ブリュメール1960


目次

1 はてしない闇 2 とほうもなく長い眠り 3 時代の洪水 4 怒号、歌声、歓声 5 霧の深い季節 6 沈みゆく太陽 7 逮捕 8 廃人の眠り 9 海鳴り 10 色恋沙汰 11 不和の季節 12 遠くにある革命 13 苦闘 14 祝宴の夜

1 果てしない闇

 ぼくはあなたを見た。護送車はサイレンを鳴らしながら暗い夜へと あなたとあなたの同志を運び去っていった。闇は果てしなく広がり、 雨もやまなかった。警官隊とあなたをニュース映画はいくたびも闇に 鮮明に浮かび上がらせた。  ぼくはその後、釈放されたあなたにいくどもあい、あるときは隊列 のすぐまえにあなたのほそいうなじを見、指の皺が悲しい怒りにひき つっているのまで見てきた。最後の夜、ぼくはあなたを見つけようと して果たさなかった。あなたのふくらみかけた胸が泥靴にふみにじら れたとき、ぼくは1.16のあなたを想い出していた。  その夜、あなたが闘っているあいだ、ぼくは浅い眠りにおののきな がら、暖かい床のなかで、あなたの唇を求めていたのだ。眠りの浅さ を寒気のきびしさのせいにしながら。これが以後、あなたと会い、い くつかの言葉を交わしたとき、ぼくを羞恥のために寡黙にした理由の ひとつだった。  ぼくにとって、あなたはつねに身近に感じられていたが、あなたは あなたが手錠をはめられ鎖の環になっているとき、ぼくが眠っていた ことをつねに舌をけばだてて責めつづけていたように思える。  ぼくは皮膚に焼きつけるほどあなたの闘争の夜を見た。警官の波に 翻弄される顔の断片、空ろな闇にむけられた視線のむれ、ざわめきと 異様な沈黙の深さを。  だが、あなたは、ぼくがなにも見ていなかったと主張し、わたしは 騙されないと冷たくいい放った。どう形容したならば、あなたは了解 してくれるだろう、とぼくは考えたものだ。警官という、おそろしく 無責任な虫けらの顔が妙に歪んで、音もなく開閉する唇を無数に闇に ぎらぎらさせていた、と。  ぼくは、あなたにいかにあの夜をくわしく見ていたかを示すという ばかげた自己欺瞞をやってのけたことさえある。  砂漠のような空港に警官隊が陰険な漁火のように草地と泥水地帯に 散らばっているあなたがたに突進してきたこと、食堂であなたたちが 椅子をるいるいとつみあげ、内部の明るさそのものと時間がなったこ と、小突かれ、足蹴にされ、服や眼鏡や靴が散乱する抵抗のあとで、 ついに、あなたがたが存在を剥奪されるにいたったことについてぼく は描写した。もちろん、あなたがたが鉄かぶとの火花のなかで、堅い スクラムをくみ、全学連の歌を胸から血を吐くほど叫びつづけ、これ らすべては政府の卑劣なやりかたに対する憤りにみちていることもの べたし、遠く護送車から押しへだてられ、闇とほとんど同じ顔色にな った同志たちが、疲労にめげず、あなたがたに声援を送っていたこと についても言い忘れなかった。  群がるカメラマン、新聞記者の罵声がぬれて黒光した幌の内部に監 禁されたあなたがたに存分にあびせられ、なかには唾や痰を吐きかけ るものもすくなくなかったと憤怒にかられて指摘した。  にもかかわらず、あなたはぼくの記述がぜんたいとして傍観者の想 像にあやまって着色されていて、なによりもあの夜の<非行動>は、 革命の同志に対する侮辱そのものであり、ぼくの立場を雄弁に暴露し ていると非難した。  そしてなかでも、あなたを真っ青にしてしまった描写があった。そ れは、護送車が出発するまぎわ、群集のまばらな後方にいたひとくみ の男女についての描写で、背が高くレーンコートの襟をたてた男が、 高級車からおりる女を抱くようにして手助けをしてスーツケースを受 け取るのにたいして、女が白い歯をのぞかせて微笑し、幸福なかれら には、平穏な夜がひらかれているといったときだった。  あなたの目に血の色がのぼってきたので、ぼくは女は亜麻色に髪を 脱色したばかな女のひとりで、事実は女が男をたぶらかすために媚態 を示しつづけ、うまく男をひっかけたのにちがいないと訂正した。  あなたは、ぼくをさえぎり、あなたの人間をこきおろすやりかたは 鼻もちならないと短くたたきつけた。話がぼく自身思わぬ方向にそれ てしまったとあなたにいったとき、あなたはすでに立ち去っていた。  以後、あなたはぼくとの会話に決して深入りすることがなく、いく たびか恵まれた機会をぼくのほうは一時の腹立ちの記憶から逃してし まったのだ。繰り返していうが、あなたほどぼくの身近にあったもの はいなかった。だが、あなたは、ぼくへのいやしがたい不信を墓場ま で持ち込んでいったにちがいない。すべての和解、ふともらすやわら いだ視線に探りあう心なごむ和解の時を悲惨な死が奪っていってしま ったいま、やり場のない怒りをときおりぼくはあなたの性急で一方的 な<裁き>にむけたい衝動をおぼえる。  それはあまりにも根深かったし、死者に唾しても、もう、それは、 ぼく自身にふりかかってくるだけだと、ぼくは思いかえす...。


2 とほうもなく長い眠り

 Sのことをあなたも知っていると思う。あなたがたの200人にも みたないデモ隊とG街で出くわした12月末、あなたはぼくと並んで いたSの真っ白いブーツをおぼえているはずだ。おそらくSの父親が 政府の高官であることを、そのときLは勝ちほこったようにあなたに 話したことだろう。あなたの眼差しには以後さらに強く拒否のいろが あらわれ、ぼくがブルジョワの生まれで、ブルジョワ娘と結婚し、ブ ルジョワの子供をもつコースをたどることへの軽蔑が深かった。あの 時、ああもあからさまに偶然があなたとぼくらをであわせなければ、 和解は不可能ではなかっただろうとぼくは思っている。  だが、すべてはさかさに動き、ぼくとSのあいだには愛が生まれる 方向に進んでいき、Sとの婚約を破棄して、デモ隊に参加しはじめた 春のぼくにたいしてあなたは距離を置きつづけた。それは遅すぎたの だ。だが、Sの時間に身をゆだねていたころのぼくの不幸について、 あなたはついに分からなかったと思う。それにあなたは急激に少なく なった同志を指導する立場につきはじめていたし、Lの情報があなた を惑わしていたから。  Sのそばにいて単調で終わりを知らないおしゃべりを聞いているう ちに時間は急激な後悔のない逆戻しもふみとどまることもない流れと なってすぎていき、ぼくはSにならって羽虫の観念を追っていた。混 雑した映画館でどうにか座り、くたびれきってG街にいき、レストラ ンで夕食をとって元気を回復し、ホールMでチークダンスをした。夜 遅くSと別れてから肥った女のいる郊外線の駅の小さな店で酔払いた ちのおしゃべりを聞きながらブドウ酒とサンドイッチの夜食をとる、 これがぼくの生活のすべてだった。ときおりは、太陽が暴力的にふる 夏にあこがれたり、Sのリズムからぬけだして腹黒いほどの感動を求 めたりした。  もちろんすべての堅牢な手ごたえのある事件はあなたの側にうずま いていた。12・10の闘争を組織するために全学連の書記長が学内 に篭城し、かれを不当逮捕から守るためにあなたたちは建物の戸口に 板と机でバリケードを築き無数の石つぶてで武装した。すべての革新 勢力はブルジョワ新聞と口先をそろえてあなたがたを「カミナリ族」 「挑発者、トロキスト」ときめつけ、文相の声明に呼応して学校当局 は学園の自治の美名であなたがたの追放を陰謀した。  あなたが闘うためにいく箱分もの石をひろい、毛布を書記長のため にととのえているあいだに、ぼくはちびちび自殺しながらあなたと遠 いところで、Sのいくつかの接吻をひろっていた。日にいくどかの不 規則な食事とたえまない不毛の興奮のため背中にまで鈍い腹痛をかん じながらぼくはSの口のなかの咀嚼物までのみこんでいた。  それからふいに<黄金の60年>がやってきた。Sは雪国からあか い縁どりの祝賀電報をよこし、数日後2羽の小鳥の木細工をもって帰 ってきた。あなたからは4円の賀状すらこないはじめての年だった。   授業がはじまった頃、ぼくはあなたと構内の銀杏並木で出会った。 あなたは青ざめていて、身体中から力がぬけ、おりもので悩んでいる 女のようだった。Sの押せばつゆのでそうな皮膚にくらべて、あなた はなんと老婆じみた皺を眼のふちにもっていたことだろう。服はあな たの体の線を美しく見せることを放棄し、あなたの足は、しもやけに むらさきいろになた足は、美しさよりも大地をふみしめる確かさを求 めてひらかれていた。あなたは真っ直ぐではなくはじめて斜めにぼく に対した。あなたは静かに疲れないように話し、ぼくらは他愛ない話 をした。むかしのように肩を並べて石段をのぼりおりし陰鬱な響きを たてながら自治会室のまえまでいった。戸口のところでぼくらはたち どまって話しつづけた。あなたのひっそりとした身がまえ、そして、 ふいにひらめく瞳の炎にぼくはせつない愛情をふたたびむかしのよう に強く感じた。  あるいはこのときあなたのうわ眼づかいの一瞥が、ぼくが部屋に入 るかどうかをうかがってぼくを硬化させなければ不和はとけさったか もしれない。ぼくは用事をこしらえ、あなたはうなずき、別れようと もしないで貧しい話題に温かみをとりもどそうとつとめていた。ふと 自分のぎこちない声を聞いたかのようにあなたは黙った。疲れている ね、とぼくはいった。とほうもなく長い眠りにはいりたいわ、とあな たは微笑んだ。神経が弱っているんだね、わずらいをすてたいんだろ う。あなたはぼくの調子にSとの情事からはじめてできた異質なもの をかんじたように警戒の眼つきをし、それから思いなおしてうなずい た。  そのときLがビラの紙屑の草むらからでてき、ぼくらから3Mはな れたところで動かない姿勢をとった。このときほどぼくが人を殴りた い気持ちにかられたことはない。あなたは視線を下にやりながらうな ずいていた。ぼくは火の塊を抱きながらあなたから遠ざかった。


3 時代の洪水

 以後、和解の機会がなかったわけではない。たとえば、1.16を 控えた前日、ぼくらの学科の全体討論が研究室でひらかれた。あなた はストーブの熱い部屋のなかで白ブラウスと青の水玉模様のスカート でつねになく美しかった。  Lがまず情勢を話しはじめた。東京地評の労働者1万名は共産党の あらゆる恫喝にもかかわらず羽田デモを敢行しようとしている。社会 党、総評、国民会議は沿道動員をさきに決定したが、日比谷中央集会 に変えることにより岸首相の渡米をゆるそうとしている。  それに対して、ただちに反論があり、東京地評は、結局羽田デモを やめていて、実際に羽田デモを予定しているのは、全学連主流の<ほ んの一握り>だけではないか。Lのアジテーションは、客観情勢を故 意に歪めているし、社共統一戦線への裏切り、はねあがりであって、 それ以外のなにものでもない。それにわれわれに何ができるというの か?ドンキホーテ役を演じるのはごめんだ。  Lの反論、さらにそれへの反論がかさねられた。ぼくも危機感をあ おるLの言葉をとらえてあなたを攻撃した。あなたがたはぼくら学生 一般を軽蔑している。生理的な皮膚の反応しかしない、この点であな たがたにみくびられても当然だ。ぼくらにとって思想が哲学概論の借 り物でしかなく、それを平穏な生活のために臨機応変に使いわけてい るのも事実だ。だが、ぼくらがあなたがたとそんなに遠くにいるとは 考えてもらいたくない。ぼくらは機会に恵まれず、古い因習的思考と ブルジョワ宣伝にがんじがらめにされているのだから。解放されたが っているぼくらに対してあなたがたは、<唯一>を提示し、<オール ・オア・ナッシング>を要求する。つまりあなたがたは自分や現実を 穴のなかに隠しておいて、策だけを見せる。だが、そんな古い手口は みえすいていてあきあきさせる。デモの渦のなかにまきこみ、ふいに 先頭に押し出し警官に蹴られるようにする。それしか、あなたがたは 方法をもっていない。  このとき拍手があり、あなたとLが部屋の空虚を代表することにな った。あなたは怒りに頬を燃やしてあの冷静な調子を失いかけながら しゃべりはじめた。このまま採決すればわたしたち、とあなたたちが よぶほうが負ける。だが、いわせてもらいたい。執行部に対するいま の批判は、結局のところ、文句をつけたいがための文句にすぎない。 わたしたちはベストをつくしてやってきたし、理論と感情のすべてを 燃焼させてきた。  それは分かる、と野次がはいって、あなたはその学生に指をつきつ けた。  「あなたはかしこすぎる。だからあなたは考えることを中途でやめ てしまう。行為にいたってはさらに早く。あなたは、この世界ではつ きつめて考えることは禁止事項になっていて、それを犯すと危険な沼 地におちたり、自動車に衝突したり、上からコンクリートブロックが 落下してきたりする、といって。あなたにあっては現状は唾棄すべき ものとしてとらえられていず、<まあ満足すべきもの>としてしかと らえられていない。だからあなたは平穏からでることがなく研究一途 で、行為に対すると<とほうもない無意味>に<眠りたい気持ち>に さそわれてしまう」  そして、あなたはぼくのほうにむきなおり軽蔑にほとんど歯ぎしり し、声を震わせて言った。  「それはがまんのできないことだ。あなたたちはその結果、中産階 級の没落、日本民族の屈辱、歴史の進展、そしてあなたたちが何者で あるかについてまったく統一的全体的なイメージをもちえていない。 くだけちり、くるくる自分の尻尾を求めてまわるねずみでしかなくな っている。そして結局のところ」とあなたはいった。いまになると、 心をかきむしる言葉だ。  「あなたがたは政治をまるでゲームのようにみている。しかし、政 治はそんなものではない。もっと残酷で、どうしようもなく理由のな い巨大な流れなのだ。あなたがたはせまりくる時代の洪水に対して、 まったくか、ほとんど無知で平穏の感覚に毒されている。統一を叫ぶ のもいい、全学連の手口を批判するのもいい。だが、すこしでも内部 事情と敵の巨大さを知ってからにしてもらいたい。たとえ2時間でも 3時間でもいい、岸首相の渡米を遅らせれば、人民の反対の意思を」  このとき反畳がはいった。 「象徴的に!」 「そう、象徴的にしても、あらわさなければならない。わたしたちが しなければ、いったい誰がやれると思う?」  あなたが興奮の渦によって会をリードしたとぼくは思っていない。 だが、散会したあとで、ああ泣かれては採決もできない、といったも のがなくはなかったことも伝えたい。ぼくのイメージのなかのあなた は、怒らずにそれをあらためたと思う。だが、いまとなってはそれも 不可能となった。  結局のところぼくはあなたの論旨をほとんど理解し、あなたの熱情 を心に点火されもしたし、あなたが頬を紙くずのように歪めたときに は、全人民に代わってあなたを抱擁し、謝罪したい衝動にかられたの は事実だ。しかし、ぼくは唇が羞恥と自責の念から血まみれになるの を感じながらも、あなたを非難しつづけたし、ぼくがSとの小さな愛 を育てるために、<進行する陰謀>に眼をつぶっていると言外に暗示 し叱責するあなたの見方に抗議するためにも、ぼくはあなたを堂々と 責め続けなければならなかったのだ。


4 怒号、歌声、歓声

あの夜のことを忘れたのかと、あなたは常に強い視線で詰問してき た。主義についての論争のなかにさえ、いや論争の形を借りてはじめ て、あなたはぼくに話かけてきたように思える。ぼくは決してあなた の視線を避けることはしなかったつもりだ。  いまあの頃のことを語るのは、ぼくに喜びと悲しみを与える。 午後2時、ぼくらは構内を出発するデモ隊の最後尾について歩いて いった。ぼくとあなたのあいだにLがいて、スクラムが組まれていた。 Lがあなたを愛していたことを、その頃からぼくは知っていた。長い 日のあたる坂を隊列は進み、日差しは土埃をとおして熱を石のひとつ ひとつにこめた。Lはたくみに口笛を吹き、あなたもそれに和し、ぼ くらは物見遊山気分だった。交番前のアスファルトのうえで、突然ジ グザク行進がはじまり、それは激しく続いた。このときLが腹痛のた めに隊列から外れ、あなたの腕はぼくの腕とくみあわされた。デモは、 順調に進んだというべきだろう。 あなたとの間に秘密のほとばしる視 線の交換があった。華やかに汚れた旗の赤や青緑の色彩に、街はよみ がえり、隊列は後ろに電車・バス・トラックの長い隊列をしたがえて、 自由な広がりを進んだ。  あなたは、あのプラタナスの木陰の休息の時間を覚えているだろう か。数すくない言葉の交換とあなたの輝かしい笑い。その日もぼくら は逢引きを楽しむことができた。だが、この休息が破局のために用意 されてたのを、当時のぼくらは知らなかった。 午後4時、教会と米軍の荒涼たる占領地にはさまれた国会前の道路 に何百メートルもの学生と労働者の熱気が封じこめられていた。鉄か ぶとをみがきあげた警官たちが装甲車をバリケードに並べ、十重二重 の鉄かぶとがわずかな隙間にもはいりこみ、議事堂はその形骸を鉄条 網と異邦人の部隊の向こうに隔離されていた。強い羽音をたてて、ヘ リコプターが灰色に暮れはじめた空を制圧し、警官のもつトランシー バーのアンテナの光が震えおののいた。垂れさがった無数の旗の色が 落日のもとに色あせ、暗闇とまじりあうまで時間は爆発をまってゆる やかによどみ、ところどころで渦巻いていた。 あなたは指の数ほどもきた代議士たちが国会を私有物のような口調 で話し、職業的なそらぞらしさでロッキード・黒いジェット機問題を 話したのを聞いていたと思う。国会周辺デモ規制法案が制定されて、 これが最後のデモになるかもしれないあの時点で、時間は儀礼的な拍 手と代議士の演説のペースに無為に消え、アスファルトのなかにしみ こんでいった。 われわれは集まってお祭りをしにきたのではない、と野次のひとつ が絶叫し、それはいままでにない盛んな拍手と声援で迎えられた。 全学連の委員長はかなり戦闘的な演説をぶち、ぼくはかれがぼくらの 代表であり、まさにその明けがた、卑劣な詐術で通過した南ヴェトナ ム賠償協定にたいする怒りをただしくぶちまけているのを感じた。  <神聖な議会>。デタラメを言うな。インチキ選挙で金をばらまいて の多数党が都合のいいときにルールを踏みにじり、そのうらで正常化 をブルジョワ新聞に叫ばせる。これがわれわれの議会の正体だ。 硬くひきしまった寒気のなかで執行部に招集がかかり、あなたも呼 ばれていった。決定が下り、ぎっしりと<樽づめ>になっていたぼくら に待望の時がやってきた。 ぼくらは一瞬にして背の高い森を夜気に出現させ、わきあがる歌と シュプレヒコールはあかくただれた国会の空を鞭打った。もどってき たあなたとぼくは、警官隊と装甲車のバリケードの前列にいた。1万 もの人間の後押しに、ぼくはあなたが地面から浮き上がり、警官の壁 の前に押しやられて圧しつぶされそうになっているのを見たが、どう しようも出来なかった。ぼくの前に草色の鉄板の城塞が迫ってきて、 つぶされないためにも装甲車に飛び乗らなければならなかった。怒号 と歌声のなか、警官隊が押しまくられはじめ、突破口をつくられない ためにふさぎに回ったために装甲車のまわりの警官の層が薄くなった。 旗が夜をひきさき、ぼくら学生がいっせいに装甲車に飛び乗り、待ち 構えてる警官の渦のなかに飛び込んでいった。はげしい殴打がはじま り、ぼくらは装甲車のうえで旗竿や靴先で警官を突き飛ばし続けた。  教会の敷地から、また鉄条網の荒れ地から学生がひっきりなしに 頭をさげて飛び込んできた。その数は、数百から数千へと急激に増え このとき警官隊の重たい壁がデモのまえにやぶれた。空をゆるがす歓 声があがった。学生たちは装甲車の向きをねじまげた隙間から進出し 一挙に警官隊を切断した。 装甲車のうえのぼくがあなたを含む一隊をみつけたのはこのときだ った。闇のなかの一部に数百の警官たちがいて、あなたに向かって殺 到していた。あなたはたくみに鋪道にそって身をかがめて走り、5、 60人の同志の風のなかにもぐりこんだ。数百人のデモ隊が警官隊に ぶつかっていき、ぼくはわずかに残っていた空地に飛び降りて、あな たに駆けよった。警官たちは闇のなかに後退し、フラッシュの砲火と マグネシウム光線のなかを旗の怒涛が正門に押しかけて行った。  あなたがこのとき眼を白く光らせ、唇をふるわせながらブラウスの 襟を指先でかきあわせていたのを、ぼくは忘れない。 空は燃え、一瞬のためらいののち、歌声と歓声がひっきりなしに渦 巻きながら正門を破って議事堂の前庭になだれてこんでいった。ぼく はあなたと握手した。あなたのてのひらは労働者のそれのようにザラ ザラした感じだった。  労働者とぼくら学生の集団のあいだに嵐のような拍手の交換がおこ なわれ、あなたはめずらしく大声でさけび、何度も腕をふりまわした。 デモに力を使いはたしたぼくらに夜の星と拍手はやさしかった。 あなたは、ぼくのそばにいつまでもいるように思えた。この自由な解 放感と労働者たち数万のひとびととのあいだにあった友誼にみちた連 帯感はいかなる快楽の時よりも貴いものだった、とあなたは後になっ て言った。


5 霧の深い季節

その夕刻早くも緊急閣議が行われ、自民党が脅迫的な声明を発し、つ づいて社会クラブがブルジョワ新聞とタイアップして自民党を側面か ら援護して、ぼくらを口汚くののしった。それにはあなたはほとんど 動じなかったけれども、社会党が緊急幹部会を開き、総評・共産党も 口裏をあわせて<責任のがれ>の声明を行った時、あなたは真っ青にな った。3万の人民は裏切られ、ののしられているとあなたは言った。 民主主義を土足でふみにじったのは政府であり、議員たちではないか。 それに反対して闘争する人民を警官のバリケードで阻み、前庭で解散 を叫んだ人民を罵倒するどんな権利が彼らにはあるのか? 殴られた ほうがおろおろしてあやまらなければならない、そんなばかなことを なぜ革新政党がしなければならないのか? <流れ解散>のあと、あなたはおし黙ってなみだを流していた。ぼく があなたのそばを歩いているのに、あなたはほとんどきずいていない ように唇をかみ、うつむいて早足に歩いていた。 その夜、いつまで黄色い街を怒りが消えるまで歩き続けたことだろ う。ぼくは影のようにあなたから離れず、ときおり不安にかられて、 あなたの横顔を見つめた。草もはえぬ海もない街をあおぐろい皮膚の ひとびとがせわしそうにゆききしているなかで、あなたの頬にはべに いろの斑がにじんでいた。こころのなかで泣き、いらだっているあな たを凝視するのにたえられず、ぼくはあなたにならってうつむいて歩 いた。 ぼくは、いくつもの交差点をわたり、いくつもの角を折れたことを 微かに思いだす。道路に散乱しているものの一つ一つを奇妙にもおぼ えている。紙屑、わらくず、煙草の吸い殻、キャラメルの包み紙、鉄 屑、ひしゃげた缶詰、われたビー玉、タイルの破片、肉片、木屑、油 のしみ....。ふとあなたは夜の遅さにきずき駅に走り出した。終電は 行ってしまった。 ぼくらは学校に帰っていった。銀杏並木の道には、青い霧がたちこ め。もう散りはてた木の葉がコンクリートのうえから土のほうに転が って腐りはじめのにおいがしていた。  自治会室のくらやみのなかで、あなたははじめてぼくに気づいたよ うに眼をやわらげ、これから仕事があるといった。矢を放った弓のよ うにゆれる扉のところであなたとわかれの挨拶をしたとき、あなたは 憤りに疲れてうちひしがれているように思えた。  ぼくの内部に激しいいきどおりとあなたのやさしい存在感が満ちて きた。ちょうど潮が満ちてくるように。 ぼくはあなたを宙でとらえ口づけした。ふたりきりの時間には、も はやあくびの出るようなことはおこらなくなった。あなたが文章を書 き、ぼくがガリ版を切り、これをぼくらは並んで刷った。 空虚な形だけの議会をわれわれは信じないとあなたは書いていた。 文化猿や御用新聞のきたるべき攻勢についての叙述もぼくをかぎりな い共感に誘った。  だが、労働者との連帯を呼びかけた文章であなたとの間に論争があ った。あなたは連帯を観念的にとらえているように思える、とぼくは 言った。たとえば、今日のような事件があると、たちまち<労学同盟> があたかも実現されたようないいかたをする。これは詩を書く高校生 が、昨日は何百万人もの殺戮を考えていたのに、今日自分の左腕を誤 ってナイフで傷つけると、とたんに平和主義者に転向するようなもの だと。それに対してあなたは、ぼくの世界観がじつに静的で箱庭のよ うに矮小に秩序だてられていると反論した。  <労学同盟>の考えは、1年半前の第11回大会で全学連の基本方針の 一つとして長いあいだ推進されてきたし、今日のあの連帯はまさにこ れを飛躍的に実現に近づけたものだ。  ぼくはさらに反論した。  「たった1年半? その前は平和擁護だったし、その前は火炎瓶闘争 だった」  間髪をいれない論争が火を吹いた。  「わたしたちの同盟と党を混同する初歩的なあやまちをおかしてい る」  「<新しい共産党>をあなたの共産主義者同盟がめざしているのは、 よく知っている。だが、観念を豊饒な現実から抽出し、つぎに、この 観念をまったく単純な公式として現実をねじまげるという形は同じで はないか。あなたの同盟と党とは、この点、同じ病にかかっている」  「わたしたちはまだ勉強がたりないし、敵の攻勢は矢つぎばやで、 しかも党の圧迫や分裂の策謀も激しい。だから、わたしたちは、よく あやまることがある。 だが、わたしたちに唯物論は成長のすべての 段階をとおして開かれているし、あのこり固まって独裁的になり、屍 と化した党とはちがって、熱情と新しい時代の感覚と独創性への欲求 をもっている。だから、わたしたちは最終的にはかならずや勝利し、 ただしい方針を提示できるようになる」  「それはわかる」」とぼくは言った。  「わかっていない。なぜなら、あなたは実践においてかけるところが あるから」  「では、あなたがたはどうなのだ」とぼくはすこし腹を立てて言った。  「あなたがたは、結局のところ実践と思考をただしく併用していると 言葉ではいうけれども、そのじつは慢性的なデモやアジ演説やガリ版 切りの実践と、ただしいのだから読まなくてもいいと思っている<聖書 の文句を引用する思考>をくりかえし、自民党よりも重症のマンネリズ ムにおちいっている」  「わたしもそれを感じている」とあなたは答え、ぼくはこのとき、は ずかしいことだが、勝利の快感を味わった。  「わたしとしては、こういう仕事に追われて勉強し考えるひまもない 生活をこのまない。だが、たとえば今日わたしが勉強するために本読み に没頭したならば、あす学生たちを啓蒙するビラを刷るものはだれもい ないことになる。感覚的にはこういう仕事はすきでなくても、それを 他人に押しつけるわけにはいかない。だれもが手にあまる仕事に敢然と 取り組んで闘っているのだから」 ぼくは、議論を仕事が多過ぎ、同志がすくない理由ー共産党からの 脱党の方向にもっていった。  あなたは悲しみにぬりこめらた眼で、ぼくを見つめ、あなたにはわか らないらしいとひとこと言った。  同志が少ない、したがって、いよいよ急進化し、その結果なお同志が すくなくなる、そうした悪循環としてぼくは理解した。しばらくして、 この問題が再燃し、ぼくはあなたのような急進的な方向では線香花火に なってしまうといい、あなたは、ぼくらのような<大衆待ち>では、真に 啓蒙し、現状をあばく前衛党はできないと反論した。 議論は、はてしなく続き、気がつくと午前2時をすぎていた。あなた はためいきをつき、こんな調子ではわたしたちはやっていけそうもない と言った。  ぼくは、あなたの腕を強くつかんで、ちがうと言った。  そうね、とあなたはぼくの腕のなかで、めまいでもかんじたのか、じ っと動かなくなった。あなたはわたしを手伝ってくれたものね。だが、 接吻するぼくに、あなたは手強い拒否を示しつづけた。何回かの接吻と 抱擁のあと、ぼくはあなたを部屋のすみへ引きづっていった。 そこには机の上に毛布が何枚か敷かれ、泊まり込み用のベッドがあっ た。あなたは力をぬき、なされるままになっていた。あなたのなかにも 夜があったのだろうか? あなたは小さな愛に確かな暖かみを求めていた のだろうか?  ぼくは事の容易さ半ば驚いていた。行為のなかで、ぼくがある希望に ほとんど信じていない希望に燃えていたとき、廊下をひそかに足音が通 りすぎ、何事もおこらなかった。あなたの絶望、首筋の歪み、乳房の硬 いつぼみ、それらをぼくは燃える唇で治療できるものと信じていた。 あなたはその夜よく話した。 あなたの家庭についてしゃべり、ブルジョワのからみついてくるきずな からぬけだす困難さを話した。そして当然なことながらブルジョワ的な 愛に裸になっている自分に絶望して泣いた。ほそい肩、長い胴、長く歪 んだ腕、毛先のそろわぬ髪、あなたはそれらがひとりでに動いてしまい ブルジョワ的であることを嘆いた。  「でも、あなたはわたしといっしょに」 あなたはむせび泣いた。あなたは結婚とぼくの同盟入りを望んだのだ。  ぼくのなかに、すべてをぶちこわす恐れが走り、ぼくは黙っていた。  しばらくしてあなたはいった。  「あの亡霊のように垂れたカーテンがおそろしい」  霧がカーテンを通して、混沌とうずまいていた。ぼくは愛に感情をた かぶらせているとばかり思ってあなたを慰めた。  「みんなのすることさ」  「Sとも?」  あなたは、ふいに肩をとがらせ、ぼくの腕から逃れた。  「あなたを殺してしまいたい。わたしの恥辱のメフィストであるあなた を」  あなたは手早く着衣して部屋を出ていった。ぼくは抱擁しあった形に のこされた毛布をととのえ、カーテンの向こう霧のなか虫がドリルをほ りこむひびきをあげる夜の深みを茫然とながめた。  この夜、すでに霧の深い季節がはじまっていた。


6 沈みゆく太陽

秋も終わりになるとダンスパーティのシーズンになる。ぼくは寮祭の 日、従妹を案内して歩き、社会党の党首の名も知らない彼女は、ダンス ・パーティにしか興味を示さなかった。ホールの赤い照明の下で、ぼく はたまたまSと踊り、あとで従妹の友達であることが分かって、この日 からSはぼくの生活に入ってきた。 あなたの誤解をとくためにも、次のことははっきりさせなければなら ない。ぼくらはお互いを踊り友達以上には意識していず、Sに溺れて、 ブルジョワの甘い生活にふけりはじめたのは、あなたの拒否があった夜 の翌日からだということを。日々期待にみちた生活、あなたのために約 束され、しっかりと整えられた生活がふいに目の前から消えたとき、だ れのための存在でもなくなったぼくは、一体どうすればよかったのか。 結局、ぼくは任意の1点としてSをえらんだ。唇をちかづければ、自 と濡れ、しなやかな均整のとれた腹部をのせてほそくしまった足をもつ 女、微笑をうかべながら軽蔑する習性、一日に何度も着がえられる資産 ーこれらがあなたと対立するからこそ、ぼくはSを選んだのだ。 だが、事態はすこしずつ変わっていき、ある日ぼくはSを愛している のを知った。はじめの利己的な観念が奉仕的な愛情に変わっていた。 あなたに街ででくわした頃には、あなたが信じがっていたよりも、は るかにSを愛しはじめていて、Sとの愛はぼくの内部に重みをもちはじ めていた。いくつもの誓い、慰め合い、わがまま、強い抱擁、これらを 交換しあううちに、Sは一皮むかれて、言葉と表情と仕草、あらゆると ころに愛のしるしがあらわれきた。このころのぼくはどんなに心なごむ 一致にひかれていたか、あなたに知ってもらえたらと思う。 いやそれよりも、あなたがぼくを拒み、ぼくがあなたに拒ませるような ことをしなければ、どんなによかっただろう。あなたにも言い分がある かもしれないが、ぼくにはあなたがぼくのために美しくならず、つねに 瞳にほとばしる愛があらわれてこないのが胸をさくほど苦しかったのだ。 あなたは利己的な愛というかもしれない。だが、あれだけ多くの論争を したにもかかわらず、それが何の役にも立たず、あくる日はまた最初か らやり直しをせねばならなかった。まるで祭りの翌日のようだった事実 は否定することはできないだろう。 ぼくがLに対して嫉妬のそぶりをしめさないのにも、あなたは苛立 っていた。Sに対してならば、指で触れただけの男にまで殺意を感じる にちがいないだろうに、とあなたは言い立てた。  だが繰り返し言うが、Sへのそのような盲目的な愛は、まさに、あ なたに拒まれたがゆえに、いっそう激しく燃え上がったのだ。時さえ、 十分に貸してくれるならば、ぼくはあなたを愛しただろう。たとえ、 世界がぼくを追放し、鞭打ちし、絞殺するような羽目になっても、あな たを世界から守ったと思う。だが、あなたはその機会さえあたえないよ うにつねに警戒の姿勢を取っていたのだ。 あなたはあくびを漏らした。  それは暮れの雨が痙攣的に降り、砂漠のように大きな赤い太陽が霧の なかにしたたり落ちるようにして沈んでいった夕方だったと記憶してい る。  そのころあなたは、生活を理論の勉強と同盟の活動だけで埋めつくそ うとしているという話をぼくは聞いていた。 あなたは、ぼくの手を頬によせつけず、ぼくの追求に耳をかたむけよ うともしなかった。どす黒い霧が胸にひろがり、ぼくはさらにきびしく あなたを追求した。 「あの夜、あなたは一方的に愛を捨て去っていき、ひとことの説明も してくれない。あなたひとりにすら自分を愛させることができなかった ことに対する失墜の感情をあなたはどう考えているのか?」 「あなたのなかで自己欺瞞がどのように形成されていったか、わたし は知ることができる」とあなたはついに言った。  「そこには他者の意識がなく、相手の悲しみ、苦しみ、その感情のひ だをあなた自身のものと同じく、あるいはそれ以上の重みで生きていけ ない残酷な心の動きがある」 あなたにずばりと指摘されたので、ぼくは話題を切りかえた。 「このごろ、革命の見方がぼくを苦しめている。中途半端な解決や妥協 は許されないという思いが、まさに革命をぼくから遠ざけていている。 どうしてだろうな」 「あなたは不純な気持ちでわたしと革命の同志に近づいた。あなたは、 ある場合には顔を業火のほうに向けねばならず、愛するものの葬列に加 わることすら拒まねばならないことを理解していない。結局、あなたは 時計のまわりで歌をつくっているだけのひとなのだ」 あなたは、謎めいたことを言い終わると、猫のような息づかいになり うつむくと、ふいにぼくと建物の壁の間をすりぬけて去っていってしま った。  いま考えるとあなたはぼくを傷つけまいとしていたのかもしれない。 「時計の回りで歌を作っているひと? 一体どういう意味なんだ」 その謎をといたあと、ぼくは逆にひどく傷ついてしまったのだ。 「傍観者め、去れ!」


7 逮捕

 あなたの逮捕を知ったのは事件の翌朝だった。<騒いだ>学生の名前 が新聞のすみのコラムに載ってい、あなたの名前もあった。あなたの逮 捕は非現実的であり、同時にごく当然なことのように思われた。ぼくは、 あなたの謎の鋭い皮肉を腹にすえかねていたのだ。  劇的な別れから数か月もたたぬうちに、あなたの逮捕をまるで外部の 事件として抹殺してしまったぼくの心の動きを信じがたいとするかもし れない。だが、事実はまさにその通りで、ほんのすこし苦しんだあと、 ぼくはあなたをぼくの世界からはじきだすのに成功したのだ。ぼくは、 指の皺をのばして休息し、事件が三面記事を滑っていき、あなたのこと もさっぱり忘れ去って、堅牢な生活のサイクルにはいっていき、それに 抵抗をかんじなくなったのを大したことのように考えたりした。  婚約の話しが双方の家族からもちだされ意外な早さですすんでいた。 卒業後に結婚するよりも、まだお互いがかたまらないうちに、半年以内 に吉日を選んで結婚する説が有力で、皇孫誕生のころがいいとSの父親 がいい、ぼくの父も同意し、学生たちのあいだでは早婚がはやっていた のも手伝って、ぼく自身も反対ではなかった。  ある朝、10時にSとその両親がぼくの家を訪問し、おどろいている ぼくらを尻目に大人たちは歓談し、昼食は婚約のパーティになった。午 後ぼくらは外出し、G街でのSの買い物につきあってから、ぼくはSと 別れた。  護送車のなかのあなたを見たのは時間をつぶすために入った映画館で だった。それはなんという激しい衝撃だっただろう。ぐっと加速する車 に顔がふきちらされ、クラクションが罵声をつらぬき、呆けた新しい顔 の群れが視界に飛び込んできた。  そして、あなたが画面いっぱいにあらわれた。  泥のはねかえりを肩にまで浴び、植物のように青ざめ、髪からたれて 眉にとまった雨滴をはらおうともせず、手をたらして、ぼくをみつめて いた。ニュース映画をみている観客に笑いがおこり、ぼくは背筋に冷た いものをかんじて館内を見回した。あなたの力ないほほえみが、つかま った泥棒のふてくされ笑いとうけとられたのだ。うつろな嘲笑にさらさ れながら、あなたはスクリーンいっぱいにひろがっていた。映画とはべ つの独自の意思でいつまでもとどまっているようにすら思われた。陰険 な夜のひろがりがぐんぐんひらけ、群集や火の河のような空港風景が消 えても、あなたは画面に二重写しでとどまり息づいていた。棘という棘 がぼくを包囲し椅子にしばりつけた。  そのときぼくにはあなたがぼくを責めているとしか思えなかった。も ちろんあの訴えるような眼差しは事態の急速な進展、あまりのたけだけ しさにすっかり感覚を失ってのものだったにちがいない。だが、あなた の眼差しは、けたたましいサイレン、海鳴りのような警官隊の靴音、鞭 と鳴る笛のどれよりも、ぼくをあの羽田闘争の夜にひきづりこみ、その 重大さを告げ、非行動の無責任さを責め、ふるえあがらせたのだった。  それから画面は皮肉なタッチであなたの同志ひとりひとりをアップで 写していった。ぼくは嘲笑する観客をにらみつける同志の顔を欲した。 カットされたのか、ぼくがみたのは、雨滴をはらいおとそうともせずに 眼差しの交換すら執拗に避けている同志、髪をかきむしり絶望的な拒否 の眼差しを幌にむけている同志、ぬれそぼりうつむいて。動かない同志で しかなかったのだった。長身でおしゃれのNは首をたれてピクピク足首 を動かしていた。それは泥酔して終電も出てしまったあとの駅のベンチ に座っている男とかわらなかったし、ML研(マルクス・レーニン主義 研究会)の2人は、ジャンパーがはだけ、たれた舌のような布をしきり にもちあげていた。コンビで喜劇をやっているのだ。  ニュースが終わったとき、ぼくはうちのめされ、劇映画を残してG街 にでた。夕方友達のところに行くといっていたSにあえるはずもなく、 ぼくはひとりだった。霧がこの夜も深かった。ネオンはみじめな美しさ をもっていた。  時間を殺すために、ぼくは行き先も知らないバスを乗り降りし、Sと 結婚してからは、死のほうに緩慢に運ばれて、歴史からふりおとされて 一生を終わってしまうだろうと考えた。このときぼくは気持ちのうえで あなたにちかづいていた。ニュース映画でLがあなたのそばに座ってい たことも手伝っていたかもしれない。  夜8時頃だったと覚えている。  ベルが鳴って帰ったばかりのぼくはLの来訪を知らされた。 「尾行られている。一晩泊めてくれ」 いきなりかれは拡声器のような声を出した。 「路上で、自宅で、構内で、公衆便所で、続々同志が逮捕されている」 Lは求められもしないのに息もつがずにしべりまくった。最初は同情心 があったが、次第にぼくの胸は泡たってきた。それに日頃からのLへの 嫌悪感が影響していなかったとはいいきれない。 「逃げてどうなる」 さらに胸が泡だって、ぼくは聞いた。 「どうせ、つかまるだろうに」 「書類があぶない」 「では、書類だけあづかろう」 とぼくは言った。 あなたがつかまっているのに、逃げ回っているLへの憎しみが沸いてき た。Lはぼくをみつめ、それから同様に顔をゆがめた。 「こわいんだ。あのまむしみたいな手錠が」 「断る。どこか他の家にしてくれ。懲役をひっかぶるのはいやだ」 手荒く玄関の扉をしめきり、Lの出ていく足音にぼくはめまいがした。 それはあなたのことを思いながら、いつもあなたを傷つけることになる ぼく自身に対するものだったと思う。せっかくあなたに近づきそうにな ると何かがぶちこわしにくるのだ。この夜はLがその役をした。  一部始終を聞いていた家族のあいだでは、結婚と就職のちかい身で、 まだ運動にかかずらっていることへの危惧と恐怖からくる非難がしぶき をあげており、一方スクリーンのあなたもぼくを責めてやまなかった。 ふたつにひきさかれ、長い間眠れずに考えたあげく、ぼくはやはりあな たを捨てることにしたのだ。  ぼくのだらしなさのせいもあるが、まだあなたに対する怒りと不信は ぼくをとらえていた。それは理論だてていえないようなものにくるまれ ているだけに始末におえなかった。あなたは歯がゆがるかもしれない。 だが、あなたもいうとおり精神はどんなに早く走ったつもりでもゆっく りとしか進まないのだから、すべてをできるだけ丁寧にみていく必要が ある。


8 廃人の眠り

あなたは一週間後にも突然ぼくの内部に侵入し、ぼくを責めるのを止 めなかった。早朝に電話があって同じ学科のものからと伝えられたとき やはりLの顔が浮かんだ。なんといっても、あなたとあなたに関係ある ことがらにぼくは神経過敏になっていたのだ。 電話はAからだった。  「昨日40がらみの男がきて、きみとK嬢との関係をしつこく聞いて いったぜ」   「警察か?」  「いや、はじめ週刊誌かと思ったけれど、どうも興信所らしい。結婚 するんだって?」  曖昧に答えて電話を切り、不安にかられて何人かの近い友人に問いあ わせた。  「岸に石でも投げにいくのかい?」 電話で起こされたYは、岸首相にひっかけて皮肉をいった。ぼくが闘争 から手を引いたのを知っているらしい。 Eは、ぼくが裏切ったことを非難した。  「今日も何もしないのか? 岸首相がハガティ特使を迎えにいくのにあ わせて自民党が1万5000人も歓迎のために動員するというのに」  願いもしないのに、あなたは荒々しくぼくの平穏な生活を乱しにやっ てくる。ぼくはあなたに全責任を負わせたい衝動にかられた。もちろん それはフェアではなかった。  新聞は<日米新時代>を謳い、6月19日に調印される新しい条約は、 アジアにおける平和共存の一翼をになうものであると称賛し、さらには 労働ボスの野合集団、民社党の発足に狂喜していた。あなたも獄中で、 そのニュースを読んだと思う。ぼくの憤り、そしてあなたの憤り。だが 同じ憤りでもなんと相違があることだろう。 ぼくの婚約と<裏切りの>ニュースはコレラ菌よりもはやく構内でひ ろがり、無関心派の学生や教授たちが好意的な挨拶を投げてきた。ぼく を十数人の<親友>が囲んで、銀杏並木をデモってあるくような始末だ ったのだ。 助手はあなたを喜ばせると思う。かれは、ぼくにはげしい叱責を加え あなたの釈放の日を聞いたぼくに「早速、婚約を知らせにいくのか?」と 皮肉ったものだ。 ぼくは<親友たち>をふりきって構内を出て、ジャズ喫茶で音の狂騒 に逃がれようとしたが、あなたはそうはさせなかった。音楽はとげとげ しく、あなたが戻ってきて、きつい眼差しで<裏切り者>とがなりたて てくるようだった。あなたにつきまとわれるのにはもう耐えられなくな っていた。いま考えれば、支離滅裂な言い方だ。 店を出たときには、決心がついていた。 「Sと結婚してしまおう」  そうすれば、ぼくは、めでたく<裏切り分子>の烙印を押されて、あ なたたちの叱責の波がもはやぼくの身体を洗い続けることもなくなるだ ろう。 ぼくは、当時、平穏を求めるあまり、こまねずみのようにくるくる回 り続け、かえって平穏を得られなかったのだ。神経が図太くなかったし よくいえば、<良心的>だったのだ。もっとも、同志Lを裏切っておい て良心的もないものだとあなたは笑うかもしれない。 1限終了後、結局、ぼくはあなたとの決別の前に、あなたの闘ってい た場所を一度だけみることにした。勿論、自分では岸首相に投石するた めでも、ハガティ特使を手荒く歓迎するためでもなく、純粋に海をみに いくためとへ理屈をこしらえた。  暗い構内の売店で、ぼくは、あなたのことが掲載されている週刊誌を 買い、あなたが<女闘士>、<魔女>、はては<売春婦>とまでののし られている記事に胃が騒ぐのをおぼえながらも、もうあなたのことは、 ぼくの心に何の波紋も起こさないのだと自分に言い聞かせた。ぼくは、 すでにへ理屈に身動きがとれなくなっていたのだ。  郊外線にのってしばらくすると、鶏の群れのようにひしめいた屋根の 向こうに海が見えた。あなたと一緒にくることを空想していたぼくを当 然のことながら、海は暖かく迎えることはなく、白々とした拒絶の輝き をみせていた。  その後、ぼくはあなたが面と向かっている恐ろしい風景、<あなたの 現実>をみたのだった。数限りない失業者、ニコヨン、未組織労働者、 そして創価学会の信者である工員たちを内臓につめこんだ鉄鋼、機械、 電機、化学の巨大な工場群とその支配下にある無数の鉛いろの下請け工 場が視界いっぱいにひろがってきたのだ。林立する電柱、煙突、ガスタ ンクが北風のなかでわびしさをひきたてていた。 人気のない駅から海辺にでても、カモメが焼夷弾のように落ちてきた り、風が激しく吹き寄せたり、河口には料理屑や猫の死骸が浮かんでい たりして、およそロマンティックとはいえない風景が展開していた。運 河のほとりにたたづむと、あなたがおびただしい汚物がよどんだ水面の 泡のあいだから、地面を深くえぐる轍のあいだから顔をのぞかせてつか みかかってきた。ぼくははいいろの空の下で、ほとんど発狂しそうにな った。 あなたはただしく、ぼくは完全にまちがっている。いくらほざいても それは自己欺瞞にすぎない。げんにLを抑圧者の手に引きわたし、政府 高官の娘と婚約するような人間になっているではないか。あなたや羽田 地帯に住む悲惨なひとびとの加害者になろうとしている。お前は、いっ たい何者なのだとぼくは自分に叫んだ。  すぐに、あなたに責められるよりも早手まわしに自分を責めたほうが 気楽だという詐術からだったことに気づいて、心底から冷えきった。 風に追われ、とうもろこし畑をよこぎり、長い枯れ草の坂をのぼり、運 河を渡っていった。工場の高く長くのびた塀のかげでは、ほんのすこし 風がやわらいだこともあって、心が落ち着くのを感じた。貝殻の腐った 臭いのする道をいくと、黒い鼻汁を垂らした裸の子供たちが汚れた洗濯 物のかげからぼくをみつめ、道端で内職をしている老人たちが裕福そう な格好をしているぼくを七面鳥の皺さながらの黄色い眼皺のなかでにら んでいた。 そして、ふたたびあなたが現れた。セルロイド、肥料、硫酸の臭いに クレゾールの臭いがまじった袋小路の産院からあなたとそっくりの女が 出てきたのだ。堕胎手術後なのか、両手をだらりとさげ、ぼくを認めて 電柱のかげに身を潜めた。剥がれかけたビラがかすかに鳴るなかで、こ けた頬をぴくぴくさせて、ぼくを盗み見ていた。いつまでつきまとうん だ。ぼくはそんなあなたを殺したくなった。あなたへの殺意? いまとな っては、あなたにそんなことを告げるのはあまりのも空しい。 「駅は?」 わきおこる恐怖に毛穴をさかだて、ぼくは女に聞き、当然のことながら 答えがないので、ぼくはさらに一歩前に進んだ。 「駅は?」 それでもあなたは答えようとしなかった。 「駅はどちら?」 あなたはあとじさりしはじめ、トタン板に退路をたたれて震えだし、嘆 願するように口をもぐもぐさせた。 「勘弁して」 そういっているように聞こえた。 ぼくはあなたの胸ぐらをつかんで揺すろうとした。あなたは痙攣しなが ら、片方の手を股間に当て、片方の手は胸を護る姿勢を取った。ぼくは 凶暴な怒りにかられてあなたを追いつめ、ようやく駅への道を指さして もらった。どうやら女は聾唖者のようだった。 この時、ぼくは、あの夜のことをまざまざと思い出した。鼻先に自分の 思わぬ凶暴で破廉恥な行動をつきつけられて、あの夜、自分があなたに した仕打ちの意味をはじめて理解したのだ。 革命の理想に迷い、左翼陣営の混迷と挫折に打ちのめされていたあな たが、ぼくに最後の救いをもとめてきたというのに、ぼくはそれを拒ん だのだ。あなたのかすかな希望、それはあろうことかブルジョワ的な希 望、ぼくとの結婚のようだったのだ。あのときのぼくは凶暴にふるまっ た。交わりに不可欠なわずかな思いやりすら示さなかった。それがプロ レタリアート的な愛の表現と思いこんでいたのだ。破局のあと、ぼくは あなたに会うたびに、なぜ、その行動が別れにつながらねばならなかっ たのかとあなたを非難した。だが、それは誤りだったのだ。あなたは、ぼ くが結婚する意志など毛ほどももちあわせてないことを察知し、いちは やく身を引き、その後も注意深く身構えて、ぼくに傷つけられないよう に、ぼくをさらに傷つけないようにしていたのだ。 ぼくはふるえだし、打ちのめされ、かすかに残っていた自尊心も奪わ れて、その場から逃げ出した。  道に迷って、まがりくねった路地から路地へと走り抜けた。 幸い大通りに出ることができたが、行く手を人波に阻まれた。巨大な 白蟻の行列が鋪道を埋めつくし、車道にはみだし、窓からも屋根の上か らも旗をはげしく打ち振っていた。ぼくは、それが岸歓迎の祭礼である ことに気づいた。その偽りの熱気におびえ、人波のなかを背をまるめて 高架駅に逃れた。 軍事同盟の成立を祝う駅前広場のばか騒ぎを見下ろしながら、ぼくは 内臓の肉片が踏みつけられるようなおもいだった。  「こんなことがあっていいのか。こんなことをゆるしておいていいの か」  電車のなかでずっと考えていた。その夜はなかなか寝付けなかった。 それでも、激しい自責の念にさいなまれながら、あけがた頃には廃人の 眠りをむさぼっていた。


9 海鳴り

結局あなたが勝った、というよりもあなたがたが正しかったというべ きかもしれない。昼間の光のなかで、はじめてといってよいほど突きつ めて考えて、ぼくは、あのもやもやした霧のような不安の正体をつきと めた。つまり、歴史を偽ることはできないのだ。政治の波が押し寄せて こないと望むこと自体が間違っているのだ。個人的には、あの別れの日 におかした欺瞞が分かった。この欺瞞を霧の季節にくるんで、すべてを あいまいにして平穏な生活にとどまっていたいという欲求と決別する覚 悟が、その日の午後にはできていた。 着飾って女優のように美しいSを呼び出すと、物もいわずに3,4軒 の喫茶店を連れまわし、アドバルーンが萎縮した陰嚢のように打ちあげ られているビアーデンの屋上に、ぼくらは落ち着いた。Sは、愛のため に上気して、ぼくを妻のような眼差しでみつめてきた。それは、けっし て悪い気持ちではなかった。 Sに会うと、さきほどの決意はしぼんで、すべてが非現実的に思われ た。結局、ぼくはあなたがたが属している側とSたちが属している側を 比べると、どうひいきめに見ても、後者のほうが圧倒的に魅惑的である ことを皮膚全体で感じた。 ぼくは弱気になって、切り出そうとした別れ話を断念した。 「ある危険な書類をもっているのだが、それを焼くと<証拠隠滅>で逮捕 されるし、もったままだともっと危ない。一体どうしたものだろう」 Sは、疑わしそうな眼でぼくを見つめ、それから吹き出した。 「お金よ、お金をつむのよ」 ぼくが驚いたような顔をしているのをみて、Sはしまいには手をたたい て喜んだ。 「さっきから、ずっと冗談を狙っていたのね。知ってたわ」 ぼくが黙っていると、話題を変えた。 「どこへ行こうかしら」 Sは、上機嫌なときにするように手をこすりあわせながら映画や買い物 スケートや展覧会、この世のなかの楽しみという楽しみには、もうあき あきしたと幸福な内容をきわめて不幸そうに話した。最近みつけたおい しいコーヒーを飲ませるお店の話しなどがあって、結局、最近できたば かりの見晴らしのいい高層ビルの屋上から夜景を楽しむことになった。 あなたは、ぼくの非情さからして、すでにこの選択も計算があっての ことかと思うかもしれない。実際には、この日の夕方、ぼくは平穏無事 な生活に涙のでるほど酔いしれていたのだ。 婚約後はじめてのデートとあって、ふたりともスリルを求めていた。 ぼくらは霧がネオンのために色とりどりの光の粒となって降りそそいで いるビルの谷間をお目当てのビルを探して歩き回った。 Sは、すれちがった外人女性の着ている毛皮のコートをうらやましが り、くらげいろの肌やどくどくしい赤いマニュキュアに、くらくらする と言った。結局、お目あてのビルはみつからず、いきつけのダンスホー ルがあるビルが眼に入った。ぼくらは、今夜は踊らないことにして、ビ ルのガレージわきの狭い通用門から、守衛の眼を盗んで忍び込み、非常 階段をのぼっていった。 「ぞくぞくするわ」 Sは、階段の鉄板のかたかたする音が銃眼のような窓をもつ壁面にこだ まするのにおびえて、ぼくに抱きついてきた。その時、すでにあの堅い 決意とやらは、もう雨散霧消していたのだ。ぼくには、もうSの胸の鼓 動しか聞こえなかった。ときおり、あなたのことを思い浮かべ、あなた には許されない行動の自由を、こうして夜景を見下ろして空費している 自分を責めたりもした。だが、闇のなかにSの顔が白く浮かび、甘い息 づかいを感じると、はげしい情愛にふるえて、Sを強く抱き締めている のだった。偽りなく、ぼくはSを愛しているだと確認した。 見下ろすと、夜のG街で最近急に増えてきた車は、光の軌条を空に放 ち、ひとびとは笑いに頬をほてらせながら大通りを闊歩していた。いく つものビルと電線の服を着てネオンで化粧した街は、線香花火のように 美しかった。 ぼくたちは子猫のようにじゃれあい、顔をこすりつけあい、おたがい のために握りやすくできた手のひらをしっかりと組み、屋上をゆっくり と歩き回った。あなたには、あてつけととられたくないが、いまでも、 ときには、あなたとも、そうした時間をもてたらよかったのにと思うこ とがある。 「きれいね」 Sは、ちかくのビルの建設現場の光の城を指した。空前の規模でビルの 建設ラッシュがはじまろうとしていた。数かぎりない鉄骨の腕が空を地 上にひきずりおろし、G街のざわめきを運んで、吹き上がってきた風を コンクリート・ミキサーにとりいれていた。その黒々とした窒口のなか では、熱したモーターがうなりをあげ、コンクリートをこねまわしてい た。ハンマーは鉄とコンクリートを鍛え、労働者たちの血と汗を吸いこ んで、海鳴りのように低くうなっていた。 ぼくがこうして小さな愛、ほとんど自慰といってもよい愛にふけって いるあいだに空前の搾取が行われ、敵は日増しに肥え太っていくのだ。 あなたならば、こういったかもしれない。羽田地帯の貧困と飢餓と病苦 にまみれたひとびとを生け贄にして、資本家どもはビルをつくり、その 過程で大量の廃人が吐き出されていくのだと。 ぼくも、街中で進行している巨大な突貫工事をまえにそう考えないで もなかった。だが、巨大で巧妙に仕掛けられた罠にはまってしまい、も うどうしようもないのだ、ゆっくりと自分や家族や地域社会が崩壊して いくのを腕をこまねいてみているしかないのだと考え直していた。 Sの愛に燃える唇が磁石のように、ぼくを吸い込んでいた。その背後 には、巨大な磁場がすでに形成されていて、小さな鉄片でしかないぼく をやすやすと吸いこんでしまうのだ。 「それならそれで、しょうがないじゃないか」 ぼくは、そうつぶやいた。 だが、時間というものには、予想外の飛躍をする性質があるのだ。そ れは、次の瞬間、不意にベクトルを変えたのだ。


10 色恋沙汰

「ねえ」 とSが言っていた。 その日の逢い引きの終わりの頃だった。 「あのひととはどうだったの?」 なぜ、そんなことに答えなければならないのだ。ぼくは硬ばり、Sは夜 の化石になり、その指もまた蛇の鎌首となって離れていった。だが、あ なたは歯がみするだろうが、ぼくはSを抱きよせ、声をつまらせていっ たのだ。 「かわいいS、どんなにおまえのことを愛していることか。あんな女、 あんな青臭い女闘士とは何でもなかったんだ」  そのとき、おそるべき霧はいつの間にか、輝かしいものをみるために できているはずの視力を夜の闇のなかに喪失させてしまっていたのだ。 Sは、なかなかうなずかないので、ぼくはあなたと革命の同志への罵 詈雑言をならべたて、ナメクジの唾のような形容詞をはりつけた。そう している間に、自己嫌悪は発火点に近づいていた。なぜ、こんなにへつ らわなければならないのだ。 「今夜はとてもうれしかったわ。あなたの本心が聞けて」 Sがおごりにみちた口調で言っっていた。からだを開き、果肉のような 指をぼくの指にからみつけ、唇をちかづけてきた。ぼくは激しく唇づけ し、そのまま動かなかった。  その間、こうして罠に落ち、羽田地帯の廃人の群れの海鳴りのような うめきを無視して、自分の幸せだけを追い求めるひとびとの群れに加わ ってしまうのだと思った。  だが、空をあおぐと、あなたの厳しい瞳が夜空の無数の星となって、 ぼくのうえにあった。ぼくは、あなたが骨の髄まで寒気にさらされ、冷 たい壁に押し込められ、沈滞した運動を思い、のたうちまわっているこ とに気づいた。 ぼくは、ひきさかれたこころを休ませるために、ほんのすこしSのか らだから離れようとした。だが、Sは力をぬいて、生あたたかいからだ をぼくにあづけ、はりついたようだった。Sの眼は、死んだ魚の眼のよ うにとろんと白く濁ごっていた。ぼくはからだをひきはなそうとし、そ れにたいして、Sは腹をすりつけ、ぼくを引き寄せた。 このとき、ぼくは激しい怒りがふきでてくるのをかんじ、Sをふりは らった。高い階段のうえで、Sのからだがゆらいだのをみたとき、不意 にやり場を失っていた憤りがSを突き飛ばした。 「青虫、ぶよぶよの豚!」  轟然たるハンマー音が鳴りひびいた。Sのからだは大きな蛾の羽音を たてて、階段を転げおちていき、踊り場の鉄柵にぶつかってとまった。 あおむけにうごめいている蛾をぼくは長い間見つめていた。それから、 与えた傷の程度を量るために階段をおりた。 Sは、白い瞳をぼくのぼうに向けぐったりとして、ぼくをみつめてい た。それは、やがて、ぼくが愛していた女になった。 「いったい何をやっているんだ」 ぼくは激しくふるえながら、Sのからだを抱き上げ、傷を調べた。腰骨 に強い衝撃があったのだろう、Sは口もきけない様子だった。だが、S の瞳になぜか怒りではなく燃えている愛の炎をみいだしたとき、ぼくの 胸はかきむしられた。 「おまえを殺そうとしたんだ」 Sは、首をふり、ぼくのひざの上によこたわりながら手をさしのべた。 「いったい、なんていうことをしてしまったのだ。ぼくには、おまえを 愛する資格などないんだ。辛抱強く、おまえとの愛を育てていく資格な どないんだ」 「わかっていたわ、あなたがいつかこうするのを」 しばらくして、Sは言った。 どこにそんな厳しい見方があったのだ。ぼくは自分をピエロのように思 いながら、Sへの頬ずりをつづけた。やがて狂乱の時間がすぎて、Sは 立ち上がった。先に立って、すいすいと階段をおりはじめた。Sは思っ たよりも歩けるのだ。あざけりの気持ちがぼくをとらえた。 「そうか、お芝居だったのか」 Sは、ふと気づいて振り返った。 「帰れ」 ぼくは言った。 だが、次の瞬間、Sは鉄柵にもたれかかり、せわしない息をした。 それは芝居ではなかった。 「帰れ」 ぼくは、繰り返した。 「帰れ、帰れ、帰るんだ」 Sは、ぼくをふりあおぎ、肩をふるわせた。 このとき、あなたの顔が夜空のスクリーンいっぱいにひろがっていた。 あなたの不幸、無数の廃人たちの海鳴り。ぼくは言葉を失って叫んだ。 「帰れ!」 Sがぼくにちかよろうとした。ぼくは階段を1歩後退りした。 「帰れ、帰れ、帰るんだ」 どうにもならない激情にあおられて、一挙に非常階段を駆けのぼった。 二度とSを振り向こうとしなかった。 Sは盛大にこのことを言いふらした。ひとびとは、「死ね」といって、 Sを突き飛ばしたぼくの非情さを声をそろえて非難した。父は息子の不 始末に頭をかかえ、母はかばってくれたが「錯乱のため」といった。  ぼくは冷静に生じた事実、起こったばかりで湯気が出ている事実を正 直に説明してわかってもらおうとした。それが受け入れられないのに気 づくと、次に結果をみてくれと哀願した。一見すると非情な行動かもし れないが、それは必要なことだった。あるいは、必要ではなかったかも しれないが、すくなくとも、敵の陣営に決別のメッセージを送ることに は成功したし、あなたがたの陣営への回帰を公然と表明したことにはな ったと。当然のことながら、あなたも、あなたがたのメンバーも、そん な奇妙な弁明を分かってはくれなかった。  だが、あと一言だけいわせてほしい。 それは、ぼくなりの一種の本能的な賭けだったのだ。おろかな道化役を 演じる以外、そうでもしない限り、だれがこのぬくぬくしたブルジョワ 生活からきっぱりと抜け出すことができるだろうか? だが、無垢なSを巻き添えにしたことへの自責の念とSとの純粋な愛 を思い出して、後の夜をしばしば安眠できなかったことも、まぎれもな い事実だった。残ったのは自己嫌悪の情だけだった。  ぼくはそのことをあなたに漏らした。しかし、あなたは、聞く耳をも たなかった。考えてみれば、当然のことだ。他人の不始末を聞いてどう するのだ。しかも、暗におまえのせいだというような打ち明け話を聞い て...。  いま考えれば、妙な回り道などせずに、最初からあなたの許しを求め ればよかったのだ。あなたの陣営に<色恋沙汰>などもちこまねばよか ったのだ。まさに「後悔先に立たず」だ。


11 不和の季節

あなたの手助けかなかったら、ぼくの<戦列復帰>は不可能だっただ ろう。ぼくは、あたなの側に犠牲をはらって戻ってきたことで、潔白が 証明されたと信じていた。ぼくは、あなたにもっと感謝すべきなのに、 そうしなかった。あなたがたの陣営は手不足だから、孫の手ならぬ僕の 手まで借りたいのだろう、だから、親切にしてくれているのだろうと、 傲慢にも思っていたのだ。  だが、一部の同志は、ぼくを<スパイ>と決めつけた。大多数がぼく の裏切りを忘れず、それを根にもっているようだった。あなたは、でき るだけ力をつくして、ぼくをかばってくれた。  刑務所に面会に行ったとき、Lもあなたがぼくとよりをもどしたがっ ていると疑っているようだった。ぼくは自分のことで精一杯で、あなた が陰でどれほど苦労しているかを知らないで過ごしていた。そのころ、 Sの側のひとたちからの罵倒にはすさまじいものがあって、見ず知らず のひとから罵声を浴びたり、いやな視線に出会うこともまれではなかっ た。そんなことで、毎日、気分的に落ち込んでいた。 不信感が残っているのではないかとあなたを疑ったこともある。 そう思ったのは、あなたが重要書類をぼくにではなく、新入生に手渡し ている現場を目撃したからだった。ほかにも、いくつかそういう場面が あって、ぼくはそれを胸に錐を刺されたように感じていた。  実際には、あなたにはまったくそうするつもりはなかったのだ。 後で知ったことだが、それはすべて幹部会の組織防衛のための指示だっ たのだ。新入生のほうが、警察にマークされにくいからだ。 ぼくは恥ずかしいことに、あなたがぼくをどんなに誤解しようとかま わないとさえ思っていた。Sとは別の女性と別れて、あなたのもとに戻 ってきたと考えようと、あなたを欲情して戻ってきたと考えようと構わ ない。 そのころ、ぼくは、もうこれからの人生で誤解が生じても、それを解く 努力などしようとは思うまいと決心していた。陰口を押さえるよりは、 地球を逆回転させるほうがまだ容易だろうから。 あなたの奔走の甲斐があって、Lが釈放された。 刑務所の長い廊下に、Lがあらわれたとき、あなたは反射的にたちあが り、頬を染めた。それをぼくは、いたたまれない思いで眺めた。だが、 これも後に分かったことだが、あなたとLとはなんでもなかったのだ。  また話がそれるが、ぼくのLをみる眼つきについてあなたは誤解して いた。ぼくは、Lを嫉妬してなどいなかった。ただ、かれの体臭がきら いだったのだ。それをあなたに言おうと思ったけれども、そんな子供じ みた嫌悪感をあなたに告白などできなかった。 Lは、ぼくに一瞥もあたえず、週刊誌の記者にさえ相応の位置を与え ているというのに、わざと暗がりに置き忘れたようなふりをしていた。 ぼくはかれの釈放を素直に祝うつもりだったが、Lにしてみれば、ぼく の裏切りのために投獄されたのだから、怒りがやまないのは当然のこと だろう。だが、それ以上の憎悪の感情を抱いていたようにも思えた。 あなたは、Lをぼくに引き合わせ、ぼくが警視庁、弁護士事務所、大 学、そして保釈金の調達に走り回ったことを説明してくれた。それでも Lは、突き刺すような視線でぼくを見つめ、短い握手を交わしただけで 早々に教授たちのほうに戻っていった。Lの様子からあなたとぼくの間 を邪推しているのではないかと思った。 こういう内幕話しは、事情を知らないひとの、あなたがたの側につい たらば、すべての問題はなくなるとか、あるいはそれを裏がえしにして 陰謀がうずまいているとかいった<革命幻想>を打ち破るくらいにしか役 立たないだろう。ひとびとはまた、こういうエピソードから何も前向き なことを汲み取ろうとしない点で危険でもあるのだ。 いま、あなたはいず、いまさら死者との和解を求めるために暴露趣味 に走るのは、<反動的>であるかもしれない。  だが、ぼくは、いろいろな問題があったと思うのだ。あの霧深い不和 の季節、あなたの好きな言葉を使えば、霧の月・ブリュメール1960 には。繰言に聞こえるかもしれないが、もう少し話を続けなくてはなら ない。


12 遠くにある革命

いちいち数えたててもきりはないが、あなたへの不満から、ぼくはど うかと思われるようなことも言った記憶がある。未釈放者はあなたやL のようなブルジョワ階級ではないから、保釈金を用意できず、刑務所か らなかなか出てこられない、だから釈放のためにタクシーを使うのを見 るとむかむかするといった類いのことだ。勿論、あなたのいそがしさを 知らなかったわけではない。 弁護士たちはなかなか引き受けたがらず、あるいは不在を装い、ある いは承諾したあとで言葉尻をとらえて弁護をすりぬけようとした。たと えば、ようやく5人集め、あなたがもうひとりの弁護士を集めに行って いるあいだに、会合した5人が派閥や総評の圧力とかの理由でとりやめ ることにしたと通知してくるような具合だったのだ。タクシーを利用す るのも無理はなかったのだが、あなたはぼくの言葉にしたがって、目も とに黒い疲労のくまどりをしながらも、不便な都電を利用しはじめた。 もちろん資金が足りなくなっていたことが最大の理由だったけれども。 ぼくはまたずいぶんくだらないことも言った。 救援対策や資金集めに奔走するかたわら、寸暇を惜しんで、あなたが赤 線をひきながら本を読んでいるのをみて、鉛筆の芯を細くとがらすのを ブルジョワ的だと非難した。あなたは反発するどころか、このほうが力 強い線がひけるといって喜んでくれた。ひとりになって、ぼくが自分の 矮小なこころの動きに嫌気がさしたのはいうまでもない。 次の日だったか、週刊誌に派手にとりあげられて困るとあなたが漏ら したとき、ぼくはまた、口をきわめてあなたの弱気を非難してしまった のだ。 だが、昼夜の区別なく中傷といたづら電話があなたを襲い、脅迫状が あなたや家族だけではなく、親戚にも送られていた。どこを歩いても、 あなたには<安保の女闘士>の代表という好奇な視線がついて回り、石つ ぶてが飛んでくるそんな日々の重みを、その嘆息がこめていたのを知ら なかったのだ。というよりも、ぼくはそれをあえて無視して心のなかに あった憤懣の忠実で愚かなスポークスマンになっていた。 あの時期をふりかえると、ぼくは沈滞し崩壊した組織の現状そのまま に、はっきりとした見通しもなく、敵も見失って、いちいちあなたに食 ってかかっていたように思える。  たまにふたりきりになったときなど、あなたがもう少しうちとけて、 話をしてくれればいいと思うことが何度もあった。だが、いまあなたが 顔をそむけているのが、ぼくにははっきりと見える。そうだった、あな たが話すのをひどく待っていたくせに、あなたが話し始めると、ぼくは 反対ばかりして、ほとんど聞こうとはしなかったのだ。 あの時もぼくの反発と虚偽の姿勢に汚れている。 あなたは留置場で出会った女性犯罪者たちがどんなに不幸であり、無知 でお金がないために犯罪に追いやられているかについて、声をふるわせ ながら話してくれた。それに対して、ぼくはあなたのセンチメンタリズ ムを攻撃し、革命家はもっと非情な神経の持ち主でなければならないと 言った。実は、前には正反対のことを主張したいたのだ。その時のこと を思い出したのか、あなたはじっと黙っていた。あなたが相手にしてく れないのをみてとって、ぼくはそれまでの憤懣をあなたに叩きつけた。 「まだあの夜のことにかかずらっているのか? ぼくはあなたのところ に戻ってきたし、あなたをもう一度くどきおとすつもりなど毛頭ない。 羽田事件のときの<非行動>は、これからの活動でつぐなっていくつも りだ。あなたへの個人的な償いはと問われると困るが、それについては 個人的な親愛の情の積み重ねのなかで自然に解消されるべきだと思う、 ぼくはこれでもずいぶん努力しているつもりだが、あなたは、決して、 ぼくを許さず、ずうっと距離をおきつづけている。それは一体どういう つもりなのか?」 あなたは答えなかった。しばらくして、こういった。 「革命はふいにあらわれる。それは個人はもちろん集団の計量すら超え た巨大な力によって動かされている。それはいまは、はるか遠くにある けれども、いつか必ず急にわたしたちの前にあらわれてくる」 勿論、そんな話しが当時のぼくに分かるはずはなかった。あなたの声 に真摯なものを感じ、ぼくはあなたにふたたび愛を感じはじめていた。 「いまわたしたちは、鍛えられ突如製品となる鋼のどろどろした期待 の季節を苦悶している。革命がやってくる。すると時間はふいに断ち切 られて、まったく異質な解放の世界にいるのを発見する。もう、わたし たちはビラをまいただけで投獄されたり、やることなすことが嘲笑され るブルジョワの世界にはいない。そのとき、いままでのわたしたちの一 見ささやかな行為が確かな意味をもっていたこと、すべてが革命のため に準備されていたことが分かるだろう」 あなたは声をつまらせて言った。 「でも、そうは思うものの、何ひとつ有効な闘争をくみえない現状をみ ると、新聞をひきちぎることがある。安眠できず、革命の夜明けをまっ て、夜なかじゅう、耳をとがらせている自分を発見することがある」 そして、あなたは、ぼくをじっと見つめた。 「夢であるいは日常生活で、革命のひびきを聞いて、はっとからだをこ わばらせたり、あたりのあまりの静けさにおびえたりすることもあるの よ」 あなたの語調に真摯なものがあり、かつ、ぼくに対してそんな打ち明 け話をするあなたに親愛の情を感じながらも、ぼくはあなたに皮肉を言 った。 「結局、どこにも<革命のきざし>などないんだ」 あなたは、「ある」と答えた。 「疑いえぬ変革がわたしたちのまわりに満ち満ちている。それは林立す るテレビのアンテナのゆらぎにも感じられる」 ぼくは、もちろん反論した。 「それはあなたの一方的な解釈、大目にみても期待にすぎない。でも、 あなたがそれを信じて、しあわになれるなら、それでもいい」 あなたが黙っているので、ぼくは続けた。 「だが、ある日、あなたはその<革命の幻想>から目を覚ます。すると、 ひとびとは腕を組み合って哄笑し、あなたは椅子に腰かけて赤ん坊の泣 き声を聞きながら編み物でもしているのかもしれない」 あなたは遠くをみる眼つきをしていた。そして、ぼくは自分の絶望の ただしさを確信した。革命は失敗し、いつかこの国は滅びるのだ。 絶望のなかでのタンタロス的な努力として、ぼくは革命を理解していた し、事実、周囲の状況は、ぼくの仮説を証明するように動いていた。す べてのプロレタリアートたちは沈滞の淵にいて、無力感にひたっていた のだ。 あの頃のことをこうして記述しながら、ぼくはいつまでもあなたとの 一致にたどりつけなかった自分に深い嫌悪感をおぼえる。あと1年、す くなくとも、あと半年の時間の猶予があったらとぼくは思ったりする。 だが、いまあなたはいず、両手に血をしたたらせて死者の世界の城壁 をよじのぼっているのだろうか、生者を励ます言葉を発してくれない。


13 苦闘

 銀杏並木には一つの枯れ葉もなく、すべての学生たちが試験に追われ ていた冬のあの霧深い季節のあいだ、あなたは着実に勉強を進め、ひと り目覚めて思想の刃を研ぎ、きらめきが星の光のように鋭く硬質になり 敵の擬制、黒い陰謀を切りわけることができるようになるまで磨きあげ ようと努めていた。結局のところ、いつ到来するか分からない革命、ど の程度自分の意志が歴史にくわわるのかわからない革命に、ぼくのよう に絶望しないで自らを革命に厳しく縛りつけ、ただしく自らを霧の季節 に鍛えあげていくすがたに、ぼくはあなたを見直しはじめていた。 このころから、あなたは真の革命家になったといえる。それは言語を 絶した苦闘の時期だった。組織はぬけていくものとごっそり出た逮捕者 で、ずたずたになり、再建はおろか、救援対策で手一杯だったのだ。  あなたは資金集めに走り、「プロレタリアート通信」の発行もひき受け た。夜遅く帰宅して試験勉強と卒論の準備をし、さらにマルクスの資本 論の勉強に夜をあかすことも再三だった。 あなたの皮膚は荒れ、まぶたがずんできたのをみて、ぼくは、ときに はあなたを批判的に眺めるのをやめて、健康に注意したほうがいいとい ったりした。あなたの皮膚は輝きを失っていても、あなたのすべては、 力強く簡潔な筆跡のように内面の光輝を反映していた。46時中、あな たには弱い時間が流れすと、自動的にスイッチがはいるような機械がセ ットされていたのだ。革命という名のスイッチが。 振り返っていま、ぼくはあなたよりも革命理論に精通し、考えぬいた 政策を立案できる同志たちを知ってはいるけれども、かれらにあっては あのときのあなたのように革命が生活を埋め尽くし、生活が革命を埋め 尽くすような時間をしらないのではないかと思うことがある。ぼくは、 あなたが隊列の後ろにいると思っていたけれども、すでにあなたは、は るか前方を進んでいたのだ。


14 祝宴の夜

すべての逮捕された学友が帰ってき、教授や逮捕者の家族たちは羽田 闘争のしめくくりとして、盛大な祝宴を学士会館で開いた。ところが、 闘争の主役だった逮捕者たちは、お祝いなどに参加する気持ちは、毛頭 なかったし、主催者も闘士たちを大勢集めて事件が起こることを懸念し たので、結局、転向したり、もともと日和見主義の学生たちばかりが集 まることになった。闘士たちのなかからは、教授たちに請われた関係で 代表として、あたなとぼくだけが出席することになった。  この祝宴の日、何ケ月ぶりかで、ぼくはあなたとふたりで心やわらぐ 時を過ごすことができそうだった。 だが、冒頭から参会者たちは口をそろえて学生運動の暴走をいましめ 自重をうながした。日和見主義者たちも口裏をあわあせて羽田闘争の< はねあがり>を責め、数年前の授業料値上げ反対運動のようなみんなに 密着する経済闘争に重点をおくべきだとのべていた。  教授陣の顔ぶれをみると、学生たちに新安全保障条約の危険を知らせ る講演依頼を断った面々ばかりが集まっていた。寝言でしか危機と歯軋 りせず、デルタ地帯で得た金をデルタ地帯に返すのはよいとしても、そ れが女性のデルタ地帯だったりしても不思議ではない面々だった。 日和見主義者たちは試験に気をとられ、<岩戸景気>と<暖冬異変> に浮かれている学生たちに迎合し、学生たちの離反工作を進めていた。 会も終わる頃になって、ようやくかれらは、心にもないねぎらいの言葉 とともに、あなたにひとことしゃべらせることにした。 あなたはすでにあの時点で、1.25三池炭鉱ロックアウトが炭鉱労 働者10万人首切り攻勢の前哨戦であること、炭労が<長期柔軟闘争> をとなえているのは敗北をすでに容認したものであること、さらにこれ は炭鉱労働者にかぎらず、国鉄、全逓、そして総評、日本の全プロレタ リアートに対する資本家階級の重大な挑戦が各戸撃破の形をとってあら われてきているのだから、これに対して、いま日のあたっているものも 立ち上がらねばならないと述べた。  いま国会に上程されている日米安全保障条約が国会で十分審議され、 悪いと分かったら警職法のように阻止できるという甘い幻想をもつこと の危険性を指摘した。警職法の阻止は、人民のたちあがりによって成功 したのではなく、敵の迂回戦術にしか過ぎない。あなたは、このような 現状で国会を神聖と認めることは、あすの敗北と悲惨への道につながる と警告した。あなたは、ただしいとぼくは思った。このとき、ぼくのな かでは、あなたに対する不信感が消えていた。  だが、肥って眠りかけたひとびとは、ろくにあなたの話を聞こうとも せず、肩をそびやかし、私語し、あなたを嘲笑して椅子を鳴らしたりし ていたのだ。  ぼくはあなたの話が長引いているので、あなたの肘に触れて時間を知 らせようとした。あなたは、ぼくを見つめ、かすかに首をふった。あの ときぼくは、うかつなことに、あなたが祝宴など開いて平穏を祝ってい るひとびとに対し、異様なまでの決意で警告しようとしていたのに気づ かなかった。またしても知らずに、ぼくはあなたを制止する役を演じて いたのだ。  司会者がさえぎった。 「今日はお祝いなのだから、堅苦しいことはぬきにして...。そうそう K嬢もああいっておられることだから、このへんで、みなさん<立ち 上がり>ましょう」  ひとびとは、笑って乾杯のグラスを手にした。ぼくはほっとして、あ なたに微笑みかけた。あなたも、乾杯を叫ぶ教授にうながされてジュー スのコップをとって微笑んだ。だが、ぼくはあなたのコップのなかの液 体が、かすかにゆれているのに気をとめなかったのだ。  あなたは、そっとぼくに目くばせして廊下に出て行った。 トイレにいくと思ったが、あなたのそぶりが気になって、あなたの後を 目で追った。あなたがトイレとは違う方角へと歩み、階段を駆け降りて いったので、ぼくはあわてて席をはずし、後を追った。階段の下に、あ なたをみつけ、「待ってくれ」と大声で叫んだが、無駄だった。あなた は、すでに会館の外へ逃れ、忽然とどこかに消えてしまったのだ。  目の前の広い街路には、深い霧があった。目をこらしてあなたを捜し たが、どちらの建物の方角に曲がったのか、みつけることができなかっ た。街路には人気はまったくなく、枝を切り落とした街路樹の黒々とし たシルエットが霧のなかに点々と浮かんでいるだけだった。  ぼくは、立ちつくし、あなたが先程どんな気持ちでぼくに対していた かに気づいて、背筋が凍るのを覚えた。  そして...この日以降、あなたは、ぼくから決定的に遠ざかっていき、 そのあとすぐ、6月15日に、あの忌まわしい事件が起きたのだ。 あなたは戻ってこようにも、戻ってこられるようなからだではなくなっ てしまったのだ。あなたの白い手も、やさしい物腰も、輝く眼差しも、 それらのすべてを、ぼくはもう見ることができない。 いま、ぼくはあらためて悔恨にさいなまれる。あの運命の1960年6 月15日、ぼくは現場に行かなかったが、もし行っていれば、あなたの ほうに手をさしのべて、何とか救い出せたのではないか?あの警官隊の 狂ったような攻撃にさらされているあなたを救い出すために、身を乗り ていたのではないか?もし、もしもそうしていたならば、あなたを黄泉 の世界にたったひとりで行かせるようなことをせずにすんだのではなか ったか? ときどき夢のなかで、あなたに呼びかけることがある。 だが、あなたは長い髪を垂らして前方をみつめているだけで、後ろにい るぼくのほうに振り向いてくれない。死は、ふいに訪づれ、時間は、け っして後にもどりしてくれない。悲しいことに夢のなかですら、あなた と手をとりあって革命の成就を喜ぶことができない。また、あなたの死 を美化するこころみも、死の途方もない無意味さをおおいいかくす欺瞞 にすぎないことを、遅まきながら、ぼくは知りはじめている。 いまこうして記述しながら、ぼくは虫がそろぞろ皮膚の上をはいまわ り、汚い雑巾で体中を拭きとられているような感覚におそわれている。 ぼくは、それに耐えていこうと思う。  もちろん、あなたを弔うのは闘いそのものでなくてはならない。 だがいまや、その闘いもあなたの意志とは別の方に流れてしまっている。 闘わなかった知識人たちは精緻なアリバイづくりにいそしみ、矮小化し た歴史をつくりあげようとしている。  多くのひとびとは、疲れてもいないのに眠りはじめている。 日和見主義者、革新政党という名の保守党が幅をきかせ、新聞は選挙と いう幻影をあたかも万能薬のように宣伝してまわり、ひとびとを欺いて いる。 これでいいいのか? あなたの血は、何のために流されたのだ? その祝宴の夜、ぼくはあなたを深い霧のなかに見失い、ひきかえし、 明るい大広間にさんざめき、株やゴルフの話しに頬を輝かせている教授 たちを見いだした。なかには酒に酔って、居眠りしているひともいた。 しばらくしてぼくに気づいて、ひとりが正しくも泣いているのかとぼく に笑顔で聞いてきた。ぼくは、かれをみつめたまま黙っていた。 心のなかでは、激しい嵐が渦巻いていた。 「みんな、何をやっているんだ?彼女を苦しませておいて。眠っているの は誰なんだ? 誰なんだ? 誰なんだ?」  大広間には白いテーブルクロスをかけたテーブルが整然と並び、ワイ ングラスにはお酒が残り、大皿の上にもたくさんの料理が残っていた。 ぼくは、白いテーブルクロスを、思いっきり引っ張って、上にあるすべ てのものを床にぶちまけたい気持ちを必死に押さえた。 かろうじて、その衝動をおさえ、歯軋りするおもいで、こう答えた。 「K嬢はあいにく所用で席をはずすことになりました。どこへ行ったか ぼくには分かりません。でも、疲れて眠ってしまっているとは、ぼくには とうてい思えないのです....。もうお開きにしませんか?」 (終わり)


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