オトーサン、 「これ聞き覚えがあるな」 演奏がはじまって、つぶやきました。 パンフレットには、こう書いてあります。 ・Johann Strauss Jr. "Overture to Die Fledermaus" (注:下記サイトで聞けます。    www.geocities.jp/music_yomoyama/koumori.htm) 奥方、 小声で「こうもり序曲よ」 オトーサン、 「こうもり?」 次女、 「しーっ」 オトーサン、 「陽気な音楽だ、癒されるなぁ」 弦楽器のアンサンブルが実にのびやかです。 でも、時々、打楽器が参加するのですが、 これが、弦の優雅さと不調和で、 どういうわけか、ダーンとお尻に響くのです。 (6回鳴らされる鐘の音だったそうです) 「しめた、チャンスだ」 お腹の張りを解除するチャンスではないですか。 打楽器の出番を心待ちしました。 「ダーン」 「プチュ。 ...おかしいなぁ、コウモリは超音波を出すはずなのに」

お尻に何やら湿った液体の感覚。 「しまった!下痢だったっけ」 早くも、コンサートの終焉が待ち遠しくなってまいりました。 オトーサン、 「ふーん、やっと終わったか」 会場の拍手もまばらなような気がします。 もちろん、拍手などいたしませんでした。 その後、テノール歌手。 「声量があるな。まあまあだ。  次は、誰だ?早く終えろ」 長身の若い女性歌手が出てきました。 「アガ・ミコライ(Aga Mikolaj)か。  美人だ。映画女優みたいだ」 さしずめイングリット・バーグマンという感じ。 英文パンフを読み返すと、 ポーランドのリリック・ソプラノで、ミュンヘン国立歌劇場所属とか。 確か、カール・ベームは、一時期、ここの指揮者でした。 若いひとは、ご存知ないでしょうが、 この指揮者、日本で大ブームを巻き起こしたのです。 1975年、ウィーン・フィルを率いての公演の評判のよかったこと。 あまりの評判に、2年後にも再来日したほど。 珍しく、彼のこのときの指揮を記録したCDを買いましたっけ。

でも、肝心の美人歌手、あまり歌唱力がないのです。 低音部はかすれ声だし、 高音部ときたら、やたら不快感を引き起こすのです。 歌い終わると、彼女の歌唱を称えて、 指揮者が軽く腰に手を添えました。 「あいつ、役得だな」

美人を見ることや軽い嫉妬心は、 お尻の湿気を忘れさせる効能があるようです。 奥方、 「あなた、臭うわよ」 次女、 「しーっ」 読者のみなさん、 あまり生臭い話で締めるのも何なので、 ここで、「こうもり」の作曲家を紹介しておきましょう。 ○ヨハン・シュトラウス2世  Johan Straus II(Sohn), 1825/10/25-1899/6/3 オーストリアのウィーンで活躍した作曲家/指揮者/ヴァイオリニスト。 ヨハン・シュトラウス1世の長男。

 当初は父の希望で銀行員になったが、ひそかにヴァイオリンを習い、  1844年には自分の楽団をもち、ウィーンのレストランで演奏していた。  父の楽団とライバル関係にあり、親子の仲は険悪だった。  1849年、父の死によって父の楽団を合併し、欧州各地を演奏旅行。 生涯の多くを、ウィンナワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評される。 また、ワルツのほか、オペレッタ、ポルカも作曲。 毎年、元日に行われる「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」では、 彼の作品が演奏されることが多い。 音楽の都「ウィーン」の代表的な作曲家である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか


28 ニューイヤーコンサート、その3

オトーサン、 「...眠くなってきたなぁ」 劇場は暖かいし、コンサートの雰囲気もほぼ分かりました。 消化管管弦楽団も、目下、落ち着いております。 お尻も下着も乾いてきたので、 自然と張り詰めた気持ちが緩んで、 まぶたが重くなってまいりました。 「やはり、疲れが出てきたんだろう」 元気なつもりでも、67歳の年齢には勝てません。 うとうとしていました。 「あなた」 奥方が、脇の下を突いてきたので、目覚めました。 「オペラグラス、貸して」 次女、 「しーっ」 今度は、唇に指を直角に当てております。 足元に置いたリュックサックのなかの オペラグラスを探り当てて、奥方に手渡しました。 奥方が身を乗り出している視線の方向に目をやると、 「おお!」

「変だな、NYシティ・オペラを見ているのか?」 そんなはずはありません。 入場したのは、エヴリ・フィッシャー・ホール。 ニューヨーク・シティー・オペラのはずはありません。 「あそこでは、確か、カルメンを見たなぁ」 言葉は不自由ですが、筋書きは分かるので楽しめました。 でも、途中、やはり、目が疲れて、ウトウト。 「勿体ないわね」 後で、長女に文句を言われましたっけ。

オトーサン、 「これ、バレエだよな」 パンフレットに目をやって、納得しました。 ・Johann Strauss Jr. Artist's Life Waltzes Op.316 Ballet Walts   ・Karl Sollak, 指揮者 ・Aga Mikolaj, ソプラノ ・Zoltan Nyari, テノール  With Dancers from: The Vienna Opera Ballet 先程、指揮者や歌手をみたとき、 最後の文章を見逃がしていました。 「おお、本場のウィーンからやってきたのか」 ウィーンということで、ちょっと感激しました。 でも、人数が少なく、コミカルな寸劇を踊るだけ。 音楽に飽きたひとの目を覚ます効果を狙っているのでしょう。 あくまでも、主役は管弦楽団の演奏のほうです。 その後、テノールとソプラノのデュエット。 ・Johann Strauss Jr. Watch Duet from Die Fledermaus 「デュエットだと、彼女、頑張るなぁ」 でも、どう贔屓目に聞いても、 テノールのニャーリ・ゾルターンさんのほうが、 アガ・ミコライさんよりも、1枚上手です。 声はよく通るし、情感たっぷり。 彼女を気遣う仕草も堂に入ってもの。 思わず、彼のレコードを買いたくなりました。 先程の英文の紹介を読み直しました。 「35歳か、若いなぁ」 息子くらいの年なのに、大したものです。 ○ニャーリ・ゾルターン 1970年生まれ。  ブダペスト舞台映画芸術大学の演劇科で学び、  1993年優秀な成績で卒業。  同時にヴァイオリンを11年間学ぶ。

 これまでに歌ったテノールの役柄は、  「ミス・サイゴン」のクリス、  「チャールダーシュの女王」のエドヴィン、  「ウエスト・サイド・ストーリー」のトニー、  「ルクセンブルク伯爵」のルネ、  「伯爵家令嬢マリツァ」のタシロなどである。  ウォルト・ディズニー作品のハンガリー語版では、  クワァジモド役にその声が使われた。  1997年ウィーンのベルヴェデーレ歌唱コンクールで優勝している。 オトーサン、 「早いところ、休憩時間にならんかなぁ」 消化管管弦楽団が、どういうはずみか、泡立ちはじめました。 大体、演奏曲目がよくないのです。 ・オッヘンバックの喜歌劇「序曲:天国と地獄」  Jacques Offenbach Oertune to Orpheus in the Underground 注:下記サイトで聞けます。   www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19991005 この曲、ほんとうに悪い曲です。 実に身体によくない影響を及ぼすのです。 尻上りに、テンポが早くなっていくのです。 音楽療法の一環として、下剤として処方してもいいくらい。 でも、すでに下痢症状なのですから、逆音楽療法か。 ♪タンタンタンタン タタタタ タタタ 「これって、フレンチ・カンカンじゃないか。  人の気も知らないで、よくやるよ」 軽快な曲を奏でる指揮者と奏者どもを恨みながら、 漏れないように我慢して、天井を仰いでいました。

オトーサン、 知らず知らず足踏みしていたのでしようか、 たまりかねた次女に怒られました。 「パパ!」


29 ニューイヤーコンサート、その4

オトーサン、 「おお、やっと終わった!」 喜歌劇「序曲:天国と地獄」、陽気な曲ですから、 アメリカ人には受けたようで、これまでで一番盛大な拍手。 トイレに急行しなければならない立場、 拍手につきあっているヒマはないので、 とりあえず、2拍2礼。 (これって、神社で参拝するときでしたっけ) 「おいおい、いくつ階段下りりゃいいんだ」 とほうもなく大きなホールですから、移動も大変です。

オトーサン、 ようやく、2階のトイレに突入。 「あっ、閉まってる!」 間の悪いことって、あるものです。 こういう時に限って、大トイレを使うひとが多いのです。 「おっ、出てきた」 便座には、その白人のお尻の熱が残っております。 「お前、体温、高すぎないか?」 そんなことを思っているヒマはありません。 衣服を手荒くずり下げます。 「おー」 ♪ ドーッ 言葉にならない安堵感がほとばしりでました。 この快感は、人生で味わえる諸々の快感のうちで かなり上位に位置するのではないでしょうか? 下痢の後半は、鼻歌まじり。 ♪タンタンタンタン タタタタ タタタ こうなれば、余裕しゃくしゃく。 消化管に残らないように、後始末せねば。 その時、隣りに誰かが入ってくる気配がしました。

ご覧のように、 アメリカのトイレは、 仕切り板の下に大きな隙間があるのです。 「隣が丸見えじゃないか」 隣にしゃがむ人の咳きばらいが聞こえるのは止むをえないとしても、 赤い靴の動きまで見えるというのは、非常に落ち着きません。 「なんで、お前ら、板を節約するんだ?」 あんなに大きなモミの木を無造作に捨てるのですから、 木材が不足ということではないでしょう。 ブッシュ大統領は、その治世の間に、 仕切り板の板厚を増やし、適切なサイズに改善すべきでは。 こんなことも出来ないようで、 歴史に名を残そうなんて、ムシがよすぎるのでは? そんなことを思いながら、トイレから出ました。 「おお、長蛇の列だ」 お隣りの女性用トイレ、待っている女性たちが気の毒です。 女性のトイレ滞留時間の長さは、世界の7不思議のひとつ。 「鏡を取っ払えばいいんだ」 これって史上初めての提案ではないでしょうか。 化粧と排便を一緒にやろうというのに、そもそもムリがあります。 化粧室と排便室を分けるべきでは。 排便室は、男女共用でいいはず。 そうなれば、仕切り板の節約も、大歓迎です。 オトーサン、 階段をのぼって、席へ戻りました。 「誰もいないや」 女性陣がいません。 白人の老夫婦2組もまだ戻ってきていません。 トイレで手間どっているのでしょうか、 それとも、ロビーで談笑しているのでしょうか、 「ヒマだなぁ」 プログラムの後半に眼を通すことにしました。 ・Emmerich Kalman:"Komm Zigany," from Countess Maritza Tenor ・Josef Straus:Music of the Spheres Walzes, Op.235 ・Johann Strauss Jr.:Csardas:"Klauge der Heimat,"from Die Fledermaus Soprano ・Johann Strauss Jr.:Hunt Polka Ballet Polka ・Frantz Leher:"Lippen Schweigen," from The Merry Widow Duet ・Johann Strauss Jr.:Emperor Walzes, Op.437 「ふーん、分からんなぁ」 ドイツ語が混じっているので、チンプンカンです。 それに、最後の"Emperor Walzes" にしても、 「皇帝円舞曲」と見当はついても、メロディが思い浮かびません。 注:下記サイトで聞けます。   www.geocities.co.jp/MusicHall/ 1213/classic/html/kaiserwalzer.html オトーサン、 下痢から開放されたので、余裕ができました。 後半は、拍手の研究に時間を割くことにいたしました。 オーケストラ席のひとたちが、最も熱心に拍手します。 「アガ・ミコライまで、拍手するのかよ。  何か変だよ。...無料で招待されているのかなぁ」 何曲か通して、ほぼ料金に比例していると判断しました。 3階席のひとは、白けて、拍手もまばら。 「高いカネを支払った連中は、 拍手でモトを取ろうとしているのかなぁ」 こういうのを下衆のかんぐりというのでしょう。 それでも、次第に盛りあがってきました。 「さあ、最後だ、皇帝円舞曲だ」 演奏に入る前に、指揮者が何やら聴衆に話しかけました。 ....wish a peaceful happy New Year ! (平和で幸せな新年を !) オトーサン、 この"peaceful"という言葉が発せられた瞬間に、 場内に緊張感が張りつめたのを感じました。 一瞬の沈黙の後、割れんばかりの拍手が起きたのです。

そうなのです。 ここは、ニューヨークでした。 911の惨劇の後遺症がなまなましい街でした。 そこへ、指揮者の一言。 言葉の力。 「こいつ、いい奴じゃのう。  分かってくれている」 ニューヨ−クっ子にとっては、そんな感じがしたのでしょう。 皇帝円舞曲の演奏が終わると、 幕が一旦下りて、そして上ります。 出てきて頭を下げたニャーリ・ゾルターンに拍手と口笛。 アガ・ミコライにも、盛大な拍手。 指揮者のカール・ソラックには割れんばかりの歓声。 出演者全員が舞台に勢ぞろいすると、 満場、総立ち。 スタンディング・オベイションのはじまりはじまり。

オトーサン、 先程の自分とは思えないほど、感激。 猛烈に拍手し、歓声まで上げてしまいました。 横をみると、女性陣も頬を紅潮させて拍手しております。 「いつまで拍手し続けるんだ?」 そう思うほど、拍手・口笛・歓声が止まないのです。 「そうか、おネダリか」 2度ほど、アンコール曲の演奏があって、幕切れ。 ぞろぞろと退出しはじめました。 腕時計をみると、午後5時。 2時間半のマチネでした。 「おい、よかったぞ」 「そう、よかったわね」 長女は、場慣れしているのか、案外冷静です。 次女は、感激して、 「ねっ、ここで写真撮ろう」 大騒ぎでした。 オトーサン、 この後、感激した奥方に延々とつき合わされました。 まず、広場の噴水を入れて、記念撮影。 このリンカーン・センター、 NYが誇る音楽の殿堂ですから。 中央の噴水広場を囲んで。 4つの壮麗な建物が、ロの字型に並んでいるのです。 エヴリフィッシャー・ホール、メトロポリタン・オペラ、 ニューヨーク・シティー・オペラ、ジュリアード音楽院。 記念撮影の次は、ジュリアード音楽院をバックに数枚。 「すてきねぇ」 最近、バイオリンのお稽古をはじめた彼女、 眼がキラキラしています。 若いときに練習をはじめていれば、 ジュリアードに留学できたかも。 そんな乙女の夢が噴出してきたかのようです。

オトーサン、 「おい、いつまで粘るんだ」 女性陣、メトロポリタン・オペラの売店へ。 ロビーの冷たい石の椅子に座って待っている間に、 先程の感激も冷め、身体のすっかり冷えきりました。 ようやく女子陣が現れました。 長女、 「パパ、これから買い物して、お食事よ、いいでしょ」 「おれ、帰るわ」 捨てぜりふを残して、その場を立ち去ります。 長女が後ろから声をかけてきます。 「パパ、お金もってる?」 「ああ」 「カギもってる?」 「カギ?...ない」 アパートのカギをもらって、彼女らと別れました。 冷えたために、便意のほうも再開です。 ・木枯らしや 尻に火のつく 夜寒かな   柏庵 (下巻へ続く)


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