マッチ1本、ニョーヨーク(下巻)

画像が重たくなったので、上下巻に分けました。

30 笑うニューヨーク 31 ニューヨーク自転車事情、その1
32 ニューヨーク自転車事情、その2 33 ニューヨーク自転車事情、その3
34 グッゲンハイム美術館見学記、その1 35 カンジンスキー、その1
36 カンジンスキー、その2 37 カンジンスキー、その3
38 カンジンスキー、その4 39 カンジンスキー、その5
40 ロシア!展、その1 41 ロシア!展、その2
42 ロシア!展、その3 43 ロシア!展、その3
44 、クラムスコイ、その1 45 、クラムスコイ、その2
46 ヴルーベリ、その1 47 ヴルーベリ、その2
48 ヴルーベリ、その3 49 革命前のロシア絵画
50 革命後のロシア絵画 51 スターリン下のロシア絵画
52 ロドチェンコ、その1 53 ロドチェンコ、その2
54 ロドチェンコ、その3 55 マヤコフスキー、その1
56 マヤコフスキー、その2 57 マヤコフスキー、その3
58 マヤコフスキー、その3 59 マヤコフスキー、その4
60 大盛況だったロシア!展、その1 61 大盛況だったロシア!展、その2
62 イリヤ・カバコフ、その1 63 イリヤ・カバコフ、その2
64 現代ロシア絵画事情 65 夜がきて、サイゴンに想う
66 ライオン・キング、その1 67 ライオン・キング、その2
68 ライオン・キング、その3 69 ライオン・キング、その4
70 ライオン・キング、その5 71 ライオン・キング、その6
72 ペイヤールで朝食を、その1 73 ペイヤールで朝食を、その2
74 メランコリー・ベビー、その1 75 メランコリー・ベビー、その2


30 笑うニューヨーク

オトーサン、 「あー、よく眠ったなぁ」 まずトイレに行き、ベッドに戻ってきて時計をみました。 1月2日の朝7時になっていました。 昨夜は、6時過ぎに帰ってきて、 シャワーを浴び、 洗面所で汚れたパンツをもみ洗いして、 その後、すぐ寝てしまいました。 9時過ぎ、女性陣が帰宅したので、 ちょっと顔を出して、また寝てしまいました。 ほぼ、12時間以上寝ていたことになります。 「喉が渇いたなぁ」 冷蔵庫に豆乳とオレンジ・ジュースがありますが、 戸棚で日本茶のパックを探しあて、 お湯を沸かして、コップに入れ、日本茶をつくりました。 「うめえ」 こんなに喉が渇いたのは、 暖房がよく効いているでせいでしょうか。 それとも、下痢で水分が減少しているせいでしょうか? オトーサン、 次に目覚めたのは、午後2時。 「誰もいないのか?」 トイレへ行きました。 まだ下痢の症状が続いています。 流石に空腹になったので、 昼食にバナナを1本食べました。 あと、冷蔵庫からオレンジ・ジュースを出してきて、 口の中で暖めながら飲みました。 「うめぇ」

次に目が覚めたのは、午後4時。 また、オレンジ・ジュースを飲み、胃腸薬を飲みました。 「パパ、大丈夫?」 「ああ」 時計に目をやると、午後4時半でした。 ソーホーへ買い物に行ったようですが、 やはり、病人が気になって早く帰宅したようです。 オトーサン、 次に目が覚めたのは、午後5時30分、 下痢は峠を越えたようで、onaraのみになりました。 少し元気になって、パソコンにSDカードを挿入し、 画像を取り入れました。 カメラの記憶容量が不足しそうで、心配だったのです。 2つほどファイルをつくって、そこに画像を整理。 午後6時30分、 奥方がつくってくれたおにぎりは食べる気になれず、 お鍋でお湯を沸かし、オニオン・スープの素をいれ、 そこに、おにぎりを入れて、おじやをつくりました。 「うめぇ」 熱い汁が体中に浸み込んでいきます。

午後7時45分、 思い立って、洗面所で歯を磨きました。 午後9時35分、トイレへ。 やはり、下痢は峠を越えたようで、onaraのみ。 午後11時55分、トイレへ。 onaraのみ。 オトーサン、 「いま何時だ?」 1月3日の朝かと思いましたが、まだ午前1時30分でした。 流石に、もう眠るのには飽き飽きしました。 いつもなら、枕元のポータブルDVDプレイヤーで、 映画でも見るところですが、生憎持ってきませんでした。 TVを見てもいいのですが、女性陣の睡眠の妨げになるでしょう。 「本でも読むか」 駿河台下の三省堂本店で買った文庫本をパラパラ。 同じ著者のものが、3冊あるので、どれにしようか迷いました。 目次に目を通します。 ○竹内 玲子「笑うニューヨーク DELUXE」 講談社文庫 2002年   1 ニューヨーカーの胃袋   2 ニューヨークの足   3 ニューヨーカーのお買い物   4 ニューヨーク観光名所のウソホント   5 ニューヨーカーのお楽しみ〜エンターテインメント   6 ニューヨークのマヌケな犯罪

 

○竹内 玲子「笑うニューヨーク DYNAMYTE」 講談社文庫 2003年
  1 ウキウキでめちゃくちゃ短いニューヨークの春
  2 オレはやるぜ、オレはやるぜの夏
  3 AUTUMN IN NEW YORK CITY
  4 路上で遭難ニューヨークの冬

○竹内 玲子「笑うニューヨーク DANGER」 講談社文庫 2004年
  1 病院へ行こう
  2 乗り物に乗ろう
  3 ブラインド・デートに行こう
  4 色んな所に遊びに行こう
  5 ゴハンを食べに行こう
  6 学校へ行こう
  7 あの日のニューヨーク

「食い物の話でも読むか」
昨日からロクなものを食べていないので、
何だか、うまいものに飢えているようです。
「中華街で、北京ダック食べ放題で60$か、
 うーん、行きたいなぁ」
まだ体力も気力も回復していないのか、
10ページも読まないうちに、疲れてしまいました。

オトーサン、 午前4時、トイレへ。 お尻が猛烈に痛むのです。 どうやら、下痢が終わって、今度は便秘のようです。 いきんでも出る様子がないので、またベッドへ。 午前5時30分、起床。 気力が回復してきたのでしょう。 ダラスの章を少し書きました。 ・3 気がつけば、ダラス、その1 「ありゃ!」 どういうわけでしょう。 せっかく書いた文章が消えてしまいました。 「ありゃ、出てきた!」   どうなっているのでしょう、 ”編集”をクリックし、”元に戻す”をクリックしたら、 消えたはずの文章が出てきました。 オトーサン、 「しめしめ」 幸い、下痢も快方に向かって、 身体のほうも、”元に戻す”状態になってきたようです。


31 ニューヨーク、自転車事情、その1

オトーサン、 「誰か起きたようだな」 そんな物音を聞きながら、うとうと。 次に目が覚めたのは、午前7時。 女性陣の話し声が聞こえます。 「何を着ていったらいいかしら?」 「そうねぇ」 そういえば、 今日1月3日は、ウッドベリー・コモンへ行く日。 ここは、NY郊外の有名な巨大アウトレット。 懲りているので、不参加は通告済み。 荷物当番をさせられて、延々と待つだけ。 でも、次女は、はじめてなので、楽しみにしております。 オトーサンたち、 朝7時から、慌しい朝食。 NYだから、”Breakfast”と言うべきかも。 もともと”Fast(断食)をBreak(破る)"が語源ですから、 ここ数日、ほぼ断食状態の身には、この言葉ぴったりかも。 トーストを1枚だけ食べました。 ピーナツバターを塗ってよいものかどうか迷いましたが、 ほんのちょっとだけつけました。 こちらのバターは、日本のものより美味く感じます。 どうしてでしょうね。 「何時頃帰ってくる?」 「そうね、4時半のバスに乗るから、早くて6時頃かしら」 「ふーん」 オトーサン、 女性陣が嵐のように出かけた後、 しばらく、「笑うニューヨーク」を読んだりしましたが、 一日中家に閉じこもるのには、飽きてきました。 「...どこかへ行くか」 窓から中庭を覗くと、生憎の雨。 身体もまだ本調子でないので、 出かけるにしても、 娘のアパートの近辺にしておいたようがよさそうです。 「自転車屋でも、見学するか」 長女がプリントアウトしてくれた自転車屋のリストを眺めます。 「どこが近いかなぁ?」 マンハッタンだけでも、20軒以上ありそうです。 なお、こちらでは、バイクは、自転車を意味します。 オートバイは、モーターバイクというのです。 NYC Bike Shops ・Metro Bicycles  231 W 96th St,  1311 Lexington Ave,  360 W 47th St,  546 Ave of the Americas,  332 E 14th St,  417 Canal St, ・A Bicycle Shop, 349 W 14th St, ・Bikes By George, 413 E 12th St, ・Bicycle Habitat, 224 Lafayette St, ・Bicycles Plus, 1400 3rd Ave, ・Bicycles Plus, 1690 2nd Ave, ・Bicycle Renaissance, 430 Columbus Ave, ・CNC Bicycle Works Ltd, 1101 1st Ave, ・Conrad's Bike Shop, 25 Tudor City Pl, ・Eddie's Bicycle Shop, 490 Amsterdam Ave, ・Frank's Bike shop, 553 Grand St, ・Gotham Bikes, 112 W Broadway, ・Manhattan Bikes, 791 9th Ave, ・Newgen bicycles, 832 9th Ave, ・Spillway bicycles and accessories, 163 Malcolm X Blvd, ・Toga Bikeshop, 110 West End Ave, ・Tread Bikeshop, 225 Dyckman St, オトーサン、 先日ブロードウェイで見かけたMaster Bikeが、 リストに載っていないところをみると、 大手のバイク・ショップだけを掲載しているのかも。 「あそこは、ちっぽけな店だったなぁ」 おまけに正月休みで閉まっていました。

「うーん、どこに行くかな?」 お店が6つも載っている”Metro Bicycles”が大手のようです。 「ちょっと遠そうだな、  Bicycles Plusに行ってみるか」 長女が、 「3rd Aveの79th-80thにあるから、バスを降りてすぐよ」 そう言っていましたっけ。 地図をみて確認します。 バスのルートは、マンハッタンの79stに沿って走っております。 セントラルパークより手前の停留所で降りればいいはず。 元気だったら、歩いていける距離です。

オトーサン、 「雨か」 折りたたみ傘の調子が悪く、なかなか開きません。 バス停まで歩いていく間に足元が濡れてしまいました。 「傘は、日本のほうがいいなぁ」 自動車、家電製品、そして傘も日本のほうが 精巧かつ品質が優れています。 しばらくして、例の2両連結のバスがやってきました。 ステップを上がって、 長女から借りたMetroCardを機械に挿入しようとしました。 この動作は、日本でも慣れていますし、 NYでも何度もやったことがあります。 ところが...黒人の運転手が、何か警告してきます。 「?」 言葉が聞きとれないので、あせります。 このMetroCard、バスには使えないのかなぁ? このMetroCard、期限切れなのか? 運転手、 しまいに、手振りであっちへ行けと指示します。 「あっちか」 福は内、鬼は外。 あっちが、バスの内部のようなので、一安心。 運転手のそばの座席に座りました。 追って沙汰があるまで、待つつもり。 「えい、こうなりゃ、いくらでも待ってやろうじゃないの」 腹を決めて、車窓の外を眺めたりしていました。 そのとき、そばに座っていたジュディ・リンチ似の老女が、 "Free" と囁きました。

オトーサン、 75歳の老人でもあるまいし、 無料のはずはありません。 老女、重ねて囁きます。 "Free, today" そんなことがあるのでしょうか? ここは、資本主義の総本山。 カネ、カネ、カネ、マネーマネーマネーのお国。 思わず、母国語でつぶやいてしまいました。 「...今日はタダ?」 "Ye-s" そのご婦人、にっこりします。 「なんだ、日本語がしゃべれるんだ」 国際都市NYでは、時々、こんなことがあります。 それにしても、バスが無料とは。 後で、長女に聞いたら、驚いていました。 「やっぱり、スト後のご機嫌取りなのかしら?」 どうも、この日限りだったようです。 オトーサン、 「おお、あった!」 バスを降りてすぐ、お目当ての自転車屋さんを発見しました。 ビルの地下にあるようです。 「地下か、ダイジョウブだろうな」 NYが舞台の映画だと、 地下は、マフィアの巣窟と決まっております。


32 ニューヨーク、自転車事情、その2

オトーサン、 「なかなかいいお店じゃん」 ハーイと若い男が出迎えてくれました。 高級自転車が数多く並び、部品もそろっています。 奥の一室には、修理工房で、ここは禿げ頭の工員風のおやじ。 見たところ、従業員は、この2人のようですが、 これだけのレベルの自転車屋さんは、日本でもそうありません。 まず、長女にプレゼントしようと思っていた 折りたたみ自転車を探しましたが、あるのは、DAHONの中級品。 持ち上げてみましたが、明らかに10kg以上あります。 最新モデルの”MU SL”なら、 20インチ、8段変速、9.2kgで世界最軽量。 折りたたみサイズも、34 x 64 x 80cmと手ごろです。 これだったら、娘に買ってやろうと思っていましたが、残念!

オトーサン、 店内を見て回ります。 「ふーん、半分は、やはり、マウンテンバイクだな」 MTBを発明したのは、アメリカ人だからでしょう。 MTB  1970年代後半、ヒッピーたちが、  サンフランシスコ郊外の山の斜面を  自転車で駆け下りてタイムを競ったのが始まり。  ビーチクルーザーをオートバイ部品で改造したものが使われていたが、  1974年、ゲーリー・フィッシャーがMTBの原型となる自転車を製作した。  悪路安定性のあるフラットハンドル、  軽量かつ衝撃に強い頑丈なフレーム、  泥づまりしにくく、制動力のあるブレーキを装着している。 オトーサン、 NYの街中にMTBが溢れているのを見ました。 でも、ここは平地、MTBのメリットなどないと思いますが、 これも、一種のファンッションなのでしょう。 「おお、これ、格好いいなぁ」

Photo:Cannondale Prophet 4000z オトーサン、 「おお、こいつは、MTBなのに折りたためるんだ」 MTBを購入したいと思っていませんでしたが、 折りたためるとなると、話は別。 クルマに積んで八ケ岳に行って、乗り回したら愉快でしょう。 思わず、衝動買いしたくなりましたが、 辛うじて踏みとどまりました。 持って帰れるわけないじゃないですか。

オトーサン、 「おお、ロードレーサーも揃ってるなぁ」 SPECIALIZED、TREK、KLEIN、LEMOND、CANNONDALEといった アメリカ生まれのブランドだけでなく、 CORNAGO、BIANCIなど欧州のマニヤックなブランドも 置いてあるではありませんか。 「これも、ほしいなぁ」 どうも、衝動買いのクセが抜けません。 見ただけで帰るのも何なので、ウエアを見ました。 でも、サイズの不安があるので、取りやめました。 大体において、連中のは袖が長すぎるのです。 ヘルメットも各種あります。 でも、頭のサイズがちがって、ぶかぶか。 あと、防犯用のワイヤーロックなどもありましたが、 空港で金属探知機に引っかかりそうなので、取りやめ。 結局、見学記念に、防寒手袋(54.26$)を買いました。 手袋が2枚入っている優れもの。 温度によって、3通りの使い方が可能です。 オトーサン、 キャッシュで支払ってから、 彼に頼んで、記念写真を撮らせてもらいました。 液晶画面をみせると、 "Fine" ”You look quite like Tom Cruize!" "Oh...thank you" ほんとうは、”Fuck you"だったかも。 ともかく笑顔の絶えないナイスガイでした。 「こんな若者が娘のボーイフレンドだったらいいなぁ」 長女の好きなタイプかどうかは分かりませんが、 次女なら絶対好きになるでしょう。 以前、パリで、この手の青年に出会って、 無理やり並んで記念写真を撮っていましたっけ。

○Larry & Jeff's Bicycles Plus  住所:3rd Ave、79th-80th St.   営業時間:1000-1900 オトーサン、 気分よくお店を出て、 「しまった!  どっちがLarryで、どつちがJeffか、聞き忘れた!」 多分、禿げ頭の陰気なおやじが、Larryで、 陽気な好青年のほうが、Jeffだと思いますが... さらに、歩いていって、 「しまった!  さっきの折たためるMTBのブランドを聞き忘れた」


33 ニューヨーク、自転車事情、その3

オトーサン、 「雨が小止みになってきたな」 調子の悪い傘と付き合わずにすみそうです。 こちらのひとは、この程度の雨だと構わず歩いています。 「グーゲンハイム美術館にでも行ってみか」 79streetをしばらく歩いて、右折し、 マジソン・アヴェニューを89thの方向へ。 「NYの自転車の写真でも撮るか」 街頭の自転車を撮影しました。 ご覧のように、ほとんどがMTBで、 たまに、右の写真のようにロードレーサーを見かけます。 まったく見つけられなかったのは、ママチャリ。 「なんでだろう?」

 
オトーサン、
「へぇ」
注意して見ていなくても、気づくのは、
防犯用のワイヤーの太さ。
まるで、手錠か囚人用の足枷のようです。
1ケだけで重さ1kgは優にあるでしょう。
それも、下図のように、
チェーンとPadlockの2つを使って施錠しているのです。

「こっちは、治安が悪そうだもんなぁ」 竹内 玲子さんの「笑うニューヨーク」にも、 路上に長時間放置したら、まずなくなるものと思えと書いてありました。 友人から借りた自転車をMOMAの前に置いて、 美術鑑賞して出てきたら、もうなかったと書いてありましたっけ。 読者のみなさん、 話は帰国後になりますが、 長女に教えられて、以下のサイトを見ました。 ・www.compfused.com/directlink NYの自転車泥棒のシーンを撮影したもの。 道具は、ワイヤカッター、金のこ、電動工具、ハンマー。 ものの1分もしないうちに、チェーンなどが切断されて、 犯人は、狙った自転車に乗ってすいすい立ち去るのです。 こんな前書きがあります。  This video shows  how ridiculously easy it is to steal a bike in broad daylight  in a public area.  You can pretty much do anything you want to on a public street  because the vast majority of people are too timid to confront you.  (このビデオは、  白昼、公衆の面前で、自転車を盗むのが  いかに呆気ないほど簡単かを示している。  街路で、好きな方法で盗めるのだ。  というのも、みんなが見て見ぬふりをするからだ) オトーサン、 いま自転車を3台持っていますが、 幸い自転車を盗まれた経験がありません。 でも、イタリアの巨匠デ・シーカ監督の 名画「自転車泥棒」には、感激したクチですから、 アントニオにとっても、その息子にとっても、 自転車を盗まれるのが、どんなに悲しいことなのか、 わかっているつもりです。 ○映画「自転車泥棒」  敗戦後のローマ。  アントニオは、ようやく映画ポスター貼りの職を得る。  仕事を得る資格は、自転車を持っていること。  そこで、シーツを質に入れ、自転車を借りる。  6歳の息子を乗せて得意になって町を回る。  だが、あっという間に、その虎の子の自転車が盗まれてしまう。  自転車がなくては職を失うので、警察に行ってみるものの、  やはり相手にされず、止むを得ず自力で探し回る。  ようやく犯人をみつけたが仲間の返り討ちに遭う始末。  思い余って、自転車泥棒を働くものの、警察に突き出される。  夕闇のなか、取り調べを終えた彼は、  肩を落として息子の手を引きながら消えていく.... オトーサン、 帰国後、わが国の自動車泥棒について調べてみました。 「そうか、半数は、カギもかけていないのか。  それに検挙率は、たったの8.1%か」 それも、年々低下しているのです。 20年前の1984年には、それでも、検挙率は52%もあったのですが、 いまや、自転車は「消耗品」。 さらには、アントニオのように、 中高校生の間では 「盗まれたら盗み返す」が当たり前になっているとか。 防犯登録よりも、お守り札のほうがマシ。 こんな状況ですから、 自転車盗については、警官に検挙率を聞くと、 「ゼロではないよ」 そういう答えが返ってきます。 警察は、もはや頼りにならないのです。 ●自転車盗の被害   平成16年の被害認知件数は、3万5828件。   施錠率は、43.2%。検挙率は、8.1%。   平成14年の全国の被害世帯率は、13.2%。   地域別にみると、中国18.9%、近畿15.7%、中部15.0%、   四国12.5%、関東12.3%、北海道11.9%、九州11.7%、東北11.5%  東京都は10.9%と全国で被害率が最も少ない。 オトーサン、 「警官が、何とかしてほしいなぁ」 写真は、NYPDの頼もしい警官です。 でも、こんなこと滅多にないのです。

読者のみなさん、 忌野清志郎さんの自転車みたいに160万円もしなくても、 やはり、自転車を盗まれるのは、気分の悪いもの。 たとえ、9800円のものでも、買って15分後に盗まれたのでは、 半年くらい気分が悪いでしょう。 そんなわけで、盗まれたくなかったら、 やはり、最低2ケ所に施錠すべきでしょう。 以下の順番で、格段に盗まれなくなります。 ・施錠なし>施錠あり>2ケ所施錠>ウルトラC 「そのウルトラCって、何だ?」 驚きの答えは... ・前(後)輪を外して、持ち歩く ・サドルを外して、持ち歩く

さらに、最善の方法は、 ・チップをはずんでも、室内に置かしてもらう さらに、さらに、究極の方法は、 ・自転車を所有しない


34 グッゲンハイム美術館見学記、その1

オトーサン、 「面倒だ、ここで曲がろう」 マジソン・アヴェニューの途中には、 高級食材店”DEAN&DELUCA”がありました。 「へぇ、こんなところにも、店を出したんだ」 SOHOのお店は立派ですが、 ここは、格が落ちるようで、入らずじまい。 東京の品川駅のそばにも、お店を出店したので、 有難味がぐっと減ってしまいました。 渋谷店ときたら、持ち帰り惣菜店。 「伊藤忠なんかと組むなよ」 それでも、やたら有難がるひともいるようで... ○ディーンアンドデルカ 品川店  住所:東京都港区港南2-18-1 品川アトレ  電話:03-6717-0935 営業時間:1000-2230 ○ディーンアンドデルカ 渋谷店  住所:渋谷区渋谷2-24-1 東横のれん街  電話:03-3477-4795 営業時間:1000-2300

「そういえば、グッゲンハイムも、多館化したなぁ」 このNY五番街が本拠だったのに、SOHOに分館ができ、 さらには、 ・ヴェネツィアの「ペギー・グッゲンハイム・コレクション」 ・スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館 ・ラスベガス・グッゲンハイム美術館 ・ベルリン・グッゲンハイム美術館 お盛んなものです。 所有する限られた絵画を、 各地の傘下の美術館にぐるぐる回せば、収益率は向上し、 メデタシ、メデタシというわけ。 「でもなぁ。有り難味が減るよなぁ」 オトーサン、 「あれかな」 何度も来ていますので、かたつむりが目に飛び込んできます。

このあたりには、メトロポリタン美術館をはじめ、 いくつもの錚々たる美術館がありますから、 いつも空いていたものです。 メトなら、1日がかりですが、 こちらは、ちょっとした時間つぶしには もってこいだったのです。 オトーサン、 「混んでそうだなぁ」 入り口にひとが溜まっているなんてはじめて。

傘の雫を払いながら、内部に入りました。 「おいおい、行列かよ」 切符を買うのに、行列というのは、はじめて。

「そうか、企画展で賑わっているんだ」 みんなが見飽きた常設展示は、SOHO分館に回し、 ヒットしそうな企画で、客を呼びこもうという作戦が、 まんまと成功したようです。 実は、オトーサン、 この巧妙なマーケティングに乗せられたクチ。 今朝、長女に教えらたのです。 「エルミタージュが来てるわよ、  元気だったらのぞいてみたら?」 「へぇ、エルミタージュが? それじゃ行ってみるか」 ○グッゲンハイム美術館  Solomon R. Guggenheim Museum)  近現代美術専門の美術館。  アメリカの鉱山王・ソロモン・R・グッゲンハイムのコレクションが元。  1943年にフランク・ロイド・ライトに設計が委嘱された。  ライトの没年である1959年にようやく完成した。  中央部の吹き抜けが、かたつむりの殻のような螺旋状の構造は  美術館として、類を見ない。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「高いなぁ」 ぶつぶつ言いながら、18ドル払いました。 確か、前回は7ドルくらいだったと思います。 この美術館の見方としては、 まずエレベーターで建物の最上部に上がり、 螺旋状の通路の壁面に掛けられた作品を見ながら、 下へ降りてくればいいのです。 「今日は、エレベータも混んでるなぁ」 運動がてら、螺旋状の通路を登っていくことにしました。 「落ち着かんなぁ」 床が傾斜しているために落ち着かないのが、この美術館の欠点です。 でも、この建物を設計した建築家は、さぞ気分よかったでしょう。 ライトさん、実に気持ちよさそうに、 この美術館の屋上の右手に立っています。 ○フランク・ロイド・ライト   Frank Lloyd Wright (1867/6/8 -1959/4/9) アメリカの近代建築家。 ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと並び、   3大巨匠とも称される。

  プレイリースタイル(草原様式)の住宅建築を得意とする。   モダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴。   施主の妻と不倫・駆け落ちをしたり、その妻が使用人に殺害されるなど   スキャンダルを起こし、仕事がなくなった時期に引き受けたのが   日本の帝国ホテル・ライト館(1923)の仕事だった。   しかし、改築のために1967年に取り壊され、   玄関部分が博物館明治村に再現されている。   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


35 見学記、カンジンスキー、その1

オトーサン、 「この坂、かなりきついなぁ」 最初は、どうっていうことはなかったのです。 でも、段々、きつくなってきました。 自転車で坂を上るときと、同じ。 「どのくらいの勾配があるのかなぁ?  15度くらあるかな?  いや、そんなにはないだろう」 2階でちょっと立ちどまりました。 ちょうど係員がいたので、質問しました。 "May I take the photograph of the picture at this museum? (この美術館の絵画の写真を撮ってもいいか?) 間髪を入れず、答えが返ってきました。 "No!" 「そうですか、残念だな」 てなわけで、グッゲンハイム美術館で見てきた絵画を 読者のみなさんに、お見せできないのは、残念です。 オトーサン、 3階まで上ると、さすがに息が切れてきました。 やはり病みあがりのせいでしょう。 「あっちへ行くか」 グッゲンハイム美術館は、螺旋状の展示ホールになっていますが、 各階に、それそれに奥まった展示室があるのです。 「ここは、勾配、ゼロだな」 やはり、平らだと落ち着きます。 「カンジンスキーの部屋だ」 今回は、"Russia!"という企画展のはずなのに、 常設展示が、ここだけ残っているのでしょうか?

 
・Improvisation 28 (2nd version), 1912  
・Black Lines, 1913  
・Landscape with Red Spots, No. 2, 1913  

 
・Composition 8, 1923  
・In the Black Square, 1923  
・Several Circles, 1926  

オトーサン、
「何じゃ、これ?」
何が描いてあるか分からないというのは、不安なものです。

・聖母マリアやキリストや天使といった宗教画
・国王、貴族、豪商、貴婦人、若い娘、老人、子ども、
 それに自画像...といった人物画
・花や果物といった静物画
・山岳や森林、河川・湖沼・海、平野や畑、農家や街角といった風景画

そのどれにも当てはまりません。
そう、カンジンスキーの絵は、具象画ではなく抽象画なのです。

読者のみなさん、
「オレは、抽象画はキライだ」
「あたし、印象派の絵のほうがいいわ」
実は、オトーサンも、そのクチでした。
でも、あるひとに言われてから、
抽象画も、結構いいじゃんと思うようになったのです。
「無心になって、この絵の中に入ってごらん」

・Sky Blue 1940 オトーサン、 「どの方向に見ていけばいいんですか?」 「上からでも、左からでも、真中からでも、お好きなように」 「でも、そう言われても...」 「一番気になった形から見はじめたら?」 「分かった。じゃ、これがいいや」 「絵のなかで、入浴でもしているように、くつろぐといいですよ」 「そうか、あわてちゃいけないんだ」 「そうですよ、仕事じゃないんですから」

オトーサン、 じっと見ていて、 「そうだ!これって、星座でしょう」 「....」

「これ、手でしょう、どうみても手ですよ」 「....」 どうも、具象画をみるクセがぬけないようです。


36 見学記、カンジンスキー、その2

オトーサン、 「カンジンスキーは、抽象画ばかり描いていたんですか?」 「いや、初期の頃は、風景画を描いていましたよ」 「へぇ、どれどれ?」 彼は、建築家で、バウハウスの影響を受けたとか。 絵が好きで、下手な日曜画家よりも上手です。 カンジンスキーの画集を開いてくれました。 「これなら分かるよ。 山でしょう、次は冬景色、 最後も山、アルプスかなぁ。 「Apfelbaumは、りんごですよ」 「そういえば、りんごがたくさんあるなぁ」

 
・Blue Mountain 1908-1909
・Winter Landscape 1909 
・Apfelbaum, 1911

○カンジンスキー、その1(風景画の時代)
  Wassily Kandinsky 1866/12/16-1944/12/13
   抽象芸術創設者の1人。

モスクワの商人の家に生また。 1871年、家族とともにオデッサに引越し、ここの学校で絵を学んだ。 1855年、モスクワ大学法科入学、優等で卒業したが、 画家になるという夢を捨てきれず、 1897年、29歳のとき、ミュンヘンのアジュべ芸術学校に留学、 1900年には、故国に戻り、ペテルブルグ芸術アカデミーに入学した。 この頃は、オランダ、スイス、イタリア、フランス諸国を巡り、   風景画を描いていた。 オトーサン、 「その彼がどうして、抽象画へ行ってしまったの?」 頭の中には、抽象画=悪の帝国という抜きがたいイメージがあります。 「そうですね。数字に例えると、分かりやすいかも」 「オレ、数学弱いんだけど」 「数字を思い浮かべてください。  例えば、5、4、3、2、1 というように次第に減っていくと、  次は、どうなりますか?」 「0(ゼロ)ですか?」 「そう。具象画の具象の度合いをどんどん減らしていくと、  ゼロになりますよね」 「ゼロか、具象画でも抽象画でもない絵画、  そんなものあるんですか?」 「ここの箇所を読んでみて、  それから、その下の絵画をみて」 ○カンジンスキー、その2(抽象絵画へ) 1911年、カンジンスキーは抽象派絵画理論の基礎になった "On the Spiritual in Art"を書いた。    「高いモラルの持ち主は、絵画を通じ、とくに抽象という言語を通じて、    コミュニケーションする」    「どのような絵画にも、空虚がなければならない。 すなわち、何かに囚われてはないない」

・Improvisation No.7 1910 「どう?」 「どうって言われても...風景のような気もするし、 絵の具を塗りたくったような気もするし...」 「そう、それで正解。ゼロは分かりにくいんですよ。  そう簡単に分かるものじゃないんだから」 ○ゼロの発見  「ゼロ」は、インドで発見された。   天空の星を「。」で示したことにはじまる。   サンスクリット語の"shunya"(シューニャ)は、 「……を欠いていること」「膨れ上がった」「空虚な」「中空」という意味。   8世紀頃アラビアに伝わって”sifr”(スィフル「空)」と翻訳され、   13世紀のはじめ、ラテン語の”zephirum”となり、最後に”zero”となった。   英語の"cipher"もゼロだが、これには、「暗号」という意味もある。   人々は、「ゼロ」に対して、いまでも、神秘や秘密を感じとっている。 オトーサン、 「分からなきゃ困るでしょう」 「じゃ、ここの部分を読んでみて」  ...自然が芸術家の努力をあざ笑っているように思われる時があった。 だが、自然はもしばしば、わたしの前に抽象的な意味で  「神のごとく」姿を見せるのだった... 「そうか、山か畑を見ているうちに、  カンジンスキーは、神の姿を感じとったんだ」 「そう、それを色彩でキャンバスにぶつけた」 「...そうか」 オトーサン、 何となく分かりかけてきました。 「そうか、感覚が鋭敏になれば、  至るところに神をみることができるんだ」 さしずめ、ホリエモンもムショの小さな窓から、 昼は太陽、夜は星空をみて、 Small Pleasures(小さな喜び)を感じているのかもしれません。

 
・Improvisation 12 (Rider), 1910 
・Painting with White Border, 1913  
・Small Pleasures, 1913  

オトーサン、
今日のノルマを書き終えて、株価チェック。
「おお、神、われを見捨てず」
日産株が値上がりして、1340円になりました。
1350円になれば、売り払うつもりです。
この株価なら、手数料を差し引いて、5万円の利益。
1昨年の10月12日に、1207円で買ったのですが、
ずっと下り続けて、一時は1030円に。
心は闇のままで、この1年半を過ごしてまいりました。
今日の心境は、下の絵のような明るい感じです。
心臓がドキドキしております。

オトーサン、
「でも、この題名、不気味だなぁ」
この絵が描かれた1913年といえば、
第1次世界大戦がはじまる1年前。
カンジンスキーは、それを予感していたのかも。
私事でいえば、気になるのは、週明けの相場。
円高に振れだしたので、暴落かも...
心臓発作を思わせる不気味な題名です。

・Black Strokes I. 1913


37 見学記、カンジンスキー、その3

オトーサン、 「でも、まだ分からんなぁ」 「さっきの数字の話の続きをしましょうか?」 「難しい数学じゃないでしょうね?」 「だいじょうぶ」 ○数学上のゼロの発見  数学においては、このゼロという概念によって、  十進法が可能となり、負数(マイナス)の概念も確立し、  それがアラビアを通じて近代のヨーロッパに伝えられ、  近代数学が誕生し、現代科学や技術が発達した。 「で、話をもとに戻すけど、0からさらに減らしていくと、  どうなります?」 「マイナスでしょ、マイナス」 「数字で言うと、-1、-2、-3、-4、-5というようになっていきますよね」 「そうね。そのくらいなら分かる」 「で、同じマイナスでも、例えば、3桁になると、  どうなります?」 「-100...、-109、-110というように続きますね」 「そうですね。じゃ7桁だと?」 「急に7桁まで飛ぶの?」 「ええ」 「-1,000,000ですよね」 「じゃ、8桁は?」 「-10,000,000です」 「そう、カンジンスキーは、  マイナス6桁から7桁の激動期を生き延びたひとなのです。  マイナスは、死者数ですよ」 「えっ?」 ○戦争による死者数  ・15,000,000:第一次世界大戦 (1914-1918)  ・ 5,000,000: ロシア革命 (1917 - 1921)  (参考)  ・50,000,000:第二次世界大戦 (1937-1945),  ・ 2,500,000:3,500,000 - 朝鮮戦争 (1950-1953)  ・ 1,750,000:ベトナム戦争 (1945-1975)  ・ 1,500,000:アフガニスタン戦争 (1979-2001)  ・ 1,000,000:イラン・イラク戦争 (1980-1988) オトーサン、 「そうか、マイナスの時代が抽象画を生んだのか」 「その通りです」 「画家たちが、具象画で時代を描こうとしても、  マイナスに向かう時代のスピードが早すぎて、追いつけなかった」 「そうか、そういう気持ちも分からないでもないな」 ○カンジンスキー、その3(ロシア革命) 第1次世界大戦の勃発で、ドイツはロシアに攻め込む。   ドイツにいたロシア人、カンジンスキーは、驚愕する。   敵国人になったのだ。 直ちにスイスに飛び、3ケ月後にロシアに戻る。   祖国の息吹を嗅ぎ、 大地に足を踏みしめる。   モスクワに落ち着き、1917年2月、   ニーナ・アンドレイフスカヤ(27歳)と再婚する。   11月16日にはじまったロシア革命を自宅の窓から目撃する。

革命のエネルギーに満ちた未来の国、ロシア! それに共感したカンジンスキーは、 新政権の文化政策の立案と推進に積極的に携わった。  人民教育委員会(注:文部科学省)のメンバーになり、 モスクワ絵画文化美術館の初代館長に就任した。  1920年には、モスクワ大学の教授に就任、  InKhuK(Institute for Artistic Culture)の創設にかかわり、  教授に就任して、 絵画と音楽の相互関係や  形と色彩の基礎的分析を扱うカリキュラムュをつくった。 また、精力的に絵画制作を行い、作風を発展させていった。 美術通の友人、 「これが、当時の絵画ですよ」 「へぇ」 「桁数が増えている気がするでしょう?」 「そうねぇ...」 「科学技術もケタ違いに発展し、 大量殺戮兵器が大量生産され  軍需産業が異常増殖した現実を描くのは、  画家にとっては、過酷な仕事になってきたのです」 「オレだったら、潔くあきらめるけどなぁ」

 
・Moscow I, 1916
・In Grey, 1919

 
・Red Oval,1920
・White Stroke, 1920
・Red Spot II. 1921

オトーサン、
じっと見入ってから、
「非常に複雑で、技巧をこらしている。
 たいしたもの。 
 でも、それは分かるけれど、
  冷たいし、ごちゃごちゃしている。
 何か、頭でつくりあげたような感じがする」
「いいこと言いますね。
 美術評論家たちも、”クールで理性的”とか、
 ”驚くべき異質さ”と評しています」
「それにしても、赤旗のひとつも描いていないでしょ。
 共産党がよくこんな絵を許したね」
「いいこと言いますね、その通りです」
「その通り?」
「ええ、前衛芸術批判が激しくなって、
 芸術の存在そのものまで否定する状況になってきたのです」
「大変じゃん、下手したら殺されちゃうね」


38 見学記、カンジンスキー、その4

オトーサン、 「で、彼、うまく逃げられたの?」 「強運の持ち主だったのでしょうね。  1921年、ドイツから招待されたんですよ」 「だって、ドイツとは戦争していなかったっけ?」 「もう終わってますよ」 「ドイツからモスクワへ逃げ出し、 今度はモスクワからドイツへ、大変だねぇ」 「そうなんですよ」 ○カンジンスキー、その4(バウハウス運動の聖地へ) 1921年、モウクワ芸術大学の代表として、ドイツに派遣されるが、  そのままドイツにとどまり、2度とモスクワにはもどらなかった。  1922年6月、彼はバウハウスの教授に就任した。 当時のバウハウスは、芸術の理想郷であり、黄金時代だった。  彼は、同僚のパウル・クレーらと親交を結び、  モスクワ時代に築いた教授法を深め、  理論探求、実験、そして他の芸術分野との統合を目指した。  彼の展覧会は、毎年、ヨーロッパトアメリカで開催され、  画家として、理論的指導者として、世界的に有名になっていった。  1928年には、ドイツに帰化している。 美術通の友人、 「これが、彼の代表作ですよ、どうですか?  色彩と形の多様性があるし、  厳密な幾何学模様になっているでしょう」 「そうね。前向きのエネルギーを感じますね。  サイズは、どのくらいなの?」 「55 1/8 x 79 1/8 inchesとありますね。 1インチは、2.54cmだから、縦2m、横1.7mくらいですね」 「畳2枚分か」

・Composition VIII. 1923. 美術通の友人 「ところで、カンディンスキーが音楽好きだったのを  ご存知ですか?」 「知らない、初耳だ」 「どうですか?この2つの作品」 「あまり、音楽を感じないなぁ」 ○カンジンスキー、その5(音楽の視覚化)  子供の頃、彼はピアノやチェロを習っていて、  とくに、バウハウス時代には、  シェーンベルクなど作曲家たちとの交流も多かった。  音楽を視覚化した作品群があり、彼の語録が残っている。 「作曲家は、聴き手の手をとって、   作品の中に突入させ、一歩一歩導きながら、終わる時に手を離す。  誘導法は完璧である。  だが、絵画の場合はそれが不完全だ。  しかし!画家もこの誘導法を応用できるはずだ」

 
・Picture II, Gnomus, 1928 
 Stage set for Mussorgsky's Pictures 
  at an Exhibition in Friedrich Theater, Dessau.  
・Picture XVI, 1928 
 The Great Gate of Kiev. Stage set for Mussorgsky's Pictures 
  at an Exhibition in Friedrich Theater, Dessau. 

音楽通の友人、
「じゃ、これはいかが?」
「うん、まさに、楽譜だね。
 おたまじゃくしの代わりに、様々なフォルムがあって、
 楽しいですね」
「そうでしょ、そうでしょ。私の大好きな作品です」

・Succession 1935 オトーサン、 「こういう絵なら、毎日描いていて、楽しいだろうなぁ」 「そうですよね。でも、ドイツも安住の地ではなくなってきたのです」 「えっ?」 「ナチスが台頭してきて ユダヤ人だけでなく、芸術家、科学者を弾圧しはじめたのです」 「せっかく、ドイツ国籍を取得したのに?」 「ヒットラーは、1933年1月に首相になり、34年8月には、  全権を握って、総統になるのです」 「そうか、ヒットラーが出てきちゃ、どうしようもないよね」 「だから、この2つの絵を比べてみて下さい。  左は、1932年、右は1933年のものです」 「Gloomy Situation、陰鬱な状況、お先真っ暗か」 「そうですねー」

 
・Decisive Pink. 1932 
・Gloomy Situation. 1933 

美術通の友人、
「バウハウスは、谷間のユリと言われているんです」
「谷間のユリ?」
「ええ、第1次世界大戦と第2次世界大戦の谷間に咲いたユリ」
「わずかな桃源郷の時代だったんだなぁ」
「でも、バウハウスは現代に息づいているんですよ」
「どこに?」
「ホイットニー美術館館長のR.グッドリッチさんが、
 バウハウスを、こう称えています。
 ”近代アメリカのダイナミズム、
 すなわち、そびえたつ新建築、工場の機能的な形態、
 大鉄橋の曲線、夜のブロードウェイのネオンの点滅”...」
「そうか、そうなんだ。
 ぼくらは、バウハウスのなかで暮らしているんだ」
「みなさん、ご存知ないですよね。
 六本木ヒルズも、表参道ヒルズも、
 バウハウスの子どもたちだということを」

・表参道ヒルズ ○バウハウス(Bauhaus)  1919年、ドイツのワイマールに設立された。  初代校長のウォルター・グロピウス(Walter Gropius)は、  建築を中心に、美術・工芸・写真・デザインの総合を目指した。  合理主義的・機能主義的な芸術へのアプローチを生み出した。  右翼から共産党と繋がっていると中傷され、  1925年、デッサウに移転した。

・グロピウス設計のDessau校  1928年、グロピウスが校長を退いた後、  ハンネス・マイヤーやミース・ファン・デル・ローエが校長に就任、  1932年、ベルリンに移転したが、 翌33年ナチスの突撃隊が乱入して、閉鎖された。  バウハウスの芸術・思想・教育方法等に与えた影響は、計り知れない。  ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群は、  1996年に世界遺産に登録されている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


39 見学記、カンジンスキー、その5

オトーサン、 「で、カンジンスキー、ナチスに捕まらずに済んだの?」 「ええ、スイス経由で、パリに逃げたのです」 ○カンジンスキーその6(パリへ) 1933年、危険を察知したカンジンスキーは、 パリへ逃れ、郊外のNeuilly-sur-Seineに落ち着いた。 芸術の都パリでは、さぞかし絵が売れるものと期待したが、 彼の作品は、不評で、パリの人々には理解されなかった。 しかし、ホアン・ミロ、モンドリアン、レジェらとの交友を通じて、 新なた境地を開拓していった。 1936年には、ロンドンの"Abstract and Concrete"展。 同年、NYの"Cubism and Abstract Art" 展に参加した。 1937年には、ナチ支配下のミュンヘンで行なわれた "Degenerative Art" 展にも出品した。 だが、彼の作品は、当局に睨まれ、 ドイツの美術館にあった作品は押収され、多くが破壊された。 オトーサン、 「じゃ、この時期の作品は残っていないの?」 「そんなことはありません。 この時期には、”Composition”シリーズが完結しています」 「ふーん、まるで機械みたいじゃん」 「どちらがいいですか?」 「そうね、右のようが、好きだなぁ」 「形が厳しいでしょ」 「そうですね、色のコントラストも見事だし。  これは、彼の代表作ですよ」

 
・Composition LX. 1936
・Composition X. 1939

美術通の友人、
「この絵は、どうですか?」
「これ、パリのポンピドーセンターで見ましたよ。
 ウチのカミさんが気持ち悪いといっていました」
 
・Coloful Ensemble. 1938 
・Complex-Simple. 1939.  

○カンジンスキーその7(自然科学の影響)
 彼はバウハウスで、自然科学、とくに生物学に
 興味をもつようになり、それが作品に現れてきた。
  彼を崇拝して住まいを訪れる若い前衛画家たちのなかには、
 アモルファスなフォルムを追求する画家もいて、
 その影響を受けたという説もある。

・Jean Arp:Constellation with Five White Forms   Two Black, Variation III 1932 オトーサン、 「この絵、まるで細胞と精子みたいだね」 「カンジンスキーは、生命細胞の分裂のプロセスに  ひどく興味を持ったようですね。 どうですか、この絵は」 「すごい絵ですね」 「はっはっは」 友人に一杯食わされました。

 
・ウナギの精子
・タマネギの細胞分裂
・たんぱく質の細胞分裂中期

オトーサン、
「だけど、こうした写真をみると、
 生命の神秘というか、神様が描く絵には、
 人間が描く絵画など、とうてい及ないという気がしてくるね」
「そうですね。
 だけど、晩年のカンジンスキーは、神の秩序に学び、
 それを表現しようとしたのではないでしょうか」

・Division-Unity 1934 オトーサン、 「これも、いいですね」 「神への祈りを感じませんか?」 「そうですね。ヒットラーやテロリストが生まれないような  優しい細胞になってくれと祈っているようですね」

 
・Untitled. 1941 
・Twilight. 1943 

○カンジンスキーその8(晩年)
1939年、彼は、妻とともに、フランスに帰化したが、
9月1日、ヒットラーは、ポーランドに侵攻、第二次世界大戦がはじまる。
翌40年には、フランス領内に侵攻し、パリへと迫ってきた。
彼をアメリカに亡命させる運動がはじまるが、
彼は、頑として、フランスにとどまることを選び、
ナチ占領下で、反ナチの展覧会を密かに開催したりする。
終戦直前の1944年12月13日、78歳で死去。
最後の10年間に、144もの作品を製作した。
最後の言葉、 「私は、悲しくもまた幸福である」

読者のみなさん、
カンジンスキーの見学記、いかがでしたか?
以下のサイトで、全作品を振りかえってみてください。
きっと抽象絵画が親しいものに感じられるでしょう。

WahooArt.com ; Portfolio - Painter Wassily Kandinsky


40 見学記、ロシア!展、その1

オトーサン、 「カンジンスキーにすっかり手間どってしまったな」 お目当ての「ロシア!展」をまだ見ていません。 この"Russia!"展、入口で、美女に出迎えられました。

ロシア美人、ご存知ですよね。 例えば、アイス・スケートの女子選手。 肌に、太陽にロクに当たっていないせいか、 抜けるような白さ。 でも、年をとると見られたものじゃありません。 その昔乗ったアエロフロートのスチュワーデス、 でっぷり太ってしまって、ヒゲが生えていましたっけ。 実物をお見せする勇気はありませんので、 マトリョーシカで代行しましょう。 この有名なお人形、 太ったお腹の辺りで開けると、また人形が入っていますよね。。 最初に試したとき、脂肪がどんどんとれていって、 ロシア美人が出てくるのかと思いましたが、 そうでなかったので、がっかり。 そんなわけで、買いませんでした。 もっとも、このタマネギの皮むきみたいなアイディアは もともとは、日本のものだそうですが...

オトーサン、 冗談は、さておき、 まだ見ぬ美術館の第1位は、エルミタージュ。 ○エルミタージュ美術館  ロシア・サンクトペテルブルク、Neva川のほとりにある。  小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、  エルミタージュ劇場、冬宮の5つの建物から構成され、  本館の冬宮は、ロマノフ朝時代の王宮である。

 1764年に女帝・エカテリーナ2世が収集したもので、  “この扉を通るもの、帽子とすべての官位、  身分の誇示、傲慢さを捨て去るべし、  そして陽気であるべし”  そう扉に書いて、王侯貴族専用だけに見せていた  その名の通り、”エルミタージュ”は、フランス語で”隠れ家”を意味していた。   その後、19世紀末から一般公開されている。。  400を超える展示室があり、所蔵作品数は300万点に及び、  世界の4大美術館と呼ばれている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか オトーサン、 皇族典範がどうのこうのって言ってるけど、 エカテリーナ2世みたいな偉大な女帝だったら、いいなぁ。 ○エカテリーナ2世   1729/5/2- 96/11/6 ロマノフ朝第8代ロシア皇帝。夫はピョートル3世。 ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝と称される。 1729年、貴族の娘として生まれた。   2歳の時から新教徒の家庭教師カルデル嬢がつき、 フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。   さほど美貌ではなかった。

  1745年、ロシア皇太子ピョートルと結婚。   ロシア正教に改宗し、エカテリーナと改めた。   夫がロシア皇帝に即位すると、ロシア皇后となった。   ドイツで育ったためロシア文化に不慣れであったが、   努力してロシア語に上達するなど、ロシア貴族の人気を得ていた。 1762年、近衛部隊やロシア正教会の支持を得て、夫を幽閉し、女帝に即位。   即位後、教育や社会制度の改革に取り組んだ。   1789年のフランス革命に脅威を感じ、晩年には自由主義を弾圧した。 外交面では、露土戦争やポーランドを併合し、領土を拡大した。   ボリショイ劇場やエルミタージュ美術館の建設にも熱心であった。   豪放磊落で派手好みで、男遊びが好きだった。   愛人の数は、公式には10人、実際は数百人いたと言われる。   文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲を残している。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 読者のみなさん、 「この女帝、旦那を殺したり、  ホーランドをつぶしたり、  愛人だって、数が多すぎないか?」 「...」


41 見学記、ロシア!展、その2

オトーサン、 「せっかく貰ったから目を通すか」 長女がプリントアウトしてくれた「ロシア!展」紹介を見ました。 Yoko Yamazakiさんが書かれたもの。 「ふーん、この展覧会、11日までなんだ。  このひと、どういうひとなのかなぁ?」 ○RUSSIA! (ロシア!展)、その1  グッゲンハイムとロシアの主要美術館、  ロシア連邦文化・映画局が提携して実現した展覧会。  13世紀のキリスト教イコン作品から現代美術まで、  約800年に渡る275点を超えたロシアからの美術作品を展示する。  オープンは、国連会議に参加していたプーチン大統領の  ニューヨーク滞在中に合わせ行なわれ、  政治的にも重要な役割を担った展覧会となったようだ。

 プレス公開に参加したミハイル・シヴィトコイロシア連邦文化大臣は、  このコレクションはロシア人なら誰もが知っているアーティスト揃いだと語り、  本展がロシア美術の流れを包括したものであることを強調。  一方、今回の様な大掛かりな展覧会は冷戦終結後はじめてであり、  企画にあたり政治的経済的駆け引きがないはずは無く、  本展にお役所的な展覧会と批判的な意見も聞く。  しかし、東西冷戦構造崩壊後の地域紛争が絶えない昨今、  このような国際展が実現することは歓迎すべきことではないだろうか。  出典:http://www.new-york-art.com/mus-guggenheim-RUSSIA.htm オトーサン、 「プーチンさん、昨年、NYに来たのか?」 ソ連邦崩壊で、メチャメチャになったロシアを再建しました。 アメリカや欧州諸国と仲良くし、中国や北朝鮮とは同盟関係。 チェチェン紛争に手を焼いているものの、外交面で上手くやっています。 柔道をやっていたので、親日家と思いきゃ、さにあらず。 トヨタに工場を建設させるなど、経済協力面で実をとっているのに、 一向に北方領土を返しそうにはありません。 「手強い相手だなぁ」 ○ウラジーミル・プーチン (1952/10/7 -) ロシアの政治家で、大統領(在任1999 -)。 レニングラード(現 サンクトペテルブルク)生まれ。 1975年、レニングラード国立大学法学部卒業、 ソ連時代はKGBに勤務し、東ドイツで諜報活動に従事した。 ソ連崩壊後、サンクトペテルブルクの市政に携わり、注目を集める。

1996年、中央政界に出て、KGBの後身、連邦保安庁長官を務めた。 クーデターを未然に防いだ功績によりエリツィンの信頼を得て、 1999年、首相に任命され、チェチェン紛争制圧に辣腕をふるった。 2000年、大統領選挙で過半数の得票を受け当選、大統領に。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「さて、どういう順番に見ていくか」 Yoko Yamazakiさんの文章に目を通しました。 「もう一度、下に戻ってみるか」 降りてゆくのは、実に楽でした。 ○RUSSIA! (ロシア!展)、その2 グッゲンハイムでは、螺旋構造の特徴を生かした 年代順の展示が定着しつつあり、 本展でもスロープを上る毎、 ロシア美術史の流れをたどれるようになっている。 メイン展示スペース脇のギャラリーでは、 ロマノフ家のピョートル1世、エカテリーナ2世らによる ルーベンスなどの西欧絵画のコレクションをコンパクトに展示。

 
・ピョートル1世(在位1682-1725)
・琴欧州

オトーサン、
「ふーん、このひとがピョートル1世か」
このひと、ピヨートル大帝とも呼ばれました。
後進国だったロシアの近代化を強力に推進し、
バルチック艦隊を創設し、スエーデンを破り、
サンクトペテルブルクを自国に編入し、首都に。
ただ、家庭的には恵まれませんでした。
妻や息子に暗殺されそうになったり、
浮気した後妻の相手を射殺したりと散々でした。
写真に見るように、大男。
何でも身長は、2メートル6cmもあったとか。
琴欧州が、2メートル3cmですから、彼よりも背が高いのです。

オトーサン、
ロシア史を一通り思いだして、
ようやく、絵画のほうに目を向けることに。
「問外不出の絵があるらしいな。
 見逃さないようにしなくては...」

○RUSSIA! (ロシア!展)、その3
エミルタージュに先駆け
セザンヌ、モネ、ピカソらの作品を収集した
シュクキンとモロゾフのコレクションも展示されている。
そのコレクションは、1910年代後半、
ともにロシアで最初の近代絵画美術館となったもの。
その後大戦の混乱期とスターリン統治下でコレクションは、
エミルタージュ等に分散されたという。 
本展に際し、イリヤ・レーピンの“ボルガの船曵き人夫達”、
カジミール・マレービッチの“ブラック・スクエアー”など
国外へほとんど出たことがない作品も含まれる。

出典:http://www.new-york-art.com/mus-guggenheim-RUSSIA.htm

オトーサン、
「これが"ヴォルガの船曵き"か、なつかしいなぁ」

・Ilya Repin, Barge Haulers on the Volga, 1870-73 頭の中に、「ヴォルガの舟歌」の旋律が流れてきました。 学生時代は、ロシア民謡が流行していました。 新宿や渋谷の歌声喫茶で、 「カチューシャ」、「トロイカ」 「赤いサラファン」、「ステンカラージン」を合唱していました。

もちろん、「知床旅情」、「おお牧場はみどり」 「アルプス一万尺」「雪の降る町を」も歌いましたが、 「ヴォルガの舟歌」は、労働者との連帯歌として人気がありました。 当時の学生たちは、「ヴ ナロード(人民の中へ)」 そういうスローガンにしびれていたのです。 今日では、まったく考えられませんが、 親米派よりも、親ソ派が多かったのです。 ♪エイコーラ、エイコーラ、もうひとつエイコーラ オトーサン、 再び、螺旋状のスロープを上りながら、 ♪エイコーラ、エイコーラ、もうすこしみていくか


42 見学記、ロシア!展、その3

オトーサン、 「どうも、中世の宗教画は苦手だなぁ」 キリストや聖人のみなさまには、申し訳けありませんが、 その受難や栄光を称えることができません。 学生時代に、一度だけ教会に行ってみましたが、 パンを食べさせられて、ヘキエキ。 そんな不信心ものであります。 「天国へ行くのは、ムリだろうなぁ」 でも、何となく地獄にも行かないような気がしております。 「テンペラ画のせいもあるかも」 昔の画家は、顔料と生卵を混ぜ、水で溶いて描いていました。 何か、絵が軽いような気がするのです。

 
・Christ in Glory, From the Deesis Tier in the Cathedral of the Dormition 
  at the Kirillo-Belozersk Monastery, 1497. 
・Dionysii Crucifixion, from the Pavlo-Obnorskii Monastery, Moscow, 1500

オトーサン、
「おお、この風景画はいいね」
部屋に飾っておきたいような見事さです。
その昔、これと似たような港町の風景を描いたことがあります。
描くというと語弊があります。
正確には、指定された箇所に指定された色を塗っただけ。
そういう絵画の下絵みたいなものを売っていたのです。
奥方、
「あなた、絵の才能があるのね、知らなかったわ」
「エヘヘ」
訂正しないまま、数十年が経過しております。
ま、こんなことでは、天国はムリでしょうネ。

・Claude Lorrain, Morning In the Harbor, late 1630s. ○クロード・ロラン   Claude Lorrain 1600-1682/11/23   バロック、古典主義のフランスを代表する画家。   ロレーヌ地方出身だったので、「ロラン」という。 12歳で両親を失う。   1613年、13歳でローマに行き、菓子職人見習いになる。   やがて絵画の修行をはじめ、1626年、故郷に戻り、   1年間、Claude Deruetに師事し、ローマに戻った。 生涯のほとんどをローマで過ごした。

  風景画のパイオニアで、題材は、ローマ郊外の風景が主。   実際の風景よりも、美的に詩的に描くことで知られ、   スペイン国王をはじめ、他の君主からの評判がよく、 模倣する者が後を絶たなかったので、 1630年代半から詳細な絵画の記録をつけはじめた。   その数は、200点に及ぶ。 オトーサン、 「うーん、こりゃ、スゴイ絵だ」 誰のだろうと、画家の名前を確認しました。 「ルーベンスか、やっぱり。 ...しかし、けしからんことに及んでいるなぁ」 合意の上ならいいのですが、そうでないと、 これもまた天国には行けそうもありません。 いずれにせよ、 宗教画の時代が終わったことがよーく分かります。 描かれたのは、1636-38年とありますから、 幕府の第三代将軍・徳川家光(在位1623 -51)の頃。 時代は大きく変わったのです。 王族・貴族・武家の時代から、町人庶民の時代へ。

・Peter Paul Rubens Pastoral Scene,1636-38 ○ピーテル・パウル・ルーベンス Pieter Paul Rubens, 1577/6/28- 1640/5/30 17世紀、バロック時代のヨーロッパを代表する画家。 1577年、両親の亡命先、ドイツに生まれた。   10歳の時に父親が没し、母親はアントワープに戻る。 絵の修業を始めたのは14歳頃から。 師のオットー・ファン・フェーンは、ギリシア・ローマの古典に造詣が深かった。   1600年、イタリアへ渡り、マントヴァ公の宮廷画家となった。   8年後、アントワープに戻る。   戦争が終わったので、絵画需要が急増し、注文が殺到した。 スペインのイザベラ王女の宮廷画家となり、工房を設置し、  多くの弟子たちを動員して大量の注文制作をこなした。

  ルネサンス期絵画の均整のとれた構図や 理想化された人物表現とは一線を画し、 動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、 女神像などに見られる豊満な裸体表現など、 バロック絵画の特色が発揮されている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「はは、このおばさん、そっくりだ」 まさに、エアロフロートのステュワーデスさんでした。

・Jordaens, Jacob Family Portrait, Early 1650s オトーサン、 「おれも、人物画なら描けそうだなぁ」

 
人物画って、こういう楽しみ方も出来るので、
末長く人気が続いているのでしょうねぇ。


43 見学記、ロシア!展、その4

オトーサン、 スロープを上っていって、 「ここから、カテリーナ2世の時代か」 例の旦那を暗殺した男好きのおばあさん。 彼女は、啓蒙思想にとりつかれて、 フランス文化を積極的にロシアに導入しようとして、 フランス語を公式語にしたほどでした。 同じくフランス芸術アカデミーのロシア版も創設した。 ヴァン・ダイク、ラファエロ、レンブラント、ルーベンスらの傑作を集め、 その数4000点を冬宮に展示しました。 これが、後に、エルミタージュ美術館に発展したのは、 ご存知の通リです。 オトーサン、 「牧歌的だなぁ」 こういう絵をみると、心が安らぎます。 左の絵では、キューピッドが戯れていますし、 右の絵では、羊飼いの少年が少女に笛を教えています。 2人は、恋人同士なのでしょうね。

・Francois Boucher Cupids. Allegory of Painting  1703 
・Francois Boucher The Enjoyable Lesson 1748

○フランソワ・ブーシェ  Francois Boucher 1703-1770  フランスの画家。ロココを代表する画家のひとり。  布地装飾の絵付師の息子としてパリで生まれ、  宮廷画家のフランソワ・ルモワーヌ のもとで絵を学ぶ。  最も影響を受けたのは、ヴァトーの繊細な様式で、  それをより感覚的で装飾的にした神話画や牧歌画を多く描いた。  ルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人の庇護を受け、 1765年には首席宮廷画家になり、王立アカデミー院長に就任、  王立陶器工場のデザイナーも兼務し、多くの追随者を生んだ。 オトーサン、 「このばあさんが、カテリーナ2世か」 フォーマル・ウエアを着用し、女帝としての威厳を感じさせます。 背も高そうです。 「怖いばあさんだから、さぞかし気苦労があっただろう」 「それなりに美しく描くのは、大変だっただろう」 宮廷画家になれたとしても、安心はできません。 下手な描き方でもしたら、クビになるだけでなく、 ほんとうに首が飛んでしまうかも... この絵、3年がかりで描いたようです。 何度もダメが出たのでしょう。 まぁ、いつの世も宮仕えは大変です。

・Vigilius Erichsen Portrait of Catherine the Great in front a mirror, 1762-64 オトーサン、 「おいおい、息子も描かされたんか」 チビはチビでも、上司は上司。 ついサラリーマン川柳が浮かんできました。 ・宮仕え やっぱり上司は 選べない ・宮仕え 休日出勤 しょうがない ・宮仕え 仕事の一環 カラオケも

・Vigilius Erichsen Grand Prince Pavel Petrovich in his Study 1766 オトーサン、 「こいつは、何者だ?」 実は、後で判明したのですが、若き近衛兵。 肖像の右上の不気味な彫像は、カテリーヌ2世。 つまり、明らさまにいうと、カテリーヌ2世のツバメだったのです。 「可哀想に、ばあさんのお相手をさせられて」 でも、親は名誉に感じ、同僚には妬まれたのかも。 年をとったら、捨てられる運命にあったのでしょうが... ・宮仕え 僕は急に 泊まれない ・宮仕え 男にもある 更年期 ・宮仕え ホップステップ して終る

・Dmitry Levitsky, Portrait of Alexander Lanskoi, 1782. ○ドミトリー・レヴィツキー Dmitrii Levitsky 1735-1822 ロシア最高の肖像画家。   父親は、牧師だったが、   ベテランの彫刻家だった関係で、イコン画家になった。   外見が似ているだけでなく、対象者の魂もありのまま描いた。  1760年、サントペテルスブルグへ招かれ、   画家のAlexei Antropov (1716-1795)の   St. Andrew聖堂の装飾を手伝った。   2年後、2人はモスクワにいき、   カテリーナ2世の戴冠式用に肖像画を描いた。   遂に、宮廷画家になり、皇帝や宮廷のメンバーが   着飾った姿での公式肖像画を製作した。   貴族も含め、それぞれの階級にふさわしい肖像画を描くことができた。   見事な技量で、対象者の活力や人格を巧みに描くことができる画家として知られた。   成功を収めたものの、1800年代には、廃れた。   よりロマンティックなスタイルが流行しはじめたからである。 オトーサン、 「おお、この絵はいいなぁ」 さっきのツバメの絵とは比べものにならない出来栄え。 実は、これも後で判明したのですが、 ドミトリ・レヴィツキーの愛娘だったのです。 ロシアの伝統的な衣装である赤いサラファンを着て、 おやじのほうをまっすぐみつめて、 微笑みながら、いまにも話しかけてきそうです。

・Dmitrii Levitsky, Portrait of Agafia Dmitrievna Levitskaya, 1785 オトーサン、 宮仕えの絵画を見終えて、ほっとしました。 読者のみなさん、 なかには、こんな想いのひともいるのでは? 「オレも、早く宮仕えをやめたいなぁ」 でも、ご用心、ご用心。 こんな川柳もありますよ。 ・宮仕え 終わった後は 妻仕え この川柳、誰が詠んだか知りませんが、 ほんとうによく出来た川柳ですなぁ。 退職後のいまの正直な心境です。 ドミトリー・レヴィツキーも、同様の心境だったようですね。 「あんた、稼ぎが少ないわねぇ」

・Dmitrii Levitsky, Portrait of N. Y. Levitzkaya, Artist's Wife. 1780s


44 クラムスコイ、その1

オトーサン、 「おお、こりゃ、いいなぁ」 優美に着飾った美しい女が、 橋のたもとで馬車に乗って、こちらを見ています。 美女にじっとみつめられたのは、久しぶり。 いい年こいても、心は騒ぐのです。 このイワン・クラムスコイの”Unknown Woman”。 「見知らぬ女」というよりも、「忘れえぬ人」と翻訳したい感じ。 何でも、ロシアでは「ロシアのモナリザ」と言われているそうです。 ロシアの人々は、美術館に彼女がいないと、 「どこへいった?いつ帰ってくるの?」と気にするとか。 この絵は、イワン・クラムスコイの名を世界に知らしめたもの。

・Ivan Kramskoy. Unknown Woman, 1883 所蔵:The Tretyakov Gallery, Moscow, Russia. でも、この絵が発表された当時は、非難ごうごう。 ・“Coquette in a carriage” ・“immoral woman” ・“Women of her sort” ・“Product of big cities” つまり、売春婦と思われたのです。 イワン・クラムスコイは、 はじめのうち、こう主張していました。 「慎み深いひとなのか?  それとも、身体を売っているのだろうか?  彼女のなかには、時代が丸ごとあるのだ」 でも、ロシア最大の画商で、 パトロンだったPavel Tretyakovが怒って、 この絵だけは買わなかったのを知って、 悲しみのあまり、もう何も言わなくなりました。 (注:トレチャコフ美術館は、   エルミタージュ美術館が西欧絵画が中心なのに対して、   13万点ものロシア絵画や彫刻のコレクションで有名。   この美術館に行かないと、モスクワへ行ったことになりません) 後世、この絵のモデルは、 文豪レオ・トルストイの名作「アンナ・カレーニナ」の 悲劇の美女アンナであるという説が出てきました。 アンナ・カレーニナは、夫のある身でありながら、 青年将校ヴロンスキーと恋におちたのです。 「そういえば、ひと待ち顔だなぁ」 ヴロンスキーを待っているのに、 自分を待っていたと、みんなに錯覚させてしまう絵ですね。 アンナ・カレーニナ説が出る背景には、 トルストイとの交友があったためといわれています。 1873年に、画商トレチャコフがトルストイに 肖像画のモデルになるように依頼したところ、拒絶されました。 そこで、イワン・クラムスコイに、依頼します。 「キミの魅力で、説得してくれんか」 言われた通りに、トルストイに面会に行き、両者は意気投合。 トルストイは、魂のなかまで覗かれたと書いています。 彼の描いた肖像画は、トルストイの肖像画のなかで 最高の作品となりました。 トルストイのほうも、「アンナ・カレーニナ」を執筆中だったので、 クラムスコイを逆に覗きかえして、作品に登場させたそうです。

・Ivan Kramskoy. Portrait of Leo Tolstoy. 1873 オトーサン、 「うーん、これもいい絵だ」 生真面目なトルストイの人柄がよく出ています。 帰国後、早速、彼の経歴を調べてみました。 ○イワン・クラムスコイ、その1   Ivan Kramskoy 1837/6/8 -1887/4/5 19世紀半ばのロシア絵画の革新者、画家・理論家・教師。   南ロシア、Ostrogozhskに事務員の息子として生れる。   15歳になって絵を学びはじめ、カメラマンの修正係として、   3年間、国中を旅して回った。   1857年、ペテルブルグ芸術アカデミーに入学。 63年、ニコライT世の時代は、卒業制作の絵画の課題が   神話だったので、この旧弊に反抗して、ボイコットし、   仲間の14名とともに、退学した。 この後、68年まで、   The Drawing School of the Society for Promoting of the Artistsで、教鞭をとる。 生徒に、Iliya Repin もいた。 (注:"ヴォルガの船曵き"を描いた)

・Ivan Kramskoy. Self-Portrait. 1867   1869年は、彼にとっては、いい年になった。   ペテルブルグ芸術アカデミーの会員になり、   画商のトレチャコフがパトロンとなった。   暮らしは楽になり、はじめて海外を旅して   見聞を広めることができたのである。   (ベルリン、ミュンヘン、アンチョワープ、パリ、ウィーン)   帰国後、「移動美術展協会」を創立し、   現代絵画の普及と画家の育成を目指した。  参加した画家440名、展覧会の開催回数は48回、   1923年まで、50年以上続いた。


45 クラムスコイ、その2

オトーサン、 「この絵も、実に、いいなぁ」 モデルは誰かと題名をみて、びっくり。 キリストでした。

・Ivan Kramskoy. Christ in the Desert. 1872. ○イワン・クラムスコイ、その2  1872年の「砂漠でのキリスト」は、彼の代表作。 砂漠にひとり瞑想する姿には、襟を正させるものがある。   題材こそ伝統的な宗教画そのものだが、新しい解釈がなされている。   つまり、当時の過酷なロシア社会を改革しよう、   そのためには、甘んじて自己を犠牲にして道義的責任を引き受けよう   そういう画家の意気込みが出ている。  トルストイは、「これは最高のキリスト像だ」と賞賛した。   1873年、ペテルブルグ芸術アカデミーは、   この絵に賞を与えようとしたが、画家は拒否。 かつて抗議して退学したアカデミーからの受賞。    イワン・クラムスコイにとって、美とモラルは切り離せないものだった。   この名画誕生の瞬間が、彼の手紙に残されています。 ....そして、ある日。 忙しくしていたときだったが、 頭の奥に、突然、坐像を見た。 私は、集中して、彼を凝視した。 彼の周りを一回りしたのかもしれない。 じっと観察している間に、 彼は、一度たりとも身じろぎひとつしなかった。 ...私のほうを見ることもなかった。 彼は、非常にシアリアスに、深く考えにふけっていた... ここに至っては、そのお姿をコピーするだけでよかった。 描き終えて、私は、彼に大胆な名前を与えた。 キリストだろうか?分からない... 翌朝、太陽が昇るとともに、彼の姿はかき消えてしまった。 (V.M. Garshinへの手紙。1878/2/16) オトーサン、 「この肖像画もいいなぁ」 彼の肖像画は、対象者の本質を鋭く突いています。 画商トレチャコフは、やり手というよりも、 ロシア絵画を育てる理想に燃えたひとのようですし、(左) 画家は、自由奔放ながら繊細な人柄と見受けられます。(右)

・Portrait of Pavel Tretyakov, the Art Collector, Founder of the Gallery. 1876.
・Portrait of the Artist Ivan Shishkin. 1880.

オトーサン、
「晩年は、幸せだったのかなぁ」
そう思って、彼の肖像画をみていったら、
家族の肖像画をみつけました。
「いい奥さんじゃないか、みんな立派じゃないか。
 ...よかった、よかった」
大体において、芸術家は家族を不幸にするもの。
そういう意味では、イワン・クラムスコイは、
正義漢だったし、家族思いだったのでしょう。
彼の奥さんは、彼が貧乏だった頃、
転がりこんできた大勢の若い画家たちの面倒もよくみたとか。
・Ivan Kramskoy. Portrait of Sophia Kramskaya, the Artist's Wife. 1879
・Ivan Kramskoy. Portrait of Anatoly Kramskoy, the Artist's Son. 1880
・Ivan Kramskoy. Portrait of Sophia Kramskaya, the Artist's Daughter. 1882

○イワン・クラムスコイ、その3
  彼は、名高い肖像画家となり、
   皇族からの依頼も舞い込むようになり、
  注文が切れることはなかった。  
  だが、そのハードな生活が健康を蝕み、
   87年3月24日、Doctor Rauhphusの肖像画を描いている
  最中に、手に刷毛を握ったまま、倒れた。
   「キャンパスには、倒れ落ちたときの刷毛の跡が残ったが、
  それは、あたかも流れ星のように見えた」(Ivan Nicolai)
  正義感の強い画家、49歳の短い生涯だった。
   出典:http://www.join2day.com/abc/K/kramskoy/kramskoy1.ほか

オトーサン、
「うーん、世の中うまくいかないもんだなぁ。
 49歳か、オレが次長になった頃だ」
せめて、あと20年ほどは生きていてほしかったですね。

でも...イワン・クラムスコイは、歴史にその名をとどめました。
彼に惚れた Margaret Baumgaertnerさんが、
彼がイリヤ・レーピンに書いた手紙を披露しています。
「私は、半ば眠っていた、いい気持ちで。
 だが、突然、震えを感じて、目が覚めた。
 ...それは、1863年11月9日のことだった。14名が卒業制作を拒否した。
 この日は、わが生涯最高の日だった。
 生きるのだ、十全に、そして誠実に!」
この同志の結束は、10年近く続き、眼を輝かせた若者たちの手で、
ロシア絵画革新の大きなうねりがはじまったのです。

オトーサン、
「農民シリースは、もっと評価されていいはず」
彼は、貴族よりも農奴を描こうとしました。
われらサラリーマンもそうでうが、
奴隷のように軽く扱われているひとびとの中にこそ、
すばらしい個性をもったひとびとがいると主張したかったのです。
まるで、今にも話しかけてくるようではありませんか。
世の中、間違っているよね。
こういうひとを大事にしなくては。
・Ivan Kramskoy. Woodsman. 1874. 
・Ivan Kramskoy. Village Elder. 1873. 
・Ivan Kramskoy. Peasant Holding a Bridle. (Portrait of Mina Moiseyev). 1883. 


46 ヴルーベリ、その1

オトーサン、 「いよいよ、20世紀初頭のロシアだ」 この時代は、激動期でした。 連綿と続いてきた帝政の最後となる ココライU世の治世は、暗い時代でした。 帝王の権力は秘密警察に支えられていたのです。 ニコライU世は、1894年に即位し、 1914年の第1次世界大戦は乗り切ったものの、 1917年のロシア革命により殺されてしまいます。 きっかけとなったのは、1902年の日露戦争。 誰もがロシアの勝利を確信していたのに、まさかの敗戦。 一挙に、帝政への不満が爆発したのです。 ○血の日曜日事件  旅順陥落のニュースに国民の不満は爆発。  一工場で発生したストライキはたちまち、ペテルブルグ全体に広がり、  1905年1月22日、数千の群衆が不満と要求を述べた請願書を  ニコライU世に提出すべく、冬宮に向かって行進した。  僧正ガポンを先頭に、聖像とツァーの肖像を掲げ  「神よ、ツアーにお恵みを与えたまえ」と唱えながらの行進に、  ツァーは軍隊の一斉射撃で応えた。  流血の日曜日、ガポンは宣言した。  「われわれはもうツァーを必要としない。  爆弾とダイナマイトをとれ。  余は汝らを許す」 オトーサン、 「これが、ヴルーベリの代表作か、  恐ろしい絵だなぁ」

・Mikhail Vrubel. Six-winged Seraph (Azrael). 1904. 輝かしい未来になるはずの20世紀は、 政治と宗教対立による戦争の世紀になってしまいました。 芸術家は、未来を予見するとよく言われますが、 この絵のテーマになったアズラエル(Azrael)は、死の天使。 人間の誕生と死を記録するイスラム教の天使で、 7万本の足と4000の翼を持ち、無数の眼と舌を持っていて、 その無数の目の一つ一つが地球上の人間の生と死を表し、 その眼がまばたきをする度に、どこかで人間が死んでいくのです。 オトーサン、 「時代の暗さが描かせたのか?」 彼の経歴をたどってみることにしましょう。 ○ミハイル・ヴルーベリ、その1  Mikhail Vrubel 1865-1910 20世紀初頭にかけて活躍した画家。  ロシアにおけるアールヌーボーの創始者。  常ならぬ人生を送ったことでも知られる。  シベリア西部、法律家の息子として生まれ、  1880年ペテルブルク大学で法学を学び、卒業するが、  同年、美術アカデミーに入り直し、古典絵画を学ぶ。  師事した Pavel Tchistyakovは、有名な教育者であり、  仲間にも恵まれ、青春を謳歌した。  当時の作品には、すでに彼の特徴である豊かな想像力、  即興好き、断片的構成、未完成さなどが現れている。 「学年時代の絵は、そんなに暗くないな」 自画像(左)は、気弱な優等生が描かれていますし、 シェイクスピアの「ハムレットとオフェーリア」(右)も、 「生くべきか、死ぬべきか」の深刻な憂鬱な感じがなく、 その辺にいるお兄ちゃん、オネーチャンという感じ。

・Mikhail Vrubel Self-Portrait. 1882
・Mikhail Vrubel. Hamlet and Ophelia. (Unfinished). 1884.

○ミハイル・ヴルーベリ、その2
 1884年、有名な絵画歴史家Adrian Prakhovが、
 キエフの教会改築にやってきて、その修復を依頼される。
 ここで、ビザンチン美術を学び、絵画の完成度を意識するようになった。
 イコンを描くために、翌85年にかけて、数ケ月ヴェニスに旅した。
 中世のモザイク画や初期ルネッサンス絵画の技法を習得し、
 その絵画に宝石の輝きや強さが加わった。

・Mikhail Vrubel. Self-Portrait. 1880s オトーサン、 「これがヴェニスで描いた絵か」 キエフの聖堂の依頼で、4点の大作を描いたのですが、 そのうちのひとつが、聖処女(The Virgin)なのです。 このモデルは、 Adrian Prakhovの奥さんだとか。 「...先生の奥さんに惚れたのかもなぁ?」 聖処女の話が下世話な話になってしまいました。 マリアさま、ごめんなさい。 主よ、我らをお許し下さい。 我らは、下賎な民になってしまったのです。 (ネットで検索すると、聖処女はアダルトものばかり)

・Mikhail Vrubel. The Virgin and Child.  1884-85
・Mikhail Vrubel. The Virgin and Child. Detail 1884-85


47 ヴルーベリ、その2

オトーサン、 「おお、この絵、いいなぁ」 ご存知、”嘆きのピエタ” St. Vladimir教会のための習作で、水彩画。 繰り返し画家たちによって描かれるテーマです。 弟子たちがイエスを十字架から降ろし、 身体を清め、埋葬するまえに、別れを告げているところ。 どのくらい悲しみが表現できたかが、勝負どころ。

・Mikhail Vrubel. Pieta.  A sketch for a mural in the Cathedral of St. Vladimir in Kiev. 1887. 読者のみなさん、 以下の3点とも、嘆きのピエタ。 左のミケランジェロの彫刻は、ご存知でしょう。 中央は、ヴルーベリがヴェニスで感動した画家のもの。 右手は、いかにも、ドラクロアらしい絵です。 オスローの美術館で見ましたが、どきつすぎませんか?

・Michelangelo. Pieta. 1499.
・Giovanni Bellini. Pieta. 1505. 
・Eugene Delacroix. Pieta. 1850. 

○ミハイル・ヴルーベリ、その3
 キエフに戻り、St. Vladimir教会のための絵を描いたが、
 採択されなかった。
 失意のヴルーベリは、レールモントフの叙事詩「悪魔」のために
  数点の挿絵を描き、悪魔シリーズを描きはじめた。
 だが、この頃の絵画や彫刻は、ほとんど残されていない。
 制作するの集中して、残す努力をしていなかった。
・Mikhail Vrubel. Hamlet and Ophelia. 1883.
・Water-Lilies. 1890s

 オトーサン、
「"ハムレットとオフェーリア"、迫力が出てきたなぁ。
 睡蓮も、変わってるなぁ、モネ+ゴッホというところか。
 でも、悪魔の絵は、すごいなぁ」
この悪魔という主題、ハムレットの”憂鬱”や睡蓮の狂気よりも、
ニコライU世時代の”陰惨さ”に合致しているのでしょう。

・Mikhail Vrubel. The Seated Demon. 1890. ○ミハイル・ヴルーベリ、その4  1889年、数日の予定で、モスクワに行ったが、 結局、滞在は、数年に延びてしまった。  画家たちとの交遊に加えて、有力なパトロンがついたのである。  その名は、歌劇団オーナーのマーモントフ(Savva Mamontov)。  オペラの舞台美術や自邸の装飾画を依頼するだけでなく、  家族ぐるみで欧州に旅行し、視野を広げる機会を提供した。  ヴルベーリは、ステンドグラス、陶器、家具、衣装デザイン、彫刻、建築も手がけ、  ロシア・アール・ヌーボーの創始者となった。

・Mikhail Vrubel. Portrait of Savva Mamontov. 1897. オトーサン、 「このひとが、マーモントフか。  いいパトロンがついてよかったなぁ」 若いひとが成長するには、いい先輩や導師が大事ですね。 もっとも、麻原彰晃みたいな導師もおりますが...


48 ヴルーベリ、その3

オトーサン、 「おー、なかなかやるねぇ」 ヴルーベリ、この年、31歳。 浮いた噂のひとつもなけりゃ不思議ですが。 ○ミハイル・ヴルーベリ、その4 1896年、ペテルスブルグでオペラを見に行き、 彼は、プリマドンナNadezhda Zabelaの歌唱を聴き、 その声に魅了され、たちまち恋に落ちた。 公演終終了後、出会い、半年後、結婚した。 モスクワに居を定め、 彼女は、マーモントフのオペラ「白鳥の湖」などで歌った。 妻のために舞台用、プライベート用のドレスをデザインし、 舞台美術も手がけた。

            
・Mikhail Vrubel. Portrait of Nadezhda Zabela-Vrubel, the Artist's Wife, in an Empire Dress. 1898.
・Mikhail Vrubel. Swan Princess. 1900.

オトーサン、
「きれいな女性だなぁ」
どうなんでしょう?
こういう華やかな女性を妻にする男の気持ちって。

○ミハイル・ヴルーベリ、その5 
 その後、彼は悪魔シリーズを再開し、
 1901年には、大作”Demon Downcast”を制作。 
 1902年に展示されたが、この作品で彼は一躍有名人になった。
 その激情と派手な装飾で観客を圧倒した。
 ”粗野で醜い”という一方、”天才、魅惑のシンフォーニー”という意見もあった。
 軽蔑と賞賛が相半ばした。

・Mikhail Vrubel Demon Downcast. 1902. オトーサン、 「すごいな。...何が何だか分からん」 絵のもとになった叙事詩「悪魔」、ロシア人には常識。 基礎知識があるとないでは、理解がちがいます。 ○叙事詩「悪魔」 悪魔=堕天使がコ−カサスの空高く雲の中を飛んでいる。 この叙事詩の幕開けである。 悪魔は、美しい王女タマラをみつける。 ひとりぽっちの悪魔は、彼女を誘惑しようとする。 婚約中と知って、愛と破壊衝動の間で揺れる。 悪魔は、婚約相手の若者を殺し、 悲嘆のあまり修道院に入ったタマラをつけまわす。 タマラは、ついに悪魔の愛を受け入れるものの、 情熱的に抱擁されるなかで、息絶えてしまう。 最後のシーン、 地上に落下し、ばらばらになった悪魔は、 天使がタマラの魂を天国に運んでいくのを涙して見送る。 再び、ひとりぽっちになってしまったのだ。 オトーサン、 「解説を聞いても、まだ解らんなぁ」 そこで、絵の一部分を拡大してみました。

・Mikhail Vrubel Demon Downcast. Detail. 1902. 「なるほど、悪魔の顔が見える」 顔をみつけられれば、しめたもの。 ひんまがった手足や画面いっぱいに飛び散った羽がみえてきます。 「...陰惨な航空機事故のシーンのようなもんだ」 ○ミハイル・ヴルーベリ、その6 彼は、悪魔の顔、不吉な目つき、苦痛にゆがむ唇を 塗り直しているとき、既に失調症にかかっていた。

・Mikhail Vrubel. Self-Portrait. 1905. この塗り直し作業は、展示中でも行なわれた。 油絵の具に、輝きを出すために、ブロンズの粉がまぜたので、 時とともに、褪せて暗くなるからだった。 1906年、精神病院に入院。 入院中、視力がどんどん低下するなかでも、 パレットを片時も離さず、静物、景色、生き物を描き続けていた。 死ぬ前の4年間は、完全に気が狂っていた。 最後の作品は、Portrait of 詩人Valery Briusovの肖像画だった。 入院中に注目すべき作品が生まれた。 それが、Pearl Oyster (1904)である。 真珠を産みだす神秘の働きが画家の鮮やかな手によって描かれている。 出典:Olga's Gallery Mikhail Vrubel     http://www.abcgallery.com/V/vrubel/vrubelbio.html

・Mikhail Vrubel. Pearl Oyster. 1904. オトーサン、 「45歳で死んだのか」 イワン・クラムスコイが、49歳。 早過ぎる死でした。 「無念、残念だっただろうな。 子どもが欲しかったのかなぁ?」 真珠貝のなかに、奥さんらしき姿がみえます。 悪魔の絵が、陰惨な時代が、彼を殺したのでしょう。


49 革命前のロシア絵画

オトーサン、 「政治のお勉強をしよう」 唐突のように見えますが、ロシア革命の理解なしに、 この時期のロシア絵画を理解することはできません。 以下は、「ロシア!展」における解説文の翻訳です。 ○20世紀初期ロシア絵画、その1 1905年の血の日曜日事件から 1917年のロシア革命までの騒がしい時期、 絵画の分野では、前世紀の絵画への反抗が進展していた。 葬り去られるべきは、シンボリズムなどの漸進主義であった。 その新世代の旗手は、Natalia Goncharova とMikhail Larionovだった。 彼らは、フランスの野獣派やドイツ表現主義と ロシア民俗芸術やネオ・プリミティズムとの統合を進めた。 その提唱者たちの多くが1910年創設のJack of Diamondsに参加し、 フランス=ロシア派を結成した。 1911年までに、急進派の動きが活発化し、 展示会を開き、マニフェストを発表した。 海外で主導的なスタイルを盛んに導入した。 例えば、立体派-未来派が、ダイナミックな公式用語となり、 キュービストの視覚言語を用いた未来派の機械美が追求された。 出典;http://www.guggenheim.org/russia/highlights6.html

・Natalia Goncharova The Cyclist. 1913.

・Mikhail Larionov Spring. 1912. オトーサン、 「それみろ、自転車は、機械美の象徴なんだ」 続いて、 「それみろ、オッパイは立体派で、野獣派の象徴なんだ」 もう支離滅裂なことを言っております。 頭にあるのは、あのヒゲをはやしたいかつい エアロ・フロートのステュワーデスのおばさんのイメージ。 ○20世紀初期ロシア絵画、その2 1915年、Kazimir Malevichは、 ペテルブルグで開催された最後の未来派展で、絶対主義を提唱した。 それは、Black Squareの最初のバージョンで、 伝統的なイコンをある意味で思い出させるものだった。 Vladimir Tatlin は、Counter-Reliefsを出品した。 これは、パブロ・ピカソの影響を思わせるもので、 構成派へとして知られるものへ進化していくものだった。

・Kazimir Malevich, Black Square. 1930.

・Vladimir Tatlin - Counter Relief. 1914-15. iron, copper, wood, rope ○20世紀初期ロシア絵画、その3  1917年3月、ニコライII世が退位し、  10月24日までの臨時政府が誕生した。  ボルシェビキは、「平和、パン、そして領土」のモットーを掲げ、  冬宮に押し入った。  権力は、そのリーダー、ウラジミール・レーニンの手に渡ることになる。

オトーサン、 「最近のひとは、レーニンなんか知らんだろうなぁ」 ○ウラジミール・レーニン   Vladimir Lenin, 1870/4/22 - 1924/1/21、   ロシア革命をおこしたボリシェヴィキの指導者。 ヴォルガ河畔のシンビルスク生まれ。   父は世襲貴族のロシア人、母はドイツ=スウェーデン系ユダヤ人   カザン大学でラテン語とギリシャ語を学んだ。   1887年兄が、アレクサンドル3世暗殺計画に参加し絞首刑。   以後、学生活動に加わり、逮捕され大学を追放された。   1895年、労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟を結成するが、   逮捕、投獄され、シベリアに追放された。   1900年、刑期終了後、亡命。   1906年、ロシア社会民主労働党の最高会議幹部会で選任される。   翌年、身の安全のためフィンランドへ出国、   ヨーロッパ各地で多くの社会主義活動に参加した。   皇帝ニコライ2世退位後、1917年ペトログラードに戻り、   ボリシェヴィキ活動の指導者となった。   7月の武装蜂起が失敗した後、フィンランドへ逃れたが、   10月に帰国し、「すべての権力をソヴィエトへ」の下に武装革命を指導。   1917年11月、ソヴィエト議会で初代人民委員会議議長に選ばれた。   内務人民委員部(NKVD)や秘密警察を創設し、反体制分子弾圧を開始。   翌年1月19日には憲法制定会議を武力解散し、   正式国名を「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」とした。 

  (レーニン語録)   ・前進するな――不意をつかれないために。   ・無関心は権力者、統治者への静かな支持である。   ・百人の力は千人の力より大きなものでありえるだろうか。    もちろんありえる。さらに百人が組織されていれば、実際にそうなる。   ・政治においては敵から学ばなければならない。   ・資本家を否定しようと思うものは、貨幣を破壊しなければならない。   ・人は何をいい考えるかにしたがってではなく、何を行うかによって判断される。   ・宗教はある種の精神的な安酒だ。   出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ○20世紀初期ロシア絵画、その4  左翼系の画家たちは、新政府樹立に歓呼し、  果敢に新しい映像文化の樹立にまい進した。  基本的には、人民を感化し、鼓舞するマスメディアに  注目し、活用せんとするものだった。 出版、映画、ポスター、公共の場での印刷物などである。  美術学校では、工業デザインを教えた。  芸術家の社会的役割が熱い議論の対象になった。  絵画は、置き去りにされたのである。 オトーサン、 「そういえば、革命歌をよく歌ったなぁ」 信じられないでしょうが、大多数の学生が、 ロシアで起きた革命が、日本でも起きると信じていたのです。 友と腕を組みあわせ、声が枯れるまで歌ったもの。 ああ、インターナショナル ♪起て 飢えたるものよ  今ぞ 日は近し 覚めよ 我がはらから あかつきは 来ぬ 暴虐の鎖 断つ日 旗は 血に燃えて海をへだてつ 我ら腕(かいな) 結びゆく いざ 戦わん いざ ふるいたて いざ インターナショナル 我らがもの


50 革命後のロシア絵画

オトーサン、 「共産主義革命が成功!」 今となっては、 当時のひとびとが、どんなに喜んだかを理解するのは、困難でしょう。 共産主義国家であるソ連も、中国も、ヴェトナムも 半ば、資本主義国家になってしまいましたし、 今、残っているのは、朝鮮民主主義人民共和国とキューバくらい。 いずれも、貧困にあえいでいます。 でも、当時は、人類社会は、 以下の順番で進化すると考えられていたのです。 ・資本主義→社会主義→共産主義 ○共産主義 私的所有から社会的所有にすることによって、 貧富差のない平等な社会の成立を目指す 社会理論および政治運動、イデオロギーを意味する。 マルクスとその理論を実践したレーニンの名をとって マルクス・レーニン主義ともいわれる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「さて、画家たちは、どう対処したのか?」 引き続き、「ロシア!展」における解説文の翻訳です。 ○革命後のロシア絵画、その1 1920年代を通して、 様々なスタイルの画家たちが、共産主義国家・ソ連の名のもとに活動した。 構成派や生産派の画家たちは、画架で描く絵画を棄て去り、 革命後の日常生活に役立つ絵画へと転向した。 もっとも有名なのは、”Society of Easel Painters”で、 有力メンバーとしては、Alexander Deineka、Alexander Labas、 Sergei Luchishkinなどがいた。 彼らは、 モダニストであったが、写実派だった。 オトーサン、 「この2点が、アレクサンダー・デネカか。  自転車の絵のほうが、好きだけどなぁ」 でも、どちらが革命精神の鼓舞に役立つかといえば、 言わずとも明らかでしょう。

・Alexander Deineka Collective Farm Worker on a Bicycle. 1935.

・Alexander Deineka Mayakovsky at the ROSTA Agency. 1941. ○アレクサンダー・デネカ Alexander Deineka. 1899-1969.  彼は、社会主義絵画とはいかにあるべきかの論争の中心にいた。  構成派と組み、またネオ・リアリズムのグループとも組んだ。  この宣伝ポスターは、社会主義絵画のリーダー、デネカの代表作。  ロシア革命を熱烈に称えた詩人マヤコフスキーを描いたもの。 オトーサン、 「ほかの画家も、みてみるか。 ハハーン、飛行船か、国威発揚か」 いまのソ連でいえば、宇宙船でしょうか?.

・Alexander Labas: The Airship 1930

・Sergei Gerasimov. Collective Farm Harvest Festival. 1937 オトーサン、 「集団農場か、失敗したなぁ」 開始した頃は、共産主義の理想が実現する場として、 大きな期待を抱いていたのです。 この絵画をみると、 農民たちは、みんな和気あいあい、 頑強で活力にあふれています。 テーブルに溢れんばかりの食物、自転車だってあります。 輝く未来が約束されているかのようです。 だが、上から厳しいノルマが課せられるようになって、 農民は誰も組合のために真剣に働かなくなってしまったのです。 今となっては、周知の事実ですが... ○集団農場 コルホーズとは、集団農場のこと。 国有地を無料で使用して耕作を行った。 主な農機具・家畜等は共有。 労働者は組合員としてコルホーズで農作業を行い賃金を得る。 生産物は政府に売却する。組合組織による経営であった。 各個人の住宅に付属した小規模農地で野菜の栽培、家畜の飼育が可能で、 個人で生産した生産物は自由に販売してよい。 また、ソフホーズとは、大規模国営農場のこと。 国の計画にもとづいて農業生産を営み、生産物は国に引きわたされる。 生産する作物は政府から指令され、買い上げ価格まで政府の決定による。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「次は、イサーク・ブレドウスキーか」 このひとは、革命前は、風景画や肖像画を描いていたのです。 ペテルブルグの芸術アカデミーで、 ”ヴォルガの船曳き”で有名になったイリヤ・レーピンの仲間でした。 ユダヤ人だったので、帝政時代に弾圧されていました。 だが、革命によって、弾圧から解放され、 俄然、レーニンの賛美者に変わりました。 Association of Revolutionary Artists (革命的画家連盟)の リーダーとなり、共産党の指導者の庇護を受けるようになったのです。 「おお、レーニン賛美の絵だ」 労働者、兵士、なかんづく指導者の絵を描きまくりました。 レーニンの後を継いだスターリンにも高く評価されるようになったのです。 以下は、彼の代表作のひとつ。

・Isaak Brodsky. Vladimir Ilich Lenin. 1924. ○イサーク・ブレドウスキー  Isaak Brodsky. 1884-1939  1932年、ブレドウスキーは、画家労働者の栄誉に浴した。  (Honored Arts Worker of the RSFSR)  1932-39年は、レニングラードの全ロシア芸術アカデミーの教授に、  1934-39年には、その理事にまで昇進した。  1933年、彼は、スターリンに面会を許され、  社会主義リアリズムの手法について議論する。  1937年、パリの世界博覧会で金賞を受賞する。  1949年、彼の住居が、記念美術館として開館する。 オトーサン、 「同じレーニンでも、こちらの絵のほうがいいなぁ」 赤の広場の軍事パレードの姿よりも、 居間でくつろいでいるような姿のほうが人間味を感じますよね。 「ブレドウスキー、世渡り上手だなぁ」 この絵画の制作年代の”1954年”をよく覚えておいて下さい。 次回、その理由を明らかにしましょう。

・Military Parade at Red Square. 1919/5/25.

・Isaak Brodsky. Vladimir Ilich Lenin at the Smolny Institute. 1954  (スモーリヌイ修道院でのレーニン)


51 スターリン下のロシア絵画

オトーサン、 「さあ、あのスターリンが登場するぞ」 ヒトラーは知っていても、案外スタ−リンを知らないひとがいるようです。 予備知識がないと、この時代の絵画を語ることができません。 ○ヨシフ・スターリン  Iosif Stalin 1879/12/21- 1953/3/5 ソ連の政治家。 アドルフ・ヒトラーと列ぶ独裁者として悪名を馳せ、 粛清によって2000万人以上もの国民や党員を殺戮した。

 しかし、祖国をナチから守った英雄と見る人も少なくない。  ボリシェビキ(ソ連共産党)に書記局を設置して書記長に就任し、  のちの権力の地盤を築いた。  レーニンの死後、ライバルの粛清を経て最高指導者となった。  だが、スターリン時代のソ連は、世界共産主義運動の希望の星として  憧れの的だったのも事実である。  死後、フルシチョフをはじめ、スターリン批判が相次いでいる。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 引き続き、「ロシア!展」における解説文の翻訳です。 ○20年代後期〜30年代のロシア絵画、その1   1920年代後期から、スターリン政権下で、   芸術表現の自由が次第に制約されてきた。  1930年代初期、モダニストの作風がマスコミに攻撃された。   形式主義で、ブルジョワの影響下にあるとされたのである。   1932年、共産党中央委員会は、従来の芸術家組織を解体し、   新たに創設されるソ連芸術家連盟(Union of Soviet Artists)に   一本化することを宣言した。   1934年の第1回のソ連作家会議で、   スターリンの右腕であるアンドレイ・ジダーノフと作家マキシム・ゴーリキーは、   社会主義リアリズムを”革命的ロマチシズム”と定義し、  革命的発展のために現実を描かねばならないとした。 ロシア絵画には、労働者を社会主義精神で武装するよう、   教育し、変革させる任務が与えられた。   この目標は、20世紀初期の前衛芸術のユートピアと共通していたが、   これを受け容れることは、表現手段が制約されることを意味していた。 オトーサン、 「スターリン崇拝のポスターを描けということか」 不愉快なので、次に進みましょう。

・Karpo Demjanowitsch Trokhimenko. Stalin as an organizer of the october revolution. ○20年代後期〜30年代のロシア絵画、その2  1930年代にもっとも成功した画家は、  Brodsk、Deineka、Sergei Gerasimovだった。  彼らは、ソ連の成果を誇り、困難や過ちを乗り越えた  ヒーローたち(農民、労働者、党のリーダー)を描き、  いまだ実現せぬ共産党のユートピアのイメージを明示した。  1928年から開始されたスターリンの5ケ年計画は、 1930年代末までに、ロシアを世界の主要工業国に変えようとしたものだが、  これらの画家たちは、これを強く支持したのである。  社会主義リアリズムの作家たちは、 集団農場を称え、農民たちを明るく描いたが、  この政策によってもたらされた飢餓や様々な困難を無視した。 オトーサン、 「こういう絵って、いやだなぁ」 まさに、偶像崇拝の典型ではないですか。 右腕アンドレイ・ジダーノフの葬儀に、 スターリンが弔問にきた情景を描いたものです。 ひどい弾圧を行った奴を自己批判させられた画家が描くとはねぇ。

・Alexandr Gerasimov. W.Stalin over the coffin of Andrei Zhdanov. 1948. ○20年代後期〜30年代のロシア絵画、その3 1930年代後期のスターリンの粛清によって、   共産党のエリートのほぼ半数が逮捕され、   うち半分が処刑され、拷問され、強制労働をさせられた。   ソ連の市民、そして芸術家たちにとって暗い時代だった。   だが、この時代に、社会主義リアリズムのテーマと絵画言語が確立した。   そのスタイルは、画家によって異なるが、   その後、ほぼ50年もの間、国家公認絵画として存続した。   絵画を通して宣伝された社会主義リアリズムと      ポスターなどのマスメディアで供給された偶像イメージは、  これまで深く根付いてきたソ連映像文化とまじりあって、   次の世代へと受けつがれていった。 オトーサン、 「こういう絵なら、許せるなぁ」 ここは、おそらくモスクワの新開地でしょう。 鉄パイプが置かれ、ぬかるみに板が敷いてあります。 そこを、新婚の2人が、いそいそと新居へ向かっているのでしょうか。 明日の街づくりを称えた絵画なのでしょうが、 ロシア革命の現状への痛烈な批判に見えなくもありません。 2人の末長い幸せを祈りたくなるではありませんか。

・Yuri Pimenov, Wedding in Tomorrow Street. 1962


52 ロドチェンコ、その1

オトーサン、 「すごい時代だったんだなぁ」 ロシア!展、冷戦終了後はじめて、 アメリカ人に明かされた革命時代のロシアの姿。 1917年のロシア革命によって約束されたバラ色の未来、 それが、わずか20年後には、スターリンの粛清という地獄へ。 こんなジェット・コースターのなかで、 画家たちは、画家として、どうやって生き延びたのか? それを体現したのが、アレクサンダー・ロドチェンコなのです。 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その1   Alexander Rodchenko 1891-1956 ロシアの構成派の画家にして理論家。写真家。   彫刻家、装飾家、舞台美術、家具デザイナー、   イラストレーター、そして教員...幅広い分野で活躍した。

ペテルブルグに生まれる。 1902年、家族がカザンに転居したので、   1910-14年、カザンの絵画学校で学び、   その後、17年まで、モスクワのStroganov Instituteで学ぶ。   1915年、Kazimir Malevichに影響されて、抽象画を描きはじめる。   翌年、Vladimir Tatlinが主宰する展覧会"The Store"への参加を手はじめに 活発に展覧会に出品するようになる。  1918年には、絵画理論をモスクワのschool-studio of Proletkultで教えた。   また、新聞キオスクのデザイン・コンペで、1等入選。  1920年、新政府から、Museum Bureau and Purchasing Fundの局長に任命され、   絵画学校と美術館の再組織を担当した。   1920-30年は、INKhUK創設メンバーであり、   モスクワのHigher Technical-Artistic Studiosで教鞭をとった。 オトーサン、 「初期のものは、絵も彫刻も、大したことないな」

・Alexander Rodchenko. Non-objective Composition. 1917-18 ・Alexander Rodchenko. Spatial Construction no.12. 1920. ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その2 1921年、ロドチェンコは、構成主義宣言を共著で出した。   革命の真中にあっては、ワイヤー、ガラス、鉄板といった    社会的に有用な機械をつくる素材をアートに使用すべきと主張した。   同年9月、ロドチェンコほか、5人の構成主義画家は、モスクワで、   ”5x5=25”なる展覧会を開催した。    5人が、5点ずつ出品することからの命名である。   ロドチェンコは、Line and Cellという絵のほかに、3つの単色絵画を出品した。   この作品は、話題を呼び、絵画の終焉と騒がれた。 オトーサン、 「赤青黄の3原色を並べただけじゃないか」 これで、話題を呼べるなら、幼稚園児でもOKじゃないですか。 「どこがそんなにスゴイの?」

・Triptych:Pure Red Color, Pure Blue Color, and Pure Yellow Color.1921 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その3  後年、ロドチェンコは、こう回想している。  私は、絵画をその究極の論理まで削減してみた。  赤青黄の3色を並べてみた。  確認した。そう、これで終わりだ。  3原色だ。  どれも、平面だ。  これ以上、減らしようがない。  ロドチェンコにとってみれば、  このジェスチャーは、美的かつ政治的なものであった。  現在の社会情勢は、新しい絵画形式を必要としている。  古い絵画形式に死を! オトーサン、 「確かに、一面の理はあるな」 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その4 いかに描くかと問えば、 宗教画、風景画、肖像画といった芸術形式、 技法、造形、戦略、文化的文脈、感性、共感が課題になる。 だが、何を描くかとなれば、 トッピクスではなく、本質が課題になるはずである。 抽象絵画の歴史は、本質に迫る絶望的な試みだった。 そして、色彩、形、その総合によって、 画家たちはその本質へ向かっていった。 だが、さらに、その先にある本質に迫ろうとすれば、 ロドチェンコの3原色が終わりにならざるを得ない。 オトーサン、 「絵画が終わっちゃう?」 こんな話は、生まれてはじめて聞きました。 「まぁ、オレは画家じゃないから、いいようなもんだけど。 画家たちは、この先、一体、どうなっちゃうの?」


53 ロドチェンコ、その2

オトーサン、 「えっ、彼、画家を廃業したのか」 多芸多才なひとだから、 東京がダメなら大阪があると考えたのでしょう。 王侯・貴族・富裕商人がいなくなって、 絵画を飾る場所もなくなり、需要も減ってきたのに対し、 大衆相手の各種の新しい表現物の需要が生じてきたのです。 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その5  1921年、彼は絵画をやめて、   演劇、映画、印刷物、広告のイラストを描くのに専念した。   国営工場の煙草やビスケットの広告も手がけている。

・Aleksandr Rodchenko. Biscuits. 1923.   また、彼は映画監督ジガ・ヴェルトフの仕事に感銘していたが、   1922年からは、監督のニュース映画シリーズ   ”One-sixth of the World”の製作に参加した。   (後に、記録映画の監督もやっている)   また、ドイツのダダイストらの合成写真の影響を受けて、    1923年、各種メディアで、その実験を開始し、   1924年、自分で写真を撮りはじめた。   1926年から、Ogonokなどの有力誌の依頼で   報道写真を撮るようになった。 オトーサン、 「困っちゃうな、知らんひとが出てきて」 このHPで、ほのぼの映画批評を手がけている以上、 映画監督の名前が出てくるとなれば、 見過ごすわけにはいきません。 ○ジガ・ヴェルトフ  Dziga Vertov. 1896/1/2 - 1954/2/12. ロシア出身の映画監督。

出生当時ロシア領だったポーランドのビアリストクに、 ユダヤ人家庭の三人兄弟の長男として生まれた。 ニュース映画の制作で映画界入りし、ドキュメンタリーの制作にも着手。 その傍らでマヤコフスキー等のロシア・アヴァンギャルドの芸術家達とも 親交を結ぶようになった。 幾つかの長編ドキュメンタリーを制作した後に、 自らの映画論の集大成とも言うべき「カメラを持った男」(1929)を制作。

・The Man with a Movie Cameraのワンシーン  多重露光、ストップ・モーション、スロー・モーション、早回し、移動撮影など  当時の最先端の撮影技法を多用した先鋭的な作品だった。  この作品により、その名は西欧に知れるところとなったが、  ソヴィエト政府からは形式主義的との批判を受け映画製作の機会を奪われ、  晩年はスターリンによる反ユダヤ政策の影響でニュース映画の編集をやらされた。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「当時の最先端の撮影技法を学んだのか」 写真は、映画のヒトコマのようなものですから、 彼の撮る写真も、最先端のものになっていったにちがいありません。 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その6   彼の好きな被写体は、身近な人物であり、   スポーツであり、サーカスであり、フェスティバルであり、   そして、ソ連らしい暮らし方だった。   カメラを絵筆、高度にフレキシブルな絵筆に見立てた。   クローズアップや斜めのカメラ・アングルを多用した。   これによって、被写体を再発見したのだ。   絶妙な構図、新鮮な強い線によって、   彼の写真からは、リズムや詩や美が伝わってくる。

・Alexander Rodchenko. Stepanova with a cigarette,1924.

・Alexander Rodchenko. Portrait of mother. 1924.

・Alexander Rodchenko. Girl with Leica. 1934.

・Alexander Rodchenko. To the demonstration. 1928.

・Alexander Rodchenko. 17-Soviet-Rodchenko-NKVD-Sports-Parade. 1936. ・Alexander Rodchenko. Rhythmic Gymnastics. 1936. オトーサン、 「そうか、やっぱり、うまいなぁ」 かけがえのない個人の、集団の歴史、 その瞬間と空間が見事に切りとられています。 われわれ素人が、いい写真を撮ろうと思ったら、 被写体を違う位置から、何枚も撮らなきゃダメなようですね。 分かっちゃいるけど、いつも1枚だけ。 せめて、これからは、3枚は撮るようにしましょう。


54 ロドチェンコ、その3

オトーサン、 「この写真、いいなぁ。 このはじけるような笑顔の女、誰だろう?」 撮影されたのは、1924年ですから、 ロシア革命後、まだひとびとが幸せな時期でした。

・Alexander Rodchenko. Lily Brik. 1924. ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その7   1923年、最初の写真集が出版された。   マヤコフスキーの詩"About This"をテーマにしたものだった。   1923年から1928年まで、彼は、マヤコフスキーに協力し、   雑誌”LEF”と”Novy LEF”のデザインとイラストを描いた。   マヤコフスキーのすばらしい肖像写真を撮った。

・Alexander Rodchenko. The poet Vladimir Mayakovsky. 1924.

オトーサン、
「これが、若き日のマヤコフスキーか」
すでにご存知のようにロシア革命期を代表する詩人です。
こんな詩があります。

 ためて
  くらって
   ねるばかりで
 資本主義は
  ふくれあがり
   うごけなくなった。
 みうごきならず、
  歴史のとちゅうで
   世界によこたわった
 じぷんの ねどこに
  のびるように。
 こいつは
  どんなにしても
   よけてはゆけない、
 ただ ひとつの ては
  爆破すること!

この写真の撮影された1924年、
ロドチェンコ、33歳。マヤコフスキー、31歳。 
「2人とも、過激だなぁ」
911を想起させるような写真ではないですか!

・Alexander Rodchenko. The poet Vladimir Mayakovsky. 1924. オトーサン、 ネットで探索して、ようやく Lily Brikを発見。 マヤコフスキーに寄りそっています。 「おいおい、不倫かよー」 革命後は、不倫も、”自由恋愛”として許されたのでしょうか? 「でも、幸せそうな2人だなぁ」

・Lilya Brik i Vladimir Mayakovskii. 1918. ○リリー   Lily Brik. 1891 - 1978. マヤコフスキーの恋人で、”詩の女神”ともいわれる。   マヤコフスキーが、リリーとの恋に落ちたのは、1915年の夏。   だが、残念ながら、彼女は人妻だった。   夫は、彼の詩集の出版者Osip Brikだったのである。 オトーサン、 「これが寝取られた夫か」 真面目一方の堅実な男性のようです。 「女って、こわいなぁ」 旦那と一緒に写真を撮った彼女は、別人のようです。

・Alexander Rodchenko. Osip Brik. 1924.
・Lili and Osip Brik.

オトーサン、
「先を急ごう」
ロドチェンコにすっかり時間を取ってしまいました。

○アレクサンダー・ロドチェンコ、その8
 1928年、写真集”Soviet Photography of the Last Ten Years”を出版する。
 同年、10月革命の発展を狙う”October circle of artists”に参加する。
 1929年には、マヤコフスキーの戯曲”The BedBug”(南京虫)の 
 舞台装飾や小道具をデザインした。
  この舞台稽古には、作曲家ショスタコーヴィッチも立ち会っている。
 1930年には、”Twenty Years of the Work of V. Mayakovsky”を出版する。

・Shostakovich, Meyerhold, Mayakovsky and Rodchenko  rehearsing Mayakovsky's play The Bedbug. 1929. オトーサン、 「そろそろ、スターリン登場か」 1930年代後半から粛清の嵐が吹き荒れるのです。 当然、マヤコフスキーの親友だったロドチェンコの運命も、 暗転していくのです。 ○アレクサンダー・ロドチェンコ、その9  1930年代、共産党の芸術活動に対する指針が転換した。l  それを受けて、ロドチェンコは、  スポーツやパレードなどの写真を撮るようになった。  1931年、"formalism"なる容疑で、  ”October circle of artists”から除名される。  1930年代後半からは抽象絵画に戻って、  1942年には写真から手を引いたが、  政府の依頼で、写真展開催は続けていた。 1956年、モスクワで死んだ。 オトーサン、 「マヤコフスキー、過激だなぁ」 あんなに革命を賛美していたのに、 いまや革命に失望を隠せなくなっています。 例えば、党中央を批判するこんな詩。 スターリン批判と受けとられても、しようがないでしょう。 わたしは、おそれる、 行列とか 霊廟とか、 さだめられた 礼拝のきまりとかが ねっとりとした 聖油を レーニンの 純粋さに そそぎはしないか、と そして、こんな詩。 おお、 せめて いま一つ 会議があってほしい、 あらゆる会議の廃止に関する会議が! オトーサン、 「いいこと、言うなぁ。 絵画が死んだのは、ロシアだけじゃないよな」 ひとびとは、いま、写真やTVやネットに夢中です。 絵画は、たまーに展覧会で見るだけ。 美術評論家John Haberが、こんな文章を残しています。 ロシア革命は、芸術家たちに、 ステキなジェット・コースターを提供した。 彼らは、胸を張って先頭を行進した。 そして、現代を創造したのだ。 ロドチェンコの豊穣な回顧展は、それを物語っている。 おそろしい高みから、奈落の底へ。 だが、彼の人生を見ていると、 わが米国の現状を憂えざるをえない。 絵画の死は、お金や政府や強権によるものではない。 それは、開かれた社会においても死んだのだ。 NEA(米・国立芸術基金)が主役の時代は、危険である。 大型美術展の支援は、壁に穴を開ける方法ではあるが、 十分な数の穴がないと、市場経済は機能しない。 市場経済が機能しないと、芸術は公共物にとどまり、 個人のものにはならないのだ。 出典:ロドチェンコ回顧展(MOMA.1998/10/6-) John Haber”Crowded Squares and Empty Shadows” 


55 マヤコフスキー、その1

オトーサン、 「画家ではないが、この詩人、もっと知りたいな」 ”ロシア!展”を深く理解するには、 詩人の言葉の力を借りなくては... ○ウラジミール・マヤコフスキー、その1 Vladimir Mayakovsky  1893/7/19 - 1930/4/14  20世紀初期のロシアの未来派詩人の代表。

 森林管理官の息子としてグルジアに生まれる。  両親とも、コサックの子孫だった。  14歳、中学生のとき、クターイン市のデモに参加。  1906年、父親の急逝で、母親は2人の姉とともに、  モスクワに引越し、モスクワ第5中学に編入する。  マルクス主義者の文学に熱中し、  ロシア社会民主労働党(後の共産党)の活動に参加し、  後に党員になる。  1908年、経済的理由もあって中学を退学する。  この頃、すでに3回も政治活動のせいで投獄されてきたが、  年少のために追放は免れた。  1909年、ヴトゥイルスカヤ監獄の独房に収容中に、  詩を書きはじめる。  残念ながら、詩は没収され、残っていない。  出典:Wikipedia, the free encyclopedia オトーサン、 「これが、悪名高きヴトゥイルスカヤ監獄か」 後にスターリンの粛清によって、数十万人が投獄された監獄です。 「ホリエモンは、収監中に、百科事典を読んでいるそうだが...」 独房は自分をみつめ、独学をするのには、いい環境のようです。

・ヴトゥイルスカヤ監獄(モスクワ) ○ウラジミール・マヤコフスキー、その2  釈放され、引き続き社会運動に参加する。  1911年、Moscow Art Schoolに入学し、  ロシア未来派運動のメンバーと知り合う。  やがて、そのグループの主導者になり、  同窓で、11歳年上のダビート・ブルリュークと意気投合する。  ダビートは、「君は天才詩人だ」とマヤコフスキーを励まし続けた。

・David Burliuk 1912年未来派文集「社会の趣味を殴る」に、  最初の詩、「夜」と「朝」を掲載する。  1914年、政治活動のために、  ブルリュークとマヤコフスキーは、退学処分を受ける。 1917年のロシア革命に先立ち、出版された詩集で名声を得た。  「ズボンをはいた雲」 (1915) は、彼の最初の長編詩であり、  愛、革命、宗教、芸術についての熱い想いを描いている。  話し言葉を使い、理想的でロマンチックな詩だった。 オトーサン、 「どんな詩なのかなぁ?」 だらけた頭で 夢見ている きみらの思想  そいつを 脂じみた寝椅子にいる 飽食の召使のように 血まみれの心臓の切れ端で、 嘲笑してやろう 生意気に、辛らつに、 いやになるほど嘲けってやるぞ ボクの魂には、1本の白髪もなく、 おじいちゃんの優しさもない 雷鳴のごとき声で、世界を震撼させてやる ボクは進む 美しい22歳のボクは (オトーサン訳) オトーサン、 「次は、あのリリーとの出会いか」 このリリー、ロシア語では、リーリャと呼ぶようです。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その3  1915年夏、マヤコフスキーは、リーリャに出会った。  彼女は、批評家Osip Brikの妻だった。  Osip Brikとは、作家のゴーリキーを介して知り合った。  しょっちゅうブリーク家を訪れ、いくつかの詩を彼女に捧げた。  リーリャは、彼の異様な憧れや虫歯や汚い身なりに困惑した。  彼女を喜ばすために、彼は歯医者に通い、  ネクタイをつけ、杖を持ち歩くようになった。  1歳年上の彼女は、夫のブリークに告白するが、  詩人の才能を高く買い、詩集の出版人であったブリークは、  その仲を黙認し、隣合わせの家に住んでいたほどだった。  リーリャは、マヤコフスキーの詩の女神、永遠の恋人になった。  その想いが、「背骨のフルート」 (1916)に出ている。  この恋愛、そして戦争と革命が、この詩に歌われている。  続いて 「戦争と世界」 (1916)、「人間」 (1917)が生まれた。

・Lilya i Mayakovskii v Krymu. 1926. 

オトーサン、
「背骨のフルート、どんな詩なんだ?」
長い詩なので、そのプロローグの一節をご紹介しましょう。

思い出よ
脳髄の広場に 恋人たちの
尽きることなき行列を 集めてくれ
目から目へ 笑いを そそいでくれ
ありし昔の もろもろの婚礼もて 夜を装わせよ
からだからからだへ 歓楽をそそいでくれ
この夜を だれにも 忘れさせるな
ぼくは きょう フルートを 吹こう
自分自身の背骨を 吹こう
出典:稲田定雄訳「マヤコフスキー詩集」角川書店1973

○ウラジミール・マヤコフスキー、その4
 第1次世界大戦が勃発し、志願したが、不合格。
 1915-1917年、ペテログラードの軍用自動車学校で
 製図工として働く。
 ロシア革命勃発にともなって、スモールニーへ。
 10月革命の生き証人となる。
 海軍劇場で水兵たちに自作の詩の朗読を行なったりした。
 モスクワに戻った彼は、ロシア電報通信社(ROSATA 後のタス通信)で働き、
 壁紙「ロスタの窓」に煽動詩や風刺画を描いた。
 1919年、最初の著作集を出版する。
 誕生したてのソ連において、
 彼の革命詩人としての名声は急速に高まっていった。

オトーサン、
「詩人労働者という詩があったな」
これもその一節を抜き書きしましょう。

詩人はこんなふうに どなりつけられる
旋盤のそばで おまえさんを見たいものだ
けれど いったい だれが
ぼくたちに 怠け者だと 非難を投げつけるのか
ぼくたちは 言葉の旋盤で 脳髄を磨いている
どちらが上なのか
詩人か
それとも
ひとびとに利益をもたらす技術者か
両方ともだ
心臓は 同じモーターだ
魂は 同じ手のこんだ発動機だ
ぼくたちは 平等だ
労働大衆のなかの 同志なのだ
身も心も プロレタリアだ 
ただ ともどもに
宇宙を ぼくたちは 飾りたて
行進曲を とどろかせよう
(稲田定雄訳)

オトーサン、
「その後、リーリャとの恋はどうなったの?}

○ウラジミール・マヤコフスキー、その4
 1922-1928年、彼は左翼の有名人だった。
 自ら”未来派共産主義者”と名乗った。
 海外旅行を許可されたごく限られたソ連の作家のひとりとして
 ラトビア、英国、ドイツ、アメリカ、メキシコ、キューバへ旅した。
 ルポルタージュ「ぼくのアメリカ発見」(1925)は、この成果。
 また、国内を自由に旅することもできた。
 アメリカ講演旅行の途中、エリ・ジョーンズと出会い、
  後に1929年に知されるが、娘が生まれた。
 2人は、極秘のうちに南仏で定期的に出会っている。
 1928年秋、35歳の彼は、パリでタチアーナ・ヤーコヴレヴァと出会い、
 「タチアーナ・ヤーコヴレヴァへの手紙」(1928)を捧げた。
 29年春、再び、パリに会いに行き、22歳の彼女に求婚する。

・Tatiana Yakovleva オトーサン、 「しょうがないなぁ。 男って、いつもこうなんだだから、 そのまんま東なんだから」 一応、タチアーナに捧げた詩の一節をみておきましょう。 きみひとりが ぼくと 背だけが おなじなんだ 眉と眉をあわせ 並んで立っておくれ この すばらしい 夕べのことを 人間的に 語らせておくれ (稲田定雄訳) オトーサン、 「いい加減にせい!」 リーリャが、どう反応するか心配です。 リーリャの反応を知りたい方は、次回にご期待ください。 詩の続きを読みたいかたは、マヤコフスキー詩集を読んでください。


56 マヤコフスキー、その2

オトーサン、 「おお、こんなエピソードがあったのか」 リーリャの回想記が残っていたのです 1929年10月11日の夕方というと、 今から77年も前のことになります。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その6   リリーは、その夕方のことをよく覚えている。   マヤコフスキーとタチアーナ・ヤーコヴレヴァとの   関係が終わったときのことだ。   1929年10月11日の夕方、   私たちは、アパートの居間に静かに座っていた。   マヤコフスキーがレニングラードに行くので、   駅まで彼を運んでくれるクルマを待っていたのだ。   朗読が予定されていた。   フロアには、荷造りされたスーツケースが置いてあった。   ちょうどそのとき、姉(Elsa Triolet)からの手紙が私に届けられた。   私は、手紙を開封し、いつものように大声で読みはじめた。   いろんなことが書いてあるなかに、エルザはこう書いていた。   タチアーナ、マヤコフスキーがパリで出会い、   依然として恋しているタチアーナが、   子爵と結婚することになって、   教会では、白いガウン姿、オレンジの花を手に。

・Tatiana Yakovleva    オトーサン、 「おいおい、破局がリーリャに知らされて、 マヤコフスキーは、知らなかった? こりゃ、大変だ」 続きを読みましょう。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その7   エルザは、非常に心配していた。   マヤコフスキーがそれを知ったら、大騒ぎになる。   彼は打撃を受けるだろうし、結婚を壊しにかかるかも。   手紙の終わりに、エルザは、こう書いていた。   マヤコフスキーには、内緒にしてね。   でも、手紙は既に朗読されてしまっていた。   マヤコフスキーは陰鬱になった。

・Vladimir Mayakovsky   彼は立ちあがり、こう言った。   「そうだな、すぐ行かなきゃ」   「どこへ行くの?」   我々は尋ねた。   クルマはまだ着いていなかったのだ。   だが、彼はスーツケースを持ち、私にキスして、去った。 オトーサン、 「そ、そ、それで?」 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その8   運転手が戻ってきて、   通りでマヤコフスキーに出会った。   彼は、スーツケースをクルマに投げ入れ、   乗り込んで、運転手を激しく罵倒した。   いままで、そんなことはなかったんだが。   そして、押し黙った。   駅に着いたとき、彼はこう言った。   「すまん。同志Gamazin、オレを怒らんでくれ。    胸が張り裂けそうなんだ」 オトーサン、 「そりゃ、そうだよな。取り乱すだろうよ」 でも、問題はリーリャの反応です。 幸い、続きがありました。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その8  その夜ずっと、私はマヤコフスキーのことが心配だった。  翌朝、レニングラードのホテル・ヨーロッパに電話して、  とても心配しているのよ、と彼に言った。  彼は、ロシアの古い諺で答えた。  「馬が死んだ。別の馬にのりかえよう。   心配しないで」  「でも、あたしに会いたいんじゃないの?」  彼は、大いに賛同した。  夕方、レニングラードまで行った。  私をみて、彼はものすごく喜んだ。  私を片時も一歩も離そうとはしなかった。 一緒に彼の公演を見た。  毎回、大きなホールが学生たちで満員だった。  出典:The end of Tatiana     http://www.namdar.dircon.co.uk/aaRussian/Maya/maylif-tat.htm オトーサン、 「そうか、この2人、幾星霜をへて、  姉弟みたいな関係になっていたんだ」 せっかくの機会ですから、 この稀有な女性の生涯をたどっておきましょう。 マヤコフスキーのおかげもあって、 歴史上の人物になってしまいました。 彼女の取り巻きのひとり Viktor Shklovskyは、こう書いています。 彼女は、茶色の目をし、頭が大きく、美しい赤毛で、 明るい人柄で、ダンサーになりたがっていた... オブジェが好きだった。 金色の毛ばりの形をしたイアリング、 古いロシアの飾り、真珠の首飾り、沢山の装身具をもっていた。 彼女は、あるときは悲しげで、女らしく、気まぐれで、 誇り高く、おふざけで、移り気で、好色で、賢かった。 そうお望みのものになれたのだ... ○リーリャ・ブリック、その1   Lilya Urvena Brik 1891 -1978/8.4 Elsa Trioletの妹(シュールリアリストの詩人、ルイ・アラゴンの妻)   Osip Brikの妻、マヤコフスキーの詩の女神。   ロシア前衛画家たちの女神とも呼ばれる。

・Lilya Brik   カザン生まれ。父は、ユダヤ人で法律家。   姉妹は、よい教育を受けた。   ドイツ語とフランス語を流暢に話すことができ、ピアノを弾いた。   リーリャは、Moscow Institute of Architectureを卒業。   美人姉妹として有名だった。   その肖像画(写真)を描いた画家には、ロドチェンコのほか、   Alexander Tyshler、David Shterenberg、David Burlyuk、   Fernand Leger、Nadezhda Leger-Hodasevichm、Gary Blumenfeldがいる。   後年、アンリ・マチスやマルク・シャガールも描いている。   姉妹は、詩も好きだった。   1912年、リーリャは、Osip Brikと結婚。   夫が未来派詩人で文芸評論家だった関係で、   多くの画家、作家、映画監督と知り合う。   1915年夏、姉の紹介で、   前途有望な詩人・グラフィック・アーチストであるマヤコフスキーを知り、   自宅に招いて、「ズボンをはいた雲」を朗読してもらう。   こうして、2人は恋に落ちた。   このことを打ち明けると、夫はこう言った。   「3人は、今後決して、離ればなれにならないようにしよう」   第1次世界大戦、ロシア市民戦争をへて   1920年代を通して、2人の情事は世間の注目を浴びた。   彼女が夫と離婚しなかったからである。   1915年6月以後、マヤコフスキーの叙情詩は、   ほとんど例外なくリーリャに捧げられている。    「ズボンをはいた雲」(1915)、「背骨のフルート」(1916)、    「リーリチカよ -手紙の代わりに」(1918)、   1918年、マヤコフスキーは、映画の脚本を3本書く。   "Chained by the Film”には、2人がみつめあうシーンがある。   だが、テスト・フィルムの一部を除き、映画は失われてしまった。

・Lilya Brik in the movie "Chained by the Film" 1918.


57 マヤコフスキー、その3

オトーサン、 「”リーリチカよ -手紙の代わりに”って、どんな詩?」 リーリチカとは、マヤコフスキーがつけたリーリャの愛称。 将来を暗示する、その一節を抜き書きしてみましょう。

・Lilya i Mayakovskii v Krymu. 1926. ぼくには きみの愛する名前のひびきのほかは どんなひびきも うれしくはないのだ ぼくは 横断道路にも 飛び出さないだろうし 毒を あおぎもしないだろう こめかみの上に 撃鉄をおしつけることも できないだろう ぼくの頭上には きみのまなざしのほかは 1本のナイフの刃も 君臨できないのだ あしたになれば きみは 忘れてしまうだろう ぼくが きみに戴冠させたことを 花咲ける心を 愛によって焼きつくしたことを また あくせくした日々の ほこりっぽい謝肉祭が ぼくの小さな本どものページを しわくちゃにすることを... ぼくの言葉の 乾いた1枚 1枚は むさぼるように 息づきながら とどまらせられるだろうか せめてものことに きみの去りゆく歩みを 最後のやさしさもて 飾ってくれ (稲田定雄訳)   オトーサン、 「その後、リーリャはどうなったの?」 運命は暗転し、激動の人生を歩むことになります。 ○リーリャ・ブリック、その2  1926年、クリミアのユダヤ人集団農場訪問後、   マヤコフスキーとVictor Shklovskyの共同脚本で、   彼女は、記録映画"Jews on the ground”を製作した。   1928年には、"Chained by the Film"を製作し、   1929年にかけて、半分ドキュメンタリーの映画、   "The Glass Eye, a parody on "bourgeois cinematography"を監督した。   1930年にマヤコフスキーが、33年夫のOsip Brikが死ぬ(45歳)。   1930年代後半に、リーリャは、将軍 Vitali Primakovと結婚したが、   彼は1936年に逮捕され、翌年処刑されてしまう。   トロツキーの反政府軍事組織にかかわったとされたからである。   (この嫌疑が晴れて、名誉回復されたのは、1957年になってからだった。   リーリャも処刑リストに入っていたが、スターリンが取り消させたという) オトーサン、 「おっそろしい世の中だなぁ」 マヤコフスキーも、夫も死んでしまい、 新しい夫に連座して処刑されそうになるなんて... ○リーリャ・ブリック、その2  1938年、作家のVasily Abgarovich Katanyanと結婚し、   以後40年間ともに暮らした。   夫は、マヤコフスキー研究家になり、   リーリャは、マヤコフスキーの回想録を出版した。

・Lilya Brik lived with V.A.Katanyan. オトーサン、 「はじめて出会ったときのことを書いている!」 1915年の輝かしい夏、 青年マヤコフスキーを自宅に招いて、 「ズボンをはいた雲」を朗読してもらったときの模様を リーリャは、こう書き残しています。  彼の朗読は魅力的だった。  それこそ、待ち望んでいたものだった。  この後、しばらく、私たちは朗読をする気にはなれなかった。  ほかのすべての詩は、無価値に思えた。  詩人たちは、ちゃんとした手法で書いていなかったし、  ちゃんとしたことを書いていなかった  だが、いまここに、両者を兼ねそなえた詩人がいる!  出典:http://www.cosmicbaseball.com/brik0.html ○リーリャ・ブリック、その3   リーリャは、晩年不治の病にかかり、87歳で自殺した。   子どもはいなかった。彫刻と著作が残されている。   近年、姉妹の50年間に及んでやりとりされた手紙が公開され、   リーリャの実像が明らかにされてきた。 

・Portrait of Lilya Brik sketched by Mayakovsky. 1916.   リーリャは、「男心をもてあそぶ運命の女」ではなく、   知性豊な利他主義者で、前途有望な青年たちを支援し、   多くのリーダーたちと親交を結んでいたことが判明してきた Sergei Eisenstein(映画の父)、Lev Kuleshov(映画監督)、 Sergei Parajanov(映画監督)、   Boris Pasternak( 「ドクトル・ジバゴ」で有名な詩人・小説家)、   そして、画家のKazimir Malevichやピカソやイヴ・サンローラン等.. 出典:Wikipedia, the free encyclopedia オトーサン、 「リーリャは、自立した女性だったんだ」 ジョン・レノンにとってのオノ・ヨーコのような存在だったのかも。


58 マヤコフスキー、その4

オトーサン、 「さあ、マヤコフスキーに戻ろう」 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その9   1920年代の終わり、マヤコフスキーは、   次第に共産党とその宣伝に失望しはじめる。   1929年の風刺詩劇”The Bedbug”(南京虫)は、 新生ソ連で官僚主義と俗物主義の跋扈を批判した。 オトーサン、 「ロドチェンコが舞台装飾を引き受けた劇だったっけ」 この劇のあらすじをご紹介しましょう。 舞台写真も、ようやくネットでみつけました。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その10  1929年、スクリプキンは恋人ゾーヤを捨て、  成金の娘との結婚式に臨む。  式場で火事が発生し、それを消すための放水が凍りついて、  プリスプキンは一匹の南京虫とともに氷づけになり、50年間眠る。  1979年、彼は解凍され、ゾーヤと再会する。  彼と南京虫、過去の貴重な遺物として動物園の檻に入れられる。  10幕中の第2幕途中、話は、50年後の未来に飛ぶ。  写真では、プリスプキンが、まだ冷凍されず、  1920年代のタキシードを着用している。

オトーサン、 「この風刺劇の評判はどうだったの?」 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その11  だが、この風刺劇は、大勢に白い目でみられる...  「前向きのヒーローがいない」(その通リ)  「未来のソ連社会への好意がない」 (これもその通リ)  この背景には、組織的な芸術家へのキャンペーンがあった。  スターリンの官僚たちは、前衛芸術を規制しはじめていたのだ。  批評家たちは、風刺そのものを疑問視した。  1930年1月、モスクワでは「風刺は必要か」なるセミナーが開かれ、  敵は風刺を装って、反政府活動を展開すると決めつけた。  こうした風潮のなかで、マヤコフスキーは孤立した。  日記に、こう書いている。  「沢山の犬がぼくの喉に噛みつく」   オトーサン、 「袋叩きか、大変だなぁ」 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その12  マヤコフスキーは、強度の抑鬱症になった。 1930年4月12日、遺書を書く。 14日、モスクワの仕事場で女優ポローンスカヤと会う。  その直後午前10時15分、自宅で拳銃自殺をした。  37歳の若さだった。

・Living room of Mayakofsky  リーリャによれば、彼は2度も自殺を図り、食い止めたという。  だが、折悪しく、リーリャはベルリン旅行中だった。  原因としては、  政府の弾圧によるものという説が有力だが、  リーリャへの長年にわたる失恋説、  直前に出会った女優ポローンスカヤにふられたという説  「南京虫」に続く「蒸風呂」の公演失敗による  作家活動の行き詰まり説などがあり、  今となっては、真相は確かめようがない。   オトーサン、 「遺書を見てみよう、それで分かるかも」 遺書のなかに詩の一節が含まれています。 The love boat has crashed against the daily routine. You and I, we are quits, and there is no point in listing mutual pains, sorrows, and hurts.

・Lily and Mayakovsky 恋のボートは、 日々のルーティンに押しつぶされちまった きみとぼく、ぼくらは別れる お互いの苦しみ、悲しみ、心の傷を聴くすべもない もう終わりだ (オトーサン訳)


59 マヤコフスキー、その5

オトーサン、 「死後どうなったの?」 これだけの詩人ですから、 ただ忘れ去られるはずはありません。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その13  彼の葬儀には15万人が参列し、  モスクワのNovodevichy墓地に埋葬された。

・Grave of Mayakovsky 死後、彼はソ連の新聞に攻撃された。 ”公式主義者”や”同伴者”であり、 プロレタリアート詩人ではないと公的に認定されたのだ。 オトーサン、 「ひどいなぁ。死者に鞭打つなんて...」 でも、ここで、リーリャが身の危険を顧みず頑張ったのです。 彼を最もよく知る自分が頑張らなきゃと思ったのでしょう。 リーリャの面目躍如です。 ただの愛人ではなかったのです。 人間として一本筋が通った女性だったのです。

・Lily ○ウラジミール・マヤコフスキー、その14 1935年、リーリャ・ブリークは、 マヤコフスキーの評価について、 スターリンに抗議の手紙を書いた。 これへの返事が、12月17日のプラウダ紙に、 スターリンの所見として、掲載された。 「同志Yezhov、 どうかブリクの手紙に善処してほしい。 マヤコフスキーは、依然として、 ソ連時代における最善にして最高の才能豊かな詩人である。 彼の文化遺産に対する無関心は、犯罪である。 私見によれば、ブルクの抗議は、正当である...」 (出典:Memoirs by Vasily Katanyan) この鶴の一声で、マヤコフスキーは、国家英雄になる。 ソヴィエト広場は、マヤコフスキー広場と改称され、 そこには、マヤコフスキーの銅像が高々とそびえている。

・Square of Mayakovsky また、学校や大学や地下鉄駅にも、 マヤコフスキーの名が冠せられた。 生誕地も、名前がマヤコフスキーとなった。 だが、この騒ぎをみて、詩人のパステルナークは慨嘆した。 「彼は、2度殺された」 オトーサン、 「一度は自殺というより他殺されたようなもの、  2度目は、政治的に殺された」 つまり、スターリンに認められるのは、 ヒットラーに賞賛されるようなものという意味でしょう。 「えっ、そんな説もあったのか?」 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その15

・Aleksandr Rodchenko. Mayakovsky. スターリンの死後、噂がかけめぐった。 マヤコフスキーは、自殺したのではない、 スターリンの命令で、殺されたのだ。 1990年代に、KGBの文書が機密情報から外されたときに、 この疑問を解く新証拠が出てくることが期待された。 だが、何も出てこなかった、 疑問は、いまも解消されないままになっている。 オトーサン、 「マヤコフスキー、いい詩人だったなぁ」 動乱の20世紀初頭を、図太く駆けぬけたひとでした。 ○ウラジミール・マヤコフスキー、その16  政治的観点からみると、  彼の煽動詩の後継者はいなかった。  その詩のスタイルを分析し、発展させる者もいなかった。  だが、彼は、世界の現代詩に大きな影響を与えた。  20世紀文化における詩の概念を変えたのだ。 オトーサン、 彼の詩は、革命から生まれ、革命に油をそそぎ、 彼の恋は、詩を育くみ、失恋が詩を彩どりました。 「それにしても、ロドチェンコの写真、いいなぁ」 たった1枚の写真に過ぎないのに、 この革命詩人に渦巻く情念を物語っているように思えます。

・Aleksandr Rodchenko. Mayakovsky. 読者のみなさん、 最後に、マヤコフスキーの詩をひとつご紹介しましょう。 こういう階段形式の詩は、彼の発明です。 日本の現状をみると、民主主義は、まだまだ。 でも、あせってはいけないのでしょうね。 「だんだんと、少しずつ、一寸ずつ、一歩ずつ」 力のある言葉は、幾世紀にもわたって、 銅鑼のように鳴り響き続けることを信じなくては。

  そう、私は    王冠や     紋章ばりの      専制政治には反対だ   だが    社会主義には     土台が要る   先ず民主主義    それから     議会だね   文化が必要    ところが我が国はー    アジア同然ですよ!   私はむしろ――    社会主義者だ   だが強奪や放火はやらん。   いちどきに可能だと?    とんでもない、不可能!   だんだんと、    少しずつ     一寸ずつ      一歩ずつ、   今日、    明日、     二十年を経てだね


60 大盛況だったロシア!展、その1

オトーサン、 「おお、随分、上の階まできてしまったなぁ」 ”馬鹿と煙は高いところが好き”といいますが、 6階から見下すといい気分になります。 「並んでるなぁ、さっきより増えたみたいだ」 チエット売り場の雑踏がみえましした。 グッゲンハイムの館長さんは、さぞ、ご満悦でしょう。 「ロシア!展、成功したなぁ」 これだけ多くのロシア絵画が国外に出たのは、 冷戦後、今回がはじめて。 米ソが激しく対立していた時代は終わって、 いまやテロとの戦いがすべてになりました。 「ロシア!展」をみるのは、 大方のアメリカ人にとって、 一種のノスタルジーなのかもしれません。 「こんな連中と戦争しそうになったんだなぁ」 キューバ危機では、あやうく第3次世界大戦になりそうでした。 「よかったなぁ、戦争なんかしないですんで」 いずれにせよ、この企画は大成功だったのではないでしょうか。 なお、この企画展、1月12日に終了しましたが、 17週間で、40万1885人が来場。 グッゲンハイム美術館はじまって以来の入場者数だったそうです。

オトーサン、 「いよいよ、最後だなぁ」 ずっと持っていたので、 湿ってきた解説文に目を通しました。 ○戦後ロシア、その1  愛国戦争だった第2次世界大戦の時期は、  ロシア絵画の転換期だった。  絶対的理想主義や宣伝絵画からの離脱がはじまった。  この傾向をもっとも端的に示しているのは、  アレクサンダー・ラクチオーノフの絵画である。  彼の感動的な絵画は、現代アメリカの画家、  ノーマン・ロックウェルの絵画と驚くほど似ている。

・Alexander Laktionov. Letter from the Front. 1947.
・Norman Rockwell. Freedom from Want. 1943.

オトーサン、
「何か印象派の絵に戻ったようだなぁ」
忠実な写実画で、抽象画のかけらもありません。
色彩も美しく、おだやかな情景です。
でも、題名をみると、胸が痛んでくるはずです。
「前線からの手紙か」
そうなのです。
子どもがパパからの便りを読んでいて、
それを祖父母と母親と姉が見守っています。
でも、地面をみてください。
ごつごつした岩がみえます。
岩場で戦っている父親=兵士の姿を想起させます。
「パパ、いつ帰ってくるの?」
「....」
この絵画、銃後の守りの母子家庭に
わずかに訪れた幸せな瞬間を切り取ったものなのです。

オトーサン、
「ノーマン・ロックウェルの題名もすごいな。
 ”欠乏からの自由”とは」
近所の爺さん婆さんを招いてのパーティ。
いましも、大皿にのせた七面鳥の丸焼きが供されています。
みんな、すでに口のなかは、よだれ状態。
でも、この絵、食品企業のポスターなどではないのです。

○4つの自由
 これは、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の
 1941年の年頭教書のなかの有名な言葉である。
  大統領は、人類の将来の自由を4つあげた。
  言論の自由/宗教の自由/欠乏からの自由/恐怖からの自由の4つである。
 いざ、戦わん、自由のために!
 この4つは、第2次世界大戦中の決め言葉だった。
 ノーマン・ロックウェルは、この4つの言葉に感動し、
 早速、絵画を描き、戦争省に寄贈しようとしたが、何の音沙汰もなかった。
 そこで、彼は、サタディ・イブニング・ポストに送ったところ、
 1943年2月20日に掲載され、ものすごい反響があった。
 2万5000人以上の読者からは、家に飾っておきたいので、
 原寸大の複製が欲しいというリクエストがあった。
・Norman Rockwell. Freedom of Speech. 1943.
・Norman Rockwell. Freedom of Worship. 1943.
・Norman Rockwell. Freedom from Fear. 1943.

オトーサン、
「まったく違う絵に見えてきたぞ」
背景を知ると、物の見方は変わります。
そのいい例です。
ホリエモンじゃないですが、
逮捕後、180度見方が変わりましたよね。

若い読者のみなさん、
ご存知ですか?
上掲の絵画がアメリカの家庭に飾ってあったのに対して、
日本の家庭には、天皇陛下の写真が飾ってありました。
日本の若者は、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいき、
アメリカの若者は、4つの自由のために戦って死んでいったのです。
「まだまだだなぁ」
この4つの自由、人類はまだ獲得できていません。

・Kaiser HIROHITO der Tenno von Japan. 1928. オトーサン、 「そうなんだよな。この頃、米ソは仲間だったんだ」 たった1枚のアレクサンダー・ラクチオーノフの絵画から、 アメリカ人は、戦時中の辛かったことを思い出し、 日本やドイツとの戦争で、ロシアが力強い同盟国だったことを まざまざと思い出したのです。 そんな意味でも、この「ロシア!展」は、反響を呼びました。 日本のマスコミは、1片の記事も載せませんでしたが、 日本人が見過ごしていい展覧会ではなかったようです。


61 大盛況だったロシア!展、その2

オトーサン、 「さあ、そろそろ最後のコーナーだな」 ここには、冷戦時代のロシア絵画が展示されています。 ○戦後ロシア、その2  1953年のスターリンの死を受けて、  画家たちは、表現の自由を享受した。  生まれてきたのは、シビアなスタイルなるものだった。  その特徴は、公認絵画であり、ソ連リアリズムの範囲内で  革新性を追求し、個人的なテーマも扱うようになった。  Viktor Popkovの"水力発電所の建設者たち”は、 その記念碑的スケールと単純な形で、この時代を代表している。  この作品やその他の絵画には、  ソ連リアリズムと政権の命令による公認絵画が並存している。

・Gelii Korzhev. Raising the Banner. 1957-60.

・Viktor Popkov. Builders of the Bratsk Hydroelectric Power Station. 1960-61. オトーサン、 「労働者が主人公なのは、いいけれど、  実に、暗いなぁ。冷戦のせいかしらん?」 ○冷戦  冷戦(冷たい戦争:Cold War)は、  第二次世界大戦後の世界を二分した、  ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営と  アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営の対立構造。  1945年から1989年まで続き、  直接武力衝突する戦争を伴わなかったため、  直接衝突による「熱い」戦争に対して、  「冷たい戦争」と呼ばれた。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 「いよいよ最後だな」 ○戦後ロシア、その3  このコ−ナーでは、1960年代から冷戦終了後までの  公認絵画や非公認絵画が展示されている。  画家たちは、20世紀のアヴァンギャルドの遺産を再発見した。  そして出現したのが、目ざわりなアートシーンであり、  公認絵画を否定するリスクも辞さなかった。  だが、これは政治的なものではなかった。  例えば、イリヤ・カバコフは、コンセプチュアル・アートを発明した。  西欧と孤立しながらも、同一歩調をとったのである。  The Man Who Flew into Space (1981- 88)は、  ソ連の普通のひとが、集合住宅やソ連社会からの息ぬきに、  誰でも行ける範囲の風景を捉えるだけではなく、  ひとびとのもつ自由な場所への普遍的な旅心を描いている。

・Ilya Kabakov. The Man Who Flew into Space. 1981-88.
・Ilya Kabakov. The Man Who Flew into Space from his Apartment.1984.

オトーサン、
「妙な作風の画家だな?」
壁面にあるどれが彼の作品が分かりません。
どうやら、このすべてで作品になっているようです。
こんなもの、みたことありません。
不思議に思って、経歴を調べてみました。

○イリヤ・カバコフ、その1 
  Ilya Kabakov. 1933-
    インスタレーション・アーティスト。
  世界で最も重要な前衛芸術家の一人。
  ウクライナ共和国ドネプロペトロフスク生まれ。
    父と母はともにユダヤ人。
  幼少の頃に父が家を出ていき、極貧の生活を送る。
  トイレを改造した物置小屋に寝泊りしていた。
    絵本の挿絵画家として生計を立てていたが、
  レニングラード芸術学校で学び、50年代に抽象表現主義へ移行。
  60年、芸術家代表団の一員として東ドイツへ。
  西側の空気に魅了される。
  82年、絵画への興味がうすれ、ゴミのインスタレーションを制作。
    その強烈な物語性を帯びた独特のインスタレーション作品が
  話題を呼ぶようになる。

オトーサン、
「インスタレーションって、何だ?」

○インスタレーション(Installation) 
  設置するという意味。
  「絵画」や「彫刻」では表せない作品を指す。

「疑問が次々と出てくるなぁ。
 じゃ、ゴミのインスタレーションって、何なんだ?
 何のためにそんなものを作ったんだろう?」

○イリヤ・カバコフ、その2
  1982年、彼は、日常生活の哀れな残骸に興味をもった。
  請求書、ノート、毎日のゴミ。l
  木箱やフォルダーに集め、縫いつけ、仕事場に置いた。
   (それは、彼の極貧生活の反映でもあった)
  それぞれの物にコメントをつけ、
  どこから来たのか、なぜか、どうやって作業場に来たのかを書いた。
  (決して、何も捨てない男)
  古いスポンジに文章が貼りつけられた。
  「どうやって、これを入手したのか分からない。
  おそらく、浴槽を洗うためだったのだろう。
  だが、使ったことはない。
   テーブルの足の下に置いて、傾がないようにしたのだ」


62 イリヤ・カバコフ、その1

オトーサン、 「現代を描こうとすると、 絵画や彫刻といった表現形式では、 もはや収拾がつかなくなったんだろうな」 ○イリヤ・カバコフ、その3   85年、カバコフは国外に出られないので、   カバコフ不在のまま美術展が開催される。   87年、ペレストロイカがはじまったおかげで、   当局の許可が下り、ウィーンやパリへ。   88年、「10人の人間たち」を発表、   想像上の人物を使って抑圧のもと生きる小市民の悲喜劇的を描く。

・Ilya Kabakov. 10 Persons. 1988. オトーサン、 「この写真では、何が何だか分からないな」 幸い、解説がみつかりました。 ○イリヤ・カバコフ、その4 彼は、1972-75年の間に描いた420枚の絵画や 文章をルーズリーフ形式で10冊にまとめた。 それをハウス・シアターに展示した。 観客の目の前にある聖書台の上に、 その10冊が置かれ、リズミカルにめくられていく。 10人の様々な人物が描かれ、いずれも最後は死ぬ。 観客は、この人物の運命を感じるだけでなく、 彼らが置かれた危機的な社会・文化状況も感じざるを得ない。 そして、自分が置かれている内部と外部を意識させられる。 その10人は、以下の人物である。 1) クローゼットに座ったプリマコフ(Primakow sitting in a closet) 2) いたづら者、ゴロチョウ(Gorochow, the prankster) 3) 気前のよいバーミン(Generous Barmin) 4) ペスト患者スリコウ(Surikow, the pest) 5) アンナ・ペトルナには夢がある(Anna Petrowna has a dream) 6) カマロウは、逃げる(Komarow who flew away) 7) 数学者ゴルスキイ(The mathematical Gorski) 8) 三流作家マリギン(The scribbler Malygin) 9) 釈放されたゴウリロウ(The released Gawrilow) 10) 窓の外をみているアーチポウ-喧嘩人生  (Archipow looking out the window + Life in quarrel. 1988.) 出典:EXHIBITION 9 ILYA KABAKOV 10 ALBEN http://www.portikus.de/ArchiveA0009.html オトーサン、 「こりゃ、変なひとだ。 どうして、こんな人間ができあがったんだ?」 幸い、夫妻へのインタービューを発見しました。

・Ilya and Emilia Kabakov ○イリヤ・カバコフ、その5 私は、いつもソ連を去りたいと思っていた。 両親は、スターリンが死んだ1954年以来、 ロシアを去ろうとしていた。 親父は、ポーランド系のユダヤ人だった。 そこで、1957年、両親は、出国しようとしたが、 モスクワ空港で逮捕され、投獄された。 私は、祖父母に育てられた。 いつか、この国を出ようと思っていた。 親父は、10年後釈放された。 おふくろは、3年後に釈放された。 いま、2人ともニューヨークにいる。 親父は、化学技師で、ビジネスマンだ。 出典:Magic Mountain     http://www.gif.ru/eng/news/kabakov1/ オトーサン、 「そうなのか。 このひとは、少年時代、抑圧されていて、 いつも、どこか別のところに行きたい。 別の人間になりたいと夢想していたんだ」 そこから、「10人の人間たち」が生まれてきたのだろう。 ○イリヤ・カバコフ、その4   90年、ポンピドゥーセンターほかで作品発表。   ベルリンの壁の崩壊を記念する美術展を開催する。   91年来日。   NY近代美術館で、池にかけた橋を再現した「橋」を発表。   92年、NYに転居。   97年は、ベネツッア・ビエンナーレに参加し、   京都の庭園をモチーフにしたインスタレーションを出品した。   さらに、ミュンスター彫刻プロジェクトにも参加した。   出典:http://www.b-sou.com/palm-Kabakv.htmほか オトーサン、 「京都の庭だろう。びっくりしないぞ」 近所の夢庵も、植木の経費がかかるので、 こんなコンクリートに岩を埋めた前庭につくり直しました。 でも、カバコフの意図は、そうではなかったのでしょうね。

オトーサン、 「これも彼の作品か?」 トイレを展示して音楽を流すのは、 何を表現しようとしているのでしょう? 池にかけた橋は、何を意味しているのでしょうか? 池のなかに立っている看板を読めば、分かるのでしょうか? イリヤ・カバコフの作品世界、ますます謎が増してきました。

・Ilya Kabakov. The toilette in the corner. 1998. instellation with music.
・Ilya Kabakov. Old Brigde. 1999.


63 イリヤ・カバコフ、その2

オトーサン、 「ほかにも、カバコフの作品ないかなぁ?」 Googleで、画像検索をしていたら、 目立つ作品を発見。、 2003年に、ヴェニスのビエンナーレに出品したもののようです。 何でも、2004年に六本木ヒズルの森美術館でも、 同じものが出品されたとか。 題名は、「私たちの場所はどこ?」

・Ilya Kabakov. In Where is our place? 2003. オトーサン、 「巨人がいる!」 美術館の天井を突き抜けています。 見えるのは、長スボンだけ。 解説を見てみましょう。 ○イリヤ・カバコフ、その4   彼の最新作は、2003年に、   ヴェニスのビエンナーレに出品したものである。   宮殿には、中世と近代絵画が展示されているが、   ここが展示会場となったのである。   「私たちの場所はどこ?」   この作品は、3つの視点から楽しむことができる。   まず、ごく普通の美術館同様に、   1980年代のペレストロイカ当時の   ソ連の日常生活、軍事パレード、文化、技術の写真を   80点ほど鑑賞することができる。 それぞれの写真には、19世紀のロシアの詩人たちの   詩が引用されている。   次に、床のあちこちがガラス張りになっていて、   ミニチュアの地形を見下ろすことができる。   最後に、見上げると、長スボンの巨人が、   見下ろされているような気分になる。 オトーサン、 「3つの視点から絵画を鑑賞するのか。 ♪現在、過去、未来からか」 そして、念のいったことに、 イリヤ・カバコフの自作の解説文もあるそうです。 ○イリヤ・カバコフ、その5   すべては相対的である。   世界における私たちの場所も、   そして、私たちがここで展示している現代美術も。   昔も、この場所には美術があった。   当時、その美術は不変のモデルとして   永遠に存在し続けると主張していた。   しかし、現代美術がやってきた...   だが、古い美術はどこかへ消え去ったわけではない。   それはつねにそこにあり、現代の作品を批判しているのだ...  古い美術と現代の美術を矛盾に満ちた形で対置させてみようというのが   このインスタレーションのねらいである。」 オトーサン、 「そうか、イリヤ・カバコフは、 絵画を展覧会でみる行為そのものを  相対化しているのか」 現代人が絵画を鑑賞する場所は、展覧会が普通でしょう。 その前は、王侯貴族の居間やサロンでした。 では、未来の絵画鑑賞の場所は? このインスタレーション作品からは、 彼のそんな問いも感じとられます。 「で、未来の絵画鑑賞の場所は?」 その手がかりは、時計を数年戻した1997年の ミュンスター彫刻プロジェクトにあるように思えます。 ○イリヤ・カバコフ、その6   ミュンスター湖の端のゆるやかに傾斜した緑の芝生の上に、   イリヤ・カバコフは、一種の巨大なラジオ・アンテナを建てた。   (鋼鉄製で、高さは15mある)   それは、天国へと突き出ている。   題名は、「見上げよ、言葉を読め....」   鑑賞者は、芝生の適当な場所に座るか、寝そべるかする。   すると、突然、アンテナが文字列であることに気づく。  それには、こう書いてある。   「彼らは、芝生の最高の場所に横たわり、   雲と青い空を見上げる。   なんて素敵だろう。   これまでの人生で味わったことのないほど素敵だ」   アンテナは、電波という形で空中の言葉を集める。   カボコフのこのパフォ−マンスは、ユーモラスであり感動的である。   奇跡のアンテナは、天空の言葉に変わったのだ。

・Ilya Kabakov. Looking Up and Reading the Words... 1997. オトーサン、 「Munsterって、どこにあるの?」 これも、ネットで探しあてました。 デュッセルドルフから北東120km(電車で1時間20分)、 緑の平野、ミュンスターラントにある人口28万人都市。 環境首都と呼ばれる美しい都市のようです。 「えっ?自転車天国の町だって?」 我輩はサイクリストとしては、 美術鑑賞の話から脇道に入ってしまいますが、看過できません。 「へぇ、あらゆる場所に駐輪台が置いてあるのか。 自転車をそのまま汽車に乗せることができるのか。 最後尾が駐輪台つきの自転車専用車両となっているのか」 わが国の惨状と比べると、よだれが出てくるほど、 あちらのサイクリストは、恵まれているではありませんか。 オトーサン、 「そうか、これが未来の絵画鑑賞の場所なんだ!」 ○ミュンスター彫刻プロジェクト  (Sculpture Projects Munster)  欧州での重要な展覧会シーズンのなかでも、  このミュンスターのものは、その革新性で注目されている。  1977年と1987年の展覧会には、70人以上のアーチストが参加し、  作品は、屋外か、または、美術館らしくない場所に展示される、  (例えば、バー、ボート、埠頭や公共施設など)  来訪者には、地図と自転車が必要である。  (勿論、徒歩でもよいが、全部を見ようとしたら自転車のほうがいい) 作品をひとつひとつ発見していくのだ。  その過程で、第2次世界大戦で爆撃され、  当時の姿が保存されている  ミュンスターの街そのものも鑑賞することになる。  出品するアーチストたちに要求されるのは、  このプロジェクト専用に斬新な作品を創造することである。  その結果、実に多彩な作品が出展されることになった。  彫刻、建築、ビデオや音楽を使った作品、  そして、ストリート・パフォーマスもある。  独創的な作品をひとつだけ挙げてみよう。  Hans Haackeのメリー・ゴーラウンドである。  これは、昔風の木製の回転木馬である。  楽しそうだなぁと近寄っても、  周囲は円筒状の木の壁で囲まれている。  ところどころに小さな隙間があって、  そこから回転木馬の輝きをちらっと覗きみるだけである。  かすかに聞こえるのは、カーニバルのように陽気なものだが、  よく聴くと、子どもの歌ではなく、ドイツの聖歌である。  回転木馬には、誰も乗っていない。  木の壁の上には、有刺鉄線がはりめぐらされている。  このメリー・ゴーラウンドは、明らかに娯楽用ではない。  ドイツ人ならば、19世紀のプロシア戦争の勝利を思い起こし、  無邪気さ、気まぐれ、残忍さ、皮肉、破壊行為をともに味わうだろう。  このインスタレーションは、娯楽につきものの楽しい会話を拒否している。  痛烈なドイツ軍国主義批判である。 オトーサン、 「これが、ハンス・ハークの作品か」 ひとを寄せつけない収容所のイメージがあります。 われわれ日本人も、 実は、こんな壁のなかにいて、 それとは知らずに陽気に騒いでいるのかも。 あるいは、上流階級のセレブたちの楽しそうな暮らしを、 壁の外からブラウン管を通じて覗きみているだけなのかも...

・Hans Haacke. Standort Merry-go round. Installation. 1997.


64 現代ロシア絵画事情

オトーサン、 「いよいよ、最後の最後だ」 ”ロシア!展”のご紹介、数回の予定でしたが、 延びに延びて、25回にも及んでしまいました。 「まぁ、800年ものロシア絵画史の紹介だから、 このくらいかかっても当り前かも」 ○1980年代から現在まで、その1   1988年7月, ザザビーは、モスクワで  記念碑的なオークションを開催した。  20世紀ロシア絵画にセンセーショナルな値段がつけられた。   そして、現代ロシアを代表する画家が有名になった。   イリヤ・カバコフは、そのひとりである。 オトーサン、 「すごいな。トイレを改造した物置小屋で 寝泊りしていた少年が、いまや億万長者だもんなぁ。 オレも、サラリーマンなんかにならないで、 画家になっていればよかったかも」 でも、売れない画家で、ホームレスになっていたかも。 ほんとうにヒトの運命なんて、わからないものです。 ○1980年代から現在まで、その2  1990年代は、歴史的変化の時代だった。  1991年, ボリス・エリツィンは、  史上はじめて選挙で選ばれた大統領になった。  ソ連邦は解体され、ロシアが誕生した。  1990年からは、画商が登場し、現代絵画が活況を呈してきた。  現代美術誌や批評が誕生し、現代アートセンターが各地で生まれ、  美術館が競って現代絵画を収集しはじめた。  ロシアの画家たちは、ヴェニス・ビエンナーレなど、  海外の展覧会に出品するようになった。  2005年1月には、モスクワで、  第1回現代絵画ビエンナーレも開催された。 オトーサン、 「そうか、ロシアは、普通の国になったわけだ」 画商も、展覧会も、海外出品も、みんな西欧並み。 でも、肝心の絵画は、どこに特色を見出すのでしょうか? 西欧世界の無数の絵画のなかに埋没してしまはないのでしょうか? ○1980年代から現在まで、その3 この時期のロシア絵画の特色は、   ロシアの過去を自己認識するところにあった。   そして絵画からインスタレーションまで、 彫刻からビデオまでの多彩なメディアの広がりがみられた。   Vadim Zakharovのインスタレーション、   「ロシア絵画の歴史」(2003)は、作品名の示す通り、 20世紀ロシア絵画の運動史を示したものである。 この作品では、ダンテ、カサノヴァ、シェイクスピア、   セザンヌ、プルースト、マレヴィッチなど著名な文化人が登場し、  日本や中国の文化的伝統が扱われている。   彼は、現代絵画も含め、   すべての絵画は、歴史をどう判断するかであり、 この意味で、最新のロシア絵画は、依然として、   進歩し続けていることを示そうとした。 オトーサン、 「激動の時代は、偉大な芸術家を生むんだ」 ヴァディム・ザハロフの最新のインスタレーションが、 ネットに出ていました。

・Vadim Zakharov. Lessons in the Boudoir. ○ヴァディム・ザハロフ "私室でのレッスン"プロジェクトは、2003年に準備がはじまり、 2006年2月、Stella画廊で開催の運びとなった。 このプロジェクトは、一連の講義から構成されている。 有名な批評家、美術史家、哲学者たちが、 親密な婦人の私室を舞台に、スーパーモデルに講義する。 ほかに観客は誰もいない。 言葉と美を、永遠の対立関係に置いているのである。 オトーサン、 「何で、講義がアートなの?」 変わったインスタレーションもあるものです。 でも、最後は、やはり、分かりやすい絵で締め括りましょう。 「へぇ、お洒落だなぁ」 宇宙飛行飛行士の背景に、ご注目あれ。 ヴェニスの宮殿にあるバロックの天井画になっています。 過去と未来を見事につないでいるではありませんか。 でも、アメリカの観客のほとんどは、 ソ連に、宇宙ロケット開発競争では遅れを取ったけれども、 人類初の月面着陸では先行したことを思い浮かべるでしょう。 「いまでは、宇宙で仲良くやっているな」 そんな風に感じて、微笑むかも。 われわれ日本人なら、 ホリエモンが宇宙旅行に熱をあげていたことを 思い出すでしょう。 小菅刑務所の独房の窓からも、 星や月は見えるのでしょうか?

・Oleg Kulik Cosmonaut. 2003.


65 夜がきて、サイゴンに想う

オトーサン、 「疲れたなぁ」 ロシア!展を鑑賞していたのは、 ほんの数時間でしたが、集中していたし、 病み上がりなので、正直バテました。 五番街へ出ると、ほんの数ブロックで、 メトロポリタン美術館です。 「久しぶりだし、寄ってみたいけどなぁ」 でも、この体調ではムリでしょう。 いつきても、来訪者が多く、賑やかな雰囲気です。

オトーサン、 「何だ、このでかいクルマ?」 長いこと生きてきましたが、こんな形のクルマははじめて。 高所作業車なのでしょう。 その昔、東京モーターショウで、 梯子車に乗ったことを思いだしました。

「さて、バスに乗って帰るか」 元気なら、歩いて帰る距離ですが、今日は雨だし、 そろそろ空腹になってきたので、乗って帰ることに。 運賃は、タダと分かっていたので、帰りはスムース。 娘のアパートの階段を上るのに、息が切れましたが、 無事、部屋にたどりつきました。 勿論、誰もいません。 女性陣3人は、ウッドベリーコモンでお買い物中です。 キッチンへ急行。 おにぎりが1ケ用意してありました。 お鍋に水とオニオンスープの素を入れ、 おにぎりを入れ、卵を溶いて、おじやをつくりました。 「うめぇ」 喉も渇いていたのでしょうし、 下痢で水分不足だったのでしょう、 普段なら、そう思わないでしょうが、実に美味でした。 オトーサン、 午後5時45分、昼寝から覚めました。 「よく寝たなぁ」 4時間ほど熟睡したようです。 バーンス・コレクションで撮った写真を整理していると、 「ただいまー」の声。 時計をみると、6時45分でした。 大荷物で、お疲れの模様です。 シャワーを浴びたり、戦利品を披露しあったり、 トランクにしまったりしています。 「これ、パパに」 長女の差し出した品物をみると、自転車用の手袋。 「さっき買ったばかりだけれどなぁ」 そう言うわけにも、いかないので、 サンキューといいました。 息子へのおみやげにしましょう。 オトーサン、 午後8時20分に起こされました。 「ごはんよー」 リビングに行くと、デリバリーされたものが並んでいます。 「ふーん、サイゴンか。 あんな遠いところから無料で配達してくれるのか?」 「ううん、近所に出来たのよ」 「へえ」 その昔、思い切って、 アムステルダム通りのお店に入ったことがあります。 おしゃれなヴェトナム・レストランでした。

○サイゴン(Saigon Grill)  住所:620 Amsterdam Ave.(Corner of 90th St)  電話:212-875-9072 住所:1700 2nd Ave(Corner of 88th Street)  電話:212-996-4600 でも、お味のほうは? 慣れれば、病みつきになるかもしれませんが... 味よりも、懸命に働いているヴェトナム人をみて、 「戦争から逃げてきたのかなぁ?」 ヴェトナム戦争当時のことを思い出してしまいました。 「小田実さん、活躍していたなぁ」 ○ベ平連  ベトナムに平和を!市民連合  日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。  運動団体といっても規約も会員名簿もなく、  何らかの形で平和運動に参加した人や団体を「べ平連」と呼んだ。  1965年に開始されたアメリカ軍による 北ベトナムへの「北爆」など、ベトナム戦争に対する本格軍事介入を受けて、 作家の小田実が、哲学者の鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏とともに 「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まり。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 オトーサン、 小田実さんが、若い頃、単身アメリカを横断して書いた 「何でも見てやろう」(1968)が、バイブルでした。 この本で、旅心を植えつけられたのです。 小田さん、この本で大儲けしましたから、 アメリカには足をむけて寝られないはずですが、 そんな小田さんすら、反米運動に身を投じざるをえないほど、 愚かな戦争をアメリカがはじめたのです。 フランスの植民地からようやく独立を勝ち得たヴェトナムに 引き続き介入する必要などまったくなかったのです。 結局、アメリカは撤退。(事実上の敗戦) いまは、ヴェトナムと仲良くなっています。 そのアメリカのNYで、ヴェトナム料理を食べるというのは、 まことに落ち着かない気持ちです。 世のなかの移り変わリって、激しいものですねぇ。 ・行く河の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず、 よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、 久しくとどまりたるためしなし、 世の中にある人と住家と、またかくの如し。 鴨長明「方丈記」 奥方、そのとき、 サイゴンに入って、 「口に合わないわねぇ」 大分食べ残しました。 以後、ヴェトナム料理は敬遠しております。 それなのに、いまは言うことがちがうのです。 「ヴェトナム料理、いいわねぇ」 昨年秋、次女がヴェトナムへ行くと宣言しました。 まず、ハノイを観光し、 その後、近隣のビーチ・リゾートに数泊滞在するというのです。 オトーサン、 F.コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」を思い出すクチです。 「あのヴェトナムへ"遊び"に行くとはなぁ」 次女は、帰国して、 その物価の安さと美味を大宣伝しました。 その影響でしょうか、 奥方の言うことがふるっています。 「中華とフレンチをミックスしたから、おいしいのよ」 オトーサン、 内心、ぶつぶつ。 「よくも気軽に言えるもんだ」 昔、中国に侵略され、その後、フランスの植民地へ。 その名残りが、味に出ているわけ。 奥方、 パンフをみて、言います。 「どれをみても、きれいで、おいしそうね」 買い物でよほど空腹なのにちがいありません。

長女が注文したのは、全部で4品ほど。 「おいしいわね」 「ね、なかなかいける味でしょう」 「そうねえ」 オトーサン、 汁っ気の多い、ラーメン風のだけ食べました。 「おいしいでしょ」 「もやしは、うまいけどなぁ」 「....」 お昼に作ったおじやのほうが美味でした。 一応、料理名をご紹介しておきましょう。 体調がよかったら、 あるいは、現地の暑さのなかで食べれば、 きっと美味しいことでしょう。 ・Noodle:Bun  Room temperature rice vermicelli  with cucumber, lettuce, bean sprouts, crushed peanut and fresh herbs in nuoc cham sauce, topped with Grilled Beef  (常温の米の細いスパゲッティ(うどん)   キュウリ、レタス、もやし、ピーナツ片、ハーブ添え。   ヌックチャムのソース、牛肉をのせて) 読者のみなさん、 ネットで出ていたので、 ヌックチャムの作り方をご紹介しておきましょう。 随分、手のこんだスープですよね。 ・ニョクマム(魚醤)...50 cc ・水...80〜100 cc ・砂糖...大さじ1と1/2 ・タカノツメ...1本 ・酢...大さじ1/2 ・レモン汁...1/2個分 ・にんにく...1片 ・胡椒...少々


66 ライオン・キング、その1

オトーサン、 5時30分に目覚めました。 トイレへ。 「まだ、下痢が続いているなぁ。 でも、大分元気になった。 この分じゃ、夕方までおとなしくしていれば、 ライオン・キングを見られるだろう」 ”ライオン・キング”、 現在でもチケットの取りにくい人気作品です。 1999年にNYに来たときも見られませんでした。 長女の奮闘で、チケットが入手できたのですから、 体調不良のせいで、見逃すわけにはいきません。 奥方、 長女がチケットをとってくれたことを知って、 「ライオン・キングって、どんな話?  筋書きが分からなければ、勿体ないものねぇ」 「昨日、アニメのDVDを借りてきたよ」 そんなことで、 日本で、3人とも、アニメ鑑賞を済ませました。 ○ライオン・キング(The Lion King)    1994年に公開されたディズニーのアニメ映画。 7億8300万ドルと過去最高の興行成績をあげた。

 アカデミー賞の作曲賞および主題歌賞を受賞。  主題歌がいずれもすばらしく、  ”CAN YOU FEEL THE LOVE TONIGHT”が受賞し、  ”CIRCLE OF LIFE”と、  ”HAKUNA MATATA”がノミネートされた。   <あらすじ>  アフリカの動物たちの王国に、 未来の王となるライオンのシンバが誕生した。  父・ムファサ王の教えを受けて、健やかに成長する。  だが、叔父のスカーは、シンバ誕生によって  王位継承権がなくなったことに大いなる不満を持っている。  悪企みの末、ムファサを殺し、その責任をシンバに負わせる。  王国から追い出されたシンバは、新天地で苦労しつつ、  立派なライオンへと生まれ変わっていく。 オトーサン、 「腹減ったなぁ。みんな起きてこないなぁ」 昨日のお買い物ツアーで、よほどバテたのでしょう。 しょうがないので、読書にいそしむことに。 週刊文春2005年ミステリーベスト10第1位なので、 日本で買って持ってきました。 読み終わったら、娘へのおみやげ。 一石二鳥とは、このこと。


○マイクル・コナリー、古沢嘉通訳
 「暗く聖なる夜(上/下)」講談社文庫 各840円

 ボッシュは、LA市警ハリウッド署の殺人課刑事。
 今は退職して、穏やかな年金生活を送っている、
 だが、前の職業をいまだに引きずっていて、
 私立探偵の免許を取った。
 実は、彼には心残りな未解決事件があったのだ。
 被害にあった若い女性の遺体の手の形が気になっていた。
 だが、捜査を開始した途端、配置変えになり、
 ロケ現場で200万ドルが奪われる。
 後任刑事は、その後、何者かに銃撃されて、
 いまは、半身不随で入院中。
  ボッシュが、独自に捜査を決めた途端、
 LA市警の上層部から圧力がかかってくる。
 無視して捜査を続けると、今度はFBIから横槍。
 重なる妨害のなか、ボッシュのたった一人の闘いが始まる。
  事件の裏には、一体、何が隠されているのだろうか?  

オトーサン、
「こりゃ、面白いなー」
でも、30分も読むと、瞼が重たくなってきました。
次に目が覚めたのは、
「ごはんよー」の声で。
リビングへ行くと、食卓に、おかゆ。
長女はベッドで熟睡中。
「どうした、食べないのか?」
「昨夜、吐いたのよ」
「えっ?」
「疲れたんでしょう」
年末ぎりぎりまで働き、
各種ツアーの手配をし、
買い物にもつきあったので、
流石に疲れはてたのでしょう。
次女に言いました。
「お前、元気だなぁ」
「そうなの、あたし。
日本にいるより、外国にいるほうが元気なの」
「週末は、どこにも行かないのにねぇ。
 今朝の食事も、作ってくれたのよ」
「へぇ」
次女を見直しました。

オトーサン、
「元気だなぁ、お前たち」
奥方と次女は、また外出のようです。
NYには買いたいものがキリなくあるようです。
時計をみると、午前9時30分。
「いつ帰ってくるんだ?」
「4時頃には、戻ってくるわ」
ほんとに、連中は元気です。
奥方の身体がいつまで持つか心配になりました。
長女は、寝たまま。

オトーサン、
手持ち無沙汰なので、また読書三昧。
時々、腹中の遠雷。
まだ、本調子ではなさそうです。
気がつくと、また寝入っていました。
午後2時、長女が起きてきたので、
2人で、おかゆを食べました。
「ライオン・キング、よくチケット取れたな」
「まあね」
プリントアウトした資料をくれました。
以下は、その要約です。

○ライオン・キング
 94年の映画を元にしたブロードウェイ・ミュージカル。
 台本:Roger Allers/Irene Mecchi  
 作曲:Elton Johon 作詞:Tim Rice 
  演出:Julie Taymor. 
  98年のトニー賞6部門で受賞。
 (作品/演出/振付/舞台装置/照明/衣裳)
 1997/11/13日開幕し、ロングランを続けている。
 
 劇場:New Amsterdam Theatre
 住所:42nd Street(7th St-8th St)  
 開演時間;水14:00/20:00 木金20:00 
        土14:00/20:00 日13:00/18:30 
 上演時間:2時間45分 
 料金:1等 16,450円/2等 12,130円/3等 9,190円 

オトーサン、
「料金高いねぇ」
長女、
「今夜のは、あまりいい席じゃないわよ」
「見られるだけで、有難いよ。
 身体どうだい?」
「よくなったみたい、疲れね」
「夕方までに元気になるといいね」
「あたし、行かないわ」
「えっ?」


67 ライオン・キング、その2

オトーサン、 「何で、行かないの?」 「もう、前に見ているから」 「そうか」 NYへ遊びにくるひとが見たがるので、 何度もつきあわされているのでしょう。 その昔、ロスの駐在員だったひとは、 ディズニーランドへ50回も案内したと、ぼやいていましたっけ。 奥方、 「ただいま」 「おー、定刻のお帰りだ」 その2時間後の6時に、軽い夕食を摂りました。 昨夜の残りもので、 SAIGONから配達したもらった柔らかい焼きソバです。 「うん、これは美味いな」 ・Stir-fried soft rice noodles  with shredded vegetables, egg and crushed peanut,  served with nuoc cham sauce  on the side Shrimp. オトーサン、 「何時からはじまるの?」 「8時からよ」 タクシーを拾って、7時30分には、 ブロードウェイのニュー・アムステルダム劇場へ。 写真を1枚撮影しました。 「迷子になるわよ」 次女に注意されました。 「そんな格好じゃ、恥ずかしいわ」 ドレスアップした彼女と奥方からは、 そんな注意も受けております。 「すごい行列だなぁ」 話題をそらすことにしました。

オトーサン、 最上階のバルコニー席へ。 チケットを確認すると、 ROW:B、SEAT:2となっています。 因みに、お値段は、80$。 「それみろ、みんなラフな格好じゃないか」 今頃、安い席で見るのは、 外国人か、田舎のひとか、子ども連れに決まっています。 その通りで、われわれの前の1列目に座ったのは、 イタリア系の家族連れです。 この禿げ頭のおやじ、相当ウルサイひとで、 立ったり座ったり、しゃべったり、うなったり。 はじまったら、静かにしてくれればいいのですが、 どうも、この調子では、観劇の邪魔になりそうです。 「やっぱり、立ち見もいるなぁ」 ○観客動員率 ・屋根の上のバイオリン弾き 74.9% ・シカゴ 89.6% ・マンマミア 98.6% ・オペラ座の怪人 99.1% ・ライオンキング 101.3%  100%超は、立ち見席あり 次女、 「撮影はダメと言ってたわよ」 「ああ」 無視して、劇場内部を撮影しました。 あちこちで、フラッシュが光っています。 「おれのカメラは、性能がいいから、 フラッシュなしでも、写るんだ」 「...」 大分暗い画像になってしまいましたが、 天井画を撮影したつもりです。

オトーサン、 場内が暗くなって、 「さぁ、いよいよはじまるぞ」 「シーッ!」 また、次女に注意されました。 あとで居眠りするかもしれませんが、 何事でも、はじまる瞬間ってステキですが、 この舞台は、文字通り、息を呑みました。 「おお!」 「おお、おお」 「おー、おー、おー」 「静かに!」 「あなた、うるさいわよ」 読者のみなさん、 このライオン・キング、開幕シーンだけで、 充分、代金のもとが取れますよ。 以下は、ネットでみつけた鑑賞記を翻訳したものです。 あなたは、8列目に座っている。 (注:オトーサンは、バルコニー席) 照明が消え、 突如、オープニングになり、驚く。 舞台にいる男が、大声でアフリカの歌を歌い出すのだ。 劇場両脇のバルコニー席に照明があたり、 ほかの出演者たちが、次々とコーラスに加わる... (注:ズールー語のコーラスのド迫力!) そして、いよいよはじまる。 動物たちが、ステージに現れてくるのだ。 (正直、呆気にとられて腰を抜かしそうになった) キリンたち、象たち、かもしか、ライオンたち、 (当然だよね!) 鳥たち、サイたち、 思いつく限りのアフリカの動物たちが登場してくる。 衣装が実にすばらしく、喜びのあまり震えがくる。 衣装は、そう、想像を超えたものだった。 窓の外に身を投げ出したいほど素晴らしかった。 これは、同じディスニーでも、 あの馬鹿げたアイスショーの衣装とはまったく別物だ。 デザイナーは、衣装を手づくりしている。 動物たちのそれぞれの種の特徴をヒントに、 新鮮にして愉快な動物そのもののような衣装を作り出した。 絶対に、天才の業だ!!! 出典:"In the Jungle, The Mighty Jungle" オトーサン、 開幕シーンが終わると、拍手の渦。 それに、こんなに激しい歓呼の声も聞いたことがありません。 「残念だなぁ、写真を撮りたいのに」 以下は、パンフレットやネットから得た写真です。 冒頭のサバンナの日の出シーン、 もっと、もっと、もっと、素晴らしいものでした...

オトーサン、
「動物の造形がすごいなぁ」
死んだような動物のぬいぐるみなど、
もう、みる気になれないでしょう。
「おお、草原になった!」
黒人女性たちが頭上に草を載せて登場。
彼女たちが密集すると、何と草原になるのです。
そして、一斉に頭をゆすると、吹きわたる風が見えます。....
「何というアイディア!
 何という形だろう、色づかいだろう...」 
舞台装置も、照明も、斬新。
こんなすばらしいものは、見たことがありません。
糞まみれの政権、低俗なハリウッドなど、
アメリカの悪口を散々言ってきましたが、
ショウ・ビジネスのレベルの高さには、脱帽せざるをえません。


68 ライオン・キング、その3

オトーサン、 開幕シーンに感激して、一息つきました。 パンフレットを覗きました。 「ふーん、2幕構成か、幕間にトイレタイムあるな、  じゃ安心だ」 やはり、腸内の蠕動が気になります。 第1幕だけ、シーン構成を眺めました。 でも、アニメ映画を1度見ただけなので、 思い出せないシーンばかり。 第1幕 シーン1 プライドロック       ♪サークル・オブ・ライフ シーン2 スカーの洞窟 シーン3 ラフィキの大樹 シーン4 プライドランド       ♪朝の報告 シーン5 スカーの洞窟 シーン6 プライドランド         ♪王になるのが待ちきれない シーン7 象の墓場       ♪準備しておけ シーン8 星空の下で シーン9 象の墓場       ♪準備しておけ シーン10 峡谷(ヌーの大暴走) シーン11 プライドロック シーン12 ラフィキの大樹(哀悼) シーン13 砂漠とジャングル        ♪ハクナ・マタタ   読者のみなさん、 主要なシーンをご紹介しましょう。 ○シーン1 プライドロック/♪サークル・オブ・ライフ  サバンナ(大草原)の壮大な日の出。  すべての動物たちが、プライド・ロックに集まり、  ライオン・キングのムファサに拝謁し、  王妃サラビとの間に生まれたシンバの誕生を祝う。  ヒヒの呪術師ラフィキが、シンバに祝福を授ける歌に、  あらゆる動物達が集まってくる。  レイヨウが反応して歌いだし、後方のレイヨウも反応。  下手通路側から、何と巨大な象まで登場。  その後ろから可愛い小ゾウも。  上手からは、サイ。  みんなが楽しそうに歌いながら行進してくる。 オトーサン、 「おお、あれがライオン・キングか」  あれが、子シンバだな」

・Mufasa(Lion King)and his son Simba. オトーサン、 「舞台もいいけど、この歌、いいなぁ」 例のアカデミー賞主題歌賞ノミネート曲です。 地球環境問題を歌っています。 仏教でいえば、輪廻かも。 ♪サークル・オブ・ライフ  僕らは地球に生まれ  太陽はまぶしく  目に映るもの 手に触れるもの  求め 旅は続く  新しい奇跡は 限りなく生まれる  サファイヤの空 陽は輝き  永遠の時を刻んで  It's the circle of life  巡る命  悩み 望み 愛しながら  安らぎの時を求めて  果てしなく続く命 オトーサン、 「はは、スカー、ひねくれてるな」 遅れてムファサの弟スカーが登場。 彼は、自分の人生の不公平さを嘆く。 跡継ぎとなる王子誕生によって、 王になる夢が断たれたのですから、 この態度も、やむをえないでしょう。 ○シーン4 朝の報告  王の執事ザズが手早く朝の報告をする。  シンバは、遊びに夢中で、報告など聞いていない。  それに気づいた王は、ザズを獲物に見立て飛びかか。  一瞬、本気かと思って凍りつくザズ。  冗談だと笑う王。  時が経ち、シンバは、生意気盛りになる。 雌ライオンたちのガゼルを狙う狩りにも加わる。  ムファサは、息子をプライドパークの頂上へ導き、  王国を見下ろしながら、こう告げる。  「いずれ、お前が、この王国を統治するのだ。  「すべては、微妙なバランスのうえに成り立っているんだよ。  サークル・オブ・ライフなんだ」  そして、この王国の外へ出ないように警告する。  あそこは悪いハイエナたちのテリトリーなんだよ。 オトーサン、 「この”♪朝の報告”も、案外いいな」 執事ザズーの几帳面な仕事ぶりや 王への忠誠心を歌ったものです。 「雌ライオンのダンス、いいねぇ。  そして食われまいと跳びはねるガゼル!」 この振り付け、誰がやったか知りませんが、天才ですね。

○シーン6 プライドランド/♪王になるのが待ちきれない    シンバは、王のアドバイスを聞きいれず、  女友達ナラと一緒に、象の墓場に向かう。  ついてきた執事ザズーをまいてしまう。  得体の知れない怪獣たちが続々登場。  ハイエナのダンサーも。  そして見せ場、♪王になるのが待ちきれない。  オトーサン、 このシーン、かけあいが見事です。 (シンバ)僕は王 敵なんかいない (ザズー)そんな少ないたてがみ 見たことない (シンバ)きっと立派なたてがみが生えるさ いつか       高いところからほえるのさ ワォ!待ちきれない       あれをしなさい (ナラ)これをしなさい (シンバ)命令なんか (ナラ)されたくない (シンバ)一日中駆け回って自由に過ごそう (ザズー)さあ、しっかりお聞きください (シンバ)お前の話なか聞くもんか (ザズー)そんなに無視するなら、出ていきましょう       この王国から       もうやめさせてください       この子は、ほんとに手にあまる (シンバ)僕は待ちきれない       左を見て 次は右       光のなか 僕が立てば       動物たち僕たち みんな歌う       地上で空の上で シンバ王のため

・Nala, Zazu and Simba.       ♪もう待てないその日        もう待てないその日        もう待てないその日        もう待てないその日 オトーサン、 「何という色のコントラスト!」  でも、子シンバがなぁ」 この子どものシンバ、主役のひとりですが、 小学1年生みたいでチビで痩せています。 歌のほうも、正直、学芸会並み... ナラのほうが、おませ。 発声もしっかりしています。 王のムファサは、いかつい顔のわりには、 ハスキーな声でした。


69 ライオン・キング、その4

オトーサン、 「もう後半か」 目が奪われるシーンが続いて、 あっという間に時間が過ぎていきます。 つまらぬ映画や音楽会だと、もう居眠りしている頃。 でも、確か、この後が山場。 邪悪なスカーが始動するのです。 でも、それとは知らぬ無邪気な子どもたち、 そのコントラストで、手に汗を握ります。

・Scar, Nala and Simba

オトーサン、
パンフレットを再確認しました。
「そう、ここからだ」

シーン7 象の墓場
      ♪準備しておけ
シーン8 星空の下で
シーン9 象の墓場
      ♪準備しておけ
シーン10 峡谷(ヌーの大暴走)
シーン11  プライドロック
シーン12 ラフィキの大樹(哀悼)
シーン13 砂漠とジャングル
       ♪ハクナ・マタタ  

オトーサン、
「墓場、気味悪く作ったもんだ」
短時間で舞台を変えるのですから、
相当な工夫と動作の訓練をしたことでしょう。

○シーン7 象の墓場
  象の墓場に到着したシンバとナラ。
  ハイエナのトリオドに囲まれ絶対絶命!
  ザズの知らせで駆けつけたムファサに救われる。

○シーン8 星空の下で
 ザズにナラと一緒に先に帰るよう指示し、
 ムファサが星空を見上げて、ぼそりという。
 「偉大な王だった父や祖父が
  あの星々から語りかけ、導いてくれる」
 うれしさと哀しさがいりまじったような表情である。
 「お父さんは怖いものはないの?」
 「いや、ある。
 お前をなくすのが一番怖いのだ」
 
オトーサン、
「泣かせるねぇ、このせりふ」
息子や娘たち、奥方に一度くらい言ってみたいものです。
でも、3人いると、一番は誰?となって、
却って、もめたりするかも...

シーン9 象の墓場/♪準備しておけ
 スカーは、ハイエナたちにムファサ親子を殺し、
 自分が王位につくことを宣言する。
 客席の後ろから、ゾロゾロとハイエナたちが集まってくる。
 そして、呪いのダンス。

・Dance of hyenas オトーサン、 「すごいダンスだなぁ、このハイエナたち」 そして、続いて、スカーが歌い出します。 地獄の閻魔さまも驚くようなこわい感じです。 「渋い声だなぁ」 ♪準備しておけ  ハイエナの知恵など  まるでイボイノシシだ  馬鹿者どもよく聞け  俺様の言葉を  あいつをこの手で  引きづりおろすのだ  気づかれずにしっかりやれ  秘密は漏らすんじゃない  一生一度のチャンスだ  世界をひっくり返す  輝く時代 近づいてる

・wicked brother, Scar. ・Scar and Mufasa ○シーン10 峡谷(ヌーの大暴走)  スカーが、シンバを渓谷に立たせ、  ヌーの大群を追い立て、暴走させる。  助けにきたムファサは、息子を助け出し、  崖を登ってスカーに助けを求める。  だが、スカーは、ムファサを非情にも、  崖下のヌーの大群へ突き落とす。  王、ムファサの死。  その死の原因を作ったのは、お前だ、  スカーは、そうシンバを責めたてる。  シンバを処分しておけちハイエナたちに命ずるが、  死んだように横たわるシンバをハイエナたちは見逃すのだった。 ○シーン13 砂漠とジャングル/♪ハクナ・マタタ  シンバが砂漠に倒れている。  そこを通りかかったミーアキャットのティモンと  イボイノシシのプンバァが助け、ジャングルへと連れていく。  嘆き悲しむシンバを「ハクナ・マタタ」、  ”くよくよしても、しょうがない”と励ます。 ♪ハクナ・マタタ いい響きだ ハクナ・マタタ 愛のメッセージ 悩まずに生きることさ 俺たちのこの知識 ハクナ・マタタ  ハクナ・マタタ  いい響きだ  ハクナ・マタタ  愛のメッセージ  悩まずに生きることさ  俺たちのこの知識  ハクナ・マタタ    ハクナ・マタタ...  悩まずに生きることさ  俺たちの合言葉  ハクナ・マタタ....


70 ライオン・キング、その5

オトーサン、 「さ、トイレだ」 万雷の拍手が続いていますが、 それに付き合っている場合じゃありません。 女性トイレほどではないにせよ、 大きいほうのトイレの数は限られております。 早いところ、そこを占拠しなければ。 大体、バルコニー席なるところが、 こうした場所取りゲームでは、すでに不利です。 人ごみをかきわけ、階段を駆け降りました。 「おー、成功した」 大きいほうをし終わると、スカーっとしました。 まるで、ムファサを退治したスカーのような笑み。 さて、冗談はともかく、 15分間の休憩時間、こうした超満員の劇場での、 トイレタイムとしては、短か過ぎるのではないでしょうか。 終わって、女性用トイレをみると、 長蛇の列が続いていました。 このニュー・アムステルダム劇場、 ライオン・キングのために改装したそうですが、 トイレのスペースまでは、気が回らなかったようです。 オトーサン、 「おお、はじまった」 でも、続々と、上演中なのに、 ひとが入ってきて、落ち着かないこと、この上なし。 上映時間になると、日本では、ドアを閉めてしまいますが、 こちらは、おおらかなものです。 出だしの「ワン・バイ・ワン」 舞台と客席で、原色の民俗衣装を着た アンサンブルが歌うのですが、 その脇を通リぬけていくひとが続きます。 まさに、ワン・バイ・ワン状態... 「さては、これを予期した演出かなぁ」 変なころで、感心しました。 「えーと、プログラムは.... あれっ、シーン7で終わりか」 第1幕がシーン13までありましたから、ほぼ半分です。 第2幕 ワン・バイ・ワン シーン1 スカーの洞窟       ♪スカー王の狂気 シーン2 プラウドランド       ♪シャドウランド シーン3 ジャングル シーン4 星空の下で       ♪終わりなき夜 シーン5 ラフィキの大樹 シーン6 ジャングル       ♪愛を感じて       ♪お前の中に生きている シーン7 プラウドロック       ♪キング・オブ・プライド・ロック       ♪サークル・オブ・ライフ 読者のみなさん、 以下に主要なシーンをご紹介しましょう。 ○シーン1 スカー王の狂気  プライドランドは王となったスカーと  ハイエナによって、自然が壊され、  動物も住めないほど荒れ果ててしまう。  狩りをしようにも、食べ物も水もない。  禿鷹が空を舞い、池が干上がっていく。  明るい歌を歌えとザズーに命令するスカー。 ○シーン3 ジャングル  シンバは、ティモンとプンバァを相手に  毎日を楽しそうに過ごしてはいるものの、  自分のせいで父を死なせたことが重く沈殿している。  草たちは、いろんな手を使って楽しまそうとする。  シンバがティモンを挑発し、川を飛び越えさせようとする。  飛び損ねたティモンは滝つぼに流されてしまう。  そんな姿を見て、父の死を思い出し苦悩するシンバ。  やっと助け出されたティモン。  くわえた魚を放り投げると、プンバァの口の中にスッポリ!  それをみてようやく笑うシンバ。

・Timon and Pumbaa. シーン6 ジャングル       ♪愛を感じて/♪お前の中に生きている  シンバは、飢えのために、  プンバァを襲おうとしたナラと再会する。  すっかり美しく成長したナラ。 2人は見つめあい、手を握り、そして踊り出す。

・Nala and Simba. ♪愛を感じて (ティモン)何か起きてる (プンバァ)何が? (ティモン)俺にはわかる (プンバァ)ほう (ティモン)あいつが恋をしたら  2人になっちまう (プンバァ)おぉ... (ティモン)やさしい夕暮れ         魔法に満ちて 全てがロマンチック なんだか イヤな感じ (女声ソロ)Can you feel the love tonight?       愛を感じて       世界を包むハーモニー       命の歌よ (シンバ) 話したいけど、どうすればいい       過去の真実 ああダメだ        言えないんだ (ナラ) 秘密を抱いて苦しんでる      わたしにはわかるのよ     王はあなた (女性ソロ/コーラス)Can you feel the love tonight?        愛を感じて        世界を包むハーモニー        命の歌よ        Can you feel the love tonight?        今を見つめ        夜の闇をぬけて 愛はいま (ティモン)あいつが恋をした        すべて終わる (プンバァ)気楽で 素敵な暮らし (ティモン プンバァ)きっともう終わる オトーサン、 「おお、この木の妖精たちのダンス、  見事だなぁ」 照明と色彩で、幻想的な雰囲気を盛りあげています。 愛しあう2人には、世界が、こんな風に見えるのでしょう。 「...もう、昔のことで、忘れちゃったけどなぁ」

・Fairy of trees.


71 ライオン・キング、その6

オトーサン、 「わが道をいく。そのほうがいいだろうに」 ムファサの後を継いで、 厄介で面倒を抱えこむキング・ライオンにならない、 そんな生き方もあるように思えます。 オトーサン、 どちらかと言えば、 「雅子さん、離婚しちまえば」派です。 でも、自分のことばかり考えるひとばかりでは、 世のなかうまく回っていかないのも事実でしょう。 昨今は、そんな生き方は流行しませんが、 世のため人のために、命をかけるひともいなければ。 ○シーン6 ジャングル        ♪お前の中に生きている  ナラは、プライドランドが荒れ果て、  スカー王の暴政がみんなを苦しめている、  あなたが戻って、王になってほしいと懇願する。  だが、ナラの願いも空しく、  シンバは、王国プライドランドに戻ろうとしない。  だが、シンバが生きていると気づいたラフィキは、  「お前こそ王なのだ」と説く。  「過去から逃げるか、過去から学ぶのか?」  父王ムファサの亡霊も現れる。  「自分が何者なのかを思い出せ」  シンバが水面をのぞきこむと、薄い影が現れ、  渦のなかから、ムファサの顔が浮かび上がる。 オトーサン、 「この演出もなかなかだな」 布と影絵をうまく使っていました。 「さあ、いよいよ、ラストシーンだ」 ○シーン7 プラウドロック  ♪キング・オブ・プライド・ロック/♪サークル・オブ・ライフ

・Scar vs Simba. プライドランドに戻ったシンバは、  スカーに決然として戦いを挑む。  スカー配下のハイエナたちを、  ティモンをエサにしておびき出したりもする。  プンバァも、おならで参戦し、  ついには、ハイエナの足をくわえて飲み込んでしまう。  だが、シンバのほうは、絶対絶命のピンチ。  プライドロックの上で、スカーに押さえ込まれてしまう。  スカーは「俺がムファサを殺した」と言い放ち、  シンバを突き落とそうとする。  その瞬間、体勢が入れ替わり、スカーが落下。  ラフィキが、王の印である布をシンバにかけ、  シンバは、プライドロックの頂上へ。  「ウォーオォー」  キング・ライオンらしい勝利の雄たけび。  こうして王国には、平和と繁栄の時代が戻ってきたのだ。  動物たちが勢ぞろいして、歌う。  ♪キング・オブ・プライド・ロック   永遠の時を刻む   それがサークル   サークル・オブ・ライフ

・Simba.

オトーサン、
「おお、フィナーレだ」
舞台に出演者たちが勢ぞろい。
幕が上がり下りして、最後は主役たち。
ムフサ、シンバ、スカー、ナラ、
そして、ヤング・シンバとヤング・ナラ。
観客は総立ち、猛烈な拍手。
奥方も、次女も、顔を紅潮させています。
「最初のシーンが最高だったなぁ」
「黒人たちが、生き生きしていたわ」
「そうだなぁ」
キャストの半分は南ア出身者だとか。
彼ら、オリンピック並みに頑張ったのでしょう。 
黒人の身体能力には、どんな人種も敵わないでしょう。
つまり、世界最高のダンスが見られたというわけ。

・Dancers. オトーサン、 出口の混雑で、次女とはぐれました。 ようやく再会して、 「トイレでも行ったのか?」 「パパたちが、いそぎ過ぎるからよ」 でも、劇場から出てくる大勢のひとが、 争ってタクシーに乗ろうとするのは、当然予想されること。 このあたり、夜遅くなると、物騒な界隈です。 こんなことで、 「ライオン・キング」、 余韻を味わうヒマはありませんでしたが、 息をのむシーンも多く、感動的なミュージカルでした。 「コーラスもよかった」 「そうね」 この雰囲気、 劇団四季のライオン・キングでは、 まず味わうことはムリでしょうね。 それはそれで、工夫もしているようですが。

・The group dance. 読者のみなさん、 最後に、NYタイムスのVincent Canbyさんの コメントをご紹介しましょう。 「すべての劇場がこうであってほしい。 力強く、ポピュラーで、プリミティブで、多彩である。 ライオン・キングは、西欧に真の魔法を回復させた」 大自然の豊穣さを感じさせ、 それを守ることの大事さを訴え、 そこに生きるひとびとの力を結集した 素敵な独創的なミュージカルでした。 おそらく長く語りつがれることでしょう。


72 ペイヤールで朝食を、その1

オトーサン、 「あーぁ、もう今日だけか」 今回のNY滞在中、見聞きしたのは、3つだけ。 ニューイヤーコンサート、 グッゲンハイム美術館、そしてライオン・キング。 下痢のために、活動を制約されました。 ソーホーや9.11の跡にも行けなかったし、 メトも、MOMAも、自然史博物館にも、行けませんでした。 出発前には、「セントラル・パークでサイクリング」を そう張り切っていましたが、 それも、下痢と悪天候に阻まれて見送りました。 「あーぁ」 時計を見ました。 「まだ、5時か、腹減ったなぁ」 昨夜、午後6時に軽い夕食をとっただけ。 誰も起きそうもないので、 ”サイゴン”の残りのチャーハンを オニオンスープの素で味つけして、おじやにしました。 「うめぇ。 「そういえば、豪華レストランにも行かなかったなぁ」 美味しいステーキも、ワインも、味わえませんでした。 オトーサン、 「本でも読むか」 でも、午前6時には、読み終えてしまいました。 ○マイクル・コナリー、古沢嘉通訳  「暗く聖なる夜(上/下)」講談社文庫 各840円 「シャワーでも浴びるか」 寝ているひとには、申しわけありませんが、 ここ数日、下痢でほぼ寝たきりでしたから、汗まみれ。 バスに日本のお風呂のようにお湯をはって、 お腹を暖めました。 「これで、少しは、症状も緩和するだろう」 午前8時、 「起きんなぁ」 パソコンで溜まった画像を整理しました。 この作業も、1時間ほどで終わりました。 「起きんなぁ」 午前9時、長女が起きてきました。 「おお、ダイジョウブか?」 「ああ、元気になったよ」 昨日1日、休んだのがよかったようです。 若いひとは、元気になるのが早くていいですねぇ。 「今日は、ペイヤールへ行こうな」 「そうね、いいわよ」 オトーサン、 ようやく、心残りのペイヤール行きが決まって、 ひと安心しました。 「どこにあったけ?」 長女のパソコンで、場所を確認しました。 Lexington Aveの73-74st.でした。

・Payard Patisserie & Bistro. 地図をみると、右手にイ−スト・リバー。 「...川沿いの遊歩道にも行かなかったなぁ」


73 ペイヤールで朝食を、その2

オトーサン、 「おお、ようやくスタートか」 女性3人の身支度、時間のかかること。 10時30分になりました。 おまけに、急いでいたせいか、玄関ですれちがって、 立てかけてあった鏡が倒れてしまいました。 砕け散ったガラスの破片の掃除で、また手間どることに。 オトーサン、 時計をみました。 もう11時を回っています。 「おいおい、また銀行に入るのか?」 シティバンクで、T/Cを現金に替えるのに20分もかかりました。 今度は、HSBCへ入っていきます。 「何やっとる」 長女と2人、係員と何かやりあっています。 貴重なNY滞在の最後の時間がどんどん消えていきます。 お腹も、ペコペコ。 ようやく、すべてが終わったようです。 一路、ペイヤードへ。 オトーサン、 11時30分、ペイヤードに到着。 入口近くの小ぶりの丸テーブルを占拠。 「何、食べる?」 「そうね」 「おれ、クロワッサンとカフェオレ」 「じゃ、私も」 「あたしは、キッシュがいいわ」 てなことで、大急ぎで注文しました。 ペイヤールさんは、フランスのニース出身で、3代目。 NYで、美味しいフランス・パンが食べられるのは、 ここだけのようなで、贔屓にしております。 いいお店なのですが、 ウエイターが、お高くとまっているのが、難。 つい先程も、丸テーブルの場所を変更させられました。 お客を選別して、どこに座らせるかは、彼の権限のようです。 チョコレートのショウケースのそばに座らされました。 ここだと、厨房の出入り口に近いので、たまにシェフが出てきます。 フランス語会話が聞こえるという意外なメリットがあります。 わが家は、 オトーサンと奥方がフランス語をかじったし、 最近は、長女がフランス語の勉強をはじめたので、 興味深く、そのやりとりに耳をすませました。 「あれが、ペイヤールさんみたいだよ」 「どっち?」 「あの肥っているほう」

・Payard Patisserie & Bistro. ・Francois Payard (right) オトーサン、 「足りないなぁ」 「そうね、ケーキ食べる?」 「ああ、じゃ、適当に4人分選んできて」 自分で選べばいいのでしょうが、 お昼時で、店内が混んできました。 見ると、奥のレストランも、ほぼ満席。 アッパー・イ−ストのご婦人たちのメッカになってきたようです。 はじめて、この店をみつけた5年前は、空いていました。 アメリカ人の味覚水準も上昇したのでしょう。 次女、 「チョコも食べてみない?」 彼女、チョコレートの本場、スイスに詳しいのです。 そんな関係で、味にひときわウルサイのです。 「ああ、旨そうなのを選んでよ」 みんなで、一口、味わいました。 奥方、 「美味しい?」 次女、 「そうね」 オトーサン、 「旨いなぁ、日本じゃ、なかなか味わえないよ」 奥方、 「日本でも、最近は、いいお店も増えてきたわよ」 「そうか?」 次女、 「日本は、まだまだよ」 奥方、 「...」 次女、 「カカオのいいのが、入ってこないのよ」 確かに、彼女のスイスみやげのチョコレートの味には、 及ばないようです。 奥方、 「伊勢丹の”ジャン=ポール・エヴァン”のチョコは、 美味しいらしいわよ」 オトーサン、 「そうか?」 長女、 「パリで食べたわよね」 オトーサン、 「食べた?」 「行ったじゃない、フォーブール・サントノレへ」 奥方、思い出して、 「ほら、あのお店、2階に上ったじゃない」 「そうだったっけ?」 奥方、 「そうそう、日本人の女店員がいて、  あなた、何か冗談言ってたじゃない」 「そうだったっけ?」 女性は、つまらんことを覚えているもんです。 肝心のお味のほうは、すっかり忘れてしまいました。 ○Jean-Paul Hevin "shop and tea room"   住所:231, rue Saint-Honore 75001 Paris   電話: +33 (0)1 55 35 35 96 定休日:日曜日・祝日   営業時間:1000-19:30 読者のみなさん、 最近、表参道ヒルズに本格出店したそうなので、 一度、お味のほうを確認してみてください。 週1回、パリから直輸入するとか。 ○ジャン=ポール・エヴァン  住所:渋谷区神宮前4−12−10 表参道ヒルズ1階  電話:03−5410−2255  営業時間:11:00〜21:00


74 メランコリー・ベビー、その1

オトーサン、 「今度は、どこへ行くの?」 「お買い物よ」 「おみやげとか、いろいろあるでしょ」 「あの鏡の代わりは?」 「そうね、欲しいわね」 「じゃ、オレ、家まで運んでいってやるよ」 てなことで、レキシントン・アベニューで、 タクシーを拾って、セントラルパークを横切って、 アッパーウエストのリンカ−ンセンターのそばへ。 「また、ここか」 この前、ニュー・イヤーコンサートを聞きにきましたよね。 オトーサン、 「先に、お店に入って探していてね」 奥方、 「どうして?」 「いや、そこのBarnes and Nobleにちょっと寄りたいから」 長女、 「みんなつきあおうよ」 巨大な本屋なので、長女に手伝ってもらって、 狙っていた本を探しあてました。 ハードカバーだと、$24.95ですが、 ペーパーバックを探して、$7.99ですみました。 ○Robert B. Parker ”Melancholy Baby”   G.P. Putnam's Sons/Penguin Group. 2004/9.

・Barnes and Noble.
・Melancholy Baby.

オトーサン、
お目当ての本が買えたので、満足して、
今度は、Bed Bath & Beyondへ。
読者のみなさん、
「またか?」
そうなのです。
フィラデルフィアでも行きましたよね。
ここのお店は、そこよりもすっと大きく、広いのです。
お目当ての売り場に行くのも一作業ですが、
こちらのひとの暮らしぶりを知りたかったら、
おすすめのスポットのひとつでしょう。
姿見も、いろんなものが置いてありました。
どこかの宮殿にあるようなものもありましたが、
木枠のシンプルなものにしました。

○Bed Bath & Beyond
 住所:Lincoln Square (Westside) 1932 Broadway 
 電話:(917) 441-9391 
 営業時間: 900 - 2200
  無休

・Bed Bath & Beyond. Lincoln Square.
・Full size Mirror. $21.66

オトーサン、
店員に簡易包装を依頼し、
取っ手をつけてもらいました。
「じゃ、オレ帰るから」
「え、もう帰るの?」
「だって、こんなもの持って歩くわけにも行かないだろう」
「そりゃ、そうだけど...」
てなことで、タクシーを拾って、長女のアパートへ戻りました。
時計を見ると、午後3時には、ベッドにいました。
やはり、まだ、体力が回復していないようです。
30分ほどかけて、帰り支度をしました。
荷物などないので、すぐ終わりました。

オトーサン、
電話の音で、目が覚めました。
「誰からだろう?」
英語のようでした。
英会話は不得手ですから、ガチャンと切りました。
「ま、売り込みだろう」
また、一眠りして、午後6時に目が覚めました。
「帰ってこんなぁ」
女性陣が帰ってきたのは、その1時間後。
夕食が終わったのが、午後9時。
久しぶりに、ステーキを食べました。
「この肉、パサパサしてるなぁ」
長女、
「ここのは、そういうものなのよ」
奥方、
「Agataで買ってきたのよ」
「そうか」
長女、
「昔、ここに来た頃は、
スキヤキが無性に食べたくなったけどねぇ」
「今度、日本に帰ってきたら、松坂牛でも食べに行こうな」
長女、
「いいわね」
奥方、
「もうボーナスは出ないのよ」
「は、は、は」
会社勤めの頃は、いつもボ−ナスが出たら。
おいしいスキヤキを食べに行こうなぁと言ったもの。
いつも、空手形になりましたが。

読者のみなさん、
イメージ画面で、おいしいスキヤキをご賞味下さい。


75 メランコリー・ベビー、その2

オトーサン、 夜中に目を覚ましました。 「1時30分か」 日本時間だと、午前11時30分です。 そう考えると、よく寝たものです。 「あと数時間で、ニューヨークにおさらばか」 午前6時に、長女のアパートを出て、 8時には、JFK空港を離陸して、一路帰国の途へ。 機中、どうせヒマですから、もうムリして眠る必要はありません。 「...パーカーでも読むか」 バーンズ&ノーブルで買ったばかりのミステリーを読みはじめました。 著者のロバート・B・パーカーは、ミステリー界の長老格。 スペンサーものの探偵小説で、有名です。 作風が、チャンドラーに似ているので、ほとんど読んでいます。 でも、彼には、スペンサーを主人公にしたもののほかに、 女性探偵サニー・ランドル(Sunny Randall)を主人公にしたものがあって、 この「メランコリー・ベイビー」は、シリーズ第4作。 このサニーは、父親が優秀な警官だったので、憧れて警官に。 思うことがあって、退職し、私立探偵になります。

・Robert B. Parker. オトーサン、 「この本、読みやすいなぁ」 辞書なしでも、楽々読みすすめられそうです。 例えば、原文の出だし部分をご紹介しましょうか。 My ex-husband was getting merried to a woman I want to kill. (別れた夫が再婚すると知って、相手の女に殺意を抱いた) 見事な導入部です。 もうこれだけで、この作品を読みたくなってしまいます。 続く文章は、こうなっています。 I didn't actually know her, and killing her would make matters warse. But I got as much pleasure out of the idea as I could before I had to let go of it. (だが、顔も知らないし、 殺してしまうと、こっちの立場はますます悪くなる。 それに、どうやって殺すか考えるだけで充分楽しかったので、 実際に行動に移すことは諦めた) オトーサン、 「もう、4時か」 サニー・ランダルの世界に吸いこまれて、 またたく間に時間が過ぎていました。 この時点で、60ページを読み終えていました。 パラパラっと最後のページをめくって、 確認しました。 「全部で、296ページか。5分の1、読み終えたわけだ」 いつも、海外旅行をすると、帰りの便で、 ペーパーバックを読むようにしています。 滞在中に、英語に慣れるので、読む速度が速まるのです。 それに、機中は退屈ですから、面白い作品に出会うと、 至福の時間を過ごすことが出来ます。 「辞書を引いてはダメだよ」 その昔、先輩から教えられました。 「分からない単語に何度も出会ううちに、  自然にその意味が分かるようになるからね」 最初は、とっきやすいポルノ小説を乱読しまた。 「おお、おお」 なーんて、唾を飲んでいると、先を読みたくなります。 「Titって、何だ?」 やがて、意味が分かるようになります。 オトーサン、 「おお、起きてきたか」 奥方と次女が起きてきて、順番にシャワーを浴びます。 その前に、シャワーを浴びておかねば。 「もう終わったの?」 「ああ」 男性なら、5分もあれば、終わりますよね。 後片付けなどして、6時にスタート。 タクシーで、一路、JFKへ。 見慣れた景色ですが、やはり、これが最後と思うと、 まだ明けやらぬ暗いハイウェーに目をこらしてしまいます。 オトーサン、 「ピリピリしてるなぁ」 やはり、テロがあったNYだけあって、 荷物検査の係員がピリピリしています。 ダラスのときとは、まるでちがって、厳重な検査です。 靴を脱げと言われましたし、鞄も開けられました。 7時47分、ボーイング747の機内へ。 「あれ?エコノミーなの?」 「そうよ、帰りだもん」 往路とちがって、帰路は家に帰って寝るだけ。 確かに、合理的な選択でした。 「おい、朝焼けがきれいだぞ」 「...」 奥方、もう眠っています。 「年なのに、頑張ったからなぁ」 娘たちの活動に精一杯ついていったのは、大したもの。 「オレのほうは、余裕だな」 ま、NY滞在中、ほぼ寝ていたのですから、 自慢にはなりませんが。 「おー、離陸だ」 時計をみると、8時23分。 一旦雲の中に入りましたが、 雲がとぎれると、眼下に灰色のNYがみえました。 オトーサン、 手帳の最後をみます。 「今回は、お金、費わなかったなぁ」 こんなに費わなかった海外旅行ははじめてです。 ○費用明細 ・12月30日(ダラス空港)  ジュース $1.99 バナナ 80c ・1月1日(NY)   タクシー代 $10 パンとバナナ $1.8 ・1月3日(NY)  自転車用手袋 $54.26   グッゲンハイム美術館入場料 $18 同、絵葉書 $5.15  手袋(息子へのみやげ) $9.99 ・1月5日(NY)  ガム 30c  ペーパーバッグ $8.66  姿見(長女へのプレゼント) $21.66  タクシー代 $9  長女へ(交通費、観劇代金など) 5万円    オトーサン、 その後、手帳に読んだページを記載しました。 ・9時10分 100ページ(3分の1) ・11時40分 144ページ(半分) ・(日本時間)12時20分 200ページ(3分の2) 「おお、着陸だ!」 「無事ついたわね」 「280ページか。あと少しだなぁ」 この16時40分時点で、280ページでした。 関空から羽田へ。 乗り換え時間に、空港内のそばやで読み終えました。 「18時18分だ!」 なお、「メランコリー・ベイビー」は、 すでに邦訳がされています。 ・ロバート・B. パーカー、奥村章子訳 「メランコリー・ベイビー」 ハヤカワ・ミステリ文庫 2005年 404ページ

○あらすじ  ボストンの私立探偵、サニー・ランドルは、  元夫のリッチーが再婚すると聞いて、憂うつな気分だった。  愛犬のロージーも、どことなく不安気である。  精神科医のカンセリングを受けている。  そんなとき、ボストン大学の学生サラ・マーカムに雇われる。  自分が養子なのではないかと疑念を持っているのだ。  なぜかDNA鑑定を拒否する両親を問いただすが、  謎は深まるばかりか、殺人事件が起きる。  サニーは、タフガイの親友スパイクに助けてもらい、  難事件の解決に挑むなかで、本来の自分を取り戻していくのだった。 読者のみなさん、 「マッチ1本、ニューヨーク」は、 これにて、完結いたします。 思いがけなく長期にわたる連載になってしまいました。 ご愛読に深く感謝申し上げます。


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