講演術入門


私が、生まれてはじめて講演をした時は、忘れもしない 1967年、28歳の時である。 その模様については 30年も前に日本TVの社内報に書いた文章が残っていた。 「いわゆるマクルーハン旋風の日本上陸は、本年8月である。 雑誌・現代8月号は、竹村健一氏の紹介記事「全米企業をゆるがす 新経営旋風」を掲載した。 以後、ホット・クール論が週刊誌、TV番組などに登場し、 「現代」は毎号マクルーハン・キャンペーンを行った。 9月発行の竹村氏の「マクルーハンの世界」は、ベストセラー2位 ときく。その他、新聞・雑誌のほとんどが、何らかの形でマクルーハンに 関する記事を載せた。 私ども、トヨタ自動車は、「トヨタ・電通も研究段階に入った マクルーハン理論」と旋風にインボルブされたが、実は マクルーハンについては、僅か30分ほどの竹村氏との雑談が原因で あった。 しかし、旋風の威力は 絶 大で、一事は仕事にならぬ程であった」 いまをときめく竹村健一さん、聴衆の前で時の首相の頭を押さえ つけて頭が高いとまでいうマスコミ界の巨人は、このマクルーハンで 世に出られたのである。 私に講演依頼が舞いこんだのは、こういう異常な背景のもと である。 若気の至りで、私は引き受けた。 どうせ内輪の会合と思ったのである。 翻訳本1冊を読み、「機械の花嫁」という英書をにわか勉強して 京大型カードにまとめただけで、日本流行色協会の講演に臨んだ。 場所は、丸の内の東証ホールだった。 聴衆は、何と600名もいた。 何しろはじめてだから、予め人数さえ伺わなかったのである。 胸に花を挿されて高い壇上へ。 私はあがるな、あがるなと心に言い聞かせた。 そして、何をしゃべったのかも分からぬほどあがって講演を終えた。 この講演で懲りて、以後講演をやめたかというと、 そうではない。 600名などという大人数はその後なかったし、内容も ビジネスやマーケティング関係のよく知っていることや やってきたことばかりである。 以後、緊張はしても、あがることはなかった。 しかし、そういう私が、講演の仕方について、猛反省させ られる出来事が起きた。 1978年、私は上司の代理で、当時、長期信用銀行の常務 でおられた竹内宏さんの講演を 聞きにいった。 モーチベーションは、当然低い。骨休めという感じである。 しかも、竹内さんは急用ということで、遅刻され、代理に 部下の方がやってこられて延々と話をされた。 話しは生硬だった。退屈で退屈で腹が立った。 売れっ子かも知れぬが、竹内ってどういう男だ。 (ご免なさい) あと残り時間40分というところで竹内さんが現れて、 丁重にお詫びをされ、講演をはじめられた。 そして私はといえば、瞬く間に憤りも忘れて、その話術に すっかり魅了されてしまったのである。 年来の課題である上手な講演の仕方の答えが、まさに ここにある! 内容はそっちのけで、私は夢中になって話術のコツを メモした。 その後、講演を依頼されるたびに、竹内さんを思いだす。 講演術の恩人である。 最初の本、「至福の経営」の講演も、幸い、みな無事に 終えることができた。 ある講演会では、終わったあと事務局のかたから、 毎回受講者からアンケートを取るようにしているが、 あなたの講演の点数はアサヒビール会長の樋口廣太郎さんと並んで 過去最高でしたと囁かれた。 それを真に受けるほど舞い上ってはいなかったが、 ある種の自信になったのは事実である。 みな竹内さんのおかげである。 ぉあーりがとーう、ございまーす。 今回、竹内式講演術を思い出そうとしたが、 すこししか思いだせない。 当時の私は、こうしてホームページに書くためにメモを 保存するなどということは、みじんも考えてもみなかった。 もしやと思って 20年来使っている生産性手帳を探してみた。 すると 何と その時のメモが残っているではないか。 箇条書きで20項目。 整理されていないが、そのまま以下に転記させていただく。 1 学生時代 2 海外のやりかた 3 趣味 4 有名人・権威者 5 女性の話 6 流行 7 他業種・企業の成功例 8 教訓・体験 9 哲学 10 会社の失敗例、苦労話、弱点 11 テスト、質問 12 ケース(参加者の例) 13 コツ 14 トップ 15 旅行 16 食事 17 国民性 18 競争 19 自分の努力 20 沈黙 こうしてメモを読み返すと、 竹内さんが全身で自分をさらけ出されて リカバリーショットを打たれた20年前の様子が よみがえってくる。 私は、おそらく一番いい講演を聞けたのである。 明治時代、講演術の大家でもあった 福沢諭吉の言葉を借りるならば、 まさに「活発なるは、まさに飛鳥のごとし」 のあらまほしき講演であった。 そして.... 国際化時代になって、ひとに心を開かせるには、 どういうことを話せばよいかについて、 竹内さんは教えてくださったのである。 ところで、 竹内さんが活躍されていた長銀は、 その後、リカバリーショットを打ち損なって破産した。 竹内さんが当時、経営を任されていたら、どうだっただろうか と時折考えるのである。


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